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大地の龍、”壑陵を刻む赫爪”、ヘリオルト・リソスフィア。
かつてこの世界を創世したとされる、三柱の龍のうちの一体。
それは創世の神話において、自らの爪で地表を裂き、大陸を作ったとされている。このことから大地の龍は歴史の礎と崇められ、この大陸における万物の祖として人々から信仰されていた。
龍に関する史料の中で、ヘリオルトに関するものは比較的多い部類に入る。
というのも、歴史の礎として彼が実際に大地を切り拓いた痕跡は今もなお現存しており、単純にそれらの記録が
加えて、かつてレフェルトリスと論争を繰り広げた大地の依代、『生命』の座が当時、ヘリオルトに関するいくつかの証言を残しているため、民間に伝わる寓話や伝承も併せれば、最も情報が明らかにされている龍であると言っても過言ではない。
その中でもヘリオルトの象徴とされているのが、赫爪断層と呼ばれる巨大な異常地形だった。
この地形は従来の地質学的な常識を根本から逸脱しており、上空から眺めると大地を爪で何度も切り裂いたような形状をしていることから、ヘリオルトの銘を冠する名で呼ばれることになった。
露出した地層の年代測定結果は互いに数百年単位での相違が認められており、本来ならば重なり合うはずのない地層が、無作為かつ複雑に入り混じって重なっていることが確認されている。
大地の龍の信奉者はこの地形を「赫爪を研いだ地」と称し、聖地として崇めていた。
だが、この断層についての記述は、ヘリオルトに関するどの文献にも確認されていない。
これだけの規模を持ちながら、前述のような異常性がある地形が形成されたのは、確かに大地の龍の干渉があったと考えるのが自然だ。しかし三柱のうちで最も情報が揃っているヘリオルトの伝承や史料に、この地形に関する言及は一切見つかっていないのもまた事実だった。
一度、『生命』の座に赫爪断層についての聞き取りを行った記録があるが、本人もこの地形に関しては知るところがなく、「なんか適当なゴミでも埋めたかったんじゃないんですか?」という曖昧な推測しか得られず、何故かそこでまたレフェルトリスとの言い争いが発生したという。
過去に数回、学会が主導した複数の派閥による、赫爪断層の協働調査が進められたことがある。
全ての調査記録は学会で公表されているが、その裏で一つの奇妙な噂が流れていた。
それは深部に到達した調査員の一人が、数日をかけて同質量の白い灰に変化したというもの。
該当地域は現在、魔術学会と汎大陸巡徒同盟による封鎖が続いている。
■
「……………………」
騎士団の本部で、シュヴァリエとナクア、そして『均衡』の座との一件があったあと。
研究所に戻るなり、イスカは資料保管庫にある通話用魔導器の前で立ち竦んでいた。
『ナニシテンスカネ』
「知らん」
一人じゃ嫌だから、と言われアーロンと共に同席しているが、その本意は分からない。
大方、学会の主席と呼ばれる人物に、リノンのことを問い合わせたいのだろうが。
「……イスカ。そもそもお前、主席と面識はあるんだよな?」
「い、いちおう……な、何回か、話したことはある……よ。で、でも……」
第四階梯という立場上、学会の主席と交流があるのは当然のことだろう。
俺もそこを疑っているわけではないが、とはいえ彼女の反応は芳しくないものだった。
何度も繰り返し、魔導器に手を伸ばしては引っ込めるイスカを見て、問いかける。
「苦手なのか?」
「べ、別にそういうわけじゃない、けど……」
現魔術学会主席、第三階梯魔術師、エンデルガスト。
古くから学会と強い繋がりのあるイリスシア家の御曹司でありながら、その恵まれた環境に甘んじず研鑽を続け、齢二十六という若さで現魔術学会の主席に就任したという俊傑。
その経歴に違わず人物としての評価も高く、魔術師である以上多少研究者気質な部分はあるものの、それを込みにしても学会の内外を問わず多くの人間から慕われていると聞く。
そんな絵に描いたような優等生の彼に、なぜイスカがこうも連絡を躊躇っているのかというと。
「あ、あいつに連絡したら……ま、また、報告書の提出、急かされる……かも」
「自業自得だろうが」
『ママ……』
思わず漏れた俺の言葉に続いて、アーロンも呆れたような声を上げた。
「……報告書に関しては、既に仕上がったものがいくつかある。もしその部分を詰められても、俺から説明すればいい。最悪、すぐにでも提出できる奴があるから、それで何とか誤魔化せ」
「ろ、ローレンス……。うぅ……で、でも……ぉ」
『コワクナーイ、ヨッ』
「アーロン、まで……わ、わかった……ま、ママ、頑張るから、見てて……ね?」
母親の自覚に関しては、もう言ってどうこうなるわけでもないので言及しない。
諦める俺をよそに、イスカは大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと魔導器を操作し始めた。
幸いにも数秒の間のあとに反応があり、通話が開始される。
『イスカさんですか?』
「あ、ぅ……え、エンデル……」
果たして魔導器から聞こえてきたエンデルの声は、いくらか上機嫌なものだった。
『珍しいですね、貴女から連絡をいただくのは』
「い、や……その……」
『大丈夫ですよ、分かっています。もちろん研究の報告書に関してですよね』
「あ、いや……」
『これまで貴女には幾度となく報告書の提出を催促していましたが……徒労にも思っていたその作業がこうして功を奏したと考えると、何か感慨深いものがありますね。ここ最近は多忙でしたが、貴女の一報で憑き物が落ちたような気がします』
イスカからの連絡を吉報と疑わず、エンデルが一人でにつらつらと語り始める。しかしそれに比例するように、イスカの表情はだんだんと青ざめ、はくはくと無言で口を動かしていた。
だが、そんなイスカの様子など知れるわけもないエンデルが、言葉を続けて、
『それで、報告書はどれくらい出来上がったのですか?』
「……ち……違う……。報告書のことじゃ、ない……」
『は?』
予想以上に大きな声を張り上げた彼は、しばらくの間を取ってから再び話し始めた。
『……確認です。貴女は今回、報告書の件で連絡をくださったのではないのですか?』
「ち、違う、よ……ほ、報告書とは、完全に、別件の……調べもの……」
『……………………』
通話用魔導器の向こうから、疲れに疲れ切った溜息がかすかに聞こえてくる。
だが、再びエンデルの声が聞こえてくるのに、それほどの時間はかからなかった。
『いえ、まずは聞きましょう。私も先走りが過ぎました。第四階梯の貴女が私に連絡を寄越すというのは、それなりの事情があるのでしょうし。それで、用件は何ですか?』
「そ、その……り、リノンのこと、聞きたいんだけ、ど」
『リノン? 貴女の研究に、リノンの術式が関わってるのですか?』
「あ……えっと……い、一応、関連する要素はあるし、今後も手を出そう、とは思ってる、けど……別に、今回の調べものが、あたしの研究に直接関わってるわけ、じゃない……よ」
『……つまり貴女は、あまつさえ報告書の提出という義務を放棄しながら、学会の主席という立場の私に、報告書の作成とは全く無関係の調査を要求していると?』
「うぅ……! ろ、ローレンスぅ……!」
とうとうイスカがこちらのことを見上げてきたので、通話を代わる。
学会の主席という立場を抜きに、この状態の人間に関わることは避けたかったが。
「通話を代わりました。現在、イスカの助手をしているローレンスと申します」
『ああ、ローレンス氏ですね。イスカさんの権利の行使に名前があったので覚えています』
嫌な記憶のされ方だな……。
「先に我々が置かれている状況を簡単にお伝えします。先日あった市場での強盗事件の犯人が、『均衡』の座に奪取されました。我々はその奪還、詳細には『均衡』の座の潜伏場所を探るため、かつて関わりのあったリノン女史が使用した施設について現在、調査を進めているところです」
『なるほど。それで、リノンの記録を探るために私へ連絡を?』
「そうなります」
とりあえずの説明は果たしたので、本意ではないがイスカの擁護に映る。
「先程からそちらが要求されている報告書ですが、自分は現在、イスカに報告書の体裁を整えるよう指示されています。そして既に推敲を終え、提出できるものが研究所にいくつかあります。近日中にその報告書を提出すると約束するので、今回のみご協力いただけないでしょうか」
『ありがとうございます。ですが、それでは根本的な問題の解決にはなっていません。階梯を持つ魔術師は、自らの研究を報告書として提出するのが規則です。それを何度も破っているイスカさんには、改めて規則の重要性と、組織的な行為の逸脱について注意されて然るべきだと思いますが』
そりゃそうだ。全くもって何も言い返せない。
『他の魔術師の模範となれ、とは言いません。そもそも第四階梯という称号は、階梯制度を用いてもその実力を測れない、極めて稀な才能を持つ者に与えられる称号ですから。私を含めた一般の魔術師に、彼女を模範にしろと言い渡すのは酷だという理解、もとい諦めはあります』
「はい」
『ですが、第四階梯とはその文明における象徴でもあります。もし後世の人間が我々の時代を振り返った際、当時はイスカという悪逆卑劣な第四階梯が魔術業界を支配していた、などと書かれていては、この時代の魔術師、そして本人にとっても不名誉なことです。改善すべきでしょう』
「その通りだと思います」
『そもそも、義務を放棄し、第四階梯の権利だけを行使するというのはいかがなものでしょうか』
「仰る通りです。本当に申し訳ありません」
……驚いた。擁護できるところがほとんどない。
こいつが悪辣極まりない厄介者だということを、改めて認識させられる。
「さ、さっきから、言わせておけば……す、好き勝手……っ!!」
そうして平謝りを続ける俺を見て何を思ったのか、イスカが急に口を開いて。
「も、もういいっ! あ、あたしが直接調べる! 本部に今から、行く!」
『嫌ですよ。貴女が学会本部に来るとなったら、私は今すぐに職員を全員避難させ、書庫を指定術式で封印します。さすがの第四階梯でも、『司書連合』をまるごと相手にはしたくないでしょう』
総魔研の時もそうだったが、イスカが訪れる際、その施設の職員には避難命令が出るらしい。
もしかしてこいつは、御伽噺に出てくる魔獣とかと同じ扱いなのか?
「だ、第四階梯の、権利を……っ!」
『構いませんよ。学会からの研究支援を打ち切られてもいいのなら』
「っ…………あぁぁぁああっ! もおぉぉぉぉおお!!!」
ついに金切り声のような悲鳴を上げたイスカが、そのままの勢いで魔導器へ叫びつける。
「あ、あた、あたしのローレンスが、『均衡』のメス猫に舐められんだよぉっ!! あ、あいつローレンスのこと、を、い、いやらしい目つきで……っ! だ、だから、ローレンスが奪われる前に……あ、あいつの生殖器を……え、抉り落としてやりたいの、っ!」
『今、貴方が本部に来なくて本当によかったと痛感しています』
避難命令が出る理由が明確になった。こんなのが来るなら誰だって逃げる。
だが、このイスカの態度にも慣れているのか、エンデルは極めて冷静な態度のまま続けた。
『ですが、イスカさんの目的は分かりました。要は私情による嫉妬ですね?』
「っ……そ、そうだよっ! あ、あたしには正直、犯人も依代も、どうでもいい……! た、ただ、あのメス猫に、ローレンスが誰のモノなのか、教えてやるだけ……っ!」
『つまり、その私情に私を付き合わせるつもりですか? 学会の主席という立場ではなく、いち個人としての私に、個人的な鬱憤を晴らすための協力をしてほしいと?』
「っ、そ、そう……! あ、あたしに貸しを作る、機会をやるって、言ってんだよ……っ!」
『ふむ……』
そこでエンデルは一度、何か考えるような声を漏らしたかと思うと、
『いいでしょう。お力になりますよ、イスカさん』
「……本当ですか?」
あまりに簡単に言い渡された言葉に、イスカよりも先にそんな声が漏れた。
『ええ。第四階梯に個人的な貸しを作れるというのなら、そこまで悪くない話でもないかと』
「ですが、先程からイスカの協力には真っ向から反対しているようにも聞こえましたが」
『もちろん報告書や学会内での振る舞いに関しては、早急に改善するべきです。しかし彼女は今、そういったものを抜きにして、個人的に私を頼っているようでしたので。それを無下にするほど私も腐ってはいません。もっとも、私がそう信じたいだけかもしれませんが……』
「……ありがとうございます」
『そして何より、魔獣に首輪をつけるいい機会だとも思いまして』
色々と理由を述べていたが、どうやら最後のそれがエンデルの本音らしかった。
「て、手伝うなら、早くして……」
「ええ。既に資料は手元に用意してあります。口頭にはなりますが、お伝えしましょう」
どうやらイスカと対話をしている間で、彼もある程度の準備は整えていたらしい。
……まさか、初めからイスカに貸しを作ることが目的だったのだろうか。
とはいえ、今それを指摘したところでどうにもならない。突発的に浮かんだ疑惑をいったん頭の隅に追いやって、エンデルの話へと耳を傾けることにした。
『リノンが生前に運用していた施設は、全て倫理監査委員会による定期的な調査を行っています。魂に関する術式は、委員会も依然として良くは思っていませんからね。当時はリノン本人が万人からの信頼に足る人物だったので、委員会の方も監視というよりは協力する方向で動いていたみたいですが……彼女がいなくなった今、それを悪用しようと企む輩は少なからず存在するので』
「では、リノンの関わった施設は全て委員会……もとい、学会の管理下にあるのですか?」
『概ねその認識で結構です』
そこで一つ間を置いてから、エンデルが続ける。
『現在、委員会は全ての施設の重点的な調査を行っています。詳細は伏せますが、何やらよからぬことを企てた連中がいたみたいでして。委員会は今、彼らの足取りを捜索しているところです』
「それは……我々の抱えている問題とは、完全に別件のものですよね?」
『おそらくは。関連性は低いと見ていいでしょうね』
こちらの追求にもそれだけの言葉しか返さないあたり、かなり厄介な件らしい。
だが、その件で今、リノンの施設を洗い出しているということは。
「……つまり、あ、あんたの手には今、リノンの施設に関する、最新の情報が、揃ってる……」
『運が良かったですね、イスカさん』
イスカの言葉に、エンデルは若干の呆れを含めた声で答えた。
『倫理監査委員会の調査では、いくつかの異常が認められた施設があることが確認されています。規模の大小はありますが、お二人の言う『均衡』の座が潜伏している場所の候補になるでしょう』
「そ、それなら……あ、あんた目線で、どこが怪しいと、思う?」
『そこに関しては自分で調べていただければ……と、言いたいところですが』
おそらく彼も心当たりがあるのだろう、紙の擦れる音のあとに言葉が続いた。
『赫爪断層付近にある研究所が、個人的には少し気になりますね』
「なんで?」
『研究所内にこれといった不審な点は見つかりませんでしたが……逆に言えば、既に何十年も放置されているにも関わらず、これといった異常が見つからなかった、ということです。内部にある資料もそのまま残っていますし、何より建物の外装や室内に劣化が見られませんでした』
「だ、誰かが秘密裏に、管理してた……とか?」
『その可能性も考慮しましたが、今回は他に明らかな痕跡が残っていた施設が複数あったので、そちらの調査を優先しました。それに、あそこは学会と『ギルド』による封鎖区域の中です。そう簡単に侵入はできませんが……相手が依代であることを考慮すれば、あるいは』
「……乗った。あんたの推測を、信じてみる」
『光栄です』
赫爪断層。隣国であるハルヴォーク領土内に位置する、
長年に渡り学会と『ギルド』が共同で封鎖しているその場所は、通常の人間であれば近づくことすら叶わないが、依代であればその限りではないだろう。何より急に出現し、壁をすり抜けた『均衡』の座のことを考えれば、より一層その可能性は高くなる。
『お二人の通行許可はこちらから出しておきましょう。ただ、今すぐというわけにはいきません。手続きの関係上、許可が下りるのは早くても明日の午前中になると思います』
「構いません。便宜を図ってくださり、ありがとうございます」
むしろ数日、長くて二週間はかかると見ていたので、翌日に動けるだけでもありがたい。
おそらくイスカが第四階梯であることを加味しての特例なのだろう、そこだけは感謝できた。
『それで、現地にはどうやって向かうおつもりですか?』
「う、ん……。は、”博闢の門”を使う、つもり……」
『念のためお聞きしますが、商会からの使用許可は下りているんですよね? あれは学会ではなく、オルトライズ商会の管理下にあるので、私でもどうにかできるものではないのですが』
「………………」
『イスカさん?』
するとイスカは一瞬だけ口をつぐんだかと思うと、再び静かに口を開いて、
「し、商会なんて、知ったことじゃ、ない……あ、あいつらは、オルトライズの功績にすがりついてるだけ、の、金の亡者……! だ、だから、あたしに、文句なんて言わせない、っ!」
『それは……っ!? イスカさん!!』
「うるさいっ!」
声を荒げるエンデルを無視して、イスカが通話を一方的に切断する。
……確か、イスカは以前、商会に”博闢の門”についての資料を要求したが断られていた。その経緯もあって、オルトライズ商会は彼女にとっての敵なのだろう。
そのまま肩で息をしていた彼女は、ゆっくりと俺のことを見上げてから、
「こ、これで、決まり……あ、明日、あのメス猫を、叩き潰しに……いく!」
「ああ」
様々な文句と苦言が脳内を飛び回っていたが、ひとまずそれは置いておく。
今はナクアを連れ去った『均衡』の座――ハルモニアを追うことを優先した。
それに、どうせ諸々の責任を負わされるのはイスカなので、俺には関係のないことだ。
助けようとしても助ける余地がないので、大人しく見守っておく。
「アーロン、明日も留守番を頼む」
『ナンカ多クナイスカ?』
「多いも何も、お前の役割はこの研究所への常駐だ」
『アーネ』
アーロンにそう指示を出してから、俺も準備を始めることにした。
……まずは、近日中に学会に提出する報告書の厳選からだ。
■
翌日、オルトライズ商会、ノールドベルト支部にて。
「申し訳ありません、”博闢の門”は正式な許可を得た方のみしか……」
「う、うるさい……うるさい、うるさい、うるさい、っ! あ、あたしは第四階梯なんだっ! この建物をまるごと灰にされたくなかっ、たら、い、今すぐ門を開けろ……っ!」
「ひぃっ!? わ、分かりました! すぐに準備致します!」
同日、ハルヴォーク北西部、魔術学会及び汎大陸巡徒同盟共同管理区域にて。
「では次に、お手数ですが本人確認が可能なものの提示を……」
「ああぁぁあああっ、もう! わかった! 今からあんたを、こ、粉々にする! あ、あんたが二秒で死ねば、あたしが第四階梯って証拠に、なる! そ、それでいい……っ!?」
「こ、この感じ……っ、は、はい! 確認できました! どうぞお通りください!」
……以上のような経緯により、俺たちは”博闢の門”を使用し、ノールドベルトの隣国、ハルヴォーク内に位置する赫爪断層の周辺区域へと足を踏み入れることになった。
方々で繰り広げられた、思わず目を覆いたくなるほどのイスカの蛮行に言葉も出なかったが、なまじ目的地には着々と近づいているため、あまり文句も言い出せない。商会の職員、そして共同管理区画の巡徒らに心ばかりの謝罪の念を送りながら、俺たちは歩みを進めていた。
「う、鬱陶しい奴ら、め……あ、あたしと、ローレンスの邪魔、は……誰にも、できない……!」
ぶつぶつと恨み言を呟くイスカを無視して、改めて周囲の景色を見渡す。
赫爪断層に至るまでの道中は険しい勾配が続いていたが、とはいえかつて大地の信奉者が巡礼を行っていた地ということもあり、石畳や階段など充分すぎるほどの整備が行き渡っていた。
この区域一帯が封鎖されてからも整備は続いているらしく、それらの設備にこれといった損傷も見られない。周辺の植生にも異常なものは見られず、昼下がりの空には鳥の群れが飛んでいるくらいで、封鎖区域とは思えないほど、長閑で牧歌的な印象のある山道だった。
「あ……あ、あそこ、ローレンス、見て……」
小高い丘をひとつ越えたところで、ふとイスカに呼び止められる。そのまま彼女が指で示した先へ視線を送ると、そこにはまるで、世界を分断したかのような光景が広がっていた。
「……凄まじいな。これが赫爪断層か」
かつて
丘から見下ろす形で目にしたそれは、まさに爪痕と呼ぶべき地形だった。
露出した地層は乱雑に色を変え、互いに噛み合うこともなく、誰かが無理やりそこに積み上げたかのように歪な形でそこに存在している。俺は地質学には明るくないが、それでもこの様相を一目見ただけで、この地形の異様さを確かに感じることができた。
「資料で何度も目にしたことはあるが、実際に見るのは初めてだな」
「う、うん……あ、あたしも、初めて……」
この光景を見れば、記録はなくとも大地の龍が残した御業だと信じてしまうのも頷ける。
だが、今回の目的はこれではない。
「……あそこにあるのがリノンの研究施設か?」
「た、たぶん……そう、だと、思う」
渓谷へと続く山道の途中、岩肌に沿うように立つ建造物が見える。規模は中程度で、居住のための施設というよりは、明らかに調査や研究のための設備が整っているであろう外観をしていた。
距離も見た目ほど遠くはなく、下り道ということもあって、山道を歩いていくとすぐに建物の目の前へと到着する。改めて外観に目をやると、確かにエンデルの言う通り、長年に渡り封鎖が続いている区画にしては妙に小奇麗な印象を受けた。
表にある銘板にも劣化は見当たらず、『赫爪断層観測施設』の文字がはっきりと読み取れる。
「ここが……あの、メス猫の、住処……っ!」
「っ……おい、イスカ!」
「ゆ、許せない! い、今すぐ、引きずり出して、全身の毛を全部むしり取ってやる!」
何の警戒もなしにイスカが走り出し、そのままドアを蹴り破る。鍵がかかっていたのかどうかすら怪しいが、そんなことを気にする間もなく俺は彼女のあとを追った。
中は研究施設というよりは、半ば集合住宅のような印象を受けた。
玄関に入ってすぐ大きな空間が広がっているが、その大部分は上階に続く階段で占められている。その左右にはそれぞれ奥へと続いているであろう扉が設置されており、総じて観測施設と呼ぶには少しばかり生活感の漂う雰囲気だった。
「で、出てこい、メス猫っ! あ、あんたを去勢、しにきたっ!」
部屋の中央に立つイスカが叫ぶが、しかし返ってくる声はない。それは、イスカの言葉に返答する意思がないというより、そもそもこの施設に人の気配がないことを示しているようだった。
リノンが活躍していたのは、今より五十年ほども前のことだ。当然といえば当然だが、この施設は既に放棄され、何者かが定住しているという事実自体、あまり考えにくい。
だが、そうなるとやはり、この建物の小奇麗さには違和感を覚える。
「か……隠れても無駄、だからっ……! み、見つけ出して、尻尾引き千切って、やる……!」
だが、そんな俺の疑問など知ったことではないイスカが、そのまま建物の奥へと進んでいく。
それからしばらくの間、俺とイスカはこの施設内を一通り探索した。
分かったことは、この施設の一階と二階は、それぞれ研究施設と宿泊施設に分かれていること。前者にはかつてリノンが残したであろういくつかの記録や研究設備で埋め尽くされており、後者は寝室やキッチンなど、日常生活を送るために必要なスペースが整えられていた。
だが、いずれの部屋にもやはり手入れが行き届いており、埃もほとんど積もっていない。
「……それで。何も見つからなかったが、どう思う?」
「うー……、ん……」
改めて一階部分の研究室へ戻ってきたあと、イスカにそう問いかける。
状況から考えるなら、そもそもこの施設が『均衡』の座の潜伏場所ではなかったか、あるいは未だ『均衡』の座がこの潜伏場所に帰ってきていないかのどちらかだろう。なので、これから俺たちが取るべき行動は、この施設を離れるか、それとも留まり続けるかの二つになる。
しかし、イスカは少し考えるような素振りを見せた後、すぐに口を開いて、
「やっぱり……これだけ時間が経ってるのに、施設に劣化が見られないのは、おかしい……」
「ああ。それは主席との話で事前に認知していたが、実際に見ると違和感しかないな」
「状態を、保存させて……いや、という……より……し、収斂? 事象が持つはずだった、熱量を、均一化して……で、でも……そんな魔術は、あたしの知ってる限り、存在しな……い」
「……イスカ?」
「あ、の、メス猫……! ど、どこまでも、姑息な手段、をっ……!」
そうしてひとりでに声を荒げたイスカが、右手に魔術式を起動させる。
「ろ、ローレンス……あ、あたしの後ろに、隠れて、て……」
「待て、何する気だ?」
「こ、この建物にかけられた、均衡状態を……無理やり、崩す!」
言葉の意味を正すよりも先に、イスカが右腕を前へ構えた。
咄嗟に背後に隠れると、彼女は魔術式を起動し、その右手で虚空を
すると、その周囲の空間が、まるで布を引き摺るようにイスカの右手に従って歪み始める。その歪みは徐々に部屋の全体に行き渡っていき、目に映る全ての景色が彼女の手に収束していく。
例えるなら、柄のついたベッドシーツの中心を、片手で引き伸ばしているような光景だった。
「出てこい、っ! 『均衡』の座……っ!」
声を張り上げると同時に、イスカが全身を使って布を強く引き伸ばす。
張力の限界まで引き伸ばされた空間は、やがて硝子が割れるのと似た音と共に弾け――引き裂かれた空間、その中心に、猫の尻尾と耳を持つ少女の姿が現れた。
「うわあっ!? だからなんでアンタ、依代の力がわかるのさっ!?」
「え、あ……お、お兄ちゃん! そ、それに変態のお姉ちゃん……!」
悲鳴を上げる彼女の腕の中には、怯えたような表情を見せるナクアの姿もあった。
見たところ外傷もなく、突然の現象に目を白黒とさせている。
だが、それよりも意識が向いたのは、ハルモニアとナクアが立つ空間だった。イスカが引き裂いた空間の向こうには、これまで俺たちが研究室と地続きではあるが、しかしその床や研究設備にはひどく老朽化した痕跡が見受けられる。
理論は全く不明だが、彼女がこの研究施設をあの状態に留めていたことは感覚的に理解した。
「やっと見つけた、っ、こ、このメス猫っ! か、覚悟しろっ……!」
「待て、イスカ。ナクアがいる」
「アタシはいいの!?」
このまま二人に向けて式を起動させようとするイスカを手で制す。ハルモニアの言い分に関しては自分の立ち入れる領域ではないので、一旦無視することにした。
「ナクア、無事か?」
「う、うん……大丈夫だよ。なーちゃん、何もされてない」
彼女が俺たちに向けている表情は、ただただ状況が把握できていないことに起因する困惑にも見えた。それは逆を返せば、ハルモニアに連れ去られたことは彼女にとって、不幸な出来事ではなかったという証左になる。
疑っていたわけではないが、やはり『均衡』の座の行動は善意によるものだったらしい。
「ちょっと、アタシがそこまで悪人に見えるワケ?」
「……まあその、我々は出会ってまだ間もないので」
むしろこれまでの振る舞いから、どうしてそこまで善人ぶれるのだろうか。
だが、その疑問は今言及するべきではないので、改めて話を切り出した。
「初めに、我々はナクアを騎士団に連れ戻すために来たのではありません」
「あ、あたしは……あんたの股を、裂くために……来た、っ!」
「バラバラすぎるでしょアンタたちの言ってること」
「いったん彼女の言うことは無視してください」
そうでないと話が進まん。
「先日お伝えした通り、自分はとある人物の消息を追っていて、ナクアはその人物に関する重要な情報を保持している可能性があります。これに関しては騎士団、あるいはシュヴァリエから依頼されたというわけではなく、自分が個人的に調べていることです」
「それは聞いたよ。で、アンタはこの子と話がしたいんだって?」
「はい。ナクアの知っている情報が全て出揃うまで、彼女と話をさせていただけませんか?」
「……事情はだいたいわかった。そんで、ここまで来るだけの熱意があることも知ってる」
「では……」
「ただし!」
するとハルモニアは、ずびし、なんて擬音が出そうな勢いで俺を指しつけると、
「あんたには誠意がない!」
……誠意?
「ナクア、あんたこのローレンスってヤツに何て言われた?」
「え? えっと……確か、お兄さんたちはなーちゃんの味方だ、って言われたよ。あ! お日さまとハサミの紋章の話もした! お兄ちゃんはインネンがあるから、それを探してるんだって!」
「……あー……意外とちゃんと話してるんだね?」
「可能な限り、ナクアへ協力する姿勢は見せました」
彼女からの信頼を得るために、きちんとこちらが持つ情報も開示した。
だが、意図的に隠している部分があるのもまた事実だ。
「でもさ、ローレンス。さっきからアンタはこの子から情報を得ることしか考えてないじゃん」
「……否定はできませんね。ナクアの善意を利用した形にはなります」
「そうそう。それがアタシは気に入らないわけ」
不安そうにハルモニアを見上げるナクアの頭に、彼女はぽん、と手を置いた。
「今のナクアはね、ほとんど
「それは……」
「かわいそうな子を助けるのが趣味? 閉じ込められて、ひどい扱いを受けてる女の子にしか興奮できない? そんな子を助けて、気持ちよくなるのが目的? アンタはどれ?」
「……どれも違います」
「なら、その証拠を見せて、アタシを納得させてみなよ」
ハルモニアの視線が向けられる。口は軽いが、その奥に灯っている光は冷徹だった。
それは大地の依代、『均衡』の座としての眼差し。シュヴァリエの前ではああ言ったが、いざ相対すると、確かに彼女は『均衡』を司るものとしての威厳と重圧を感じさせられた。
「ろ、ローレンス……」
「いい。イスカ、大人しくしてろ」
「でも……」
「……それと、何かあったら、頼んだ」
俺の指先を握ろうとするイスカの手を、優しく振りほどく。
「その感じ、やっぱり何かあるんでしょ」
「……おそらく貴女にはあまり、気持ちのいいものではありませんが」
そう前置きをしてから瞼を閉じ、体に宿る
途端に全身の血流が変化し、鈍い痛みが四肢へと流れ始めた。
あまり慣れた感覚ではないが、とはいえ姿勢が崩れるほどの衝撃でもない。ゆっくりと存在を手繰り寄せるように認知し、暴れ始めるそれを強引に掴み、徐々に表象へと引き上げていく。
ずるり、と自分の腰、尾骶骨の上部あたりから、何かが這い出るような感覚。
同時に心象の中で聞こえたのは、かすかな波の音だった。
「あはは。……え、マジで言ってんの?」
思わずと言ったようにハルモニアが漏らした、その視線の先では。
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