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課題曲Ⅳ『マーチ「プロヴァンスの風」』。今年の吹奏楽コンクールの課題曲であり北宇治の選択したこと楽曲でもあるこの曲は、スペインから旅を始めた風がプロヴァンスを訪れ、そしてまたスペインへと戻ってくるというイメージから作られた曲だ。
まずプロヴァンスとは、フランスの南東部の地中海、そしてイタリア国境に面する地方だ。有名なところで言うと、同国最大の海港都市であるマルセイユ、アヴィニョン捕囚が行われフランス王の保護を受けた教皇がローマを離れてこの地を拠点としたことで知られるローヌ川沿いの都市であるアヴィニョンが周辺に位置する。
文化面では、芸術分野において古い歴史と権威を持っている。ベルリン国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と併せて世界三大映画祭の一つとしても知られるカンヌ国際映画祭、そして、オペラおよびクラシック音楽の音楽祭として1948年に始まり、現在ではヨーロッパ有数の音楽祭として知られ、特にモーツァルトのオペラ作品の上演で強く印象のあるエクサン・プロヴァンス音楽祭は芸術の道に進んだ者で知らないものはいないだろう。
ちなみに、余談だが、悠月が働いているジャズバーにもプロヴァンスの名のつくワインが数種見たことがあるが、値段を見て震え上がった記憶がある。
閑話休題。
この曲は、スペインの情熱的なフラメンコをイメージさせる曲調で始まる部分、マーチとして一本筋を通すために同じテンポの中でスペインの情熱溢れる躍動感とプロヴァンスのゆったりとした時間の流れを上手に共存させて表現しなければならないこと、そして、トランペットパートの跳躍、ここの音と音の間を切れ目なく滑らかに続けて演奏することを示すレガートの部分、他にもいろいろポイントはあるが今あげたところは完璧に仕上げなければならない。個人でも全体でも。
テンポの部分に関してはやはり打楽器が肝になってくる。ここが全体の屋台骨として完璧にできているか否かで統一感が出るかが決まる。打楽器だけではないが、各パート間で音を合わせて互いの譜面の把握に充てるのはどうだろう。滝に聞いてみてもいいかもしれない。
そして、最後に上げた跳躍のレガートの部分。ここのトランペットが僅かでもズレれば曲の出来は一気に変わってしまう。曲の終盤ということもあり審査員の記憶に残りやすい終盤に来るこの部分は早すぎても駄目、遅すぎても駄目の完璧に合わせなければならない。できなければ、もう挽回の余地はない。これが序盤であれば話は異なるのだが、今タラレバは必要ない。
表現に関してはまずは譜面を読み込むこと、音楽記号や演奏技法、表現技法などアーティキュレーションは演奏に反映させることは大前提。その上で、曲の背景、この曲で言えばスペイン、プロヴァンスのイメージを広げなければならない。
こういった表現は実体験であれば鮮明にイメージできるため音がぼやっとしないのだが、ここに関しては映像や写真の資料で補うしかないだろう。悠月は幼少期に両親と共に行ったことがありその時のことを覚えているからイメージに関しては問題ない。こればかりは自身の記憶能力に感謝である。
そして、自由曲、『三日月の舞』。問題の自由曲でもある。曲は典型的な、と言ったら怒られるだろうが定番の急ー緩ー急のABA形式。
この曲に大しての第一印象は、「選曲いいけどこれグレード4か5ありそうな難しさじゃないか?」と「これまた中々厄介な」という感想だった。冒頭のトランペットのファンファーレが終われば、木管は忙しなく連符の嵐だったりメロディに奔走し、金管はトランペットは冒頭のファンファーレでhighB♭に近い音を譜面が求めていたりソロで本当にhighB♭が出たり、最後にはトゥッティがあったりと全楽器パートに役割が多くどれか一つでも欠ければ悲惨なことになりかねない曲だ。
冒頭のファンファーレは何か始まりと希望の光の訪れを告げるかのような勇壮華麗な音色で始まるのに、ソロパートでは儚げでありながらも美しい三日月の淡い光のような音色へと移り変わる。そして、最後は満天の星空のように絢爛なトゥッティで終える。
縣祭りの翌日の朝、悠月は習慣となった朝練を終えて教室へと向かいながら黒、赤の二色のペンでポイントが書き記された譜面を見ながら課題曲、自由曲に関して思考を深めていた。
悠月の演奏は、譜面に忠実に、譜面の見える情報を全て音へ還し、その上で譜面の背景のイメージを表現するもの。ここにその奏者ならではな個性を載せるプロもいてそれも魅力的だが、悠月は一切の個性を排し譜面とその背景の解釈から広げたイメージを鏡合わせのようにそのまま音に出すのが強みだ。
譜面の解釈は個人によって異なるからそれが個性であると言われればそれまでだが、耳に入れる音にはなるべく癖のようなものは入れたくないというのが悠月の考えだからだ。
というか、プロでもない限りそんな個性は聴衆からすれば変な悪癖にしか映らないだろう。だからこそ、まずは譜面を完璧にするのだ。それに、奏者にとっては指揮者の意向が絶対だ。変な癖はない方が指揮者も扱いやすいだろう。
そんなことを考えているうちに、教室へついたため扉を開け教室へ入ると騒がしかった教室が一気に静まり返り、クラスメイトの意識が獲物でも捉えたかのように悠月へと向けられたのを感じた。
なんだろうと思いつつ、少しの居心地の悪さを感じながら席へと座ると突然後ろから何者かに肩に腕を回された。
「……おはよう」
「おはよう。じゃないだろ?裏切ったな〜?明瀬くーん」
「……身に覚えがないんだけど」
その正体は、普段から昼食を共にしたりもするバスケ部の世良だった。それはそうと、なんだ今日のこいつのうざいノリとテンションは。朝から胸焼けしそうだ。本当に身に覚えがなく、疑問符を浮かべていると世良が携帯の画面を見せてきた。
「彼女なんじゃないかって騒がれてるぞ。で、誰だよこの可愛い子」
「……いつの間に。まさか、これ広まってるのか?」
「この写真は今のとこうちの部だけだけど、現地で見たって声もあるぞ」
盗撮だろとか、プライバシーの侵害とか、個人情報の扱いどうなってんだとか色々言いたいことはあったが、こればかりは地元である以上仕方ないことと割り切るしかないのだろう。だが、根も葉もない噂が流れるのは困る。
悠月はそういった不満を深い溜息に変えじとっと世良を見る。
「付き合ってないよ。同中の先輩後輩なんだ」
「嘘つけよ。これ完全に浴衣デー……」
「付き合ってないぞ。これ以上は言わない。彼女にも失礼だろ」
「……なーんだ。そこまで否定するってことは本当に違うのか。分かった。それとなく広めとくよ」
こういった距離感を違えないところが世良のいいところだ。少し落胆したような声色でそう言った世良は正面へと移動し机の両端に手をついた。
「それと、これSNSに上がってたりはしないよな?」
「してないはず。少なくとも俺の観測範囲では」
「ならいいや。あとそれ消しといてな」
「おーけーおーけー。これ持ってるやつにも言っとくわ」
ありがとう、と悠月は告げてそんな朝の一幕が鐘の音と共に終わりを告げるのだった。
そして迎えた放課後。オーディションが近づいているからというのもあるだろうが、部員たちの顔には真剣さに加え何かに追い立てられているかのような張り詰めている緊張が混じっていた。
「全体練習はここまでとして、各パート各個人で出てきた課題をパート練習で解消してください。では、パート練習に移ってください」
「あの!先生。クラなんですけど……」
「分かりました。この後向かいますね」
「フルートもお願いします」
「分かりました」
全体練習が終わったあとも積極的に滝へと指導を乞うている各パートの姿をよく見れるようになったのはいい兆候だ。誰かが努力している姿というのは周りにもいい影響を与えてくれる。
そんな中、恐らく全パートの中でも一番と言っていいほど張り詰めており、どちらかというと刺々しい嫌な緊張感にトランペットパートは包まれていた。一触即発な危うい空気が充満している原因は言わずもがなオーディションによる自由曲のソロパートの選考である。
ソロパートの候補の選考は今年は年功序列ではなく実力順となっている以上、中世古だけではない。高坂と悠月も滝の選択肢には入ってくるだろう。高坂と中世古は普段の練習姿勢からもソロは自分が吹くのだという意志が現れている。
中世古をかなりの度合いで敬愛している吉川には、中世古など眼中にないとばかりにソロパートの練習をする高坂は生意気に見えて気に入らないのだろう。そして、これは悠月に対しても同じだろう。時たま、吉川から高坂に向ける目と同じものを感じることがある。実際、個人練習ではこのソロパートに比重を置いて練習をすることもあるからまあ理解できる。
一方で、悠月はそう無邪気にソロは自分が吹くのだという意志を持って練習をできてはいなかった。というのも、今時点で嫌でも目に付く、中世古が選ばれなかった時にどう燃えるかが分からない火種をどう解決するのかという問題が頭から離れないのだ。
これに関しては高坂と悠月、どちらが選ばれても起きるだろう。それが起こらないとしたら中世古が選ばれることだが、年功序列では選ばないといった滝がその言葉に反する選択肢を選ぶことはないと断言できる。あの人が自分の発言に責任を持っているのは既に分かっているから。
そして、この問題はある意味当事者の中世古に火種がある訳ではないというのが厄介だ。この数ヶ月で特に実感したことだが、中世古は優しい。後輩が選ばれたらどれだけ納得いってなかろうとそれを表に出すことはせずに応援するだろうし、後輩を尊重することのできる人だ。それがまた事態をややこしくするかもしれない。
悠月にもソロを吹きたいという願望はある。当然だ。だが、プロの父とレッスンという質と量で段違いに上を行っているであろう高坂と、量は断然悠月より多く基礎に重点を置いて良質な練習を積み重ねている中世古が競合相手だ。そもそも厳しい競争になることは明らかだろう。
練習の質と量や境遇を言い訳にするつもりは毛頭ないし、悠月に強みがあるとすればプロのトランペット奏者の演奏を頻繁に聞けること。そして、悠月の演奏の講評をプロに聞く機会がバイトに行けば必ずと言っていいほどあることだろう。だが、あくまで仕事は仕事だ。レッスンの場ではないから私情はなるべく見せてはいけない。
「……ふぅ」
思考が纏まらない。集中ができておらず注意散漫なのが音に出てしまっている。この状態で吹き続けても得られるものは少ない。一度外の空気を吸いに行こうと立ち上がる。
「個人練習行ってきます」
「あ、明瀬君。ちょっといいかな」
譜面とトランペット、水分とハンドタオルを手に教室を出ようとした悠月に、中世古に呼び止められその足を止める。
「ちょっと話したいことあるから、私も一緒するね」
「……?はい」
唐突な同行と話があるという言葉に頭に疑問符を浮かべながらも中世古と共に普段の個人練習で使っている場所へと足を運ぶのだった。
◇◆◇
「麗奈ちゃん」
「なに?吉沢さん」
明瀬と明瀬について行った香織を見送った私は静かに譜面に何かを書き込んでいる麗奈に話しかける。すると、私の呼び掛けに対して麗奈は心做しか声色を明るくして応えてくれた。
一人でいることが多く一人でも平気そうな振る舞いをする麗奈は、案外寂しがりというか構われたがりなところがあるのか話しかけると食いつきがいい。一人でも平気そうに振舞っていながら年相応に人肌を恋しく思うところに矛盾を抱えているのが微笑ましい。
そんな麗奈に、私は遠回りをせずに真っ直ぐ問いかけた。
「明瀬君。大丈夫かな」
「何が?」
「調子悪そうじゃない?いつもの明瀬君の音じゃないっていうか」
「大丈夫。心配は要らない」
私の杞憂に対して即座に断言する麗奈に私は少し驚く。麗奈は、自分の音に絶対的な自信を持っていることはその音からも確かに感じられた。そして、それはまるで私が一番なのだと言っているようで誰も眼中にないと言っているように私には感じられたのだが、どういう訳か麗奈は明瀬へは他の同パートの先輩に対しては見られない敬意があるように見える。
「どうして?」
「明瀬君は、私が唯一同年代で敵わないと思ったトランペット奏者だから、大丈夫。絶対に立て直す。というか、オーディションにコンディションを整えてこなかったら許さない」
どうやら、麗奈と明瀬の間には私には知りようのない因縁があるようだった。そういった好敵手同士という関係に少しの羨ましさを感じつつも、今の私の実力とは釣り合わない嫉妬が口から漏れ出た。
「……いいなぁ。ライバル関係ってやつだね」
「何言ってるの?貴方と彼の関係もいいと思うけど」
その麗奈の言葉に私はえ、と困惑が表に出た。麗奈は譜面から私へとその深紫の瞳に私を映して告げた。
「私から見れば師弟関係の貴方と明瀬君の関係もいいと思うけれど」
「で、弟子なんて大袈裟じゃあ……」
「明瀬君、言ってたけどね。ここまでしっかり教えたのは貴女が初めてだから同じ楽器の最初の弟子みたいなものなんだって。指導のアプローチが合ってるかは分からないけど楽しそうにしてくれているのが見れるのが一番嬉しいとも言ってた」
「そんなこと……」
そんなことを思ってくれていたのか。学年は同じだけどただ他の子と同じように初心者としてしか見られていないものだと思っていた。
麗奈は、貴女自己評価低すぎでしょとでも言いたげな呆れているような表情を浮かべてこちらを見ていたが、小さく息を吐いた。
「少なくとも、彼はそう思ってるみたいだけど。というか、私も私で今明瀬君に気を配ってる余裕ない。こういうのをチャンスって呼ぶのは気が引けるけど彼が停滞しているうちに私もソロに一番近い場所にいかなきゃなんないから」
「あ、そうだよね。競争相手の話しちゃってごめんね」
「気にしなくていいけど、貴女はどうなって欲しいの?誰になって欲しいの?」
「……」
再び顔を譜面に向けた麗奈の横目が私に刺さる。その言葉に私は少し逡巡した。明瀬は私のことを弟子のように思ってくれていた。なんで私は明瀬のことを心配しているのだろう。
そんな疑問への結論は、不意に耳に入ってきたトランペットの音色によって瞬時に思い浮かんだ。その音色は、先程まで私が向けていた心配や不安と言った杞憂をまるで笑い飛ばすかのようだった。情緒豊かで表現に溢れ、それでいて作曲者へのリスペクトすら感じられる譜面を丁寧に、完璧に汲み取っていることが分かる繊細な表現技法に溢れたもので。
「ね。言った通り、彼は勝手に立て直す。そうじゃなきゃ駄目なの」
「……!」
そうだ。私は追いかけたい、ああなりたいと願って憧れ誰の音よりも聞き続けたあの音に吹いて欲しかったのだ。自由曲『三日月の舞』のソロパートを。
「ごめんね。時間取らせちゃって。でも私は滝先生が一番いいと思った音ならそれがソロなんだと思う」
「ちょっと。そこは彼じゃないの?」
「その彼が私に言ったの。『いい音には素直であって欲しい』って」
「……ふぅん。そ」
ごめんなさい。明瀬君。私は、貴方にソロになって欲しいけれど、貴方の言ったことも大事だと思うから誰かに願望を向けることはしないことにする。それに、私の応援がなくとも貴方ならできることは今の音で分かったから。
あと、貴方は私のことを弟子みたいなものと言ったけれど、今の音を聞いて私も心が決まった。私は憧れた貴方に並ぶ音を出せるようになりたい。目指すのは麗奈と同じく貴方と争う立場だ。
そう思ってからの行動は早かった。私は、即座に相棒を手に取り譜面に向き合うのだった。
◇◆◇
何気に北館と南館の間のベンチは穴場となっている。この場所が穴場となっている理由としては木管は外で吹くことは楽器の特性上タブーに近いから来ない、パーカッションはそもそも不可能、低音は楽器が重いから現実的じゃない、ホルンやトロンボーンは何気に結束力が強く個人になることがあまりない。理由としてはそんなところだろう。
「明瀬君」
一度頭をリセットするために窓の外で空に浮かぶ雲をぼけっと眺めていると、中世古から名を呼ばれて言われ顔をそちらに向ける。
「最近、不調だね。大丈夫?」
「……はい。オーディションまでには立て直します」
「ならいいの。じゃあ、本題に入るね」
今のが本題ではなかったのかと思ったが、わざわざ二人になってまでするような話が今のだけということはないだろう。悠月がそう納得している間もなく、中世古はいたって真剣な表情を浮かべて真っ直ぐ悠月を見て言葉を続けた。
「手は抜かないで、自分だけに集中してね。手加減されてまでソロになりたくはないし、そういうのは屈辱だって思うから。それに、そういった意識は一生懸命努力してる人に対して侮辱になるよ」
ガツンと頭を殴れ付けられたように目の前が真っ白になった。そのくらいの衝撃的な言葉で、悠月が抱える懸念を軽く吹き飛ばすような発言だった。そして、ごくごく当たり前のことを中世古が言ったことも分かっていた。
「私たちの目標はあくまで『全国大会出場』だよ。私に対して先輩だからとかそういう気遣いは要らないからね。滝先生も言ってたでしょ。私は実力はないけど吹きたいって言うような尊敬できない先輩にはなりたくないの」
苦渋を飲んだような表情を浮かべて瞳を震わせる悠月に対して、中世古は普段と変わらない様子で続けた。
「賢くてあすかと同じくらい見てる場所が私たちと違う君の事だからオーディションの後のことも考えてくれてるんだろうけど、そこは私たち三年生に任せてくれないかな」
そうではないだろう。そうではないのだ。貴女が選ばれないことで悲しむだろう人がいる。それが火種となって部全体に悪影響を及ぼしかねないのだ。そういった叫びは口から出ることはなく、心の叫びとして泡沫のように儚く消えた。
「もし、明瀬君や高坂さんがソロに選ばれたとして、それは私の実力不足だったってだけ。悔しさはあるだろうけど、それを他責はしないしそれは私だけのもの」
その言葉のあと、呼吸を置いて中世古は言葉を紡いだ。
「その時に不平不満の悪意に満ちた糾弾の矛先が二人に向くようなら、それを逸らして説得するのは私の、三年生の役割。その時、納得できるかは分からないけれど、私の感情は関係ないんだよ。それが先輩としてしなければならないことなの。君の努力も絶対に正しいものなんだよ。それが踏みにじられるような真似、あっちゃ駄目」
「……先輩はいいんですか」
「最高の結果は自分で掴むものでしょ?明瀬君が去年やったみたいに。大丈夫。私も、譲るつもりはないから。最後の年なんだから、吹きたいところを思いっきり吹きたい。それに皆自分が大事なのは変わらないの。明瀬君も同じように自分を大切にしていいんだよ」
「……」
なんて格好のいい先輩なのだろう。少しでも悩んでいた自分が矮小に見える上、馬鹿みたいだ。そして、なんて失礼を自分はしていたのだろうと自責の念に駆られた。
「すみませんでした」
香織は先程の真剣な表情とは一転、普段の微笑みを携えた表情を浮かべて、言葉を綴った。
「いいの。それに、本気の貴方と真剣に争いたいのも本音だけど、私は明瀬君の音のファンでもあるの。一ファンとして最高の演奏をして欲しいのに、悩みで本来のコンディションを崩してるのは本意じゃないから」
問題が解決した訳ではない。中世古が言ったことは問題の先送りに過ぎないことは悠月も中世古も分かっているだろう。だが、それ以上に目先のオーディションに懸ける想いがあることが分かって、悠月も決心した。
「もし明瀬君が心配してることが起きちゃっても起きた時にどうするか考えたらいいんだよ。よく言うでしょ?大事なのは初動だって」
「……確かに、そうですね。でも、敵に塩を送るような真似してよかったんですか?」
「敵じゃないよ。仲間だよ。最高の音にするために上手い人が吹く。それが一番じゃないかな?」
「……そうですね」
見た目よりずっと強かで、ちゃんと自分の像を確立した芯の強い先輩の姿に敬意を払いながら悠月は愛器を胸の前に構え直した。不甲斐ない演奏をしてしまってごめん、と内心で謝罪をしながら。
「でも、意外だったなぁ。明瀬君にも悩みがあったんだね」
「僕を一体なんだと思ってるんです?」
「あはは」
こんな自分でも高校生だ。悩みくらいある。それに、中学の頃は上級生との諍いを考えなくていいように自分が上級生になるまで待ったのだ。切り捨てたとも言うが。
「どうも僕の音は素直なところがあるみたいで。口で言うよりも音で奏でる方がずっと本音が出ると思うので、ソロパートを今から吹きます」
「うん」
「それで、判断してください。僕が本気か否か」
「うん。何の憂いや悩みのない君の音色を聞かせて欲しい。きっと凄いから」
「分かりました」
それから、悠月は心が晴れやかになるのを感じながら息を吹き込んだ。その演奏は、今までで一番と言っていいくらい音色が澄んでいて、本来の自分の音が出ていると言えるものであったのは言うまでもない。
そして、覚悟は決まった。それが例え自分を滅ぼしかねない過酷な道であったとしても、先輩としての姿を見せてくれた、言葉をかけてくれた先輩の想いを反故にするようなことはしたくない、そう思った。
時間は回り、幾度の日の出と日の入りを繰り返し、スケジュール帳のカレンダーのバツ印が増えていく。とうとう、運命の日がやってきた。努力は続けてきた。停滞こそあったが、できることは尽くしてきた。あとは、現状の最高を出すだけだと皆が思っていることだろう。
音楽室には様々な感情が渦巻き緊張感が漂う中、滝が口を開いた。
「ではこれより、オーディションを始めます。もう既に皆さん知っている事だと思いますが、私たちが参加するA編成でのコンクールは一団体につき最大五十五人までしか参加することができません。つまり、ここにいる何名かは必ず落選してしまうことになります。皆さん、緊張していますか?」
「してまぁす……」
その返事に、まばらに笑いが起きる。滝も表情を緩ませる中、悠月は無表情でいた。もしかしたら自分のせいでソロになれない人がいると思うと笑うに笑えない。ただ、それが音に影響することももうない。あんな檄を貰ってしまったのだから。
「ですよね。ですが、ここにいる全員がコンクールに出るのに恥じない努力をしてきたと私は思っています。胸を張って、皆さんの今までの努力をこのオーディションで見せて下さい……では、始めます」
滝のその言葉に、よろしくお願いします、という声が音楽室の空気を震わせた。
トップバッターは、トランペットパートだった。そのため、他のパートがそれぞれの練習場所へと移動する中、悠月は音楽室の前に置かれた椅子に腰掛けていた。
三年生からオーディションを行うということで、一年生である悠月たちは後半となる。音楽室からは、音が流れてくる。そのどれもが高いレベルに纏まったもので、それぞれが努力をちゃんとしている事が如実に現れていた。
音楽室から加部が出てくると同時に中から「次の人どうぞ」という声が掛かる。いよいよ悠月の番だ。
「頑張れ」
「……!吉沢さん。ありがとう。任せて」
最後にうっすら口角を上げて中へ入る。そして、滝からの言葉で悠月は滝と松本から離れた場所で立ち止まり二人と向き合う。
「学年と名前、担当楽器をお願いします」
「一年、明瀬悠月です。トランペットパート、トランペット担当です」
「……落ち着いているな。緊張はないか」
目線だけを上へと上げ、悠月を見据える松本に悠月は頷く。
「誰かに聞いてもらうのは、慣れてます。オーディションも、コンクール出場経験があるので」
「そうか」
「明瀬君はいつからトランペットを?」
松本が視線を下ろしたのと入れ替わりで滝からそんな質問が飛んできた。悠月は、記憶を掘り起こしながらその質問に答える。
「小学校に上がる前からです。なので、もう十年くらいになりますね」
「十年ですか。それは凄いですね」
滝が本当に驚いたといった声色で感心している。しかし、そんな会話もそこそこに「では、」と滝は切り替えた。
「チューニングはもうしてますね?」
「はい」
「では課題曲から始めましょうか」
それから、滝の指定箇所を吹いていく。身体は確かに高揚感に包まれているのに、鼓動は穏やかで、脳は澄み切っている。間違いなくベストコンディションと言えた。
時を忘れ、ただひたすらに愛器に息を吹き込んでいく。
そして───。
「……はい。ありがとうございます。次の人を呼んできて貰えますか」
「、はい」
じんわりと感じる体のこの暑さは、高揚感の余韻によるものか、夏の暑さによるものか、そんなことを酸欠気味でぼうっとした頭で考えながら音楽室を後にした。
「……良い音だった」
「ん。ありがとう。二人とも頑張って」
「当然」
「うん。頑張るよ〜」
そんな返事に、個性が出るなぁなどと思いながら悠月は二人に背を向けるのだった。
◇◆◇
その音が空気を切り裂き耳に届いた瞬間、心臓が跳ね全身が粟立つのを感じた。
まるで吹っ切れたかのような音だけに集中した彼の音はここまで昇華するのかと、素直に感動した。
それと同時に確信してしまった。敵わない、と。
美しくも儚く、力強い三日月が舞っているような洗練された音色に、あまりにも残酷に自分の音との差を痛感せざるを得なかった。
自分がソロに、という淡い期待は妄想に過ぎなかったのだと突きつけられてしまった。
悔しくはあったが、悲しくはなかった。いっそ清々しくすらあった。
そして、夢想した。
全国の舞台で彼が吹く姿を。音色を。きっと、聞く人すべての心を動かすことができるのだろう。
それが自分だったら、なんてことを思わないわけではないが、この音を聞いてはそんなこと言えない。
まだ、結果は出てはいないけれど、きっと審査する先生方も思うはずだ。
自由曲、『三日月の舞』のトランペットパート、ソロ。その生徒の名は───。
◇◆◇
そして、運命の日を迎える。
ここから長い旅路が、また新しい舞台へと変化する。
ありがとうございました。
多分中世古先輩は後輩の不調のフォローをできる先輩。