2月18日(木)
放課後――月光館学園
先週末にポロニアンモールで美紀と出会ったアイギスは、彼女が何を伝えたかったのか考えていた。
自分でも何かが気に掛かっているような感覚はずっと覚えている。その自覚はある。
ただ、それがどういった事柄に関するものなのかが分からず、他の者に相談すると言ったもののテスト前という事もあって未だ相談出来ずにいた。
そんなアイギスは放課後になってテスト勉強のため図書室へやって来ていた。
別に寮の私室で勉強しても良いのだが、ここならば授業で使う資料なども置いてあるため、分からない部分について調べやすいという利点がある。
何より、テスト前という事もあって図書室には他の生徒も勉強しに来ていた。
プライベートスペースで一人だと気が散りやすい者にとって、勉強以外に出来る事がなく周りにライバルがいる状況というのは勉強に集中しやすい。
本格的には勉強していなくとも、テストの時に提出する課題に取り組むだけでも集中によって大きく理解度の差が出る。
特別勉強が得意という訳でもないアイギスには、勉強の質や密度を上げるこういった方法の方が合っていた。
歴史科目のプリントで穴埋め問題の答えを探すため、アイギスは資料集のページを捲りながら考える。
(わたしが何かを忘れている……美紀さんはそれが何かを分かっている。でも、わたしと彼女にはそれほどの付き合いはありません)
見つけた答えの載っているページに目を通して、その出来事の起こった経緯について把握しながら彼女はプリントにペンを走らせる。
授業の板書を写したノートに書かれていないため、これが実際にテストに問題として出るかは微妙なところだ。
ただ、テスト範囲の歴史の流れについて考える上で、それなりに重要ではあるため配点を少なくして選択問題としてなら出るかもしれない。
筆箱の中から蛍光色の付箋を取り出すと、アイギスは一枚剥がして資料集のページにそれを貼り付けた。
目は資料を追って、手はしっかりと勉強をするため動いている。
けれど、アイギスの心は先日の美紀との会話について考え続けている。
そもそもの前提として美紀はアイギスの友達ではない。彼女は姉であるラビリスの友人で、その伝手で知り合った同級生というのが彼女の中での認識だ。
学校で会えば挨拶をするし、先日のように街中で偶然会ったときも言葉を交わしたりはする。
もっとも、本当にそれくらいの付き合いでしかなく、買い物に一緒に行った事はあるが姉や寮の友人らも一緒にいたので、美紀個人とそれほど深く会話はしていなかった。
どうしてそんな美紀があの時はアイギスに話しかけ、あんなにも何かを訴えかけるような様子だったのか。
本当に何かを言いたいのであれば、姉であるラビリスをはじめとした部活メンバーたちに伝えればいい。
彼女たちは中等部時代からの付き合いで、部活の合宿で一緒に泊まりの旅行へ行ったりをしている。
普段から仲も良さそうなので、深い悩みであっても全員で真剣に考えてくれるに違いない。
美紀の言葉を信じるのであれば、アイギスがここ最近引っかかっているこの感覚は、彼女だけでなくラビリスやチドリに寮生らも無関係ではないらしいのだ。
だからこそ、どうして現時点で彼女は付き合いの薄いアイギスにしかそれを伝えていないのか疑問が残る。
(美紀さんがわたしに話しかけたのは偶然? 本当は誰にも伝える気はなかった?)
もしかすると、本当は誰にも伝えるつもりがなかったのかもしれない。
アイギスに話したのは、偶然出会った際、彼女が話さずにいる事柄について少しでも違和感を抱いていたからなのだろうか。
といっても、アイギス自身、自分が何について引っかかっているのか分かっていないのだ。
彼女は思い出せと言っていた。であれば、アイギスは当然として美紀が相談すべきと言っていた者たちにも共通した事柄の記憶に違いない。
もっとも、寮生だけでも、二年生だけでも、姉の所属する総合芸術部だけでもない共通の思い出などアイギスには心当たりがない。
寮生の話をするなら、同級生はそれなりに話をしたりもするが、三年生たちとは付き合いが薄い。
ゆかりなどは美紀経由で知り合った真田と荒垣とも話をしているし、以前から知り合いだったという七歌と美鶴も話しているのを見かける。
アイギスも会えば挨拶をするので、仲が悪いという訳ではないのだが、それほど親しくはない。
寮生でもない総合芸術部の者と桐条美鶴などほとんど接点がないと言っても良いだろう。
そんな者たちが全員関わっている事とは一体何なのか。どうして美紀はそれを自分たちに話せないのか。
悩んだアイギスはペンを置くとふうと静かに溜息を吐いた。
(分からない……。美紀さんの目的も、何をどうしたいのでしょうか。思い出すだけで良いのか。それとも、その先に何かがあるのか……)
彼女の言葉で最も印象に残っているのは、自分たちが思い出さないと“報われない”存在がいるという事だ。
言い方からすればそれは人物だと思われる。
その人物が何かをしてくれて、それなのにアイギスたちは忘れてしまっている。
だから美紀はその人物の事を思ってあんなにも泣きそうな顔で思い出すよう頼んできた。
相手はアイギスたちに思い出して貰おうとは思っておらず、恩に着せようなどとは考えてすらいないのかもしれない。
しかし、事情を知っている美紀にはそれが耐えられなかった。相手を哀れに思ったのか、それともアイギスたちの不義理に憤ったのか。
恐らくは前者だと思うが、十人以上いる自分たち全員がそこまで恩義を感じるべき事を忘れている事に新たな疑問が湧いた。
(わたしたちは何を忘れているの?)
アイギスが何か違和感や引っかかるものを感じるようになったのはここ最近だ。
だとすれば、思い出すべき記憶はそれと近い時期にあったことだと思われる。
目を瞑り、何かあっただろうかと記憶を遡る。
そんな大勢で参加した出来事など学校行事くらいしか思い出せないが、学校行事だとまとまって参加というより個別に参加している感が強い。
直近では大きなイベントだった修学旅行はもっと前で、その行事に初等部の天田は参加していないので対象外。
では他に何かあるかと考えてみるが、本当に何も思い付かずアイギスは勉強の手を止めた。
(美紀さんの言う通り相談するしかないんでしょうか。分からない。思い出せない。一体誰なの? 貴方はわたしたちに何をしてくれたの?)
いくら考えても心当たりがない。自分一人ではどれだけ悩んでも無理なのだろうかと再び溜息が溢れる。
自分の知らない誰か。恩人と思われる誰かのことを思い出せないのはとても悔しい。
心の中でぼんやりとした人影を想像し、姿の見えない相手に手を伸ばす自分を想像して、イメージから記憶を手繰り寄せようとしてみた。
こんな事をしても意味はない。そんな簡単に思い出せれば苦労はない。
あまり集中出来ていないため、諦めて今日の勉強を終えようかとアイギスが閉じていた瞳を開けようとした時、思考にノイズが走ってぼんやりとした人影に一瞬だけ色がついた。
(っ……今のは?)
本当に一瞬の事だったのでそれが誰なのかは分からなかった。
ただ、髪の長い人物が黒いマフラーを巻いていたのだけは見えた。
これが美紀の言っていた相手なのか。記憶が新鮮なうちにもう一度先ほどの光景を思い出そうとするが、思考が定まらずどうしてか上手く思い出すことが出来ない。
むしろ、ほぼ唯一と言える見えた物の記憶すらも急速に忘れそうになる。
ダメだ。このままでは記憶が消える。アイギスは咄嗟にペンを取って“長い髪”“黒いマフラー”とメモを残して“忘れるな”との注意書きも書いた。
それをギリギリ終えると、もう既に先ほど見えたはずの光景は全く思い出せなくなった。
こんな事はあり得ない。夢だって起きてから少しは覚えていられるというのに、ここまで急速に自分の記憶から消えるのは不自然に感じる。
(……これがわたしたちが忘れてしまった事なの? どうしてこんなに覚えていられないの?)
人影が見えた事だけは覚えていられたが、性別や髪型、服装すらどんな姿だったのか思い出せない。
まるで本能がそれを拒んでいるかのように、思い出そうとすると、それついて考えようとすると思考が鈍ってゆく。
このままでは忘れた記憶の中にいる人影が見えた事すらも思い出せなくなるかもしれない。
アイギスは荷物をまとめるとすぐに図書室を出て、先ほどの取ったメモを携帯で撮影すると待ち受け画面に設定した。
こうしておけばメモの存在を忘れても大丈夫。自分がこれを意識出来なくなったとしても、待ち受け画面を見た者が反応して、それを切っ掛けに自分も思い出せるかもしれない。
今の自分の身に起きている不思議な現象によって、美紀の言葉が真実である可能性が高まったと思ったアイギスは、他の者たちに相談する前にまずは美紀に連絡を取る事にした。
姉経由で出会った時に連絡先は交換している。図書室を出て生徒玄関へ向かう途中に電話を掛けると、コール音が数回鳴ってから相手が電話に出た。
《はい、もしもし?》
「美紀さん、少しお尋ねしたい事があります。先日話してくださったわたしたちが忘れた記憶に関する事です」
単刀直入に話題を切り出せば、電話の向こうから聞こえる相手の息遣いが少し固くなった。
相手もどこか必死だった様子から、彼女自身にとってもかなりデリケートな問題なのだろう。
ならば、自分たちが思い出す事にもある程度なら協力してくれるはずだと、アイギスは既に思い出せなくなった記憶の中の人影について美紀に質問した。
「図書室で勉強しながら考えていたとき、思考に一瞬ノイズが走ったんです。その時、見えた人影について確認したい事があります」
《……私に答えられる事でしたら》
「正直に言えば、一瞬だけ輪郭がハッキリしたようなもので、既に見えたはずの光景は思い出せなくなっています。あまりにも急激な事で、それについて考えようとすると思考がぼやけるので、心理的なものかは不明ですが、その記憶について思い出さないように反応している節があります」
この思い出せなくなっている状態が本能や忘れた記憶の中にある何かの働き掛けであれば、それはアイギスの脳自体が思い出すべきではないと無意識に制限しているのだと思われる。
目の前で凄惨な事故を見てしまったり、身内の不幸によって心の平穏が崩れたときには、心を守るためにそういった事が起きるという。
もしも、これがそれと同じ物ならアイギスは記憶を取り戻すべきではないのかもしれない。
思い出しても不幸にしかならないとすれば、忘れていた方が幸せでいられるはずだ。
美紀に説明しながらアイギス自身もそういった可能性についてしっかりと考えたが、彼女は結局前に進む道を選ぶ事にした。
「それでも、わたしは忘れた記憶があるなら出来れば思い出したいと思いました。ですから教えてください。一瞬だけ見えた光景に関するメモで、“長い髪”“黒いマフラー”、これらはわたしが忘れた記憶に関係していますか?」
これで関係ないと言われれば話は振り出しに戻る。
そんな状況で他の者に相談しても意味はないので、美紀からの返答によっては姉や寮生らへの相談も中止しようと思った。
そして、アイギスが尋ねてから少し間が空き、一体どちらだとアイギスが焦れ始めた時に答えが返ってきた。
《……関係しています》
「間違いないですか?」
《はい。特に黒いマフラーはあの人のトレードマークでした》
「分かりました。ありがとうございます」
ヒントは得た。アイギスはすぐに先ほどのメモを取り出して、黒いマフラーの方に相手のトレードマークという情報を書き込む。
それを再び写真に撮って待ち受けに設定すると、アイギスは他の者たちに相談するため、忘れた記憶を思い出そうとしながら寮へと帰っていく。
大したヒントではないが切っ掛けにはなる。これを足掛かりにどうにか思い出してみせる。
気合い十分に帰っていくアイギスは、モノレールに乗ってからもずっと記憶を思い出そうと考え続けた。
だがしかし、その途中、アイギスが記憶を思い出そうとするほど思考に再びもやが掛かり、巌戸台の駅に着いた頃には“寮生らに相談する”ということ自体を忘れてしまっていたのだった。