【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第七十話 仕組まれた依頼

6月12日(月)

早朝――ヨーロッパ・オノス地方

 

 夏に近付きつつも、どこか肌寒さを感じさせる早朝の空気の中、屋敷の建つ敷地内に存在する屋外遊技場には金属同士のぶつかり合う音が響いていた。

 広さは陸上の四百メートルトラックほど、長方形のその場所を四メートルの壁が囲っており、中では囚人服を着た二人の男が盾と剣を持って血を流しながら疲れた様子で戦っている。

 屋敷の主人である少女は、壁の外側に設けられた観覧スペースに座り、紅茶を飲みながら男たちが戦う様子をつまらなそうに眺めていた。

 

「……はぁ、まったく楽しめないわ。勝てば無罪にして生かすと言ったのに、どうしてもっと必死にならないのかしら」

 

 戦っている男は二人ともが殺人を犯した死刑囚で、どうせ殺すのならと暇つぶしの道具を探していたソフィアが貰ってきたものだ。

 初めは七人いたのだが、生き残った者が無罪となって釈放されると伝えており。これならば、全員が殺人犯ということもあって、それなりに面白い戦闘が見られると思っていた。

 しかし、渡した武器の扱いに慣れていないのか、二時間経ったというのに二人も生き残ったまま、へばって決着を付けられずにいる。

 ふらふらしながら武器を振っても、全く迫力も緊張感もないため、初めから飽きれば捨てるつもりであったソフィアは予定を早めることにした。

 

「守護天使さま、あのゴミを片付けてください」

 

 アンティークドールのように美しい顔を妖しい微笑で歪めると、ソフィアの背後に水色の欠片が渦巻き始める。

 最初に見えたのは水晶を持った女の腕。続けて古代ギリシアの衣服である銀色のキトン、虹色に変化する単眼の描かれた両眼を覆う黒い眼帯に、首には宝石の付いた金色のアクセサリーが形作られてゆく。

 そうして、水色の欠片が治まったときには、長い紫髪をした女がソフィアの背後に現れていた。

 背後に現れた存在にソフィアは満足そうな微笑を浮かべ、続けて未だ決着を付けられずに男たちに視線を向けると、静かに呟きながら優雅な仕草で右手を横に一閃する。

 

「……ガルダイン」

 

 ソフィアの言葉に呼応するように背後に現れた女の水晶が光り出す。

 直後、固い地面を抉るほどの力を持った大気が、疲労で意識も朦朧としていた男たちを襲った。

 一人は地面を転がる間に四肢と首があらぬ方向へと曲がり。別の一人は大気に弄ばれながら壁に叩きつけられ、大きな赤い染みと共にへばり付く歪なオブジェとなった。

 ゴミの片付けという仕事を終えた女は、徐々に薄れてそのまま消え去ってしまう。

 だが、自分の引き起こした惨状を目にしても、ソフィアは自身が呼び出した“守護天使さま”の絶対的な力に喜びを感じているようで、その瞳は無邪気な子どものように輝いていた。

 

「うふふ……あはは……あははははっ! あゝ、やっぱりこの力は素晴らしいわ。神に選ばれた絶対的な王の力よ。ねえ、ヘルマン、貴方もそう思うでしょう?」

 

 恍惚とした表情を浮かべるソフィアの問いに、静かに控えていた左目にモノクルを付けた長身の老紳士が、礼をしながら恭しく答える。

 

「はい。裏界の姫君にして、神子(みこ)と尊ばれておられる姫様に相応しい力にございます」

「ふふっ、あの“神々の黄昏”に迷い込み、守護天使さまがわたくしの身に宿ったときは驚いたものだけど。そのおかげで千里眼を得て、誰もわたくしに刃向えなくなった。知っているかしら? 昔はわたくしを可愛がっていたお父様も、守護天使さまが宿ってからは、ずっとわたくしに怯えて顔色を窺っているのよ」

「ルーカス様は、姫様や私のように神々の黄昏には入れませんから、アパテー様の力を目にすれば怖れを抱くのも無理はないかと」

 

 ソフィアの付き人、ヘルマン・クラインが話すアパテーとは先ほどソフィアが呼び出した存在のことだ。

 二人はソフィアが幼い頃から主従として共に居るが、数年前に二人は“神々の黄昏”という不思議な時間に迷い込んだ。

 居る国によって発生する時間は違っているが、ギリシアに居て初めて体験したのが午後五時だったので、二人はそのように呼んでいる。

 神々の黄昏では全ての電子機器が止まり、世界が緑色に塗り潰される。さらに選ばれた者以外は全て棺のオブジェとなってしまう。

 稀に自分たちのように選ばれた人間も見てきたが、ソフィアのように“守護天使”をその身に宿す者は一人としていなかった。

 守護天使を宿しているソフィアは神々の黄昏では無敵だ。拳銃で撃たれても少し衝撃があるくらいで、むしろ無礼を働いた者の方がアパテーの力を思い知る結果となった。

 それは外の世界でも同じで、神々の黄昏ほどではないが、アパテーを呼び出しているソフィアを傷付けることは誰にも出来ない。

 さらに、アパテーを宿した恩恵で、ソフィアは屋敷にいながらでも、遠く離れた場所の光景を見ることが出来る“千里眼”という力を得た。

 ただでさえ、“久遠の安寧”という裏界最大規模を誇る組織のトップの娘で手が出せないというのに、守護天使と千里眼の力まで加わると、もはや一国のトップらであっても敵う者はいなくなっていた。

 

「そうね。お父様は大好きだけど、あの人も所詮は選ばれなかった存在だわ。神々の黄昏に入る資格のない者は、わたくしの寵愛を受ける資格もないのよ」

「では、小狼様は資格をお持ちだとよいですな。今回は小狼様の仮面舞踏会とバルツァーギ兄弟にそれぞれ別口から依頼を送っておきました。バルツァーギ兄弟の方には、他の人間も狙っているので、相手側の面子と共に仕事屋も潰す様にと大目に依頼金を払っておきました」

「バルツァーギ兄弟……切り裂き魔だったかしら? 小狼には変な女がくっついていると聞いているし。小狼に殺される前に邪魔者を片付けてくれればありがたいわね」

 

 名切りの成長には戦いが必要とは仙道の言葉だ。

 仙道だけでなくカナードまでもが女性のようだと称した美しい顔をしているのなら、別に湊が成長途中であっても構わないと思っている。

 だが、どうせなら海を越えた大陸にまで名が知られ、鬼と恐れられていた名切りの完成形も見たい。

 そのような想いから、ソフィアは湊の成長のため、組織の人間を使って依頼の出所を隠しながら、わざとブッキングするよう仕組んでおいたのだ。

 バルツァーギ兄弟は兄弟揃ってナイフや鉤爪で相手を切りたがる、根っからの切り裂き魔。

 近距離戦の得意な湊の敵ではないが、付属品などいらないソフィアは、バルツァーギ兄弟がどうにかイリスを屠ってはくれないかと少しばかり期待するのだった。

 

 

夜――ミュース山・麓

 

 カニスの街から電車に二時間乗り。さらに、バイクでも二時間ほど走ったところに、湊たちの目的地はあった。

 ミュース山の標高は約三千メートル。日本の剱岳(つるぎだけ)とほぼ同じだ。

 だが、ミュース山は環境保護や野生動物の生態調査のため、国から許可を受けた者しか千五百メートル地点以上へ登ることができない。

 もっとも、湊らの目的地である古びた屋敷は、山の麓の森の中に建っているので、今回の依頼に登山許可は関係がなかった。

 倒れた門扉の上を通過し、比較的拓けた場所でバイクから降りると、マフラーを畳サイズまで広げてバイクを収納している湊にイリスが話しかける。

 

「荒れ放題だなぁ。見取り図じゃあ地下まであるらしいが、床が腐ってるかもしれないし。気を配って探し終わった頃には、疲労もだいぶ溜まってそうだ」

 

 雑草が生い茂り荒れた庭や、雨戸だけでなく窓ガラスもなくなっている屋敷を見て、イリスは想像以上に疲れそうな依頼だと苦笑する。

 こんな依頼を受けると言ったのはイリスで、湊はギルド経由の時点で反対していた。

 だというのに、依頼を受けた本人が先に愚痴を溢すとはどういう事だと、湊は冷めた視線をイリスに向け皮肉をぶつけた。

 

「……仕事が終わったらマッサージでもしてやろうか、おばあさん(グランマ)

「言ったな? オマエ、絶対にさせるから覚えておけよ」

 

 確かに、三十歳を過ぎてからは動きにキレが無くなり始め、体力の衰えも徐々に感じるようになってきた。

 だが、イリスは今年で三十三歳。世間から見れば十分若い部類であり、ハリウッド女優ばりのルックスとプロポーションをしていることもあって、街中では頻繁にナンパにあっていた。

 そんな見目麗しい女性を捕まえておいて、お母さんならともかくおばあさんと呼んだ事は、流石にイリスも許す気はない。

 マフラーから取り出した中華剣“星噛”で入り口までの草を薙いでいる湊の後に続き、絶対にマッサージをさせてやると意気込んだ。

 

「よーし。そうと決まったら作業分担だ。アタシは上のフロア、アンタは地下フロアをそれぞれ探索する。依頼書にあった通り首飾りの詳細は不明だ。だから、それっぽいのは片っ端から持ってこいよ」

 

 探索場所である屋敷はかなり広い。純粋な敷地面積で言えば桔梗組の方が広いが、こちらは二階プラス地下フロアまで存在する。

 湊ならば暗闇でも灯り無しの作業が可能だが、既に日が暮れ始めているので、イリスは懐中電灯で視界を確保しながらの探索だ。

 長時間それを続けるのは、精神的にも肉体的にも疲労が溜まるため、安全性は下がるが探索場所を分担した方が早く終わるだろう。

 そのような考えからイリスが指示を出すと湊は素直に一度頷き、確認のため間取り図のコピーにもう一度目を通してから、屋敷に入りそのまま地下への入り口へと向かって行った。

 

***

 

「蝙蝠とかがいるかもしれないから、気を付けろよー」

 

 湊の後に続いて屋敷に入ったイリスは、マスクを装備し、頭に付けたライトの電源を入れて視界を確保しながら、地下への扉へ入って行った湊を見送った。

 屋敷の中は荒れ放題で、分厚く積もった埃で歩いた足跡がはっきりと残っている。

 床板も一歩踏み出す度にぎしぎしと嫌な音を立てているため、イリスは慎重に二階への階段を目指してゆく。

 目的の首飾りの詳細が分かっていないとは言ったが、イリスも湊も経験から置かれている場所の目星は付けていた。

 まず、第一候補は今現在イリスが向かっている持ち主の寝室だ。

 衣装を置いている専用の部屋を確保していたとしても、歴史的な価値も付加されている装飾品だけは他の装飾品とは別に、盗難されぬようにと身近な場所に置きたがるものだ。

 そんな事をするくらいならば、他の物と一緒に保管しておいた方が安全なのだが、所詮は素人の防犯意識、被害妄想に取り憑かれた者は物事の視野が狭くなりやすい。

 故に、まだ誰も盗みに入っていないとすれば、寝室にあるであろう隠し収納に目的の物は残っていると思われた。

 

(ま、首飾りがなくても少しは金になるものもあるだろ。儀式用の装飾ナイフでもあれば、アイツが喜びそうだけどな)

 

 湊は刃物をよく集めている。好きなのかと聞いても首を横に振るが、実用性の高い物から観賞用にしかならない儀式ナイフまで、価値の有無に関わらず気に入れば持って帰っていた。

 咄嗟に放つプッシュダガーを除けば、頻繁に使っているのは中華剣“星噛”と新新刀“春夢”の二振り。

 他は手入れしていても使う事は殆どなく。それでも持って帰るのだから、少しばかり物騒だが刀剣類の蒐集は湊にとって唯一趣味と言えるものなのだろう。

 ならば、その湊が喜ぶような品があれば、目的の品を見つけるよりも有意義だと、階段を上った先にあった部屋の扉に手をかけたイリスは考えていた。

 

「邪魔するよー……って、誰もいないし言っても意味ないか。それにしても随分と荒れてるな」

 

 部屋の中にはいると、マスクを付けていてもカビ臭いと分かる部屋の空気にイリスは眉を顰める。

 ボロボロに擦り切れたカーテン、カビだらけになったベッドのシーツ、割れた窓ガラスが散乱した床など、確かにこれはリフォームより取り壊してから、新しく建て直した方が楽だと感じた。

 しかし、これだけ荒れていれば隠し収納も探し易い。ザリザリとガラスの破片を踏みしめる音をさせながら部屋の中を進み、ベッドランプが置かれていたと思われる棚に近付いた。

 傍に寄ってイリスは、その棚を注意深く暫し観察する。その棚は埃が積もっているだけで特に不審なところはない。

 けれど、イリスの仕事屋としての勘が何かを告げているのか、数秒見てからおもむろに棚をベッドと平行な向きに倒した。

 

「よっし、ビンゴ!」

 

 倒した棚の置かれていた場所ではなく、棚その物の背面に隠し収納らしき小さな戸がついていた。

 元はパッと見では判別できないようになっていたのだろうが、歳月の経過によって塗装が劣化し、戸の縁の部分がはっきり見える状態になっている。

 それを見たイリスは、一発で当たりを引いた事に顔を綻ばせ、直ぐに隠し収納の中身を取り出した。

 

(どれどれ……写真の入ったロケットに、指輪、ネックレスに……小さな鍵?)

 

 取り出した中身を見てイリスは首を傾げる。

 指輪もネックレスも雨風や日光に触れていなかったため劣化は少ない。ロケットは写真を抜いても大した価値はないだろうが、最後に出てきた小さな鍵がどこの物か気になった。

 普通に考えればどこかの扉用のではなく、机の引き出しや小箱を開けるための物に見える。

 こんな場所に隠していたのだ。よほど大切な物を保管している場所に違いない。

 しかし、鍵を見ただけで種類を特定するスキルは持ち合わせていないので、自分で地道に探して見つからなければ、後は湊に頼るしかなかった。

 

(まぁ、アイツなら分かるだろ。コレが地下の物の鍵でも、普通にピッキング出来るから心配いらないしな)

 

 湊の地味な特技に『ピッキング技能一級』というのがある。

 別にそんな名称の資格は存在しないが、専門の器具を使わずとも痕跡をほぼ残さずに解錠できるのだ。

 初めて披露したときにはどこで習ったのか周りの人間にも聞かれたが、本人もまったく習った覚えがないらしく、どこか不思議そうにしていた。

 しかし、ピッキングはこんな仕事をしていればかなり有効な技能だ。それ以来、周囲は湊に鍵の勉強をさせて、どんな鍵でも開けられる様に鍛えられた。

 その成果が、鍵を見ればどこの物か大体分かるようになり、さらに初めて見るタイプでも時間をかければほぼ解除出来る様になっている。

 声紋認証など電子キータイプは流石にピッキング出来ないが、そちらはシャドウの力で動力ごと支配出来るため、ピッキングするまでもなく簡単に開けられた。

 故に、戦闘力に注目されがちだが、湊の本領は実はその多岐に亘る特殊技能を活かした便利屋稼業だと言えた。

 そうして、鍵は合流後に湊に尋ねるとして、手に入れた品々を腰のポーチに収納してイリスは他の場所を探す。

 高そうなネックレスは見つけたが、依頼の首飾りは大きな物らしいと書いていたので、特徴の合わないコレではないはず。

 他に部屋の中を見て回っても、棚の背面の隠し戸以外に怪しい収納はなかったため、ならば別の場所を探さねば時間の無駄だ。

 ヘッドライトの予備電池は持って来ているが、探索時間が長引けば、環境の悪さと暗闇での作業のせいで、電池が切れるよりも先に自身がまいってしまう。

 そんな事になれば、身内に優しい湊が大変心配してくるので、子どもに負担をかけたくないイリスは、心配する湊を想像して苦笑しながら廊下へと一歩踏み出した。

 途端、甲高いエンジン音と共に風を切る音が聞こえ、イリスは悪寒を感じながら着地も考えず横に飛んだ。

 

「ぐっ!!」

 

 肩から地面に着地して転がったイリスは、何かが触れて僅かに切られた左腕を押さえながら、すぐに立ち上がり音の正体を見つめる。

 暗闇で初めは分からなかったが、ヘッドライトの角度を調整することで相手の全体像が見えた。

 そこにいた強襲者の正体は小型のチェーンソーを持った若い男。

 といっても、既に二十代中盤にはさしかかっているだろうが、蜂の巣駆除の白い防護服らしき物を着た男は、意味もなく刃を回しながらニタニタと笑って口を開いた。

 

「あれれ、外しちゃったよドゥイリオ兄さん」

「ハハッ、だから扉が開いた瞬間に正面から切れと言ったじゃないか」

「うん、やっぱり兄さんの言う通りだったよ。でも、左腕を少し切れたみたいだから、これでこの女は片手しか使えないね」

 

 血を流しズキズキと痛む腕を押さえるイリスの前で、軽い調子で楽しげに会話する男たち。よく見ると若い男の後ろには、同じ服装をした男がもう一人立っていた。

 チェーンソーしか持っていない若い男に対し、ドゥイリオと呼ばれた男は両手の甲に各四本の鉤爪を付け、腰には短機関銃Wz63をストラップで提げている。

 二人を相手にするだけでも不利だというのに、こんな足場の悪い暗闇で片腕を負傷しているとなれば状態は最悪だ。

 応戦するにしても、とりあえず止血だけはしておきたいが、隠れられる場所まで逃げようと下手に背中を見せれば、兄の方に後ろから蜂の巣にされるだろう。

 

(クソッ、イカれた服装しやがって、コイツらどこのどいつだよ。どう考えてもブッキングした他所のチームじゃねえか。ブッキングする可能性があるなら、依頼書に書いておけってんだ)

 

 心の中で悪態を吐きながらも、イリスは冷静に屋敷の見取り図を思い出し、どうにか逃走ルートを確保できないか考えていた。

 左腕の処置はこの際捨てる。止血しようにも安全の確保が前提なので、痛みは全て奥歯に持っていき、右手一本で牽制しながら逃走を図るしかない。

 血は一向に止まる気配がないが、幸いにも指もしっかり動かす事が出来る。

 ならば、逃げ延びて止血さえ出来れば、多少ここで無理に使ったとしても、後遺症も残らず回復してゆくだろう。

 

(小狼が気付いてくれれば勝つ見込みはある。てか、アタシだけじゃ勝てないって方が正しいか)

 

 普段、湊を心配しながらも、こういった有事の際には頼らねばならないのが心苦しい。

 出来れば、敵に襲われたが問題なく一人で対処できた、と少しばかり余裕を見せたいところだが、現実はイリスにそんな余裕がない事を突きつけている。

 逃走ルートのシミュレートは終わった。後は、足場がちゃんと持ってくれることを祈るだけだ。

 そして、イリスは腰の拳銃を素早く抜き放つと、半身の構えで撃ちながら後退を開始した。

 

「死ね、クソ野郎っ!!」

「あははっ、そんなの効かないよう!」

 

 イリスの銃から飛び出した弾丸は、若い男が持っているチェーンソーを盾にして防がれた。

 普通、そんな事をすれば貫通するか、歪んで使えなくなるはずだが、愛用の武器としてカスタムしているのか無事のようだ。

 けれど、少しは足止めになっている。その隙を突いて、イリスは屋敷の奥へと向かうのだった。

 

――屋敷・地下

 

 イリスが二人の男と交戦している頃、地下を探索していた湊のところにも一人の男がやってきていた。

 上の男たちの仲間らしく、服装は白い防護服。だが、武器は二振りのククリ刀のみで、湊と相対しながら男は手に持った武器を遊ばせていた。

 

「随分と若いな。これなら、弟に行かせたお前の仲間の方が当たりだったかもしれん」

「……趣味の悪い武器だな。ククリ刀の流通を考えれば、もっとマシなデザインもあったろうに」

 

 長男らしい男の言葉を無視して、心から同情するといった表情で、湊は相手の持っている武器のデザインについて指摘した。

 男の持っている武器の刃は普通のククリ刀の物だ。しかし、グリップはマスタード色で、さらに鍔に当たる部分は濃い紫をしていた。

 この悪趣味な配色には、刀剣の蒐集を趣味にしている湊も全く食指が動かないらしい。

 むしろ、そんな武器は刀剣類と認めないとして、星噛を構えながら破壊しようとすら考えていた。

 

「今ならまだ、目的が違えば見逃してやるぞ?」

「フフッ、随分と落ち着いているな。だが、俺たちの目的は首飾りの回収だ。ブッキングする可能性もあると言われ、相手の面子を潰すために仕事屋を殺せとも言われている」

「……そうか。なら、死んでくれ」

 

 言い終わるかどうかのタイミングで瞳を蒼くすると、湊は身体の横で剣の刃を寝かせたまま構え、強く地面を蹴り駆け出した。

 相手との距離は十メートル、一本道の通路で逃げ場はお互いにない。

 地下の床や壁は上の屋敷と違い、切り出した石を組んだものなので、湊が強く蹴ろうと抜けたりはしないだろう。

 ならば、人間の限界を超えた反射神経と、防御不能な力を持っている湊の方が圧倒的に有利。

 相手もそんな湊の加速に僅かに驚いたようで、一拍動き出すのが遅れながら、持っていたククリ刀に遠心力を加えた横薙ぎで応戦してきた。

 

『はあっ!!』

 

 金属同士のぶつかる甲高い音と共に、両者の気合を乗せた声が合わさりながら暗い地下に木霊する。

 体格は敵の方が大きいが、一振りに両腕の力を乗せた湊に対し、相手は遠心力を加えようが片腕ずつの腕力しか武器に乗せられていない。

 その結果、互いの力は拮抗し、再度力を籠めたことで火花を散らせながら武器が弾け、二人は距離を取った。

 

(……武器の扱いはそれなり。けど、大して強くない)

 

 一度武器を交えただけで、湊は冷静に相手の実力を判断する。

 反応が遅れたにも関わらず、遠心力を加えながらも刃に負担をかけず攻撃を凌いだことで、男は確かにククリ刀を使いこなせているようだが、目立ったのはそれだけでそれ以外の長所はない。

 大柄で力が強いのかと思えば、別にそんな事はなく、むしろ単純な腕力ならば湊の方が勝っているくらいだった。

 こんなのが相手であれば様子も見る必要もなく、あとは適当に銃を乱射すれば、逃げられない以上簡単に勝てるだろう。

 湊は再び剣を構えると相手を切り殺すため、強く蹴り出した靴音を通路に反響させながら接近した。

 相手の男も湊が向かってきたことで身構える。左手の剣を前に突き出し、右手の剣を自分の傍に置くという防御の構えだ。

 

「ハァッ!」

「温いわっ」

 

 両手で構えた湊の袈裟切りを、相手は突き出した剣で打ち落とすように弾いて往なす。

 だが、湊の得意とするのは飛騨の改造によって得た反応速度を駆使した連撃だ。そんな湊がたった一撃しか揮わない訳がない。

 剣を往なされると即座に片手持ちに切り替え、片足を相手側に踏み込む勢いを利用して、身体ごと回転させた横薙ぎを払う。

 水平軌道の攻撃は往なすよりも躱した方が良いと判断したのか、相手は跳ぶように後退して距離を取るが、湊の剣は男の正面に来た途端に刺突に変化した。

 授業で一度だけ計測した湊の立ち幅跳びの記録はセーブして三メートル丁度。仕事中で身体能力の上がった状態ならば、その1.5倍は余裕で、さらに『一歩』という助走まで付けることが出来るのなら、十分な威力を持ったまま男を射程に収めることが可能だった。

 

「ぐぬぅっ!?」

 

 後退という不安定な状態で回避を取った男は、体勢を立て直す暇もなく受けた追撃を何とか両手の剣で止めようとする。

 けれど、それを打ち抜くよう手首の捻りで回転を加えられた星噛は、小さく男の剣を弾き相手の右肩に傷を負わせた。

 傷を負い相手が怯んだときこそ、さらに追撃の好機。

 剣を引きながら一歩下がった湊は、剣先に付いた血を振り払いながら、無表情で相手に剣を振り下ろす。

 それを再び男が防御したことで甲高い金属音が通路に響き。湊はジリジリと相手に近付きながら、何度弾かれても振り下ろし、払い上げ、横から薙ぎ、叩き付けるよう剣をぶつける。

 湊は武器が一本なのに対し、男は防御に優れた二刀流だ。湊が一気に攻めようとせず、男が捌く手を誤らなければ当然勝負は持久戦にもつれ込む。

 武器で攻撃を受け、力を籠めるたびに肩の傷が痛むのか、男は脂汗を滲ませながら表情を苦痛に歪ませている。

 それを見ていた湊は、今日は満月と言うこともあり、普段よりも嗜虐性が増しているのか、攻撃の手はそのままに、珍しく愉しげに口元を歪ませて相手に話しかけていた。

 

「そんな愉快な格好をしているくせに拍子抜けだ。兄のお前がこの程度なら、弟とやらは今頃イリスに殺されているだろうな」

「ぬかせっ……」

 

 忌々しい。そんな風に思っているのがありありと分かる表情で、男は息を荒くしながらも反論してきた。

 しかし、攻撃を防ぎながら反論出来るということは、まだそれなりに余力があるのだろう。

 ならば、少しくらいペースを上げても大丈夫かと、湊は攻撃の手をさらに激しくする。

 

「口ではなく手や身体を動かせ。せっかく、仮面舞踏会(バル・マスケ)に喧嘩を売ってきたんだ。しっかり踊ってみせろ」

「……フフフ……フハハハハハッ!」

「……気でも触れたか?」

 

 疲労と痛みでおかしくなったのか、相手は突如笑い始めた。

 攻撃に対応しきれず防ぐのも遅れ出し、徐々にだが傷も増えてきているので、失血で意識が朦朧とし始めているのなら、そういった状態になっても不思議ではない。

 相手が突然笑ったことを訝しみながらも、湊がそんな風に考えていると、相手は急に息を吹き返し、湊の攻撃を再び防ぎ始め大声で言った。

 

「せっかくの招待だ。この命尽きるまで貴様と踊ってやろう! だが、その引き換えに仲間の命は貰ってゆくぞ。なにせ、弟は二人いるのだからなぁっ!!」

「なにっ」

 

 男の言葉に、湊はすぐ様距離を取ってペルソナを付け替え、召喚せずにカグヤの索敵を発動する。

 男の物と思われる複数の足跡はある。だが、一階フロアには誰もいない。

 それを追っていくと、二階フロアの一室の前に血痕があった。

 さらに辿るよう意識を向けると、男の言った通りイリスが二人の男に追い詰められているのが視えた。

 ニヤニヤと笑って追ってきている敵に向け、廊下の曲がり角に身を隠しながら発砲しているが、深手を負っていることに加え、残弾が少ないのか表情には焦りが浮かんでいる。

 それだけでなく、このまま逃げたとしてもイリスの向かう先は行き止まりしかない。

 血痕の残っていた部屋からそこまでの途中に、突撃銃を乱射したような痕があることから、どうやらイリスは逃走経路の変更を余儀なくされたらしい。

 怪我を負っている状態で窓から飛び降りられるとも思えないので、敵に中近距離タイプが揃っていることも考えれば、状況はかなり絶望的だった。

 

(こいつを殺して向かって間に合うか? いや、それじゃあギリギリ間に合わないっ)

「仲間のことが心配か? だが、助けにはいかせんぞ。俺は兄弟の中で最も攻撃を捌くのが上手いんだ。貴様の仲間が弟たちに殺されるまで、たっぷり時間稼ぎをさせてもらうとしよう!」

 

 イリスを助ける手段を考えている湊に、目を血走らせながら笑って男は切りかかってくる。

 自分が生き残る事は出来ないと分かった上での特攻だ。元々、攻撃を捌くことに秀でているなら、死を恐れず時間稼ぎに徹してきたら面倒な事この上ない。

 上へ向かうにも、一階と地下フロアを隔てる床は造りがかなりしっかりしており、さらに分厚くなっているせいで魔眼を使用し切り崩している間に、崩落音で上の者たちに気付かれてしまうだろう。

 それ以外の方法で確実なのは走って上のフロアに向かうことだが、男の後ろに伸びている通路の先にしか扉はなく、しかし、男を殺して走ったとしても上の敵がイリスに辿り着く方が早いと出ている。

 

――――ペルソナを使い、天井を破壊するか?

 

 そんな考えが頭を過ぎったが、湊は索敵やアナライズなどの補助を除き、仕事でペルソナを使う事は禁じていた。

 この仕事を始めたのは自分の力を高め、ペルソナなどに頼らずともチドリを守れるようになるためだ。

 幼い頃は感情の昂りで呼び出してしまったこともあったが、成長した状態で禁を破るのとでは意味がまるで違う。

 一度禁を破れば、今後もまた言い訳をして力に頼ろうとするだろう。

 例え、今まさに大切な者が危機だったとしても、相手もペルソナ使いという状況でなければ、湊は今までの全てを無駄にするようなことを選べなかった。

 

(ペルソナに頼ろうとするなっ。邪魔な奴を殺して、俺が上の奴らの命も奪ってしまえばっ)

 

 自分が新たに積み重ねてきた過去を捨てるか、大切な者の命を見捨てるか。直前に不可能だと結論の出ていたことを何度も考えながら、湊は葛藤していた。

 だが、そんな無駄なことをしている間も、イリスの命は刻一刻と奪われようとしている。

 目の前にいる男の攻撃を受けながらでも、能力の眼を持っている湊にはそれが分かってしまう。

 

「フハハッ! 表情が固いぞ、さっきの威勢はどうした!」

 

 暗い地下通路に剣戟の音が響く。

 イリスの命が消されようとしているという経験したことのない状況が焦りを生み。その思考をさらに乱す様に男が不快な挑発を続けてくる。

 現状、解決法は一つしかない。助けられる方法があるにもかかわらず、それを使わずに助けようというのは徒の我儘だろう。

 しかし、他者がどのように感じたとしても、アイギスとチドリのために戦ってきた湊にとって、ここで自分に課したルールを破るというのは、二人を守れないことと同義であった。

 

「貴様の仲間を片付ければ弟たちはすぐにこちらに来る。そのときには、貴様も同じ場所へ逝けるだろうさっ。だから、安心して死ぬがいい!」

「――――死ぬ?」

 

 自分の死。それを相手に言われたとき、胸に収められた黄昏の羽根“エールクロイツ”が心臓の鼓動に合わせて強く脈動するのを感じ。同時に湊の頭は急激に冷静さを取り戻してゆく。

 手足がもげようが、心臓を吹き飛ばされようが死なない自分。

 それに対し、イリスも他の者も実に呆気なく死んでしまう。

 同じ人間であるのにどうしてだろうか?

 ファルロスの言葉によれば、他者が同じようにデスを内包出来たとしても、生命力の総量の違いで臓器を失った状態から蘇生することなど出来ないらしい。

 だが、それもおかしな話だ。デスとの親和性が高いからではなく、生命力と言う個体が生まれ持つスペックがそこまで違ったりするものだろうか?

 こんな事を考えている状況ではないことは分かっている。しかし、その湧きあがってきた疑問が、湊に一つの考えを齎す。

 答えは既に知っていた。力が足りないのなら、足りない分を補える“その状況”を作り出せば良い。方法は研究所に居た頃から何度も戦ってきた心の化生たちが示していた。

 

「――――イリスは殺らせない」

 

 新たな力の発現に共鳴するように、『魔術師』のアルカナを持つ新たなペルソナが自分の内に目覚めたのを感じる。

 だが、今はそんな物はどうでもいい。静かに呟いた湊の瞳が、“全てを見透かす蒼”から“鈍い輝きを持った金色”に変化する。

 

「……なに?」

 

 瞳が変わった湊の纏う空気の変化に、男も気付いて一度距離を取る。

 目の前にいて姿も見えているのだが、その周辺だけが世界からずれているような違和感。

 大きく何が変化したという訳でもないのに、知らず全身から汗が吹き出し、武器を持つ手が震えていた。

 勝てない。それは最初の剣戟の応酬の時点で気付いていたことだが、今の湊には“何をしても無駄”だとすら感じている。

 何度も死線を越えてきて一度として味わったことのない感覚だ。体格で劣る年若い少年が相手となれば尚の事。

 

「ぐっ……うおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

 けれど、だからと言って何もしない訳にはいかない。

 弟たちの勝利を信じているが、もしものときを考えれば、少しでも相手に傷を負わせて体力を奪った方が良いに決まっている。

 だからこそ、雄叫びと共に駆け出した男は両手に持ったククリ刀で湊に切りかかったのだが、

 

「――――邪魔だ」

「……なっ」

 

 体重を乗せた必殺の一撃がただの拳に破壊され、砕け散った刃の欠片の中を進むそれが男の最後に目にしたものとなった。

 

――屋敷・二階

 

 腕を僅かに切られ、足に銃弾を喰らってしまったイリスは、当初予定していた逃走経路を外れ、二階の最奥へと追い込まれていた。

 逃走経路から外れたのは、兄の方が持っていた突撃銃で通路への侵入を妨害されたせいである。

 兄が牽制している間にチェーンソーを持っていた弟が迫ってきたため、イリスは先が行き止まりになっていると分かっていても、こちらのルートを選ばざるを得なかった。

 そうして、ついに行き止まりに辿り着き、予備も含めて銃弾がゼロなったイリスに向かって、弟がチェーンソーを回しながら近付いてきた。

 

「あははっ、行き止まりだね。随分と逃げるから時間がかかってしまったよ。これじゃあ兄さんは仕事を終えてるだろうな」

 

 楽しそうに笑いながらやってくる弟の後ろで、弟が射線に入らぬ位置に兄が突撃銃を構えている。

 ただでさえ女という筋力のハンデを持っているというのに、片腕と片足に怪我を負っている状態で、格闘などまともに出来るはずもないが、それでも兄の方は油断をしない性格らしい。

 楽観的な弟と慎重な兄で実に相性のいいコンビだ。さらに上に兄がいるらしいが、兄弟が揃えばかなり良いチームに違いない。

 失血で視界も怪しくなってきた状態で、イリスはそんな事を考えつつも、まだ抵抗できるかもしれないと思わせるため、精一杯の余裕を見せながら言葉を返す。

 

「……馬鹿が、仙道とまともに正面から戦えるヤツだぞ? オマエら程度で勝てるはずないだろ」

「フッ、仮にそれが本当だとしても、俺たちの兄は敵の攻撃を捌く達人だ。お前を殺して俺たちが向かえば形勢は逆転するだろう」

「そうだね。まぁ、大丈夫だと思うけど、あんまり遅いとウーゴ兄さんに怒られてしまうから、そろそろ終わらせてしまおうか」

 

 壁を背にして立っているイリスと相手との距離は約七メートル。いまから湊が現れても、到達する前に敵の刃が届くだろう。

 四肢のどれかを犠牲にしてでも、もう少しばかり抵抗するつもりだが、イリスはこの窮地に置かれた状況でも何故だか内心で笑いたい気持ちだった。

 

(あー、馬鹿やっちまった。あいつに頼る癖でもついてたのか、完全に油断して初撃を喰らったからな。こりゃ、小狼が不真面目にしてようが怒れそうにない)

 

 あと六メートル、五メートルと距離が縮まってもイリスの顔に恐怖の色はない。

 自分が死んだ後の事が気になるが、仕事に出ていることを知っているマダム・リリィがナタリアに連絡して、どうにか湊を日本に連れて行ってくれるだろう。

 もう少し傍にいてやりたい気持ちは当然あるが、湊が無事ならそれが一番だ。

 湊ならこの二人にも負けることはない。だが、最期に少しくらいは根性を見せて、笑われないようにしなければ。

 そんな思いから手に持った拳銃を強く握り締めると、残り四メートルまで迫った敵に向けて投げつけるため、イリスは相手がチェーンソーを振りあげるのと同時に腕を振り上げる。

 だが、両者が互いに攻撃しようとしたその瞬間、連続した轟音と共に地面が揺れた。

 

「うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

『っ!?』

 

 そして、さらに揺れが激しくなったと感じた時、咆哮が耳に届くと同時に両者の間の床が弾け、金色の瞳をした湊が飛び出してきた。

 先ほどの連続した轟音と床から飛び出してきたという事実から推測するに、湊は地下フロアからここまで天井を打ち抜いて最短ルートで現れたのだろう。

 だが、一階と地下を隔てる層は固い石材で出来ていたはず。それを破壊してそのまま一気に上まで登ってくるなど到底不可能だ。

 

「な、何なんだお前はっ!!」

 

 突然の闖入者に相手も怯んでいるが、もう少しでイリスを殺れるという状況を邪魔された弟は怒り、着地した湊に向けてチェーンソーを振り下ろしてきた。

 

「小狼っ!!」

 

 持っている星噛での防御が間に合わない。そう思ったイリスが思わず叫ぶ。

 けれど、相手の攻撃に対し、空いていた左腕を湊が突き出すと、そこには目を疑う光景が待っていた。

 

「…………は?」

 

 湊の腕を斬り落とすと思われていたチェーンソーが、ギギギィと異音をさせたかと思えば次の瞬間に音を立てて壊れてゆく。

 刃が欠け、チェーン自体が千切れてしまっている。これではもうパーツを取替えなければ使えないだろう。

 攻撃した男も予想外の状況に思考がついていかず、間抜け面で口を開けて思わず呆ける。

 しかし、人間の柔らかい肉を切り付け、どうして固い物を無理に切ろうとしたように壊れるのかが分からない。

 もっとも、弟がその答えを知ることはない。何せ、チェーンソーを破壊し、そのまま伸ばされた湊の手が顔を掴むと同時に、相手は頭部を握り潰され息絶えていたのだから。

 

「き、貴様ぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 弟が殺されたことで正気に戻ったのか、後ろに控えていた兄が湊に向けて銃を乱射する。

 一分間に650発撃ち出せる連射速度で迫る凶弾を、たった十五メートルほどの距離で躱せる訳がない。

 その目論見通り、弾は全て湊の身体を直撃した。

 

「な、なんで銃が効かないんだっ!?」

 

 けれど、今度もまた先ほどの弟と同じように、相手は目の前で起きている事態に困惑し、動揺しながら思わず後退りを始める。

 弾丸は直撃しているのだ。だが、それらは湊にぶつかると衣服すら貫通せず、何かの壁に阻まれるように潰れた状態で落下してゆく。

 固い壁があるのなら、普通はそこで兆弾する。しかし、潰れた状態で落下するのなら、それは弾丸の持つエネルギーを壁側が完全に受け止めているという事になる。

 後ろで見ているイリスですら、今の湊になにが起こっているのか理解出来ていないのだ。敵として相対している男の心の荒れ様はイリスの比ではないだろう。

 

「や、やめろっ。く、く、くるなぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 揺れる長髪の間から見えている鈍く輝く金色の瞳に見つめられ、男は発狂しそうになりながら、弾の切れた銃の引き金を必死に引いている。

 自分を守る武器は、もう手の甲に付いた鉤爪だけだと分かっていながら、それではどうにもならないとも理解しているからこそ、現状を受け入れられず起こりもしない奇跡に縋っているのだった。

 

「い、いやだ。頼む、殺さないでくれっ」

 

 そうして、湊が進む度に後退を続けた男の背が壁に付くと、男は必死に床に這い蹲り命乞いを始めた。

 土下座など日本など極一部の国の文化だったはずだが、イリスを追い詰めていたときからは考えられないような姿を晒している。

 だが、当然そんな物が聞き届けられる訳もなく。湊はゆっくり男の元へ進むと、そのまま頭を踏みつけ、

 

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」

 

 ミチミチと嫌な音をさせながら踏み潰した。

 飛び散った血液と脳漿を冷たい瞳で見下ろしていた湊は、相手の胴体が痙攣をやめ、完全に沈黙したのを確認してからイリスの元へ戻ってくる。

 瞳の色は先ほどの“鈍い輝きの金色”から普段の“惹かれる輝きを持った黄金色”に戻っているが、あんな瞳など知らなかったイリスは、マフラーから救急セットを取り出し治療を始めた湊に、何も言葉を掛けることが出来なかった。

 

 

 


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