影時間――屋敷
世界が緑色に塗り潰された頃、屋敷の二階の一室で、カチューシャ状のヘッドギアを頭に付け、様々な機械とケーブルで繋がった少女が一人寝ていた。
肩よりも短めの艶のある黒髪、くりっとした大きな瞳、スレンダーな体型をしているため幼く見えるが、顔つきはどこか大人びている。
彼女の名前は
そして、影時間だというのに象徴化していない恵は、身体でほぼ唯一と言っていい、自由に動かすことの出来る目で窓の外を見ようとした。
(あーあ、久しぶりに影時間に目が覚めちゃった。影時間だと虫の声も聞こえないから、本当に退屈なのよね)
心の中で独りごちる恵は、生まれつき身体に麻痺があって自由に動くことが出来ない。
見ることと聞くことは可能だが、口が上手く動かせないので話したりも出来ないのだ。
生まれたときからそれが普通であったため、両親が思っているほど自分の境遇を不幸には思っていない。
確かに、退屈だとか、不便であると感じることもなくはないが、機械で脳波を読みとって窓を開けることやベッドを起こす事が出来るので、外を眺める事は出来るのだ。
もっとも、それらの機械は黄昏の羽根など積んでおらず影時間にはストップしてしまうので、今の恵に出来ることはない。
本当にごく僅かな期間だけだが、以前は、頭に付けているヘッドギアでネットワークを経由して、アイギスと会話をしたことや、彼女のアイカメラの映像を見ていたこともあったが、デスとの戦闘で中破して機能停止してからは、アイギスのアイカメラも動作していないので見ることが出来なくなっている。
(アイギス、まだ目覚めないのかな? 廃棄されたりはしないと思うけど。修理も難航してるってお父さんが言ってたし。エルゴ研が解体されてからは、屋久島にある桐条家の研究施設に移されたみたいだけど。心配だなぁ)
何故、彼女にそんな事が可能なのか。それは桐条の名士会に籍をおいていた、彼女の父親が桐条の研究に頼ったことが切っ掛けだった。
現代の医療では娘の麻痺を治すことが出来ない。脳波を読みとって動作するパワーアシストスーツを使えば、多少は自由に歩いたりも出来るだろうが、発音が出来ないため緊急時に助けを求められないことから、もしもの場合を考えると一人で動き回る事は出来ない。
そしてやはり、いくら機械に頼って動くことが出来たとしても、それは根本的な治療にはまるでなっていない。
広いコネクションを有する桐条のつてを使っても治療法が見つからず、最終的に恵の父が頼ったのは違法な研究をしていたエルゴ研の技術だった。
パピヨンハートに人格を形成させるためのプロジェクト、『七式特別制圧兵装開発計画』。それが恵の関わった実験の名称。
恵以外にも様々な子どもの脳波パターンを採取し、それらを組み合わせてアイギスという人格が生まれた。
その被験体の中で恵だけが参加する条件として、ネットワークを通じてリンクする事で、アイギスと通話することや、アイカメラの映像を観ることが出来るようになっている。
自由に動けないのなら、せめて外の世界を見させてやりたいと、父親がエルゴ研の人間に頼みこんだのだ。
神経ケーブルを使い、互いの脳がリンクするため、どのような影響が出るか分からないと言われていたが、実験は無事に成功し、恵は“初めてのお友達”を得ることが出来た。
(だけど、アイギスは何かと戦って……何の音?)
変な時間に起きてしまいなかなか寝付けず、昔のことを思い出していると、物音がしたような気がした。
しかし、それはあり得ない。アイギスとリンクするために適性を得た自分と違って、父も母も適性を得る処置を受けていない。
よって、影時間にこの屋敷で物音がする訳がないのだが、窓の方から音がしたとして目だけを動かしたところで、ソレを見つけた。
(人? え、なんでっ!? ここ二階だし、影時間よ!?)
全体的に暗い色の服を着た男が、窓枠という殆どないに等しいスペースに掴まって部屋の中を見ていた。
だが、どうやって上がってきたというのか?
この部屋は恵がいるということで、外から誰かが侵入したり出来ないよう、直ぐ下は脚立や梯子を立てられないデコボコになっている。
壁などにも掴まるのはおろか足をかけるスペースもないため、屋根以外からは伝ってくることができず。例え、屋根から降りてきたところで、窓は特殊強化ガラス製で割る事は不可能。
加えて、室内にある機械で窓の開閉を制御しているので侵入は無理だった。
(こ、怖い。でも、窓は開けられないし、大丈夫よね?)
自分は動けないので、あの男が入ってくれば一巻の終わりだ。
身体は麻痺で何も反応していないが、心には得体の知れない相手への恐怖が広がり、仮に声出すことが出来れば、恵は叫び出したい気持ちだった。
しかし、娘の安全のためにと両親が大金を注ぎこんだセキュリティが自分を守ってくれる。
そうして、どうにか平静を取り戻そうとしたところで、カチャン、と何かが開く音が聞こえた。
(っ!? どうして窓が開いたのっ、私は何も命令を出していない。というか、影時間には窓の開閉の機械は止まっているのに!)
部屋側からしか操作できないはずの窓が勝手に開いた。そんなことは今まで一度もなかったし、何より機械は動かないはず。
けれど、開いてしまったことで男は窓から入ってきて、ベッドに寝ている恵をジッと覗きこんできた。
(やだ、やだっ、怖い怖い怖い、誰か助けて! アイギス、助けて!!)
動けないことが、こんなにも恐ろしい事だなんて知らずに育った恵は、ただただ助けてと祈った。
すると、
「……お前、起きてるだろ。質問に答えろ。何故、お前からアイギスの気配がする?」
(……え? アイギスの、気配?)
急に話しかけてきた相手の言葉に、自分が直前にも考えていた友達の名前があり、恵は軽く困惑する。
質問の内容自体が理解しづらいが、それは自分が神経ケーブルでリンクしているからか。またはアイギスの人格形成の被験体となったことで、アイギスが自分に似た部分を得たからだと思われる。
しかし、理由を考えたところで、身体に麻痺のある恵は伝える手段がない。
それを黙っていると取ったのか、相手は蒼い瞳を暗闇で輝かせ首に手をかけてきた。
「答えなければお前を殺す。あんな大層な窓で部屋を守ってたんだ。お前も桐条の暗部に関わりのある人間のはず。さぁ、答えろ。何故、お前からアイギスに近い気配がするのかを」
(この人、窓の仕掛けにも気付いてっ)
麻痺のせいでほとんど分からないが、ぼんやりと触れられている感じはあるため、実際に相手は首を掴んで絞めているのだろう。
実際は黙っている訳ではないのだが、それを伝える事も出来ないため、恵はここで自分は死ぬのだと諦めた。
(あーあ、なんか呆気ないものだな……)
そう考えると恐怖は途端に消えた。
最後に、自分を殺す者の顔を見ておこうと目を動かしたとき、相手が同世代の少年であると気付いた恵は、暗くてよく見えないが既視感のようなものを覚えた。
無論、家族と医者以外にはほとんど会った事がないため、同世代と思われる少年の知り合いなど一人もいない。
テレビで見た芸能人の誰かに似ているのだろうかと考えてみたが、こんな不思議な眼をした芸能人など知らないので、その可能性は除外した。
(あれ、なんだろう。この人どこかで……)
「……お前、話せないのか?」
(ん? 気付いてくれたの?)
ぼうっと相手の顔を見て考えている間に、少年の手は首から離れていた。
このまま殺されると思っていたので、気付いて助けて貰えるのならばありがたい。
だが、どうして気付けたのだろうか。その事について考えようとしたとき、影時間は明けていないというのに部屋に灯りが点いた。
《嘘、まだ影時間のはずじゃあ!?》
「……脳波か何かで動かせる読み上げソフトか?」
《え? え、ええ、そうです。私、全身麻痺で話したり出来ないんで》
部屋の明かりだけでなく、室内にある全ての機械が使える状態になっていた。
そして、考えたことを読み上げさせる会話ソフトも起動していたため、スピーカーから棒読みの機械音声が聞こえてきたことで、少年は納得したように頷いている。
そのまま少年はしばらくベッドの恵と繋がっている機械類を眺めていたが、ある程度で興味を失ったのか、ベッドの傍の革張りの椅子に腰かけた。
《あの、どうして私が話せないって分かったんですか?》
「命の危険が迫っているときに一切動かない。極度の緊張状態で硬直しているのなら、そういった反応もあり得るが、お前は脈拍も正常で発汗もなかった。さらにいえば、少しずつ首を絞めているのに呻き声も出さないなんて普通では考えられない」
《そういった事に慣れている可能性もあるじゃないですか》
「……目の動きがおかしいだろ。命を諦めた目で俺を見ているのに、身体が生きようとしていないなんてあり得ない。諦めに至るまでに、絶対に反応を示すはずなんだ。だから、お前は理由があって反応を返せないと踏んだ」
そう言われたところで、恵は他者の身体に自分から触れた事がなく、どういった反応を見せるかというのも観察した事がないので分からない。
けれど、相手が自分に危害を加えるつもりがないことを理解したため。質問に答えてくれたお返しとして、自分もアイギスについての話をすることにした。
《あの、アイギスを知ってるんですか? もしかして、貴方も七式特別制圧兵装開発計画の被験者だったとか?》
「七式特別……? いや、聞き覚えもない。アイギスとは直接会って話したことがある。だから、知ってる」
《そうなんですか。えと、私が言ったのはアイギスの人格を生み出した計画なんです。私や他にも何人か対象者がいたんですけど、思考や脳波などを計測して、それらを元に“アイギス”という人格を形成したんです。ですから、似た気配を感じたのは、私がアイギスの元となった人格の一つだからだと思います》
素性も分からぬ見ず知らずの人間に、桐条の違法な極秘研究を話して良いのかは分からない。
話を聞いている間、相手は暇そうに椅子に座って受け答えをしているが、瞳が蒼から金色になっているなどおかしい点も多々ある。
けれど、どうしてだか、恵は相手を悪人だと思う事が出来なかった。
(というか、開発計画の被験者以外で、子どもがアイギスに会う機会なんてないはずなんだけど。親がエルゴ研の人間……ってこともないか。アイギスは起動してすぐに怪我して動けなくなってたし。……あれ? もしかして、この人)
被験体でも、研究員の子どもでもない。そんな人間がアイギスに会えるはずがないのだが、恵には一人だけ心当たりがあった。
アイギスが中破して戻ってきたあの日、リンクを繋ぐと何かと戦っているのを見て怖いと感じた。
そして、すぐにリンクを切ってしまったのだが、少ししてからアイギスが心配になって再びリンクしたとき、アイギスは一人の少年と話していたのだ。
記憶はおぼろげだが、あの少年といま部屋にいる少年を見比べるとどこか面影があるような気がする。
確信はないが、確かめるのならば早い方が良いと思い。恵はアイギスが幼い少年から聞いていた名前を呼んでみた。
《あの……八雲さん?》
「っ!? 何故、お前がその名前を知ってる?」
《ご、ごめんなさい。でも、貴方はあの日にアイギスと一緒にいた男の子ですよね? その、私はアイギスとリンクすることが出来るから、あの日も少しだけ見ていたんです。まぁ、怖くてすぐリンクは切ってしまったんですけど》
恵が名前を呼ぶと、警戒した様子で瞳を蒼くした湊が椅子から立ち上がった。
ただでさえ不審者で恐怖を抱いていたのに、重圧まで放たれたため、恵は動けないなりに焦って謝罪をすぐにしたが、相手の素性は判明した。
相手は約五年前にアイギスと共にいた少年と同一人物。
自身が世間話好きな中年の女性であれば、愛らしかった少年が、随分と美形に育ったものだと感心するところだが、生憎と恵はどういった顔ならば美形と言えるのかという感覚がない。
今まで接してきたのは大人の医者ばかりで、その他に人の顔を見る物はテレビくらいしかないので、同年代の異性に対する感覚がそもそも備わっていないのだ。
しかし、アイギスが短時間で心を開いていた相手ならば、自分のことをもう少し話してもいいと思えた。
ベッドも動かす事が出来るか確かめ、動かせる事が分かるとベッドの上体側を起こし、顔を心なし湊の方に向けて話し出した。
《先に自己紹介をしておきます。私は水智恵。運動も出来ないから身体は貧相ですけど、今年で中学二年生です。それで、全身麻痺は生まれつきなんです。原因を突き止め治療しようと、父も母も色んな医者にあたってくれたんですが、原因は結局分かりませんでした》
恵が話を始めると、湊は瞳を金色にして再び椅子に腰を下ろす。
重圧も薄れたので、雰囲気は怖いけれど、気を遣ってくれて優しい人だなと心の中で笑みを浮かべつつ、話を続ける。
《ならば、せめて外の世界を観れるようにと、父がアイギスの開発計画に参加させてくれて。このヘッドギアで神経ネットワークを通じてリンクすることで、通信による会話や彼女のアイカメラの映像を見ることが出来るようになりました》
「音声は?」
《あ、はい。音声も念話風に入ってきます。だから、どっちかというとテレビの中継を見ている感覚ですね。触覚や嗅覚は共有できませんが、映像と音だけはアイギスを通じて見聞きさせてもらえるので》
ヘッドギアと言えば大仰だが、実際は細いカチューシャと頭を一周するようにマジックテープで留めるベルトが巻かれ、カチューシャに色々と細いケーブルが繋がっているだけだ。
これを外すと、アイギスとのリンクだけでなく、窓の開閉や読み上げソフトを使った会話も出来なくなるため、恵にとってはまさに生命線だと言えた。
だが、湊が部屋に入ってきて影時間でも使用できるようになってから、ごく僅かに何かのフィルターを通しているような小さな違和感がある。
湊はこれを知っているのだろうかと、恵は考えたまま尋ねていた。
《あの、八雲さんがここに来てから電気が点いたりしたんですけど。これって八雲さんがしてくれたんですか?》
「ん? ああ、まぁな。それより、アイギスとのリンクと言ってたが、今もそれは出来るのか?」
《いえ、彼女の電源がオンになっていないことには。貴方も知っているかもしれませんが、彼女は五年ほど前から凍結されたままなんです。修理も難航してて、今は屋久島の研究所に収容されているらしいです》
「屋久島の? ……連れ出すか。いや、修理がまだなら意味がない。だが、五年も経ってまだ修理も出来てないんだぞ。そんなやつらに任せて良いのか?」
座ったまま手を組んで足に肘をつき、真剣な表情で考えこむ湊。
言葉の端々に危険な単語が混ざっているが、相手は不法侵入で、さらに一度は自分を殺そうとしてきた相手だ。
悪人ではないのだろうが、完全な善人という訳でもない。ならば、深くは考えない方が精神的にもよいだろうとして、恵は相手が考え事を終えるのを待って話しかけることにした
「……お前、アイギスの開発計画以外で桐条に関わっているか? 当主や桐条の研究員と今も交流があるかという意味だが」
《それはないですけど。お父さんは名士会の人間なので、集まりがあったときには参加しています。ですが、私が家にいるので、お母さんは家に残ったりしますから、そこまで深く関わってはいないですね》
恵の返事を聞くと、湊は再び黙って考え込んでしまう。
相手が何かを自分にさせようとしているのは、雰囲気から感じ取っているが、残念ながら出来るのは、アイギスの状態がどうなっているかと両親に聞くことくらいだ。
湊がどうしてアイギスに執着しているのかは不明。しかし、五年経っても修理できていない相手に任せて良いのかと、少し怒ったように呟いていた。
ならば、この少年は真っ直ぐにアイギスの事を想っているのだろう。
自分の初めてのお友達に、こんなにも立派に成長した騎士が存在するなんて、とても素敵な事だと恵は感じた。
そして、少しの時間が経つと。ゆっくりと立ち上がった湊がベッドまでやってきて、よく通る低い声で話しかけてきた。
「今後、お前には桐条側の情報を流す役目を負ってもらう。そんなに難しいことは頼まない。ただ、アイギスの状態について分かる範囲で報告し、宗家やその周辺で影時間関係の動きがあれば、その“動きがある”という事を俺に伝えるんだ」
《え? あの、私はここから動けないんですけど。話聞いてましたか?》
「それは俺が治療してやる」
《……はい?》
相手は何を言っているんだろう。もしも、表情を作ることができたなら、恵は口を開けてポカンとした表情をしていたに違いない。
だが、ベッドの脇に立っていた湊は、靴をアンクレットに変化させてベッドに上がってくると、恵の足を広げてその間に入り込んできた。
学校に通っていなくても勉強はしている。よって、今の状態が非常に危険だと思った恵は、心の中で大いに焦ってしまう。
《っ!? あ、あの、何をするんですか?》
「脳波を読みとれるなら、脳は電気信号をしっかりと出しているはずなんだ。だが、その経路が途中で切れているのか、または別の信号と誤認して正しく全身に送れていないため、麻痺という形で出ているんだろう」
《へ? いや、それは関係ないんじゃないかなっていうか。私なんか襲っても楽しくないでしょうし、止めた方が良いと思うっていうか。つまり何が言いたいかっていうと、本当に麻痺で動けないんで、いまさら変な事をして確かめる必要はないですよ?》
説得してやめて貰おうとするが、恵が話している間も、湊はマフラーをごそごそと触って青白く光る羽根を取り出して何かしている。
羽根を取り出したかと思うと、次にその羽根を恵の胸に押し付けてきた。
運動をしていないので、成長ホルモンも女性ホルモンもあまり分泌されておらず、はっきりと言って恵の胸は貧相だ。
にも関わらず、湊は今も本人の目の前で服越しに触り続けているため。麻痺で触られている感触はほとんどしていないが、こういう胸が趣味の人間なのだろうかと恵の中で湊の株が暴落していた。
「……よし。身体に変化は?」
《変化? いえ、不感症みたいなものですから――――っ!?》
話している途中で、スイッチがカチリと切り替わったかのような、そんな“変化”を感じた。
身体の中を何かが駆け巡る感覚。視覚と聴覚以外は痛みに対してであっても鈍かったのだが、そんな物は嘘だったと思えるほどの激痛と熱さに襲われる。
痛みも熱さも、生まれてからずっと知らなかった未知の感覚だ。
(いやだ嫌だイヤだっ、苦しい、こんな感覚は知らないっ、この人が私に何かしたの? 見てないで助けて、私を助けてっ!!)
どうして今になってそれを感じているのか分からないが、知識でしか知らない恵は、それらを“苦しい事”としか判断できず、その苦しいことから逃れようと、必死にもがいた。
そして、
「――――あああああぁぁぁぁぁっ!?」
恵は絶叫した。声を出すことが出来ない筈の少女が、声を出して叫んだのだ。
無意識に自分で大声を出しておきながら、恵は自分の内から響いた音に驚き、びくりと肩を震わせて叫ぶのをやめていた。
すると、一時的に状況を把握するだけの思考能力が回復し、先ほどまで感じていた苦しさが納まっていることにも気付く。
(あ、れ? 苦しさが消えた。というか、私いま声が出た?)
そんなはずはない。しかし、先ほどから荒い呼吸で無意識に肩を上下させている。
今まではこんな事はできなかった。ならば、先ほどの“苦しさ”が原因で声を出せるようになったのかもしれないと、恵は息を吐く様に少しだけ声を出そうとしてみた。
「あ、ああ、ほふぁ……ふあ?」
「……発声の仕方はまだ分からないだろ? それに、急に声帯を震わせたら、喉が炎症を起こしてしまうかもしれない。ゆっくりとリハビリをして、話し方や身体の動かし方を知れば良い」
言い終わると、湊は恵の足の間からどいて、相手の足を綺麗に閉じてからタオルケットをかけてやった。
直前までは変態的な行動をしていただけに、妙に紳士的なところがアンバランスだと感じるが、いまの恵はそんな事を気にしていられる状況ではない。
声が出せる。本当に弱々しくだが、手や指も動かすことができる。ぼやけたような触覚が、いまはまるで世界が変わったかのように明確に感じるほど機能している。
自分が自分でないようだが、初めて手にした身体の自由に、恵は生まれて初めての涙を流していた。
「あうっ……えあ……」
「声を出さない方が良いと言ったんだが……まぁ、いいか」
それから恵が泣き止むまで、身体を自由にまだ動かせない彼女に代わって、湊は濡れたタオルで涙を何度も拭いてやり。ただ黙って落ち着くのを待っていた。
***
《あの、ありがとうございました。それに着替えまで手伝っていただいて……》
恵が泣き止んだ後、相手が激痛を我慢した際に汗を掻いていたこともあって、湊は身体を拭いて下着とパジャマの交換もしてやった。
今までは、母親か介護士の女性にしか手伝ってもらったことがなかったので、同世代の異性に手伝って貰うのは顔から火が出そうになるほど恥ずかしかった。
けれど、身体の機能も徐々に回復してきて、泣くことや汗を掻くことが出来るようになったため、そのままでいれば身体を冷やし風邪をひくことになるだろう。
風邪をひけばもっと大勢に迷惑をかけることになるので、自分が恥ずかしい想いをする程度で済むなら、と湊に着替えを手伝って貰えないか頼んだのだ。
もっとも、娘の着ている物が、一晩明けてみれば変わっていたとなれば両親は驚くだろう。
その事に気付かぬまま、恵は血色のよくなった顔でぎこちない笑みと思わしき表情を作ろうとしながら、会話は機械に頼って礼を言った。
恵の手足を屈伸させてマッサージを施している湊は、その作業を続けながら静かに返す。
「別に構わない。それより、どこか違和感はあるか?」
《その、むしろ違和感しかないんです。でも、それは感覚が正常になったってことだと思うんで、全身にそれがある以外は何も問題はないと思います》
「まぁ、一月もすれば慣れるだろう。リハビリはこんな風に足や腕を曲げることや、今まで使っていなかったせいで発達していない筋肉を鍛えることから始まる。感覚が戻ったことで、痛みも過敏に感じるかもしれないが、どうにか耐えてくれ」
口調は淡々としているが、自分を気遣って励ましてくれていることは分かる。
マッサージされている部位から感じる刺激が、どこか心地良く思っている自分もいて。不器用だが優しい人なのだなと恵は心の中でくすりと笑った。
そして、二人の間に静かなときが流れると、マッサージを受けたまま恵は尋ねた。
《あの、どうやって私の身体を治したのか聞いても良いですか?》
原因は胸を触られたことなのは分かっている。無論、胸を触られたことがトリガーのはずはないが、行為としてはそうとしか言いようがないので、恵も状況を把握できていない。
だが、両親があれだけ必死になって、様々な医者や研究者を当たっても、人間の身体はまだ解明されていないことが多いからと言われてきた。そんな原因も治療法も不明だった症状を、たったそれだけで治したのは事実である。
世間にこの治療法が公表されれば、それを騙って最低な真似を働く悪徳医師も現れるかもしれない。
そのため、正確に何がどのように作用して治療できたのかを知り、両親に聞かれたときにも教えてあげようと思って答えを待つと、少年は真っ直ぐ金色の瞳で恵を見ながら答えた。
「正確に言えば、あれは医療行為じゃない。現代科学じゃ解明できないオーパーツを利用した、疑似神経回路の構築なんだ」
《あの胸を触っていたのがですか?》
「……まぁ、そうだ。実際は、この黄昏の羽根というものを、お前の体内に入れていたんだが、それが神経の代わりに電気信号のやり取りをしてくれている」
答えながら湊はマフラーから青白い光を纏った羽根を取り出すが、胸を触っていたと言ったとき、僅かだが湊が眉を寄らせたのを恵は見逃さなかった。
本人は治療のためにやっただけで、胸を触っていたと意識していなかったらしい。
もっとも、着替えの際に全裸を既に晒し、汗を拭くときに身体中をタオル越しだが触られているので、今更なような気もするが、相手に女性の胸を触るのはよくない事という常識があるのならば良かった。
そう考えながら、さらに質問を続ける。
《神経の代わりにってどういうことですか? あのとき、すぐに苦しくなったんですけど、それも何か関係して?》
「俺の場合は羽根の形状のままで内蔵しているが、お前には細分化した光の粒状のまま、全身に散らばらせた。羽根は内蔵されると、物質と情報の狭間の性質を有したまま通常の方法では触れることの出来ない光の管で繋がって、他の臓器や細胞及び神経などとエネルギーのやり取りをする。その応用として、超微細なまま脳から各部の末端まで配置すれば、そのまま神経と同化するか、神経に似たネットワークを形成し、シナプスなどに干渉が可能になる。それらを利用してお前の脳から各部位に活動電位、つまりは腕を動かすだとかの命令の電気信号を送れるようになると思ったんだ」
(……どうして小難しい言い方で説明するんだろう?)
湊の説明は分かりづらい。今まではそれなりに噛み砕いて説明してくれていたというのに、説明が長くなると単純化を放棄するタイプなのかもしれないと考える。
だが、自分から説明を求めてそんな事を言えば、相手はそのまま帰ってしまうかもしれない。
そうして、恵が考えたのは、事実を混ぜつつもう一度説明し直して貰うという事だった。
《……済みません。私、学校行ってないんで、あんまり難しい説明は分からないんです。かなり単純に言って貰って良いですか?》
「……この羽根が、新しい回路を作るか、今まで切断されていた回路を繋ぎ直すかして、ちゃんと脳からの命令が全身に行くようにしたんだ。アナライズしてみたが、細胞レベルで同化しているみたいで、光の管は肉眼では確認できない状態だった。だから、精密検査を受けてもばれないだろうから、偶然何かで切れていた回路が繋がって、命令が正常にいくようになったと思われるだろう」
《あ、OKです。今度は分かりました》
初めの説明とは別の話も増えていたが、今度は注文通りに簡潔な内容になっていたのですぐに理解出来た。
話を聞いている間に練習していた、口の端を少しだけ上げる笑みで返すと、聞いた話を恵は自分の中で反芻する。
神経伝達の中で、どの部位に異常があったのかは不明だが、胸を触られたときに相手は発光する羽根をナノマシンとも言えるような状態にして己に投与した。
そして、それが今も身体の内部で補助してくれているため。自分は他の者と同じように身体を動かすことが可能となって、今後医者にかかったとしても異常として検知されずにいられるという訳だ。
(じゃあ、お父さんとお母さんにも、八雲さんが言ってたように偶然にも回路が繋がって治ったって言った方が良いかな。ていうか、むしろ、自分でもよく分からないって言った方が良いか)
自分のために一生懸命になってくれていた両親には悪いが、先ほどの話で相手は桐条に存在をばれたくなさそうにしていた。
ならば、その話をせずに済むよう、己の完治の過程に人の手の介入がない状態でいなければならない。
騙していることに心は痛むが、恩人への義理は果たす。決意を固めた恵は、先ほどの依頼も合わせて湊の言う通りにする事にした。
《当分はリハビリで精一杯だと思いますけど、動けるようになったら、八雲さんに頼まれたことをしっかり果たしたいと思います。桐条グループにばれないようにってことは、両親にもばれない方が良いんですよね?》
「ああ。当分の連絡は、俺が今日みたいに影時間に来る事で行う。自由に電話やメールが出来るようになれば、こっちの連絡先を知らせるから、それを使って連絡してくれ」
《了解です。あ、そうだ。このヘッドギアはどうしましょう? 治ってからも、これを使えばアイギスが起動しているかどうか分かると思うんですが》
しばらくはリハビリをしても動けないので、窓やベッドを操作できるヘッドギアを使う事になるだろう。
けれど、湊と自由に連絡を取ることが出来るようになったときには、普通のリモコンやスイッチで事足りるので、ここまで高性能な装置を使う必要はない。
その時には捨てることになるかもしれないで、湊が必要だというのなら、どんな事があってもアイギスと通信可能なまま残すことにしよう、とそう思いながら相手の返事を待った。
「なら、残しておけ。彼女が自分で設定した再起動の年は分かっているが、詳細までは分かってない。屋久島にずっといられたら、かなり集中して意識を向けて探知しない限り気付きようがないから、そっちは任せる」
《はい、任されました。あ、話は変わりますが、そろそろ影時間が明けると思いますが、帰りはどちらから?》
この短時間で相手の最低限の性格は把握している。
よって、この質問の答えも分かっているが、相手との会話を楽しいと思えるようになった恵は、意識的に会話を続けようとした。
「窓で良い。そっちの方が早い」
《あ、やっぱり》
「……分かってるなら聞くな。時間の無駄だろ」
《いえ、私にとっては大切な時間なんです。初めてのお友達は、いまも眠ったままですから。二人目のお友達ができて、会話が出来るってとっても嬉しいんですよ》
「友達なんて自由に動けるようになればいくらでも作れる。俺みたいなクズをそんな物と思うのはやめとけ。お前のためにならない」
影時間が明ける前に帰るつもりらしく、マッサージを終えた湊は、恵をベッドに寝かせてタオルを整えている。
その言葉を聞き、話している横顔を見て、相手は本気で自分をどうしようもない人間だと思っているのだと理解した。
だが、恵にとっては一生返せないほどの恩を感じている相手だ。それを、例え自分のことであっても、そのように言って欲しくはない。
表情はまだ上手く動かせないが、目だけで相手を睨んで恵は自分の気持ちを伝えた。
《見ず知らずの私を治療してくれた。そんな貴方が悪い人なはずがありません》
「……利用するためにだ。使えないなら、放っておいたさ」
《関係ないです。受けた恩を返すなんて当たり前ですから、私は一生を掛けてでも貴方のために働きます》
表情こそ動かせていないが、きつめの視線が緩んだ事で、恵はきっと笑顔で言っているのだろう。
確かに、原因不明の病を治して貰ったとなれば、一生涯ずっと恩を感じてもおかしくはない。
けれど、そういう関係で友人と呼称するのはどうなのだと、湊は呆れたように嘆息し、シャドウと同じ機械を操る力を使って窓を開けた。
「……恩や貸し借りで動くなんて、普通、友人とは言わないがな。面倒だから、どうでもいい。好きに言ってろ。俺は帰る」
《ベッドに寝たままの挨拶で済みません。気をつけて帰ってくださいね。もしかしたら、次は病院のリハビリ施設に入院してるかもしれませんが。私の掛かりつけは
「ああ、病院にいるなら、見舞いに香りの強い赤いユリの鉢植えでも持っていってやる。きっと病室が華やかになるだろうさ」
入院している者に持っていく見舞いの品では、いくつか縁起が悪いとされる物が存在する。
そして、湊の言った「香りの強い赤いユリの鉢植え」は、その縁起の悪い物の項目を四つも含んでいるかなり非常識な代物だ。
見舞いの品として咄嗟に思い付く物でもないため、相手は敢えて組み合わせて言ってきたのだろう。
それに気付くと、ぶっきらぼうな言い方と合わさって、湊の態度が俗に言う“ツンデレ”のようで可愛いなと、恵は本気で思ってしまった。
自分が表情を作れたなら、きっとこれ以上ないくらい緩んだにやけ面になっていたに違いない。それが相手にばれなくて良かったと、今だけは自分の身体の不自由さに感謝して言葉を返した。
《……八雲さんって天邪鬼ですね。褒められたり、感謝されたりに慣れてないんですか? なんか照れ隠しっぽくて可愛いですよ?》
「……フン、勝手に言ってろ」
《フフッ、はい。それじゃあ、お休みなさい。また来てくださいね》
恵の言葉を背中に受けながら、湊は窓枠から跳ぶとすぐにペルソナを使って空へと飛び上がって行ってしまった。
ベッドからではどの方角に去って行ったのか見えないが、少しすると窓が勝手に閉まったので、何も使わず遠隔操作も可能とは便利だなと呑気に考えていた。
窓が閉まると部屋の灯りや、他の機械が動作を停止するも、それほど待たずに影時間が明けた事で、恵もさして不安を感じることはなかった。
そうして、窓を操作し少しだけ開けて風を部屋に入れると、恵は外を眺めながら恩人の事を想い、心の中で呟いた。
(……そういえば、名前きいてない。なに八雲って言うんだろ? 次に会ったときに聞いてみよっと)
いつになるかは未定だが、次に会ったときの用事も出来た。
今からそれが待ち遠しいなと思いながら、風にのって届く虫の声を聞いて、恵は穏やかな気持ちで眠りについていった。
補足説明
水智恵はドラマCD「Daylight」「Moonlight」に登場する、アイギスの夢の中に現れる少女で、設定等はほぼ本文内に書いた通り。声優が同じことや、本人曰くアイギスより年下で妹に見えるらしいので、ペルソナ3Fesのメティスに近い容姿か原型になっていると思われる。
原作設定の変更点
キャラ名に少女としか書かれていなかったため、名前を水智恵に、年齢を湊の一学年上に設定。また、本来は病室から外に出ていない設定だが、本作では自宅で家族や介護ヘルパーに面倒を見てもらいながら生活している。