【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第四百十三話 先の事を見据えて

午後――都内・高級ホテル

 

 昼食を食べ終わった湊たちは予定通りに街中を散策した。

 何か欲しいものがある訳でもなく、ただ暇を潰すことを目的に服屋や雑貨屋に入っていく。

 しかし、湊は国内では有名な高校生だ。そんな彼が女子と歩いていれば当然周りも騒ぎ出す。

 それを嫌ったのか途中から湊は眼鏡を掛けていたが、それ以降は周りの者たちは何も気にしなくなっていたため、眼鏡自体に何かしらの細工がある事は菊乃も気付いたらしい。

 おかげで周囲の目を気にせず買い物出来た事は嬉しいが、他者の認識に干渉するアイテムなど要人に仕える身としては非常に恐ろしく不安にもなる。

 ペルソナ能力の応用なのか、純粋に科学技術の延長にある物なのか。

 聞きたい衝動に駆られるも、今日の彼女は迷惑を掛けた賠償として純潔を捧げるために来ている。

 故に、菊乃は我慢して湊との買い物デートをこなした。

 複数の女性と親しいだけあって、やる気が感じられなくても彼のエスコートは素晴らしかった。

 湊自身に目的はなくても菊乃がどういった物を見たいか伝えればすぐに店へ案内し、歩き疲れてくるタイミングで喫茶店などに入っての休憩を挿むなど、ちゃんと女性に合わせて行動してくれる。

 相手を嫌っている菊乃でも彼のエスコートを評価出来ると思ってしまったのだから、外面良く相手された一般人たちが熱を上げるのも納得だ。

 けれど、夕食を食べ終えて都内でも有数の高級ホテルへ案内されれば、決めていたつもりの覚悟も揺らいで菊乃は口数がはっきりと減った。

 対する青年は菊乃の心情も知らずにフロントで鍵を受け取り、黙っている菊乃の肩を掴むとそのままエレベーターに乗って最上階へと移動した。

 最上階にあるのはフロアを丸ごと使ったスイートルームのみ。

 よくこの時期に部屋が空いていたなと思うところだが、最上階に到着すると湊は普段通りの様子で進んでカードキーを使って扉を開く。

 この扉を潜ればもう後戻りは出来ない。逃げるなら今しかないと菊乃の冷静な部分が心に囁きかけてくる。

 だが、そんな事をしてどうなる。湊が菊乃たち敵対者を見逃したのは賠償を払う事を約束したからだ。

 ここでそれをなかった事にしようとすれば殺される。自分一人の命で済めば良いが、下手をするとあの日の敵対者全員に連帯責任が発生するかもしれない。

 抱かれても死ぬ訳じゃ無し。我が身可愛さから反故にして、己や他の者たちの命まで失うことになっては意味がない。

 僅かに身体を震わせながらも足を前へと動かし部屋に入ると、背後で扉が閉まって自動で鍵が掛かる。

 退路は既に断たれた。覚悟を決めると自分に言い聞かし、菊乃はプレッシャーから青い顔をしながらも脱いだコートをラックに掛けている青年に話しかけた。

 

「あ、あのっ! わ、私には経験がありません。知識も、その辺で聞いた程度の物しかなく、貴方を満足させる事は出来ないと思います。ですが、精一杯しますので、どうかお願いします。先にシャワーを浴びる事をお許しくださいっ」

 

 湊が菊乃の純潔を捧げる事を条件にしたように、当然ながら菊乃にそういった行為の経験はない。

 美鶴に仕える事とその家族への恩返しを目的に生きてきたので、親しい同年代の異性というのもいなかった。

 性教育で習う程度の知識なら備えているが、経験豊富な彼を満足させる事など出来ないと分かっている。

 なので、菊乃はそれを正直に伝えながら、最後に覚悟を決める猶予としてシャワーを浴びる許可を彼に求めた。

 職場の先輩方の話によれば、男性の中には敢えて汗を掻いている状態などを好む者もいるらしいが、一日一緒にいて感じた彼の印象からするとその可能性は低い。

 むしろ、相手の女性が落ち着けるように色々と気を遣ってくれそうな印象すらある。

 本音を言えば、気を遣うくらいならそもそもこんな要求をしてくるなと言いたいが、彼の要求を飲むと言ったのは自分である。

 自分の行動と吐いた言葉への責任は負う。それくらいはしなければならない。

 そうして、菊乃が身体を小さく震わせながらも湊をじっと見つめていれば、コートを掛け終えた湊は窓際の方へとゆっくり進みながら言葉を返してきた。

 

「……とりあえず、落ち着け。荷物を置いて俺の分のコーヒーと自分用の飲み物を淹れて持って来い」

 

 ホテルにくればすぐに発情するとでも思っているのか、と言わんばかりの呆れた表情で湊はコーヒーを催促した。

 菊乃は使用人であるため、屋敷で料理はしないがお茶やコーヒーの用意はする。

 置いてある道具は屋敷と異なるが、慣れた作業であるため初めての道具を使ってもそれなりの物は淹れることが可能だ。

 予想外の事を言われて一瞬戸惑うも、まだそういった事をしなくていいと分かった菊乃はホッと息を吐き、着ていたコートと荷物を片付けると手を洗ってから彼の言う通りに動いた。

 彼はブラックで飲んでいたので少し濃いめに淹れる以外に気をつける点はほぼない。

 自分の分の紅茶も知っている茶葉の銘柄だったので、お湯の温度も含めて感覚で分かる。

 お茶菓子までいるのだろうかと少し考えて、必要なければ下げれば良いかと部屋に用意されていたクッキーを皿に載せて盆で一緒に運ぶ。

 

「お待たせしました。クッキーがあったので良ければこちらもどうぞ」

「……ああ。とりあえず、お前も座れ」

 

 窓際のテーブルから外を眺めていた青年は、菊乃がコーヒーを持ってくると彼女も座るように言ってくる。

 雰囲気から察するにどうやら話をするつもりのようで、一体何を話すつもりなのだろうかと考えながら菊乃も正面の席に着く。

 相手がコーヒーに口をつけるのを確認してから、自分の淹れた紅茶を一口飲んで菊乃も話を聞く体勢を作る。

 彼は善人ではない。場合によっては躊躇いなく自分たちを殺せるであろう、一般人とは異なる精神構造を持った危険人物だ。

 だが、悪人なのかと聞かれれば、単なる悪人とも言いづらい部分があった。

 彼が仕事屋として名乗っていた“小狼”という名前から経歴を調べて見れば、エルゴ研を離れてから九年の間に二万人以上殺している。

 ほとんどは彼の命を狙っていた裏界最大組織だった“久遠の安寧”の構成員で、彼と正面から戦争をしていたのならしょうがないと思える。

 だが、その他の者たちについても調べて見れば、彼が殺していたのは法の裁きを受けていない悪党ばかりである事が分かった。

 世の中には本人やバックに付いている人間が特権階級であるために、罪を犯しても正しく裁かれない者が大勢いる。

 下された判決が明らかにおかしくても、最高裁で決まってしまえば被害者はそれ以上言うことが出来ない。

 そんな泣き寝入りするしかない者たちが、自分が地獄に堕ちてでも相手の罪に報いを受けさせたいと最後に頼った相手が青年だったのだ。

 昼間は桐条家の人間を侮辱されたとして怒ってしまったが、調べた今では菊乃も彼がどうして桐条家をあぁも蔑むのか理解出来る。

 桐条家とグループは彼が殺してきた人間たちと同じ存在。如何に理由があろうとも、自分たちの都合で弱者を食い物にする悪だと彼は知っているのだ。

 彼自身の都合があったとしても、その始まりは誰かのためだった。

 他人のために手を汚す事が出来る。泥を被ることを厭わない。

 見方によって善悪の評価が変わってしまうからこそ、相手の内面を読もうとしても難しく、今湊が何を考えているか分からない菊乃は相手が口を開くまで黙って待ち続けた。

 そうして、二人が飲み物に口をつけてから数分経った頃、窓の外の景色から菊乃に視線を移した青年が静かに言葉を吐く。

 

「……お前は影時間についてある程度の知識があると聞いている。だからこそ問うが、影時間が消えた後の事は考えているか?」

「影時間が消えた後ですか? 特に意識はしておりませんが、恐らく変わらずお嬢様に仕えていると思います」

 

 急にどうしたのかと不思議に思いつつも、菊乃は自分の仕事は変わらないだろうと自信を持って答えた。

 何せ、仕える主が危険に身を晒している今の状態がおかしいのだ。

 シャドウもタルタロスも消えて、戦っている彼女たちにも平和な日常が戻ってくる。

 そうなれば、菊乃は本来の業務に戻って、美鶴の傍で世話を焼くことが出来るようになると思っていた。

 進学する美鶴に合わせて同じ大学を受験することは出来る。桐条家のメイドとして恥ずかしくないよう勉強の手は抜いていないため、学部が違っても同じ大学に合格して学校でも傍にいることは可能だろう。

 送迎と屋敷だけで世話をするか、大学でも傍で世話を続けるか。影時間が消えた後の事で悩むとすればそれくらいだった。

 

「……そこは好きにすればいい。俺が言っているのは影時間に関わる記憶が消える点についての話だ。桐条グループやお前個人は準備しているのか?」

「記憶が消える?」

 

 菊乃が美鶴に仕え続けようが、身受けされて寿退社しようがそれは自由だ。何を選ぼうと湊にすれば彼女個人の今後については興味が無い。

 彼が今尋ねているのはそういった事ではなく、影時間を終えた事後処理の話だ。

 影時間が消えました。これで問題解決です。などとすぐに研究機関を解体する事は出来ないし、桐条鴻悦のした事とポートアイランドインパクト後の桐条武治の行動について公安も目を付けてきている。

 特に問題になりそうなのが公安の動きで、幾月に撃たれて桐条が倒れた時にはグループ内部が混乱している今がチャンスとばかりに動こうとしていた。

 後任となった高寺もそういった動きが見られることは掴んでいただろうが、あの時は他の企業からグループを守る事を第一に動いていたため、外部の力を使って公安に圧力を掛けることが出来なくなっていた。

 それを見抜いていた湊は高寺派への対処と同時進行で、EP社の力を使い密かに公安に圧力を掛けておいた。

 相手も仕事でやっているのだろうが、影時間に公安の人間に出来る事などない。

 影時間について理解した後だとて、捕らえた桐条の人間を監視下において今と同じ事をさせる事しか出来ないだろう。

 正義感という外皮で分厚くプライドを覆っている人間は厄介だ。

 シャドウの討伐は言うなれば害虫駆除に近い。自分たちの安全を確保しつつ、ただ効率的に目の前の敵を倒していけばいい。

 しかし、化け物の相手などした事が無い公安の人間にはそれが分からない。分からないせいで余計な真似や的外れな指示を出そうとする。

 それでは敵は倒せないし、戦う現場の人間に被害が出る。

 だから湊は余計な事をするなと公安に圧力を掛けて、特に強い執着で桐条を追っていた人間をしばらく戻って来れない案件に担当替えさせた。

 そうして、表の世界で時間稼ぎをしておいた湊だが、菊乃の様子からすると記憶が消える事は知らなかったらしい。

 ならば丁度良いからと説明しておく事にした。

 

「ニュクスと戦って勝てば影時間は消える。ただ、影時間が消えるとなると影時間の中で起きた事は“なかった事”になって、一部の記憶を忘れて細々した部分には補整が入る。それはペルソナ使いと適性持ちも例外じゃない。何せ影時間の消去は一種の理の書き換え、反動で世界規模の記憶操作が起きても当然の事態だ」

「じゃ、じゃあ、お嬢様たちは仲間として戦った記憶を失うのですか?」

「あぁ。個人的には戦いの記憶なんて無い方が良いとは思う。しかし、全員が記憶を失えば事後処理が上手く回らない可能性がある。適性がない人間は記憶も残りそうだが、実体験していない人間が中心となって動くのは無理があるだろう」

 

 適性はなくとも影時間について話を聞いている者はいる。

 そういった人間であれば現実の記憶として忘れない可能性もあるが、あくまで話には聞いている程度の知識しか持たないレベルなので、中心になって事後処理を行なうには無理があるだろう。

 記憶を失うと聞いて衝撃を受けている菊乃に対し、だからこそ準備は今からやっておくべきだと湊は続ける。

 

「記憶操作の規模は不明だ。だが、何もしないで忘れない可能性に賭けるには分が悪い」

「何か記憶を失わずに済む方法があるのですか?」

「世界規模の威力だからな。効果があるかは自信がないが、簡易補整器の指輪を使えば避けられるのではと思っている」

 

 湊が口にした簡易補整器とは、微細な黄昏の羽根を材料に混ぜて作った一時的に適性を得られる指輪の事だ。

 桐条グループは王冠のような形をした白いガラス製に見える指輪で、菊乃もそれと同じ物を今も身に付けている。

 自分の持っているこれにそんな力があるのかと菊乃が指輪に視線を送れば、湊はどうしてそれが可能性に繋がるのかを詳しく説明する。

 

「指輪は記憶のバックアップ装置だ。うちで行なった実験で適性を得た者に一度指輪を付けさせてから、外した後にアベルの楔の剣で適性を奪った事がある。適性を失えば影時間に関する記憶を失うが、その時の実験では指輪を付け直せば影時間の記憶を取り戻した」

「それは付けたまま適性だけ奪う形では駄目だったのですか?」

「その場合、指輪の効力まで奪ってしまうんだ。恐らく混ぜた羽根の力まで吸い取っている。なので、そのパターンだと記憶は戻らないし、指輪の再利用も出来なくなった」

 

 今は出来なくなったが、アベルの楔の剣を使えば切った対象からペルソナや適性を奪える。

 しかし、もし適性持ちが簡易補整器の指輪を付けていれば、本人の適性と指輪に宿った羽根の力まで楔の剣に奪われてしまった。

 力を失った指輪を他の者が付けても効果は出ず、完全にただのアクセサリーに成り下がってしまったようであった。

 

「ですが、それが分かっているなら、皆さんに指輪を一度付けさせて終わってから再び付けて頂けばいいのでは?」

「ペルソナ使いはただの適性持ちより記憶を取り戻す可能性が高い。指輪が壊れた時にどうなるか不明なら、いらぬリスクは避けるべきだ」

 

 通常、適性を持たない人間が指輪を付ければ外した後も影時間の記憶を残しておける。

 けれど、何かのアクシデントで指輪が壊れれば、それを付けた事がある人間は気を失って倒れ、そこで影時間に関する記憶を失う。

 適性を持っている者がフェイクで指輪を付け、それを破壊した場合は倒れる事も記憶を失う事もないが、最後の戦いが終わった後はペルソナ使いたちも一度記憶を失うのだ。

 一度でも記憶を取り戻せば大丈夫なのか、それとも指輪が壊れれば再び記憶を失ってしまうのか。それが分からない限りは試すべきではないと青年は告げた。

 話を聞いて菊乃も納得したように頷いて返す。ただ、そこまで把握しているならば、湊の方で何かの対策をしていないのかと疑問に思って問い返した。

 

「貴方自身は何か対策を?」

「俺は元々記憶を失わない。既に存在があちら側だからな。自身の記憶を保持出来る代わりに、他の者たちは影時間の記憶と一緒に俺と過した思い出も忘れるようになっている。何より、影時間が消えた世界に俺はいない」

「どういう事ですか? それは、皆さんの前から姿を消すと?」

「……いいや。文字通りの意味だ。理由はまだ分からないが最後の戦いで俺は死ぬ。未来から来た美鶴さんたちに確認を取ったからほぼ確定事項だと思ってくれていい」

 

 他の者たちの記憶から彼との思い出も消える。その一言だけでも十分に衝撃だったが、続けて語られた話は菊乃の理解を超えており、動揺しながらも情報を得なければと再び彼女は問い返した。

 

「お嬢様たちが未来から来たってどういう事ですか? それに、どうして自分が死ぬだなんて聞いて平然としているんですか?」

「春頃にタルタロス消滅の揺り戻しで少し事件が起きる。美鶴さんたちが原因なので避けるのは不可能。ただ、願望器としての力を限定的に持った道具によって過去と空間が繋がって補給にきた彼女たちと会った」

「異なる時間の世界へと渡るなんて可能なんですか?」

「未来へは簡単だ。過去へはオカルト的な力がないと無理だな。それに自分がいた世界の過去か、よく似た平行世界なのかは判断が付かないだろう」

 

 視線をぶつけた状態で話を聞けば、彼が嘘や冗談を言っている訳ではない事は理解できる。

 けれど、恐らくこの話は美鶴たちには伝わっていない事も察する事が出来た。

 どうしてそれを自分に伝えてきたのかという疑問はある。

 今の内から準備しておくべきだとアドバイスしてくれた側面もあるとは思うが、どちらかと言えば彼が菊乃に求めているのは自分がいなくなった後のフォローのように思えた。

 何せ、話を聞いた英恵や美鶴が彼を行かせまいとするのが容易に想像出来、主たちに話すべき内容だと理解しつつも連絡を躊躇わせるのだ。

 自分がいなくなると分かっているなら、EP社の方で様々なフォローを行えるようにしてあるに違いない。

 それでも湊が英恵たちのために自分にも役目を与えようとしている事を察して、ここまで冷静に自分の死後のことを考えて動けるのはすごいと純粋に感心した。

 

「その世界のお嬢様たちはニュクスを討伐出来たのですね?」

「実際は最後に俺が一人で行って倒したらしい。それでそのまま帰ってこなかったと」

「そうですか。では、貴方はそのまま過して役目を全うしてください。奥様など後の事はこちらで引き受けます」

「まぁ、方法が思い付いたら別れの挨拶くらいには行く予定だ。その後の事はそちらでやってくれ」

 

 最後の戦いだけに目を向けている美鶴たちと、その後の事まで見ている青年。両者の違いはこれまでの経験の差によるものだろう。

 自分が死ぬと分かっていても戦いへ向かう決意に揺らぎは見られない。

 こんな男を相手にただの人間が勝とうとするなど無謀でしかなかったと、菊乃は改めて過去の自分たちに対して自嘲してみせた。

 そうして、話が一区切りして菊乃は紅茶に口をつけると、わざわざ頼み事をするためにこんな回りくどい事をする青年に対して心の中で小さく溜息を吐く。

 前にEP社に呼ばれた時もベビーシッターとして呼ばれただけで、結局は何もせずに帰らされた。

 今回もそのパターンだったようだが、ホテルの部屋をとっているので回りくどい上にお金の無駄だと思ってしまう。

 まぁ、そういった部分も含めて不器用な人間なのだろうと思って、菊乃が自分の中の彼のイメージを修正していれば、皿に載せたクッキーに手を伸ばした湊が口を開いた。

 

「……風呂にお湯を溜めなくていいのか?」

「本当に泊るつもりなのですか? 話も終わりましたし、忙しい身なら帰っても良いと思いますが」

「今日会った最大の目的が果たされてないだろう。こちらは別にシャワーを浴びずに事に及んでもいいが、そちらには準備があるんじゃなかったのか?」

 

 呆れた顔で見てくる青年は冗談を言っている雰囲気ではない。

 てっきり自分がいなくなった後のフォローを頼むためだけに場を設けたと思っていた菊乃は、本当に今夜純潔が奪われると聞いて急激に口の中が乾いてゆく感覚を覚える。

 逃げ場無い。逃げても追い付かれるし、その場合は今よりも酷い状況になる事は確実。

 ただ、一度安心してしまったせいで、先ほどよりも考える余裕がある分無駄に不安に思ってしまう。

 幸いな事にシャワーだけでなく湯船に浸かる許可も得る事が出来た。

 ならば、その間に何とか自分を納得させようと、菊乃は正面に座る悪魔に視線を向けてから立ち上がる。

 

「……お湯を溜めてから入ってきます」

「ああ、ちゃんと全身を清めてこい」

 

 席を立った菊乃は広いバスルームで入浴の準備を進め、お湯が溜まってからは一時間掛けて身体を清めた。

 入浴後はどういった服装で彼の前に出るべきか悩んだ結果、バスローブのみを身に着けて部屋へ戻れば、湊は窓際のソファーで綺麗な寝顔を見せて眠っていた。

 このまま起こさなければ自分は助かる。そう思った菊乃は静かに移動してベッドに入ると、部屋の電気を消して寝る体勢に入った。

 だが、常に周囲の気配を探っている青年にそれが効く訳もなく、菊乃が電気を消した一分後に起きだしてきた彼はバスルームへと向かって行った。

 十五分ほど経ってラフなシャツとズボン姿で出てきた彼は、そのままベッドへ向かうと起きていた菊乃に声を掛け、長い時間を一緒に過すのだった。

 


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