7月2日(土)
影時間――地方の町
巌戸台から遠く離れた静かな地方の高級別荘地。白を基調とした洋風の外観の屋敷の二階の一室に、その白く細い指にガラス製のように見える王冠の形をした指輪をはめた女性が、一人ベッドに座り、アンティークの石油ランプを使って本を読んでいた。
影時間には全ての機械が止まってしまう。けれど、ロウソクやこのランプのように、燃料に火を点ける事で灯りにするアナログな照明ならば、黄昏の羽根を使用せずとも問題なく使う事が出来た。
そうして、女性が静かに本を読み進めていると、部屋とバルコニーを隔てる扉のガラスを叩く音がする。
ここは二階で、バルコニーには梯子でも使わない限り登ってくる事は出来ないはずだが、影時間という非日常に来訪してきた者には、そんなのは些末事らしい。
本を読んでいた緩いウェーブのかかった長髪の女性・桐条英恵は、本に栞を挟んで閉じると、寝巻の上に羽織ったストールを正しながら立ち上がり、バルコニーに続くガラス戸の鍵を開けた。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね、八雲君」
柔らかい笑みを浮かべ英恵が招き入れたのは、どこか中東の民族衣装風な襟と袖に柄の入った白のシャツを着た湊だった。
湊の恰好を見た英恵は、相手をソファーの方へ案内しながら話しかける。
「うふふ、今日はエキゾチックな服を着ているのね。それは、いまの保護者の方が選んでくれたのかしら?」
「仕事の知り合いが、どこからか買ってきた」
「そうなの。その方は八雲君をよく理解してらっしゃるのね。貴方の髪や瞳にとても合っているわ」
ソファーに座ると、そう言って優しい笑顔を向けながら湊の髪をそっと撫でる。
瞳の色は変わってしまったが、今は亡き親友と同じ青みがかった黒髪によく映える、湊のために選んだ物だと一目で分かった。
自分も身体がもう少し強ければ、親友の忘れ形見である少年に色々としてやれるのだが、と英恵は考えるも、いくら悔んだとて現実は変わらない。
「影時間だと電気やコンロが使えないから、保温出来るポットに紅茶を移しておいたのだけど、味はどうかしら?」
淹れたのは親友が美味しいと言ってくれた思い出の紅茶。この茶葉の配合は誰にも教えておらず、レシピも鍵付きの宝箱にしっかりと入れている。
お茶受けとしてクッキーとチョコレートを用意し、ポットからブランド物のティーカップに紅茶が注がれると、湊は静かにそれを手にとって口を付けた。
「……前に飲んだ事がある気がする」
「ええ、貴方のお母さんが好きだったお茶でね。一緒にお見舞いに来てくれたときに淹れた事もあったのだけど、よく覚えていたわね」
そう、美鶴の母親である桐条英恵は、今は亡き湊の母・
英恵は桐条の名士会に名を連ねる名家の出身で、旧家であったナギリの出身だった菖蒲と同じ中学に入学し、そこで出会ったのだ。
身体の弱かった英恵と対照的な、男子を押し退け学校トップの運動神経を誇っていた菖蒲は、どういう訳か馬が合い。すぐに親友と呼び合うような仲へ発展した。
その後、中学ではお互いに成績が良かったこともあり、高校も同じところへ一緒に進んだが、身体の弱かった英恵は大学へは進学せず、休みのたびに菖蒲が静養している英恵に会いに行くことで親交は続いた。
それから、菖蒲が大学に通っている間に、桐条武治との縁談の話が持ち上がり。まだ成人して間もなかったが、英恵は桐条と婚約し一年後に妻となった。
しかし、盛大に執り行われる結婚式にその親友を呼ぶ事は出来なかった。
「どんなお仕事で今日はこっちへやってきたのか、聞いても良いかしら?」
「今回は仕事じゃない。前に仕事でマフィアを片付けたとき、タイミング悪く捕まってた馬鹿を助けて、その親が礼をくれるからって受け取りに行っていた」
「ふふっ、そうなの。でも、ちゃんと助けてあげるなんて、八雲君は優しいのね」
式に菖蒲を呼ぶことが出来なかった理由、それは菖蒲が名切りの一族であったから。
当然、そんな物は数代前に廃れて、菖蒲もその父親も人を殺したことなど生涯一度たりともない。湊は一族の直系で殺人も行っているが、ナギリとして仕事をしている訳ではなく。また、ナギリの家についても知らないので、この場合は例外となる。
だが、大きな家というのは、そういった言い伝えに過剰に反応してしまう。
式の主役は新郎新婦というが、桐条と英恵の場合は家同士の結婚の意味合いが強く、一族に迎えられた嫁が我儘を言う事など出来なかった。
そのことを泣きながら伝え、謝罪を受けた相手は、涙でぼろぼろの顔をした英恵に苦笑して「確かに残念だけど、英恵が幸せならそれで良いよ」と明るく笑って結婚を祝った。
それから二年後、菖蒲は九頭龍家の二男だった
同年の五月に英恵が美鶴を出産。そして、冬に菖蒲も妊娠が発覚し、次の秋に湊が生まれた。
「……身体の調子は?」
「心配してくれてありがとう。でも、八雲君がたまに会いに来てくれるから元気よ。定期的に検診してくださるお医者様も、急に調子がよくなってるって驚くほどなんだから」
普段と変わらぬ感情のほとんど籠もらない様子で湊が体調を尋ねると、英恵はその心遣いが嬉しく、また、かつての親友とどこか重なって見えて思わず笑みをこぼした。
湊が生まれて半年も経たぬ頃、言葉もまだ話せない状態だったが、母親二人が集まったことで、美鶴と湊は実は出会っている。
今は大人びた雰囲気を纏っている美鶴も、赤ん坊のころはわんぱくで、初めて出会った同世代の少年にキャッキャと笑いながら纏わりついていたものだ。
それに対し、当時既にハイハイや掴み立ちが出来るようになっていた驚異の赤ん坊だった湊は、美鶴から逃げるように母親の元に行っていたため。追う者と追われる者という関係は、現在も全く変わっていないと言える。
しかし、美鶴が言葉を話し出すようになると、母親たちが会う機会は急激に減っていくようになる。美鶴に桐条宗家に相応しい人間になるよう英才教育をするようになったからだ。
加えて、その頃から英恵の体調が悪化。命に別状はないものの、都会に近い場所では身体に障るからと、この高級別荘地の桐条別宅で静養するようになった。
その頃、夫はグループの仕事をしながら、その父である桐条鴻悦が新たに始めた研究の手伝いを始め。娘の美鶴は宗家で父と暮らしながら桐条の教育を受けていたため、長期の休暇を除けば、ほとんど会う事が出来なくなってしまった。
しかし、都会から遠いこの地へ、親友とその息子は二人でよく遊びに来てくれた。
残念ながら、親友の夫は仕事だからと一緒ではなかったが、本を読んだり編み物をしたりするだけの毎日の中で、二人と過ごす時間は英恵にとって掛け替えのないものであり。
我が子と会う機会のないこともあって、娘と同じ年頃だった親友の息子は、第二の我が子のような存在になっていった。
「学校は楽しい? お友達は出来た?」
「チドリは楽しんでる。部活のメンバーとも仲良くしてるから、今の生活は充実しているみたいだ」
「もう、おばさんは八雲君がどう思っているか聞いているのよ?」
そんな生活が続いていたある日、英恵の元にあるニュースが飛び込んできた。
ポートアイランドインパクトと呼ばれる爆発事故で義父の鴻悦が死亡、夫は事故現場にいて片目を負傷しながらもどうにか命は無事に済んだというが。さらに、同日にムーンライトブリッジで菖蒲たち一家の乗った車が事故に遭ったと聞いた。
その報告を受けた英恵は夫の安全の確かめることと、菖蒲たちのことを知るため宗家に一度戻った。
だが、そこで伝えられたのは親友一家の死という残酷な報せ。九頭龍家が執り行った葬儀にも眼帯をした夫と一緒に参列したはずだが、廃人のようになってしまい、そのときの記憶はまるでない。
夫と娘は、英恵のそんな様子を心配してくれたが、親友と息子を同時に失った彼女にその言葉はほとんど届かなかった。
生気を失った英恵は別宅に戻ると、なにかに取り憑かれたように親友と息子との思い出の品を誰にも見せないよう保管し、それを部屋で眺めて一日を過ごすような生活を送る様になる。
それから時間が経てば徐々に心の整理もついてきて、桐条の置かれた状況などを把握できるようにもなっていったが、やはり心にはぽっかりと穴が開いたままで、人と会っているとき以外は無気力な状態で過ごしていた。
しかし、それから三年後、どのような神の悪戯か、死んだと思われていた息子と英恵は再会する事となった。
「危ない事、いまも続けているんでしょう? でも、それなら尚のこと、自分を大切にしなきゃ駄目よ?」
話は聞いているようだが、湊は皿にのったクッキーに手を伸ばし、ポリポリと黙って食べている。
そんな様子に、困ったような笑みを浮かべ、英恵は自分のティーカップを手に取った。
二人が再会したのは偶然で、桐条の名士会の婦人を対象にした集まりに参加した日の帰り、会場となっていた場所から出たところで、仕事で遠出してきていた湊とばったり遭遇したのだ。
数年ぶりに会った事、瞳の色が変わっていた事、それによって初めは本人だと確信が持てなかったが、八雲君と呼びかけて相手が振り返ったことで、湊が八雲本人であると分かった。
だが、英恵の顔を見た瞬間に湊は逃げようとした。幼い頃より呼ばれていた条件反射か、完全に警戒の対象から除外していたような、はっきりと驚愕の色を顔に浮かべて全力で駆け出そうとした。
けれど、崩れるようにへたり込み、湊が生きていた事に喜びの涙を流していた相手を見て、湊は逃げる事を止めた。
桐条の妻なら、自分が生きていると知っているはず。だというのに、相手の反応は本当にいま初めて生きていることを知ったようにしか見えない。
そうして、諦めたような表情で湊が戻ってくると、英恵はひしっと抱きしめたまましばらく泣き続け、少ししてから近くの料亭の個室で湊の話を聞いた。
湊たち一家を襲った事故の真相、エルゴ研での事、いまの生活など、信じられないような話ばかりだったが、子どもである湊が、桐条でも一部の人間しか知らない事を知っている。
それだけで、全てが事実だと信じるには十分で、何より、英恵には湊を疑う気持ちなど初めから存在しなかった。
話を聞き終わって湧いてきたのは、湊の生存を黙っていた夫への怒り。
だが、それが娘を守るためだったことを考えると。美鶴と湊を等しく愛していた英恵と違い、ナギリを恐れ湊と殆ど面識もなかった桐条が娘の安全を優先した事は仕方がないと言える。
無論、それが分かったところで完全に許せるかと言われれば答えはNOであり。ちょっとした復讐として、英恵は自分が湊と繋がっていることを他の誰にも話していない。
「そういえば、少し前に美鶴から電話があったの。最近、ある男の子に声をかけようと頑張っているんだけど、相手が話を聞いてくれなくて、中々上手くいかないって。私は女性側としてアドバイスをしたのだけど、男性側として何か美鶴に良いアドバイスはないかしら?」
当然、英恵はその相手が湊である事を知っている。美鶴も高い適性を有している相手として、有里湊という名前を母に伝えている。
しかし、こう言われて相手がどんな反応を見せるか知りたい。そんな欲求から、わずかに悪戯っぽい表情で相手の言葉を待った。
「……脈がないなら諦めれば良い。世界の半分は男だ。そいつ以外にも気に入るやつが一人や二人見つかるだろ」
「でも、美鶴はその子が良いらしいの。どうにかお話だけでも出来るようにならないかしら?」
「出家でもしろ。そしたら、説法くらいは聞いて貰える」
「もう……分かってて、そんな事言うなんて意地悪ね」
くすくすと口に手を当てて笑う英恵。湊の見せた反応がおおむね予想通りだったためである。
湊は桐条にエルゴ研、及びそれに関わる者を憎んでいる。
自身が例外なのは、影時間とそれに関係する話しは知っているが、このように全く関わりを持っていないからだと推測している。
また、湊の今を知っても以前と同じように接して、繋がりがあることを夫にも娘にも一切ばらしていないことも信頼を得ている理由だろう。
しかし、ならば何故、ほとんど大人の言いなりになっているだけの美鶴に冷たく当たるのか。
彼女の場合、関わりたくて研究に関わる様になった訳ではない。湊と同じように“目覚めてしまった”立場なのだ。
少年にその理由を尋ねてみたい。そう思った英恵は、カップをソーサーに静かに置きながら口を開いた。
「八雲君は美鶴が嫌いなのかしら? まぁ、桐条の人間だから好きではないでしょうけど、あの子も力に目覚めてしまって色々と辛い実験を受けてきたの。だからという訳ではないけれど、似た立場であるあの子と、何故言葉を交わさないのか教えてもらえないかしら?」
母親としては、自分の娘と親友の息子に仲良くして貰いたいが、それを口にすることは出来ない。
桐条家の自分はどこまでいっても加害者だ。それで、どうして被害者にそのような図々しい願いを言う事が出来るだろうか。
だが、似た境遇の娘と会話くらいはしてあげて欲しい。そうして、湊の口から理由が語られるのを待っていると、数分経ってようやく答えが返ってきた。
「話すに値しないから。それだけだ」
「……では、どうすれば値する者になれるのかしら?」
「あれは父親と似過ぎている。無意識だろうが、嘘と欺瞞で塗り固めた仮面で近付いてきて、本当なんて何一つない」
テーブルを見つめている湊の瞳が蒼くなる。負の感情が高まった証であり、感情の向けられた対象が夫なのか美鶴なのかで、英恵も対応を変えなければならない。
だが、湊の言葉を聞いて、英恵は過去の自分の行動について考えていた。
(美鶴が武治さんにそっくりなのは私のせいね。桐条の厳しい教育を受けているあの子に、ここにいた私はなにもしてあげられなかった。影時間が始まってからもそうだわ。菖蒲さんと八雲君の死に悲しんでばかりで、美鶴をまったく見ていなかった)
遠く離れた地にいた英恵は、幼い我が子に母親の愛情をほとんど注いであげることが出来ず。辛い状況に置かれた美鶴は、傍にいて自分を愛してくれる父を心の頼りにするようになった。
尊敬する父のようになりたい、愛する父の役に立ちたい、それが娘を見ていて英恵が見抜いた美鶴の本心。
それを、“世界のため”“桐条の罪として”、そんな言葉で覆い隠し自分すら騙して湊の協力を仰ごうとしている。
本人は本気で気付かずに言っているのかも知れない。桐条の教育を受けてきたことで知識は持っているが、どこか世間とずれていて、そのせいで視野が狭く情緒面が他者より未熟であるため、情は厚いのだが他人の心の動きに疎い部分がある。
桐条武治も不器用な男で、娘に愛情を注ぐばかりで、普通の子どもらしいことは何一つさせていなかった。子どもの心は、同じ年頃の者と関わる中で育まれる部分もあるというのに。
そんな湊が認めないという美鶴の人格の形成は、両親である自分たちと桐条家のせいだと、英恵は美鶴に申し訳なさを感じずにはいられなかった。
そこへ、さらに酷く冷たい声色で湊が言葉を続ける。
「あれが求めているのは、“俺”じゃない。シャドウは、ほぼ毎日数十体狩ってる。多い日には百体以上だ。影時間を消す方法も分かってない状態で、シャドウを狩る以外にすることなんてないはず。協力する必要性を感じない」
シャドウに心を食われて、まるで廃人のようになってしまう“無気力症”。それが桐条の認識だが、英恵は湊から無気力症の真の原因を聞いている。
シャドウが長期間抜け出たままでは、例えシャドウが倒され戻っても、完全には回復しなくなってしまう。
それを知らぬ桐条は、戦力が美鶴しかいないこともあってタルタロスのシャドウを放置しているが、実際は湊が毎日のように狩り続けているおかげで、今のように世間でもあまり問題としてあがっていないだけだ。
湊と会っていることや、連絡を取り合っていることを隠しているのは、ちょっとした悪戯気分だが、そういった研究に関わることを黙っているのは心が痛む。
しかし、それを伝えれば、湊のことも話さなくてはいけないため。誰からも称賛や感謝を受けることなく戦い続けている少年に、英恵は頭を下げて心からの謝辞を述べた。
「そうね。貴方のおかげで無気力症はほとんど広まっていない。本当にありがとう」
「……おばさんが礼を言う事じゃない。俺が勝手にやってるだけだ」
「それでもよ。貴方は人に褒められるだけのことをしているの。世間の誰も知らなくても、私がそれを知っている。だから、私は貴方にせめて感謝の言葉を送りたい。そして、褒めてあげたいの」
言って、英恵は隣に座る湊を抱きしめた。胸に頭を抱いて、髪を優しく梳いて撫でてやる。
急にそんなことをされた湊は、黙ってされるがままになっているが、瞳の色は普段と変わらぬ金色。つまり、不快さはとくに感じていなかった。
そして、子どもをあやす様に頭を撫でながら、英恵は静かに呟く。
「ごめんなさい。貴方ばかりに押し付けて。影時間なんてなければ、ここで静かに一緒に暮らしてあげたいのに。私たちは貴方に頼ることしか出来ない」
どうすれば影時間が消えるか分からない。その方法を桐条が必死に調べているが、シャドウについても殆ど分かっていない状態では、何年後に判明するかも不明だ。
その間、無気力症の拡大は全て湊に防いで貰う事になる。
湊が力を付けているのは、シャドウと戦うためであり、また、チドリという少女の世界を守るためだと聞いている。
その先に、どのような目的があるのかは聞かされていないが、様々なことを教えてくれる少年が黙っているということは、それだけ無闇に話す事の出来ない事柄なのだろう。
故に、英恵はあえて尋ねる様なことはしない。聞くのは少年のすぐ回りのことだけ。
仮に人類の未来に関わるような途轍もない話しを教えられれば、それを自分の内だけで黙っていられる自信がない。
世界の危機だからと桐条に伝えてしまえば、湊は二度と英恵の前に姿を現さなくなる。かつて味わった絶望を再び味わうなど、絶対に耐えられない。
「八雲君、本当に気を付けて、自分を大切にしてね。私以外にも、貴方が傷付くことを悲しむ人は大勢いる。亡くなった菖蒲さんと雅さんも、貴方の無事と幸せを祈っているわ。だから、自分を犠牲にして何かをしようだなんて考えないで」
ムーンライトブリッジでは両親と自らを、守るための力を得るときには寿命を、エルゴ研の脱走時には心を、その都度、湊は犠牲にしてきた。
そして、いまもチドリの世界を守るために、日常を犠牲にしている。
全て必要な犠牲だったと言えばそうかもしれない。けれど、親友の忘れ形見であり、第二の我が子のような存在の少年に、そんな自己犠牲ばかりの生き方はして欲しくなかった。
英恵は抱擁を解くと、しっかり相手の目を見て手を握りながら話した。
すると、どこか虚無的な感情の籠もらない瞳で見返してきた少年が、その返答としてゆっくり言葉を紡ぐ。
「犠牲じゃない、対価だ。自分が欲しい物を手に入れるため、対価として様々な物を払ってきたんだ。そして、払っただけの物は手に入れてきた」
「……ご両親も対価なの? 寿命も心も、それらを対価に貴方が手に入れたものは一体何?」
「……アイギスの守ろうとした世界の存続。そして、チドリの平穏。だけど、まだ足りないんだ。俺はチドリに安心して暮らせる世界を与えてやりたい」
少年の答えに英恵は言葉を失った。
これが心を犠牲にした影響なのかと考えてしまうほど、湊の答えは子どもどころか、大人でも普通ではあり得ないものだった。
家族や恋人、友人など大切な者の幸せを願うのは分かる。そのために自分も何かをしてやろうとする者もいるだろう。
だが、自分の手を血で染めて、何度も死ぬような目に遭っているというのに、この少年はその世界に己の存在を含んでいないことを理解してしまった。
安心して暮らせる世界というからには、影時間などという非日常は当然なくなった世界に違いない。それを消し去るためならば、少年は自分の命だって対価として平然と支払うつもりでいる。
それを知って、少年の死を娘の死と同等に考えている彼女は、再びあの恐怖を思い出してしまい身体が震えだした。
「だ、駄目。死んでは駄目よ。貴方は生きていて良いの、生きなきゃいけないの! お願いだから、死のうとなんてしないで頂戴。また、また貴方を失うことになれば、私は……」
「俺の契約は最期までチドリを守ること。他にもいくつかあるけど、契約を全て果たすまで死ねない。それに頭を狙われない限りは死なない。だから、大丈夫」
「違う! それでは、それでは八雲君が幸せになれない!」
珍しく声を荒げる相手に驚いた様に湊は顔を上げる。それを正面から見つめて、英恵は泣きそうな表情で続けた。
「どうして自分の幸せを願わないの? チドリさんが大切なら、貴方も傍にずっといれば良いじゃない。七式アイギスだって、貴方が一緒にいたいなら、私が武治さんに言って自由にさせるわ。だから、貴方はもっと我儘を言っていいのよ。叶えられないくらい大きな夢を言ったって、誰も責めたりしないわ」
「俺の望むチドリの世界に殺人鬼はいらないんだ。どんな理由があっても、俺は自分の意思で人を殺してきた。あの日から今日までで千人じゃきかない。司法なら死刑は確定で、どこかへ行こうと国際指名手配だ。そんなやつが傍にいれば、チドリやおばさんにだって迷惑がかかる。なら、消えなきゃならない」
「世界はその事を知らないわ。それに貴方が裁かれるのなら、私たち桐条だって同じよ。研究員だけじゃない、罪のない子どもを実験体にして、いまだって大勢の人を危険に晒している。貴方の罪は全て私が桐条の罪と一緒に持っていくから、貴方はどうか生きて頂戴」
言い終わると同時に、湊の頭の中に不思議な声が聞こえてきた。
《我は汝、汝は我……》
コミュニティーの絆が深まったことを告げる声。
桐条英恵の担当するコミュニティーは『IX・隠者』。
正位置ならば秘匿・思い遣り・核心などの意味を持ち。逆位置ならば、隔離・悲観的・現実逃避など暗い意味を持つ。
しかし、カード自体としては真実の探求など、決してマイナスではない意味を持つアルカナだ。
身体が弱く、都会から離れた保養地で静養していることに加え、夫と娘にすら湊と会っていることを隠しているため、彼女がこのアルカナに選ばれたのだと湊は推測している。
そして、絆が深まったというのなら、相手は本気で自分が罪を被ってまで湊に生きていて欲しいと願っているということだろう。
今の自分を知ってからも、変わらぬ愛情を注いでくれる者に感謝の念を抱きながら、湊は感覚でそろそろ影時間が明けることを感知すると、黙って立ち上がった。
「あ……もう、そんな時間なのね」
自分たちが会うのは影時間の間だけ。そう決めているため、湊が帰ろうとしていることで、影時間が明けることに気付いた英恵は、とても寂しそうな表情を浮かべた。
メールや電話で連絡を取ることもあるが、仕事で近くに来たときにしか会えないとなると、影時間の間だけというのは短く感じる。
翌日も休みなのだから、どうせなら泊まっていってくれて構わない。
しかし、万が一にも湊の存在がばれれば、彼が立てている計画に何か不都合が生じるかもしれない。
それを考えれば、我儘など言えるはずがなかった。
立ち上がった湊がバルコニーに向かってゆくと、英恵も立ち上がってその後へ続く。だが、そう言えば渡す物があった事を思い出すと、声をかけて呼び止めた。
「あ、ちょっと待って。実は、今日は八雲君にあげようと思って、ある物を用意しておいたの。ほら、これよ」
声をかけてから、ドレッサーに何かを取りに行って戻ってきた英恵の手には、小さなアクセサリーを収める小箱があった。
それを受け取り湊が開いてみると、中に入っていたのは、英恵が付けているものと同じデザインの白い王冠の形をした指輪だった。
不思議そうに眺めている湊に、くすくすと笑って英恵が説明を始める。
「それは桐条製の影時間に対する簡易補整機よ。適性を持たない人間でも、それを付けていれば影時間を体感し、さらに外した後も影時間に関わる記憶を保持できるの。ただし、それを破壊したら、それを付けていた間の記憶は消えてしまうから。誰かに使わせるときは注意してね」
「人工的に適性を得ることが出来るのに、こんな物まで作っていたのか?」
「人工的に得るのにも素質が必要なの。それに私みたいに身体の弱い人間は耐えられない。だから、誰でも使えるようにと、こういった物を開発したのよ。付けたのが何年前だろうと、破壊すればその時の記憶が消えるという保険付きでね」
そう、ペルソナに覚醒した美鶴や、人工的に適性を得た桐条と違い、英恵は影時間の適性を持っていない。
影時間を体感するのは、湊から今度遊びに行くと連絡を受けたときのみで、そのときには指輪の力を借りて影時間を過ごしているのだ。
人工的に処置を施して適性を得るのと違い、ただ指輪を付けるだけで適性を持てるメリットがあるものの、当然、指輪の破壊で記憶が消える以外にもデメリットはある。
「この指輪は、月齢や使用者の精神状態で効果が安定しなかったりするの。そうすると、使用者の肉体に非常に負担がかかるから、その点も注意しておいてね」
「……なら、おばさんは一番使ってはいけない人間だろう。俺に会う程度のことで、自分の身体に負担をかけてどうする」
少し呆れた様子で言って、湊は英恵の胸の前に右手をかざした。
すると、湊の掌から温かな優しい緑色の光の粒が放出され、そのまま英恵の身体の中へと吸収されてゆく。
いま湊が行っているのは、生命力の譲渡。光の色は違えど能動的な力の使い方をするメーディアを持つチドリも同じことが出来るが、力の保有量が圧倒的に違うので、チドリならば死んでしまうような量を他者に与えても、湊は少し疲労を感じる程度で済んでしまう。
湊が来る度に英恵の体調がよくなるのは、この生命力の譲渡が理由だった。
「ごめんなさいね。今まで秘密にしてて。でも、貴方が力を分けてくれるから、本当に会った後は体調が良くなっていたのよ」
「力を分けられないくらい疲弊してやってきたらどうするんだ。そんな会うだけで命懸けのようなことはしないでくれ」
「うふふ、それはおばさんがいつも貴方に言っている事ね。危ない事はしないで欲しいって言っても、八雲君はまるで聞いてくれないんだもの。お相子だわ」
それを言われてしまうと湊は何も言い返せない。
そして、かなりの量の生命力を与えると、湊は指輪の入った小箱をマフラーに仕舞ってバルコニーに出てゆく。
カグヤの探知で他に動いている者がいないかはずっと調べていた。
今回のことで、適性がなくとも影時間を体感する方法があると知ることが出来たため、ならば、今後はさらに注意しながら行動する事にして、高同調状態で背後に顕現させたタナトスと共に僅かに浮かび上がる。
「それじゃあ、身体に気を付けてね。次に会えるのを楽しみにしているわ」
「夏休みにでも会いに来る。それまでは電話かメールしか出来ない」
「ええ、それでも十分よ。あの人も美鶴も忙しいみたいで、電話もあまりしないから、八雲君からメールがくるのを楽しみにしているの。ふふ、でも、貴方が美鶴を無視していれば、私に相談してくれるみたいだから、これからは二人の連絡を期待できそうね」
美鶴にとっては散々な対応でも、それで娘と話が出来るのなら英恵にとっては嬉しいことらしい。
心の中では娘に謝罪しているのだろうが、あまり娘に頼られる事もなかったので、母親らしいことをしながら、子どもたちと話せるという特典の方が英恵には魅力に映った。
そんな風に考え、朗らかに笑うと、帰る前に湊の手を包む様に握って別れの挨拶をする。
「では、おやすみなさい。またいつでも来てくれて構わないから。何か困ったことがあれば、ここなら匿ったりも出来るし。頼ってきて頂戴ね」
「そうならないよう気を付ける。それじゃあ、また来る。おやすみなさい」
言い終わって手を離すと、湊は一気に高度を上げて飛び去っていった。
たまに来る報告書や、極一部の人間しかアクセスできない桐条のサーバの中で、娘のペルソナについてのデータにも目を通したが、確かに大人と子ども以上の実力差があると感じられた。
過去の人工ペルソナ使いの研究については、何も知らされていないが、湊の話を信じるのならば、乗って飛ぶ事が出来る者はいたが、湊の様にペルソナと共に飛べるものはいなかったらしい。
これが自分たちを守り続けている少年の心の強さかと思うと、英恵は安心感よりも不憫に思う気持ちの方が湧きあがった。
「……貴方は憎んでいる人間すらも守っているのね。人という鏡を置くことでしか、貴方は自分の願いを持つことが出来ない」
湊の願いは誰かのためという前提が存在している。世界のためにデスと対峙し、チドリを守るために改造を受け、被験体を救うために研究員らを殺した。
そのときどきに払った対価で何か得たのは、実際は湊ではなく他の者たちだ。それを湊は、自分の望んだ状況にする事が出来た、と自分の願いが叶ったように錯覚している。
さらに、自分が異常であると思ってはいるようだが、願いの抱き方が歪である事は自覚していない。
そんな少年を救ってやることが出来そうな鍵は、いまのところアイギスとチドリの二人だけ。
どれだけ相手を想っても、自分では何も出来ない歯痒さに、英恵は表情を暗くして、少年が飛び去った方角へもう一度視線を送ると、そのまま部屋へと戻っていった。
補足説明
ゲーム本編には名前も登場していないが、桐条英恵と指輪はドラマCD「NewMoon」「FullMoon」に登場する公式の存在である。オフィシャルサイドストーリーであるドラマCDは、桐条の死を受けて宗家に戻った美鶴に何があったのかや、ファルロスがいつ主人公から離れたのかということの他。珍しくイケメンな真田、自転車で爆走するゆかり、蛇が怖くて木から降りられない美鶴(小)を下から眺めるゆかり(小)、時速130キロで走るアイギスに抱えられた順平、実は相部屋にもなるチドリの病室など本編では語られなかったメンバーたちの活躍や様子が分かる内容になっている。ただし、時期が桐条と幾月が死んだ直後なので、荒垣さんとストレガの男二人は登場しない。
原作設定の変更点
壊れやすい形としか語られていなかった指輪の形状を、ガラス製のように見える白い王冠型の物と設定