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シュヴァリエから連絡があったのは、”箱庭”の一件から数日後のことだった。
「この度はご足労頂き、誠にありがとうございます」
蒼翼騎士団の本部――ノールドベルト中央に位置する降龍院を訪れた俺とイスカを、入り口に立つシュヴァリエが迎え入れる。いずれセレニアが天から降りてくる時のために建てられたその建築物は、外から見ることは多々あったが、こうして中に招かれるのはこれが初めてだった。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「構いません。むしろ、ローレンス氏とイスカ女史には、犯人の逮捕に協力していただいた恩人ですので。今回の面会が、お二人にとって有益なことになるなら本望です」
そのままシュヴァリエに案内され、降龍院内部へと足を踏み入れる。
大陸を股に駆ける騎士団の総本山である降龍院は、その規模もかなり広大で、院内のあらゆる箇所に豪奢な装飾が施されていた。廊下の壁にかけられている壁画や、至る所に灯された天空の龍を模した照明は、ここがセレニアを迎え入れる場としての威厳を強く表しているようだった。
「実は今回、お二人以外にも一人、魂の術式に関する有識者に声をかけています」
初めて訪れる降龍院の風景を眺めながら歩いていたところで、シュヴァリエに話しかけられる。
「有識者?」
「はい。今回の事件は騎士団においても前例がないものでしたので、学会の方に相談を持ち掛け、リノン女史の研究に詳しい人物を派遣していただくよう要請いたしましたが……」
「……受理、されなかった、の?」
「いえ、要請は正式に受理されました。ですが、今の学会にはリノン女史の研究に詳しい人物があまりいないようで……現在、学会は『ギルド』に魂に関する術式に詳しい人物の捜索を依頼したそうです。そのため、人材の到着まではまだしばらくの時間がかかると」
「なるほど……」
汎大陸巡徒同盟、通称『ギルド』。
いわゆる何でも屋である彼らは、大陸の各地に置かれた支部に集まる無数の依頼を引き受け、それらを解決することを生業としている。その幅は広く、身近なものでは物品の輸送や護衛、果てには”博闢の門”が設置されていない未開拓の地への探索など、様々な案件が転がり込んでくる。
また、今回のように『ギルド』は学会やオルトライズ商会とも結びついており、我々のような市井の人間だけではなく、組織そのものからの依頼も少なくない。
そのため、『ギルド』の名前が出ること自体は、特段おかしなことではないが。
気になったのが、『ギルド』を介して魔術師の捜索を学会が行っていることだった。
「……魂に関する研究を続けている魔術師は少ないのか?」
「うーん……あ、あたしが見た限りだと……あんまり、いない……かも」
浮かんだ疑問をイスカに聞いてみると、彼女も何とも言えない様子で答えた。
「り、リノンの研究はそもそも、倫理監査の連中に、白い目で見られてた、らしくて……あ、あそこまで研究を続けられた、のは、リノンがいわゆる善人だったから、っていうのも、ある」
「そうだったのか。むしろ、魔術師連中は飛びつきそうな研究課題だと思っていたが」
「そ、それだけみんな……倫理監査委員会の連中が怖い、ってこと、じゃない? あ、あたしは別に……何とも思ってない、けど。どうせ、あたしは階梯のはく奪なんて、されるわけないし」
「そういう問題なのか……?」
とはいえ、魂の研究は学会内でもあまり触れられない課題というのは分かった。
……逆に言えば、この研究に手を付けている人間は、委員会の目を盗んで研究を進めているか、あるいは委員会の干渉をものともしない人間ということだ。ちょうど隣にいるこいつみたいに。
だが、こんなやつが世界に複数存在していい訳がないので、おそらく彼女に魂を変質させる性質を組み込んだ人間は、何らかの方法で委員会の目を逃れているのだろう。
経験則による判断だが、あの少女の様子を鑑みればその可能性の方が高い。
「到着いたしました。こちらの部屋になります」
やがてシュヴァリエの案内で辿り着いたのは、降龍院の奥にある分厚い扉で閉ざされた部屋だった。いつの間にか場の雰囲気も変わっており、セレニアへの崇拝色が強いこれまでの院内と比べ、やや実務的な印象を受ける。
「入りますよ、ナクア」
犯人の少女の名前を呼びながら、シュヴァリエが部屋の扉を開ける。
中は簡易的な取調室のようになっていて、小さな机と椅子がいくつかある簡素なものだった。
そして、その椅子にぽつんと座っていたのは。
「あ、フクロウのお姉ちゃん!」
先日、市場の方でこれでもかと暴れていた、例の黒髪の少女。
彼女はシュヴァリエの姿を認めると、頬を膨らませながらこちらへと駆け寄ってくる。そうしてシュヴァリエの腰へ勢いよく抱き着いたかと思うと、年相応の奔放な笑顔を浮かべながら彼女へと話しかけた。
「もー、遅いよー! フクロウのお姉ちゃん!」
「……その呼び方はやめてくださいと、何度も申し上げたはずですが」
「え~? でも、フクロウなんでしょ?」
「私が依代であることは、あまり公にはしたくないので……」
口ではそういいつつも、少女の頭を優しく撫でるシュヴァリエを見て、ふと。
「……随分と懐かれていますね?」
「私としても、あまり喜ばしいことではないのですが」
呆れながら目を伏せる彼女だったが、その手は未だに少女の頭の上に置かれていた。
「ナクア、今日はあなたにお客さんを連れてきました」
「お客さん?」
「ええ。先日、あなたと争っていた例のお兄さんとお姉さんです」
「え? あ、ひぃっ……!?」
シュヴァリエとの会話でようやく俺たちに気づいたのか、少女がこちら――というよりは、主にイスカの顔を見た途端に頬を引き吊らせる。
「この前の、ぬ、脱ごうとした……お姉ちゃん……!?」
「は、はあ……っ!? ひ、人を変態みたいに、言うなっ……!」
そのものだろうが。
「時間も惜しいですし、面会を始めましょう」
「お願いします」
いがみ合うイスカと少女を半ば無視しながら、シュヴァリエが場を整える。
用意された席にイスカと並んで座り、対面には怯えたままの犯人の少女が席に着いた。
そうして、俺たちから見て机の右側に立ったシュヴァリエが話を始める。
「まず初めに。今回の事件における犯行の動機や罪状などは、騎士団の方で聞き取りを行った段階で既に固まっています。ですので、この面会はあくまで、ローレンス氏とイスカ女史に情報を開示する目的で行われます。従って、私は情報の提供、また会話の記録のため、いかなる理由においても同席いたします」
「分かりました」
提示された条件については、正当性があるので従うほかない。
本来ならば、騎士団の目がない場所で色々と話を進めたかったが。
「では改めて、騎士団の聞き取りで判明した情報をお伝えします。彼女の名前はナクア。年齢、おそらく十二、三あたりとこちらは推定しましたが……本人の認識が曖昧なので何とも。出身国や種族に関しても不明ですが、身体的特徴から見て、メノウ国の出身である可能性が高いです」
「そうなのー?」
「……いえ、あくまで私から見た推測ですので。間違っていれば訂正してください」
まるで他人事のように問いかける少女――ナクアに、シュヴァリエが疲れた声で返す。
「続いて、犯行の動機や方法についてですが……明確な回答は未だに得られていません。私もここ数日、何度もナクアに聞いてみたのですが……はあ。ナクア、本当に答える気はないのですね?」
「ダメだよ! だってそんなこと話したら、フクロウのお姉ちゃんもそこに連れてくでしょ?」
「必ずしもそうとは限りませんと、何度言えば分かってくれるのですか……」
シュヴァリエの言い方から、ここ数日でのナクアとの攻防が見て取れる。
だが、彼女の情報が何も掴めていないことは予想できた。これまで単独で何度も窃盗を繰り返してきた奴が、簡単に自分のことを話すわけもない。その意図は色々と思いつくが、同じ状況で考え得るのは、むやみに他人を巻き込みたくないから、だろうか。
「それと、今後の彼女の扱いになりますが……騎士団側は今回、彼女に対して厳しい罰則を科すことはせず、犯行時の精神状態や年齢などの問題も鑑み、私の元で監視するという形で処遇を決定いたしました」
続くシュヴァリエの話は、納得が半分と驚きが半分だった。
「確かに、年齢は比較的若いですが……だからといって、あれだけの窃盗を繰り返した挙句、市場を破壊したのに監視だけで済ませるんですか?」
「もちろん、本来であれば窃盗だけでも充分、捕縛理由になるのですが……本人に充分な責任能力が見られないこと、そして依代の力を行使できる以上、並の拘束であれば簡単に抜け出せてしまうので。一見すれば騎士団からの温情と捉えられるかもしれませんが、捕獲された野生動物や魔術的生命体に対する措置のようなものと捉えていただければ」
「……なるほど」
言われてみれば、こんな強力な力を持つ人間を拘束する方が無理があるか。
それに同じ依代の力を持つシュヴァリエが監視に入るというなら、この判断も合理的な考えだ。
もっとも、本人はこの扱いにあまり興味を持っていないようだが。
「以上が騎士団の聞き取りによって得られた情報ですが……申し訳ございません。なにぶん、ナクアが自分のことを話したがらないもので。これだけの情報しか得られませんでした」
「いえ、構いません」
元よりアテにしていない、とまでは言わないが、そこまで期待をしていたわけでもない。
だからこそ、本来ならば騎士団の目がない場所で、多少強引な方法を取ってでも彼女から情報を引き出し、騎士団よりも先に動きたかったんだが……。
……まあ、いい。
「ナクア、でよかったな」
「うん」
改めて呼びかけると、ナクアはすんなりと俺の声に首肯した。
「まず初めに。少なくとも俺たちは、お前に危害を加えるつもりはない。むしろ味方だ」
「み、味方……? お兄ちゃんはまだしも、この変なお姉ちゃんが……?」
「味方だ」
はじめにイスカへ対する敵対心を解くべきだっただろうか。
内心でそう零している俺をよそに、イスカが続けて言葉を紡いだ。
「あ、あんたの身体については、こっちで色々と調べた……あんたが造ってた、あの、依代の模型が、設計図だったこと。それを基にして、あんたが魂を変質させて、依代の力を行使、してる、ことも……全部」
「え……」
「あ、あたしたちの疑問は……そもそも、魂を変質させる能力を、あんたがどこで手に入れたか。魂の変質なんて、生来的にできるわけが、ない……依代なら、話は別かもしれない、けど。でも、あんたは魔術的には、ただの人間……外部からの干渉がなければ、そんな力は発現、しない」
……何から何まで全部話しやがったな、こいつ。
シュヴァリエが同席してる以上、できるだけ開示する情報は選びたかった。
話されているナクアの方も、まさかここまで解明されているとは思っていなかったようで、つらつらと話すイスカをぽかんと見つめていることしかできないようだった。
そんなイスカとのやり取りを傍で聞いていたシュヴァリエが、ふと。
「やはりこの力は、第三者によって人為的に植え付けられたものだったんですね」
「うん……。シュヴァリエも気づいてた、の?」
「それとなく察してはいました。というより彼女はどうにも、閉鎖的な環境に嫌悪感を覚えているようでしたので……何らかの施設に収容されていたのではと推測し、詳細をお聞きしたのですが」
「……ふんっ!」
「なにぶん、ナクア本人がこの調子でしたので」
そっぽを向く彼女に、シュヴァリエが今日何度目か分からない溜息を吐いた。
どうやらナクアが特殊な環境にいたことは、シュヴァリエも察していたらしい。
……まあ、変に他の可能性を考慮され、俺たちの結論に疑問を持たれるよりは都合がいい。
その話はこれ以上触れずに、そのままナクアへと話を続ける。
「つまり、俺たちはお前が依代の力を手にすることになった原因について話を聞きたいんだ。それさえ聞かせてくれれば、俺たちはもうお前には関わらないと約束する」
「…………………………」
未だにそっぽを向いたままのナクアは、しかし眼だけをちらりとこちらに向けて、
「お兄ちゃんとお姉ちゃん、もしかしてあの人たちの仲間?」
「違う」
それだけはない。絶対に。
反射的に漏れた俺の言葉は、しかしナクアにとっては信頼するに充分な反応らしかった。
「なんでそんなこと聞きたいの?」
「お前の身体を弄った相手が、俺の長年追っている人間かもしれないからだ。……個人的な因縁があってな。生きてるか死んでいるかも分からない奴だったが、お前みたいな被害者が出ているなら、まだ生きている可能性が高い。だから、それを確かめたいだけだ」
「ふーん……」
「嘘だと思うか?」
「……ううん」
まっすぐと目を見つめて話すと、ナクアは納得したように首を横に振った。
どうやら、それなりの信頼は得られたらしい。
「いいよ。お兄ちゃんたちには話してあげる」
しばらくの思考を経てから、ナクアは話を始めた。
「なーちゃん、元々は大地の降龍院に住んでたの。お母さんとお父さんが病気で死んじゃったからね。そしたらある日、降龍院に白い服を着た人たちが来て……なーちゃんのことを引き取ってくれるって言ってくれたの。それで、降龍院の人たちとお別れして、その人たちについていったんだ」
「……それから?」
「最初はね、血とか抜かれたり、いろんな検査したの。だからきっと、お医者さんのお仕事なのかなって思ったんだ。みんな白い服だったし。でも、途中からなーちゃん、変な部屋に閉じ込められて……いろいろ注射とか打たれたり、お薬とか飲まされたりさせられたの」
「だから、逃げ出したのか?」
「うん。だってイヤだったもん。お薬飲まされたり、注射打たれたりするの。それにあそこにいた人たちも、なーちゃんに冷たかったし。しょうがないよね?」
聞くに堪えない話だが、こちらもある程度は予想していたことだ。
一度、シュヴァリエの様子を確認すると、彼女は神妙な面持ちでナクアの話に耳を傾けていた。
「……ね、ねえ。単純な疑問、なんだけど……どうやって、そこから逃げ出した、の? 聞いてる限り、だと、ほぼ閉じ込められてた、みたい、だし……警備だって、厳重だったでしょ? な、何をしたの?」
ふと浮かんだ疑問をそのまま口にしたのだろう、イスカの問いかけにナクアは。
「ネコちゃんになったの。なーちゃんね、一番最初にネコになれたんだよ」
「ね……ネコ? ……もしかして、依代? その時点で、既に力を行使でき、たの?」
……猫を模した依代の有無とその能力は、後でまとめてシュヴァリエに尋ねればいい。
それよりも大事なのは、彼女が閉じ込められていた施設の話だ。
「改めてナクア、お前が閉じ込められていた施設について知りたいんだが」
「えー、でもなーちゃん、あんまり覚えてないよ? 閉じ込められてたんだもん」
「……何か印象に残っているものはないか? どんな些細なことでもいい」
「う〜ん……?」
前のめりになっている自覚はあるが、ここで引くわけにはいかない。
俺の言葉にナクアはしばらく考える素振りを見せたかと思うと、何かに気づいたように顔をあげた。
「あ……お日さまと、ハサミ……?」
彼女が言葉を続けるよりも先に、俺の口は動いていた。
「太陽と鋏の紋章だな?」
「そう! 一回だけ、施設の偉い人に会いに行ったんだけど、その部屋にあった! あ、でも……他の部屋にはなかったよ? その部屋にあったのも、ぼろぼろのやつ、一つだけだったし」
「いや、それでいい。もう一度確認するが、太陽と鋏の紋章で間違いないんだな?」
「うん!」
会話の中で確信を得たのだろう、身を乗り出すような勢いでナクアが話してくれる。
……これではっきりした。ナクアの身体に力を植え付けたのは、間違いなくあの男だ。
生きていてもおかしくはないと思っていたが、まさか本当に生き延びていたとは。
「もっと詳しく話を聞いてもいいか?」
更なる情報を手に入れるため、今一度ナクアにそう話しかける。
「うんうん。アタシも聞きたいな~、特に魂に関するお話とか?」
俺に続いて問いかけるその声に、頷こうとしたところで。
それがこの場にいる四人の、誰のものでもないことに気づいたのは、一瞬遅れてのことだった。
「っ、だれ……!?」
咄嗟にイスカが立ち上がって、右腕の先に魔術式を展開する。
それはナクアの背後――いつの間にかそこに立つ、一人の少女へと向けられた。
首の後ろで適当に纏められた茶色の長い髪に、琥珀を思わせるような橙色の瞳。
浮かべる薄ら笑いと先程の口調が相まって、どこか掴みどころのない印象を抱く。
そして、何よりも。
「え? あ、ネコちゃん……?」
頭の上に生えた猫の耳と、尾骶骨あたりから生えている猫の尻尾。
その二つを視認したナクアが、思わずといったように言葉を漏らす。
そしてそれは、人間の身体に二つ以上の魔術的器官を有していることを示していて。
「まさ、か……依代?」
イスカの疑問に答えを出したのは、シュヴァリエだった。
「ハルモニア様?」
「やっほー、シュヴァちゃん。久しぶりだねえ。相変わらず元気ない顔してるじゃん?」
「はい、お久しぶりです。そちらも変わりがないようで何よりですが……」
突如として現れた彼女――ハルモニアに、シュヴァリエも多少の驚きは見せているものの、特に動揺することなく、そのまま言葉を交わし続けていた。
「しかしハルモニア様、なぜこちらに?」
「いやいや、リノン先輩の研究に詳しいヤツ探してる、って『ギルド』経由で呼びかけてたのはそっちでしょ? だからアタシが直接来てあげたってワケ。それとも何? アタシが来たら文句でもあんの?」
「いえ、そういったわけではなく……その、まさかハルモニア様が来ていただけるとは思わず」
そんな二人の会話に割って入ったのは、未だに魔術式を構えたままのイスカだった。
「大地の、依代……座は、『均衡』?」
「え? なんでそんなこと分かんのアンタ」
イスカの呟きに、ハルモニアが興味深そうな視線をそちらへ向ける。
シュヴァリエとの会話で察していたが、やはり依代か。
「……紹介が遅れましたね。彼女はこの時代の第四階梯、イスカ女史です」
「へーえ、このちんまいのが? ……いや、リノン先輩も同じくらいだったっけ」
「ち、ちんまいは、余計……だし」
じろじろとイスカを吟味する彼女を見て頃合いだと思ったのだろう、シュヴァリエは改めて俺たちへ向き直ると、隣でふらふらと尻尾を揺らすハルモニアを示して話した。
「ローレンス氏とイスカ氏にもご紹介を。こちらは大地の依代、『均衡』の座のハルモニア様です。先の話の通りであれば、『ギルド』を通した学会からの招集に応じ、リノン女史の研究の有識者として駆けつけてくださったそうです」
「そういうことー。よろしくね」
紹介を受けたハルモニアは、へらへらと笑いながら片手を振った。
しかしもう片方の手はナクアの頭の上に乗せられたままで、ナクア本人も未だに戸惑いを隠せない様子だった。不安そうな表情を浮かべる彼女を見て、ハルモニアがその顔を覗き込む。
「それで? この子が例の魂がヘンになってる子?」
「はい。名前をナクアと。『ギルド』に提出した書類にも記載しましたが、魂の形を変質させることで依代の力を行使していました。詳細については私とローレンス氏が実際に目撃したので、確認が必要であれば……」
「あーいいよいいよ。見るだけである程度は分かるから」
シュヴァリエに視線を向けず、ナクアをじっと見つめたままハルモニアが答えた。
かと思うと彼女は、ひょい、と軽い様子でナクアのことを小脇に抱えて、
「あ、え!? な、何するのネコのお姉ちゃん!」
「いやー、まあアレだね。自分で言うのも何だけど、アタシが来てよかったね、ホント」
「……お待ちください、ハルモニア様。何をされるおつもりですか?」
突然のハルモニアが取った行動に、シュヴァリエの声色にも冷たいものが灯る。
「そんな怖い顔しないでよシュヴァちゃん。ただ、ちょーっとこの子を借りてくだけ」
「申し訳ありませんが、それは許可しかねます。現在ナクアは騎士団の監視下にありますので。たとえ我々が依代であるとはいえ、人間側の規則は遵守し、勝手な行動は慎むべきだと思いますが」
「でも実際、騎士団が監視したところで何にもならなくない? それに学会も魂の研究ほったらかして、『ギルド』経由で人探すくらいにはポンコツじゃん。そんなヤツらに任せていいの?」
これまで色々とあったのだろう、ハルモニアがぶつくさと文句を垂れる。
「そこの第四階梯だってそう思わない?」
「何、が……?」
「この子はもう、人間の領域じゃなくて
「……ま、あ。確かに……人間の範疇を逸脱してるとは、思う。少なくとも、倫理監査には引っかかる、し……それに、前にも言ったと思う、けど……そこは、シュヴァリエたちが、判断する、こと」
急に話を振られたイスカは、しかし魔術師としての判断を的確に下していた。俺としても彼女を社会的な尺度でどうこうする意思はないし、依代がその問題の解決に奔走してくれるのなら、それはありがたい話だとも思う。
しかし、状況が状況だ。少なくとも今、ここで引き渡すというわけにはいかない。
「今回に関しては、学会や騎士団をあんまり言うのもかわいそうけど……だったらなおさら、
「……そうですね。ハルモニア様の仰ることも理解はできますが」
「でしょ? 大丈夫、アタシに任せてくれれば、魂の問題とか身体の術式とか、全部パーッと解決してあげるからさ。それとも何? シュヴァちゃんはアタシのこと信用してくれないワケ?」
「ええ、まあ。今までのご自身の行いを鑑みていただければ当然かと……」
「真面目な顔でそんなこと言うのやめてくんない?」
味方をするのも躊躇われるシュヴァリエの物言いに、ハルモニアが頬を膨らませた。
だが、ここでナクアを連れ去られるのは、こちらとしても都合が悪い。
せめて彼女が閉じ込められていたという施設の詳細について聞き出さなくては。
「ちょ、ちょっと待ってよ! ネコのお姉ちゃん、なーちゃんどこに連れてく気!?」
「別に変なところじゃないって。その身体を何とかしてあげるってだけ。アンタだって、面倒事はもうゴメンでしょ? 普通の子に戻してあげるから、一旦アタシについてきて」
「ヤダっ! 誘拐だ誘拐! なーちゃん連れて行かれるのはもうイヤ!」
「ちょ、暴れんなって! あーもういいから大人しくててよ!」
我慢の限界に達したのか、ナクアが火を切ったようにハルモニアの懐で暴れ出す。
それに便乗するように、俺もハルモニアへ向けて口を開いた。
「少しいいですか」
「え? ……ごめん。アンタ、誰だっけ?」
……まあ確かに、他の三人と比べたら、俺はただの一般人か。
「ローレンスと言います。現在はイスカの助手を」
「ああそう、助手。へーえ。アタシと同じだ」
ハルモニアの返答には疑問が残ったが、今は触れないでおく。
「彼女は自分が追っている人間の手掛かりを握っています。ですが現在、該当する人物についての情報がまだ充分ではなく……可能な限りでいいので、ナクアからの話をまだ聞きたいのですが」
「えー……かなりアタシ的には関係ない話なんだけど」
「お言葉ですが、それはこちらも同じです。魂に関する術式については、自分としてもこれ以上関わるつもりはありません。個人的にもこの問題は、人間側でどうこうするのではなく、依代側で解決する問題だとは思いますが……こちらの用件が終わるまで、今しばらくお待ちいただければと」
「ふーん? つまり先にツバつけたのはこっちだから、大人しくしてろって言いたいの?」
多少行儀の悪い言い方にはなるが、概ねその通りだった。こちらの意図はきちんと通っている。
だが、それを理解してもなお、ハルモニアは自分の意思を変えないようで。
「でも残念。今回はどっちが先とかそういう話じゃないんだよね。これは大地の依代、『均衡』の座としての使命……それに何より、リノン先輩との約束があるから。簡単には譲ってあげられないかも」
リノンとの約束。
それが何を意味するのかは分からないが、少なくとも現在のハルモニアにとって、それが大きな動機になっているのは確かだった。それこそ、依代としての使命に並ぶくらいには。
「どうしてもお譲りしてくれませんか?」
「ダメ。アンタらに任せると危険だって、分かってくれない?」
先程からこちらにある程度の気遣いを見せてくるのが、余計にやりにくい。
とはいえ彼女もだんだんと焦燥感を見せてきて、今すぐにでも逃げ出しそうな様子だった。
だが、譲れないのはこちらも同じだ。
「とにかく、この子は後でちゃんと返すから。それまで……」
そうして、いよいよここから逃げ出そうとハルモニアが話したところで、ふと。
「……ん? んー……ん!??」
改めて俺のことを見つめたかと思うと、傍らにナクアを抱えたままずかずかとこちらへ歩いてきた。その様子は先程の余裕のあるものとは一変しており、ハルモニアは目を丸くしたまま、じっと俺のことを見つめている。
「……どうかされましたか?」
「ねえ、アンタ。ローレンスって言ったっけ?」
「ええ、はい。ローレンス・エルマークと……」
「ごめん、いきなりだけどちょっと舐めてもいい?」
……は?
「は、はあ……っ!? おい……!!」
イスカが叫ぶよりも先に、ハルモニアが俺の頬にその顔を近づけてくる。
反射的に身体を仰け反らせたが、既に頬には生暖かい感触が残っていた。
……ザラザラしてたな。いや、猫だから当然か。当然なのか……?
「っ……一体、何を……!」
「え、やっぱり同じ味する。ねえアンタ、どこ出身?」
「……こんなことをされて素直に答えると思いますか?」
「あ、そ。まあいいよ。また会いに行くから、その時教えてね」
動揺する俺をよそに、ついにハルモニアが行動に移る。
「ハルモニア様、お待ちを……!」
「待たなーい」
話すのも面倒なのか、ひらひらと手を振りながらハルモニアが踵を返す。
だが、彼女が向かう先は、俺たちが部屋に入ってきた扉とは反対の方向だった。
事情聴取を行う部屋として当然、そこには窓も通気口もない壁があるだけなのだが。
「ま、待て……この、っ!!」
「イスカ、やめろ! ナクアもいるんだぞ!」
だが俺の制止が彼女の耳に届くよりも先に、魔術式が起動する。
それは補足した対象に微細な振動を与え、内側から炸裂させるもの。
彼女にとって一番手に馴染んでいるであろうその術式は、既にハルモニアを捉えていたが。
「じゃーね、シュヴァちゃん。また来るから。ばいばーい」
そう言ってハルモニアが壁に手をついた、その瞬間。
彼女の輪郭が
「は……!?」
放たれた振動はしかし対象を失い、そのまま壁に追突する。
腹に響くような衝撃音が耳をつんざいたが、俺の意識はそれすらも脳の片隅に追いやっていた。
「今のは……『均衡』の座の力、ですか?」
「おそらくは」
シュヴァリエも詳細は知らないのだろう、曖昧な答えが返ってくる。
ナクアもはじめは猫になれた、と言っていたから、おそらくあの力を行使して施設から脱出したのだろう。思い返せば、ハルモニアが初めてこの場に現れたのも我々の認知外からだった。仕組みは分からないが、どうやら彼女は壁、というよりは物体をすり抜ける力があるらしい。
……一体何をどうすればあんなことが可能になるのかは疑問だが、それよりも。
「あ……あの泥棒猫っ! 許さない……ぜ、絶対見つけ出して、殺してやる、っ!」
今は激昂するイスカを宥める方が先決だった。
「……イスカ、落ち着け」
「お、っ、おちっ、落ちつけるわけ、ないっ! あ、あたしの、ローレンスによくも……よくも、ツバなんて、つけて……っ! よ、横取りだ……っ! あいつ、あたしからローレンスのこと、横取りしてった、っ! ろ、ローレンスは生涯ずっと、あたしだけのモノなのにっ……!!」
分かり切ってはいたが、ついに言い切りやがったなこいつ……!
「それにあいつ、ローレンスのこと、舐めて……! あ、あの顔、絶対にローレンスのこと好きだった! そうだ、絶対そう! は、発情期のメス猫……み、見境なしに盛りついてる畜生っ! あ、あいつの股開いて、去勢してやる! もう二度と子孫が残せない体にする……っ!」
「やめろ。相手は依代だぞ。人間の味方だ」
「よ、依代だからって、何でもしていいわけじゃ、ないっ! あ、あぁぁああっ! 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……! ろ、ローレンスのほっぺたに、あいつのベトベトしたヨダレが……っ! あ、あたしが上書き、するっ……! あ、あたしの舌で綺麗にする、から……!」
「俺は大丈夫だ。帰ったら流す。とりあえず舌をしまえ」
「れえ……!!」
できるだけこれ以上の刺激を与えないよう、言葉を一つ一つ選んでイスカに渡していく。この激昂ぶりを見るに無駄な努力かもしれないが、かといって変に暴れられるのも困る。
……とはいえ、程度はイスカほどではないが、俺もハルモニアの行動には違和感を感じた。
猫は親愛を証明するために、顔を舐めあうと聞いたことはあるが。
少なくとも俺とハルモニアはお互い、あの場で初対面のはずだ。
「う、うぅ……! ろ、ローレンスぅ……!」
「分かった、分かったから一回落ち着け。話が進まない」
「あ、あいつずるい……! あ、あたしもローレンスを舐めたことなんて、ないのに……!」
あったら困る。
「……もう、よろしいですか?」
「本当に申し訳ありません」
イスカの痴態を見届けたシュヴァリエが話しかけてきたので、それに応える。
「いえ、その……こちらもハルモニア様がご迷惑をお掛けしてしまいましたので」
「……あれで『均衡』なんですか? どちらかというと混沌では?」
「残念ながら。以前、窃盗を行いそうな依代の話をしたかと思いますが、彼女が第一候補です」
「第二以降の候補もあるんですか?」
眼を伏せるシュヴァリエには、それ以上のことを聞かないでおいた。
「ね、ローレンス……あいつ、探そう……!」
ふと、落ち着いていたはずのイスカがぼそりと言葉を漏らす。
「や、やっぱり許せない、よ……。あ、あたしのローレンスを穢したんだ、もん。そ、相応の罰を、与えてあげない、と……あ、あたしの気が、済まない……! 探し出して、去勢する……っ!」
「……去勢については同意しないが、俺もそのつもりだ」
ナクアを少し借りるというハルモニアの言葉は嘘ではないだろう。会話の最中にもこちらを伺う姿勢が言葉の端々にあった点からも、用件が終わればナクアは騎士団の元に返却されるはずだ。
しかし、ここで悠長にナクアが返ってくるのを待っていては、次に動き出す機会を逃してしまう。
せっかく手に入れた二年ぶりの機会だ。それをみすみす見逃すことはしたくない。
「だが、探すといっても……。シュヴァリエは何か知っていますか?」
「申し訳ありませんが、私からは何も。ハルモニア様は……その、基本的にフラフラと自由にされている方ですので。どこかに定住したり、拠点を構えるようなことは、私の知る限りではしていなかったと思います」
「そうですか……」
「ですが今回の件を考えるのであれば、リノン女史に纏わる場所を経由していてもおかしくはないかと。ハルモニア様もお一人で解決すると言っていたので、リノン女史が残した資料を参照したり、あるいはリノン女史が使っていた建物を一時的な拠点にする可能性は大いにあり得るかもしれません」
シュヴァリエの提案は理に適っていた。
先程の会話を思い返してみても、ハルモニアとリノンには深い関わりがあることが察せられる。
だが、行き先を絞るにはもう一つほど材料が欲しい。
「……しょ、しょうが……ない」
するとイスカがふと、ため息をひとつ吐いてから。
「魔術学会の、主席に……リノンのこと、聞いて……みよ」
やけに不満そうな表情を浮かべながら、呟いた。
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