3月20日(月)
朝――“蠍の心臓”宿舎
湊とイリスがやってきて一夜が明けた次の日。
部隊で最年少のレベッカは、朝のトレーニングに向かうため自分に宛がわれた個室を出ると、ピンクのジャージ姿で廊下を歩いていた。
(あー、だっるー……せっかく、イリスさんに久しぶりに会えたのに、あのハポンにべったりだし。そのハポンも昨日は訳分かんないキレ方して、近距離でガバメント喰らわしてくるし。ほんと嫌になるわ)
彼女は、幼い頃から父であるラースと共にここで過ごし、まだ部隊にいたころのイリスにもよく可愛がって貰った。
だが、彼女はある作戦に参加し、それを成功させて戻ると、そのまま脱退を申し出て去って行ってしまった。
行き先は彼女の知り合いのいる日本だと分かっていたが、レベッカは会いに行こうとはせず。部隊の者たちに射撃や格闘術を習うことで、イリスがいた場所と同じ頂きを目指す様になる。
そういった努力の甲斐もあって、実際は入社前から訓練に参加させて貰っていたが、入社から二年という異例の速さでナタリアの私兵部隊に所属が決まった。
訓練を始めた時期が早かった事、父のラースの射撃の才能を受け継いでいた事、何より彼女自身の向上心が高かったことで、部隊に入った時点でイリスと同等の実力だとナタリアに認められていたのだ。
(それで、実戦をさらに積んで部隊にいた頃のイリスさんより強くなったっていうのに。あのハポン、認めないとか急に因縁つけてきてホントにムカつく!)
そう。久しぶりの再会で、イリスに自分がどれだけ強くなったのかを見せようと思っていた。
また、イリスにやたらと可愛がられている相手を、一方的にボコボコにすることで、自分の方が遥かに優れていると証明するつもりだった。
それを、防具もつけず、髪も束ねていないという舐めた格好だというのに、相手はたった一人で部隊の全員を倒して見せた。
倒された全員が狐につままれたような顔をしていたが、相手の服には塗料が全く付着しておらず。
撤収前に負け惜しみに背後から撃った弾も躱され、逆に腕を掴んで地面に引き倒されると、胸をブーツで踏まれたまま腹部にサブマシンガンを弾が尽きるまで撃ち込まれる無様を晒してしまった。
その痣はいまも痛々しく残っており、これでは、流石に相手の実力を認めない訳にもいかず。しかし、平和な島国育ちの人間に、幼い頃から銃は身近な物で、さらに部隊の者らを見て育った自分が負けていると認めるのも癪で、一晩中苛々と寝れない夜を過ごすはめになった。
(もう、このストレスはパトリックとかをボコボコにすることで発散しよっと。いなかったら、一般部隊の人らと組手して気分変えれば良いし。その後はシャワーでリフレッシュよ!)
湊には極力関わらない事に決めた。精神衛生的にも、それがベストな選択だと断言できる。
そうして、運動によるストレス発散と、運動後のシャワーで気持ちを切り替えることにして、トレーニングルームに向かう廊下を曲がりかけた、その時、
「きゃあっ」
レベッカが曲がっている途中で横から人が来てぶつかってしまった。
衝撃はあまりなかったが、相手の頭が丁度胸にぶつかる形になったせいで、一瞬息が詰まってしまった。
今後の予定を決め、気分を変えようと思っていた矢先に、なんともタイミングの悪いことだと思いつつ、レベッカは自分の胸に頭が当たるような身長の人間がいただろうかと考え、ぶつかった場所で立ち止まっていた相手に目をやった。
「ヒィっ!?」
目をやった瞬間、レベッカは思わず後退ってしまう。
なんと、そこにいたのは幽鬼のように腕をだらんと垂らした、髪の長い白い着物姿の女だったからだ。
真っ直ぐ立てば身長は同じくらいかもしれないが、相手は裸足である事に加え、腕ごと肩や頭を俯かせているため、身長165センチのレベッカの胸辺りに頭がくることになったらしい。
しかし、そのことに気付いたところで、顔が髪で隠れた日本の死に装束姿の女が、何故こんな中東の軍事会社の宿舎にいるのかが分からない。
(な、なによコイツ。確かジャパニーズ映画のサダコ? とかってやつかしら。ていうか、幽霊がどうして朝から宿舎を徘徊してるのよ……)
誰かが日本に行ったときに憑かれてきたか。それとも、湊かイリスにくっついてきたのか。
表情を引き攣らせながらファイティングポーズを取って、レベッカがそのように考えていると、今まで立ち止まっていた幽霊に動きがあった。
(……行っちゃった。でも、あっちってトレーニングルームのある方で、私もそっちに行きたかったんだけど!)
幽霊は急に動きだしたかと思うと、そのまま廊下を直進し、トレーニングルームの方へとおぼつかない足取りで行ってしまった。
だが、自分の行こうとしていた場所に幽霊が向かったと知って行きたいとは思えない。
けれど、自分はトレーニングをしてストレスを発散するつもりでいたのだ。
幽霊への恐怖とストレス発散。そのどちらを優先すべきか悩んでいると、バタバタと走る複数の足音が近付いてきた。
足音のする方へ顔をあげると、通信担当のバーバラが、大きなロザリオのネックレスを持ったパトリック、『悪霊退散』と漢字で書かれたお札を持ったセルゲイの二名と共に走ってくるところだった。
やってきた三人は立ち止まっていたレベッカに気付くと、どこか興奮した様子で話しかけてくる。
「あ、レベッカちゃん。ねえねえ、帯だけ黒の白い着物姿した幽霊みなかった?」
「え? ああ、幽霊だったらトレーニングルームの方に行ったけど?」
「トレーニングルームだな! よっし、行くぞパトリック!」
「おう! 除霊して女の子にモテモテになってやるぜ!」
幽霊の居場所を聞き出した途端、セルゲイとパトリックはロザリオを振り回して走って行ってしまった。
クリスチャンに怒られるぞ、とレベッカが二人の去って行った方へ白い目を向けているのを見て、残っていたバーバラが苦笑いを浮かべていたが。彼女は彼女で幽霊を追っていたらしく、巻物のような物をポケットから取り出し、何やらやる気を出している。
「よし、私も幽霊をこの巻物に捕まえて掛け軸にするんだから!」
「は? え、ちょっと、バーバラ。幽霊の掛け軸は別に本物を閉じ込めた物じゃ……って、行っちゃった」
巻物に幽霊を閉じ込めたところで、幽霊の描かれた掛け軸になる訳ではない。
その程度のことは知っていたので、レベッカは彼女を引きとめようとしたのだが、通信担当のくせに足は部隊内でも三番目に速い彼女は去ってしまった。
先に向かった馬鹿たちも気になるが、バーバラのことも気になる。
そうして、知り合いが大勢向こうにいるなら、自分も別に怖くないと心を決めると、レベッカは三人と幽霊を追うため、トレーニングルームに向かって駆け出した。
――トレーニングルーム
レベッカがトレーニングルームに向かうと、入り口付近に人だかりが出来ていた。
入り口付近に固まっていた一般部隊の者たちに通して貰い、入り口に到着すると、そこには先にこちらへ向かっていた三人がいた。
てっきり、先に中に入っているとばかり思っていたため、不思議に思いつつレベッカが三人に話しかける。
「あれ、中に入ってなかったの?」
「え? あ、ああ、なんか幽霊が変な動きしててな。トレーニングしてたやつらも、びびって出てきてたし。少し様子を見てるんだ」
セルゲイに言われ、彼が指し示した方へ目をやると、確かに体育館ほどの広さのあるトレーニングルームの床の上で幽霊がぐだぐだと寝転がっていた。
たまに足を広げたまま座った状態で、上半身をぐらつかせながら最終的に前屈のような姿勢を取っているが、基本的に床の上で寝返りを打つようにごろごろしている風にしか見えない。
誰に危害を加える訳でもなく、ただ広いところで遊んでいるのなら、不気味ではあるものの、チラリと見える足や横顔が綺麗なこともあって、なんとなく和むような気もするとレベッカは思った。
「……何も危害がないなら放っておけば? ほら、トレーニングルームの床ってひんやりしてるし。たぶん、涼める場所を探してたのよ」
「待て待て、あいつは宿舎を徘徊してたんだぞ? 暑い日中は涼しいここにいたとしても、涼しい夜に薄暗い宿舎の廊下で遭遇したときを考えてみろよ。俺は思わず失禁する自信あるぜ」
ロザリオを強く握り閉めながら話すパトリック。
女子にモテたいと言って張り切っていたが、実は内心ではかなり怖いようで、今も下に視線を向けると、ガクガクと膝が笑っていた。
そのあまりの情けなさと、失禁する自信があるという発言を聞いたレベッカは、思わず距離を取りつつ汚物を見るような目で相手を見ながら口を開く。
「きたなっ。ちょっとパトリック、あんたやっぱり一般部隊に戻りなさいよ。ボスの私兵にあんた相応しくないって」
「はぁっ!? あのガキに無様にやられたお前に言われたくないぜ。お前こそ、新兵からやり直してこいよ」
「うっさいわね! 屋上でこそこそしてたから生き残ってただけのくせに、あんただって下で銃撃戦やってたら最初にリタイアしてたわよ!」
「それはねーな! 初めから撃ち合いって分かってれば、俺様お得意の二挺拳銃を披露してガキを仕留めてたさ」
レベッカは二十歳で、パトリックは二十八歳だが、精神年齢は近いらしく、周囲が呆れるような子どもの口喧嘩はずっと続いた。
だが、幽霊の方に新たな動きがあると、今まで二人を止めていなかったセルゲイが声をかけて、二人の喧嘩を止めさせる。
「おい、幽霊が動いたぞ。急に立ち上がりやがった」
「本当だ。どっかに移動するのかしら?」
見ると、ぐだぐだを止めた幽霊が、いまだ俯いたままだが一度立ち上がり、入り口から見て最奥の壁の方へと歩いてゆく。
もしや、そのまま壁を通り抜けるのか、とそんな風にギャラリーの期待が高まったとき、壁の直前で相手は立ち止まってしまった。
「止まっちゃいましたね。通り抜けには勢いがいるんでしょうか?」
「なんで微妙に物理系なのよ……」
「え? だって、通り抜けるにしても、壁に進んでいくのって怖くない? ぶつかったら痛いだろうなって思ったりして」
「ごめん、幽霊の気持ちは分からないわ」
バーバラの言いたい事は分かるが、ぶつかって痛いことを想像するのならば、ゆっくり進んでいった方がいいに決まっている。
彼女がどうしてそれに気付かないのか不思議だが、あえて指摘して恥をかかせるつもりはないので、レベッカは話を適当に切りあげ、幽霊の動向を見守った。
そして、壁に向かうこと数分、幽霊はおもむろに上体をだらんと下げると、そのまま床に手をついて逆立ちを始めた。
足は膝を曲げているので、逆立ちをしていても膝より上まで着物がめくれることはない。
ゆっくりと逆立ちに移って行くのを見ていたため、足を曲げて着物の裾がめくれないと分かったときには、セルゲイとパトリックだけでなく、後ろにいた男たちも悔しそうに舌を打ち、嘆く者もいた。
だが、レベッカとバーバラが白い目を向けると、男たちは途端に視線を逸らし出したので、二人は呆れを通り越し、幽霊にまで欲情する変態という烙印を心の中で密かに押す事で気分を晴らすことにした。
そして、再び幽霊に視線を戻すと、先ほどまで逆立ちをしていた幽霊が、少々ゆっくりだが逆立ちのまま腕立てをしていることに気付く。
逆立ちの腕立て伏せは、バランスを保つことや、自分の体重全てを腕で支えるなど、通常の腕立ての数倍の負荷がかかるハードなメニューだ。
ここにいる者は、普段から自分たちもトレーニングをしているので、それをよく理解しており。黙々と一定のペースで腕立てをしている幽霊は、かなりの熟練者だとその場の全員が思わず認めてしまった。
「うーん、すごいね。いま何回いった?」
「三百を超えました!」
レベッカが尋ねると、開始時点から数えていた一般部隊の兵の一人が答える。
その答えに、自分では不可能な回数だとパトリックがゲンナリし、筋トレに少々のこだわりのあるセルゲイは腕組みをしてジッと熱い視線を送る。
さらに、そこから数十分経ち、幽霊の腕立てが千回を超えたところで、ギャラリーをかき分けて新たな人物が数名やってきた。
「貴方たち、こんなところで集まって何しているの?」
「ああ、ボスおはようございます。いや、ちょっと幽霊が出たんで追い掛けてきたんですけど、その幽霊が急に腕立てを始めちゃって」
「幽霊? なに馬鹿なこと言ってんだ。セルゲイ、お前までレベッカたちと一緒になってどうすんだ」
やってきたのはナタリア、イリス、ラースの三人で、レベッカの話しを聞いたラースは、部隊の若者組に混じって三十五歳のおっさんが遊んでるなと嘆息する。
だが、現実に幽霊がいるのはこの場の全員が見ていたため、セルゲイはトレーニングルームの中で、今も逆立ち腕立て伏せをしている幽霊を指差し反論した。
「いや、待てって。ほら、今もいるんだ。もう三十分以上続けてる。既に千二百回に突入してるぞ」
「ああ? ……ん、お、あら? いや、本当に何かいるな」
「ほら見ろ」
言われてラースも中の様子を窺うと、どこか不気味な雰囲気を纏った着物姿の女が一定のペースで腕立てを続けていた。
あまりに異様な光景過ぎて、もしや、あの場所に何か埋まっていて、女は必死にそれを掘り出そうとしているのでは、と兵の中で噂され始めるほどだ。
信じられないが現実に存在している幽霊に、目を細めつつジッと観察するラースの横で、先に見ていた四人の内バーバラを除いた三人がどうだと言わんばかりに勝ち誇っている。
しかし、それも次のイリスの言葉で唐突に消えた。
「ばーか、ちゃんと見ろよ。あれは、小狼だ。おーい小狼! 充分運動したなら戻ってこい!」
イリスがそうやって幽霊に声をかけると、幽霊は逆立ちの状態からゆっくりと足を下ろし、最初の腕と頭をだらんと垂らした状態で入り口まで歩いてきた。
おぼつかない足取りと、そんな風にだらけきっているせいで顔は見えないが、入り口までやってきた幽霊の頭に手を置き、イリスは相手に話しかけた。
「ん? あ、オマエ、寝ぼけてるだろ。ほら、髪も梳かしてやるから、ちゃんと顔洗いにいくぞ」
そう声をかけるなり、イリスは半分寝ぼけている湊の手を引いて歩いて行ってしまった。
後に残された者は、呆れた様子で煙草に火を点けているナタリアと、あまりにオンオフの激しい湊に苦笑しているラースを除き、全員がパクパクと口をあけて言葉を失っている。
そうして、ナタリアとラースが去ってしばらくしてから、ようやく復活したレベッカ、パトリック、セルゲイの三人は口を揃えて叫んだ。
『ふざけんなぁぁぁぁぁぁ!!』
しかし、叫んだところで、それが湊に聞こえているはずもなく。
顔を洗い、髪をイリスに梳かして貰った湊が、着物のまま朝食を取っていると、遅れてきた三人が口々に紛らわしいと怒り、それを湊が不思議そうに首を傾げている光景が食堂で見られたのだった。
午後――バーバラ個室
幽霊の正体が就寝用の着物をきた湊で、貞子スタイルで徘徊していた理由が、寝ぼけた状態のまま日課のトレーニングをしに行っていたと判明したことにより、宿舎には平穏が戻った。
その後、一般兵らにイリスと湊の滞在が改めて伝えられ、今日は湊に施設の案内をするということになり、バーバラを案内役としながらイリスと共に館内を回っていた。
だが、ある程度回ると、後は利用しながら慣れていった方が良いとイリスが進言したことにより、空いた時間を利用してバーバラの部屋に二人は招かれることになる。
部屋に向かう途中で訓練を終えて暇そうにしていたレベッカも加わって、最終的に部屋に向かう人数が部屋主含めて四人になったが、案内された者たちは部屋の中を見た途端なにやら微妙な表情になった。
「えへへ、少しごちゃごちゃしてますけど、下手に触らなければ大丈夫なんで安心してくださいね」
部屋主は、部屋を見たイリスらが微妙な表情をしたことで、物の多い部屋に呆れていると思って照れたようだが、実際はそんなことで微妙な表情をしたわけではない。
イリスたちが微妙な表情をした理由、それは彼女の部屋に置かれた怪しげなインテリアの数々のせいであった。
壁に作られた棚には、水晶製と思われる髑髏に始まり、虫の入った琥珀、赤黒く汚れたボロキレにしか見えないものや、暗い紫色の液体の入った小瓶などが並び、黒魔術でも始めるつもりなのかと聞きたくなる。
さらに、他の者は何も気付いていないようだが、湊の目にはいくつかの品に黒いもやも視えており、よくもこんな部屋で生活していられるものだと感心していた。
「……ピオクタニンか」
「何だそれ? その怪しい小瓶の正体か?」
「ああ、一般には消毒作用のある塗り薬として知られてる。といっても、こんな保存方法じゃ質も変化してると思うが」
湊が棚に置かれていた小瓶を眺めてアナライズにより中身を看破すると、尋ねたイリスは頷いて感心する。
アナライズは一見万能で便利な解析能力のように思えるが、実際は、本人の知識に依存する部分が大きい。
イリス自身はその事を知らないが、とりあえず、謎の毒薬と思われていた物が、普通の薬であると分かって安心していた。
しかし、それとは逆に部屋主のバーバラは、湊の言葉を聞いて顔を青褪めさせてワナワナと震えている。
そんな彼女の異常に他の者も気付くと、もっとも近くにいたレベッカが様子を尋ねた。
「バーバラ、どうかしたの?」
「そ、その小瓶、ただの薬なんですか? 私、悪魔の血だって聞いて買ったんですけど……」
『……は?』
バーバラの言っている意味が分からず、イリスとレベッカが聞き返す。
すると、バーバラは木製の机まで駆けていき、引き出しを開けて慌ただしく中を漁ると、紙の束を取り出して戻ってきた。
彼女は持ってきた紙の束から一枚を取り出し、それを湊の顔の前に突きつける。そこには『商品名:悪魔の血、366米ドル』と書かれていた。
「……ピオクタニンは100cc辺り10米ドル程度で買える。完全に騙されたな」
「そ、そんな……はぁっ!? じゃ、じゃあ、他のやつはどうですか!」
自分が騙されていたことに知り、落ち込むと思いきや、バーバラは悪魔の血が偽物であると見抜いた湊に他の物の鑑定を頼んできた。
骨董品屋でバイトをしていたこともあり、本人の専門は趣味で蒐集している刀剣類の鑑定だが、一応、他の物もある程度は真贋を確かめる事は出来る。
そのため、依頼で品物を取ってくる際に、それが本物であるかを湊に確かめさせているイリスは、バーバラを止める事はせず。
近くにあった椅子に腰かけて、レベッカにも近くに座るようジェスチャーで伝えて、面倒そうに鑑定を続ける湊を眺めることにした。
「あ、それは市場のお爺さんが拾った隕石で、30ドルで売ってくれたんですよ」
「石質隕石だな。本物だし、大きさと質を考えれば買った値段の七倍はしても良いくらいだ」
「本当に? やったー!」
「ただ、未登録だろうから、学術的な標本価値は全くない。売るなら、ちゃんと隕石学会で登録して貰った方が良い」
未登録のままでは標本価値がないと言われても、本人は自身のコレクションとして持っているつもりらしく、本物だと言われただけで透明なケースに入った石ころを見てはしゃいでいる。
そんな女性とは対照的に、ほとんどガラクタばかりを見せられている湊は、いつの間にかマフラーから取り出したメモ用紙で目録を作り、真贋及びその商品の価値を淡々と書いていた。
日本の中学生である湊が、そんな次々と鑑定していることが余程不思議に思えたのか、クッションに座って眺めていたレベッカが、隣に座っているイリスに尋ねる。
「ねえ、イリスさん。あのハポン、なんであんなに鑑定出来るの? もしかして、バーバラを騙して、いくつか貰って売り捌こうとしてるんじゃないの?」
「アイツ、仕事がないときには骨董品屋でバイトしてたんだ。それ以前に、裕福な家で育ったみたいで、物を見る眼がかなり肥えてる。だから、ああいった鑑定は割と得意らしい」
「骨董品屋? 似合わないわよ。てか、あんなやつがいたら、誰も店に立ち寄らないし」
明らかに棘のあるレベッカの敵意剥き出しな言い方に、聞いていたイリスはつい吹き出してしまう。
空港から演習場に向かう車内で既にレベッカは湊を見下していたが、さらに、演習で一方的に敗北した事で、完全に湊を敵と見なしたらしい。
普段ならば、十四歳の少年相手に、二十歳の女が何をしているんだと呆れるところだが、あそこまで実力差を見せられても湊を敵と認識し続け、さらに突っかかっていく者も珍しい。
そう思ったイリスは、そんなタイプの人間との関わりも湊には良い刺激になるだろうと、あえて仲を取り持つこともせず、本人たちの自主性に任せる事にした。
「それはですね。なんと切り裂きジャックが犯行に使ったという、曰くのあるナイフなんです」
イリスとレベッカが話している間に、湊らの方もほとんど鑑定を終えていたようで、残り少ない品の中から木製の柄に血の染みがついたナイフを見ていた。
いくら怪しいグッズ収集が趣味だと言っても、流石に殺人に使われていたというアイテムを金を出してまで買う感覚は、イリスもレベッカも分からない。
しかし、本人は否定しているが、この中で唯一、刀剣類の蒐集を趣味にしている少年は、ナイフの柄を素手で掴んだ次の瞬間に瞳を蒼くしていた。
それを見たイリスは、他の者が反応するよりも速く椅子から立ち上がり、ナイフを鞘から抜こうとしていた少年を、後ろから抱きしめる形で腕を拘束した。
「小狼、眼を戻せ。そんでナイフをゆっくり床に置くんだ」
ナイフを抜いたら、湊がそのままバーバラを切り殺すかもしれない。
前にベルベットルームの者たちから、湊が殺人衝動を抱えていると聞いていたイリスは、眼の変化をその予兆として警戒していた。
だが、全く相手を傷付けるつもりの無かった湊は、眼を普段の金色に戻しつつも、そのままナイフを鞘から抜いて答えた。
「……何もしない。眼はこのナイフを持ったとき、俺の中で新しい存在が生まれたから変わっていただけだ」
「本当だな? 解放したらグサリってのは無しだぞ」
「そもそも、イリスの腕力じゃ俺を止められない。それで何も起こっていない時点で、イリスの考えは杞憂だ」
その言葉が事実であったため、イリスが掴んでいた湊の腕を離したとき、世界は緑色に塗り潰された。
影時間――屋上
現地時間にして午後七時、それがこの国での影時間が発生する時刻だった。
これは湊も海外に出て初めて知った事だが、影時間は世界中どこにいても発生する。
ただし、その発生時刻は日本の午前零時が基準となるため、他の国では時差の分だけ現地時刻の午前零時とずれていた。
影時間の存在を知っているイリスも、適性までは有していないため、湊は目録を最後まで作り終えると、新たに目覚めた力の確認に屋上へと出てきた。
《新しいペルソナ……楽しみ、ね……》
「ああ、こいつも俺じゃないみたいだしな」
座敷童子と並んで話す湊の手にあるのは、『IX・隠者』のカード。
黒いもやの視えていたナイフに触れた途端、何かが湊の身体に入り込み、それがそのまま力として収束し定着した。
あれが切り裂きジャックが事件で使った凶器でないのは既に確認している。そもそも、作られた年代が事件よりも新しい時点で気付くべきだ。
だが、偽物の中にいくつか本物が混じっていることにバーバラは喜んでいたので、そういった当たり外れの楽しみ方もあるのだろうと何も言うつもりはない。
そう考えながら、湊は過去の怨霊から生まれたペルソナを、カードを砕くことにより召喚した。
「こい、ジャック・ザ・リッパー!」
湊と座敷童子の目の前で、渦巻く水色の欠片の中心に光が集まり新たな力が顕現を始める。
まず見えたのは、赤いフードを被った前髪で目元の隠れた少女の顔。
続けて、フードと同じ色をしたマントのような外套と、拘束具にも見えるいくつもの黒いベルトで構成された露出の多い衣服。
さらに、両手には湊が部屋に置いてきたものと同じデザインのナイフが、一振りずつ握られており。他にも外套の中にいくつか武器を携帯しているようだ。
そんな奇抜な格好をした、ウェーブのかかった長い金髪の少女のペルソナに、湊は座敷童子と共に近付いて英語で声をかけた。
「言葉は話せるか?」
《ちょっとだけ、話せます》
「日本語は?」
《貴方に入ったときに話せるようになりました》
それを聞いて湊は僅かに安心する。複数同時召喚したとき、座敷童子やジャックのように自我を持ったペルソナには自分の判断で動いて貰った方が戦術の幅が広がる。
けれど、座敷童子は日本語しか話せないので、ジャックが英語しか話せないとなると、二体の意思疎通が出来ず、湊が直接指示を出すか通訳する必要があった。
それも、ジャックが湊のペルソナになった際に解決していたようなので、湊は改めて相手に挨拶をすることにした。
「俺は湊。“お前”か“お前ら”だったのかは分からないが、俺が魂の残滓だったお前に触れたことで、お前は俺の中に入り込み、今の姿になったんだ。これからは一緒にいてもらう事になるが、お前が望むなら今解放して成仏させる事も出来る」
《大丈夫です。頑張ってお役に立ちます》
ジャックはそう言ってナイフの柄を掴んでいる拳をぎゅっと握り、湊の力になって頑張ってゆくとやる気を見せた。
相手は歳も身長も座敷童子と同じくらいのようなので、湊は普段人にはほとんど見せない僅かに優しい笑みを浮かべ、相手のフードに手を置いて頭を撫でながら返事をする。
「そうか、ありがとう。ペルソナとしての名称がジャック・ザ・リッパーになっているんだが、名前はどうする? 女性名の方が良いなら、別の物を考えるぞ」
《そのままで良いです。ジャックと呼んでください》
《私……座敷童子……よろしく、ね》
ジャックの呼び名が正式に決まり、今まで待っていた座敷童子が相手に握手を求めて、控えめな笑顔で自己紹介を述べた。
すると、ナイフを腰のベルトについた鞘に戻し、ジャックも照れたような控えめな笑顔でそれに応じる。
そんな、幼い少女二人が仲良くしているという、傍目から見て非常に微笑ましい光景が繰り広げられている横で、ジャックの頭に置いていた手を離した湊は少し考え込んでいた。
(ジャックは確実に俺以外の魂だった存在だ。それが俺に入り、さらに自我を形成した状態でペルソナ化した。自我を持ったペルソナは座敷童子という前例があったし、他者の魂が俺に入ったのもデスという前例がある。だから、別におかしくはないんだが……)
そう。デスはシャドウという心の化け物だが、自我が薄れて怨念など想いの塊になっていた魂も似たようなものだと言える。
そう思えば、ジャックが湊に吸収されてペルソナ化したこと自体は十分に考えられることだ。
しかし、デスのときとは違い、湊はジャックを自分の内に取り込もうとはしていなかった。
そもそも、デスを封印したのはアイギスであり、湊はシャドウを人間に封印する方法などまるで知らない。
(……アベルの影響か? “楔の剣”のせいで力自体を奪い易くなっているのかもしれない)
自らの内に目覚めた三番目のペルソナ、審判“アベル”。
翠玉の騎士であるそのペルソナの固有能力は、“
エルゴ研時代に、改造を終えてチドリと再会したばかりの湊が、新しい制御剤が出来なければチドリに使おうと思っていた力の正体がこれであり。去年の六月に能力の説明を聞いたチドリは、最強のペルソナであるタナトスに対し、最凶のペルソナはアベルだと称した。
そんな、対ペルソナ戦で恐ろしい効果を発揮する能力と、魂の取り込みも似た力だと思った湊は、ジャックがペルソナとなったのは、その力のせいかと推測した。
「……まぁいい。ジャック、影時間が明けるまで話しをしよう。俺たちのことを教えるから、お前のことも教えてくれ」
《はい。えっと、生前の記憶はないんですが……》
湊がマフラーから取り出したレジャーシートにクッションを置いて、その上にそれぞれが座ると、三人は影時間が明けるまで一緒に会話を楽しんだ。
自我を持っている座敷童子は、お友達が出来たと喜び、ジャックも同じように嬉しそうにしていたので、湊はこんな出会いも悪くないと、影時間が明けてからイリスたちのいる部屋へと戻っていった。