【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第三百七十一話 死後の世界とは

11月15日(日)

昼――EP社

 

 放課後の月光館学園で湊に罵倒されてから数日後、桐条美鶴の御側御用を務める斎川菊乃はEP社の社長室を訪れていた。

 あの日、湊がどうしてあんなにも敵意剥き出しだったのか分からず。彼女はシャワーを浴びながらさらに涙を流したのだが、身体を拭いて外に出ると、そこで待っていた美鶴から綾時の推測を聞くことが出来た。

 そして、その推測を聞いた彼女は如何に自分が冷静でなかったかを理解し、桐条家に仕える人間にあるまじき失態を犯したことを悟った。

 桐条家は、ビジネス分野だけでなく政治方面でも力を持っていると見せるため、各界の重鎮らと直接会って話をする事もある。

 彼らとは互いの得意分野で助け合う良好な関係を築いているが、腹の底では如何に力を削いで自分たちの利益を増やそうかと考えている。

 となれば、ただ会って話をするにしても、その会場や食事、また使用人たちの動きなど、あらゆる項目を評価される事になる。

 そして、今回の菊乃の動きはアポイントについて目を瞑ったとしても、場に相応しくない装いに加え、結んだ契約内容を無関係な人間にベラベラと話す始末。

 ただ無礼なだけでなく、相手に恥までかかせるような行いだったと考えれば、お前は本気で謝るつもりがあるのかと怒り罵倒されて当然だった。

 だからこそ、彼女が改めて謝罪するためにアポイントを取ろうとした際、会うための日時と場所を教えてもらえた事を本当に驚いた。

 そこにはいつまでも付き纏われては迷惑だからという理由もあるのだろうが、再びチャンスを与えられた以上は菊乃も出来得る限りの準備をしてから当日を迎えた。

 湊に言われた通り、仕事外で着るメイド服は正装では無いからと黒いスーツを着てきた。

 彼女は年齢的に高校三年生なので、周りからすると就活生に見えたかもしれないが、会社に着いてからインフォメーションで取り次いで貰った。

 流石は世界的に有名な大企業だけあって、インフォメーションにいた四人の女性は人種はバラバラでも全員が非常に整った容姿をしていた。

 そして、しばらく待ってから案内を任されたらしい若い女性がやってきて、その人に着いていけば案内されたのはまさかの社長室。

 確かに湊が裏で牛耳っているとは聞いていたが、それならばモロに社長室と分かる部屋にいるのは拙いのではという考えが頭を過ぎった。

 無論、菊乃が考えた事は湊も気付いており、そのために社内向けと外来向けに二つの社長室を用意していた。

 ただ、そんな事をわざわざ彼女に伝える必要はないので、案内役も彼女を部屋の前まで連れて行くなり帰っていった。

 ここからは自分一人で行けという事のだろう。そう考えた菊乃がノックして待っていれば、中から聞こえて来たのは入室を許可する女性の声。

 その事について訝しむも、自分からノックして許可を貰った以上は部屋に入るしかない。

 そうして、覚悟を決めた菊乃が部屋に入れば、そこに湊の姿はなく、代わりに三人の女性と赤ん坊が一人いた。

 

「はーい、お嬢さん。私は坊やの主治医で研究所の主任も務めてるシャロン・J・オブライエンよ」

「わたくしについては不要でしょうがソフィア・ミカエラ・ヴォルケンシュタインです」

「私は“私”の女性人格。まぁ、便宜上はベアトリーチェと呼ばれている。そして、この幼子が貴様の会いたがっていた“私”だ」

 

 インド系の血が入っているのか、オリエンタルな雰囲気の美女が挨拶してくれば、銀髪赤眼の少女と透き通るような薄い色の金髪に銀眼の少女も続けて挨拶してくる。

 シャロンとソフィアは社長机の前に並んで立っているが、ベアトリーチェと名乗った少女は机の上に赤ん坊を座らせて大きな椅子に腰掛けていた。

 赤ん坊は不思議そうに菊乃の事を見ており、キョトンとした顔が実に愛らしく見える。

 しかし、ここには謝罪すべき相手である湊の姿はなく、ベアトリーチェの言葉の意味も理解できなかったので、菊乃は状況を理解しようと頭を働かせて再度聞き返す。

 

「も、申し訳ありません。もう一度ご説明いただけないでしょうか?」

「簡単に言うと坊やはそこにいる赤ん坊になってるの。ああ、勿論、その赤ん坊に坊やの記憶はないわよぉ」

「……はい?」

 

 菊乃の目には赤ん坊の性別は女子に見えていたが、医者が言うには男子らしい。

 その部分はまだ受け入れられると思っていた菊乃も、流石に赤ん坊が湊本人と言われると理解が追い付かなくなる。

 謝罪するための機会を与えられたと思っていただけに、こんなドッキリとしか思えない状況に遭遇するのは予想外だ。

 しかし、本当にこれがドッキリならば、自分の行動は湊に見られているに違いない。

 そう考えた菊乃は赤ん坊を湊ととして扱うことを求められていると考え、その上で自分が何をすればいいかを尋ねた。

 

「すみません。私は有里さんに謝罪するために訪れたつもりだったのですが、こちらで何をすればいいのでしょう?」

「簡単に言えばベビーシッターです。わたくしたちが話をしている間、湊様を遊ばせておいてください」

「ちょっと坊やが死んでた間の事をこっちの神様に聞きたくてねぇ。死後の世界が現実に存在するっていうなら、それを解明したくなるのは科学者としての性って言うかねぇ」

 

 湊が死んでいた間の話を聞くと言って、シャロンはベアトリーチェを見ながら神と呼んだ。

 菊乃は湊が幻術などを利用して姿を変えているところを見ていたため、そこでベアトリーチェが湊の変化した姿なのだと察する。

 もっとも、そうなると湊と同じ金色の瞳をした赤ん坊はどこの子なのだという話になるのだが、桐条グループの報告書によれば湊は親しい女性が複数名おり、海外の知り合いも多数いるようなので隠し子がいても不思議ではない。

 そこから想像するに、母親は何かしらの事情があって離れており、その間、父親である湊が赤ん坊の世話をする必要があるのだが、彼は多忙な上に日本では有名なので本来の姿で世話をする事も出来ない。

 よって、変化で姿を変えて赤ん坊の傍にはいるが、EP社や影時間に関わる仕事をする必要もあるため、別途世話係を必要していた事で負い目のある菊乃を招集したと言ったところだろう。

 これで赤ん坊の新しい母親になれと言われれば困るが、純潔を奪われずに済み、さらに可愛い赤ん坊を見ているだけで良いなら楽な仕事だ。

 そういう事であればメイド服の方が良かったかなと思いつつ、菊乃は赤ん坊はともかく人の世話をするのは慣れているから任せて欲しいと自信を持って答える。

 

「分かりました。それで、その子の名前は?」

「八雲ちゃんよ。ほら、八雲ちゃん。あのお姉ちゃんが遊んでくれるって」

「あい!」

 

 シャロンが抱き上げて菊乃の許に連れていけば、八雲は嬉しそうに笑ってはしゃいでいる。

 赤ん坊はコウテイペンギンを模した着ぐるみパジャマを着ており、袖がダブついて手が出ていない。

 ペンギンごっこをするならそれで良いのかもしれないが、遊ぶときには危なそうだと気をつけるポイントを確認しながら、シャロンから八雲を受け取った菊乃は部屋の隅にある子どもを遊ばせるためのフリースペースらしき場所へ移動する。

 どうしてそんな物があるのかは分からないが、フリースペースは柔らかい素材のマットが敷かれ、そのマットと同じ質感のブロックソファーで囲いを作ってある。

 中には柔らかいボールや積み木が置かれているので、一緒に遊びましょうと靴を脱いで中に入ると、八雲を積み木の傍に下ろしてやった。

 

「さぁ、八雲君。一緒にこれで遊びましょう。たくさんあるので大きいお城を作りましょうね」

「うー!」

 

 ちょっと目を離した隙に走り出すような悪ガキならともかく、素直で愛嬌もあり人懐っこい八雲の相手は育児素人にも優しいレベル。

 カラフルな積み木を一つ積む度、八雲はフンスと得意気な笑顔を見せてくる。

 これが本当にあのいけ好かない男の息子なのかと信じられないくらいに良い子だ。

 そうして、菊乃はお上手ですねと八雲を褒めながら見守っていれば、湊の人格を八雲として分離する事で人格を表に出しているベアトリーチェにシャロンが尋ねる。

 

「んじゃ、改めてあっちの世界の話を聞かせてくれる? あんたは自由に行き来できたみたいだけど、それはやっぱり神としての力がある前提?」

「小さき者らも私を神と呼ぶが、貴様ら虫の称するところの神とやらの定義がそもそも不明だ。虫共の観点ではこちらとあちらは別の世界という扱いになるのだろうが、正しく世界を見ている者であれば壁を一つ越える程度の事でしかない」

 

 ベアトリーチェは湊と共にいる事で現代の知識を得ているが、彼女の感覚からすると有象無象の人間は虫扱いとなっている。

 死後の世界で顕現した際に山よりも大きな身体をしていた事を思えば、そういった感覚になってもしょうがないのかもしれないが、虫と呼ばれたシャロンたちは、相手が人間をどう呼称するか知っていたため特に反応せず会話を続ける。

 

「なるほどなるほど。となると、現世での死は終わりではなく別のステージへの移動って解釈な訳ねぇ」

「ですが、それはあくまでベアトリーチェたち神の視点の話では? 他の人間では生前の自我の確立も難しいと思われます」

「まぁ、脳に記憶が保存されてるとして、その肉体を置いて行ってる訳だし。データの破損的なのはしょうがないんじゃない?」

 

 今回、シャロンとソフィアがベアトリーチェに聞きたいのは、死後の世界が現世から見てどういった関係にあるのかという事だ。

 湊の死は彼女たちにとっても予想外の出来事で、さらに死後の世界から自力で戻ってくるとも思っていなかった。

 エリザベスが彼の肉体をあちらに送らなければ不可能だったにしても、死後の世界が存在すると言う事が分かった事自体が世紀の大発見である。

 無論、それを公表したところで証明が難しいため、手にした情報はあくまで自分たちの研究にのみ使う予定だ。

 そこで彼女たちが最初に研究テーマに定めたのが、死後の世界からの帰還方法である。

 確かに湊はこちらに帰ってきたが、それは肉体があったから出来た事なのか、それとも不完全な状態であっても魂だけで戻ってくる事も可能なのか。

 前者なら死後の世界に肉体を送る方法を探ることから始めなければならないが、後者ならばアイギスたちの肉体を作った応用で戻ってくる肉体さえ作っていれば簡単に蘇生出来ることになる。

 勿論、未だに安定して作れるほど技術が確立した訳ではないので、一人作るにもかなりのコストが掛かってしまうが、それでも異能含め替えの利かない湊が肉体の死すらも克服できるとなれば保険としてやるだけの価値はある。

 また遺伝子を弄って作られたソフィアは、鍛えれば発揮出来る能力の上限が高い代わりに、不完全な技術のせいで肉体の寿命が短い。

 それを死後の世界から魂を引っ張り戻せるという事になれば、今よりも性能の良い身体を用意してやる事が出来るので、EP社にとって神の領域を侵すと分かっていても研究せずにはいられなかった。

 だが、社長の机で頬杖を突いて話を聞いていたベアトリーチェは、そう上手く行くものかと彼女らの妄想を切り捨てる。

 

「戻って来れたのは“私”だからこそだ。常人ならば魂のコミューンに一欠片の記憶を残すのが限度だろう。魂その物を保持するなど不可能だ」

「やっぱりぃ? ていうか、死の先がある事自体がよく分からないのよね。だって、死は無に還るって事じゃない?」

 

 湊が死を概念として理解しているように、神であるベアトリーチェも死を概念として理解している。

 だからこそ、彼女たちは普通の人間の持つ死の漠然としたイメージが分からないのだが、シャロンは自分の感覚だと前置きしつつ死は存在の消滅に当たるのではないかと尋ねる。

 何せ普通の人間にとって死は終着点。先には何もなく、ただ生という旅路の終わりでしかないイメージなのだ。

 それがさらに先もあると言われれば困惑するしかなく、どうして肉体を失った魂が消滅しないかが分からない。

 

「ふむ、貴様らはまずそこの認識が間違っているのか。そうだな……言ってしまえば死は状態を指す言葉の一つだ。身体が疲労を感じれば睡眠を取るだろう。それと同じで肉体の耐久力を超えるか、もしくは魂にダメージが蓄積して起こるのが“死”という現象に過ぎん」

「それは、どういう意味ですか?」

「そのままの意味だ。貴様らの感覚では死はプラスからゼロへの変化だろう? だが、死はゼロではなくマイナスへの変化だ。そして、死後の世界で世界に記憶や力を失っていく事で、マイナスはゼロに近付き無へと還ることが出来るようになる」

 

 シャロンだけでなくソフィアもベアトリーチェの説明がいまいち理解出来ないのか聞き返す。

 相手の言葉をそのまま受け取るのであれば、死は疲労や風邪で起こる体調の変化の仲間であり、肉体の状態を表わす言葉の一つでしかないという。

 けれど、もしそれが本当ならば外部からの干渉で新たな変化を起こせなければおかしい。

 肉体だけにしろ、魂だけにしろ、何も変化しかないからこその終わりである死ではないのか。

 そう思ったシャロンがベアトリーチェの説明を言い換えるとこうなるがと質問する。

 

「それって、生きている状態を百とするなら、死ぬことで十に減って、あっちで残りを捨てるって感じの二段階のプラスからゼロへの変化ではないの?」

「捉え方は自由だ。ただ、世界が変われば理も変わる。あちらではこちらのプラスがマイナスになるというだけの事だ。余計な重りを捨てることで正しい流れに乗って無に還る事が出来るようになる」

「んー……分かるようで分からないわねぇ」

 

 ニュアンスとしては何となく分かってきたのだが、細かな部分でやはり相手の言っていることが自分の感覚とずれているのが分かってしまう。

 ただ、その感覚のずれは現物を知らないと埋まらない物なのだという事も理解している。

 千年前の人間にパソコンや携帯電話の有用性を説明しても、基礎となる知識や常識がないせいで理解しきれないのと同じだ。

 悔しいがここは諦めるしかないかとシャロンもソフィアも溜息を吐く。

 しかし、そんな二人の反応を見ていたベアトリーチェは、人間の蘇生の問題はそこではないと説明を付け加えた。

 

「言っておくが世界の行き来には超えねばならぬ障害がある。貴様らの言葉で呼ぶなら“死を司る神”という事になるか。己の領域から逃げようとする者を捕らえてくるのだが、アレは言ってしまえばシャドウの親玉。触れた途端に精神からシャドウを抜き取られるぞ」

「坊やはそれに捕まらなかったの?」

「“私”は私がいるからな。“私”のシャドウは私の欠片に置き換わっている。一切の影響がないとは言わないが影人間になったりはしない」

 

 ベアトリーチェが死を司る神と呼ぶ存在は湊や綾時がニュクスと呼んでいるものだ。

 ニュクスは地球の生命に己の欠片であるシャドウを与え、その精神と肉体の爆発的な進化を促した。

 そして、数億年前に与えたシャドウは今も全ての生物の精神に宿っており、ニュクスがその精神に触れれば宿っていたシャドウは彼女に回収され戻らなくなる。

 湊は別の神であるベアトリーチェと魂を融合させてシャドウをベアトリーチェに置き換えているが、それでも完全にニュクスの影響下から抜けられた訳ではない。

 彼でも完全に防ぐ事が出来ないなら、シャドウを奪われれば影人間になってしまう一般人だと抵抗すら出来ずに終わるだろう。

 良い研究テーマだと思っていたシャロンたちは、やはり神の領域を侵すことなど簡単には出来ないかと残念そうに肩を落とす。

 そして、長い間話し込んでいる間に八雲はどうなったかと視線を向ければ、そこにはどんなバランスで立っているのかと聞きたくなるほど奇妙な積み方で立てられた塔が出来ていた。

 既に八雲の身長では背伸びしても届かない高さになっており、今は菊乃に抱き上げて貰って上に積んでいる。

 抱き上げている菊乃も怖々とした様子で積むのを見ているようで、どうして三角の頂点に横長のブロックを置き、さらに上に円柱を倒してまた十字になるように円柱を置いても大丈夫なのか理解できないようだ。

 土台の部分からそんな状態の積み木も既に一メートル二十センチに届こうとしている。

 本人は嬉しそうに新しいのを拾っては軽い調子で置いているが、もし製作過程をビデオに収めていれば多くの人間はこの赤ん坊は何者だと驚くに違いない。

 

「や、八雲君。そーっとですよ。そーっと」

「あい!」

「ああっ、そんなとこで元気に返事しないで!」

 

 塔の近くで八雲が元気に返事をすれば空気の振動で塔が崩れるかもしれない。

 崩れるときにはすぐに庇うつもりではいるが、神経を張っている彼女にとっては崩壊が始まった時点で心臓にかなりの負担が掛かるのは間違いない。

 だからどうか大人しくしておいて欲しいと思って見ていれば、八雲が新たに積んだのはなんと積み木ではなくゴムボールだった。

 積んだ場所でピタッと止まっているものの、暖房の風で転がってしまう可能性がある。

 どうしてよりにもよってここでボールなのだと菊乃が数歩後退れば、八雲は下に下ろして欲しいとボディランゲージで伝えてきた。

 もしかすると、これで完成だから最後にボールを置いたのかもしれない。そう思う事にして八雲をマットに下ろせば、途端に八雲は笑顔で駆け出し積み木に向かって前回りで突っ込んだ。

 

「きゃいやー!」

「あぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

 八雲が体当たりを掛けると、ボウリングのピンが弾き飛ばされるように積み木たちが吹き飛んでいく。

 いくつかはフリースペースのマットから飛び出しており、そんな勢いで赤ん坊がぶつかって大丈夫なのかと菊乃が慌てて駆け寄り八雲を抱き起こした。

 

「け、怪我はしてない? 大丈夫? 痛いところない?」

「うぱー!」

 

 全然大丈夫と言うように笑っているが、菊乃は彼の無事を聞いて逆にドッと疲れを感じてしまう。

 本当に素直で良い子なのだ。無邪気さも愛らしいと思えるし、クソ野郎が実の父親だとしてもこの子に罪はないと愛情を持って接する事が出来る。

 しかし、赤ん坊は赤ん坊。どこからそんな体力が湧いてくるのかという無尽蔵のエネルギーで動き、理性が飛んでいるのか予想外な行動も多い。

 おかげで傍で見ていただけなのに菊乃は気疲れしてしまい。どんなに素直でも赤ん坊の世話は大変なのだなと世のお母様方の苦労を身をもって理解した。

 

「八雲ちゃーん。お話終わったから戻っても大丈夫よー」

「ま? ねーね、ばいば!」

 

 一気に老け込んだ様子で菊乃が座り込んでいれば、シャロンが話は終わったと八雲に伝える。

 すると、八雲は菊乃に笑顔で手を振って背を向けると、フリースペースを囲んでいたブロックソファーをよじ登って超えていき、椅子から立ち上がって近付いて来ていたベアトリーチェに飛び込むように抱きついた。

 八雲がベアトリーチェに抱きつくと二人の身体が光り出し、何事かと驚いている菊乃の目の前で一つになった光が徐々に大きくなってゆく。

 そして、その光が一定の大きさで止まると、徐々に光が治まり、そこには菊乃が誰よりもいけ好かないと思っている男が立っていた。

 

「……え? は?」

 

 訳が分からず上手く言葉が出てこない菊乃。

 ベアトリーチェを湊の変化した姿だと認識していたので、彼女の姿が湊になるのはある意味予想通りだが、どうして赤ん坊の八雲が消えてしまったのかが分からない。

 まさか、赤ん坊の八雲は彼が出した幻術で、自分は傍から見れば何もない空間に話しかけていたり、腰が引けて怯えていたとでもいうのか。

 説明を求めて彼女が湊を見れば、彼ではなく隣にいたソフィアが彼女の疑問に答えた。

 

「ですから最初に説明したでしょう。ベアトリーチェと八雲様は湊様が分かれた姿です。湊様に宿った別人格に肉体の主導権を与える際、湊様の人格を余った肉体のリソースに割り振る事で過去の姿である八雲様になるのです」

「……はい? 隠し子ではないのですか?」

「違います。同じ魂を持っていますが、記憶は当時の分しか持っていない過去の姿。つまり、赤ん坊時代の湊様本人です」

 

 あんな可愛らしい赤ん坊がこのクズ野郎に成長するのか。

 そんな驚愕の目を向けてくる菊乃に、湊は無礼なやつめと心の中で嘆息する。

 シャロンとソフィアがベアトリーチェに用事があるからと分離して人格を入れ替えたというのに、戻った途端に不満を言われるとだろうが予想出来ようか。

 だが、話を聞いても納得できないのか、菊乃は成長した姿である湊を見てポツリと溢す。

 

「……詐欺じゃないですか」

「ですから、湊様が歪んだのは桐条グループのせいだと言っているではないですか。十年前の事故がなければそのまま純粋に成長していましたよ」

「……お前らもう少し言葉を選べよ」

 

 女性陣が赤ん坊の自分を可愛がっている事は聞いているが、それでも自分を育成失敗した未来のように言われるのは心外だ。

 別に怒って怒鳴りつけるつもりはないものの、あんまり五月蝿いと部屋から叩き出すぞと言ってから湊は社長机に座ってパソコンで作業を始める。

 明後日から修学旅行で仕事をしている暇がなくなる。故に、ここで出来る限りの仕事を済ませて置かねばならない。

 自分は忙しいと全身でアピールを彼を見て、自分はどうすればと菊乃が他の二人を見れば、今日はもう帰ってはどうかと言われた。

 まだ賠償の話は済んでおらず、これではタダでベビーシッターを押し付けられただけになってしまう。しかし、ここで文句を言えばまた湊は無神経な言葉を返して来る事だろう。

 

「……分かりました。今日は失礼します」

 

 ならば、ここは自分のためにも撤退が最善の選択のはず。湊が修学旅行に行くことは彼女も知っているので、週末までは呼び出される事もないはず。

 彼がいない間に少しでも心身の疲労を和らげようと、菊乃は帰りにアロマや入浴剤を買って帰っていった。

 

 


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