【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第八十話 潜入

――ヨーロッパ・オノス地方

 

 その日、屋敷の主であるソフィアはやたらと上機嫌で鼻歌を歌いながら紅茶を飲んでいた。

 彼女の父親からの依頼を済ませて戻ってきた仙道は、どうしてそんなにも相手が上機嫌なのか気になり、席について使用人のヘルマンからコーヒーを受け取りつつ尋ねる。

 

「今日は随分と機嫌がいいな。何か新たな玩具でも見つけたか?」

「フフッ、違うわ。でも、近いとも言えますわね」

 

 相手は勿体ぶって直ぐには答えず、けれど、自分の机からあるファイルを持って来て、それを仙道の前に滑らせてから、再び座って紅茶を飲みつつ話し出す。

 

「実は少し前から、小狼についている虫を殺す場所に最適なところを探して貰っていましたの。それでようやくカナードから連絡が来たから、以前から考えていた作戦を少々変更して、小狼の仮面舞踏会に依頼を出したという訳」

「虫? もしや、イリス・ダランベールという仕事屋の女のことか?」

「そんな名前だったかもしれないわ。でも、どうせもう死ぬのだから、覚えておく意味もないでしょう。フフッ、研究所を一つ丸々囮に使った大規模な作戦よ。損害は四千万ドルを超えるわ。何の価値もない害虫への手向けとして十分過ぎるのではなくて?」

 

 血のように赤い瞳に狂気と喜びの二色を浮かべ、ソフィアはただ楽しそうに笑っている。

 だが、相手がイリスを殺そうとしているなど、依頼で離れていたせいで全くの初耳だった仙道は、先ほどソフィアが渡してきたファイルを急いで開き、すぐさま中身に目を通す。

 そこに書かれていたのは、湊とイリスを分断し、イリスの回った方で先に待機させていた組織の人間にケミカルハザードを起こさせるというもの。

 ケミカルハザードが起これば、外に毒物が放出されないよう区画を順次封鎖してゆく。さらに施設には火を放たせる予定なので、仮に運よく毒を吸い込まなかったとしても、逃げられずに焼け死ぬことだろう。

 離れた場所にいる湊が、イリスが逃げ遅れたことに気付いて戻ろうとしても、自分も毒にやられてしまうので助けに行く事は出来ない。

 また、危険を覚悟で辿り着けても、時間差で別の場所でもケミカルハザードを起こさせるので、逃げている途中でイリスは絶対に毒を吸い込んでしまう。

 今回使われるのは複数の薬品を掛け合わせた神経毒で、まず手足の自由が利かなくなり、続いて呼吸がし辛くなっていく効果がある。

 つまり、逃げられずに生きたまま焼け死ぬか、ゆっくり苦しみながら窒息死することになるのだ。

 短時間で完全に解毒する方法はなく。状態を改善させる前に呼吸が出来なくなり死に至る。

 難点としては、超高熱に弱いというのが挙げられるが、それは周囲へ拡散しないように、施設の火事で全てが燃えるよう考えたためだ。

 囮に使う施設は、久遠の安寧が所有する本物の薬品研究所なので、これを一つ失うのはそれだけで数百億では済まない損害を将来的に被ることになる。

 そこでさらに、周辺の町などに対する補償まではやっていられないので、ソフィアは確実にターゲットを捕えて殺す布陣を組んだのだった。

 作戦概要に目を通し、手をワナワナと震わせていた仙道は、全てを読み終わったようで鋭い視線でソフィアを睨みながら声を荒げた。

 

「お主はナギリまで殺すつもりかっ!!」

「何を言っているの? ちゃんと小狼が逃げる時間は作ってあるわよ」

「あやつが助けに向かう可能性の方が高いだろうがっ」

「大丈夫よ。二人は作戦中に通信機で連絡を取り合っているの。だから、ケミカルハザードが発生した時点で害虫はきっと小狼を逃がすための指示を出すわ。だって、害虫は小狼がとっても大切なんですもの。絶対に生かそうとするに決まっているわ」

 

 ソフィアは調査員から齎された情報により、湊とイリス、二人の関係性を正しく理解していた。

 二人はお互いを仕事のパートナーとしては見ていない。仲間という言葉では不十分。さらにもっと近しい、家族に似た繋がりを持っている。

 だからこそ、イリスは自分がどれだけ辛い目に遭っても、湊の安全を優先するであろうと読んでいた。

 

「フフッ、可愛い子どもを死なせたくはないものねぇ。なんせ、あの害虫は既に夫と実の息子をテロで失っているのだから」

 

 湊の素性はまだ完全には掴めていないが、イリスについては殆ど分かっている。

 まだ若い女が、どうして男も作らず、こんな血生臭い世界で生きているのかを探ってみれば、理由はすぐに判明した。

 イリスはナタリアに拾って貰う少し前に、旅行で訪れた街で運悪くテロに巻き込まれ、夫と幼い息子を失っている。

 本人もその時の怪我が原因で子どもを産めない身体となり、心を壊し廃人になりかけていたところをナタリアに拾われ。徐々に回復していきながら、どんどんと裏の仕事を覚えていったのだ。

 そして、ある日蠍の心臓が請け負った一つの任務を終えると退団したようだが、その任務はとある武器商を工場ごと殲滅するというもの。

 イリスと武器商の間には関係性が見られなかったが、さらに詳しく調査すると、イリスたちを襲ったテロは、彼女の旅行先だった国の政府がその武器商と秘密裏に取引をして軍備を増強しようとしていたことに反発して行われたものだった。

 軍備が増強されれば、力で脅し、市民は余計に苦しめられることが分かっていた。

 だからこそ、その一帯が危険な場所だと世界に広めながら、武器商に手を引かせようと、取り引きが行われる前にテロが決行されたという訳だ。

 テロの実行犯は自爆して既に死んでおり。復讐の対象を見つけられなかったイリスにとって、テロを起こす元凶となった武器商が代理のターゲットになったのだろう。

 そうして、無事に復讐を遂げたことでイリスは部隊を離れ、知り合いのいる日本へと渡ってから湊と出会ったのだ。

 

「心優しい小狼は害虫の死にきっと悲しむでしょうけど。その心の隙間はわたくしが埋めてあげるわ」

「……ソフィア、貴様はナギリを甘く見過ぎた。やつらは本来守るための一族だ。大切な物を奪った貴様に欠片も容赦はしないだろう。戦いは最早避けられん。全力で滅ぼさねば、滅ぼされるのは貴様たちだぞ」

 

 知り合いの(よし)みで相手の身を案じ、仙道が真剣な口調で忠告するも、何がおかしいのかソフィアは目に涙を滲ませるほど笑いだす。

 

「ウフフ、アハハハハッ! 守護天使さまをこの身に宿すわたくしをどうやって滅ぼすというの? それに久遠の安寧は世界一の兵器工場よ。自分たちの作っている兵器を使えば、アメリカやロシアとだって戦争出来るというのに、たった一匹の狼がどれだけ暴れようと、その爪や牙がわたくしに届くことはないわぁ」

 

 自分の宿すアパテーという力に絶対の自信を持ち、さらに久遠の安寧の軍事力を考えれば負けはないと断言するソフィア。

 確かに、裏界最大規模は伊達ではなく。軍事力だけでなく、諜報活動や政治面の力も持っているため、いくら湊が潜伏しながら復讐を狙おうとも、すぐに居場所を特定して拘束されるやもしれない。

 けれど、そう思い通りにはいかないと考えている仙道は、これ以上言っても無駄と分かっているため、コーヒーにほとんど手を付けないまま席を立つ。

 

「そうであれば良いがな。わしは小僧の元へゆく。お主が手を回す前に死合うつもりだ。目覚めたナギリとの戦い故、無事に済むとは思わん。もう会う事はないかもしれんから、先に別れを告げておく」

「フフッ、わかったわ。なら、せいぜい小狼の力の礎となって死んで頂戴。でも、生きていれば、また会いましょう」

 

 ソフィアの言葉を背中に受け、仙道は扉を開くと部屋を後にした。

 アパテーの力で壁の向こうの様子も視えているソフィアは、全速力で駆け出した相手をおかしそうに笑っているが、実際、ソフィアが手を回す前に戦おうと思うのなら、一秒たりとも無駄には出来ないだろう。

 ここから目的地までは一日では着かないのだ。着いたときには、全て終わっているだろうが、それでも湊の完成がより完全になるのなら、どうかその命を捧げてくれと彼女は口元の笑みを深めるのだった。

 

 

9月17日(日)

夜――パライナ地区

 

 数日前、年老いた紳士から、難病に苦しむ孫を助けるため、未だ公表されていないある薬の現物か調合リストを盗んで来て欲しいという依頼を受けた湊。

 前金で日本円にして一千万、成功報酬でさらに七千万という超高額の依頼である。

 確かに、セキュリティーレベルの高い研究施設に潜り込むので、難易度はそれなりに高いだろう。

 加えて、盗むのは一つではなく、薬の副作用を抑えるための別の薬も必要ということで、計二つの薬か調合リストを最低でも盗まなくてはならないのだ。

 

「……九時過ぎだっていうのに、随分と働き者の研究者たちだな」

 

 二ヶ月ほど前に買ったBMW K1200Sから降りて、ヘルメットを外しながら呟く湊。

 ペルソナで研究施設内が視える湊と違い。先にバイクのタンデムシートから降りていたイリスには何も見えていないが、施設の至るところに灯りが点いていることから、施設は現在も絶賛稼働中であることが窺えた。

 故に、湊の言葉に同調して、働き者の研究者たちを労いながらイリスも言葉を返す。

 

「まぁ、世のため人のために頑張ってるんだろ。公表してないってのも、まだ安全性や量産体制が整ってないからだ。孫のために何かしたいってじいさんの気持ちも分かるから依頼を受けたが、別に研究者が悪い訳じゃない」

 

 治療薬をまだ公表していないのは、何も利益を独占するためと言う訳ではなく、単純にまだ未完成であるから。

 新薬というのは、ただ一つ出来ただけでは完成とは言えない。全く同じ分量で、全く同じ手順を踏むことにより、完全に同じ物を量産することが出来て、初めて薬として出来あがったと言えるのだ。

 さらにそこから、マウスなどを使った臨床実験を行い。最終的には人に対しても治験を済ませて、その薬の効果や副作用までを調べる必要がある。

 依頼人の老人もその事は分かっているのだろうが、孫が助かる可能性があるのなら、少しでも治り易いように早く薬を手に入れたいと思ったのだろう。

 これで嘘をついていて、本当は未発表の薬のデータを他所に売ることが目的だったなら、相手は即座に湊に首を刎ねられるに違いない。

 そんな依頼するには少々危険な相手である少年は、施設の壁に書かれた企業ロゴと思われる文字に視線を送り、潜入の準備をしていたイリスに尋ねる。

 

「……“EP”って、何の略だ?」

「エターナル・ピース。表向きは桐条並みに色んな部門に進出してるコングロマリット(複合企業)で、中でも兵器と医療の世界シェアは一位だ。けど、裏の顔は“久遠の安寧”ってとんでもない巨大組織でな。国を丸々一つ持ってるって噂だぞ」

 

 久遠の安寧は、その影響力の大きさからヨーロッパを中心に名を知られているが、実体も含めてどれほどの力を有しているかは詳しく知られていない。

 本部の場所はどこにあるのか。EP社の顔役をやっている人間が、そのまま久遠の安寧の幹部でもあるのか。

 イリスも情報をほとんど持っていないが故に、ただとんでもない組織であることだけは確実だと説明すると、日本でずっと活動していた湊は耳にした事がなかったようで、そうなのかと数度頷いていた。

 

「さってと、チャンネルは3に設定、傍受される心配はないだろうが、もしものときは、ペルソナでの通信に切り替えてくれ」

「了解」

 

 今回の依頼では、離れた二ヶ所から目的の物を盗み出さなければならない。

 警備はそこそこで侵入は難しくないが、昼夜問わず基本的に人がいるので、安全な時間と言えば影時間しかない。

 けれど、未だスキル向上のために依頼をこなしているため、湊はそんな楽な方法を取るつもりはなく、イリスも了承したことから、このように中途半端ながらも遅い時間を選んだ。

 装備したインカムの通信感度を確かめ終わったイリスは、湊の頭を撫でながら再び作戦内容を確認するように話しかける。

 

「アタシは作戦通り西側の区画に向かう。オマエの方が先に手に入れるだろうから、ばれた時の援護のために合流ポイントへ向かっておいてくれ。足はオマエしか持ってないんだ。先に帰ったりするなよ?」

「……数時間も歩けばヒッチハイク出来る場所に出るだろ。ダイエットにもなって一石二鳥だ」

「馬鹿野郎。生まれてこの方、一度たりともダイエットなんて必要になったことはないよ」

 

 ハリウッド女優も驚きのスタイルを誇るイリスは、実際に、幼い頃からスタイルに恵まれており、裏の仕事をするようになってからは、よく動くこともあってさらに引き締まった身体をしている。

 それは一糸纏わぬ彼女の姿をよく見ている湊も知っているはずだが、こういった軽口は作戦前で昂ったお互いの精神を落ち着かせるために叩いている。

 作戦前の儀式とも言える軽口の叩き合いが出来るかどうかで、湊が無事に依頼をこなせる精神状態かの目安にしていることもあって、イリスは今日も大丈夫そうだなと笑みを浮かべた。

 

「じゃ、また後でな。見つかっても簡単に殺すなよ?」

「……わかってる」

 

 また後でと別れるなり、湊はマフラーと長い髪を揺らし駆けて行った。

 遠ざかる背中が小さくなり、見えなくなってからイリスも動き出す。敵に見つかった場合に撹乱する意味もあるため、侵入はほぼ同時でなければならない。

 シャッターで区画を封鎖されれば、手榴弾以上の威力を持った装備を持っていないイリスでは、その頑丈な壁を破壊する事は出来ないのだ。

 施設全体の広さは大型ショッピングモール並み、侵入口はイリスの方が近いが、入り組んだ構造をしている分、研究員の位置を常に把握出来ている湊の方がいくら広くともスムーズに進行できるだろう。

 だからこそ、先に目標を入手した場合、湊に逃走や追手の排除の手助けをしてもらう手筈になっている。

 湊の狙撃の腕前は一流だ。援護には何の心配もないと、イリスも銃のセーフティーを解除してからホルスターに仕舞い直し、そのまま依頼人から受け取っていたカードキーを利用して、施設の中へと侵入した。

 

***

 

 マフラーを上げて口元を隠し、施設内を駆ける湊。

 この施設は、その薬が何に使われるかで区画が分かれており、出入り口に近い場所は比較的頻繁に新薬が開発されるような、人々がよく掛かるウィルス病に使う物が集められていた。

 怪我はするが病気にはならず。毒を摂取しても、多少鈍る程度で命に別条はない。

 そんな異常な身体に改造している湊にとって、現代人がかかる病のほとんどは不思議でならないものだ。

 自分でも生き伸びることが出来たのだから、他の者も肉体を改造すれば病気知らずでいられる。

 素でそんな風に考える事もしばしばで、現代病向けのこの区画くらいならば、仮に侵入がばれて研究員と遭遇してしまった場合でも、他にいくらでも類似の研究をしている企業があるのだから、殺したところで医学界にも問題は少ないはず。

 そう思いながら、入り組んだ通路を迷わず進み続け、目的の部屋の中に誰もいないことを確認すると、そのままシャドウの力で扉の電子ロックを解除して侵入した。

 

(ここは……資料ばっかりだな。ということは、現物ではなく調合リストが置かれている訳か)

 

 到着したのは多数のファイルが収められた書庫らしき場所。

 棚ごとにどんな薬の調合リストを纏めているのか書かれているが、ファイル自体の背表紙にはアルファベットと番号しか振っておらず、それらの規則性を知らない湊にはまるで分からない。

 試しに近くにあった物を手に取ってみると、どうやらそれは痛み止めの調合リストのようであった。

 

(これは面倒だな。全部持ち出した方が早いが、それは流石に問題になるだろう)

 

 目的の書類を探すのは非常に手間が掛かりそうで、いっそ全てをマフラーに収納してしまおうかという考えが頭をよぎる。

 やったことはないが、湊の思考に合わせてサイズと形状の変化が可能なため、入れようと思えば家やマンションだって収納できるのだ。

 現在も自分のバイク数台とイリスの愛車を入れている状態で、資料の収まった本棚をいくつも入れるくらいは訳ない。

 けれど、そこまで露骨にやってばれるのは後々を考えると面倒だ。仮面舞踏会の評判を下げる事にも繋がるやもしれない。

 そう考えて、最初のプランを捨てる事にした湊は、装備ペルソナにしていたカグヤの能力を利用し、部屋内の資料に同時進行で目を通し始めた。

 正直に言って、いくら男女両方の脳構造の利点を使えると言えど、湊の並列思考のキャパシティは異常だ。

 全方位に知覚を伸ばしたときには、左右の目で別々の方向を見る事の出来るカメレオンのように、全ての像が重なって見える状態に近い。

 特定の物を集中して見るときには、防犯カメラの映像のように一つの画面を複数に分割した状態で見るようにも変更可能ではある。

 しかし、実際に複数に分割された映像を見てみれば分かり易いが、ほとんどの人間の情報処理能力では、たとえ六分割であっても満足に把握しきる事は出来ない。

 だというのに、百冊以上の資料へ同時に目を通して、それらの内容を把握し、さらに理解していることは驚くべき事だろう。

 

(……見つけた)

 

 恐ろしい情報処理能力は血筋のおかげか、無事に目的物を探し当てて、湊はそのファイルを棚から抜き出し、肉眼でも確認するのを忘れない。

 いくら幼い頃から飛騨に貰った医学書を読んでいると言っても、湊が持っているのはほとんど本に書かれた知識だけだ。

 蠍の心臓にいるときには、戦場医でもあったバーバラに色々と習ったが、傷の縫合など簡単な外科的処置は器用なので昔から出来た。

 しかし、毒を除けば薬品を実際に調合した経験はほとんどなく、この研究施設で行われているような、最先端の薬に対する知識も不足している。

 よって、湊は依頼人から聞いていた情報を記憶から引っ張り出しながら、調合リストの情報と照らし合わせて、これが本当に目的の物であるかを確かめた。

 

(……恐らく合っているな。まぁ、あの老人も薬自体の情報はほとんど持っていないようだったし。本当に正しいのかはいまいち分からないが)

 

 湊が依頼人から受け取っている情報は、ある程度は薬の成分も分かっているようだったが、流石に詳細な部分は手順も含めて分かっていなかった。

 それが分かっていれば、わざわざ他所の調合リストを盗んでくる必要など無い訳で、分からないから依頼されたことは湊も理解している。

 けれど、材料はほとんど同じだが、細かい手順や材料が一つ違うだけで別の料理が出来るように、薬もたった一つ違うだけで別の効能を持つようになってしまう。

 まだ他の仕事屋より医学関係の知識を持ち合わせていたため、湊は目的の品を間違える事はなかったが、もしも、依頼を断られていたら老人はどうするつもりだったのだろうかと、そんな風に思いながら湊は調合リストをファイルから抜き取り、持って来ていた封筒に入れてからマフラーにしまった。

 

(さて、現物が保管されているかも分からないし、今回はリストだけで十分だろう。イリスの援護のために先に出ておくとするか)

 

 ここは研究施設ということもあり、かつていたエルゴ研にどことなく似ている。

 あそこでの出会いが切っ掛けで湊は戦う力を得ようと思った。けれど、得た物などそれくらいで、犠牲にした物の方が多いくらいだ。

 それだけに、自分の傲慢さが招いた惨劇を想起させる、こういった施設が今でも湊はあまり好きではなかった。

 虫の知らせ、第六感とも言うような、ざわついた何かを感じるのは、エルゴ研の出来事が心の傷となっているからなのか。

 自分だけでは分からない湊は、とりあえず、何かが起こってもすぐに対応出来るよう、イリスと打ち合わせで話していたポイントへの移動を開始した。

 

***

 

 白衣を着た四十歳頃と思われる男が、部屋の中で独りガタガタと蹲って震えていた。

 男のいる部屋は、学校の教室の半分ほどの広さで、液体の入ったガラスケースがいくつも積み重なって置かれている。

 

(はぁ……はぁ……これで、家族は助かるんだ。僕が、ソフィア様の命令通り、この薬品を混ぜて研究所中に拡散すればっ)

 

 震えている男の手には、妻と二人の子どもが自分と一緒に笑っている写真がクシャクシャなって握られている。

 この男は家族を人質に取られただけの、ただの研究員の一人だ。

 研究所の所長に呼ばれたときは、一体何事だと驚いたものだが、所長室に入るとテレビ電話で自分の勤めている企業のトップの一人娘が映っており、さらに驚かされたものである。

 赤い瞳に、銀色の髪、染み一つない白い肌に、アンティークドールのようにただ在るだけで美しいと感じさせられる整った顔立ち。

 こんな相手が現実に存在するのかと、動いて話している姿を見ても信じられなかったが、それ以上に、相手が男に告げた内容の方が衝撃的だった。

 ソフィアが男に告げた内容。それは、家族を全員拉致したというもの。

 今はまだ生きているが、命令を聞かない限り、居場所を教える事も解放する事もない。

 また、少しでも渋れば、妻と娘は組織の雇っている傭兵らの慰み物にした上で殺し。息子は生きたまま重しを足に結んで湖に沈める、と男が断る道を塞いできた。

 そんな風に脅されれば、家族を大切にしている男が断れるはずもなく。侵入者が来るかもしれないという報告が入る前から準備し、今日もこうやって敵が来ればガラスケースを破壊できるよう待機していた。

 

(うぐっ……はぁ……来るなっ。侵入者よ、来ないでくれっ)

 

 だが、いくら家族を人質に取られていようとも、男は医療の発展のために尽くしてきた身だ。

 用意された薬品の種類から、混ぜた場合に発生する毒ガスの効果も予想出来ているため、人を殺したくない男は、どうか来ないでくれと神に祈り続けた。

 

《ピピピピッ》

「ひあっ!?」

 

 侵入者がくれば、男のポケットに入っている端末から音が鳴る。

 研究所に入った時点で、相手の所持しているカードキーがマーカーとなって、相手の居場所を常に報告し続け、移動スピードすら完全に把握出来るのだ。

 そんな端末が鳴ったということは、ついに恐れていた侵入者がやって来てしまったという事。

 ならば、もう後には引けない。自分と同じように人質を取られた仲間から端末に連絡が来れば、男は部屋にあるガラスケースを全て破壊することになっている。

 何度も端末を確認するが、端末に表示されたマーカーは動き続けているため、先ほどの電子音は聞き間違いではないのだろう。

 

《ピピピッ》

「あ……ああっ……」

 

 二度目の音が鳴った。今度は仲間からの連絡だった。

 顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにした男は、端末を地面に落とすと、近くに転がっていた銃と鉄パイプを手に持ち。自身を見捨てた神を恨みながら、部屋中のガラスケースを破壊したのだった。

 割れたガラスが飛び散り、鉄パイプを持っている手の皮膚を切って血が滲みだす。

 それでも男はケースを割る手を止めない。床中に薬品が広がり、発生したガスが異臭を放つ。

 マスクも付けていない男は、呼吸もままならず、目に沁みて視界すら確保出来ていないはずだが、構うものかと鉄パイプをがむしゃらに振り続けた。

 

「ゴフッ……はぁ、ア、レン……ミレイ…………ローザ、すま……ない……」

 

 顔が紫色になった男は、力尽きて床の薬品の上に倒れ込む。

 カラン、と鉄パイプが地面に落ちて乾いた音をさせた隣で、男は息を引き取りながらも手足をまだ痙攣させていた。

 普通の人間が吸いこんで耐えられる物ではない。湊ですら、吸い込んだときには嫌そうに顔を顰める代物だ。

 男はそんな物を吸い込みながらも、一分以上耐えて自分の任務を全うしたのである。全ては愛する家族のために。

 何よりも大切な家族をおいて死ぬなど、きっと無念だったろう。

 けれど、何も心配することはない。何故なら、その愛する家族も既にソフィアの部下の手に掛かって男と同じ場所へ旅立っているのだから。

 そうして、何も知らずにこの世を去った男の手で事態は動いた。あと数分もすれば、検知器で毒ガスの発生を確認した協力者が部屋の扉を全て開ける手筈となっている。

 イリスを狙った死神の鎌は、もうすぐそこまで迫っていた。

 

 

 


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