――簡易テント
レベッカの敗北後、湊が彼女の敗因を数点指摘していたのはスピーカー越しに聞こえていた。
それらはナタリアや部隊のメンバーが感情で動く彼女を指導する際に、何度も言ってきていたので、今回もまた馬鹿をやったのかと呆れるしかなかった。
だが、他の二人に対しての指摘も含め、湊の声色がどこか怒っているように聞こえたため、それを不思議に思っていた司令部にある呟きが届く。
《……イリスがこんなやつより弱かったことなんてあるはずがない。例え冗談でも、俺はそんなもの許さない》
それを聞いてナタリアも納得がいった。イリスは湊の言葉を聞いてキョトンとしてから、どこか嬉しそうに笑いを堪えているが、結局、相手はイリスを馬鹿にされたと思って怒っているのだ。
感情や思考の読みとれない相手だと思っていたが、こんな分かり易い弱点を持っているなら、どうにか今後も付き合って行けそうだ。
そう考え、今も口元を嬉しそうに歪めている隣の席の女に、呆れ顔のナタリアが声をかける。
「お宅のお子さん、随分と大人びているけど、まだ親離れが出来ていないようね」
「ん? ああ、まぁ、可愛いもんだろ? アイツ、結構キツイ目に遭っててさ。そのせいか、敵味方の区別が極端なんだ。ナタリアを“オバサン”って呼んだのも、アタシの知り合いだからって初めからほとんど味方に数えてるからでね。アイツなりの変わった甘え方なんだよ」
「まるで、母親を驚かせて喜ぶ子どもね。柱の陰に隠れて飛び出してきたり、二・三歳くらいの頃にあったでしょ?」
「ああ、あったな。まぁ、それにしては育ち過ぎてるけど、甘え方を知らないやつなんだ。だから、ある程度は大目に見てやってくれ」
ナタリアの例えにその通りだと共感しつつ、イリスは子どものすることだと思って欲しいと湊の行動を許してやってくれと頼んだ。
オバサン呼ばわりされた彼女自身、既にそんな怒りは抱いていなかったが、世界でも平和な国とされる日本で幼少期から仕事屋をやっている湊の経歴に興味が湧いた。
これからしばらく世話をするのだから、その分の報酬として少しくらいは聞かせて貰おうと、返事をしてから質問を口にする。
「それはいいけど。ボウヤってどんな経歴の持ち主なの? あの若さで武神と戦えるなんて普通じゃないわよ?」
仙道という男は銃も効かず、逃げようにも壁を破壊してでも追ってくるような相手だ。裏の世界では、仙道と仕事でかち合うなら、森で熊に遭った方がマシだと話す者もいる。
仕事でのスタイルが敵を撒くことに特化しているなら、逃げに徹して生き延びることも出来るかもしれないが、そんな敵と正面から戦って生き残った稀有な存在が、まさか日本の中学生だとは誰も思うまい。
故に、どういった経緯でこの世界に入り、どのような能力を持っていて仙道と戦って生き残れたのか、ナタリアの興味はそこに集中していた。
「ああ、説明するからちょっと待っててくれるか? バーバラ、館内放送で向こうと繋いでくれ」
「え? あ、はい」
ナタリアが湊について聞きたがるのは尤もで、イリスもそれを理解していたので、頷いてから説明する前に野暮用を済ましたいと告げる。
野暮用が何かは分からないが、そんな風にイリスがバーバラに通信を頼むと、隊員に配った通信機ではなく、施設内のスピーカーに直接通信を繋いで、バーバラはマイクを渡した。
「よーし。小狼、聞こえてるか? 全力でやっていいぞ。刀剣類の使用も許可する。ただし、斬っていいのは相手の武装までだ。ちゃんと出来るな?」
《……分かった》
館内放送を聞いた湊が、レベッカから奪った通信機で返事をしてくる。
キレる一歩手前までいっていると思っていたが、ちゃんと返事をしたことでまだ制御可能な状態だと確認できた。
それに満足気に頷き、イリスはマイクをバーバラに返して椅子に座り直すと、その直後、
《――――――――――ッ!!》
『っ!?』
湊の持っていた通信機から、絶叫とも咆哮ともつかない雄叫びが響いてきた。
通信機で拾える音量を完全に超えているせいで、インカムまで付けていたバーバラは頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け、通信機のスピーカーで音を聞いていたイリスとナタリアも顔を顰めて耳に手を当てている。
離れた場所にある簡易テントにいながらでも、この雄叫びによって空気が震えていることが分かる。
ならば、同じ施設内にいる状態で、バーバラと同じように通信機を耳につけていた他の隊員たちは、こちらよりも酷いダメージを負っているだろう。
最低でも通信機をつけていた側の耳は、しばらく使い物にならないはずだ。
「……通信はしばらく無理ね。バーバラ、相手の位置情報だけは正確に送って頂戴」
「りょ、了解です」
雄叫びが止んだ頃、馬鹿げた方法だがしてやられたと、ナタリアがバーバラに指示を出す。
そして、隠しカメラの映像から位置情報を把握し、それを隊員に送らせているナタリアの隣で腕を組んで笑っていたイリスが口を開いた。
「フフッ、無駄だよ。アイツが本気になったら、アンタが連絡して隊員らが見てる間に着いちまう」
「どれだけ広いと思ってるのよ。そんなのあり得ないわ」
「それがあり得るから言ってるんだ。本人は自分の一族のことを知らないからな、絶対に黙っておいてくれよ」
やや勿体ぶるように、だが、真剣な口調で念押ししてイリスはナタリアを見る。
一族と聞いた時点で何やら嫌な予感がしたが、訝しみながらもナタリアはそれにしっかり頷いて返した。
口の固さについて信用している相手がちゃんと同意したことで、イリスもようやく続きを口にした。
「アイツはな。最後の名切りにして、その正統血統だ」
「っ、名切りって鬼の一族の? そんな、その血は途絶えた筈よ」
イリスの言葉に耳を疑い、目を大きく開いたナタリアの顔には驚愕の色が浮かぶ。
バーバラは名切りについて知らないのか、首をかしげて不思議そうにしているが、ナタリアは名切りとその一族の結末を知っていたようで、イリスの言葉を信じ切れずにいた。
「アイツの両親は事故に巻き込まれて死んでる。そのとき、アイツも公的には鬼籍に入った。だから、その一族は滅びたと言われてたんだ。ま、実際はある施設に回収されていたんだけどな」
「ある施設?」
「悪いけど、そこら辺はアイツ自身が話さない限り言えない。ただ、アイツが名切りなのは確実だ。まだほんの片鱗しか見せてないけど、きっと驚くぞ。本気のアイツは物理法則も軽く無視するんだからな」
どこか自慢気に、そして楽しそうにイリスはそう言って隠しカメラの映像の映る画面に視線を戻した。
こうまでイリスが人を褒めるのは珍しい。だが、そんな者と私兵を戦わせている身としては、相手の言葉は全て誇張表現であって欲しいと思わずにはいられなかった。
***
「――――――――――ッ!!」
場の空気だけでなく、建物までも振動させるほどの雄叫びをあげる湊。
それを近くで聞いていた三名は、耳に付けていた通信機を放り投げて、顔を顰めながら耳を塞いでいた。
このとき、この場の三名以外の隊員らも、湊の声で一時的に耳をやられながら、同じように耳を押さえており、敵の通信を妨害し、相手を分断するという目的は見事に達成された。
後は、突然のことに浮足立っている敵を殲滅すれば良い。
ホルスターの銃の弾倉を新しい物に替え、それを仕舞うと、すぐにマフラーから抜身の刀“春夢”を取り出した。
(敵は……次のフロアか)
マフラーから武器を取り出したのを見て、不思議そうにしている者らを横に、湊は敵の位置を捕捉する。
心の中では怒りの感情が黒く渦巻いているが、思考は切り離され、凪いだ水面のように静かで、淡々と敵を確実に殺せる方法を次々と弾き出してゆく。
これは感情によって力を無限に上昇させる少年が、今日までの間に仕事の中で身に付けた技術だ。
さらに、イリスから『全力でやっていい』と言われたことで、本人が無意識にかけているリミッターも解除され、未だ完全にはほど遠くとも鬼の片鱗を見せる状態へ少年は昇華されていた。
(全力で……やる)
敵のいる場所へ向かうため、湊は一歩を踏み出す。
踏み出した足が地面に着くと、その地面を強く蹴り、続けて二歩三歩と蹴る力の増した足を動かしてゆく。
だが、少年が速度に乗るには、たったそれだけで十分だった。
周囲の景色が高速で流れていき、傍にいた者らのあげた驚きの声も後ろに残してすぐに聞こえなくなった。
数十メートルあった廊下も、五秒もかからず走り抜け、そのまま減速もせずに階段の壁を斜めに走って二階へ上る。
階段付近に仕掛けられていたトラップは作動しない。したところで、湊は既にそこを離れているのだから、作動させる意味もない。
(……二人)
そのまま二階の廊下を走っていると、敵の気配が近くなる。
相手は二人、空港でカップルを演じていたセルゲイとジーナだ。
湊の異常な速度での接近に気付いたようで、両者は待ち伏せを止めて、突撃銃による廊下いっぱいの制圧射撃を放ってくる。
しかし、そんな物は射線上である廊下にいなければ問題ない。
すぐに真横に飛んで部屋に入ると、元いた空間に大量の弾幕が張られていることを知覚したまま、部屋の天井に視える光の線を切ることで、上のフロアの床ごと部分的に崩落させ、跳躍だけでその穴から三階へ移動する。
三階に待ち構えている敵は、運が良い事に別棟にいるため、通信手段を一時的に失っている先ほどの二人が湊のフロア移動に気付くことはない。
ならば、後は二人の頭上まで移動し、銃を構えながら窓から飛び降りれば、
「ぐっ、横からだとっ!?」
「一体どうやってっ」
落下途中のすれ違い様に真横からの奇襲という形で、簡単にヘッドショットとハートショットを決める事が出来た。
いつもはそのまま敵が死ぬので反応を見られないが、今日はペイント弾の使用により、こちらの想定外の動きで撃たれた敵の反応を見る事が出来る。
リアクションは驚きばかりで一様だが、それでも珍しい物が見られて気分が僅かに良くなった。
そうして、落下途中に銃を仕舞いながら、空いた手で窓枠を掴んで廊下に復帰すると、別棟の屋上から飛んできた銃弾を刀で弾き。
まるで何事もなかったかのように、三階へ上がる階段に向かって湊は駆けて行った。
***
隠しカメラの映像で湊の動きを見ていた司令部は、苦笑しているイリスを除いて、二人ともが信じられないと絶句していた。
特筆すべきは施設内での移動速度だが、廊下を走るのと、階段を上り下りするのとでは、当然速度は変化する。
坂道でさえ速度の加減があるのだから、階段という足場の悪い場所ならば、平地に比べて速度は格段に落ちるのが普通だ。
そのため、建物内で作戦行動を取るときには、階段付近はトラップや敵の待ち伏せを受け易く、慎重に進むか迂回して別の安全なルートを取ることが多い。
しかし、湊は廊下からそのまま壁を走り、まったく減速せずに階段を上りきってしまった。
「速度出ました。平均、時速六十キロオーバー……」
「武器を持ったままで?」
「はい。小狼君はどちらか一方の手で、ずっと刀を持ったまま移動しています」
ナタリアはバーバラから報告を受けて、どんな方法を使えば、そんな世界陸上で未来永劫抜かれることのない記録を出せるほどの走力を手に入れられるのかと頭が痛くなった。
刀を持ったままでそれならば、平地で何も持たずに走れば、時速七十キロというダチョウや狼に匹敵する速度を出せるだろう。
そんな、あまりに普通では考えられない速度で駆け抜けたため、電文を打つ暇がなく、セルゲイらにトラップの発動タイミングを伝えられなかったくらいだ。
通信機が使用できるのであれば、もう少しだけ可能性はあったが、作戦中にIFの話などしていられない。
相手はどういう訳か、硬い天井を一振りの刀で切り崩して移動まで出来るのだ。普通の人間の移動方法を基準にして仕掛けられたトラップはもはや意味を為さない。
ならば、自分の兵の力を信じるしかないとして、ナタリアは湊が三階にいる者らの方へ真っ直ぐ向かっていることを電文で残っている兵らに伝えた。
「フゥ……こんな指示とも言えない、ただの連絡しか出来ないなんて、いつ以来かしら?」
「アタシがいたときに、雪山で一回あったろ。高い金出して買った寒冷地仕様の通信機が、なんと初日で壊れたってやつだ」
「ああ、そんなこともあったわね。でも、今回とはケースが違い過ぎるわ。個人の身体能力と技能のみで、少数精鋭の分隊一つを相手にするって普通じゃないわよ」
言いながらカメラの映像に目をやると、グリゴリーとカルロの放つ銃弾を刀で弾きつつ、螺旋の軌道で床・壁・天井を走って接敵し、そのまま武器を両断している湊の姿が映った。
まさか、このまま斬り殺しはしないだろうなと不安が過ぎったが、武器を失って後方に回避しようとした二人の喉へ、ポケットから取り出した口紅で線を引いたことで、湊は素直にイリスの言いつけを守っていることを理解する。
だが、これでもう狙撃手の二人しかメンバーは残っていない。
贔屓目を抜きにしても、自分の兵らの実力は裏の世界でも一級品のはずだが、あんな子どもにここまで一方的にやられては、先ほどのイリスの言葉を信じるしかない。
ジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、火を付けてゆっくり煙を吸い込むと、それを静かに吐き出しながらナタリアは呟く。
「ボウヤはどうして真っ直ぐに隊員たちのいるところへ向かえたのかしら。貴女、こっそり教えたりしてないわよね?」
「当たり前だろ。ってか、それもアイツの力だよ。壁の向こうも簡単に把握出来るんだとさ」
「……もはや、驚きを通り越して呆れるしかないわね。あの子が当時の米国にいれば、スターゲイト計画も潰れることはなかったでしょうに」
壁の向こうも見られると聞き。ナタリアは、かつてアメリカが行っていた、軍事作戦に透視能力者を使おうとしていた計画を思い出した。
だが、その視線は、屋上に現れジグザグに走って接近する湊に、応戦する間もなく易々とヘッドショットを決められているパトリックの映る画面に向かっており。口調もどこか投げやりである。
通信担当のバーバラは、湊を超能力者か何かと思ったらしく、素直に驚きながら目を輝かせているというのに、これも若さという名の人生経験の差なのかとイリスは肩を竦めた。
「さてと、あとはラースで終わりだな。別棟には三階に降りなきゃ渡れないし、アイツきっとショートカットするぞ」
「まぁ、渡り廊下の屋根を行く方法もあるしね。その程度じゃ、もう驚かないわ」
いい加減、湊のやることにリアクションを取るのが面倒になってきた。そう言いたげに、ナタリアは足を組んで完全に見物モードに入る。
いくら敗戦の色が濃いと言っても、まだ兵が戦っている状態で司令官がこれでは、名切りの鬼の相手をさせられているラースたちが不憫に思えてきた。
だが、イリスの考えるショートカットとナタリアの思っている物が違っていたため、せいぜい驚いて足を机にぶつけてしまえ、とイリスは悪戯気分で湊が動くのを待った。
そして、
「はあっ!? ちょっと、正気なのっ!?」
カメラだけでなく、肉眼でも湊の動きが見えたナタリアは、驚いて立ち上がる際に机に足をぶつけて顔を痛みで歪めつつ、別棟の屋上に向けて跳躍した湊を目で追っていた。
湊が飛んだ元々パトリックのいた場所と、ラースのいる場所を直線で結べば四十メートルは離れている。
屋上の広さを考えれば、いくら助走をつけて速度に乗ったところで、絶対に届く距離ではない。
湊がいたのは四階の屋上なので、ビル五階分の高さだと考えれば、およそ地上二十メートルほどの位置になる。その高さから落下すれば、いくら何でも死んでしまうだろう。
だというのに、飛んでいる本人は、パトリックから奪ったブレーザーR93を空中で構えて、驚き呆けているラースを撃っている。
不安定な姿勢でありながら、心臓辺りに弾を当てたのは見事としか言いようがない。
だが、自分だけでなく、施設内にいた他の隊員らも、驚き、窓から身を乗り出すように見ていることから、おかしいのは自分ではなく相手だと断言できる。
そう考えているナタリアの隣にいるイリスが、
「アハハッ、マジで飛んだぞアイツ。やっぱり馬鹿だな」
などと言いながら、どこか優しい目をしているせいで感覚がおかしくなりそうだが、通信が復活していることを確認し、一階にいる隊員の誰かが救助にいけないか指示を出そうとした。
「チャド、ヤン、貴方たちで受け止められる?」
《いや、無茶ですよ。小狼君、刀持ってて危ないですし》
返事を聞いて、そういえばそうだったと心の中で舌打ちをする。
建物の骨組みごと天井を切断してしまう切れ味ならば、受けとめるのに失敗すれば、その人物は真っ二つにされてしまう。
一人の命を救うために、大切な隊員二人の命を懸ける事は出来ない。
そうして、会ったばかりの少年を見殺しにすることに、僅かな罪悪感を覚えながら、対岸まで残り十メートル程のところで徐々に落下を始める湊をナタリアは無言で見つめた。
「…………ねぇ、あの子を預かるのすごく嫌になってきたんだけど」
完全に死ぬと思っていた。当然だ。高さ二十メートルの場所から、刀とライフルを持ったまま落下すれば、重力に引かれて着地した足の骨が砕ける筈なのだから。
それも運が良ければの話で、普通なら勢いを殺せずそのまま着地に失敗し、全身を強く打って死に至る。
だというのに、相手は綺麗に着地して何事もなかったかのように歩いて来る。それを見たナタリアがげんなりしながらそう話すと、
「猫みたいだろ? アイツ、空から降ってきても、普通に着地して歩いてるからな。多分、パラシュート無しにスカイダイビングとかも楽しめるんじゃないか?」
そんな風にイリスは呑気に答えて立ち上がり、戻ってくる湊を迎えに行ってしまった。
さらにスピーカーを通して、
《いや、あれで無事ってあり得ないだろ……》
《すっげー、ジャパニーズ・ニンジャって実在したんだな》
と、隊員らもどこか呆けている様子が伝わってくる。
戦闘終了は、圧勝して気分が良いか、仕事自体が後味の悪いもので酷い気分だったりと、そんな二択が普通になっていたので、こんな現実感のない気が削がれてしまう終わりなど全員初めてだ。
けれど、最後のラースも撃たれてしまったので、自分たちの負けは決定しているため、これ以上この場にいる意味はない。
そうして、隊員らに戻ってくるよう告げ、ナタリアは溜め息を吐きながら、イリスと湊の二人の元へ向かうためゆっくり立ちあがったのだった。
夜――“蠍の心臓”宿舎
演習後、昼食を取ると、湊たちは離れた場所にあった
民間軍事会社なだけあって、本部は基地のようになっており。戦闘ヘリや戦車など、日本ではほとんど見なかった物も置いてあったが、到着した時間が遅いということもあって、滞在中に使う個室や、食堂とトレーニングルームの場所だけ教えると、その日は夕食を食べて解散の流れとなった。
そうして、入浴なども済ませて湊が寝たのを確認すると、イリスは部屋を出て、ナタリアの使っているプライベートルームにやってきていた。
相手も入浴を済ませて、楽なバスローブ姿になっているが、ソファーの前のテーブルにはワインやブランデーに、チーズなどの酒のあてまで置かれている。
「どれから開ける? テキーラからでも別に構わないわよ」
「いや、赤ワインで良いよ。酔うまで飲むつもりはないんだ」
久しぶりに一緒に飲むということで、上物の酒も用意していたのだが、相手がそういうのならほどほどに楽しめるものを選ぶことにし。ナタリアは「そう」と答えて、九十年物のワインのラベルを剥がしコルクを抜いた。
綺麗に抜けたのでないとは思うが、割れたコルクが混入しているといけないので、初めに少しだけ空きグラスに注いで確かめる。
光りにかざしても何も問題ないことを確認した後、改めて自分とイリスのグラスに注ぐと、ナタリアはグラスを手に取った。
「それじゃあ、とりあえず再会にってことで」
「ああ、再会に乾杯」
控えめにグラスをぶつけ、甲高い音が静かな室内に響く。
大きなグラスの底に数センチだけ注がれていたワインを二人は全て飲み干し、テーブルにグラスを置くと、再びナタリアがワインを注ぎながら口を開いた。
「貴女、ボウヤと息子を重ねているでしょう。やめといた方が良いわよ。こっちの世界に入った時点で、ボウヤもまともな死に方なんて選べないんだから」
「そんな事は分かってるよ。てか、アイツはロランと全然似てないさ。ロランはちょっとぽっちゃりした父親似だったからな。アイツみたいな天から二物も三物も貰って生まれたようなやつとは比べられないって」
イリスはそういって苦笑しながらテーブルに乗ったグラスを手に取ると、新たに注がれたワインに口をつける。
隣にいるナタリアは相手の表情を見て何か言いたげにしていたが、ここで何かをいうつもりはなかったのか、別の話題に移った。
「さっき、ボウヤのことを少し調べさせて貰ったわ。約六年の活動でキルスコアが千を超えてるって異常よ? しかも、これはあの子がほとんど利用していなかったギルド経由の情報。実際、傍で見ていた人間の印象だとそれは正しいのかしら?」
一口サイズのチーズの包み紙を剥がし、それを口に放り込んでから、ナタリアはワインを少し口に含む。
調べた情報が間違っているとは思っていない。ギルドはその情報量で裏の世界で一大組織として成り立っているのだ。多少の誤差はあっても大きなミスはないだろう。
だが、そこにはギルド経由の依頼の実績だとも載っていた。
ならば、湊にはギルド以外の仕事の窓口が存在し、普段はそちらで依頼を受けているに違いない。
流石のギルドも、意図的に素性を隠している人間など、依頼がなければ本格的に調べようとしないので、今後の付き合いのために知っておこうとナタリアは考えていた。
そして、ナタリアの質問から少し間を置き、新しいワインを開けながらイリスはようやく口を開いた。
「全然違うよ。アイツは途中から一人でも仕事をしてるからね。正確な実数は分からないが、とっくに二千は超えてるはずだ」
「は? そんな、どうやったら個人で殺せるのよ。ばれない方がおかしいわ」
湊の活動はいままで日本国内のみで行われていた。
平和な土地で、警察の捜査能力が優秀となれば、仕事のしにくさでは世界でもトップクラスの国だ。
いくら殺した相手の処理を死体処理屋に任せているといっても、殺した痕跡を普段から完璧に消せるとは思えない。
半数はギルドの協力を得ているので、それで証拠を抹消出来ているにしても、個人でさらに千人も手に掛けているなら、既に警察も不審死について調べ始めているはず。
まさか、その捜査の手から一時的に逃げるため、わざわざ自分たちを隠れ蓑にしようと思ったのではあるまいな、とナタリアが疑いかけた頃、
「大丈夫だって。アイツ、マフィアとか大量に殺してるんだ。一晩で百人とかってときもあったから、そういうデカイのが積み重なってそんな数にな」
イリスがそういって笑った。
本人は警察にばれる可能性がないと笑ったのだろうが、マフィアを殺してきたなら、そのマフィアに狙われている可能性が新たに浮上する。
そちらに気付いていないようなので、ナタリアは自分たちが巻き込まれてマフィアと戦争になることを危惧し、あえて伝える事にした。
「私たちは戦争屋じゃないわよ。アヘン漬けの糞ったれ共と戦争なんてゴメンだわ」
「アヘンっていつの時代だよ……。てか、そっちも大丈夫だ。船底いっぱいの肉塊と血の海なんて見たことあるか? 流石のアタシも吐きそうになったよ。自分が敵なら、二度と関わりたくないって」
咽るほど濃密な血と死の匂い。その真ん中で、身体中を返り血で汚しながら、蒼い瞳を輝かせて表情一つ変えず湊は立っていた。
脱出用のボートに移る前に、海に飛び込んで血を落としていたが、長年この業界で仕事をしてきた人間がショックを受けるほどの場面で、よく冷静でいられるものだと、味方であっても恐怖した。
味方である自身がこうなのだから、敵側の人間は面子を潰されたままであっても、二度と関わるまいと思ったに違いない。
そして、事実、その後に報復を狙っている者の情報など一切あがってこなかった。
「ま、そういう訳で、いまアイツを狙ってるのは仙道だけだと思うぞ。どこで知ったのか、小狼が名切りって気付いてやがった。近くにずっといたアタシらが知らなかったって言うのにな」
「ちょっと、そんな相手が来るくらいなら、マフィアと戦争する方がマシじゃない」
「仙道は小狼が完全に目覚めるのを待ってる。だから、まだまだ大丈夫だ。アイツは自分の血筋すら知らないからな」
自分が人殺しの一族であると自覚しない限り、本当の意味での湊の覚醒はない。
だからこそ、仙道が再びやってくるのは当分先だと、この一年の旅の中で仙道を超える力を付けさせようと考えているイリスは、自分たちの滞在中に仙道がここへ来る事はないと断言した。
それが本当なのかは分からないが、あの戦闘狂と呼ばれる男がそこまで入れ込むだけの力を湊は見せた。
自分もいい酒が手に入ったときには、ワイナリーで寝かせておいて、特別なときに開けたりするので、仙道の湊に対する認識も同じようなものだろうかと推測し、ナタリアは深く息を吐くと静かに話す。
「はぁ……まぁいいわ。でも、仙道がきたらボウヤに任せるわよ。こっちにあれに対抗できる戦力はないんだから」
「ああ。最悪、アイツに禁の一つを破らせれば負けはない。もしものときは、アタシから頼んで自分を曲げてもらうさ」
その言葉に、ナタリアはまだ湊には隠し玉があるのかと、呆れて文句を言いたくなった。
けれど、湊に禁を破らせるといったイリスの横顔が、どこか悲しげに見えたので、彼女がどれだけ湊にそれをさせたくないのか分かってしまい何も言えなかった。
ずっと会っていなかった相手だが、古い知り合いであり、良き友人だ。
ならば、そんな彼女の我儘も、相手の庇護する対象が中学生の少年ということもあり、出来る限りは聞いてやろうと思った。