6月11日(日)
午前――高級別荘地・桐条別宅
巌戸台から遠く離れた静かな地方の高級別荘地。そこにある白を基調とした洋風の外観の屋敷の敷地に一台の車が入ってきた。
使用人たちの待っていた入り口前で止まったその車から運転手が降りてくると、運転手は屋敷の入り口側の後部座席のドアを開ける。
そうして、運転手が開けた後部座席から降りてきたのは、緩く巻かれた赤髪の少女、桐条美鶴だった。
「ありがとうございます」
美鶴はドアを開けていてくれた運転手に礼を言って、そのまま屋敷の入口へと向かう。
待っていた使用人らが恭しく頭を下げて、屋敷に訪れた美鶴を出迎えているのを横目に、美鶴は女中が開けた扉から屋敷の中へ入った。
広々としたエントランスを抜け、何度も来た事のある屋敷の奥の部屋へと進んでゆく。
そうして、廊下を歩き続け、目的の部屋の前に辿り着くと、美鶴は軽く扉をノックした。
《どうぞ》
ノックをして直ぐに部屋の主から入室を許可される。
親子なのだから、ここまで丁寧にする必要もないのかもしれないが、それでもこの屋敷は桐条英恵の物で、美鶴は遠くから訪れた客だ。
故に、桐条の教育で身に付けた習慣というのもあって、美鶴は親子であってもこうするのが当然だと考えながら、扉を開いて部屋の中へと入った。
「直接会うのは随分久しぶりね。会いたかったわ、美鶴」
部屋に入るなり、ソファーに座って本を読んでいた英恵が立ち上がって、やってきた美鶴を抱きしめた。
前に会ったのは美鶴の誕生日だったので、実に一月ぶりの再会だ。
といっても、年末年始や各々の誕生日を除けば、保養地にいる英恵が美鶴や桐条武治に会うことは滅多にないので、そういった事を踏まえれば随分と早い再会だったとも言える。
だが、月に一度の頻度で訪れていた湊も、現在は海外に行ってしまって会えないので。子どもたちと会えない寂しさを感じていた英恵にとっては、たった一ヶ月でも普段以上に長く感じてしまっていたのだった。
「お久しぶりです、お母様。お身体の調子はよろしいのですか?」
「ええ、起きて話しを出来るくらいに大丈夫よ」
抱擁を解いて、美鶴から身体を離し朗らかに笑う英恵。
だが、起きて話すという健康な者なら当たり前に出来ることでも、身体の弱い英恵には体調によって少しばかり難しいときもある。
それだけに、母がわざわざ起きて話せると言ったことを気にして、美鶴は心配した表情で尋ね返した。
「そ、それは大丈夫なのですか? 少し前よりもいくらか体調を崩しているように思えるのですが、体調が優れないのであれば、寝室のベッドで休みながらの方が良いのでは?」
「フフッ、冗談よ。前に貴女に会ったすぐ後ぐらいから体調が良いの。きっと美鶴に会えたからね」
「私が会う事でお母様が元気になられるのなら、もっと時間を作って会いに来れるようにします。お父様もお母様のことをいつも気にしていますし、私もお母様と一緒に居たいですから」
冗談だと、実年齢よりも若く見える悪戯っぽい笑みを浮かべた母に、美鶴もほっとして安堵の息を吐くと明るく笑った。
病は気からというので、普段会えない我が子に会えたことで心の満たされた英恵の体調が、この地で静養しているときよりも良くなる可能性はある。
美鶴も医学的にそういったケースもあるだろうと信じて、多忙な父と揃ってとはいかないが、例え自分だけでも母に会いに来ようと思った。
ただでさえ、英恵は身体があまり強くないのだ。七年前の親友家族の死で心を壊していたときには、本当にこのまま死んでしまうのではないかと美鶴も心配した。
もうあんな姿は見たくないと、美鶴は少しでも母が安らぎを感じられるようにしたいと普段から考えている。
そのためならば、自分の時間を削ってでも母に会いに来ることくらい何の苦労でもなかった。
「それで、今日は話したいことがあると言っていたけど、どういった内容なのかしら?」
「あ……はい。その、自分がどうすべきか分からなくなってしまって」
「難しい話しのようね。貴女がきたらお茶を淹れてくれるように伝えているから、話しはお茶が来てからにしましょう」
てっきり、どうすれば湊と会話出来るかと言った相談だと思っていた英恵は、美鶴の表情が曇ったことで想像よりも深刻な話だと理解した。
普段の彼女を知っている者ならば、美鶴がこのような弱音を吐くところなど想像も出来ないだろう。
しかし、英恵の知っている美鶴という少女は、周囲から渡された『桐条の娘』という仮面を被って必死に立ち回っている、どこか不器用なか弱い少女でしかなかった。
大人が相手でも堂々としているというのも、そういった環境で育ったため、彼女にとってはそれが当たり前なだけだ。
普通の暮らしもしていながら、相手が大人だろうと間違っていれば自分の意見を真っ向からぶつけ、時には力で黙らせることの出来る七歌やチドリといった少女の方が胆力は強いといえるだろう。
だからこそ、自分の娘ということもあって、英恵は他の者ほど美鶴を才能に恵まれた特別な子とは思っていない。
桐条武治などは親馬鹿なところもあって、美鶴が容姿端麗でいくつもの才に恵まれた子どもだと、英恵に会ったときには興奮気味に褒め称えている。
他の者がいる場所ではそんな事は一切言わないが、その反動で妻に娘のことを熱く語るくらいならば、実際に本人に言ってやればいいのにと英恵も苦笑していた。
その事を桐条に言うと、相手はいつも「恥ずかしくて娘に会えなくなるだろう」と照れながら答えている。
美鶴も大概ファザコンだが、桐条もそれ以上に娘を溺愛しているので、両者が人付き合いに不器用でなかったら桐条宗家のイメージはがらりと変わっていたに違いない。
影時間など存在しない平和な世界であったなら、そういった姿でも良かっただろうと考えながら、英恵は美鶴を連れてソファーに向かうと、テーブルを挟んで向き合った。
少し経ってから、女中らがお茶のセットを持ってやってきたので、彼女たちが退室してから英恵は美鶴にもとりあえず紅茶に口を付けるよう言い。
そうして、温かい物を飲んで少し固さの抜けた美鶴は、いまだ表情は暗いままだが、先ほどよりも冷静さを保って話し始めた。
「お母様は前に話した、有里湊という少年のことを覚えてらっしゃるでしょうか?」
「ええ、貴女よりも高い適性を持つ適性者候補の男の子だったわよね。聞いた話では今は海外に留学中ということだったけど、何かあったのかしら?」
「いえ、有里自体は別になにも。ただ、その家族の少女も有里に準ずる高い適性を有していたので、五月の終わりに話しをしたのです」
地方にあるこの屋敷にいると、どうしても都会よりも情報を得るのが遅れてしまう。
美鶴が暗い表情で湊のことを話しだしたので、もしや、海外で何かあって学校に連絡がきたのではと英恵は一瞬不安を覚えた。
だが、それを美鶴がすぐに否定して話題がチドリに移ったため、安堵しつつも表情に出さないよう気を付ける。
本当は美鶴も幼い頃に会っていて、八雲と名乗っていた時代の顔を少しは知っているのだが、色々なことが立て続けに起こったせいで、すっかり忘れているらしい。
ならば、桐条武治が湊と八雲が同一人物であると分かっていながら放置している以上、英恵も自分と湊の繋がりを知られる訳にはいかないため、娘を騙す心苦しさを感じながらも隠し通すつもりでいた。
チドリについては、英恵も桐条のサーバにあるデータを桐条に伝えて閲覧していたので、自分が知っていてもおかしくないだろうと既知であることを美鶴に伝える。
「吉野千鳥さんね。私もここでデータに目を通させて貰っているから知っているわ」
「ええ、私はその吉野に仲間になって欲しいと頼んだのですが、有里に何かあったときに備えるので一杯一杯らしく断られてしまいました。確かに、有里は文武共に非常に優秀です。各分野のスペシャリストには勝てないでしょうが、ジェネラリストとしては最高の能力を持っていると思います。そんな彼を助けるつもりなら、どれだけ準備していてもし過ぎるということはないでしょう」
「フフッ、貴女も世間からはそう見られているじゃない」
娘がとても客観的に考察しているので、英恵はクッキーに手を伸ばしながら、つい笑ってしまう。
世間の評価は美鶴の方が上だ。中学生を対象にした全国模試では、美鶴も湊も学校の定期考査と同じように全教科満点を取っているので、そんな化け物が二人とも月光館学園に通っているということで注目を集めているかもしれないが、それ以外に関して湊は無名である。
全国クラスの中学生ボクサーの真田を破ったのも、知っているのは月光館学園の生徒とその知り合いくらいだ。
部活だってコンクールには応募していないため、月光館学園の美術工芸部など知る者は皆無だろう。
その点、美鶴は桐条宗家の娘として社交界にも出席しているため、色んな業界の人間に知られている。
学業の優秀さもそこに加われば、ルックスとスタイルが非常に整っていることもあって、天から二物も三物も与えられた才女として有名になるのも当然であった。
「私は優秀な家庭教師を何人も付けて貰い、幼い頃からそればかりをして今の地位に居る身です。自分なりに努力しているつもりですが、環境も含めて鍛錬に必要な物を全て与えて貰っている自分と、周囲の助けはあっても自らの力で今の実力まで登り詰めたであろう彼を、比べること自体が失礼に当たると思います」
しかし、美鶴自身は自分が優秀だと思っていないのか、どこか憂いを帯びた笑みを浮かべ首を振る。
確かに、最高の環境を与えられて育った者と、厳しい環境の中で這い上がってきた者を、実力外の格で比べるのは難しい。
何せ後者は大きなハンデを背負った状態で同じ場所にいるのだ。その分の労力を鍛錬に注げたならば、恵まれた環境にいて同じ地位に居る者よりも上にいけた可能性もあっただろう。
だが、金をかければ育つ訳ではないことは、各分野のトップが富裕層ばかりではないことが証明している。
装備にお金のかかる楽器や一部のスポーツでもないかぎり、やはりトップになるには恵まれた環境にいようと努力するしかない。
聡明な美鶴がそれに気付けないはずはないのだが、自身が恵まれた環境に居ることが他者に対する負い目になっているようで、自分は湊に及ばないと美鶴は譲らなかった。
娘のそんなコンプレックスに困ったものだと多少思いつつ、英恵はこの話しを続けても父親譲りの頑固さを持つ美鶴の考えを変えることは出来ないだろうと、脱線しかけていた話しを戻すことにする。
「それで、吉野さんとお話しをして、仲間になることを断られたから相談に来たわけではないのでしょう?」
話しを戻しながら紅茶のカップに口を付けて、英恵は美鶴の様子を観察した。
すると、相手は英恵の言葉に肩をビクリと揺らして、テーブルに置かれた紅茶に視線を落としながら表情を強張らせている。
ペルソナ能力が伸び悩んでいることや、仲間が出来ない事に不安と焦りを覚えているのだろうか?
そんな風に、様々な推測をしようとも正解だと思える物に心当たりはなく。英恵は美鶴が自分から話し出すのをしばらく待つことにした。
ときどき口を開こうとしては再び結び、美鶴は自分がどう切り出せばいいのか悩んでいるように見える。
けれど、ようやく決心がついたのか、沈黙が続いてから五分ほど経って顔を上げ、美鶴は静かに話し始めた。
「……お母様は他人を憎いと思ったことはありますか?」
「難しい質問ね。ないと言えば嘘になるけど、子どもの嫉妬からくる感情であったりもしたから、はっきりと『憎しみ』かと聞かれると違うかもしれないわ」
「では、怒りでもいいです。誰を殺したいと思うほど、強い負の感情を抱いたことは?」
「……強い怒りはあったけど、殺意を抱くほどではないわ。でも、急にどうしてそんな事を聞くのかしら?」
正面から相手を見つめながら聞き返すも、英恵は娘の質問の意図が分からない訳ではない。
質問を聞いたときに真っ先に湊の事が思い浮かんだので、もしや美鶴は、湊が桐条を恨んでいることを知ったのかもしれないと考えた。
だが、それを知るには湊の過去について知らなければならない。
美鶴が湊の正体に気付いているとは思えないので、例え一部であったとしてもどうやって湊の過去を知ったのかと考えたところで、英恵はチドリの存在に思い至った。
それとほぼ同じタイミングで美鶴も質問に答えを返してくる。
「実は、吉野と話しをしたときに、有里が私と話さない理由に心当たりがないか聞いたんです。そして、七年前に我々が起こした爆発事故で、有里は両親を亡くしたと聞きました」
「では、有里君は桐条を恨んでいるから、美鶴を無視していると?」
「桐条を恨んでいる。しかし、当時の事故に私は関係ない。そういった複雑な心境から、関わらないようにしているのではないかと吉野は言っていました。事故と無関係でも加害者側の人間です。恨んでいるのなら手を上げてもおかしくはありませんから、それを耐えている以上やはり彼は優しい人間なのでしょう」
話している美鶴の表情はどこか寂しげで、湊が感情を抑えて耐えるくらいならば、いっそ加害者として貶すなり手を上げてくれて構わないとすら思っていそうだった。
そんな事をしても湊の心が晴れないことは分かっているため、無関係な人間に手を上げてしまったと湊が後になって後悔することも考えれば、二人のために英恵は美鶴を窘めておくことにした。
「美鶴、いま考えていることをしては駄目よ。有里君が貴女の言う通り優しい子なら、貴女に手を上げたことを後で深く後悔すると思うわ。そうなってしまっては、被害者と加害者という関係も曖昧になり。本当に有里君は感情の向ける先を失う事になる。どこにも怒りや悲しみを向けることが出来なくなった人というのは悲惨な物よ」
感情の矛先をどこにも向けられなくなれば、いつか溜めこんだ物が爆発して周囲にまで危害を加えてしまうかもしれない。
それも考え方によってはマシな方で、湊の性格を知っている英恵にすれば、むしろ湊は誰も傷付けない代わりに自らの命を絶つだろうと読んでいた。
デスの恩恵と魂の契約において死ねない以上、湊が命を絶つとすれば全てが終わってからになる。
当然、湊が命を絶とうとすれば英恵は阻止するつもりでいるが、全てが終わるまで負の感情を抱え込んだままでいれば、湊の心は静かに壊れてゆくだろう。
自身の軽率な行動で湊が壊れたとすれば、美鶴も責任を感じて己の人生を湊の介護に捧げると言い出すに違いない。
娘と息子をそんな不幸な目に遭わせたくない英恵は、しっかり美鶴と視線を合わせて念押しした。
「貴女が桐条の罪を背負う必要はないと言っても、きっと貴女は自分を責めて追い込んでしまうのでしょうね。だけど、それなら尚の事、有里君の意思を汲んであげなさい。美鶴が認めるほど優秀なんですもの。例え正解ではなくとも、きっと彼の行動は間違ってはいないわ」
「しかし、彼が今の地位にいるのは復讐のためだと聞きました。あの事故から今日まで、お父様を殺すために知識を蓄え、身体を鍛えてきたのだとっ」
悲痛に顔を歪め、美鶴は膝の上に置かれた手を強く握り締める。
「彼を傍で見てきた彼女が言うからには、そこに嘘はなく全て事実なのでしょう。私たちが彼の人生を歪めてしまったんです。彼のためにもそんな事はさせられませんが、彼の生きる意味を奪う事も私には出来ない。教えてください、お母様。復讐に取り憑かれた彼を救う事はできないのでしょうか……」
今にも泣き出しそうな顔で教えを乞う美鶴に、英恵は相手を納得させるだけの答えを返す事が出来ない。
チドリやアイギスを救うために動いているため、ただ復讐に囚われている訳ではない事は知っている。
だが、桐条武治を殺すと英恵に宣言した湊の瞳を見たとき、あんなにも優しかった少年がここまで憎悪の籠った目をするのかと、変わってしまったことに申し訳なさと悲しさを感じてしまった。
救う方法はある、あると信じたい。そう願っても、英恵も湊を救う事が出来る者がいるとは思えなかったのだ。
「……残酷な言い方だけど、私たちに出来る事はないわ。あの事故と美鶴は無関係。でも、お互いに被害者側と加害者側の立場である事は変わらない。だから、その子を救えるとしたら、家族か同じくらい心を開かれた人だけでしょう」
「吉野は有里の心を救いたがっていました。ですが、自分では出来ないとどこか分かっているようにも見えて。最も近い場所にいる彼女に救えないなら、有里は憎しみに囚われ心の孤独を抱えることになってしまいます」
「自分で選んだ道ならば、それもしょうがないのではないかしら。ペルソナは心の強さ。彼の適性の高さはきっと想いの強さよ。吉野さんでも彼に遠く及ばないということは、彼の憎しみはそれほどということ。まぁ、そんな状態でも理性を保っているのですから、実際はもっと上なのでしょうけどね」
湊は力をセーブしてチドリの四倍という適性値を叩き出している。
セーブはシャドウらが怯えて出て来なくなる可能性を考慮した処置であるが、それをせずに測定すればチドリの十四倍の測定限界ギリギリにまで跳ね上がるのだから、死に瀕した状態でデスを内包した影響は大きいと言えた。
これは桐条側も知らないことだが、ペルソナ使いの適性は大きく分けて三つの成長の仕方がある。
一つは戦闘や訓練で己とペルソナを鍛えること。将来的にノリの良い者が『レベルアップ』などと称するのもこの方法だ。
この方法ならば誰でも地道に力を付けることが出来るが、ある程度までくると伸び悩み、最終的に成長限界を迎えてしまう。
そんな伸び悩んでいる者や成長限界を向かえた者でも力を伸ばせるのが、二つ目の方法である精神的な成長だ。
表面的に自分は変わるんだと宣言するのではなく、何かを強く決意することや、トラウマを克服するなど、真に心に変化が訪れたときにこれは発生する。
中にはペルソナの姿が変わる者もいるので、ただ地道に鍛えるよりも難易度が高い分だけ効果が見込めた。
しかし、それら二つの方法を取っても最終的に成長限界は訪れる。
桐条の行う検査における適性上限は、その成長限界を仮定した物で、人工ペルソナ使いや美鶴から採取したペルソナの成長データから数値を弾き出していた。
故に、どこまで強くなろうと上限には本来達するはずがないのだが、その上限を超えることを可能にするのが湊も知らぬ三つ目の方法だ。
最後の成長方法、それは『死』に近付くこと。
重傷を負って瀕死になることでも、五感や四肢を一つ失うでもいい。仮死状態からの蘇生などかなりの効果が見込めるだろう。
そうして死に近付くことで、生物に元々備わっているリミッターが外され、普段使っていないとされる脳の領域も利用し、最終的にその者は測定限界を上回る力を手にすることが出来る。
本来、自然適合者に劣るはずの人工ペルソナ使いが、初期値から対等以上の力を所持しているのはこのためで、エルゴ研時代はほぼ同等だった成長速度は、制御剤の副作用で寿命が縮むにつれて伸びていた。
湊の適性の伸びが速いのも、最初に瀕死の重傷負ってデスを内包した事以外に、飛騨の改造で何度も死んだことや、仕事の中で蘇生が必要なほど重傷を負ったことが理由である。
第三の方法で補ってようやく自然適合者と戦える人工ペルソナ使いと違い、湊は自然適合者でありながら、デスとエールクロイツを内包し、魔眼で普段からモノの死を見つめ、さらに何度も死と蘇生を経験することで適性を伸ばしている。
こんな真っ当でない方法など桐条の研究者も想定してないので、彼らの予測データを湊が上回ってしまうのも無理はなかった。
「気を付けなさい、美鶴。憎しみで人が殺せたらという言葉もあるけど、いまの世界ではそれが現実になり得るわ。自分の人生を捧げるほどの負の感情が具現化したとき、普通の人間がそれに勝てるとは思えない。もし、有里君がペルソナに目覚めても関わっては駄目。敵対するしかないのなら、迷わず逃げなさい。私や武治さんを置いてゆくことになっても」
「そんなっ、私はお母様とお父様を見捨てたりなど出来ません! 勝算がなくとも、必死に生き延びる方法を考えます」
悲しいことだが桐条武治の死は確定事項だろう。自分の意思で人を殺せるようになった名切りに狙われた以上、生き伸びる方法など先に相手を殺すしかない。
けれど、自分たちの行った実験の被害者で両親まで失った少年を、桐条が殺す事はほぼあり得ない。戦うのは美鶴や英恵が狙われたときだけだ。
湊の性格から言って、過去の自分との接点であり母の親友だった英恵を殺すことはなく。実験と無関係だった美鶴を殺す事もない。
故に、桐条が戦うような状況にはなりえないので、湊と繋がりのある英恵が話さなくとも、湊が月光館学園に現れた時点で桐条も自分が狙われていることは察していた。
だが、戦う状況になっても、絶対に両親も生き残れる道を探すことを諦めない。
そう話す美鶴の表情があまりに真剣なので、不謹慎かもしれないが英恵は嬉しさから笑いたくなった。
「ありがとう、美鶴。でも、自らの行いには責任が伴い、その責任において咎を受けるのは当たり前のことなのよ」
「ですが、お父様たちも故意にあんな事故を起こした訳ではありません。ご自分も片目を負傷していらしたのに、ずっと遺族や社会に対して真摯な対応をされていました。それは現在も続いており、総帥として人より多忙ながら、必死に影時間解決の方法を探っておられます」
「それは当たり前のことではないかしら? 確かに私も武治さんを立派な方だと誇りに思っているけど、責任を放棄して辞任する方がおかしいのであって、責任者なら社会に対して与えた悪影響を払拭する義務があるわ。そして、例えそんな事をしても有里君のご両親は帰ってこない」
あの事故によって社会に与えた影響を、桐条が贖罪としてどれだけ払拭しようとも、それは湊には何の関係もない。
湊が復讐する理由は両親を殺されただけではなく、大勢の子どもらが影時間を解決するための人柱にされたためだ。
人工ペルソナ使い計画を持ちかけたのは幾月で、その研究に深く関わっていたのも幾月を始めとした研究員らである。
だが、娘が既に天然のペルソナ使いとして覚醒した状態で、その美鶴を真っ先に被験体として使わずに、他の身寄りのない子どもを使うと、悪魔の実験を承認したのは紛れもなく桐条であった。
組織の責任者として、十を救うために一を切り捨てるのは間違いではない。あの実験に置いて、十は世界であり、一が被験体の子どもたちだっただけの話しだ。
けれど、たとえ世界のためであったと正しさを頭で理解しても、その切り捨てられた人間が判断を下した人間を感情によって恨むのは自由である。
いくら人工ペルソナ使い計画の凍結後に、美鶴のペルソナへ探査能力を開花させる実験を受けたせていたとしても。
「美鶴、貴女は随分と難しく考えているようだけど、これは社会や政治的な話ではないわ。被害者が加害者を恨むという個人の感情による話しなの。解決法は簡単よ。ただ有里君の心の隙間を埋めてあげるだけでいい」
「あの事故から、お父様への復讐を胸に生きてきた人間の心を救えというのですか?」
「そう。簡単ではないでしょうけど、不可能ではないと思うわ。感情の話しなら別の感情にすることで解決するしかないんだもの。でも、吉野さんが自分では無理だと思っているようなら、他のピースを探すしかないわね」
英恵の考えでは湊の心を救えるのは、最初からチドリかアイギスの二人だけだと思っていた。
湊の両親を殺した張本人はアイギスとデスだが、湊は何故だかそのアイギスを恨んでいない。
その時点で英恵にとっての第一候補はアイギスであったが、家族でもあるチドリが諦めているのならば、自分の予想が真実味を増したと思えた。
話しを聞いていた美鶴は、湊を救えそうな人物に他に心当たりがないのか、腕を組んで難しい表情をしている。
しかし、先ほどまでの泣きそうな顔から、今では困難に立ち向かおうとする強さを瞳に宿し始めているので、とりあえずは立ち直れたのだろう。
父親が大好きな娘に対し、随分と厳しい言い方をしてしまったが、時期がくれば美鶴も自分の父親のしてきたことを知るようになる。
ペルソナの覚醒候補者が現れた以上、今後はその候補者らと共にシャドウと戦いタルタロスの謎に挑んでゆくと思われるので、その時、今回のように被害者と遭遇して動揺していては戦闘にも影響が出るに違いない。
シャドウとの戦闘時に平常心を失っていれば、それは即座に死に繋がりかねないので、心を鬼にしてでも言っておいた方が良いと英恵は判断したのだった。
だが、せっかく来てくれた娘に、たったこれだけしか話してやれないというのはあまりに申し訳ない。
なので、湊との約束に抵触するかもしれないが、言ってもギリギリ問題ないだろうというラインで少しだけヒントも与えておく事にした。
「フフッ、美鶴にアドバイスを一つあげるわ。男の子はね。可愛らしい女の子に弱い物なのよ。だから、有里君を変えてくれるのは、きっとまだ見ぬ女の子に違いないわ」
「まだ見ぬ? ……有里のまわりは非常に容姿の整った女子や女性で溢れているのですが、まだ増えるのでしょうか? そうなると、私だけでは見つけることは出来ないかもしれません」
娘を元気付けるアドバイスをしたつもりが、逆に困ったような顔をして美鶴は眉尻を下げてしまう。
そんなリアクションは想定外であり。またどちらかと言えば母親似だが、両親の良いところばかりを貰って生まれた湊が、中学に一年通った程度で既にそんなにも人気だと聞いておらず、英恵は動揺を隠せず困惑した。
「そ、そんなに多いの?」
「ええ、同好会に彼のファンクラブが存在していまして、教師や学外の会員を含めて既に四百人を超えたと報告を受けています。中には男子で所属している者もおりますが、彼は学外でも人助けをしていたりするので、普通の生徒より出会いは多いかと。実際、彼が外国人の女性と歩いているのを目撃したという報告も受けております」
娘から受けた報告に、英恵は座ったまま卒倒しそうになった。
第三者の立場なら乾いた笑いを漏らして、随分すごいのね、と少年の人気の高さに圧倒されていただろう。
だが、英恵にとって湊は親友の息子であり、また自分にとっても実の息子のように娘と同じだけの愛情を注いでいる存在だ。
そんな少年が大勢の女子だけでなく、大人の女性や男子にまで狙われているという事実。
湊が腕力で捻じ伏せられるとは思えないが、優しい性格が枷となって襲ってきた女子にあまり抵抗できないやもしれない。
大切な子どもを傷物にされる訳にはいかないので、英恵は思考を切り替え、美鶴に裏で守らせようとアドバイスのフリをした指示を飛ばした。
「……有里君の好みはきっと同年齢くらいね。外国人の女性と歩いていたというなら、たぶん金髪碧眼がさらに好きなんじゃないかしら? その条件に絞って候補を探してみなさい。ああ、それと有里君は優しいから女子からのお願いを聞いてあげていそうだけど、あまり負担をかけて成績が落ちてしまってはいけないわ」
「は、はぁ……?」
返事をしながら美鶴は母の様子を不思議そうに見つめる。
しかし、娘の様子に構わず英恵は言葉に熱を宿して続けた。
「それでね、貴女が目を光らせて過干渉しようとする生徒を取り締まってはどうかしら? その方が彼からの印象もよくなると思うの。だって、学校の内外に四百人を超える敵……じゃなくて、有里君とお友達になりたいって人がいるのだから、人見知りな彼にとっては心休まる時間がないかもしれないじゃない?」
「い、いえ、別に有里は人見知りという訳ではないかと。実際、用事があれば自分から話しかけているようですし。知らない者から挨拶をされても、ちゃんと聞こえていれば返したりもしているようですから」
急に饒舌になった英恵に気圧されながらも、ちゃんと答える辺りに美鶴も相当大人との会話に慣れていることが窺える。
だが、ここは嘘でもいいから前向きに検討すると答えるべきだった。
子どもを心配する親モードになっている英恵は、美鶴があまりに楽観しているように感じて、貴方の弟が見ず知らずの人間に襲われてもいいのかと少し憤慨した。
「美鶴、真面目に考えなさい。問題が起こってからでは遅いのよ」
「ま、真面目と言われても。そこまで接点のない私が出しゃばる話しでもないような気がするのですが……」
「はぁ……あのね、美鶴。いい女と言うのは殿方に努力の影を見せないの。でも、それを続けているとあるとき『もしかして、自分のために?』と少しずつ相手も気にし出すわ。有里君に好印象を与えたいのなら、こういう努力を渋っては駄目。貴女もいずれは恋を知って愛を育むんですからね。これも練習になると思いなさい」
呆れたように溜め息を吐かれても、どう聞いても湊の露払いが自身の恋愛に繋がる練習になるとは思えない美鶴。
そもそも、父親が決めた婚約者がいるというのに、英恵の言うような自由恋愛が経験できるとも思えない。
加えて、そんな事をしたところで湊の心が変わらない限り、多少、好印象を与えたところで美鶴の行動は無駄に終わるだろう。
やはり饒舌な母親には違和感を覚えるのか、美鶴は困惑した表情のまま、とりあえず話しの内容に対する質問を口にした。
「し、しかし、先ほどご自分で有里の心を変えるキーマンは同年代の金髪碧眼の少女だと仰っていましたが」
「それはそれ、これはこれです。その鍵の子が有里君の心を変えた後、貴女は有里君と交流しないの? するでしょう? そういうときの事を考えて今から行動しておくの。貴女は頭は良いのに、そういった面には疎いわね。恋愛小説でも読んで少しはお勉強しなさい。姉と弟がお互いを意識してしまい苦悩するけど、実は本当の姉弟じゃなくて……ってお話しもあるし。後学のために読んでおいた方が良いわ」
「あの、私は一人っ子ですよね?」
「ええ、間違いなく。武治さんも真面目な方で側室を設けたりはしていませんから」
母親の考えていることが本当に分からなくなっていたが、少なくとも両親がお互いを愛していることが確認できたため、美鶴は安堵する。
これで実は兄弟がいると言われれば、嬉しい半面、戸惑いもかなり大きかっただろう。
それが回避出来ただけでも重畳だと、美鶴は安心からわずかに明るくなった顔で返した。
「でしたら、兄弟がいなければ、お母様の言われた小説では参考にならないと思いますが」
「出来るかもしれないでしょう、義理の弟が。固定観念は視野を狭めるだけよ。もっと柔軟な発想を持ちなさい」
「……わかりました。また菊乃に探して貰い読んでみます」
美鶴、撃沈。
この話題が始まった時点で英恵が押していたが、ついに美鶴は折れてしまった。
どうして英恵が特定層にしか受けなさそうな恋愛小説を知っているのかは不明だが、一度でも頷いてしまえば、今後も同じような物をまた薦められるに違いない。
現時点では、弟か妹がいれば嬉しい程度にしか思っていない美鶴にとって、そんな物を読まなければならないのは苦行だ。
影時間に関わることで悩んでおり、さらに父への復讐を企てる者の存在が明らかになった状況で、何が悲しくてドロドロとした恋愛小説を読まなければいけないのか。
だが、普段は会えない母が自身を想って薦めてくれた書物でもある。
そんなベクトルの違う悩みの板挟みに遭い、耐えられず頷いてしまったが、正面に視線を向けると母が満足気に笑っていたので、考える事を半分放棄した美鶴は、悩みを思考の端に追いやり。
ただ純粋に母とのひと時を楽しむことにしたのだった。
原作設定の変更点
原作においては有無しか存在しない適性に、明確に数値が存在すると設定。
その数値を『適性』及び『適性値』と呼称し、ペルソナ使いとしての強さのように作内で描写しているが、考え方は本人が所持しているMPやSPのようなペルソナ召喚やスキルの発動で消費するエネルギー量としている。
補足説明
作内の桐条が適性値を表すものとして使っている単位は『sp』で読みは『エスピー』。そして、測定上限は『100000sp』としている。
影時間に象徴化しない適性値が『200sp』で、これが作内における適性持ちのこと。
しかし、この200spはシャドウに攻撃出来る最低ラインに達していないので、適性持ちでは黄昏の羽根で補正を受けなければシャドウに攻撃することが出来ない。
ただ、ペルソナ使いは戦闘でエネルギーを消費しても、ペルソナに覚醒した時点でシャドウへの干渉力を入手しているため、エネルギー残量が最低ラインを下回っても戦闘は可能となっている。
そして、ペルソナ覚醒に必要な適性値は『1000sp』で、これがゲームにおけるレベル1に当たる。
適性値の上がる目安として、レベルが一つ上がる度に+500され。ペルソナ進化後やペルソナが進化しない者はレベル×1000が適性値となる。
第六十八話時点で判明している数値の差を表記すると以下の通り。
200sp:適性持ち
1000sp:ペルソナ覚醒…レベル1
3000sp:美鶴…未進化のレベル5相当
7000sp:チドリ…美鶴の二倍強、未進化のレベル12相当
31000sp:湊(セーブ状態)…チドリの約四倍、未進化のレベル60
50000sp:ペルソナ未進化状態のレベル99
98000sp:湊…チドリの十四倍、進化後のレベル98相当
99000sp:ペルソナ進化後・進化しない者のレベル99
100000sp:測定限界値
この測定限界を超えるには、作内で説明した三つ目の成長方法である『死』に近付く必要がある。
ただし、適性持ちはペルソナ使いと違い。いくら死にかけようが、その適性がシャドウに攻撃可能な最低ラインに届くことすらない。