4月5日(水)
朝――“蠍の心臓”宿舎
湊が海外での生活を始めて半月ほど経った頃、日課である朝の鍛錬を終えた湊は裸足に着物姿で一人廊下を歩いていた。
普段、首に巻かれているマフラーは、形状変化させ幅の広い女性用の帯にしてしっかりと巻いている。
目覚めた後はほどいてマフラーにしても構わないが、鍛錬を終えるまで着替えるのが面倒ということで、湊は帯のままにしている。
蠍の心臓に所属している者の中には、着物に男女の違いがあることを知っているメンバーもいるので、湊がどうして女性向けの着付けをしているかという疑問も湧いていた。
だが、これにはれっきとした理由が存在する。
就寝中というのは非常に狙われ易く、それはいくら気配に敏感な湊であっても変わらない。
故に、起き出して対処までの反応が少しでも早く出来るように考え、幅広な女性用帯の方がサッと手を入れて武器を取り出せるだろうと思い付いたのだ。
もっとも、それを知っているのは本人を除けば、マフラーの機能を理解しているイリスしかここにはいないので、顔が中性的だと感覚も同じように曖昧になるのだろうとメンバーには思われていた。
「おっ、姫は今日もちゃんと鍛錬をしてきたみたいだな。感心、感心」
そして、そんな風に思っている代表格であるラースが、前から歩いてくるなり、湊を発見して笑いながら声をかけてきた。
知り合いのおじさんというより、顔馴染みの近所の女子高生にセクハラ発言をかますスケベ親父のようなニヤついた顔の相手に、湊は面倒そうにしたまま返事もせず前を通過する。
ラースの呼んだ姫というアダ名は、ナタリアの私兵の作戦中のコードネームを捩ったもので、チェスの駒が大元となっている。
機動力もあり、銃撃戦も格闘戦も出来る湊は、チェスにおいて最強の駒であるクイーンを意味するQ1のコードネームを与えられた。
しかし、クイーンと呼ぶには些か若過ぎるため、Q1というコードネームはそのままだが、メンバーの一部は勝手に姫というアダ名をつけて呼ぶようになり。
部隊最年少で自分が今まで姫のポジションにいたレベッカが、男のくせにおかしいと抗議していたが、レベッカのコードネームはルークを意味するR2であったため、大人たちには華麗に流されていた。
当の本人は、そんな呼び方をされたときには基本的に無視しているため、今日もそのまま部屋に戻りかけたとき、ラースが僅かに嘆息しながら再び声をかけてくる。
「おいおい、流石に無視はないでしょうよ。こっちはイリスの伝言預かってきたっていうのに」
「……聞く」
「聞くって……いや、まぁいいか。何かお前さんのこと探してたぞ。用事がないなら食堂に来てくれってさ」
相手から伝言を受け取ると、湊は駆け出して直ぐに跳び上がり、そのまま天井裏に続く点検口の板を蹴り開けて中に消えていってしまった。
確かに食堂に向かうには、入り組んだ廊下を歩くより天井裏を進んだ方が速いものの、他の誰もそんな移動方法を取っていないため、来たばかりの少年がそんな裏技のような移動ルートを利用している事に、施設の警備状況は大丈夫かラースも非常に気になってしまった。
蹴り開けられた点検口は、相手が天井裏を駆け出す前にちゃんとしめ直されているので構わないが、やはりネジを使った留め具をもう一つ増やすべきか、その場に残ったラースは腕を組みつつ悩んでいたのだった。
***
ラースと別れた湊は、天井裏を通って食堂へと向かった。
いくら天井裏といっても定期的に点検を行っているため、クモの巣も張っておらず、ネズミや害虫の気配は感じるものの、意識して強い気配を放っている湊に怯えて相手は出て来ない。
そうして、ダクトやパイプの通った狭い空間を駆け抜け、寝巻用の着物もほとんど汚さずに食堂に通じている点検口に到着する事が出来た。
後は点検口の板を開けて下りるだけなので、湊は板に手をかけて開くと、手を離せばきれいに閉じるよう気をつけながら食堂に降り立った。
「うわっ!? ちょっ、あんた、その天井裏を通る移動の仕方やめなさいって言ってるでしょ! 天井裏なんて綺麗な場所じゃないんだから、気を付けなさいよね」
急に目の前に降ってきた湊に、驚いたレベッカが怒りながら注意する。
確かに、服や湊自身に汚れは見られないが、天井裏が不衛生な場所であることにかわりはない。
そんなところを通って、食堂という他の場所よりも衛生面を気にする場所に来たとなれば、レベッカでなくとも怒るのは無理もなかった。
「…………」
しかし、怒られた本人は、相手を一瞥もせずに黙って辺りを見渡し、自分を呼んだ者の姿を探している。
天井から急に現れ、直後にレベッカが大声で注意していたことで、他の者の注目も集めていたらしく、先にイリスの方から苦笑しながら近付いてきたため湊が動く必要はない。
そして、相手が来るのを湊が黙って待っていると、背後で肩を震わせていたレベッカが湊の後頭部に向けて手刀を放ってきた。
こんな不意討ちを受けるのは、初日の演習後から数えて既に二桁に達している。
能力を使わずともある程度の気配を感じられる湊にすれば、襲撃の回数が増えてきたこともあり、相手の攻撃パターンも把握出来ている。
攻撃の軌道を完全に読み切った湊は、右足を引いて振り返る際、腕を捻りながら右掌を突き出し、相手の呼吸を詰まらせるようにレベッカの左胸を押し潰した。
「いだぁっ!?」
「……フン」
「こ、こいつ、また私の胸さわった! 踏んだり、頭突きしたり、今みたいに押し潰してきたり、色んな方法で毎日のように触ってくる!」
カウンターで攻撃を喰らったレベッカは、胸部を強く圧迫されたことで、湊の狙い通り一時的に息が詰まったらしく、目に涙を滲ませて叫ぶ。
しかし、カウンターで攻撃を喰らったことよりも、その攻撃を受けた部位の方が気になるようで、相手は自分を抱くように胸を守っている。
湊の元にやってきたイリスは、湊の頭に手を置いて髪を手櫛で梳かしながらそれを聞き、やや呆れたように笑って口を開く。
「男に触って貰った方が育つらしいぞ。部隊のおっさんだとセクハラだけど、小狼は性欲がないからな。安心していいぞ」
「それ迷信! それ以前に、そいつも男だし。ってか、中学二年とか思春期真っ盛りで性欲の権化じゃない!」
欠片も安心できる要素がない。レベッカはイリスの言葉を切って捨て、警戒心を剥き出しにして、湊を睨みつける。
だが、湊はぼーっとしながらイリスに髪を梳かされているので、話を全く聞いていなかった。
そんな少年のマイペースさに苦笑し、イリスは手を二回ぽんぽんと頭に置いて、さらに答えた。
「本当だって。人間の脳ってのは、性的興奮を感じているときには特定の反応を示すんだ。だけど、コイツには一切その反応が出なかったんだよ。脳に欠陥があるのかって調べてやったけど、そういう問題じゃないらしいな」
「そういう問題じゃないってどういうこと? 生まれつき、生殖機能にでも障害を抱えてるの?」
話しを聞いて、レベッカが訝しむような視線を湊に向ける。
湊の年頃ならば、例えどんなに鈍感な男であっても、程度の違いこそあれ身体や思考が性に興味を示す様になるのが普通だ。
これは、二次性徴をむかえ、ホルモンのバランスから起こる現象であり、成長ホルモンが分泌されないなど発達不良を起こしていないでもない限り、医学的に当たり前の反応なのである。
既に二十歳になっているレベッカもそれは分かっているので、ボディタッチはお断りだが、こっそり視線が胸や足に行っていたとしても、まぁ、年頃だからしょうがないだろうと大目に見てやるつもりであった。
けれど、保護者役であるイリスがそれを否定したため、テーブルに着いていた他の者も身体を三人の方に向けて話を聞こうとしている。
ちょっとしたハプニングから、随分と話が大きくなってしまったような気もするが、イリスは一度深く息を吐くと、湊の後ろに回っておぶさる様に抱き付き、さらりと爆弾を投下した。
「コイツさ。本当に中性なんだよ。遺伝子キメラだか染色体モザイクだかってやつ」
『……は?』
「胎児って初期は全員が女で、そこから個体によって男に変化していくだろ? だけど、小狼は最終的に男として生まれたんだけど、細胞を調べたら部位によっては女の染色体が残ってんだ」
これはイリスがロゼッタと一緒に調べたことなのだが、仕事で遠出した宿泊先のホテルで、暇だからと有料アダルトチャンネルを湊に見せた際、本当につまらなそうに眺めているだけの相手に、二人は湊が不能症なのかと心配したことがあった。
だが、仕事でそういった性的な技術が必要になる場合もあるとして、一線こそギリギリ越えていないが、二人だけでなく
それだけに、もしや、ストライクゾーンが極めて狭いのだろうかと、様々なジャンルの映像や画像を見せてみたのだが、最後まで湊の身体が反応を示す事はなかった。
仕事を終えて湊と共に戻ってきた二人は、保護者である桜にその事を相談し、純粋な子どもになんて事をしているんだと本気で怒られ、鵜飼や渡瀬が止めに入り、逆に返り討ちにあったなどということもあったが、鵜飼の伝手を借りて、ある病院で内密に検査をすることになった。
そこで判明したことが先ほどイリスが話した湊の特異体質であり、本人の精神的な成熟度も関係しているのだろうが、部分的に女性の遺伝子を残していることで、脳の構造や性に関する捉え方が人と異なっている可能性が高いということだった。
もっとも、脳や思考が他者と異なっていても、湊に男性としての機能が備わっていることは既に証明されている。桜と共に検査に同席していた二人が、部分的にぼかしながら男性機能があることを確認している旨を話すと、医者からは本人が意図的にコントロール出来るのではという答えが返って来た。
実際、それが正解であり。湊は自分が両性別の遺伝子を持っているとは知らなかったが、裏の仕事をしている女性たちから技術を教わるときには、頭の中のスイッチを切り替えることで身体が反応するようにしている。
切り替えをしないかぎり、湊が性的興奮を覚える事はほぼあり得ず、佐久間からほぼ毎日にように受けていたアプローチを完全に流していたのも、それが原因であった。
「あ、生殖機能ってか身体はあくまで男だからな。あんまり変態っぽいことは考えるなよ?」
まるで
湊が男だと思って諦めていたが、女の可能性が浮上してゴクリと喉を鳴らす者がいたため、イリスはその者たちを完全な殺気を宿した冷たい眼で牽制し、湊の背中を押してナタリアらのいた私兵の集まるテーブルに移動した。
二人はやってくるなり、先にそちらにいたナタリアから、溜め息と共に迎えられる。
「はぁ……あのね、イリス。そういう情報は前もって教えておいてくれるかしら? 仮に貴女がいない場所でボウヤが大怪我を負った場合、どんな風に治療していいか分からなくなるでしょう?」
またしても自分たちの斜め上をいく湊に頭を悩ませつつも、ナタリアは他の者よりも復帰が早く、子どもを預かる者の立場としてイリスを窘めた。
ナタリアの復帰が早かった理由は、湊が名切りの出身であると教えられていたためであり。優秀な個体を作るための交配の中で、女性と男性、それぞれの持つ特徴の良いとこ取りも、当然、その過程の中に含まれていたと推測したからだ。
失敗すれば、それぞれの性別の欠点のみを受け継ぐような、不完全な存在となってしまっていただろう。その事を頭で理解しながらも、生物学の根底を覆すような性質の固定化を、数千年かけて実際に成し遂げてしまっている“百鬼”という一族には、執念を超えた狂気を感じてしまう。
自分の血筋を知らぬ状態でも、湊は子どもでありながら、裏の世界で化け物と呼ばれる者と戦えるレベルまで成長している。
これで、自分の力の根源を理解し、その狂気に取り憑かれてしまった場合、果たして湊は自分の人格を保ったままでいられるのだろうか。
ナタリアは、湊とその周りにいる者たちの事を考え、感じた不安を拭えずにいた。
しかし、それを顔に出さずになんとかいると、しまったと情報伝達のミスに顔を顰めたイリスから謝罪の言葉が届いた。
「あ、悪い悪い。でも、なんとなく分かるだろ? ほら、運動してきたばっかりなのに、小狼の髪からはシャンプーみたいな匂いしかしないし。男だと汗とかの分泌物の違いから、こんな匂いはしないからな」
イリスに言われて、ナタリアはすぐ横にきた湊の頬に手を当てると、その時点で女性的な非常にきめ細かい肌をしていることに気付くが、さらに髪や首辺りに顔を近づけて匂いを嗅いでみる。
湊のトレーニング量は、全隊員の中でもずば抜けて多いため、汗をかいていないということは先ずあり得ない。
だが、髪が少し汗で湿っているというのに、汗の臭いはまったくせず、イリスの言葉通りにシャンプーのような心を落ち着かせる良い香りが仄かにしていた。
匂いを確かめたナタリアは、湊から離れると椅子に座り直し、正面から見据えて再び確認のため口を開いた。
「……ボウヤ、本当にシャワー浴びてきてないの?」
「部屋に戻る前にラースから伝言を受け取って直接来た。だから、まだ汗は流せてない」
「……便利ね。うちのむさくるしい男たちも、ボウヤみたいに良い香りが出るようにならないかしら? トレーニングルームの換気扇って結構電気代がかさむのよ。でも、ないと気化した汗で天井付近に雲が出来るし、いっそのこと男は外でのトレーニングを義務づけようかしら」
ボスの決定は絶対である。民間とはいえ、軍の体裁を取っている“蠍の心臓”でもそれは当然で、一度決まってしまえば、隊員たちが長期に亘って必死に訴え続けても、ナタリアがその件に正統性や有効性がないと判断しない限り撤回はない。
そのため、この場にいた男性隊員は急に立ち上がると、綺麗な気を付けから深く頭を下げて礼の姿勢を取り、全員が真顔で懇願した。
『勘弁してください』
これには、食堂にいた女性陣だけでなく、ぼーっとしていた湊もやや驚いたような反応を示し、ナタリアは、
「じょ、冗談よ」
と、発言を取り消した。
それを聞いた男性陣は安堵の息を吐きつつ席に座り。それぞれのテーブルで雑談が聞こえ始めると、ようやく食堂は普段の風景を取り戻していた。
天井からの登場に始まり、カウンターで放った攻撃が
「……用事って?」
「ああ、オマエって今日が誕生日だろ? で、ナタリアたちが良い物くれるってさ。アタシからは本当の誕生日の方に渡すからな。楽しみにしておけよ」
「……そう」
本日、四月五日はエルゴ研の室長であった飛騨が設定した、“有里湊”の戸籍上の誕生日だった。
百鬼八雲の誕生日は十月二十五日なので、そちらを知っているイリスは本当の誕生日を祝うつもりでいる。
だが、蠍の心臓のメンバーはそのとき一緒にいるか不明なので、戸籍上の誕生日を祝ってやろうと考えていた。
イリスにそんな呼ばれた理由を聞いた湊は、ナタリアらが何をくれるつもりなのか考えながら、感情の読みとれない瞳で静かに相手を見つめる。
誕生日ならばもっと子どもらしく喜べば良いものを、ナタリアはそんな事を思いながらテーブルに置いていた横に長い革張りの茶色い鞄を湊の前に滑らせた。
湊の前に移動させたまま開こうともせず、ナタリアは何も言ってこないので、相手が自分で開けてみろと暗に告げていると推測し。湊は着物の袖を揺らしながら、鞄の留め具を外して、ゆっくりと蓋を開けた。
「……知らない銃だ」
「あら、シルエットハンティングだと有名な物なのだけど、知らないなら説明するわ。トンプソン/センター・アームズ製のG2コンテンダーよ。まぁ、知り合いのガンスミスがいじったカスタムモデルだけど」
楽しそうに話すナタリアの説明を聞きながらも、湊の瞳は初めて見た銃に釘づけになっていた。
中に入っていたのは、一見、小型ライフルのようにも思えるグリップなどがウォールナットで出来た、全長四十センチはありそうな大きな拳銃であった。
組まれた銃の他に、予備パーツなのか長さの違う銃身がいくつか入っているが、弾倉は一つも入っていない。
それどころか、銃自体にも弾倉を取りつける部位が存在せず、どうやって弾丸を籠めるのかも不明である。
そうして、不思議に思いながらも銃を手に取ると、湊はそれが中折れ式のシングル・ショットピストルであると気付いた。
「一発撃つごとに、手動で排莢と装填をしないといけないのか。面倒だな」
「その分、銃自体がかなり頑丈に出来ているし、精度も信頼できて、熱で銃身が曲がる心配もないわ。さらに、状況に応じて銃身を交換することで、22LR弾からライフル弾まで撃てるのよ。試しに鹿でも狩りに車を出してあげましょうか? ハンドガンでのハンティングはライフルとは違った興奮が味わえるわよ」
確かに、銃を細かく見てみたところ、排莢と装填の手間に目を瞑れば、グリップの握り易さと重心の位置から、非常に安定した姿勢で撃つ事が可能であり。銃身の交換自体も、パーツはビスなどで固定されているので、手先の器用な湊ならば工具すら使わずに簡単に取りかえることが出来そうだった。
湊は銃を選ぶ際、精度は勿論のこと、弾倉の装弾数と連続射撃がどれだけ可能であるか。また、使用中のアクシデントが起こり辛いなどの信頼性を主として考慮する。
タカヤのように一発の威力をメインに考える者もいるが、そんな物は携帯性を無視すれば拳銃ではなくライフルを使えば済む話しなので、湊にとっては馬鹿な考えだと切って捨てる程度のことだ。
しかし、ナタリアから貰ったG2コンテンダーは構造がシンプルだからこそ、不意の事故の可能性も低く、アクシデントの起こらない銃として高く信頼できるものであった。
ならば、こういった変わり種も一つ所持していてもいいかもしれない。
そう思った湊は、トリガーガードの下のスプールを引いて薬室のロックを解除し、前に倒れ込んだ銃身に何度か再装填のモーションを取ると銃を鞄に閉まって、そのまま鞄を腹部に当てるように帯にしていた黒いマフラーに収納した。
「貰っておく。ありがとう」
「……素直ね。というか、前から気になっていたのだけど、ボウヤのその帯とか靴ってどうなっているの? 完全に現代科学ではあり得ない収納や形状変化を可能にしているわよね?」
湊が帯に鞄を仕舞っている場面を見て、どこぞの猫型ロボットが頭を過ぎったナタリアは、他の者が今まで訊けずにいた質問を口にした。
この件について、最初の演習で刀を取り出すのを見ていたレベッカやヤン達も不思議に思っていたため、ついに真相が明らかになると湊の傍にいた私兵らの注目も一層増す。
この場に置いて本人を除き、マフラーと靴の機能を唯一聞かされているイリスは、どこか湊を心配するように眺めているが、尋ねられた本人は普段通りのやる気の感じられない表情のまま、たっぷり一分ほど経ってからようやく口を開いた。
「……シャワー浴びてくる」
「ちょっ、お前それ、誤魔化し方が露骨すぎんだろ!」
「ハポン、あんた世話になってるんだから、少しは他人にも恩返ししたりしなさいよ!」
話しを切り上げ、振り返ったまま部屋に戻ろうとした湊へ、パトリックとレベッカが突っ込みを入れて言葉をぶつける。
部隊の中には、辛い過去を持っている者もいるので、相手が話したくないのならば深く聞こうとしない不文律がある。
だが、湊の装備に関する説明に、何か暗いものがあるとは思えなかったので、レベッカがさらに肩を掴んで相手を逃がさないようにすると、次の瞬間、レベッカは宙を舞っていた。
「うえっ!? きゃあっ」
レベッカが湊の右肩に手をかけると、湊はそのまま裏拳に近い形で相手の胸倉を掴み、前方に向けて力任せに引っ張りながら払い足で相手を投げた。
一瞬のことで、他の者もフォローに回る事が出来ず、レベッカは綺麗に空中で一回転して床に落ちる。
投げられたのがチドリだったなら、咄嗟に投げられたにしても空中で体勢を立て直し、受け身なり着地を決めていただろう。
だが、レベッカは自分とほぼ同じ体格でありながら、圧倒的に力の強い者と組手をすることがなかったため、投げられるなど頭にまるでなかった。
そうして、一応は訓練を受けて実戦も経験している軍人でありながら、ドンッ、と盛大な音を立て床に身体を打ちつけ止まると、臀部を痛そうに擦りながらゆるゆると立ち上がった。
「いったぁ、お尻が割れるかと思ったわよ……」
「いや、最初から割れてるだろ。お前のケツは饅頭か何かか」
「はぁ? あんた、セクハラでブッ飛ばすわよ。ボス、この馬鹿やっぱり外しましょうよ」
自分でツッコミ所満載の言葉を吐きながら、パトリックが呆れ顔で実際にツッコミを入れると、レベッカは痛みで涙目のままナタリアにパトリックを私兵から一般に戻そうと提案する。
大人たちはその様子に怪我も打ち身程度と推測し、大したことがなくて良かったと安堵した。
他人を拒絶するオーラを纏っている割に、何故だか人によく絡まれる湊に突っかかって行ったのはレベッカであるため、湊が正当防衛で彼女を投げたことを責める気はない。
しかし、未だに臀部を擦っているレベッカに、さらに湊が近付いていったため、追撃をしかける可能性を考慮し、イリスは慌てて湊を後ろから抱きとめた。
「ストップ! それ以上やったら流石にやり過ぎだ。オマエ、普段は振り払うために対処する程度なのに、今日はどうした?」
いつもの湊ならば、相手が女性であるため、対処が済めばそのまま去っていく。
仕事であれば女子供も手に掛けるが、前提として弱者に甘い湊の基本スタイルがそうなのだ。
だというのに、あれだけ豪快に投げ飛ばしておきながら、まだ追撃をしようとするのは、普段ならば考えられないことだ。
何か気に障る事があって、怒っているのかとも思ったが、顔を覗き込んでも瞳は金色のまま。
そうして、不思議に思いながらイリスが答えを待っていると、湊は静かに口を開いた。
「……尾骨にヒビが入ってる。だから、治療する」
そう答え、湊は抱きとめていたイリスを引き摺ったまま歩き続け、強張った表情で身構えているレベッカの前に移動した。
他の者は湊が何を言っているのか分からないが、怪我をしている本人は、湊の言葉を受けて何か思うところがあったのか、左手でいつでもパンチを繰り出せるよう構えながら、右手で再び自分の臀部に触れた。
「……なんか熱持ってる。え、これ骨折なの?」
「折れてはない。だが、治療が遅れれば、周辺の神経を圧迫して影響が出る。後ろを向け」
普段よりもいくらか真面目な相手の口調に、レベッカも思わず素直に指示に従ってしまう。
まさか、公衆の面前でズボンと下着をずり下げてはこないだろうな、と僅かな不安を抱きつつ、顔だけ後ろを向いて見つめる。
すると、レベッカの腰辺りに手をかざした湊の手から、淡い緑色の光が放出され始めた。
それらは、湊の手からレベッカの臀部に吸収されていき、周囲の人間だけでなく、治療を受けている本人も何が起こっているのかは分からないが、とりあえず痛みが引いていくのを感じている。
そして、治療が始まって一分経ち、湊が手から光の放出を止めた頃には、完全に痛みは消えていた。
「すごい……なに今の? 魔法?」
「……違う。生命力を譲渡して細胞を活性化させ、ヒビの入った部位の回復を早めただけだ。切り傷とか銃創なら、こんな風には治せない」
「へぇ、よく分かんないけど便利ね。ねえ、肩コリとかは治せないの? あんたが人の胸によく触ってくるから、変に肩が凝るようになってるのよ」
生命力の譲渡など、実際はかなりすごい事を言っているはずなのだが、治療を受けたレベッカは痛みが消えた事で満足しているらしく、あまり深く考えていない様子で話しかけてくる。
だが、肩コリの理由があまりに信憑性が低かったため、湊は普段の二割増し面倒そうな顔をすると、相手の肩に手を置いて、緑色の淡い光を纏わせながら軽くマッサージを始めた。
生命力は心地よい温かさを持っているため、さらに、アナライズで相手の状態を把握しながら、絶妙な力加減のマッサージを受けるレベッカの顔は、だらしなく緩んでいた。
「あー……すっごい気持ち良い。何これ、あんたマッサージ屋の方が向いてるんじゃないの?」
「……身体の機能を十全に使うために必要なエネルギーだ。生命力を放出し過ぎれば、俺だって普通に死ぬ」
そう、いくらデスの恩恵で蘇生が可能な湊であっても、生きていくために必要なエネルギーその物が枯渇すれば、他の生物と同じように死に絶える。
ある程度残っていれば、休息と食事によって回復してゆくが、そういった事をするにも最低限のエネルギーが必要であり。それはイメージとして、車のエンジンをかける際のバッテリーに近いだろう。
エンジンをかけるには、最初に回すためにある程度のバッテリー残量が必要で、それを下回っているとエンジンは掛かり辛くなるか、全く反応しなくなってしまう。
レベッカも部隊の活動でそのことは勉強していたので、湊から生命力の説明を受けるとその重要性を理解し、湊の様子を気にしながらマッサージを中断させた。
「そろそろいいよ。かなり楽になったし、ありがとね。シャワー浴びるなら、身体冷える前に行ってきな。誕生日に体調崩したら大変だし」
「……わかった」
マッサージを終え、レベッカに自室に戻る事を勧められた湊は、相手の態度をどこか不思議そうにしながらも頷き、他の者に一度視線を送るとそのまま食堂を出ていった。
湊の姿が見えなくなるまで、レベッカが右手を腰に当てて見守っていたため、彼女が皆の元に戻ってくると、急に態度が変わったことを訝しんでイリスが尋ねる。
「あんなに嫌ってたくせに、急にお姉さんしだすなんて一体どういう風の吹き回しだ?」
「んー、なんか扱い方が分かった気がしたっていうか。多分、暇なときにまた会って、私がマッサージしてって言ったら、あいつ面倒そうにしながらも断らないわよね?」
「アタシは小狼本人じゃないから、絶対とは言えないよ。だけど、まぁ、多分そうだろうな」
相手をよく理解しているイリスが腕組みをしながら首を縦に振ったことにより、レベッカは自分の感じた湊という人間の認識がほぼ正しいと確信する。
前々からその予兆はあった。バーバラに鑑定を頼まれたときや、シャワーよりもイリスを優先し呼ばれて真っ直ぐやってくるなど、湊は女性の頼みを基本的に断らない。
それが完全に相手の私欲であったなら、湊も拒否する可能性はあるが、相手がただ頼ってきたなら湊は怪我をした人間を治療したように、その手を掴んで施しを与えるに違いない。
頼んできたのが男の場合の対処も気になるが、レベッカは湊との上手な付き合い方を知ることが出来たので、とりあえず今後は態度を少し改めることにした。
「あいつ、面白い性格してるわね。というか、年上に好かれる感じよね。なんか構ってやったら子犬みたいに付いてきそうだし」
「……あんまり遊ぶなよ。ただでさえ、新しい環境に慣れようとしてる最中なんだから」
「大丈夫、大丈夫」
レベッカの様子にどこか腹黒い物を感じ、湊を心配したイリスがジトっとした目で諌めるも、レベッカは構わず楽しげに笑う。
他の者らは、湊の性別の秘密・不思議なアイテム・生命力の譲渡と、あまりに非現実的なことが続いたことで、話についていけていない中、ナタリアだけはレベッカに振り回される湊を想像し、同情して深いため息を吐いていたのだった。