――港区
天上より下された裁きの光に呑まれ、全身を焼かれたような痛みを感じながら暗い海に向けて落ちてゆく。
自分たちを守るため覆い被さっていたペルソナも消え、飛ぶ力を失った以上重力に引かれて墜落は免れない。
だが、腕の中で未だ意識を失ったままの少女だけでもどうにか助けたい。
痛みと衝撃で意識に靄が掛かったような状態でも、それだけはしっかりと心にあった少年はこんな時にもかかわらず昔のことを思い出していた。
百鬼八雲の記憶を持った少年の意識が覚醒した時、目の前には白衣を着た眼鏡の男性と自分より少しだけ年上に見える少女がベッドの傍にいた。
声をかけられ、名前を名乗り、アイギスと共にデスと戦ったことを話した時、白衣を着た眼鏡の男性こと幾月修司は酷く驚いていた。
(ああ……助かる方法を考えなきゃいけないのに、昔のことを思い出すなんて。これが走馬燈ってやつなのかな……)
自分はただ記憶にある事を話しただけだというのに、どうして幾月が驚いたのか少年には分からなかった。
しかし、その後に幾月と一緒にいた少女である幾月玖美奈から、自分が本物の百鬼八雲の細胞を使って作られたクローンだと伝えられた事で、幾月が驚いた理由にも納得がいった。
当時の八雲は小学生でしかなかったものの、羊のクローンがニュースで話題になった事もあったのでクローンがどういう存在かは知っていた。
詳しい作り方を知らなくても、クローンが一種のコピー人間であり、オリジナルの記憶をコピーは持っていないと知っていれば自分の存在が如何におかしいかは理解出来る。
ただ、少年はオリジナルの記憶を持っているからこそ、自分こそがオリジナルでもう一人がクローンなのに勘違いしているのではという疑問を抱いた。
自分の正体を説明してくれた玖美奈も、少年から疑問をぶつけられた父の答えを待つように黙っていた。
だが、幾月は首を横に振って少年がクローンで間違いないと返した。
何でも、オリジナルはエルゴ研の中で保護されていて、少年はクローンの作成を依頼した企業の人間から身柄を受け取って直接隠れ家に連れてきたため間違えようがなかったのだとか。
(まぁ、ショックは大きかったな。記憶と自我が自分を百鬼八雲だと伝えているのに、自分の正体が何故かオリジナルの記憶を持ったクローンである事が確定しているんだ。本当に、あの時は頭がおかしくなりそうだった……)
臓器や細胞にも記憶が宿るという説がある。
医学的には解明されておらず、あくまで臓器移植を受けた患者に臓器提供者の記憶や味の好みなどの影響があった例が確認されているという一種の都市伝説に過ぎない。
けれど、名切りの一族が持つ特異体質を知らなかった少年は、幾月が話したそういった内容を自分に当てはめて、奇跡的にオリジナルの記憶と人格を手にした存在だと信じるしかなかった。
そして、そんな話をしてくれた者たちが、国際的に禁止されている人間のクローン製造という禁忌を犯した者だと理解しても、幼い子どもでしかなかった少年は生きていくために彼らと共にいるしかなかった。
(最初はどうして自分なんかを作ったのかって恨んでた部分もあった。……でも、姉さんは僕を弟として扱ってくれた。幾月さんも最初から自分の目的を教えてくれて、だから、僕はそれがある意味では悪い事だと理解しながらも恩人の願いを叶える手伝いが出来ればと思ったんだ)
二人の目的は世界の理の改変。
今ある世界を壊し、命と死の概念を書き換えて、事故などというくだらない理由で殺された幾月茜と再び会おうとしていた。
死んでしまった大切な人と再び会いたい。その気持ちは百鬼八雲の記憶と自我を持つ少年も理解出来た。
彼にとってムーンライトブリッジで死んだ二人は両親ではない。
クローンである以上、父親は遺伝子を提供した百鬼八雲本人で、母親はその受精卵をお腹の中で育てて産んだ顔も知らない女性になる。
しかし、少年にとってはムーンライトブリッジで死んだ二人こそが記憶の中にある両親なのだ。
知らない場所で目覚めてから、少年はその記憶の中にある両親に会いたがった。
言葉には出さず、あくまで心の中でそんな風に思っていたに過ぎないが、幾月はそんな内心を理解していたのか、世界の理が変われば少年もその両親に会えると伝えてきた。
(世界にとっては幾月さんの願いは邪魔なんだろう。今の世の中を壊す以上、当然、大勢の犠牲者が出る。そんな事は僕も分かってるさ。でも、彼らには他に選べる道なんかなかったんだ)
死んだ人間は蘇らない。
死は永遠の別れだ。
そんな事は誰だって知っている。
幾月も、玖美奈も、少年だってそんな事は昔から分かっていた。
ただ、理性でそれを理解していようと、感情までそれに従って認められる訳ではない。
(タイミング悪くオリジナルが意識を取り戻したせいで入れ替わる事も出来ず。かといって、脱走したやつらの動きが読めなくて僕は表舞台に立つことも出来なかった。そんな何の役にも立てない僕に二人は優しくしてくれた)
いつまでも目覚めないオリジナルに代わり、ペルソナに関わる研究に携わって協力して行く事が最初に少年に与えられるはずの仕事だった。
何せ、少年は目覚めてすぐにペルソナを召喚して見せたのだ。
ペルソナは心の鎧であり、オリジナルの記憶と自我を持っているのであれば、心の在り方も同じだとして同じ力を持っていても不思議ではない。
そして、その仮説通りに少年は百鬼八雲と同じオルフェウスを召喚して見せた。
これで、後はオリジナルと入れ替わるだけだと、彼を預かっていた飛騨の目を盗んで少年がエルゴ研に向かうタイミングを計っている内にオリジナルが目覚めてしまった。
少年が入れ替わっていれば、エルゴ研の設備を利用して色々と研究する事が出来たというのに、ここでもまた計画に狂いが生じてしまう。
これで少しは恩が返せると思っていた少年にとって、ただでさえ疎ましく思っていたオリジナルに自分の計画を邪魔された形だ。
百鬼八雲本人にそんな自覚はないだろうが、思えばあの時から自分は邪魔され続けてきたんだと少年の心に再び怒りの火が灯る。
(百鬼八雲、お前にも救いたい世界が、守りたい人たちがいるんだろう。だが、それはこちらも同じ事。世界を滅ぼそうとする僕たちは確かに悪なんだろう。それでも、それでも僕は、この人たちのために戦うと決めたんだっ)
感情が昂ぶるとそれに呼応するように全身の感覚が戻ってくる。
冷たい空気に晒され身体は冷えているが、それに反比例して心の炎は激しさを増していた。
勝てる勝てないじゃない。この腕の中にいる大切な人のために自分は戦う。
自分が何のために戦うのか。それを再認識した少年は、オリジナルに対する劣等感から抱いていた怨みで戦っていた時よりも力が溢れ出てくるような気がしていた。
「ゴメン、姉さん。頑張って勝つから、絶対に姉さんたちの願いを叶えて見せるから」
「……ええ。だから、一緒に戦いましょう?」
「……うん」
少年が腕の中にいる玖美奈に決意を告げれば、目を覚ました少女から言葉が返ってきた。
彼女が無事であった事が嬉しい。そして、何度も迷惑をかけたというのに、まだ自分と共に戦ってくれる嬉しさと申し訳なさから涙が出そうになった。
だが、今は泣いている場合じゃない。段々と近付いてくる海面を見ながら少年は少女と共に呟いた。
『 ペ ル ソ ナ 』
心を通わせ共にあろうとする二人の想いに力が応える。
顕現する力は二人を包み込み、天を突くほどの巨大な闇色のペルソナがその姿を現わした。
頭部には反り返る二本角、背には身の丈以上の幅を持つ翼、そして闇色の身体の表面で燃え続ける青い炎。
突如海上に現れたそれは、古い書物に書かれる悪魔の姿を持つ怪物だった。
***
海に向かって落ちてゆく結城理と玖美奈の力が共鳴したかと思えば、次の瞬間に馬鹿げた力の発露を感じてその場に巨大な悪魔が顕現していた。
空からそれを見ていた湊は、相手の力を解析しながら自分と真逆の召喚法だと少々感心していた。
(……成程、力の譲渡ではなく“共鳴”なのか。二人で一体のペルソナを生み出す。変わった召喚方法だ)
外から見た限りでは二人の姿は一切見えない。
アナライズ等で解析して初めて心臓辺りに二人の気配を僅かに感じる事が出来る。
通常、人間の気配が僅かにしか感じられない理由として挙げられるのは、一つはそもそも生命力が極端に弱まっている状態にある。端的に言えば死にかけている状態である場合。
もう一つは、何かしらの力で気配を隠蔽して隠れている場合だ。
しかし、二人はそんな事はしていない。何せ一緒に超大型ペルソナに包まれるように姿を消したのだ。
湊のセイヴァーのような転移系の能力を持っているペルソナでもなければ、居場所が分かっている状態で気配を隠蔽する意味などない。
ペルソナを呼び出せるだけの力が残っていて、さらに気配隠蔽も使っていないとなれば、二人の気配が僅かしか感じられない理由で湊に心当たりがあるのは一つしかなかった。
(……あいつらも同調率を上げる事が出来た。となれば、二人の気配が僅かしか感じられないのもそれが理由だろう。完全に同調した訳ではないが、ほとんどペルソナ化している訳だ)
二人も湊と同じように同調率を上げてペルソナで飛行出来ていただけあって、ペルソナとの同調率を上げる方法やそれの行き着く先も理解していたのだろう。
玖美奈と理は同調率を限界まで上げて、ほぼペルソナその物になっていた。
完全に同調した訳ではないと言っても、九割以上ペルソナになっているので、自分の身体とペルソナの肉体を動かす感覚にほとんど齟齬など感じないに違いない。
湊自身もペルソナと完全同調した事はあり、意識は自分のままだったので再び自分に戻る事が出来たが、同調している間は違和感が全くない事に逆に違和感を覚える不思議な状態だった。
ただ、その時の湊と理たちではやっている事は同じであっても状況がまるで違う。
何せ二人は共鳴した状態でそれをしてしまっているのだ。
共鳴はただ力の波長を合せれば出来るというものではない。
心と意識と呼吸を合わせて、どこまでも自分たちが一つの存在であるかのように存在の境界を曖昧にする事で初めて成し遂げることが出来る境地。
それ自体が一種の極みであるというのに、理たちはその状態のままに同調率を上げてペルソナ化してしまった。
共鳴している二人は自己と相手との境界が曖昧だ。下手をすれば同調を解除した際に存在が混ざる危険がある。
(追い込まれてそうなったのか。何も考えずにそうなってしまったのか。ま、恐らくは後者だろうな)
海底を踏み締め、足首が海に浸かっている炎纏う悪魔は、両腕と翼を大きく広げて空を見上げると咆吼をあげる。
《オォォォォォォオオオオオオオオ――――――――ッ!!》
悪魔の咆吼に大気が震え、敵の周囲の海面も荒々しく波が立っている。
相手は全長百メートルを超える馬鹿げた大きさだが、湊はそんな相手の頭がある位置よりも遙かに高い場所で滞空していた。
背中からは虹の光を放出して作られた翼が広がっているため、暗い影時間の空では非常に目立っている。
空を見上げた事で悪魔も湊の事を見つけたのだろう。その咆吼には明確な敵意が籠もっていた。
敵である以上は戦わねばならない。それは湊も分かっている。
けれど、湊はこの巨大な敵と戦えば街に被害が出るなと、先に街を守るための手を打っておく事にした。
上空で湊が腕を振れば、街の海岸線に半透明な蛇神の骨が展開する。
全体をカバーする事は出来なくとも、蛇神は街を覆い尽くすほどの全長を持つペルソナだ。
身体を伸ばせば余裕で数キロに達するので、津波などが発生した時にはその身体を緩衝材にすればある程度の被害は防げるだろう。
そうして、蛇神の骨の展開が終わったタイミングで、悪魔が右腕を大きく引き絞ってから空にいる湊に向けて突き出してきた。
拳を突き出した勢いのままに烈風と青い炎が天に向かって噴き上がる。
あまりの熱量に炎の周囲の像が歪んで見え、青いのが魔法的な視覚効果によるものではない事が窺える。
無論、湊もそれをまともに受けるつもりはなく、セイヴァーの翼を軽く羽ばたかせてその場から移動して攻撃を回避する。
(問題は今のあいつらの意識がどの程度あるかだな)
攻撃を躱してから湊は展開していた短剣型のビット兵器を回収し、セイヴァーを通常モードに戻す。
セイヴァーの神格化は戦士でありながら将としての能力も持つ湊の能力を全開で使うためのハイコストモードだ。
戦場の支配。個で群として動いて敵を追い詰める。そんな矛盾した戦い方を実現可能にするだけあって、消耗も激しい。
七熾天の効果で増幅させた力は実質無尽蔵であっても、湊個人の脳や肉体への負担までは無くすことは出来ない。
そのため、敵がデカい的になった今の状態で神格化を維持する必要性を感じず、湊は通常モードに戻してから対シャドウ兵器化したライフル銃を敵に向けて引き金を引いた。
銃口から放たれるは蛍火色の閃光。上空から一直線に伸びていく浄化の光が悪魔の左肩に直撃する。
その光は命の光。死への想いを基点に召喚されたペルソナであれば、光を受けた時点で死への想いにノイズが走って存在を維持出来なくなる。
これで共鳴も中断して悪魔の召喚前まで状態が戻れば良いが、と湊が様子を探っていれば、攻撃を受けた悪魔が僅かに怯んですぐに右手を大きく横薙ぎに振るってきた。
悪魔の右手の爪から斬撃が飛び、五発の斬撃を湊はその場で旋回して全て躱し続ける。
敵の攻撃を躱し続ける間も、何故浄化の力が効かなかったのか湊は考える。
(ダメージは通っていた。攻撃が直撃した部分は輪郭がぼやけた状態になっていた。だが、それだけだ。傷口は既に再生していて行動に支障もない。まぁ、実際破壊の力ではないからな。何かしらの耐性を持っている場合は効かない事もあり得るのか)
広げた悪魔の黒い翼から無数の炎の飛礫が飛んでくる。
それらをセイヴァーが手にした先が二叉の分かれた金色の槍で弾きながら、時折拳撃を撃ち出して反応を見る。
セイヴァーの放つ浄化の力は回復魔法を攻撃に転用しているようなもので、無理矢理に破壊の力に変換して攻撃に使っているものの、相性で異形を殺しているに過ぎない。
眼下にいる悪魔にも効かない訳ではなく、やはり異形に対しては絶対的に優位な力である事は間違いない。
ただ、あの悪魔には浄化の力の効きが悪いようで、一度に全身を攻撃するでもしない限りは無事な他の部位で存在を補完して再生してしまうらしい。
効かない訳ではないため、一時的に行動を阻害する牽制として使える。
だが、戦闘には通常のスキルなど破壊を目的とした力を使う必要がある。
そう判断した湊が攻撃を当てて反応を探っていれば、敵が腰を落して足に力を溜めながら黒い翼を羽ばたかせているのを見て、その巨体で飛んでくるのかと僅かに驚いた。
元々、ペルソナはシャドウと違って宙に浮くことは出来る。
その特性などで空中の機動に差はあれど、百メートル級の超巨大ペルソナが飛べても不思議ではないのだが、五十倍近い体格差の敵と空中戦など面倒でしかない。
(なら、こっちも相手と同じ土俵で戦うとするか。その方が有効な攻撃手段も多いだろう)
作戦を決めるや否やセイヴァーが消えて湊の周りで赤と黒の光の奔流が生まれる。
その間に飛び上がってきた悪魔が一気に距離を詰め、青い炎を纏った腕で彼がいた場所を殴りつけようとした。
だが、悪魔の拳が彼のいた場所に振り抜かれようとした時、湊を包んだ赤と黒の光の奔流の中から悪魔の物と同等のサイズの黒い腕が伸びてきた。
光の中から現れた黒い肌を群青色の外殻で所々覆った腕は、今まさに襲いかかろうとしていた悪魔の拳を掴んで受け止める。
そして、光の中から鮫を思わせる鋭い牙と黄色の瞳を持つ頭部が現れれば、空へと上がった悪魔の前には同等の体躯を持った龍人の姿がそこにはあった。
《グオオオオオオオオオオオオオオ――――――――ッ!!》
光の奔流の中から現れた龍人、永劫“セルピヌス”は、敵の拳を掴んでいた手に力を込めると相手を逃がさぬように固定する。
拳を掴まれた悪魔は身体を覆っている青い炎を使ってセルピヌスへの攻撃を試みるも、龍翼を羽ばたかせて勢いをつけたセルピヌスが敵ごと落下を開始し、遙か上空から真っ直ぐ敵を海へと叩き付けた。
大質量が落下してきた事で落下地点を中心に津波が発生し広がっていく。
悪魔の纏っている炎が海面に触れた途端、視界が数秒塞がれる程の蒸気も発生した。
大津波と白い蒸気が同時に周囲へ広がろうとすれば、先に展開していた蛇神の骨が衝撃波を起こして津波を起こして発生したばかりの大津波にぶつける。
同等の威力を持った攻撃をぶつけることで相殺を狙えば、狙い通りに悪魔とセルピヌスの落下で発生した大津波の勢いがほぼ削がれた。
蛇神の骨による街の防衛も無事に機能している事を確認し、敵の拳を掴んでいたセルピヌスはそれを離して大きく後ろに飛んで着地した。
拳を解放された事で自由になった悪魔も身体を起こして立ち上がれば、百メートル級の巨躯を持つ二体のペルソナが対峙する。
一瞬の静寂が流れ、次の瞬間、二体のペルソナが飛ぶように距離を詰め、両者の拳が空中で衝突した。