9月23日(土)
午前――シャテーニュ村・近郊
湊が教会に訪れてから三日。イリスの葬儀を終えてから一言も話さなくなった湊は、仙道に言われてイリスを弔う前の状態に再び戻っていた。
世話をしているシスターが声をかけても何の反応も返さず。起こしに行かなければ昏々と眠り続けている。
食事もシスターが口まで運んでやってようやく食べるほどで、傍についていなければ弱って死ぬまで眠っていそうだった。
流石にこれでは拙いだろうと、少しでも日の光に当てるため車椅子に座らせ、シスターは少し肌寒くなり始めた秋の空気の中、湊と共に村の近くの森を歩いていた。
「今日は少し寒いですね。ついこの前までは暑いと思っていたのに、季節が変わるのは本当に早いです」
シスターが話しかけても湊は何も答えない。
着替えさせるときにシスターが少し手を上げて欲しいと言えば、ゆっくりとでも手をあげることから、音は聞こえていて意味も理解している筈なのだ。
成長を続ける湊の現在の身長と体重は一六八センチ、七一キロ程度。シスターは一六三センチであまり身長差はないように見えるが、最初は衰弱して軽いと思っていた身体も、湊が自分の力で全く動いていなければ、実際は寝ている状態から上半身を起こすのに一苦労するほどであった。
これは別にシスターが非力という訳ではない。むしろ、シスターは普段の教会での仕事でそれなりに筋肉はついており、女性的な柔らかさを保ちながらもそれなりに力持ちだ。
では、何故そんなシスターが湊を起こすのにも苦労するのか。それは、湊の鍛えられた肉体が原因だった。
筋肉は脂肪よりも重い。そして、湊の体脂肪率は四パーセントを下回っている。
筋肉達磨ではないが、体型の隠れる服を着ていなければ服の上からでもがっしりしている事が一目で分かり。湊よりも身長の高い真田や荒垣と比べて一回り以上逞しく見えるのだ。
そんな見た目以上に重い相手を女性が一人で支えられる訳もなく、車椅子に座らせるときも実際は湊が自分で動いて座っていた。
「風邪をひいては大変ですから、ちゃんとマフラーを巻いておきましょうね」
湊が寒い思いをしてはいけないからと、シスターは湊の前に回ってマフラーを巻き直してやる。
動物の毛でも化学繊維でもない光沢を持った謎の素材で出来たマフラーの、少し癖になりそうなモフモフとした不思議な手触りに、シスターは高級なブランド品なのだろうかと想像する。
そんな現実世界には存在しない素材で作られたこのマフラーには、実は湊も知らない“夜天の棺”という正式な名前があった。
プレゼントした本人は当然その名前を知っていたが、流石に黒い棺桶という意味のプレゼントを貰って素直に喜べる者はいない。
けれど、不吉な名を補って余りある機能を有しているため、エリザベスは湊に喜んで貰おうと秘蔵の品を渡したのだ。
また、日本には生前葬をしておけば長生きできると言う話しもあり。変な知識をどこからか仕入れてくるエリザエスもその事は知っていた。
危険な事ばかりしている少年ならば、普段から棺桶に包まれておけば同様の効果が得られるのではないか、という希望もマフラーを贈った理由に含まれているのだ。
「小狼さんはどの季節が一番好きですか?」
車椅子を押して再び歩き出したシスターは、湊に話しかけながら森の中を進む。
話しかけられた少年は何も答えないが、本来ならばあのパライナ地区で心が壊れていた筈だったのだ。
それを、仙道に言われてイリスを弔うためだけに力を振り絞り、しっかりと役目を果たし切ったのだから、湊が廃人のようになっていようとシスターは責めるつもりはない。
心が壊れてしまったのなら、その壊れた心を再び組み上げればいい。時間がかかるのであれば、身の回りの世話は自分がしてやろう。
そんな風に考えながら、シスターは少しでも湊の心が癒えれば良いと、静かな森の中で穏やかな時間を過ごすのだった。
――高級別荘地・桐条別宅
イリスが死んだあの日、湊の絶望に染まった絶叫は高いレベルでコミュニティを築いた者たち全員に聞こえていた。
その中には、巌戸台から遠く離れた保養地で暮らしている桐条英恵も当然含まれており、自分の大切な息子の声を聞き間違えるはずがないと、湊の身に何があったのか心配していた。
電話もメールも通じず。現在の居場所を知ろうにも、パンテルのカニスという街に滞在していること以外は仕事で一時的に離れるという話しも聞いていない。
湊の絶叫を聞いた日とほぼ同日に、海外では謎の火柱が発生したというニュースを見たことで、もしや、あれは湊の仕業ではとも考えた。
しかし、そうして考えても、結局、こんな田舎にいてまともに情報を集める事など出来るはずもなく。
何か少しでも掴めることはないかと、自室でパソコンを操作して桐条のサーバにアクセスしていたとき、少々気になるデータファイルを見つけた。
(これは……七式アイギスが起動して脱走した?)
圧縮されていたデータをダウンロードしてから解凍し、その中身のPDF形式の報告書に目を通してゆく。
そこに書かれていた内容は、ポートアイランドインパクト以降、一度として目を覚ます事のなかったアイギスが、どういう訳か英恵が絶叫を聞いたよりも早い時間に突如起動して脱走したという物であった。
厳重に掛けた対人用の安全装置が解除され、命令の優先度も書き換えられ、“あの方”なる人物の元へ向かった模様とのことだ。
対シャドウ兵装シリーズの開発に関わっていた訳ではないため、英恵自身はアイギスのことなど殆ど知らないが、それでもアイギスが執着する人物など、英恵が思い付く限りでは湊しかいない。
となると、アイギスは自分よりももっと早い時間に湊の危機を感知し、その上で湊のいる場所を目指したのだろう。
パソコンの近くに置かれたカップを手に取り、少し落ち着く意味も込めて、英恵は温かい紅茶に口を付けた。
(アイギスが動いたと言う事は、それだけ切羽詰まった状況だと判断すべきかしら)
湊の生まれや適性の高さを知っている英恵からすれば、危険な目に遭う事はあっても、命に関わるような事にはなり得ないと思っている。
胴体を切断されようが、心臓を完全に破壊されようが、デスの力によって蘇生と再生が行われるのだ。
治癒に関してそれだけの力を持つ生物など他にいないので、普通の人間では死ぬ場面でも湊ならば助かるはず。
また、戦闘能力に関しても仮面舞踏会の小狼として名を知られており、ペルソナまで使えるとなれば勝てる者はまずいない。
唯一の弱点として、一切躊躇うことなく平然と自己犠牲を選ぶくらい優し過ぎるという事が挙げられるが、今の湊は相手を敵と認識すれば機械のような冷たさで処理できる。
仮に優しさが原因で窮地に立たされようが、蘇生してから改めて敵と判断した者を殺せば済むため、英恵には湊がどんな状況に置かれてあのような絶望に染まった叫びをあげたのか分からなかった。
(……アイギスの乗った飛行機は中国の山奥に不時着していたのね。武治さんも気付いてアイギスの捜索を命じている。だけど、どうして八雲君の捜索も含まれているのかしら?)
アイギスが脱走したという報告書に目を通し終えると、再び桐条のサーバの方に戻り、桐条グループで何か動きがなかったかを確かめてゆく。
すると、脱走したアイギスが奪ったと思われるセスナが、どういう訳か中国の山奥で見つかったと書かれていた。
不時着とは書かれているものの、機体自体は地面にこすったような傷以外は特に壊れた部分はほとんどなかったらしい。
誰も乗っていなかったことで、飛行機を奪った犯人は現在も逃走中だと地元警察の捜索は続いているようだが、それとは別に桐条グループもアイギスと有里湊の捜索に動いていた。
命じたのは桐条武治本人。アイギスの捜索と同じタイミングで湊を捜索する意味が不明なことから、桐条武治もアイギスの脱走で英恵と同じく湊の身に何かあったと勘付いたのだろう。
(武治さんも気付いたのなら、今後もサーバにアクセスすれば桐条の捜索状況は把握出来る。でも、それでは絶対的に情報が足りない。八雲君の身に何が起こったのかを把握せず不用意に近付けば、敵と認識されて殺されるわ)
名切りの血の覚醒について、英恵は湊の母である百鬼菖蒲から十四歳の誕生日だと聞いている。
湊の誕生日までは約一月残っているが、覚醒において重要なのは、日付ではなく生まれてから十四年経つことであれば、湊はとっくに時期を過ぎていることになる。
影時間はポートアイランドインパクト以降、毎日深夜零時丁度に発生するようになった。
つまり、あの事故現場にいた湊は、影時間が定時に発生するようになってから毎日普通の者よりも一時間長く生きていることになる。
閏年を考えなければ一年間で365時間、それで七年間過ごしたのなら、日数にしておよそ百六日多い計算だ。
さらに、英恵は知らないが、湊は現実とリンクしている夢の世界でも、ほぼ毎日ベルベットルームで鍛錬を行っていた。
それらを全て計算に含めれば、残り一ヶ月どころか数ヶ月単位で時期を過ぎていることになる。
(……菖蒲さんも自分の生まれを知ったときはショックだと言っていた。なら、自分の生まれを誰にも話せない八雲君は、その苦しみを独りで抱える事になる)
湊が自分の過去について周囲の者に話しているのは、両親の死を含めて基本的にポートアイランドインパクト以降の事ばかりだ。
相手を信頼していないから話さないのではなく、自分の生まれについて知らないはずなのに、どこか話したがらないような雰囲気を英恵も感じていた。
何が原因で話したくないのかは分からない。それでも、湊はただ話さないだけでなく、他者との間に壁を作って拒絶しているのだ。
(あの壁を他人が越えるには、私と同じく八雲君の過去を知っている人間が仲介するしかない。でも、あの子にとっては両親に冷たい態度を取っていた九頭龍も敵。他の旧家や名家には、生存を知らせることすらできない)
もしも、湊が血に覚醒してしまったとすれば、例え気を許されている相手であっても、心を閉ざした湊に拒絶される可能性が高い。
その状態からまともに話すのであれば、最低でも湊の出自に対する理解を持っていなければならないのだ。
けれど、湊に気を許された状態で、尚且つ過去を知っている人物など一人もいない。
英恵本人を除けば、子ども同士で親交のあった七歌は条件を満たしていそうだが、残念なことに湊の生存を話す事がそもそも出来ない。
(……アイギスに八雲君の出自を伝える事が出来れば、まだ可能性はあるというのにっ)
二つの条件を満たしている者しか心を閉ざした湊を救えないというのに、身体の弱い自分ではどうあっても助けられない事で、英恵は悔しさから拳を強く握り締める。
湊を中心として事態は動き始めている。だが、このまま進めば間違いなく湊には破滅が待っているだろう。
それを回避するための
目覚めたアイギス、英恵が菖蒲より聞いた名切りの秘密。これらをどうやってか繋ぐことが出来れば、もしかすれば、最悪の事態だけは避けられるかもしれない。
(もう……迷っている時間はないわね)
大切な息子を死なせる訳にはいかない。そう考えた英恵は、席を立つと厳重に保管してある自分の宝箱から、無駄に達筆な字で書かれたとある連絡先の紙を取り出した。
本来これは、周囲に百鬼八雲の生存が確認されるか、湊がペルソナ使いであることが美鶴にばれてから使う筈だった。
なにせ湊は、自分が桐条武治の妻である英恵と親交があったことも、それが現在も続いているとも周囲に話していないはずだから。
それでも、今これを使うべきだと意を決した英恵は、そこに書かれている番号へと電話を掛けた。
――桔梗組・本部
湊についての情報を集め始めてから数日が経った。
桜やチドリでは出来る事も限られており、桔梗組も海外にはそこまで伝手がないことから、情報屋の五代と仲介屋のロゼッタが海外の知り合いから仮面舞踏会の情報を集めることで事態の把握に努めていた。
しかし、ギルドの組合員であり情報屋をしている五代ですら、情報収集を始めて数日経った今でも、湊とイリスについて碌に情報を集める事が出来ていない。
そもそも、基本的に裏の仕事は守秘義務が発生するので、個人の依頼となると依頼人と仕事屋を除けば仲介人しか情報を得る事が出来ない。
湊がギルドに悪感情を持っていた事もあり、仮面舞踏会はそんな個人の依頼をメインに扱っていたが、さらに日本に居た頃からイリスや五代といった周囲の大人が湊を隠す様に知り合いのこねを使って情報の拡散を防いでいた。
そこまでされると、裏界で最大の規模を誇る情報屋組織の地下協会ですら、大勢が知りたがっている小狼の情報をほとんど掴める訳もなく。
桜達も海外のニュースで見た火柱が湊の起こしたものだろうという、そんな偶然拾えた情報しか手に入れられていなかった。
そうして、今日もどこかに情報がないかを調べつつ五代の報告を待っていると、突然知らない番号から電話が掛かってきた。
現在、この家にいるのは桜だけだ。チドリは湊の情報を集めたがっていたが、周囲の説得で進展があるまで学校に通うように言われ登校し。鵜飼と渡瀬は桜たちの頼みで五代とは別の情報屋をあたっている。
故に、掛かってきた電話には桜が出るしかないのだが、知らない番号だけに誰だろうかと思いながら受話器を取って耳に当てた。
「はい、もしもし」
《あ、はじめまして。桐条英恵と申します》
「っ、桐条さん、ですか?」
電話に出ていきなり名乗ってきた相手の名前に桜は思わず驚いてしまう。
彼女の知っている桐条は、世界でも有数の複合企業であり、湊とチドリに人体実験を施していたあの桐条グループしか存在しない。
相手が本当に桐条グループの関係者であれば、湊とチドリのことでこの家について調べていてもおかしくないため、電話番号くらい知っていても不思議ではない。
けれど、どうしてこんなタイミングで接触を図ってきたのかが分からず。桜は訝しむ様に用件を尋ねる事にした。
「あの、本日はどういったご用件でしょうか?」
《はい。八雲君の、いえ、有里湊君のことでお話しがあってお電話させていただきました》
相手の口から湊の本名を聞いたとき、桐条側には湊の素性がばれている事を理解し、もしもの事があれば何を犠牲にしてでも守らなければならないと即座に桜は考える。
湊はこの惑星に生きる全生命に残された最後の希望だ。
たった一人の少年の死で、この惑星から全ての生命が消え去ってしまう。
俄かには信じ難い話しだが、宣告者であるファルロス自身が語った事なので、それらは紛れもない真実なのだろう。
故に、いま本人がこの場にいなくとも、身柄の引き渡しには断固として応じないと気を引き締めながら、桜は相手に話しの続きを促す。
「お話しとは具体的にどういった事でしょうか?」
《えっと、その前に、貴女は鵜飼桜さんでよろしいでしょうか?》
「ええ、そうですが」
自分の名前を当ててきたからには、この家に暮らす人間のことも調べがついているのだろう。
たまに組員が泊まることもあるが、実際に住んでいるのは五人だけだ。そのうち女性は中性の湊をいれても三人で、大人は桜一人だけ。
ならば、声や雰囲気で当てる事くらいは簡単に違いないと思いながら、相手の言葉を待っていると、話している人物を特定できてどこかホッとした様子で相手が答えてきた。
《そうですか。では、今回は桐条グループや桐条武治の妻ではなく、あの子と昔から親交のある個人として電話させていただいた事を先にお話ししておきます》
「昔から、ですか?」
《はい。あの子の母親と私は中学の同級生で、七年前の事故があるまでずっと付き合いが続いていたんです。そして、湊君とも数年前に偶然再会したことで、夫や娘にも話さないことを条件にたまに会っていました》
湊と桐条家にそんな繋がりがあったとは知らず、またあれだけ憎んでいる家の者と今でも親交を続けていると知った事で、何も話していなかった湊に対し桜は思わず深い溜め息を吐きたくなる。
夫と娘にも話さないことを条件にしているにしろ、相手が話さないと信頼していなければ湊は条件を出したりもしない。
それは桜にも理解出来るため、完全に信用する事は出来ないにしても、相手の話しを聞いてからもう一度判断してからでも遅くはない。そう考えながら話しを聞くことにした。
「あの子の呼び方は慣れている方で結構です。それで、みーくんについてのお話しとは何でしょうか?」
《いま、桐条グループは極秘裏にあの子の捜索に動いています。原因は、あの子がチドリさんと同じように大切に想っている、対シャドウ特別制圧兵装“七式アイギス”が突如目覚めて施設を脱走したから》
「七式アイギス? それは一体どういったものですか?」
桜は湊からアイギスのことは聞いていない。チドリは絵で姿を知っており、誕生日会で名前を教えて貰ったが、それ以外に湊の周辺でアイギスを知っているのは栗原だけだ。
《簡単にいえば、ペルソナを扱うため人格を与えられた
アイギスがどんな物か分からず桜が尋ねると、英恵は素直に答えてくる。
ペルソナやデスについてお互いに一切隠さないのは、湊という共通の情報源を持っていることから、影時間のことも全て知っていると言う前提で考えているためだ。
何より、桜が話す前に英恵は湊の叫びを聞いたと告げた。あの叫びは湊と高いレベルでコミュニティを築く必要があるので、桜も相手を信じて話しを進めて良いと判断する。
「その“あの方”がみーくんである証拠はあるんですか?」
《アイギスは戦闘時に出会ったばかりの八雲君に対する執着を持っていました。その戦闘以前に、誰かをそんな風に呼んだ記録はありませんから、目覚めた時期も含めれば、高確率であの子の元へ向かったと思われます》
聞いて桜は成程と納得する。人工的に心を与えられた機械とはにわかには信じ難いが、機械ならば過去のデータも多数残っているはず。
その中で湊への執着とその他の人間の呼び方から、“あの方”が誰かを特定するのは難しくはないのだろう。
まして、それらを知りながらあの叫びを聞いた人間であれば、アイギスの目覚めを偶然で済ませるはずがない。
「お話しは分かりました。それで、桐条さんは我々に何をさせたいのですか? みーくんの居場所を教えろというのであればお断りします。あの子を貴女方に渡すつもりはありません」
《そんなつもりはありません。ただ、孤独に耐えている八雲君を救うため力を貸していただきたいんです。失礼ですが、あの子は事故以前の自分について何か話していましたか? どこに住んでいたかや、実家はどんな場所だったかなど》
「いいえ。月光館学園に通っていたことは聞きましたが、名前も教えて貰っていませんでした。一応、他の伝手から本名と名切りがどんな一族かは少し聞きましたが」
《……やはり、そうでしたか》
面倒だから話さないだけでなく、意図的に自分のことを話さない湊には少し困っていたが、相手もそれを理解していたらしく。受話器の向こうから溜め息が一つ聞こえてきた。
イリスの話しでは、湊は自分の一族の事を知らないようなので、名切りについて語れないのはしょうがない。
けれど、自分の生まれが鬼の一族であることを隠すならともかく、生まれについて何も知らないのに隠す理由が桜には分からない。相手はその理由に心当たりがあるのだろうか。
そんな風に考えていると、先ほどよりも真剣な声色で相手が話しかけてきた。
《では、あの子の母から聞いた名切りの血の秘密についてお話しします。自分で動くことの出来ない私の代わりに、どうかそれを七式アイギスに伝えてください。ただあの子の信用を得ているだけでは駄目なのです》
その後、英恵の口から語られた名切りの血の秘密に桜は言葉を失った。
五代や父から聞いていた龍と鬼の伝承は間違いだった。鬼の業は、それよりも尚深い。
だからこそ、それを知らずに湊を救う事は出来ないと理解する。清濁を併せ呑む様に、鬼の業ごと受け入れてやらねば、他者に迷惑がかからぬよう平気で孤独に耐える湊が再び心を開くことはない。
接触していることが桐条にばれれば、湊が二度と会ってくれない可能性もあるというのに。そうなっても自分が我慢すれば良いだけだと、大切な子どもために危険を冒しながら伝えてくれた相手へ、桜は心からの感謝を述べてアイギスへ絶対に伝える事を約束したのだった。
――???
深い深い闇の底、本来ならば一切の光が届かぬその場所でお互いの姿など見えないはずだが、不思議なことに闇の中でもお互いの姿だけははっきりと見る事が出来た。
片膝を立てて抱く様に地面へ座っていた湊は、沈んだ表情でポツリとつぶやく。
「……どうして、こんな事になったんだろう」
「お前はどうしてだと思う?」
湊の呟きに正面で胡坐をかいて座っていた茨木童子が問い返す。
問い返された湊は、すぐに答える事が出来ず、しばし考え込んだ。
イリスが死んだ。殺したのは研究施設を炎に閉じ込めた自分だ。
そう思っていたのに、急に現れた仙道がイリスは何者かの策略によって殺されたと言い残して去ってしまった。
あれが本当の事なのか、それとも正気に戻すための嘘を言ったのか、どうにも判断が付かないことで湊は悩んでしまう。
仮に真実だったとすれば、仕組んだ人間の狙いは十中八九自分だと理解出来る。
そうでなければ、イリスを殺しておきながら自分だけを生かす必要が無い。
「……俺が名切りだから、狙われたのか」
「遥か昔から、権力者は我らを欲した。力、技術、容姿と様々な物に恵まれていたからな。その血を誰よりも濃く受け継いで生まれたお前は、善悪の区別なく人を惹きつけてしまう」
優れた物を望むのは生物としての本能。
誰よりも強い肉体と、誰よりも聡い頭脳を目指して交配を繰り返し、親から子へ技術を継承し続けた名切りを人が欲するのも当然だ。
権力者らは、自分自身の力は大したことがなくとも、所持する兵団、所持する財で他者よりも優位に立とうとしてきた。
兵も財も力にはかわりないと、まるで装飾品のような感覚で集めようとしてくる。
茨木童子にしてみれば、大切な
しかし、湊は自分の持って生まれた肉体や容姿が問題ならば、それをどうにかすれば解決するのかと問いかける。
「なら、顔でも灼けばいいのか?」
「ふふっ、灼いてもすぐに治ってしまうではないか。流石に四肢の一つを切り飛ばせば生えてきたりはせんだろう。だがまぁ、先達として言わせて貰うなら、隻腕は色々と不便だぞ。お前をしっかり抱きしめてやることも出来んしな」
ペルソナのスキルを使わずとも、デスの蘇生や治癒を利用すれば湊の怪我は簡単に治ってしまう。
けれど、流石に腕や足を生やすことは出来ないはずなので、少年の言葉におかしそうに笑って返しながら、自分も上腕の中ほどまでしか右腕がない者として、茨木童子はそのデメリットを口にした。
暗い瞳で相手を見つめる少年は、彼女がどのような理由があって隻腕になったのかは知らない。
生まれたときからなのか、それとも何かの事故や病気が原因なのかも。
だが、例え隻腕であっても相手の美しさが損なわれているとは思わない。
自分に似た顔つき。いや、この場合、子孫である自分が相手に似ていると言うべきか。
そんな風に考えながら、湊は自分が隻腕になったところで、相手と同じように外見はそこまで変化せず、ただ何をするにも隻腕の不便さに悩むことになるだけだと、
「……もう誰も傷付いて欲しくない、死んでほしくないと思っていた。両親も、アイギスも、チドリも、飛騨さんも、被験体たちも、俺と関わったばっかりに死んだり傷付いたりしたんだ。それなのに、俺はイリスを死なせてしまった」
「なら、どうすればあの女は死ななかったと思う?」
「……俺と関わらなければ死ななかった」
胸を締め付けられるような痛みがずっと自分を蝕んでいる。原因はきっとイリスを失ったからだろう。
失う事がこんなにも苦しいのなら、親しくなどなるんじゃなかった。
エルゴ研脱走時に松本に言われた“呪われた子ども”という言葉。それは真実で、本当に自分は呪われた鬼の一族だったのだ。
そんな物に近付いたせいで、皆、不幸になってゆく。
両親は、自分の高過ぎる適性に感化されて適性を得て事故に巻き込まれてしまった。
アイギスは、死に瀕した自分を救おうとして甚大なダメージを負ってしまった。
チドリは、足手纏いの自分を守るために大怪我を負ってしまった。
飛騨は、自分たちを逃がすために幾月の罠にかかってしまった。
被験体たちは、自分を信じたせいで逃げられずに殺されてしまった。
そして、イリスも、自分に付き合ったばかりにこんな最期を迎えることになってしまった。
全部全部全部、呪われた自分が人との繋がりを、人並みの幸せを得ようなどと図々しい夢を見てしまったことが原因に違いない。
「――――なら、俺はもう繋がりなんていらない」
自分に巻き込まれて他人が不幸になるくらいなら、自分はずっと孤独でいよう。
紡いできた絆も、育んできた心も、すべて捨ててしまって構わない。
湊がそう決めたとき、他者との間に芽生えたコミュニティが次々と消えていくのを感じた。
ベルベットルームの住人達も、今頃は慌てていることだろう。湊のコミュニティを管理しているマーガレットのペルソナ全書のページが、黒く塗り潰されてゆくのだから。
けれど、絆を捨てる事を選んだ少年は、まるで周囲の変化を何も感じていないかのような空気を纏って、今も先ほどと同じ悲しそうな表情でただ黙っている。
「どうした? 何か、悲しい事でもあったのか?」
尋ねる茨木童子は、自分でも変な事を訊いていると理解して心の中で苦笑する。
悲しい事など沢山あったではないか。むしろ、両親の死に始まり、心優しい湊にとっては悲しいことばかりであったくらいだ。
デスとの戦いでは座敷童子がオルフェウスを通じて力を貸したが、それは元々、誰も死なせたくないという湊の強い想いがあったからこそ出来たこと。
アイギスに力を貸して欲しいと言われ拒んだのも、自分には力がないと思っていて拒んだだけであり。力があるのなら最初から力を貸していた。
普通の人間ならば、デスと対峙することで嫌でも死を連想するため動けなくなる場面で、この少年にはそれがなかったのだ。
生まれながらの異常者、損得勘定もなく他人のために自分を犠牲に出来る者だからこそ、この少年なら完全なるモノへ至るだろうと茨木童子は考える。
少年を気遣って口にしたこの問いも、そんな少年の変革を促すための布石だった。
「……どうして、自分のために人を殺す事が出来るんだろう。誰も傷付けたくない。殺したくもないのに」
「そんな物は簡単だ。いいか、八雲。人間は決して善性の生き物ではない。幼子であっても、好奇心から虫の翅を千切り、池の魚に向けて石を投げる」
名切りの力を得る際、茨木童子らが負の感情を抱き易くなるよう細工をしなければ、人は本来善性の存在であると信じている少年に諭す様に告げる。
「無邪気というのは、視方を変えれば一切罪の意識を感じていないということ。ほれ、人間と言うのは、幼い頃から無自覚に他者を傷付けられるように出来ているんだ。そんな者たちに善性など期待する方が馬鹿げている」
お前は騙されている。人間はそんなに綺麗なものではない。
そんな彼女の発した言葉を聞いた湊の瞳は、さらに悲しみに染まり暗く濁ってゆく。
ずっと信じていたかったのだろう。例え大量殺人を犯した悪人であっても、何かが切っ掛けで変わってしまっただけで、元は善良な人間であったと。
だが、無条件で人の善性を信じるような、子どもでいる時間は終わったのだ。
「八雲、そろそろ気付け。お前が救った者たちは、全てが善人だった訳ではない。そして、紛れていた悪人らによって、いまこの瞬間も罪のない者らが傷付けられている」
「……全部、俺が悪いのか?」
「いいや、初めから世界とはそういう物だ。お前はそれを知らずに大切な者らを守ろうとしたが故に、今回、イリス・ダランベールを失うはめになった。まぁ、世界ではそんな事はありふれた出来事の一つでしかないがな」
誰かを蹴落とすため、憎しみから復讐するため、理由は個々で異なるだろうが、自分のために人を殺す者などいくらでもいる。
だが、死産に悲しむ親や、恋人を事故で失った者など、今の湊と同じくらい悲しい思いをしている者は、利己的な殺人者以上に
だからこそ、善悪の区別なく人々を守ろうとデスと戦ったばかりに、何の罪もない人々が傷付けられていると考えた少年へ、茨木童子はイリスの死はこの地球でありふれた出来事の一つだと告げた。
そんな残酷な言葉と現実を突き付けられた少年は、何もない地面に視線を落としながら呟く。
「……こんな世界を存続させて、俺は助けるべきじゃなかったのか」
「さてな。お前はただ助けを求められたから応じただけだ。その優しさに甘え、裏切ったのは人間たちの方だ。古の神々は心の清い者だけを残し、傲慢になった他の人間を滅ぼしたが、お前はどうする?」
「変えられるのなら、無関係の人間が傷付かない、自分のために人を殺そうとするやつが現れない世界がいい。アイギスにもチドリにも、悲しみのない優しい温かな世界で生きて欲しいんだ」
それはずっと湊が望んでいた世界。
辛い実験を受けていたチドリや、人間を守るために戦う兵器でしかないアイギスに、湊は明るい温かな日常の世界で生きて欲しいと願っていた。
誰も悲しまない。誰も他人を傷つけようとしない。そんな優しい世界が実現したならば、きっと彼女たちは幸せに生きられるだろう。
だからこそ、湊は悲しみに満ちるこの世界を変えたいと願った。もう二度と、イリスのような犠牲者を身内から出さないためにも。
「ふふっ、それは難しいな。人は自らの欲求を満たすために進化してきた種だ。自己中心的な考えで人を殺すのも、言ってしまえばその欲求に従ったにすぎん。さっきも言っただろう。善悪含めて人だとな」
だが、湊の話しを聞いた茨木童子は慈愛に満ちた瞳で、夢を語った少年に言い聞かせるよう話す。
そんな世界は訪れない。どれだけ努力しようと人間の本質は変わりようがないのだ。
少年の願う世界が実現するとすれば、それは神話の神々がしたように今いる人類が全て滅んだときだろう。
人間がいなくならない限り、誰も悲しみを感じず、誰も他人を傷つけない世界になんてなるはずがない。
遥か昔からずっと人間を見てきた者の言葉だからこそ、それが事実であり真理であることを物語っていた。
「……無邪気な子どもに善悪の区別を教えるように、誰かが教えてやればいいんだ。お前は間違っていると」
しかし、少年も自分の望む世界の実現を諦めない。
暗い瞳で茨木童子を見返す湊も、完全な実現が不可能なことくらいは分かっている。
それでも、少しでもこの世界から悲しみを消して、大切な少女たちが平和に暮らせるようにしてやりたかった。
「それはいいな。では、どうやって教える? 大人も権力者も自分こそが正しいと信じて疑わない者が多い。ただ言って聞かせるのは容易ではあるまい」
「……俺は母さんから言われた事はないが、他所の家ではよく言うんだろ。“悪い事をしていると鬼がくるぞ”って」
「……ふふふ……あはは、あははははっ!」
真面目な話をしていたと思っていたこともあり、湊の言葉が随分と子どもらしく思えた茨木童子は腹を抱えて大声で笑う。
湊の母が一度も言ったことが無かった理由は、単純に自分の苗字に“鬼”という文字が含まれ、現在でも鬼の一族と言われていたからだ。
だが、少年は敢えて自ら名乗るつもりらしい。
笑い過ぎて目尻に涙を溜め、それを指で拭いながら楽しげに茨木童子は口を開く。
「ああ、そうだ。私が生きていた時代にはまだそんな話しはなかったが、確かに子に言って聞かせる常套句だぞ。ふふっ、面白い。それなら、確かにちゃんと聞くだろう。聞かない愚か者には痛みで学ばせてやればいいしな」
名切りが再び鬼となれば、長く生きている者たちは皆恐怖から自制するようになるだろう。
鬼が表舞台から去ったのはここ半世紀ほどの話しだ。まだ人の記憶から完全に消えてはいない。
質の悪い冗談だと信じないならそれでもいい。言っても聞かない者ならば、痛みと共に教える事で理解させればいいのだから。
しかし、少年の考えに一応の賛同を示しつつも、茨木童子は相手がまだ人側に立ったままであることが気になった。
お伽話でも化け物には化け物の役割があるように、人を導くのであれば、人のままでいてもらっては困る。
不完全な覚醒しか出来ていない少年の変化を注視しながら、茨木童子は声を掛けた。
「だが、八雲。今のお前ではまだ足りんな。お前はまだ血に目覚めただけの人間だ。同じ人間に言われたところで、人間どもは鬼の存在を信じない」
「……大丈夫だ」
茨木童子の言葉に答えながら、湊は左耳に付けていたピアスと首のチョーカーを外し立ち上がる。
それらは少年と同じように結合した黄昏の羽根を胸に宿す少女たちとの絆の品だ。
奪おうとするのなら力で捻じ伏せると言っていた、彼女たちとの大切な絆を自ら外した。
少年が示したその決別の証しに、茨木童子は満足気に口元を歪め、相手を真っ直ぐ見つめながら立ち上がる。
すると、両者が腰を上げたことが合図だったかのように、魂を持つ他のペルソナたちも二人を囲むように現れた。
赫夜比売、出雲阿国、座敷童子、ジャック・ザ・リッパー、そして、悲しげな表情を浮かべるファルロス。
「……この世界の者たちを生かしたのはお前とアイギスだ。故に、お前らにはその命を選定する権利がある。やれるな、一五三代目名切りよ?」
「ああ」
どこか悲しみを帯びた冷たい瞳で静かに答える湊。
絆を捨て、鬼となることを決意したことにより、新たな力の目覚めとして“戦車”のカードが現れる。
さらに、イリスとの別れで目覚めた“運命”のカードも呼び出し、二枚のカードを手に取り眺めている数世代ぶりの正式な当主の誕生に、鬼の一族の者たちは皆嬉しそうな顔をしている。
だが、龍の始祖とシャドウの王だけは、孤独に堕ちた少年の選択を嘆き暗い表情を浮かべていた。
「……湊君、本当にこれで良いの?」
「……俺たちが再び鬼になるよう望んだのは人だ。だから、俺はその望みを聞いてやる」
「君にはまだ大切な人がいる。その人との絆を捨てて、堕ちてまで叶えようとする願いがあるとは僕には思えない」
少女らのために戦う相手の姿をずっと傍で見ていた。
それだけに、少女らを傷付けることになる湊の決断に納得がいかず、本当に後悔しないのかとファルロスは尋ねる。
だが、その問いに湊は背中を向けたまま何も返さず。自らの力の欠片たるペルソナたちに、ただ一言告げる。
「……往こう」
少年が呟くと、彼らのいた世界は白い光に包まれた。