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大地の依代、『均衡』の座、ハルモニア。
三柱の龍より祝福を授かった、九つの依代のうちのひとつ。
基本的に依代が我々の前に姿を現すことは珍しく、残された記録も曖昧なものが多い。
そのため彼らの性質や役割、またそれぞれが行使する物理法則や魔術理論を越えた権能――神秘と呼ばれる力に至るまで、未だに判然としない情報が多いのが現状だった。
これまでの人類史において、明確な存在と関与が確認されている依代は、以下の三つ。
ある一人の男に試練を与え、『騎士団』の創設に携わった、天空の依代、『審判』の座。
過去にレフェルトリスと蒼鱗石に関する論争を繰り広げた、大地の依代、『生命』の座。
『司書連合』の最高位、『永劫書官』として祀られている、海洋の依代、『永遠』の座。
そのほかの依代は、伝承や神話において存在は確認されているものの、どれも公的な記録に残るまでには至っていない。だが、彼らは確かにこの世界に存在し、神話の時代が終わった現代においてもなお、人々を見守っている――というのが、我々人類の依代に対する共通認識だ。
よって俺が『知恵』の座や『均衡』の座といった、複数の依代と遭遇したことは、歴史的にも極めて稀な体験であると言えるだろう。ましてや、依代とその代の第四階梯との戦闘行為を目撃した人間となれば、更に少ないはずだ。
とはいえ得られた情報も少なく、依代という存在の解明に至るには程遠いが。
そもそも『均衡』の座は、他の依代に比べても残る公的記録が少ない。
古くから伝わる逸話の中にも大々的に登場することはなく、その性質や能力に至っては依代の中でも特に謎が多い。かつてオルトライズの時代に起きた大地の降龍院同士の派閥争いに介入し、結果としてそれを収めたという記録が残っているが、それも伝聞や推測の域を出ない。
だが、彼女に与えられた『均衡』の座の権能は、おそらく文字通りの意味を持つ。
ナクアの言葉が正しければ、あらゆる存在や現象の均衡を操ることが、彼女の能力なのだろう。
それはただ天秤の傾きを正すだけではなく、そこに乗せられたものを自在に動かす力。
均衡を保つだけでなく、不均衡をも手中に収め、彼女の望む方向へ全てを傾かせる。
多分に私見を含むが、俺は『均衡』の座の神秘をそう結論付けた。
人柄について敢えて言及するなら、良くも悪くも猫に近い人物だった。
飄々としていて、無邪気であり、地に足を着けない自由気ままな気分屋、という印象が強い。
……あんな性格の人物が、こんな人智を超えた権能を持っているのは少し不安ではある。
そのハルモニアが助手を務めていたという第四階梯魔術師、『律命』のリノン。
学会の公式記録によると、彼女はとある実験中に起きた事故で消失したとされている。
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翌日、アーネルガルムまでの道のりは、予定通り商会の人間と接触することで確保した。
前日のように商会のノールドベルト支部で正式に手続きを行うことも考えたが、今回の遠征はできるだけ秘匿した状態で行いたいこともあり、早い段階でその選択肢は消えた。
それに何より、商会に連日でイスカの対応をさせるのも憚られる。既にイスカ本人が商会そのものを敵として認識しているので今更かもしれないが、無暗に敵を作る必要もないだろう。
商会の人間との接触も滞りなく完了した。
元よりノールドベルト・アーネルガルム間はそれなりに交流が盛んらしく、該当地域の特産品である各種食材を運搬する隊商と合流することができた。彼らは最低でも日に二度は”博闢の門”経由で相互の国を行き来しているらしく、午前中に出る便に同乗することになった。
交渉の際、特に揉めるようなこともなく、こちらの秘匿下での行動をしたいという話も吞んでくれた。良くも悪くも金さえあれば動く人間だというのを、軽くなった財布を見て思った。
アーネルガルムへ到着したあとは、ナクアの話にあった風車を探すことになった。
国内は牧歌的な風景で溢れていて、確かに彼女の言う通り、風車のような背の高い建造物を見かけることはほとんどなかった。木組みの厩舎や石を積み上げた小屋といった簡素な建造物が多く、散策の際に通りがかった牧草地では、無数の羊がのびのびと過ごしているのが見えた。
機会があれば、また観光目的で訪れてもいい場所だと思えた。
「……あれだな」
国の中心部を離れてからしばらくすると、小高い丘に建つ風車が見えた。
おそらくあの付近にある建造物が、ナクアが逃げ出した研究施設なのだろう。
「イスカ、見えてきたぞ」
風車が確認できたことを知らせるため、後ろを歩くイスカの方へと振り返る。
「んむ……んぐ、も……んま……」
果たしてこいつは、道中で買ってやったチーズパンを口いっぱいに頬張っていた。
「お前な……。もう少し緊張感を持ったらどうなんだ」
「だ、だって……お、美味しいんだも、ん」
俺の言葉に反論しながら、イスカはパンにかぶりついた。
……だが、こうして見るとやはり、イスカは奴に強い憎しみを持っていないように思える。
ナクアに関する一連の件だってそうだ。彼女はナクアが奴と関連している可能性があるから、というよりは、俺の力になりたいから、という理由で動いていた節がある。
そこに関しては無条件に受け入れていたが、改めて思い返すと不思議に思う。
イスカも俺と同じく、奴に
「……ここか」
風車を目印に、道を歩くことしばらく。
やがて俺たちが辿り着いたのは、丘陵の中腹に佇む小規模の研究施設だった。
建築されてからずいぶん時間が経過したのだろう、外装や屋根は明らかな老朽化が見られて、一部は蔓や苔などに侵食している部分も確認できた。しかし建物として完全に死んでいるわけではなく、少なくとも雨風は凌げる程度には形を保っていた。
施設の名称を確認するため、表にある銘板を確認しようとしたところで。
「イスカ?」
呼びかけに答えることもなく、イスカが研究施設の入り口へと足を進めていく。
そうして扉の前に立った彼女が、こんこん、と弱く扉をノックした。
「カルトロード、いるの?」
イスカの呼びかけに、しかし返ってくる声はなかった。
そのまま彼女が玄関の扉に手をかけると、それは何の抵抗もなく内側へ開かれる。
「カギ、かかってない、よ。開いて、る……」
「……そうか」
こちらに振り返ったイスカの声に、頷いて返す。
「入るぞ」
「う、ん……」
今一度、イスカと顔を見合わせてから、研究施設の内部へと足を踏み入れる。
やはりつい最近までこの施設は運用されていたらしく、人の気配こそないものの、各所には研究と生活の痕跡がまだわずかに残っていた。書架のすぐそばにある机の上には記述途中の魔術式が記された紙片が残っていて、イスカの考察によると、内容は魂に関する術式のものらしかった。
研究施設内部は二階に分かれており、一階には書庫や資料保管庫、二階には主要な研究室が用意されていた。居住空間は下層の端にしか設置されておらず、ハルモニアが拠点にしている研究施設に比べると、より研究に重点を置いた施設だという印象を受けた。
「だ……だれも、いなかった……ね」
あらかた研究施設を調べ終わったところで、イスカが改めて口にする。
「やはりナクアが脱走した時点で、奴はこの施設を放棄したみたいだな」
「う、ん……あ、あの人のこと、だし……最初から、こうなることは想定済みだったの、かも」
「……そうだな」
俺たちを研究対象として管理していた時も、その傾向は強く感じられた。
常に物事の二手、三手先を見据え、いくつもの予測を立てながら慎重に行動している。
純粋な一人の人間として見れば、極めて優秀な研究者だと言えるだろう。
今回はナクアの件があるのでもしかしたら、と思ったが、やはり空振りに終わってしまった。
そして次に浮かんだ疑問は、その性格を鑑みた上でのものだった。
「どうして奴は、この研究施設を選んだんだと思う?」
アーネルガルム。魔術や神秘に対して、これといった研究や技術がある国ではない。
それどころか大陸全体で見ても、郊外や田舎に分類されるような小規模の国家だ。
研究のために必要な物資が手に入りやすい地域なら、他にいくらでもある。僻地だから足がつかないというメリットはあるが、奴ほどの計画性があれば度外視してもいいくらいだ。そもそも奴はその気になれば、ノールドベルトの中央に堂々と研究施設を構えていても何らおかしくはない。
以上の観点から、奴がこのアーネルガルムの研究施設を拠点に据えたのは、いくらか合理性に欠ける気がしてならない。そこには何か、優先するべき理由があると考えていいだろう。
「たぶん……この、研究施設そのものが、理由?」
「俺もそう仮定している」
同じ結論に辿り着いたイスカの言葉に首肯する。
それから、研究施設に残された資料と、これまでの経緯を含めての考察を始めた。
「奴がこの研究施設で行っていたのは、ナクアの身体改造と見ていいだろう。その内容は、人体に依代の魔術的器官を生成させること……言い換えれば、魂を変質させる能力を植え付けた」
「それは、ここじゃないと、できない研究だった……のかも。依代に関する資料、か、魂に関する資料の、どっちかが……ここに、あった。さっき見つけた紙片に、は……魂に関する術式が、書いてあった、よね? だったら、たぶん……ここは、前々から魂に関する研究をしていた施設……」
「そう考えるのが自然だな」
個人的な考えになるが、俺たちとナクアには一つの共通点があるように思う。
ナクアの方に関してはこれまでの調査である程度は判明しているので、詳細は省く。彼女はカルトロードに魂を弄られ、自らの魂を変質させることで魔術的器官を生成できるようになった。
俺たちに関しては未だに考察の域を出ないが――おそらく、二つの魂を一つの身体に結合させるものだろう。俺の身体に宿るメギストスの尾が自我を持っていることが、論拠の一つになる。
つまり、俺たちとナクアに共通するのは、魂に関する研究が前提にあるということ。
そして魂に関する研究において、歴史上最も詳しい人物は。
「……また、リノンが関わっているのか」
改めて研究施設に残っていたいくつかの資料を調べると、やはりそこには五人目の第四階梯魔術師、リノン・エルガーデンの名前が確認できた。おそらくこの施設では以前から、彼女の主導のもと、魂そのものを解析するための研究が行われていたことが推測できる。
しかし既存の資料の中に、この施設の目印となる風車についての言及は見当たらなかった。おそらく奴は、廃棄された施設を稼働させるのに十分な動力を確保するため、勝手に増設したのだろう。このことからも、カルトロードはリノンの研究を利用しようとした意図が見て取れる。
だが、その根幹については未だに不明のままだ。
「……奴はリノンの研究を利用して、何をしようとしているんだ?」
「それは、まだ……分かんない。で、でも……何かを証明したいんだと、思う」
「証明?」
「基底現実の外にある、人間の知覚と、理論による認識では届かない……何、か」
第四階梯としての視座から放たれた言葉に、俺は理解を示すことができなかった。おそらくそこには、イスカとカルトロードの二人にしか共有できない、魔術的な知見があるのだろう。
しかし、その意味を理解はできなくとも、推測できることが一つある。
「奴はリノンの研究を継承するつもりなのか?」
「それ、は……まだ分から、ない。で、でも……リノンの研究施設を、利用してるのは、ほぼ確定して、る。だから……ここと同じような、リノンと関連のある場所を、探していけば……」
「……いずれ、奴に辿り着く」
俺が口にした結論を、イスカは静かに頷いて肯定してくれた。
カルトロードが魂に関する研究を続けていると考えれば、過去に同系統の研究で実績を上げたリノンの研究施設を流用するのは理に適っているように見える。どうせ他に手掛かりらしい手掛かりも持ち合わせていないので、奴を追うならそこから探っていくしかないだろう。
「確かエンデルガストが、リノンの研究施設に関して情報を集めていたな」
「う、ん……カルトロードと関連してるかは、分かんない、けど。聞いてみても、いいかも」
「学会や倫理監査委員会が追えるような、それらしい痕跡を残している時点で奴との関連性は低いと思うが……情報があるに越したことはないな。後日、報告書の件も含めて聞いてみるか」
「そう、しよ……」
イスカが頷いたのを最後に、会話がそこで一度終わる。
結局、奴と相対することは叶わなかったが、ひとまず今後の方針は決まったので良しとする。
今までの状況に比べれば、カルトロードの陰を踏めただけでも大きな一歩だ。
「もうこの施設に用はないが……イスカ、まだ何か探すか?」
「……う、ん。個人的に興味があるから……少しだけ、見てく」
「分かった。俺のことは気にしなくていいから、満足するまで調べればいい」
「ん……」
俺の言葉が届いているのか分からないが、イスカは本棚の方へと歩いて行った。
その小さな背中を見送ったあと、ふと手元の資料へと目を落とす。
そこに記されていたのは、おそらくリノン本人が記述したであろう、複雑な魔術式だった。
「五人目の第四階梯魔術師……『律命』のリノン、か」
リノン・エルガーデン。
これまで神話や伝承の中にのみ存在していた、魂という概念を歴史上初めて解明した魔術師。
万人の信頼に値する人物、という彼女の評価は現代においても変わらず語り継がれている。
しかし彼女は、三人目の第四階梯であるエルネスタと並ぶほど謎多き人物だったという。そこには彼女を貶めようとする者達による、風説めいた噂も多く含まれているが、しかし改めて彼女の功績を辿ると、多少の違和感を覚える点がいくつか見えてくるのもまた事実だった。
そんな小さな違和感を積み重ねた上で見えてきた、ある一つの疑惑がある。
――もしかすると彼女は、生まれつき魂を知覚できる、唯一の人間だったのではないか?
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「商会支部の話によると……今日はもう、アーネルガルムから出発する隊商はいないそうだ」
「えっ」
以上の理由から、今日はアーネルガルム内に泊まることになった。
行き掛けに午後の便の出発時刻は把握していたが、イスカがリノンの研究施設で心ゆくまで資料閲覧に没頭していたため、アーネルガルムの中心部に戻る頃には既に日が落ちている始末だった。
とはいえ満足するまでやれと言ったのは俺なので、そこを責める気にはなれない。何より奴を追うことしか頭になく、帰路のことを具体的に考えていなかった俺にも責任の一端はある。
なので諦めて、この状況を受け入れるしかないんだが。
「じゃ、じゃあ……今日は、お、お泊まり?」
「そうなる」
「ふ、二人っきりで……だ、誰にも邪魔されず、い、一緒の部屋で、お泊まり……っ♡」
「そうなる……」
商会支部の玄関先、途端に機嫌をよくするイスカの隣で、俺は項垂れることしかできなかった。
「……とにかく、宿を探そう。小さい国だが、宿泊施設自体はあるはずだ」
「う、うんっ……♡ ば、場所選びも、大事……だもん、ねっ♡」
絶対に個室を確保するため、なるべく大きな宿を探すべくアーネルガルムの街を歩く。
とはいえノールドベルトに比べると、どうしても宿泊施設の規模は劣るのが現実だった。
しかし数自体はそれなりにあるようで、目に入った酒場と併設された宿に入る。
受付で話を聞くと、幸いなことに数室だが部屋が残っているらしい。
「そうですね。他に探すのも面倒なのでここにします」
「ありがとうございまーす。お部屋のご希望はどうされますか?」
「ああ、それは別々の部屋で……」
そこまで言いかけた俺の台詞が、財布を確認したことによって止まってしまう。
オルトライズ商会を金の亡者と揶揄するイスカに、今だけ同意した。
「……申し訳ありません。二人で一部屋の利用でお願いします」
「はーい。ベッドはいかがなさいますか?」
「サイズは問わないので、とにかくベッドが二つある部屋を絶対に用意してください」
「お兄さん、ダブルの方が料金的にもお得ですよ?」
「サイズは問わないので、とにかくベッドが二つある部屋を絶対に用意してください」
「ベッドは一つで大丈夫です!!!」
「うるっせえ!」
聞いたことがないくらいの大声で叫ぶイスカに、思わずこちらの声量も大きくなった。
「では、こちらがお部屋の鍵になります。ごゆっくりどうぞー」
「ありがとうございます」
案内の女性から鍵を受け取って、そのまま指定された部屋へと歩いていく。
扉を開けると、そこにはダブルサイズのベッドが堂々と鎮座していた。
「う、受付の、人……あ、あたしたちに、気遣いしてくれたんだね……っ♡」
「これだから田舎は嫌なんだ……!」
憤りを抱えたせいか、脱いだ上着を椅子へかける手つきが無意識に乱暴になっていた。
ベッド以外の内装は特に言及するほどのものでもなく、他には小さな椅子と机が置かれているくらいだった。それでも整備は行き届いているらしく、少なくとも不潔さは感じられなかった。
椅子に腰を落ち着けると、体から疲労が抜けていくのが分かる。
考えてみれば、ここ数日は色々なことが起き過ぎて、息が詰まっていたのかもしれない。
「ふ、わ……ぁ。ちょ、ちょっと疲れちゃった、かも……」
「そうだな。せっかくなら、ゆっくり休め」
対面の椅子に座るイスカも、疲れたような息を吐いたまま、身体を背もたれに預けていた。
普段から地下で日光と人込みを避けるような日常を送る彼女からすれば、ここ数日は激動とも呼べる日々だったのだろう。しかもそれが自分のためではなく、俺を思っての行動だったと思うと、ここまで付き合わせてしまったことに対する申し訳なさが湧いてくる。
とはいえ、この状況を黙って受け入れるわけにもいかないが。
「イスカ、食事はどうする?」
「ん……お、おなかすいた、し……下の酒場に、食べに行ってもいい、けど……でも……」
「お前が落ち着けるような空気じゃないか」
夜も更けはじめ、街の喧騒が徐々に活発になってくる頃合いだ。そんな環境に年がら年中引きこもりの彼女を連れ出すのは、生まれたての赤子を森の奥に置き去りにするに等しい。
「分かった。俺が一人で適当に調達してくる」
「あ、そ、それなら、あたし、も……」
「いや、お前は休んでていい」
「で、でもっ……」
「……ここまで付き合わせてるんだ。これくらいはさせてくれ」
俺の言葉に反応して立ち上がろうとしたイスカの頭を、軽く叩いてやる。
無理について来られた挙句、また癇癪を起こして何らかの騒ぎを起こされても迷惑なので咎めたが、その一方でゆっくり休んでほしいという気持ちがあるのも事実だった。
椅子に掛けた上着を再度羽織って、部屋の扉へと手をかける。
「すぐに戻る。眠いなら先に寝ててもいいぞ」
「う、ううん……。あ、あたし、準備しておく、ね……♡」
「寝る準備だよな?」
「準備……準備、っ……♡」
のそのそとベッドシーツを整え始めたイスカにそれ以上の言及を避け、俺は酒場へ向かった。
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階下にある酒場は、規模こそ小さいものの客の入りはいいようだった。
観光客向けというよりは常連の溜まり場という雰囲気で、店内は大衆的な喧騒に包まれていた。うっすらと漂う酒と煙草の香りに、やはりイスカを連れて来なくて正解だったと改めて思う。
「そんで? 兄ちゃんはなんでこんな国なんか来たんだ? 観光か?」
「いえ、所用で少し。行きはオルトライズ商会の隊商に同行していたんですが、思ったよりも用事に時間がかかってしまって。連れを巻き込んだまま、今日はここで一泊することになりました」
「あーあ。そりゃ大変だなあ」
先程の受付に事情を説明し、簡単な料理を注文したあと、数名の男性から声をかけられた。どうやら俺のような外部の人間がこの店に訪れるのは珍しく、良くも悪くも目立っているらしい。
ナクアに関しての言及を避けるためにも、できるだけ現地の人間と関わるのは避けていたが、こうなってはどうしようもない。料理ができるまでの間、少しだけ話に付き合うことにした。
「どうだった? 何もないだろ、この国」
「……そうですね。ですが、ゆっくりできる場所だとは思います。自分は今ノールドベルトに住んでいるんですが、あそこは夜になるとうるさくて。それに比べると、ここは静かでいいですよ」
「そうかい? 住んでる身からしたら退屈だけどなあ」
「どの国もそういう問題はあると思います。自分もいくつか国を転々としてきましたが、良いところも悪いところもありますよ。あなた方がこの国を離れないのにも、相応の理由があるでしょう」
会話に中身こそないが、それでも彼らは楽しそうに俺と会話をしてくれていた。どちらかというと酒による高揚が理由なのだろうが、それでも悪い雰囲気ではないのは確かだった。
そうして話しているうちに、ふと一人の男が思い出したように口を開いて、
「そういえばあんた、ノールドベルトに帰るんだっけ?」
「はい。明日中になんとか、商会と連絡を取ろうと思っていまして」
「なら向こうのあんちゃんと話して来たらどうだ?」
「というと……」
酒で満たされたジョッキで示された方向へと視線を向けると、そこには。
「てんちょー! このお肉ももらっていいですか?」
「ダメに決まってんだろ。リナてめー、どんだけ食うつもりだ」
「だって、てんちょーの奢りですもん! 食べられる時に食べとかないと!」
見覚えのある店主と学生の従業員が、テーブルを囲んでいるのが見えた。
「……なんでいるんだ?」
「なんだ、知り合いかい?」
「いえ、顔見知りなだけです。彼の店で一度、食事をしたくらいで」
ナクアを捕まえたあの日、騎士団の勧告が出る直前まで食事をしていた店の人間だ。
どうして遠く離れたアーネルガルムに居合わせているのかは疑問だったが、しかしこの国にいるということは、ノールドベルトまでの交通手段が確保できている可能性が高い。
「少し話してきます」
「おう。帰る手段があるといいな」
現地人たちとひとまず離れ、彼らが食事をしているテーブルへと近づく。
その途中で彼らも俺の姿に気づいたらしく、顔をあげてこちらに手を振ってきた。
「おう、お前は……」
「貴方は……」
……ああ、そうだ。そういえばお互い、自己紹介すらしてない間柄だった。
「改めて。第四階梯魔術師、イスカの助手を務めているローレンスです」
「リナです!」
「グレンだ。よろしく」
今更過ぎる自己紹介を挟んだところで、改めて話題を切り出す。
「お互いに疑問でしょうが、なぜこちらに?」
「店で使う食材の調達。こいつはその手伝いでついて来させた」
「臨時でお給料出してくれるって話だったので! 学費足りなくてやばいんですよ今!」
「そうでしたか」
確かに、アーネルガルムの特産品目当てと考えれば納得できる。
距離に関しても、それだけのこだわりがあるのだろう。
「そんでお前は?」
「所用で少し。……まあ、例の強盗犯の件です」
「ああ、あのコソ泥女のことか。確か騎士団が捕まえたんだよな?」
「そうなっています。先日は情報提供、ありがとうございました」
正確にはハルモニアの件もあるので嘘を吐くことにはなったが。
ここで正直に明かす必要もないため、そのまま流す。
「でも強盗犯の件で、なんでアーネルガルムなんて来たんですか? あ、まさか犯人逃げちゃったんですか? というかローレンスさん、なんで騎士団の人じゃないのに手伝ってるんですか?」
「あの、それは……まあ、色々と」
「おいリナ。あまり突っかかんじゃねーよ」
急に矢継ぎ早に、かつかなり鋭い角度からの質問が飛んできたので言い淀んでいると、見兼ねたグレンの方がそれを宥めてくれた。内心で感謝しながら、そのまま話を続ける。
「それで実は、お二人に折り入って相談がありまして」
「なんだ、帰るアテがなくなったのか?」
「……まあ、そんなところです」
「だろうと思った。こんな田舎に夜まで居付くってことは、そういうことだろ」
「てんちょーも一回帰ってこれなくなったことありましたもんね!」
「余計なこと言うんじゃねーよお前」
「んぐッほ!」
そうやって言いながら、グレンがリナの頭をそれなりの勢いで叩いた。何の遠慮もなく拳でいったことに少しだけ動揺したが、すぐに元の調子に戻ったあたりこれがいつものことらしい。
相変わらずと言えるほどの付き合いはないが、能天気な二人だった。
「帰路に関しては、商会支部と連絡を取るつもりでしたが……」
「いいぜ、俺の方で取り次いでやるよ。商会とは少し付き合いがあるからな。今回も行き帰りで荷物運搬の契約をしてるんだ。俺の連れってことで、向こうに話を通してやるよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「ただし。一つだけ条件がある」
礼を述べたところで、彼からそんな言葉が返ってくる。
無論、こちらもただで話に乗ろうとは思っていない。あいにく今は金銭の持ち合わせがないので、ノールドベルトに戻ってからにはなるが、ある程度の対価を支払うつもりではいた。
その話を聞き出す機会を伺うべく、彼の言葉を待っていたところで。
「敬語、やめろ」
「……はい?」
「見た感じ、俺とお前ってそこまで歳は変わんねえだろ? まあ多少違うかもしれねえけど、それでも別に取り繕う必要もねえよ。俺はそういうの苦手だからな。フツーに話してくれればいい」
「それだけでいいんですか?」
「納得できねーならもう一つ。ウチをお得意様にしてくれよ」
「……そういうことなら、また適当な日に顔を出す。前は最後まで食事できなかったからな」
「是非そうしてくれ」
そう言って彼が手を差し出してきたので、こちらも応じる。
正直、拍子抜けするような内容だったが、払う代価が少ないに越したことは無い。
懇意にできる店が増えたことも、ノールドベルトで暮らすのならありがたいことだ。
「明日は具体的にどこへ集まればいい?」
「商会支部でいいぜ。昼前には来てくれりゃいい」
「……言い忘れてたが、イスカも一緒なんだ。それでも構わないか?」
「ああ、別に一人二人増えても構わねえよ」
「でも第四階梯が来てるってことは、ローレンスさんの言う用事って、もしかしてめちゃくちゃ一大事なんじゃないですか? やっぱり泥棒さんこっちに逃げてきたんじゃないですか?」
「推測はいくらでもしてもらっていいが、情報は伏せるぞ」
再びリナの方からそんな質問が飛んできたので、適当に答える。
「ま、面倒事には巻き込まれたくねえから、それ以上は突っ込まねえよ」
「そうしてくれると助かる。じゃあ、また明日に」
「おう。寝坊すんなよ」
最後に軽く会釈を交わし、二人との会話を終える。
そのままカウンターへ戻ると、注文していた料理は既に提供されていた。
若干熱を失ったそれを運びながら、俺はイスカの待つ部屋へと戻ることにした。
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「ん……お、おなか、いっぱい……」
皿に残っていた最後の一口を頬張ったイスカが、小さく声を漏らす。
「満足したか?」
「う、うん……あ、ありがと、ローレンス……」
既に俺は食事を終わらせていたので、空になったイスカの分の食器を俺のものと纏める。返却は翌日のチェックアウト時で構わないと言われたので、とりあえず机の隅に置いておいた。
「明日はさっきも話した通り、午前中に商会支部に向かう」
「わかっ、た……。て、店主さんに会えて、よかった……ね」
「恵まれたな。今後とも懇意にしていこう」
会話もそこそこに、今日はこれ以上活動をするつもりもないので、寝支度を進める。
明日、帰ってから手につける作業のことを考えながら、ベッドに入ろうとしたところで。
「ふ、ふっ……ろ、ローレンス……♡ は、はやくこっち、来て……っ♡」
先にベッドに潜り込んでいたイスカが、シーツを撫でつけながらそう呼びかけてくる。
その鼻息は荒く、頬も紅潮しており、表情には期待と恍惚の色がはっきりと浮かんでいた。
……まずい。このままでは確実にやられる。
「いや、俺は椅子でいい。ベッドはお前が使え。その方がゆっくり寝れるだろ」
「あ……あたしは、ローレンスと一緒に寝るのが、一番よく眠れる、から……大丈夫♡」
「俺は椅子で寝た方が疲れが取れる」
「絶対ウソ……♡」
誤魔化せるわけがなかった。そりゃそうだ。
可能な限り思考から外していたが、やはり同じベッドを使うしかないらしい。
それにここ数日は俺が椅子で、イスカはソファーで寝ていることが多かったので、せっかくなら休息は取っておきたい。隣にこいつがいる時点で休息できるわけないだろという話はあるが。
……まあ、帰りの便のことを考えていなかった時点で、今回は俺の負けか。
「もっと離れろ。ここまで密着する必要ないだろ」
「すぅーー…………っ……♡」
「聞いてんのかお前」
観念してベッドに入ったが最後、イスカは俺に四肢を巻きつける勢いで抱き着いてきた。ほとんど昆虫みたいな姿勢で抱き着かれているため、満足に寝返りを打つこともできなくなっている。
苦しさと圧迫感に堪えている俺をよそに、イスカは心底安心したような表情を浮かべていた。
正確には俺の胸板に顔を埋めたまま深呼吸を何度も繰り返しているため、顔を見ることはできなかった。だが、彼女がどんな顔を浮かべているかなど、容易に想像できてしまう。
「ふぅ……っ……♡ ふぅー……っ♡ ろ、ローレンスの匂い、お、落ち着く……っ♡」
「少なくとも落ち着けてはないんじゃないか」
とても今から入眠するとは思えない荒さの息遣いが、胸元から聞こえてくる。
だが、この状態の彼女を無理やり引きはがそうとは思わなかった。
この状態を日常と呼ぶのは狂っているが、それでも最近はイスカを自分の事情に付き合わせすぎた。彼女から協力したいと言い出したことではあるが、ナクアの捕獲やエンデルガストとの接触など、ここまで辿り着くのには彼女の協力が不可欠だったのは事実だ。
なので、出来る限り彼女の好きなように、落ち着くようにさせてやりたい気持ちはある。
その一方で、このまま彼女に蹂躙されることに全力で抵抗したい部分もあった。
「今日はもう寝るぞ。明日も間に合わなかったら、また今日みたいに泊まることになる」
「……! そ……それだっ!!」
「閃くな」
あらぬ考えを過らせるイスカへ、思わずそう口にする。
「時間遡行の研究ができなくなるんだぞ。それでもいいのか?」
「い、いいよ、別に……ローレンスと一緒にいられるなら、それで……」
「……お前なあ」
「あ、あたしは……ね。こうして、ローレンスと、ふ、ふたりで過ごせるだけで、幸せ……なの」
そして、イスカが俺のことを見上げた。
「だって、ふ、二人だけの、幼馴染、だもん。この世界で、たった二人だけ……の」
「イスカ……」
「あたしは、ね。ローレンスのおかげで、し、幸せになれた……。す、好きな人ができて、その人のそばにいられるだけで、こんなにも幸せな気持ちに、なれるなんて……思いも、しなかった」
俺の頬を包み込むように、イスカが小さな手を伸ばす。
「あった、かい……。ふ、ふふっ。あ、あの時と同じ……だね」
「……ああ」
そこに俺の手のひらを重ねると、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
イスカの指先から伝わる確かな体温で、記憶の奥底から二つの景色が蘇る。
一つは、初めて会ったあの日、俺の体へ静かに触れた時の、柔らかな温もり。
もう一つは、燃え崩れる研究所の中、傷だらけの手を手繰り寄せた時の、無機質な冷たさ。
二つの記憶の中で、ラグディシアの花だけが同じように咲いていた。
「あ、あたしにとって……ローレンスが、全部、なの。他はもう……何も、いらない。ろ、ローレンスが、そばにいてくれれば……それだけで、いい。ずっと、一緒にいられれば……それで」
「知ってる。お前の気持ちに気づかないほど、俺も鈍感じゃない」
「ふ、ふふっ……そ、そうだよね。ろ、ローレンスは、あたしのことを、いちばん分かってくれる……。だ、だって、あたしたちは……幼馴染、だもん。世界でたった、二人だけ……の……」
そっと俺に身体を預けるイスカの頭を、優しく撫でてやる。
すると彼女は目を細めながら、俺の目をじっと見つめて笑いかけた。
「だいすき、だよ……ローレンス……」
最後に俺の名前を零して、イスカがもう一度俺の胸へと顔を埋める。
規則的な呼吸が聞こえてくるまでに、そこまで時間はかからなかった。
彼女にも疲労は溜まっていたのだろう、どうやらそこが限界だったらしい。
「おやすみ、イスカ」
静かに眠るイスカの身体を抱き寄せてから、俺も瞼を閉じる。
腕の中にある小さな温もりが、深い眠りを誘ってくれた。
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翌日。
「え、じゃあローレンスさんと一緒のベッドで寝たんですか!」
「うん……♡ で、でもね、その日は寝ただけ……。何もしなかった、よ……」
「そうなんですか? もう合意みたいなもんですし、そのまま襲ってよかったのでは?」
「む、無理やりは、しない……よ。だ、だって、あたしは強引な女じゃないから……っ♡」
「お前が強引じゃなかった時なんて、今まで一度もなかっただろうが……!」
「仲いいなお前ら」
無事に合流したグレンらと共に、俺たちはノールドベルトへと帰還することができた。
なんとも呆気ない始末になったが、ナクアの件はこれでひとまず幕切れとなる。
……帰ったら、少しくらいアーロンに構ってやるか。
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そんな感じで、今回の話で第一章は終わりです なんか中途半端!
次話から第二章やります メモ帳には学会編とかリノン編とか書いてありました
年明けからこれまで通りやってくんでよろしくお願いします
あと参考にするかはいっかい置いといて、一応のアンケートだけ設置しておきます
一話の長さについて
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まあ今まで通りで特に文句は……
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長いから分割してもいいんじゃない?
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更新ペース早くなるなら分割して
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もっと長くたっていい