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第四階梯魔術師、『律命』のリノン。
五〇年前に存在した、史上五人目の第四階梯――つまり、イスカの先代にあたる人物。
彼女の遺した功績は、魂の輪郭を捉える術式を発明したこと。
もともと魂という概念は神話や伝承にのみに存在する抽象的なものだったが、彼女は独自に開発した魔術式で魂の輪郭を可視化することに成功、すなわち魂が実在することを証明した。
リノンの遺した研究によれば、魂こそが存在の本質であり、肉体は魂によって規定され、その魂の形状こそが、存在の設計図――本来我々が認識するべき自己である、と述べられている。
だが、この研究が発表された当初、リノンは学会から大きな批判を受けた。
というよりは、学会も立場上そうせざるを得なかったのだろう。
これまで寓話や御伽噺の中のみでしか語られてこなかった魂が、たった一人の魔術師によって現実の理論に落とし込まれてしまった。当然、その事実は過去の魔術師たちが積み上げてきた学説や魔術理論を根底から覆すことはおろか、龍種信仰や神話体系にも影響を及ぼしかねない。
これを危惧した学会の一派は当初、リノンを学会から追放、その研究にも封印を施した。
しかしリノンはその後、魂に干渉し肉体の治癒を行う医療用魔導器を単独で開発。
その魔導器は人類の医療技術を著しく飛躍させ、学会にその功績を認めさせた。
また、魂に関する研究を発展させたことから、リノンは神話体系の再構築にも貢献している。
創世の神話では、かつて三柱の龍それぞれに仕えていた、姫巫女という存在が登場する。
本来、龍と人は言葉を交わすことが不可能――依代がいい例だろう。彼らは人々と言葉を交わすために、自らを人間に似せる力を持つ――だが、彼女たちだけは龍の御言葉を聞くことができた。
その能力から、姫巫女たちは降龍信仰の最高権力者として、人々を導いていたとされる。
リノンの研究によると、姫巫女と呼ばれる者達だけが龍種と言葉を交わせたのは、彼女らの魂が特別な形状をしていたからだと示唆されている。姫巫女、そして龍種という存在の本質に迫ったこの研究は、彼女の所属していた古代魔術学派を始めとする学会の高い関心を集めていた。
しかし彼女の研究には理論が飛躍しているような記述が見られ、一部の人間からは疑いの声も挙げられていた。その点に関して、リノンは何も言及することなく、ただ沈黙を貫いたという。
この時から、リノン・エルガーデンという人間に関するある一つの憶測が流れ始めた。
――もしかすると彼女は、生まれつき魂を知覚できる、唯一の人間だったのではないか?
人類史において、新たな生命の形を定義し、神話と現実の境界を越えた魔術師。
故にリノンは『律命』の銘が与えられ、第四階梯の称号を授けられた。
とある実験の研究中、リノンは事故に見舞われ命を落とす。
その実験内容、及び事故の詳細は学会によって秘匿されている。だが一説では基底現実外への干渉を目的とした実験であり、その過程で意図せぬ”漂灰化”が起きたのだと推察されている。
現在、彼女の墓碑は学会の共同墓地で、厳重に管理されている――が。
その魂は今も尚、この基底現実を彷徨っている。
■
支部を脱出してから二日後、エストレア鉱山区付近、メルティナの研究拠点周辺の森林にて。
「………………はっ!?」
「あっ、起きた! おーい、ローレンスさーん! アナトリアさんの意識が戻りましたよー!」
「長かったな」
アナトリアにかけられていた”予言”が、ようやく効力を失ったらしい。
俺は手にしていた斧をマルドゥークへ預け、木陰で休憩するリナとアナトリアの元へ近づいた。
『大丈夫ですか、アナトリア様』
「大丈夫……じゃないわよ! 一体どこなのよここ!? あなた達は何をしてるの?!」
「順を追って説明します」
当然ながら大声で抗議を始めるアナトリアへ、この三日間の経緯を話す。
「まずこの二日間、あなたはメルティナの”予言”で一時的な催眠状態に陥っていました」
「……彼女がイスカ側についたところまでは記憶があるわね。それで?」
「その後、我々は学会支部を脱出、メルティナが所持する研究拠点……エストレア鉱山区付近へ身を隠すことになりました。その間もあなたは”予言”で催眠状態に陥っており、意識は朦朧としていましたが、最低限の生活は送れていました。昨日も自分が作った料理を食べていましたよ」
「ご飯食べてる間もんびーってなってて、おばあちゃんみたいでしたけどね!」
「記憶にないんだけど!?」
メルティナの”予言”は完全に行動を直接縛るものではなく、個人の選択を操る術式だった。
そのため術式対象、つまり”予言”の内容に関連する行動は確実に行うようになるが、逆に言えば日常生活などは、術式影響下においても問題なく個人が判断して行うことができる。
……もっとも、今回の”予言”はその術式対象がかなり広範なものになってしまったため、日常生活においても催眠下のような状態になってしまった、とメルティナから話されたが。
「というか、そもそもあなた達は何で禁庫に侵入したわけ? 何が目的だったの?」
「アルバトラの古書のためです」
「あ、アルバトラの古書ぉ? 何に使うのよ、そんな古い文献……」
「……現在、イスカは”博闢の門”のレプリカを作成しています」
「はあ!?」
俺が渡したその言葉に、アナトリアが信じられないといったように目を見開いた。
「”博闢の門”って……そりゃ確かに、アルバトラの古書を参照して開発された術式だけど……。な、何? つまりあいつ、”博闢の門”を再発明しようっていうの? バカじゃないの!?」
「残念なことに作業は順調なようで、今日の昼頃には完成する見込みだそうです」
「ああバカなんだあいつ……」
”博闢の門”の再開発はイスカ、ハルモニア、メルティナ、そしてアーロンが行っている。
冷静に考えれば、現代の第四階梯と依代という、この世界の極致みたいな存在が協力して開発を行っているのだ。いくら第四階梯考案の術式と言えど、実物が既に世界各地に存在する――イスカの言葉を借りるなら、「答えがある問題」である以上、そこまで難しい作業ではないらしい。
それにメルティナも第二階梯とはいえ、エンデルガストが一目置くほどに優秀な魔術師だ。
……一台とんでもないマヌケがいるが、あいつもやればできるゴーレムのはずだ。
「で? イスカがバカやってる間、あなた達は何してるの?」
「研究拠点に必要な資材……というより、主に薪を集めているところです」
「要は頭脳作業ができないので、肉体労働って感じですね!」
メルティナの研究拠点は、想像を絶する僻地に建てられていた。
おそらく、人込みを極端に嫌うイスカとの共同生活を想定してのことなのだろう。その上、敷地内には彼女の許可を得られないと侵入できない、特製の保護術式が施されている徹底ぶりだ。
身を隠すにはこれ以上ない好条件だが、同時に資源の補給には難があるのも事実だった。
そのため拠点内には事前に食料や生活用品がある程度備蓄してあったが、薪に関してはちょうど補給が追いついていなかったらしく、初日の時点で既に底をついてしまった。
そのためイスカたちが研究に集中している間、俺たちはそれぞれ斧を持って付近の森林へ突入、まずはとにかく薪の材料を手に入れるため必死に奔走しているところだった。
「このエストレアの気候で火がないのは、どうしても厳しいものがありますから」
「だからって木こりに転職することになるなんて……大変ねえ、あなた達も」
「いえ、マルドゥークがよく働いてくれているので、作業自体は非常に順調です」
『お褒めに預かり光栄です、ローレンス様』
「ちょっと!! 勝手に私の傑作を伐採作業なんかに使わないでよ!!」
巨大な身体を持つマルドゥークは、もちろん伐採作業に最適だった。まるで雑草を毟るように木々を薙ぎ倒し、斧を使うまでもなく片っ端から木を引き千切るので、非常に助かっている。
そのため基本的には俺とマルドゥークが伐採を務め、手の空いているリナがアナトリアの傍につき、彼女にかけられた”予言”の効果が切れ次第、俺に報告するという形で動いていた。
「そして今、あなたが”予言”の催眠状態から目覚めたところです」
「なるほど……大体事情は分かったわ」
「では、そういうことなので」
現状の説明も終わったので、俺は座り込むアナトリアの手を取った。
「あら、ありがとう、ローレンス」
「申し訳ありません、そうではなく」
「はっ?」
そのままアナトリアの腕へ、ブレスレットのような形状の魔導器を取り付ける。
「……何コレ?」
「イスカが作った、魔力の流れを制限する魔導器です。これであなたは魔術が使えなくなります」
「はい?」
「また、現在マルドゥークには命令権限を上書きする外付けの術式が施されていて、俺かイスカの命令しか受け付けません。つまりあなたは今、魔術師として完全に無力化されています」
「……………………」
「……………………」
「……まさか私、現在進行形で人質にされてる?」
『残念ながら……』
「マルドゥーク! あなたが観念してどうするのよ!!」
申し訳なさそうに答えるマルドゥークに、当然アナトリアは声を荒げた。
”予言”により同行することになったアナトリアの処遇は、結果として有事の際の人質ということに落ち着いた。言いだしたのはもちろんイスカで、その決定にさほど時間はかからなかった。
マルドゥークの方も、アナトリアの身の安全を守るため、半ば自主的に俺たちと行動を共にしてくれている。その複雑な立場には同情するが、非常に律儀でありがたい限りではあった。
「言うこと聞かないとこの斧で首チョンパですよ!」
「ひぃ! この子怖い!」
「そこまで過激な態度を取るつもりはありませんが……我々の指示に従っていただければと」
「ま、マルドゥークぅ~~!! なんとかしなさいよぉ~~!!!」
『申し訳ありません。イスカ様には敵いませんでした。私の実力が足りないばかりに』
「テオドールとラヴラスを相手にしたうえ、追跡させずに逃げられた時点で相当だぞ……」
俺たちが支部を離脱したあとも、マルドゥークはテオドールとラヴラスと戦闘を継続。その後、頃合いを見計らって学会と司書連合の追跡を振り切り、我々と合流することになった。
改めて考えても異常な単独性能だ。アナトリアが”傑作”と呼ぶのも頷ける。
……その”傑作”と二人の魔術師を一気に相手にした奴のことは、もう考えないようにした。
「ローレンス、あなた……本格的にイスカの味方になるつもりなの……?」
「まあ……やることはやってしまいましたからね。今更逃げるつもりもありません」
アナトリアから渡された質問には、自分でも驚くほどに素直な答えを返した。
可能な限りこの事態は避けたかったが、なってしまったものは仕方がない。
だったら、あいつのやりたいことを、幼馴染として手伝ってやるのがいいだろう。
迷惑をかけた他者への謝罪や、罪を償うことは、それが終わってからにする。
ただ、少なくとも今この状況において、俺はイスカの味方をすることに決めた。
「とりあえず、研究拠点に戻りましょう。薪も集め終わりましたし」
「はあ……。拒否権はないのよね? わかったわよ、もう。好きにしなさい」
「この人、逞しすぎませんか?」
『それがアナトリア様の美点でございます』
美点というか、ある一人の第四階梯魔術師に鍛えられたというか。
「とりあえず拠点の方に戻りましょう。マルドゥーク、荷物を頼む」
『承知いたしました』
そうしてマルドゥークに集めた薪と斧を運ばせながら、俺たちは研究拠点へと戻った。
■
メルティナの研究拠点は、研究施設と居住施設が複合された、中規模の建物だった。
建物内における研究施設の割合は少ないものの、どれも最新の設備が揃っていて、研究には不自由ない環境が整えられている。またその分、居住施設は豪勢な造りになっており、半ばホテルのような居心地だった。イスカのために用意した拠点というのは、どうやら本当のことらしい。
「あ、戻ってきたんだ。おかえりー」
拠点へ戻ると、開発を行っているはずのハルモニアと玄関で遭遇した。
どうやら外の空気を吸っていたらしく、扉の前で膝を抱えたまま、こちらに声をかけてくる。
「ただいま戻りました!」
「”博闢の門”の開発は終わったんですか?」
「まあね。今、あの女はリビングでメルティナと一緒にお休み中」
「……ご迷惑をおかけしました。イスカの世話をありがとうございます」
「ホントにね」
取り繕うこともなく、溜息とともに答えながらハルモニアが続ける。
「てか、そこの魔術師はやっと目が覚めたんだ?」
「そうですね。”予言”の術式がここまで持続するとは思いませんでした」
「あの女も結構イカれてるよねー。イスカの後輩って考えれば納得できるけど」
「……ごめんなさい、ローレンス。この人は誰?」
「大地の依代、『均衡』の座のハルモニアです。現在、我々と行動を共にしています」
「えっ? あなた、また依代と知り合いになったの?」
ハルモニアの正体については、この研究施設に移動した際、全員に伝えている。
が、アナトリアは先の通り催眠状態だったので、こうして認識が遅れることになった。
……初日に行ったように、改めて各々の紹介もするべきだろうか。
「それよりさー、早く暖炉に火ぃ点けちゃおうよ。寒くてたまんないっての」
「そうですね。マルドゥーク、いくつか貰えるか?」
『了解しました』
指示を与えると、マルドゥークがその場で材木を引き千切って薪にしてくれる。
『残りの材木は昨日と同じ場所に保管しておきます』
「ありがとう」
「ああ……私の傑作が……土木作業なんかにコキ使われてるぅ……」
拠点裏の倉庫へのしのしと歩いていくマルドゥークに、アナトリアがそんな悲痛な声を上げた。
そんな彼女をなんとか宥めながら、ハルモニアの先導で居住区へと歩みを進めていく。
「あら、お戻りになりましたのね、皆さま」
しばらく拠点内を歩くと、豪華な装飾の施されたロビーのような空間に出た。
ここは居住施設内のメインホールとして造られたようで、天井には高級感のあるシャンデリア、部屋の中央には大きなテーブルと椅子が置かれ、数人での生活を想定した間取りになっている。
また、部屋の一角には簡易的なキッチンスペースが供えられており、その周辺には調理器具や長期保存を想定した食料棚、果てには年代物のワインが壁付けの棚にずらりと並んでいた。
部屋の奥にはこれまた豪勢な暖炉と、小さな机を挟んだ位置にソファーが設置されている。
そこには微笑みながら俺たちに手を振るメルティナの姿と、
「おっぱい……」
『オッパイー』
アーロンの子機を抱きながら、メルティナの胸に顔を埋めるイスカの姿があった。
「何してるんですかこいつ」
「休憩中でございます。イスカお姉様はこうすると非常に落ち着かれるようですので」
「赤ちゃんみたいですね! 私よりも年上なのに!」
「メルティナ、嫌なら嫌って言いなさいよ?」
「まさか。イスカお姉様に喜んでいただくことこそが、私の至上の喜びですから……♡」
「い、いい匂い……する……」
「ああっ♡ イスカお姉様、どうぞ存分に私を堪能なさってくださいませ……♡」
………………。
「ローレンス、さっさと薪」
「そうしましょう」
なるべくあの二人の関係性への言及は避けたかったので、ハルモニアの指示に従う。
薪を暖炉に焚べると、隣のハルモニアが続けて魔術式で火を灯してくれた。
それに釣られて、リナもハルモニアの隣で暖炉に手をかざし始める。
「はー、あったか~い!」
「やっぱ冬はこうやって過ごすのが一番だにゃ~」
「……そういうところはちゃんと猫なんですね」
「そーだよ。この可愛いお耳と尻尾が見えないの?」
いや、まあ、それはそうなんだが……。
「ん、ぅ……? っ、ろ、ローレンス! 帰ってきた、っ!」
『アァー』
そうして薪の面倒をしばらく見ていると、不意に起きたイスカが勢いよくこちらへ寄ってくる。
そのまま彼女は俺の腰へ抱き着いたかと思うと、荒い呼吸で俺の匂いを嗅ぎ始めた。
「んふ、っ……♡ ふぅー……♡ ろ、ローレンス……♡ おか、えり……っ♡」
「ああ、戻ってきた。”博闢の門”の開発は終わったのか?」
「うんっ♡ 終わったっ♡ あ、あたし、頑張ったから、ご褒美ほしいっ♡ ろ、ローレンスの匂い、嗅ぎたいっ♡ 最低でも……一時間は、すはすはしたい……っ♡」
「それはいいが、危ないから火を使ってる時は離れろ」
「慣れ過ぎよあなた……」
だってもう、こんなのどうしようもないだろ……。
「……全員揃ってるし、とりあえずご飯にする?」
「そうしましょう!」
リナとハルモニアは俺を早い段階で見限り、そのまま昼食の準備を始めた。
俺もそこに加わろうとはしたが、腰に抱き着いて来る女がいるので思うように動けない。
仕方なくイスカを体に纏わりつかせたまま、俺はメルティナの隣へと腰を下ろした。
「ほら、こっち来い。まだ冷えるだろ」
「うんっ……!」
彼女の小さな身体を抱き寄せ、近くに供えられていた毛布をその上に被せる。
胸当たりに乗せられたその手を握ってやると、冷たい感触が返ってきた。
朝から暖炉も動いてない中での作業は、なかなか辛かっただろう。
『アッタカーイ』
「そ、そうだね……パパが、あっためてくれる……よ」
「……そういえば、アーロンも術式の開発に協力したのか?」
「う、ん……。アーロンには、時間遡行における、大事な役割をお願いしようと、思って……」
「こいつに? 大丈夫なのか?」
『多分何トデモナルンジャナイッスカ』
イスカの腕の中で撫でられるアーロンが、なんとも曖昧な言葉を返す。
……まあ、こいつも一応、第四階梯謹製のゴーレムなことに変わりはない。
無駄にでかい用量の媒体もあるんだし、運用には問題ないだろう。
「アーロン様は現在、”博闢の門”の術式情報を読み込んでいるところですの」
「はい……?」
俺たちの会話に混じってきたメルティナの言葉に、思わず聞き返す。
「つまり……”博闢の門”の機能をアーロンに搭載したと?」
「そういうことになりますわね。私もイスカお姉様の神業には驚きましたわ」
「そ、そこら辺は、あとで説明する……。アーロンも今、頑張ってる、から……」
「”博闢の門”の術式は複雑でして。アーロン様も解析に時間がかかっているようですわ」
「だ、だから今は……アーロンが食べ終えるのを、待ってるとこ……」
『チョット待ッテテネ』
「だ、大丈夫だよ……? ゆっくり、食べればいい、から……ね?」
『モグモグー』
擬音はそれで合ってるのか?
「どれくらいかかりそうだ?」
「う、うーん……な、なんともいえない、けど……夕方までには終わる、かも?」
「ですから夜の間までは、束の間の休息ということですわね。私やハルモニア様もそうでしたが、何よりイスカお姉様は昨日からずっと作業漬けでしたから。存分に寛いでいただければと」
「う、うん……じゃあ、め、メルティナ……おっぱい、もっと……」
「ええ、どうぞご堪能くださいませ」
「んむぅ……」
メルティナが差し出した豊満な胸を枕に、イスカが仰向けに寝転がった。
体勢的に彼女の両足は俺の膝に乗せられるので、そのまま使っていた毛布をかけてやる。
そうしてイスカは自身の平たい胸の上に乗せたアーロンを、愛おしそうに撫でまわしていた。
「魔術研究も、好きなだけできる、し……ろ、ローレンスも、優しくしてくれる、し……メルティナのおっぱい、も堪能できる、し……あ、アーロンもなでなで、でき、る……!」
ぼそぼそと現状を一つずつ口にしたイスカは、ついにかっと目を見開いて、
「あ、あたし、っ……今日から、ここで、暮らすっ!!」
「是非っ! 是非ともそうしてくださいませ!!」
「困ります」
少なくとも、こんな閉鎖環境では俺の方が耐えられない。
だが、元いた研究室へ戻れるかと言われると、それも定かではないだろう。
そもそも、これから普通の生活を送れるかどうかすらも怪しい。
「色々と考えないといけないな」
「ろ、ローレンス……? どうしたの……?」
「……なんでもない。それよりお前の方は休めてるか?」
「う、うんっ……! あ、あたし今、すごい幸せ……!」
「ならいい」
イスカの頬を優しく撫でてやると、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべ、自分の手を重ねた。
■
「それで? リノン先輩にはどうやって会いに行くわけ?」
昼食を摂ったあと、俺はイスカとハルモニアの三人で、拠点周辺を散策していた。
適当に散歩がしたいと言い出したのはハルモニアだったが、俺たちはそこに同行する形になり、そのついでに時間遡行――つまり、リノンへ接触する方法について、相談を始めた形になる。
「じ、時間遡行は、時間軸は当然として、同時に空間軸の座標も、設定できる……。だから、あ、あんたが場所と時間さえ指定してくれれば、あとはそれを入力すれば、いい……よ」
「便利なモンだね。てっきり五〇年前のエストレアにそのまま遡行するんだと思ってたよ」
「く、空間軸の設定は、そもそも”博闢の門”に元から備わってる機能、だから……」
『フーン』
その説明だけ聞くと、”博闢の門”を拡張したもののようにも聞こえる。事実そうなので何も問題はないが、そうなるとやはり、オルトライズの残した功績の偉大さが伺えた。
「じゃあ、五〇年前の赫爪断層……って感じで言えばいいのかな?」
「赫爪断層……ああ、以前お伺いした時の。まさか、リノンはあそこで?」
「うん。大体朝方かな? そこに飛ばしてくれれば、あとは案内するよ」
「わ、わかった……」
そうやってハルモニアの言葉に首肯するイスカに、ふと。
「そもそもの話なんだが、時間遡行の基礎的な理論はどうなってるんだ?」
「う、うん……。説明する、ね」
まずそもそも、俺は時間遡行の基礎的な理論についてが曖昧だ。
大まかな今の認識としては、単に過去へ遡る、という漠然とした程度のものでしかない。
俺の問いかけに、イスカはアーロンを抱きかかえながら答えた。
「あ、あたしの時間遡行は……正確には、過去のある
「
「たとえば、今日はリンゴを食べよう、って決めたところを、
「なんとなくは」
「アタシも大体わかったよ」
俺たちの返答に頷いたイスカが、更に話を続けていく。
「あ、あたしの時間遡行は、今の
「……要は、縦軸の
「あ、そういうことか!」
俺の言葉に、ハルモニアも納得したような声を上げた。
この現実が積み重なった選択によって作られたものなら、当然それ以外を選択をした過去に道を繋げることはできない。それは時間遡行ではなく、また別の術式の話になるだろう。
この点については、感覚として理解できる範囲だった。
「で、でも、これは、あくまで理論の話……。実際に時間遡行をするのは、これが初めて、だから……過去に遡行したことで、何が起こるのかは、あ、あたしにも分からない……」
「そりゃね。アタシも初めて見る魔術だし。やっちゃダメなコトとかは今教えといて」
「か、確実に言える、のは……過去の人間に過剰な干渉はしちゃ、ダメ。こ、この基底現実の現在は、過去の人間の選択によって保障されてるもの、だから……未来のあたしたちが、過去に大きく干渉すると……因果律に、不可逆的な変化が起きちゃう……と、思う」
その点についても、なんとなく理解できていた。
過去が変われば未来も変わり、俺たちのいた現実も変化が起きる。当然のことだ。
しかしその理論では、俺たちの本来の目的は達成できないようにも思う。
「イスカ、今回の時間遡行の目的はリノンに会うこと……ハルモニアとリノンが接触し、この現在におけるリノンの魂がどこにいるかを探ることだよな? でも、過去の人間に干渉することはできない。つまり言葉を交わすこともできないなら、その目的は達成できないんじゃないか?」
「そ、そこは、大丈夫……さっきも言った、けど、『過剰』な干渉が、ダメなだけ……」
するとイスカは腕を伸ばし、抱いているアーロンを見せつけるように俺へと向けた。
『アッ、ドウモ』
「こ、今回の時間遡行は、アーロンの親機と、子機を使う……」
「アーロンを? どうやって?」
「あ、アーロンの親機と子機は今、魂の術式によって、同期してる……だから、それを利用して、現在を保持するの。分かりやすく言うと……親機が
「あー……親機と子機を同期させて、その同期を辿れば、この現実に戻ってこれるってこと?」
「そ、そう!」
「なるほど……」
『ナルホドー』
つまり親機をこの現在に置き、子機を過去に連れて行けば、その時点でこの現実が保証される。この二台のアーロンが同期し続ける限り、俺たちはどの時代に遡行しても、その同期を辿ってこの現実に戻ることができる、ということらしい。
「でも、その保証は確実じゃ、ない。少し話をするくらいなら大丈夫、だと思うけど……例えば、その後も生きるはずの人間を殺したり、未来に関わる情報を伝えたら、新しい選択が生まれる……つまり、新しい
「さっきの横軸の
「そ、そういう、こと……」
『ソウイウコトー』
過去へ干渉し、本来起こり得なかった選択が産まれると、そこに新しい
その選択の原因となった俺たちは当然、その新しい
先程イスカが言ったように、時間遡行の術式構造では、横軸の
つまり縦軸で移動してきた俺たちが横軸に繋げられると、現在へ戻ることも不可能になる。
「と、とりあえずダメなの、は……過去への過剰な干渉と、アーロンの同期の接続を切る、こと。ほ、本当はもっと、色々な調整がある、んだけど……そこは、あ、あたしの術式調整の範囲内、だから。ふ、二人には最低限、そのことだけ知っておいて、ほしい……かな……」
「わかったよ。どうせちょっと話するだけだから、何とかなるって」
気楽に答えるハルモニアの一方で、俺にはまだ少し疑問が残っていた。
「そもそもの話なんだが、リノンに魂の在処を聞いても大丈夫なのか? どう転んでも、リノンの肉体が消滅する前提の話になるだろうし……実験そのものを中止する可能性もあるだろ」
「あ、そ、それは……あたしも、曖昧で……少し考えないと、いけない、かも……」
「大丈夫だよ」
そこで俺たちの話を聞いていたハルモニアが、ふと顔を上げながら口を開く。
「リノン先輩はそんな程度で実験を中断するような人じゃない。それに先輩は、そういう時のために保険をかけておいた、って言ってた。結局、具体的なことは何一つ教えてくれなかったけど」
「ほ……保険をかけるのは、確かに分かる、けど……な、なんて助手のあんたが、知らないの?」
「ホントはその実験中に教えてもらう予定だったんだ。でも、アタシはそこにいなかったから」
「……それは、どうしてですか?」
俺の問いかけに、ハルモニアは少しだけ沈黙してから、
「ケンカしちゃったんだよ。よりにもよって、リノン先輩が消えちゃった、あの日に」
■
『ゴチソウサマデシター』
アーロンによる”博闢の門”の解析が終わったのは、太陽が沈みかけている頃だった。
それを確認したイスカは、メルティナとハルモニア、ついでにアナトリアを引き連れて即座に時間遡行の開発を開始。それから既に数時間が経過しているが、ときおり研究施設の方からアナトリアの悲鳴が聞こえてくる以外、目立ったような動きはない。
「イスカさんたち、順調なんですかね?」
「アナトリア以外の悲鳴が聞こえてこないなら問題ないだろ」
食器の準備をしながら問いかけるリナにそう答えつつ、俺も並行して夕食の準備を進める。
おそらくリビングへ戻る時間すら惜しいだろうから、片手でも食えるものがいいだろう。
「お皿は何枚いりますか?」
「大きいの一枚でいい。適当なところに置いておけば、勝手に食っていくはずだ」
「なんだかエサやりみたいですね!」
「あながち間違いじゃないかもな」
などと料理の片手間に、適当に会話をしていたところで、ふと。
「リナ、お前はイスカについてきてよかったのか?」
「ついてくるも何も、巻き込まれたみたいなもんですけどね!」
「本当に申し訳ない……」
普段と変わらない様子でものすごく冷静なことを言われたので、思わずそんな言葉が漏れた。
「一応、お前を人質ということにして、学会側に身柄を引き渡すこともできるが」
「んー……いや、大丈夫です! ここで身を引くのは、なんだか勿体ない気もしますし!」
「……勿体ない?」
「だって今、ものすごく面白いところじゃないですか! 私たちの時代の第四階梯が、初めて時間遡行の術式を開発しようとしてるんですよ! こんなの見ておかなきゃ損ですって!」
首を傾げて聞き返した俺に、リナは興奮気味にそう返してくれた。
言われてみれば確かに、現代の第四階梯が人類の段階を進めるような術式を開発している、歴史的な瞬間ではある。魔術大学の生徒である以上、リナもそのことは重要視しているらしい。
ここに至るまでの経緯があまりにも不健全すぎることは、何も気にしていないみたいだが。
「付き合わせて悪いな」
「リナちゃんはお茶目なので、これくらい何も問題ありませんよ!」
俺の言葉に、リナはぐっ、と腕を見せつけるようにして答える。
……そういえば、こいつも傷害事件を起こして停学してるような奴だった。
「そうなってくると、グレンへの言い訳が困るな」
「てんちょーがそんなこと気にしますかねえ?」
「それは、まあ……いや、お前の両親へも事情を説明しないと」
「パパもママも、私が同級生ボコした時は現地で応援してましたよ!」
「正気じゃないな……」
改めてノールドベルトの治安を問題視したくなるような回答だった。
「……これくらいだな」
「まあこれくらいですね」
しばらくの時間をかけて出来上がったのは、大量のサンドイッチだった。
ここにある食材は全て長期保存を意識しているため、塩漬けの肉や燻製させたチーズなど、塩分が少し偏っているようにも感じる。とはいえそんなことを言っても仕方ないので、なけなしの野菜や飲料水もあるだけ用意して、辻褄を合わせることにした。
妥協に妥協を重ねたような食事だが、贅沢は言っていられないだろう。
「リナ、水と野菜の方を運んでもらえるか?」
「わかりました! 本職のリナちゃんにお任せください!」
サンドイッチの乗った皿を片手に持ったまま、キッチンを後にする。
居住区から渡り廊下を伝い、別個で建てられた研究施設の方へ。
そうして、時間遡行の開発作業を行っている部屋の前へ着いたところで。
「イヤーーーっ! もう! イヤ! 大体なんで人質の私まで手伝わされてるのよお!!」
「う、うるさいっ! 人手が足りてないんだから、仕方ないだろ……っ!」
『ボビボビボビ! ハンマ”! ハンマ”! ンベアー”-”!!!!』
「ちょっと、イスカ! ついにアーロンが癇癪起こし始めたんだけど!?」
「あ、あと少し、なのに……っ、め、メルティナ! 抱っこしてあげて……!」
「かしこまりました。ほら、アーロン様。こちらへどうぞ」
『ア”ァ”ーー!! オ”ッパイデカスギーー!!』
扉の向こうから、そんなイスカたちの怒声が聞こえてきた。
「さっきまで落ち着いてたのにな。いよいよ佳境に入ってきたか」
「すいません、魔術師さんってみんなこんな感じなんですか?」
「大体そうだぞ」
怪訝な顔で首を傾げるリナにそう返してから、研究施設の扉を開く。
『パパァ”ー”ー”ー”!”!”』
その瞬間、メルティナの胸から逃げ出したアーロンが、俺の元へと飛び込んできた。
なんとか受け止めたアーロンの身体には、何本かの長い導線が接続されているのが見える。そのまま視線を導線に沿って辿ると、部屋の中央、いくつもの書類に埋もれながら作業をするイスカと目が合った。
「あ、ろ、ローレンス……?」
「食事を持ってきた。開発の方はどうだ?」
「うん……! な、なんとかなりそう、だよ……!」
俺の質問に、ここ数日で一番の笑顔を見せてくれるイスカ。
「『なんとかなりそう』じゃなくて『なんとかさせてる』の間違いよ……」
「うにゃあ”ー……リノン先輩のシゴキよりひどい……」
「この短時間で、私たちの数倍の成果を……さすがはイスカお姉様ですわ……」
一方で、イスカの研究に付き合わされた三人は、憔悴しきった様子だった。メルティナは表情のみに疲れが現れているものの、ハルモニアは完全に床に突っ伏して気絶寸前、アナトリアに至っては部屋の隅で何かに怯えるように三角座りをしている始末だった。
それでも各々が依然として作業を進めているあたり、魔術に携わる者としての矜持を感じる。
『オビオビボバボバ!! ンィ”-!!!』
「アーロンさんはなんでこんな意味不明な悲鳴を?」
「論理機能に深刻な負荷がかかってるのかもしれない」
俺の腕の中でガタガタ震えるアーロンを見れば、自ずとそんな予測がついた。
「え、えっと、アーロンには、今……時間遡行と、”博闢の門”と、あとリノンが開発した、自己同一性を保持する術式を拡張させる機能が、読み込まれて、て……」
「積み過ぎだ。アーロンが苦しんでる。また変な拗ね方するぞ、こいつ」
「だ、だから、今は、外付けの媒体を用意してる、の……ほら」
そう言いながら、イスカが自らの座っている場所へと視線を投げる。
俺もそこで初めて気づいたが、イスカが座っているのはアーロンの親機に用いているものより二回りほど大きな媒体だった。アーロンから伸びる導線も、基を辿るとそこに接続されている。
どうやらその巨大な媒体内で術式を構築、完成したものを片っ端からアーロンの論理機能内へ流し込んでいるらしい。どちらかというと、かなり力技に近い手法だった。
まあ、物資の限られたこの環境では、それも仕方ないのかもしれないが。
「も、もう少しだから、ね、アーロン……? もうちょっとだけ、我慢してね……?」
『ゲボ吐キソウナンデスケド』
「どうやってだ」
そんな有機的な機能をつけた覚えはない。
「で、できたっ!」
しばらく作業を続けること数分、ついにイスカが歓喜に満ちた声を上げる。
その声に反応したハルモニアとアナトリアも、疲弊した顔をイスカへ向けていた。
だが彼女はそれを無視したまま、アーロンを抱いた俺の方へと近づいて来る。
床に散らばる書類や、ハルモニアの背中を踏みつけていることは、お構いなしだった。
「殺す……」
「あ、アーロンっ! どう? 体調は……ろ、論理機能は、大丈夫?」
息を切らしながらのイスカの問いかけに、アーロンはゆっくりと蒼鱗石を彼女へ向けて、
『ジャア、モウ出シテイイ?』
……何を?
「ま、待っ……! 全員、離れて! アナトリア、メルティナ、リナは今すぐここから、退出!」
「えっウソ、こいつ今ここでやろうとしてるの!? いきなりすぎない!?」
「リナ様、こちらへ! その距離では巻き込まれてしまいます!」
「わわっ! なんなんですか一体?!」
イスカの焦ったような叫びに、アナトリアとメルティナがリナを連れて避難していく。
一方で腕に抱いているアーロンは、そのまま自壊しそうな勢いで身体を震わせていた。
俺も距離を置こうと考えたが、無暗な刺激を与えるのも憚られる。
「の、伸びてないで、こっち来い、っ……メス猫っ!」
「ゔにゃゔ!!」
唯一状況を理解できているらしいイスカは、床に伏せたままのハルモニアの尻尾を掴み、こちらへ引き摺ってくる。そうして足元に放り投げたハルモニアを確認して、イスカが口を開く。
「い、いいよ、アーロン、出して……!」
『アイ!』
「待て、出すって何を……!」
『ンベアー』
俺の質問を遮るように、ついにアーロンが術式を起動させる。
その瞬間、俺たちの直上に巨大な光の円環が展開された。
直方体を無造作につなぎ合わせたような外枠は青白い光で構成されており、その中心部には先の見えない、淀んだ夜空のような空間が無限に広がっているように見えた。
「……まさか、これが時間遡行の……?」
『降龍暦一六四八年、ハルヴォーク内、赫爪断層付近、午前一〇時』
俺の呟きに帰ってきたのは、普段の愉快さが嘘に思えるほど無機質なアーロンの声だった。
それと同時に、真上に出現した光の円環が、ゆっくりと俺たちの方へ降りてくる。
「ちょちょちょ! ホントに今から行くの!? ごはんは!?」
「つ、次がいつになるか、分かんないんだもん……そんなこと言ってる場合じゃ、ない……!」
「大丈夫です、ハルモニア。夕食用のサンドイッチはまだ持っています」
「アンタもなかなか動揺してない!?」
してるに決まっている。
だが、もうこうなった以上、この状況を受け入れるしかないのもまた事実で。
『イッテキマース』
次の瞬間、光の円環が降りてきて、俺たち三人を暗闇で包み込む。
一瞬だけ息の詰まるような感覚があったあと、俺の意識は闇の中へと沈んでいった。
■
「っ、は……!」
意識を取り戻して初めて見えたのは、石造りの天井だった。
同時に感じたのは、足先から伝わってくる寒さと、背中に伝わる硬い感触。
視線を体の方へ動かしたところで、ようやく自分が床へ横たわっていることに気づく。
ゆっくりと身体を起こすと、全身から鈍い痛みが走った。
「ここは……」
「あ、起きた」
声のする方へ視線を向けると、そこにはまるで自宅のように寛ぐハルモニアがいた。
……いや、実際に五〇年前も今も、彼女の自宅なのだろう。
「んむ、んま……ろ、ローレンス……大丈夫……?」
その隣には、サンドイッチを頬張るイスカの姿を見える。
普段と変わらない様子を見るに、どうやら意識を失っていたのは俺だけらしい。
「何が起きた……?」
「じ、時間遡行自体は、成功した……けど。まだ、ちょっと魔術式が安定してなく、て。あ、あたしは自分で術式を安定させて、この猫はもともと身体強度が高いから無事だったけど……」
「……俺だけがその影響を受けたのか」
突然のことだったので、イスカも対応が後手になってしまったのだろう。
アナトリアやメルティナ、リナを緊急避難させたのにも納得がいく。
ただ、それでも俺の身体がある程度は無事なことに、少しだけ疑問が残るが。
……メギストスの尾の影響だろう。頭の中でそう無理やり結論付けた。
「ご、ごめんね、っ……! あ、あたしがもっと、ちゃんとしてれば……!」
「いや、お前が謝る必要はない」
どちらかというと責任があるのは、そこでフワフワ浮いている間抜けの方だ。
『色々トオ出カケデキテ楽シイーッス』
「よかったな。俺も、普段は絶対に感じられないような体験ができた」
『ウワーイ』
俺の言葉に、アーロンは喜びを表すかのように空中でくるくると回転した。
……皮肉を感知する機能でもつけてやろうか、こいつ。
「とりあえず、時間ないから。さっさと行くよ」
「分かりました」
「んまんも……」
『モグモグー』
未だにサンドイッチを頬張っているイスカを引き摺って、ハルモニアの後に続く。
以前にも訪れたこの赫爪断層付近の研究施設は、五〇年後と変わらない内装をしていた。
それはハルモニアの神秘の影響もあるのだろうが、何より現代ではここを含めた一帯が封鎖区域になっているからなのだろう。現代では人の手が寄り付かない場所になっている。
そのためか、以前訪れた時よりも、にわかに生活感が残っているようにも感じられた。
「ここはキースの部屋。あいつ銃オタクだから、いっつも火薬臭いんだよね」
「なるほど……」
「その上あいつ、タバコまで吸うからさー。リノン先輩が嫌がって仕方なかったの」
道中で横切った部屋を一瞥して、ハルモニアがそう言葉を落とす。
「確かそのキースという男は、倫理監査委員会の人間だったんですよね?」
「そ。魂に関連した研究で、リノン先輩がやらかさないように派遣されてきたの。ま、実際そこまでバチバチってわけじゃなかったけどね。アイツもアイツで適当なところあったし」
「……彼も蘇らせるんですか?」
「リノン先輩が悲しむだろうから、一応。ぶっちゃけアタシはどうでもいいんだけど」
いいのかそれで……。
「ほら、ここ」
そうして話を少し交わしているうちに辿り着いたのは、以前イスカが壁を吹き飛ばした研究区画だった。やはり未来とは違い、施設内には書類や魔導器など多くの物品が置かれている。
「あ、あれ……? あそこ、前に来た時は、なかっ、た……」
区画内へ足を踏み入れた矢先、イスカがふと、奥にある壁を見て言葉を落とす。
彼女の言葉通り、そこには見覚えのない、地下へと続く階段が設置されていた。以前訪れた際は、この研究区画をくまなく探索していたので、あんな階段を見落とすことはないはずだ。
となると、現代では何らかの理由でハルモニアが封鎖したのだろう。
「現代ではアタシが、特別強力な神秘で隠してる。無暗に近づかれたくない場所だしね」
「……つまり、この先でリノンが消滅した実験を?」
「そういうこと」
『ヘーエ』
そのままハルモニアの先導に続いて、階段を下りていく。
長さはそこまでなかった。階段の造りも簡素で、即席で設置されたことが伺える。
だが、階段を一段、一段と降りていくたびに、全身がひりつくような空気が強くなっていった。
「……いた」
ハルモニアが呟いたのは、あと数段で階段を降りきるというところだった。
研究区画の地下に広がっていたのは、半ば鍛冶場のような場所だった。
中央には巨大な窯炉のような魔導器が設置されており、そこからは部屋の至る所へと繋がる導線が無数に繋がっている。魔導器はそれだけではなく、窯炉を囲むようにいくつもの机が無作為に設置されており、そのどれもに見るからに複雑な術式を刻まれた魔動機が置かれている。
炉窯の周辺に見えた人影は、ふたつ。
片方はイスカと同じ、第四階梯の白いローブに身を纏った、小柄な女性。
もう一人は――。
「止まれ」
こちらへ拳銃を向ける、背の高い金髪の男。身に纏っている黒い制服、何より帯銃済みということから、彼が倫理監査委員会の人間だと言うことが分かる。
「き、キースくんっ?」
「おいクソ猫、誰が部外者連れて来いって言ったよ」
こちらへ鋭い眼光を向ける男――キースの低い声が、地下空間に響き渡った。
しかしハルモニアは臆することなく、階段を一段ずつ降りていく。
銃口を向け続けられている俺とイスカは、その光景をただ見守ることしかできなかった。
「ニアちゃん? 戻ってきてくれたんですか……?」
やがてキースの背後から、安堵したような声を上げてその女性が前へ出る。
背格好はイスカと同じくらいだろうか。顔つきもどこか幼く、碧玉のような大きな瞳と、短く揃えられた薄い藍色の髪が、更に子供らしさを助長させているようにも見える。
身に纏っているのは、最初の魔術師、アルバトラを象ったとされる白いローブ。
それは間違いなく、彼女が今代の第四階梯魔術師であることを示していた。
つまり、彼女が。
「あ、あんたが……リノン・エルガーデン……?」
「えっと……ああ、そういうことなんですねっ。へえ、なるほど……」
「何がなるほどですか、リノン先輩。こいつら部外者ですよ?」
「キースくん、大丈夫です。この人たちは敵じゃありませんから」
「……ま、先輩がそう言うなら」
少しの逡巡のあと、キースは溜息と共にこちらへ向けていた銃口を下げた。
それを確認してから俺とイスカは階段を降り、二人と同じ場所へと立つ。
「で、ハルモニア。こいつら誰だ?」
「えっと……アタシの友達? みたいな?」
「……あ、あたしは、イスカ。こっちは……助手の、ローレンス……」
「紹介に預かりました、ローレンス・エルマークです」
『アーロンデス』
「ふふっ、そうですよね。ニアちゃんから、ボクの話はたっぷり聞いてると思います」
ハルモニアの適当な紹介に続いて、こちら側も簡単に自己紹介を済ませる。
それを聞いていた彼女は、俺たちとハルモニアの顔をそれぞれ一瞥した。
そして何か納得したように一人で頷くと、そのまま。
「じゃあ、改めて自己紹介しますねっ。ボクは第四階梯魔術師、『律命』のリノン……」
朗らかな笑みを浮かべながら、こう言い放った。
「よろしくお願いしますね、未来の第四階梯魔術師さんっ!」
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ちょっと時間が空いてしまった いや前までが筆乗りすぎかも
ようやくリノン編って感じですね
追記
ホンマにごめんなさいリノンの一人称を設定と間違えてました
ボクっ娘です