想いを音色に乗せて   作:猫柳/nekoyanagi

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第013曲  結果

 

 

 

 オーディションを終えた吹奏楽部員に即座に結果が発表されることはなく、北宇治では悠月にとっては二度目となる定期考査を迎えていた。考査前の一週間は中間考査の時と同様、部活動は禁止の学習週間となっており、放課後の練習はない。

 

「あ、シャー芯……」

 

 そんなこんなで今日はシフトも入っていないため自宅で勉強に勤しんでいたのだが、シャーペンの芯がなくなりそうなことに気づいた。

 

 普段はストックを置いているのだが、オーディションだったりバイトだったり勉強だったりで買いに行っていなかったことを今更思い出した。

 

 悠月が時間を確認すると時間は18時に差し掛かっていることを机の上に置いているデジタル時計が示していた。

 

 この時間ならまだ近くの本屋が開いているはずだ。そう考えて買いに行こうと立ち上がって伸びを一つすると、凝っていたのか肩と背中からバキバキ、という子気味のいい音が鳴る。

 

「……走って行くか」

 

 そんなことを独り言のように口から零して、普段使っているウェアに着替えて気分転換に本屋へ運動も兼ねて走りながら向かっていた。

 

 最近は授業の体育以外で運動をしていないこともあり丁度いいだろう。

 

 吹奏楽部は体育会系、なんて言われたりもするが、それは全国マーチングコンテストを目指すような高校───立華や明静工科など───を指し座奏メインで活動する北宇治などは練習量こそ体育会系と変わらないだろうがその時間の大半は座っているため運動はしていないのだ。とはいえ、スパルタなところがあることや腹筋など普通の文化系部活動ではしないようなこともしている訳だが。

 

 本屋に着いた悠月は、一先ず主目的である文具コーナーでシャー芯の替えを三つ手に取ってから本屋の中を散策した。

 

 本屋に行くと毎回特に欲しい物が決まっているわけではないのに見て回ってしまう経験、ないだろうか。悠月は毎回うろうろ見て回ってしまう。

 

 例に漏れず、今回も悠月は色んなコーナーを何か面白そうなものがないか見ているうちに、棚一面に広がる赤が視界に広がった。どうやら参考書コーナーに来ていたようだ。棚一面の赤をよく見れば、その一冊一冊に大学名が刻まれている。

 

 今使っている参考書の知識定着ができているのは高校最初の全国模試で分かったこともあり丁度いいタイミングだから次に使う参考書も買うか、と目的の物を探していると正面の曲がり角から姿を見せた人物との思わぬ再会に声を上げた。

 

「斎藤先輩?」

「え?あ、明瀬君だ。オーディションにテスト、お疲れ様だよ」

「先輩こそお疲れ様です」

 

 そこには、北宇治の制服を着た悠月としても関わりのある先輩がいた。

 

「明瀬君も参考書買いに来たの?」

「はい。シャー芯買いに来たんですけど、参考書も買おうと思って」

「そうなんだ。あ、明瀬君にも私の部内での今後の立ち位置を言っておこうと思うんだけど今いい?」

「……!はい」

 

 斎藤の言葉に悠月は自然と背筋を正した。これは真摯に受け止めなければならないことだ。おそらく、悠月の言葉がこの人の将来にも影響してくる事だから。

 

 そんな悠月の様子に気が付いたのか斎藤はくすりと笑って告げた。

 

「そんなに身構えなくてもいいのに。このことは先生方と晴香とあすか、あとは香織にも言ったことなんだけどね。私は大会への出場を辞退して、受験勉強に専念することにしたの」

「……そうですか」

「重く捉えないでね。君のおかげで後悔しない選択を見つけられたんだから」

 

 悠月はそう相槌を打ってからも、斎藤の説明は続いていく。部内の混乱を避けるために公表はオーディション後とすること。オーディションは形式上は受けたが合格することはないこと。そして、籍は吹奏楽部に置いたままにしてもらう代わりに、サックスパート及びB編成になる部員の指導やサポートをする役割を担うこと。

 

 斎藤はそれらを話し終えて、一つ呼吸を入れて再度口を開いた。

 

「というわけだから、引退までだから十月までかな?練習に出る頻度自体はあまり多くはないだろうけど、よろしくね」

 

 斎藤の表情から察するに前向きな決定と捉えていいのだろうが、悠月としてはこちらの我儘を通してもらう形となることに申し訳なさを感じないといえば嘘になる。が、こういう決断をしてくれたことへの感謝の方が大きかった。

 

 それを示すために、悠月は腰を曲げた。

 

「ありがとうございます。あと、よろしくお願いします」

 

 今、斎藤は十月まで、と口にした。それはつまり、全国大会まで進むと信じているからこそ出る言葉だろう。

 

 その信頼を無為にしてはいけない、と悠月はより一層決意を固くするのだった。

 

 

 

 

 

 

 それから数日後。悠月は、返却された答案のどれもが赤丸のみで埋まっているのを見て、少しの安堵の後に本番は大学入試だと気を引き締め直す。通知表は終業式で返されるようだからまだ分からないが、この結果なら通知表も百で埋められるだろう。全国模試も同じ結果だから勉強に関しては今のところは順調だ。

 

 ホームルーム後、教室のしこかしこから聞こえてくる悲鳴の声や歓喜の声で混沌と化している教室を早々に抜け出し、悠月は音楽室へと来ていた。今日がオーディションの結果発表ということもあり、音楽室内には緊張感が漂っていた。

 

 全員が揃ったタイミングで丁度よく松本がバインダーを手に勢いよく入ってきた。それによって、先ほどまでの緊張感はより高まりピンと張りつめた空気となった。

 

「それでは、オーディションの結果を発表する前に、一つ。大事な伝達事項がある。斎藤、前へ」

 

 松本のこの指示に、斎藤が松本の隣に立ち皆を向き合う。どこかからか、斎藤の名前を呟く小さな声が聞こえたが、斎藤はそちらに目を向けることなく、真っ直ぐ前を向いた。

 

「先生方や一部幹部と話し合って、大会への出場を辞退することになりました」

 

 その声に、ざわめきが起きるが斎藤は構わず続けた。

 

「理由としては受験勉強に専念するためです。ただ、私としても部にどうにか貢献したいという我儘から、吹奏楽部に籍は置いたまま、頻度自体は多くはならないと思いますがB編成のサポートをしながらサックスパートにも自分の経験を還元していきたいと思っています。これは前向きな、ポジティブな決定ですので皆さん十月まで引き続きどうぞよろしくお願いします」

 

 退部するわけではないと分かったからか、困惑はそこまで大きくはなっていないようだった。その証拠にサックスパートの面々はほっとした表情を浮かべている。

 

(……?)

 

 ふと、視線を感じてその方向を見れば松本が微かに笑みを浮かべてこちらを見ていた。そして、音もなく口を動かしていたが多分、『よくやった』だろうか。先生も心配はしていたようだ。なんとかいい方向に落ち着かせることができてよかったと悠月は心中で胸を撫で下ろす。

 

「では、合格者を読み上げる。名を呼ばれた者は返事をするように」

 

 その言葉に再び先ほどまでの緊張感が場を支配する。

 

「まずパーカッション。田邊名来」

 

 そして、これを皮切りに次々と名を呼ばれていく。自身の名を呼ばれることなく次のパートへと移り、自身が落ちたことを自覚した者がすすり泣く声が聞こえてくる。他人事ではないと分かっているから、誰も慰めを口にできない。

 

 いつの間にか手を強く握りしめていることに気が付いた。手には汗を握っている。中学高校とオーディションを経験してきたが、これにはいつまでたっても慣れることはない。選ばれた者は、最後まで最善を尽くして走り続けるという責務と選ばれなかった者の無念をその身に背負い、選ばれなかった者は、想いを託し見届ける役目を担う。どうあっても、誰もが報われるわけではなく、明確に立場が分けられるのがこのオーディションだ。

 

「では、最後にトランペット」

 

 とうとう、トランペットパートを松本が読み上げた。一つ、大きく息を吐く。

 

「中世古香織」

「はい」

「笠野沙菜」

「はい」

「滝野純一」

「はい」

「吉川優子」

「はい」

「明瀬悠月」

「はい」

「高坂麗奈」

「はい」

 

 まず、一つ。コンクールメンバーに入ることはできた。松本は続けて口を開いた。

 

「以上六名。ソロパートは明瀬悠月に担当してもらう」

 

 選ばれた。これでどうなるのかは「えっ!」という声が悠月の返事に紛れながらも音楽室の空気を震わせたことで嫌でも理解できた。その上、背中に数多の視線が突き刺さる。

 

 悠月は瞬きよりも少し長い間目を閉じてから開く。そして、返事を口にした。

 

「───はい」

 

 耳に届いた困惑の声、なんでお前がという色の乗った悠月に突き刺さる視線から、これがこの部の意見なのだということは嫌でも理解できた。中世古ではないのか。そう思っているのだろう。だが、中世古は言った。「手は抜いてくれるな」と。そして、お互いの全力をぶつけた結果選ばれたのが悠月だった。ならば、悠月としては選ばれた者として最高の演奏をするだけだ。

 

 そして、選ばれたのが悠月だったとなれば、実力が一番高かったのは悠月ということに他ならない。決して口には出さないが。そこに他者からの異論などあってはならないが、このオーディションの結果に対して確実に不満は出てきてしまった。それは放置することはできないだろう。悠月もできることはしないといけない。

 

 ここで高坂が選ばれなかったのは、本人には悪いが部にとって最悪手を踏まなくて良かったと言うしかない。悠月は集団の中での波風立たない振る舞いを習得しているが、偏見で申し訳ないがあの性格の高坂がそれを身につけているとは思えない。

 

 推進力高く障害を吹っ飛ばしながら真っ直ぐ成長できるのも取り柄だが、組織の中では成長の妨げになる障害を避けながら成長する方が余計な障害は発生しないし円滑に事が進む。

 

 それに、悠月の憶測が正しければ高坂は滝の知り合いだ。それは、高坂があれだけの実力を持っていながらコンクールという面で結果を残していない北宇治に来たことや滝への他の人と異なる初めから高かった評価、滝へ向ける目線、表情、態度から推測は立てられる。

 

 もし仮にそれが事実ならそのウィークポイントは致命的だ。悠月自身がそういった不正はないと信じたいのもあるが、そんな根も葉もない噂で言われのない批判を滝も高坂も向けられる筋合いはないと悠月ですら思う。

 

 再度、瞑目する。先ほどよりも長く。目を開く。もとより、傷つける覚悟も傷つけられる覚悟もしてきた。都合良く進む方が稀であることもよく理解しているつもりだ。

 

「以上がコンクールA編成に出場する。選出されたメンバーはより一層練習に励むように」

 

 「はい!」という返事が混乱の最中でも出るのは、もう癖として根付いているのだろう。松本はその返事に頷いて、続ける。

 

「B編成となった者もA編成に劣らない指導をするから気を抜かないように。以上!解散!」

 

 松本が去ったあとも、音楽室には言いようもない異様な空気が漂ってい残っていた。中には、「香織の方が練習してたくない?」といったオーディションの結果に対する不満が悠月の無駄にいい耳が拾う。オーディションの結果、と言うと語弊があるか。より具体的に言うとソロパートに対する選考の不満と言った方が正しいだろう。

 

 どうする。どうやって収束へと持っていく。どうやって互いの妥協点へと着地させる。一番迅速に、皆を納得させられるのは中世古がこの結果に納得していることをアピールすることだが、今選ばれなかったばかりの彼女にそれをさせるのは酷だし、その道は自分が楽なだけだ。それに、大半がそれで納得するとしても今悠月を親の仇でも見るように睨んできている吉川がそれで納得するとも思えない。

 

 上級生からしたら、突然決まったオーディションという印象が強い。今回、三年は全員一応は選出されたからオーディションそのものに対しては理不尽に思っている人は少ないだろうが、今まで通りであったならソロパートは三年の中世古以外ありえずそれを押しのけて一年生がソロになったことに納得していない上級生は多いだろう。そう思うのも理解できる。

 

 譲るという選択肢はありえない。中世古がそれを望んでいないこともあるが、前例を作ることはオーディションの存在意義が揺らぐ上、滝の求心力の低下にも繋がってしまう。それに、落ちたメンバーへの顔向けができないし納得できないだろう。なぜソロパートだけ特別なのだ、と。そうなれば最悪部の空中分解に繋がってしまう。

 

「皆、ちょっといいかな」

 

 解決策を見いだせず、こんなことなら中学の頃も一年生から何とか上手くして経験を積んでおけばよかったなどと今後悔しても後の祭りといった思考に流されかけていると、そんな声が悠月の耳へと吸い込まれた。

 

 ハッとして下がっていた顔を上げると、松本が立っていた場所に中世古が入れ替わって立っていた。その顔には、何か決意したようなソロに選ばれなかったという事実を突きつけられたばかりとは思えない意志の強さを伺える表情を浮かべていた。

 

 「香織……?」という声は部長のもの。「香織先輩……?」という声は吉川のもの。中世古は、皆を少し後ろから見守り自ら前に立つタイプではないと思っていたのだろう、声を漏らした二人以外にも困惑を浮かべている者は多くいた。

 

 そんな注目を集める中、中世古は口を開いた。

 

「私は、この結果に不満は無いよ。むしろ、これ以上ないくらいの選出だと思ってる。だから、松本先生と滝先生が選んだこのメンバー、この編成が全国大会を目指す為のベストなんだってこと皆も理解して欲しいかな」

 

 声にならない嗚咽が聞こえてくる。しかし、悠月はそちらを向くことなく、中世古へと目を向け続ける。「それに、」と中世古は言葉を続ける。

 

「私が言ったの。全力で、本気で、オーディションに臨んでって。そのお願いに想像を超える音で応えてくれたんだから、私が吹きたいなんて傲慢なことは言うつもりないよ」

 

 その言葉は実質的なソロ辞退。それに、とうとう耳に聞こえていた嗚咽は慟哭へと変化する。悲痛な泣き声が、悠月の胸の奥底へと突き刺さる。中世古は、涙を流す少女に応援してくれていたことが分かったからか嬉しさを滲ませた微笑みを向けてから、真っ直ぐ悠月へと視線を送った。

 

「ソロ、おめでとう。頑張ってね」

 

 口を開こうとして、言葉に詰まる。この人のことを、悠月は評価していた。でも、それでも過小評価だったのだと知らしめられた。これほどまでに、尊敬せざるを得ないと思わせてくれるような人と悠月は初めて会った。そして、痛みを受けながらも、力強く奮い立たせる言葉を送ってくれた人に対して相応の立ち振る舞いを取らなければならないことは明白だった。

 

 悠月は立ち上がり深く、最敬礼と呼ばれるそれをする。そして、口を開いた。

 

「ありがとうございます。選んでいただいた者として、皆さんに、中世古先輩にこれで良かったと思っていただけるに相応しい演奏をします」

 

 そして、頭を上げ、中世古から体を逸らし、こちらを見る面々に対しても同じく頭を下げるのだった。

 

 これで収束するかは分からない。だけど、一人の先輩の手によって限りなく不満は収まるだろう。悠月にはできない方法だった。尊敬しかない。今宥められながら涙を流す少女に対しても、先輩を頼ることになってしまうだろう。

 

 悠月にできるのは、中世古の想いも上級生全員のプラスもマイナスもあるだろう想いを全て背負ってコンクールに挑むことだ。成功か失敗かは、彼らが最後に吹いたのが悠月で良かったと思うかどうか。ここからは実力で示すしかない。目の奥に、静かに、それでいて轟々と燃え盛る青い炎を宿すのだった。

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

───ソロパートは明瀬悠月

 

 その決定が聞こえた時、悔しさは勿論あったが、「なんで……!?」という思いはなく、むしろ、周囲のざわつきに対して「ああ、彼が懸念していたのはこれか」と納得の方が強かった。確かにこれを予見していたのなら悩むのも分かる。だが、いい音には良いと言わざるを得ない。私はあの音を聞いてそれを実感した。多分、先生方もそう思われたのだろう。

 

 彼は彼にできる全てをしてソロパートの座を勝ち取った。そして、それは私の我儘でしてもらったものだ。なら、ここから動くべきは私なのだ。

 

 彼と約束もした。もしこうなった時は上級生の立場として貴方を守るといった。なら実行しないといけない。私が、私の、中世古香織の意見を周知させたことによって、不穏分子は限りなく取り除けたと思う。

 

 そして、今。普段のパート練習場所で、私は最後に鎮火させるべき、私を敬ってくれて私がソロになるべきだと願ってくれている子と対面していた。なんて皮肉だろう。部のために最後に取り除かなければならないものが、私を慕ってくれていた子だなんて。

 

 嗚咽の度に背中を震わせる彼女の背を擦りながら、私は口を開いた。

 

「優子ちゃん。ありがとね。私がソロになれるよう応援してくれて」

「……なんで、あんなこと言ったんですか。あいつは、明瀬は世渡りがうまい奴です。だったら、滝先生に……!」

 

 私は、その先を言えないように優子ちゃんの口に人差し指を当てて遮る。その先は口にしてはいけない。どう続くかなんて容易に想像がついた。「滝先生にソロにしてもらえるよう取り計らったかもしれない」と言いたいのだろうが、それだけはないことは彼のあの悩みに満ちた音を聞いていればよく分かることだ。

 

「駄目だよ。優子ちゃん。それ以上言ったら。私のことを慕ってくれているのならそれ以上言うのはやめて。それは彼への侮辱になるし、彼の不調を傍で聞いていた優子ちゃんなら分かるでしょう?明瀬君が悩んでいたのは今年が最後の私のためだよ。そんな真面目で優しい子がそんな卑怯なことするわけない」

「……ッ!……」

 

 優子ちゃんは図星だったのか、びくりと身体を震わせる。そして、鳴き声交じりに声を発した。

 

「でも、香織先輩。あれだけ、練習してたのに、その努力が報われないなんて」

「ありがとう。優子ちゃんにそう言ってもらえるだけで、報われるよ」

 

 本当にそう思う。優子ちゃんは私の努力を見てくれていて、それを見て私がそろにふさわしいと思ってくれていた。それだけでも、ソロに落ちたショックによる傷が洗われる思いになるし、頑張ってよかったと思える。でも、オーディションが私たちの終わりではない。

 

「優子ちゃん。オーディションで終わりじゃないんだよ。選ばれた私たちがしないといけないことは何だろう?」

「……コンクールに向けて努力すること、ですよね」

「そうだよ。オーディションで選ばれなかった人たちの分まで私たちは頑張らないといけないの」

 

 松本は言っていた。「選ばれたメンバーはより一層練習に励むように」と。そして、彼は、明瀬君は言った。「選ばれたものとして相応しい演奏をする」と。強い意志を乗せたあの瞳はもう前を向いていた。

 

 ならば、私ももう過去のこととなったオーディションのことを引き摺るわけにはいかないのだ。

 

 それから、優子ちゃんを先に帰した私は、斜陽を背にしながら影を差す譜面を見やっていた。

 

 『絶対ソロ吹く!!』。そう赤で書かれた譜面を少しの後悔を乗せながらなぞる。そうして不意に頭をよぎった記憶は、私を一番慕ってくれているだろう後輩との会話だった。

 

 

『先輩はトランペットが上手なんですね……!』

 

『上手じゃなくて、好きなの』

 

 

 規則正しい足音を慣らしながら視界の上部に入っていた黒のストッキングを纏う足が視界に入ってきた。

 

 その足が誰のものなのか大体の予想を立てつつ足をなぞりながら顔を譜面から上げると、赤縁眼鏡をかけたずっと見続けてきた姿がそこにはあった。その人物の名を呼ぶと、いつもの明るい声色で手をこちらにかざす仕草をした。

 

「……あすか」

「やっ!」

 

 その何でもないような挨拶にくすりと笑みを零して、安堵して、不意に視界が歪むのを感じた。しかし、それを抑えるための堤防は既に感情の奔流に壊されてしまった。ここにはもう、私とあすかしかいないということも影響していたのだろう。

 

 先輩としての姿で隠されていた感情が本心を曝け出すように私は涙を流す目を両手で覆い、嗚咽を零し続けた。教室には私の嗚咽が響き渡った。

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 あまりに自分は無力だったのだと実感した。

 

 その慟哭を、悠月は教室の外から隠れるように聞きながらそんなことを思う。半ば引き摺るように腕を引っ張ってきたこの人の目的はこれを聞かせるためだったのだろう。明るい茶髪の上に大きなリボンを乗せたこの先輩は、こちらを睨みつけながら膨れっ面をしていた。

 

 しかし、それは「なんでお前がソロなのだ」というものではなく、どちらかと言えば問うてきているかのようだった。「お前はこれを背負えるのか」と。しかし、それに対しても答えはとうに決まっている。そう言うように悠月は吉川の目を自身の目で貫く。

 

 少し驚くような表情をしたのはこちらの思いが伝わったのか、それほど怖い表情を浮かべていたのかは察しようもないが「あっそ」とでも言いたげにふいっと顔を背けた吉川に、悠月も視線を外して教室の中から空気を震わせる慟哭へと意識を向けるのだった。

 

 目を逸らしてはならないものをちゃんと自覚するために。

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 くやしい。悔しい。選ばれなかったこともそうだが、何より、オーディションの時、音楽室から漏れてきた彼のトランペットの音を聞いたときに直感的に「この音は私には出せない」と思ってしまったことが一番悔しかった。

 

 そして、言い訳にもならないがその音以上の音を出さなければならないとプレッシャーを感じていつもの音がだせず自分の音を崩してしまったことが何よりも自分に対して情けなかったし、滝先生を前にしてあんな音を出してしまったことが恥ずかしいと思った。

 

 今度こそは彼を上回るんだと思って練習をしてきた。その結果、本領も発揮できずの負け。涙すら出せず、何をこんなところで呆然としているのだろう。練習をしなければならないのに、彼に追いつかなければならないのに体が動かない。

 

 ああ、と自覚した。これが挫折なのだ、と。今まで、努力をして報われなかったことはなかったし、自分の実力を示す、してきた音楽を聴いてもらうという場で練習してきた成果を出せなかったこともなかった。

 

 これほどまでに自分は弱かったのかと心を太陽に暗雲がかかるように心に灯る火が仄暗い感情に覆い隠されそうになったとき───。

 

「麗奈!」

 

 風が空気を飛ばすように心の仄暗いものを吹き飛ばす声が耳へと飛び込んできて、咄嗟に顔を上げると、坂を駆け上がってきたのか少し息を荒くした久美子が膝に手をついて息を整えていた。

 

「なんで、こんなところに、いるんだよぉ」

 

 ここは校舎から離れ、グラウンドと山に挟まれた場所にある休憩所のようなところで、雨の日は当然来る人はいないが、晴れの日でも酔狂な物好きしか来ないような場所に麗奈はいた。どうやら、この親友は自分のことを探し回っていたようだ。

 

 久美子は息を整えると、顔を上げてこちらの顔を伺いながら気まずそうに言葉を詰まらせて言った。

 

「大丈夫……?」

「ちょっと、分からない。自分がどう思っているのか。練習しなきゃいけないのに、なんでこんな場所にいるのかも」

「……!」

 

 久美子は、弱気なその言葉に驚いたような表情を浮かべてから、沸々と怒りが込み上げてきたかのようにその表情を段々とむっとしたものに変えていった。そして、その両手が、ぺちん、と音を立てて私の両頬をむにっと挟んだ。

 

「約束、麗奈がしたんだよ……!?なら、頑張って。私も頑張るから……私は一つ、頑張ったよ」

 

 「これからもっとがんばらないといけないけどね」と肩を竦める久美子を他所に、私はこの行為に既視感を覚え、思い出した。楽器室で私が不安そうな表情を浮かべていた久美子にしたことと同じことだった。

 

 

『……麗奈』

 

『どうしたの……?』

 

『麗奈、わたし……』

 

『私も頑張る。だから頑張って』

 

『れいな』

 

『私も頑張るから頑張って!……約束』

 

『……うん。がんばる』

 

 

 同じことをしてきたことにやっぱり久美子は性格が悪いと思いながらも、私にそのことを思い出させるためにしてくれたのだろうと思うと、少し体に力が戻った。そうだ。約束をしたのだ。この秘密の共有者であり、親友と。

 

「どうして、麗奈はトランペットを続けるの?」

 

 今、その質問をしてくるのか。流石は傷心中の身に塩を塗る言動をさらりとできてしまう親友だ。それはこういう時にも健在のようだ。それに対し、先ほどまではびくともしなかった口角を少し上げてそれを口にした。

 

「特別になりたいから」

「諦めるの?」

「当然、諦めない」

 

 そして、私がどうなりたいのかもはっきりと思い出せた。ここから頑張れなければ、凡のままだ。私は特別になるためにトランペットをしているのだ。

 

「もう一度、立ち上がる」

「泣いても痛くても前に進めるのが麗奈でしょ。できるよ」

「やる」

 

 立ち上がる。先ほどまでは少し丸まっていただろう背筋に力が入り、ピンと張るのが分かった。深く息を吸って、少し留める。そして、ゆっくり、それでいて大きく息を吐きだす。

 

「ありがとう」

「ううん。でも麗奈が落ちたのは驚いたよ。聞いてたんだよね。どんな音だったの」

「それ選ばれなくてすぐの私に聞くこと?」

 

 分かっていたことだが、この親友。ナチュラルに鬼畜なところがある。性格の悪さはそう言ったところからくるのだろう。しかし、彼の音、か。そう考えて、彼の音を思い返す。

 

「譜面に忠実で精緻な技巧、情緒豊かな表現技法どれをとってもプロレベル」

「……せいうち?」

「精緻!」

 

 どんな聞き間違えだ、と思いながらツッコむと同時にそこで詰まってるってことはそのあとの評価聞いてなかったなと私は久美子をジトっと睨む。「あはは」と笑う久美子に小さくため息をついて意味を話す。

 

「非常に細かなところにまで注意が行き届いていること。精密とか、緻密とかと同義」

「あ、なるほど。さすが進学クラス」

「高校生なら知ってて当然でしょ……ともかく、あそこまで個性を排しながら機械的にならずに表現豊かなのが逆に個性っていうかなり異様な演奏を生み出してる。あれはちょっと私にはできない」

 

 「へぇ~」と本当に理解しているのか分からない久美子の相槌にどう言おうか悩んでいると、久美子は「でも」と続けた。

 

「でも、麗奈には麗奈にしか出せない音があるでしょ」

 

 確かに、そうだ。別にあれを目指さなくてもいい。私には私にしか出せない音を創り上げる。それだけだ。特別になりたいのに二番煎じじゃ意味がない。特別でオリジナル。芸術ならだれもがそうなる。

 

「……ありがとう」

 

 これが終わりではない。次に巡ってくる彼に勝つ機会を絶対に逃さず、彼に勝つ。

 

 日は確かに沈むが、必ず再び浮かぶ。斜陽にも確かに朝陽はあるのだ。それを持ってこれるように歩み続けるのだ。

 

 私は、高坂麗奈だ。彼にできない私にしか出せない音を目指すのだ。

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 燻っていた火種は収束へと向かい、次の曲が始まるのです。

 

 

 






 ありがとうございました。

 久美子のかなり凄いのは解決の選択肢ではないけどその子にとってのパーフェクトコミュニケーションが取れるところだと思ってます。

 原作の再オーディションが八月頭で、本作のこの13曲が期末考査後すぐなので大体六月末から七月初旬なんですよね。


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