まだまだ先は長いですが、今話で第010曲です。
これからも誠心誠意頑張って参ります。
誤字修正報告本当に助かっております。ありがとうございます。
伸びやかな高音が、闇に包まれた中庭の中に残響を刻んで溶け込んでいく。
まだまだ足りない。技術が。解釈が。表現が。吹けば吹くほど足りないところが露呈していき自覚せざるを得なくなる。だが、楽しい。そして成長の余地があると分かるのが嬉しくもある。
何故なら、まだ登れる山があるということだから。まだ見た事のない景色が見れるのだ。好奇心が見たみたいと叫んでいるのだから見ない訳にはいかない。
水を一口含んで潤してから携帯の電源を付けると、画面には【19:06】と表示されており最終下校時間をやや過ぎていた。
(……まずっ)
集中しすぎていたというか、課題が次々に出てくるのが楽しすぎて夢中になっていた。最終下校時間が過ぎていることに本格的になってきた夏の暑さからか、早く下校しなければという焦りからかたらりと頬を汗が伝う。
楽器を片付けて既に書き込んでいる譜面を仕舞い、忘れ物がないかを確認した悠月は顧問である滝に挨拶をするために校舎へ入り職員室へと向かう。
部全体でも、既にコンクールに向けて曲の練習は始めていた。オーディション実施という事実に多少動揺しているのか割り切れてはいない雰囲気が上級生を中心に漂っていたが、それでも練習をしなければならないという空気になっているのはいいことだ。
オーディションは期末考査前の二日間で実施される。考査後でないのは、試験という学生の本文である学業に優先させるため、そして試験後スムーズにコンクールメンバーでの練習を行えるよう効率化を図った結果だろう。
だが、オーディションが近くなれば、部の雰囲気はがらりとその様相を変える。普段は同じ仲間、仲の良い友人だった者たちが皆ライバル、競争相手となって生き残りをかけて争うからだ。このときばかりは悠月もかなり気を遣ってオーディションを行った。
内部の人間かつ最上学年、そして部長という立場にいる関係から、どうしても縁故採用という不信が付きまとうだろうと悠月は考えた。だから、去年はオーディションの仕方を少しばかり工夫した。というか、千葉にある海幕のパクリだ。いつだったかテレビで見た密着取材の時にオーディションのやり方を説明しているワンシーンがあったからそれを踏襲させてもらった。
金管がオーディションの時は木管、パーカッションのパートリーダーと顧問、外部指導者が。木管がオーディションの時は金管、パーカッションのパートリーダーと顧問、外部指導者が。パーカッションがオーディションの時は金管と木管のパートリーダーと顧問、外部指導者が。といった風にできるだけオープンにした形でオーディションを行った。
当然、意見が割れることもあったが、その時は各パートリーダーが意見を述べ合い討論をした上で最終決定者を顧問とし、顧問が挙げた奏者で決定としていた。最終決定者を顧問としていたのは、最終決定者が当然全責任を負うことになるため、これを部長に置くと指揮と統率に関わるという理由だ。できるだけ全員と等距離の者である顧問がヘイトを担うことで内々での分裂を極限まで避けようということだった。
生徒がというより部長である悠月が主体となって演奏の方向性を決める羅針盤をするという組織構造故に、悠月にはこのやり方以外でいい方法が思いつかなかった。そして、このやり方でも衝突は起きた。上級生が落ちて下級生が選ばれたときなんかは特に。流石に、この時は部長として守るべき方を守ったつもりだ。誰もが傷つかないやり方なんてのは不可能だし、衝突なしに誰もが納得するやり方なんてのは存在しない。
落ちたものが努力していないというつもりは毛頭ないが努力して選ばれた者が傷つけられるなんてことは報われないしあってはならない。そして、負わされた側の心についた傷は一生ものの傷になるかもしれない。言い換えれば、トラウマというやつだ。
不満不平妬み嫉みなどなど、ヘイトの向かう先には目を凝らした。選ばれなかったゆえの悔しさは向かう先は自分の実力不足を理解しているからだと判断しある程度無視したが、選ばれた側に向かう嫉妬や逆恨みによるヘイトは徹底的に向かう先を逸らしたつもりだ。人為的に傷を負わされること、こればかりは悠月は許容しなかった。
理想の演奏を作る立場としてそれで演奏に支障をきたしたら困るという自己都合もあったが、第一はそんなことで音楽を止めてほしくないという悠月の願望もあった。
中学の頃は中学一年から中学三年まで一貫してオーディションは府大会前の一回だけ行った。
府大会前、関西大会前、全国大会前の三回やる形式も考えなかったわけではないが、大会毎に新たに入ってくるメンバーとリセットされた曲のイメージを毎回意識共有するよりも、固定されたメンバーで意識共有を繰り返しより洗練していくことの方が全国に近いとこの時は判断した。
落ちたメンバーを足かせだと思ったことはただの一度もないと断言できるし練習以外での対応は変えたつもりはないが、切り捨てたと言われれば否定は難しい。実際、悠月はオーディション以降はコンクールメンバーへの比重を傾けたし、コンクールメンバーに落ちたメンバーのサポートは薄くなった。この時は、受験勉強の間に面倒を見てくれていた仲間には感謝しかない。
変化を加えたことによって組織全体がぐらつくリスクや、メンバーを入れ替えることによって生じるであろう摩擦を考えれば余計なリスクは背負うべきではなかったと今でも思うしあの時の判断は判断は間違ってなかっただろう。とはいえ、ケースバイケースだし、結果最高だったからその判断が最良となっただけでこれが正解ということはないとも思っている。
こういった経験則からもこの北宇治でもそういった人間関係の摩擦から大きな衝突が起こる可能性はある。人の感情は流動的で予測がつかない。推測はできても、だ。だからこそ、なるべくその衝突が小さくなるようにしないといけないのだが、今現段階でそれを実現できる策は何一つない。そして、どんな策をとっても絶対に誰かしら傷つくことになるだろう。
ここまで考えて、ふと、そういえば、滝はどのような方式のオーディションをどういう形式で行うのだろうかという疑問が頭をよぎった。
流石に顧問と副顧問がこの辺りを考えていないことはないだろうということと、先生が主導なら部員としては従う他ないよなということを思いつつも、外殻のみが知らされその中身の不透明なところの多さに今更気づくという事実に悠月は深くため息をついた。
「……はあ」
「随分辛気臭いため息ついてるね。後輩君にしては珍しい」
ただ、オーディションが近くなればオーディション周りの説明もなされるだろうと職員室も近くなってきたこともあり思考を打ち切るとそんな声が聞こえてきた。
「……副部長」
「うっわ失礼な反応するねぇ。後輩君の癖に」
思わず、声に出た失礼に相手は唇を尖らせてあからさまに「納得できないんですけど」という演技臭い態度を見せる。
「またあすかがだるがらみしたんじゃないの?」
「まだ何もしてないのに~」
「練習終わり?明瀬君」
「……」
上から順に、部長、副部長、中世古。そして、昨日の夜より随分と悩みが晴れたようなすっきりとしていながらも少しの申し訳なさが混じった表情を浮かべている斎藤がそこにいた。その表情を見るに、ちゃんと話せたようだ。昨日、斎藤と別れた後、随分自分本位な願いを口にしてしまったなと反省していた悠月としてはその姿に少しほっとしつつ、悠月は小笠原にあらぬ疑いを掛けられている田中を他所に中世古の質問に答えた。
「はい。さっき練習終えたところで、今から滝先生に挨拶に行こうと思ってました。すみません。最終下校過ぎちゃって」
「気にしないで。私たちも先生に少し用事があったからそのあとでもいいんじゃないかなって私が提案したことだから」
「そうだよ。私もそれに賛成したんだから」
「そうだったんですね。お気遣いありがとうございます」
悠月は最後にそう続けて小さく頭を下げた。すると、中世古からのありがたい言葉とそれに同調した小笠原のフォローが入った。それに対し、あすかから茶々が飛んでくるが、悠月はそういうものだと無視を決め込んで感謝を口にする。
そして、向かってきた方向と重役が固まっていること、斎藤の様子からもなんとなく予想はつきつつも何も知らない風を装って小笠原に聞いた。
「じゃあ、僕滝先生に挨拶しに行ってきますね?」
「うん。お願いするね。一応、滝先生には明瀬君が最後ってことは伝えてあるから」
「分かりました」
そうして、悠月は四人の横をすれ違うように職員室へ足を運んだ。こちらをじっと観察するような視線を無視しながら。
◇◆◇
「なんだか、明瀬君ってあすかに似てるよね。三年になったらあすかと同じ感じになってそう」
悠月が職員室へ消えてからそう独り言のように口にしたのは、悠月を同じパートということもあり近くで見ている中世古だった。それに部長である小笠原が共感する。
「あ、それ分かるなぁ」
「えぇ……?そんなことないでしょ」
それに対し、あすかは眉を顰めて顔をゆがませながら反論する。まるで、一緒にしてほしくないように。だが、そこに思わぬ追撃があすかにふりかかる。斎藤も中世古の言葉に共感したのだ。
「それ私も共感できるかな。明瀬君もあすかも、何処か私たちと住んでる世界が違うというか、見てる先が私たちと違う感じが一緒」
「えぇ~……?」
いかにも不服です、と言いたげにあすかは声を漏らすが、そこに中世古と小笠原も加わる。
「あと、二人とも楽器が大好きだよね。あすかはユーフォが、明瀬君はトランペットが。二人とも、楽器への熱意は誰よりも凄い」
「確かに、明瀬君って今日みたいに練習にのめり込んでること週に二、三回はあるよね。早い時は全体練習終わって個人練習になったらすぐ帰るときもあるのに」
勝手に盛り上がられていることに我慢ならなくなったのかあすかがとうとう止めに入る。
「私とあの後輩君は全然違うってば。私後輩君みたいにわざわざ面倒なこと自分からしないし」
あすかからしてみれば、三人があすかと悠月が似ていると言っていること、その感性が分からなかった。そして、そう言われることに不快感すらある。確かに、目に見えた学業や演奏技術といった面では同じ括りになることは理解する。しかし、あすかにとって悠月は他人であり別人だ。
受け入れがたい。そして、この不快感の正体が何なのかはあすかにも分からなかった。
◇◆◇
数日後、とうとう6月に突入し、冷房のありがたみを感じるようになった。この時期になってくると朝は涼しいなんてこともないためカーディガンやベストも必要なくなってきた。
悠月は、いつも通り代わり映えのしない学校生活を送っていたのだが、周囲の様子が何やら浮き足立っている様子に悠月はそれもそうかと納得する。
なんせ、明日は縣祭りだ。友人と共に露店巡りをする約束をしている者や想いを寄せる者と距離を縮めるもしくは結ばれるチャンスだと誘いをかける者もいることだろう。
縣祭りとは、毎年六月五日から二日間かけて行われる、県神社のお祭りのことだ。深夜から未明で沿道の灯火をすべて消し、暗闇のなかを
縣祭りは祇園祭りと比べてしまうと規模はそれほど大きい訳ではないが、六百軒を超える露店が連なり、十二万人を超える人間が訪れる地元ではそこそこ大規模な祭りだ。そのためか、警察官が一帯に多数配置されてものものしい雰囲気もあるがこればっかりは治安維持のためにも仕方のないことだろう。
悠月は道行くクラスメイトから視線を外し、自炊の残りを詰めた弁当から口へ箸を往復させていると、目の前で大きなタッパーに入った飯を口に運んでいる秀一に話しかけられた。
今日はそういう気分だったらしく秀一と滝川の吹部一年男子で集まって中庭で弁当を食べていた。
「悠月は明日祭り行くのか?」
「あ〜、多分行かないかなぁ。人混み苦手だし、うるさいの好きじゃないし」
金ないし。と心の中で続ける。守銭奴か倹約家か判断は委ねるが悠月は必要経費や趣味での出費以外に支出は全くと言っていいほどしない。
「ほぉん。じゃあ何すんだ?」
「シフト入れるんじゃないかな。それか勉強。もしくは譜面研究」
「……はぁ?」
そんな悠月の言葉に滝川は、箸で挟んだトマトを弁当へ落として、心の底から「何言ってんだこいつ」と思っているのが伝わる表情でこちらを見てくるので「なんだよ」と不満混じりに言うとそいつは小さくため息をついた。
「折角の高校生活なんだぞ?もっと青春謳歌しろよ。祭りは年に何度もないんだぞ」
「部活と普段の学校生活だけでもちゃんと充実してるしなぁ」
「欲のねえやつだなぁ。お前のこと狙ってる女子が泣くぞ?ガード固すぎて」
「恋愛してる暇ない。勉強部活バイトの三拍子で時間溶けるし、相手にも申し訳ないでしょ。恋愛やるなら真剣にやるよ」
そう言って空になった弁当を仕舞うと、そのタイミングでポケットに入れた携帯が震える。それが電話だと判断した悠月は二人に断りを入れて少し離れてから電話に出た。
「はい。もしもし。明瀬で───」
『ちょっと詩音!返してっ……!』
『あっ!明瀬部長電話出たよ奏!ほら!ほら!』
なんだか懐かしい声が聞こえるが、どうやらてんやわんやしている様子。浮き足立っているのはうちだけではないらしい。可愛い後輩である部長と副部長の力関係はどうやら副部長が振り回される形らしい。
なんでこんな時間に電話がかかってきたのかと思ったが、そういえば悠月の出身中学である小倉西中学校の創立記念日が六月四日だった。
一旦落ち着くまで待つかと電話口から聞こえる二人の会話を聞き流していると不意に会話が微笑ましいじゃれ合いから言い争いに発展していくのを感じた。
『悠月先輩とは全部終わるまでは会わないって言ったよね……っ!?私!』
『でも最近の奏、全然休んでないじゃん!根詰めすぎちゃうと奏が潰れちゃうよ?!』
『先輩たちの顔に泥塗る訳にはいかないでしょ?!なら今頑張るしかないじゃん!』
『だからって息継ぎは必要だよ!これからもっと頑張らないとなんだから頑張る為にも今は休まないと奏が壊れちゃう……!』
ああ、空回りしてしまっているのだな、と思うと共に、どうやら、悠月は一番信頼を寄せて託した後輩に要らぬプレッシャーを掛けてしまっていたらしい。そして、その後輩は悠月が思っていた以上に悠月たちの代を大事にしてくれていて、それが余計な重荷となって空回りしてしまうほどに責任感の強い子だった。
悠月がいくら優秀で器用な子だと思って託しても、相手は歳相応の中学三年生の女の子だったのだ。悠月は自省の念に駆られながら自分に対して自嘲する。そして、ゆっくりと口を開いて大事な後輩の名を呼んだ。
「───もしもし、久石ちゃん。」
『───……はい。なんですか?悠月先輩』
本当に従順というか、猫のようなのに犬のように忠実なところがあるのが本当に可愛らしい。そんな後輩が普段は素を隠して部が円滑にまとまって一方向を見れるように、そして部長を支えているのだからその負担は計り知れない。
そんなことを思いながら電話越しに悠月は続けた。なんとかしてやりたいと思った。こういう時に手を差し伸べるのが卒業したとはいえ先輩としての務めだと悠月は思った。無論、過干渉はいけないが、部に直接関わることでもないしいいだろう。
「今日部活は?」
『19時までです』
「じゃあ、そのあとちょっと時間頂戴」
『……ふ、二人でですか?』
さっきと打って変わった様子に悠月は息を小さく吸って続けた。
「そのつもりだけど、妹ちゃんはどうする?」
『…………』
『私は今日はこの後塾なので~』
「そう?分かった」
傍で聞いているだろう現部長にも聞いてみたが、どうやら音楽教室らしい。姉妹揃ってフルートが大好きなのは変わらないようだ。そんなことを思いながら、言葉を続けた。
「こっちも明日のオフ挟んだら多分ノンストップで突っ走るからさ。英気を養う意味でも一度休息を挟もう。あと、お互いの近況でも話そう」
『……分かりました。行きます。ありがとうございます。悠月先輩』
「あはは。どういたしまして」
それからすぐ、『少し気が紛れました』という言葉と共に感謝を告げられて電話は途切れるのだった。
◇◆◇
『───もしもし。久石ちゃん。』
その声に、私は詩音へ向けていた意識が一気に電話に移された。彼がいた最後の一年はずっとその背を追いかけてその声を誰よりも聞いてきた優しい声色。
電話が切れてすぐ、私はへなへなと力が抜けるようにして身体を倒し詩音のお腹に崩れ落ちる。
「良かったじゃん。デートだね。私のおかげだ」
「図々しいよ……全部終わるまでは悠月先輩に頼らないって決めてたのに……」
「奏ってホント健気だよね〜。それがいいところなんだけど」
本当にこの子はほわほわしている割に強かで強引だ。今の電話だって今の私の状態を分かっているからこその行動であることを私は分かっていた。
私はお腹に顔を埋めたまま、普段は絶対に吐かない弱音を口にした。
「このままじゃ悠月先輩に頼っちゃう……」
「頼るわけじゃないでしょ。明瀬部長も上手いこと言うよねぇ。言ってたじゃん。お互いの近況報告でもしようって。言葉の通り素の奏のままでお話してきなよ」
そんなものは言葉遊びだ。詭弁だ。と思ったが、悠月先輩はちゃんと考えて、私のことを理解してあの言い方をしたのだろう。奏のいいように解釈しな。自分になんでも話してみな。そう言ってくれているのだ。
甘えてもいいだろうか。明日だけ。一旦休息。悠月先輩の甘い言葉が奏の脳を犯していく。本当にあの人はずるい。あんな言い方をされれば誰でもそれを口実に頼ってしまうだろう。けれど、そういったところが奏が尊敬した、敬愛している所以なのだと再認識した。
私は、頭を撫でていた詩音のお腹から離れる。詩音は、とても優しい微笑みで聞いてきた。
「今日、好きなだけ話しておいで」
「……うん」
自分でも驚くほどか細く小さい声に、本当に私の声なのかと錯覚したが確かに私の声だった。
「じゃあ、今日はただの奏として楽しんでおいでね」
「ありがと」
◇◆◇
放課後、全体練習を終え、個人練習を一時間ほど行った頃には壁に掛けられた時計は19時を指していた。悠月は早々に楽器を仕舞い、身支度を終える。
世話の焼けるかわいい後輩との合流場所は互いの家が近いこともあり、話し合いの結果悠月の家ということになった。自転車を心なしかいつもより早く漕いで帰宅すると、玄関前には学生鞄を片手で下げながら携帯を見ている久石の姿があった。
「ごめん。お待たせ。久石ちゃん」
「遅いですよ。悠月先輩。こんなか弱い女の子を独りで待たせるなんて減点ですね」
片頬を膨らませてそんなことを言う久石に悠月は目を瞬かせてからふ、と小さく笑う。
「思ったより元気そうで安心したよ。もっと思いつめた顔してるのかと思ってたから」
「詩音が心配性なだけですよ。まったく……」
「人事が間違ってなかったようでよかった」
それから、話すならゆっくり話そうということで早々に悠月は久石をリビングへと招いた。悠月は荷物をリビングのソファの横に置く。それからキッチンへと向かって手を洗ってからお茶を注いだグラスをローテーブルに置いて部屋をまじまじと眺めている久石に声をかける。
「座っていいんだよ」
「あ、はい。お茶、ありがとうございます。失礼します」
ソファに丁寧な所作で腰を下ろした久石を見てから、悠月はローテーブルを挟んで向かいの床に腰を下ろした。
「今年の吹部はどう?」
「人数はかなり増えましたね。これも悠月先輩たちのおかげです。新入生全体で経験者が大半でしたし、経験者の中でマイ楽器持ってるっていう子も四割くらいいました」
「……多くない?ほぼ半分じゃん」
自分たちの代でもマイ楽器持ってて経験者なんて二割いなかったぞと思っていると、久石から事情が説明された。その事情を聞くに、どうやら結果として自分たちはかなり影響を与えていたらしい。どういうことかというと、小倉西中学校は公立のため当然校区というものが存在する。
そして、その校区の中に都合よく四割もマイ楽器持ちの経験者がいるかというとそんなことはなく、前年の結果を見た他の校区の家族がここ小倉西中学校の校区内に引っ越したというケースが半分くらいあったそうだ。
今でこそ直接的な当事者ではないから他人事のように捉えられているが、それはそれでかなり心配事が増えそうだ。
「純粋に戦力に厚みができただけじゃない去年とはまた違った難しさが今年はありそうだな。特にオーディション関係」
「もうすぐですから。オーディション。すでに物々しい緊張感が漂ってますよ」
「どこの吹部も同じなんだなそこは。じゃあ、今年の曲はもう決まってるんだね。今年は何に決まった?」
「はい。課題曲は四番、自由曲は『天雷无妄』です」
「課題曲一緒だね」
「え。そうなんですか?」
「そうだよ。北宇治も今年は課題曲四番だから」
課題曲が一緒なことを伝えると奏は驚いたように声を上げたが、悠月は課題曲よりも自由曲の選曲に驚いていた。
「それにしても、『天雷无妄』か。かなりやりがいのある曲選んだね」
天野正道作曲『天雷无妄』は、全四楽章からなり、コンクールでは編曲の仕方によってその表情は姿を変えるため、どのような解釈をしてどのような編曲をするかによって主立つ楽器が変わる。そして、どのような表現をするかは演奏する側の曲への理解に委ねられる演奏団体によって様々な色を見せる曲だ。そして、奏者にも総合力を問われるためやりがいのあると言える。
奏もこの曲の難しさには実感するところがあるのか、難しい顔を浮かべている。
「悠月先輩達がやってた解釈の共有を各パートでやってそこで出た意見を幹部でまとめてっていう練習、話し合いを毎日のようにしてますよ」
「だよなぁ。今皆結構一杯一杯でしょ」
「……はい」
色々重なった結果かなり幹部、特に部長を支える立場でもある奏に負担が言っているように見える。
「久石ちゃん」
名を呼んで、姿勢を正して真っ直ぐこちらを見る久石と目を合わせて、悟る。この子は今、先輩たちに続いて全国金賞を獲らなければならないという使命を抱いてそれに雁字搦めになってしまっている。そして、身近な場所からかけられる期待という名のプレッシャーが重荷となってしまっていっぱいいっぱいになってしまっている。
この目は悠月自身、全国大会前に指摘されたものだからこそ、分かるものだった。だからこそ、何の気なしに悠月は話した。話してしまった。これが地雷であることにも気付かずに。
「目標に雁字搦めにならないようにね。立ち止まることも大事だよ」
「……か。それ」
「……?」
微かに聞こえた被せられた声に悠月は言葉を途切れさせ、耳を傾けた。
顔を俯かせてわなわなと身体を震わせていた久石は顔を上げてこちらをきっと見て叫んだ。不安定だったダムが決壊するかのように、感情の濁流が悠月へ押し寄せた。
「それじゃあダメなんです!私が成し遂げないといけない!だって、私は貴方に託されたから……!貴方はずっと立ち止まらなかったし、一人で皆の道標であり続けた!皆を率い続けた!だから、私も……っ!」
「…………っ!」
その先の言葉は続くことはなかった。だが、その先に続けたかったのだろう言葉は察することができた。貴方のようにしなければならない、といったところだろうか。なら、今、この子がありのままでいれず、あまつさえ音楽を純粋に楽しむことができていないのは、悠月のせいじゃないか。自分が見せるべき姿を間違えたのだ。見る側がどう捉えるのかも考えなければならなかった。
悠月は、ギリッと歯ぎしりした。自分が重荷を背負わせてしまった。何処かで自分のようにしなきゃいけないというプレッシャーを与えてしまっていた。これは、自分の尺度でものを見すぎていたからこその結果だ。そして、分かっていなければならなかった。この子がなりたい理想が何処に向いていたのか。奢りでなければその姿は悠月のそれだ。
なんたる失態。「皆が皆、貴方のように強いわけじゃない!」という言葉を今真に理解することになるとは。心の潜在的なところで勘違いしていたから、自分一人でなんでもできるのだと思い上がっていたのだ。いい気になっていたのだろう。自分も人に助けられて、支えられて生きてきた分際なのに。
この子なら大丈夫だろうなんてのは傲慢だったのだ。人はここまで脆い生き物で、本当は人の支えなしでは生きられないのだと、理解するべきだったし、一緒に学ぶべきだった。前に立つだけではいけなかったのだ。
この悲痛な叫びは、この子の必死のSOSだったのだ。現部長は、この子が一人で思いつめていることに気が付いていたのだろう。現部長には感謝しかない。あの電話がなかったらもしかしたらこの子は潰れていたかもしれない。そして、頼ることをしなかったのではなくできなかったのは、それだけ悠月が託したものを大事にしてくれていたのだろうと思う。
目尻から頬にかけて一筋の滴が伝う彼女を見て、どう声をかけるか言葉に詰まっていた悠月は不意にある記憶がよみがえった。
それは、今よりもずっと暑い夏のある日。夕日で世界が紅に染まっていた放課後、ある教室から流れてきた音色を聞いたときの記憶だ。どうして今思い出したのかは分からないが、悠月は確かにあの日、この音色に心を奪われた。この真っ直ぐな音をもっと聞きたいと願ったから、全国へ行きたいと思ったんだ。
だからこそ、断じて、こんな涙を流させて重圧に潰されそうな状態は許されない。どう声をかけるか迷ったが、ここまで自分たちを想ってくれている後輩に言うことなどこれしかないだろう。
「ひさい……奏ちゃん。ありがとう。僕が託したものを自分事みたいに大事にしてくれて。僕たち上級生を尊重してくれて」
「……」
嗚咽混じりの奏の声に悠月は真っ直ぐ奏を見据えて感謝を告げた。より届くよう、名前を口に出して。
謝罪ではないだろう。それはむしろこの子を傷つけかねない。「僕が高く見込みすぎていた」と捉えられたらもう目も当てられない。
そして、これを話せば逆効果になるかもしれない。だが、何かが変わることを期待して、悠月は言葉を紡いだ。
「ただ、一つ誤解をとかないといけないね」
「え」
「僕は、一人でなんでもしてきた訳じゃないよ」
そう。悠月の傍にはずっと個性的な仲間がいたのだ。悠月は伝えるべきだった。身近にいる支えとなる仲間たちがいることを。
「そんなこと……」
「僕の傍にはいつもアイツらがいただろう?君にとっての部長やパートリーダーだ。よく思い出して。部のこと全部、本当に僕がしていたか?してないはずだ。そして、アイツらに世話になる僕もいたはずだぞ」
「…………」
「君にしかなれない副部長の姿があるはずだよ。言ったでしょ?適材適所だって」
「……」
こくりと頷く奏の膝に置いた微かに震えるひんやりとした小さな手に触れて見上げるようにして奏を見つめる。
「ちなみに、僕は前副部長に『お前は人に興味関心が無さすぎるし人の心がねえ冷酷男だ』って言われたぞ。それ以降、人間関係の類は僕の管轄じゃなくなった」
「……っふふ。なんですか。それ。副部長そんな言い方しませんよ」
「ほんとだぞ。大体は。今はだいぶ良くなったと思うけどね」
こんな軽い冗談でも、少し本心から笑えている奏に安堵する。良かった。今からでも、立場は違えど隣に立てるよう悠月も頑張らねばなるまい。
「少しずつでいいから、皆に頼っていこう?部長は多分ばっちこいで待ってる」
「…………はい」
「それでもって、僕もばっちこいだぞ。後輩から頼られないのって少し寂しいんだからな。必要としてくれよ」
「悠月先輩らしくないですよ……かっこわるいです」
良かった。安心した。だけど、こんな辛い思いをさせて涙を流させてしまった報いは取らないとだろう。
「早速だけど、何かしたいことはあるか?もしくはして欲しいことでもいい」
「じゃあ、明日の縣祭り。デートしてください」
うっと思ったが、ここでやはり無理はダサすぎる。
「分かった。他に何かある?」
「あと、奏って呼んでください。久石ちゃんとか、奏ちゃんとか、ちょっと距離あって嫌です」
「分かった。じゃあ、奏。他にも何かある?」
「ん〜。あとは……じゃあ、家まで送ってください」
「いいよ。バイクは無理だから、歩きでね」
チラリと時計を見て、悠月は立ち上がって奏へと手を伸ばした。それを奏が掴んだのを見て支えるように引っ張る。
「ありがとうございました。本当に、気が楽になりました」
「ちょっとお話聞いただけだよ」
「それでも、です」
色々と、改めて自分の有り様を認識するいい機会になった。と悠月は窓から映る空を眺めてそう思うのだった。
空には、月のそばに星が寄り添うように浮かんでいた。
今回、ちょびっとですが、クロスオーバー要素入れました。
青のオーケストラの海幕高校とそのオーディションについてです。これに関しては何処かで出したいと思っていたので今回、出してみました。
ありがとうございました。
2025.10.28 修正いたしました。