大変お待たせ致しました。お待たせしてしまい申し訳ございません。
私情を挟んで申し訳ないのですが、今後週一投稿、よくて週二投稿となることご了承ください。
七月の初旬には梅雨も明け、クーラーが効いた部屋と冷たい氷菓子が恋しくなってくる季節が蝉のやかましい鳴き声と共にやってきてしまった七月中旬。京都盆地らしい梅雨が明けてなお湿度の高さを感じさせるじめっとした暑さに眉を顰める日々が今年も訪れた。
夏は夏で風鈴や花火、祭りなど趣を感じる季節ではあるのだが、悠月は四季の中で一番嫌いな季節が夏だ。反対に、一番好きなのは冬。炬燵で鍋を囲みながら温まり、みかんを剝くのが何よりも至高だ。あとは、冬の寒さはどうとでもなるが、夏の暑さはどうしようもないのが嫌だ。
そして、この季節になると私立の高校を恨めしく、いや羨ましく思ってしまう。制限があるからそうやすやすとエアコンをつけることのできない公立と違い、私立は制限なくエアコンをつけ涼しい環境で練習ができるのだから。というか、運動部でなくともこれだけの暑さの中エアコンをつけず扇風機だけで教室で過ごすというのはいくら水分を補給していようが熱中症になりかねない。熱中症の危険は命に関わってくる。これは生徒会で問題定義していい内容だろう。こんなところに予算を出し惜しんでいる場合ではないだろうと思う。
閑話休題。
定期考査とオーディションという一大行事を乗り越え、北宇治では終業式まであと二週間ほどとなり今は短縮校時の学校生活を送っていた。この短縮校時の期間は必要なのかと思わないでもないが、夏季休暇の課題をこの期間を使って終わらせられると思えばむしろあっていいのかもしれない。
また、終業式までのこの期間が短縮校時となっているのにはもう一つ理由があった。それは二度目の面談がこの期間に設置されているからだ。そして、目の前にはどう言う訳か担任だけではなく松本も座っていた。なんだこれは。圧迫面接か。などとふざけたことを内心で思っていると、松本が口を開いた。
「担任と学年主任。別に不思議ではないだろう。それに、明瀬は部でも接点があるからな」
「そうですね」
としか、言えないだろう。というか、別に嫌ではない。そんなことを思っていると、担任は机の上に置いた成績通知書と全国模試の成績表、そして、学期頭に行った進路調査票を見ながら、唸るように言った。
「ううむ。本当に言うことがないほど優秀だな。うん。成績に関しては言うことないな。これを維持できるよう励んでくれ」
成績通知書の各教科の欄には百で埋められ、全国模試の成績表も万を超える分母が記された数字をスラッシュを挟んで左隣にぽつりと記された1の文字。これで文句をつけられると悠月も困ってしまう。担任の激励に悠月ははい、と答える。すると、あ、と何か思い出したかのように担任は進路調査票をこちらに向けてきた。
「こないだ進路調査票とは別で将来何の仕事に就きたいかで明瀬法曹って書いてたろ」
「?はい」
「なんで医学部志望なんだ?」
その疑問に悠月はああ、と納得する。そして、悠月は説明するために口を開いた。
「医事関係訴訟に強い弁護士になりたいんです」
「医事関係訴訟というと、医療過誤とかそういうやつか?」
「イメージとしてはそれで間違ってないです。僕が目指すのは医学の専門知識を持つ医師免許持ちの弁護士ですね。もっと言うなら医療の現場を識る弁護士です」
明確に悠月の中にこの目標が芽生えるきっかけが昔あったのだが、それを今言う必要はないだろう。というか簡単に言いふらすような話でもない。もし話せばこの場の空気が重くなるのは避けられない。
「なるほど。そのために大学は医学部志望なのだな。司法試験は予備試験を受けるつもりなのか」
「はい。近年医事関係訴訟は急速に増加の一途を辿っていますから、その点でも需要があるかと思ったんです。特に医療機関、医者から」
松本の察しの良さに感心しつつ頷く。ちなみに、肯定した後に続けた文言は建前だ。本当にやりたいことは別にある。
今増えているのは患者から医師もしくは医療機関に対してのものが多い。だが、すべてがそういう訳ではなく、中には自身に責任のない医療過誤の責任を不当に着せられ最悪医療免許剝奪なんてものもケースは少ないが存在する。悠月がこの進路にしたのは後者のケースを断絶するためだ。もうあのような悲劇は繰り返してはならない。
「音大は考えなかったのか?」
「ええ。学費は高いですし、他にやりたいことがあったので。それに、音楽ならいつでもできますから」
「なるほど。まあ、生徒がここまでしっかり考えられてるなら教師としてはそれを尊重するだけだな」
それから話は悠月の学校生活へと移っていった。
「学校には慣れたか?」
「はい。充実してますよ。学友にも恵まれてますし、生徒会でも部活動でも尊敬できる優しい先輩と同期がいるおかげですね」
「それはよかった。文化祭と体育祭でも忙しくなると思うがよろしく頼む」
「はい」
担任とのそんな近況報告のようなものをした後、口を開いたのは松本だった。
「明瀬は、A編成で自由曲ではソロを任されたんだったな」
「はい」
「何か悩みはないか」
その問いかけに悠月はオーディションを思い出したが中世古のおかげもあり、ほとんどは悠月が吹くことに理解を示してくれているため悩みという悩みは一旦すべてなくなっただろう。少し逡巡してから、頷く。
「はい」
「それはよかった」
「あ、一つ。悩みというかお願いが」
悠月は、面談が終わりそうな雰囲気を遮り、松本を見やった。そして、いずれしてもらいたかったことを口にした。
「他校の音を聞く機会を設けていただきたくて」
「……合同練習か。確かに、他校の音を聞くことも何か刺激になるか。分かった。検討しておこう」
「ありがとうございます」
中学の頃、と言っても最後の一年だが、府内外問わず関西や全国に進むだろうレベルの演奏をする学校と合同練習をできたことは悠月にとってもかなり大きな経験となった。全国を目指すのならば、そう言った機会はあって損はない。
「あ、あと、体育館での合奏もできれば行いたいです。本番は広いホールで演奏を行うので、音量も重要になってきます。七月下旬にホールで練習する機会もありますけどできれば多くしたいです」
「なるほど。それに関しては体育館を使う部活と折り合いをつけてだな。分かった」
「ありがとうございます」
そして、悠月の面談はつつがなく終え松本が早々に出て言った教室で残った担任がぼそりと呟いた。
「お前、すげえな。松本先生にあれだけ提案言えんの」
「松本先生ほど教育者な人もそういないので頼っちゃうんです。凄いのは松本先生ですよ」
◇◆◇
外気の暑さと争うように吹奏楽部の練習の熱が高まっていく間にも短縮校時期間は終了し、終業式も無事に終え夏休みを迎えた。あれだけ生徒に溢れていた校舎の中は閑散とし、楽器の音がより鮮明に響くようになり、体育会系の部が夏の大会に向けてグラウンドや体育館で精を出しているのが聞こえてくる声からもよく分かる。
当然、吹奏楽部の練習もコンクールが近くなっていることもありラストスパートをかけるようにどんどんハードなものへと変わり、練習の密度は高まっていっていた。それは練習時間にも現れており、夏季休暇前よりも三時間は延長している。合奏と練習を繰り返していくうちに演奏曲の旋律が聞こえていないのに脳内で流れ続けていることは少し怖いと思うが、それだけ身についていると思えばそれも薄れる。
七月も下旬、二十四節気で言うところの大暑に差し掛かる今日。吹奏楽部は楽器の搬出作業を終えてミーティングをするために音楽室へと集まっていた。
「はい。皆さん楽器運搬お疲れ様でした。明日は事前説明の通り宇治文化ふれあいセンターでの練習となります。集合時間は先日の説明通りなので遅刻しないように」
はい!と威勢のいい返事が空気を震わす。今日は楽器の搬出作業があったために練習は早く終わった。まだ窓の外には夕日によって染色された紅の空が二割ほど残っている。
「それと、本番の日程が決まりました」
その言葉に少し緩んでいた空気が引き締まり、部員の滝へとむける意識が一層強まった。
京都府吹奏楽コンクールの高校A編成は八月四日と五日の二日間で行われる。一日目に約三十団体が二日目に約十団体が演奏し、この中から関西大会へ出場する上位三校を決定する。ちなみに、中学A編成は高校よりも早い七月三十日、三十一日、八月一日の三日間で一日に二十五団体、合計約七十団体が関西大会へ進む上位三校を争うという狭き門となっている。
この日程の都合から、悠月が後輩たちの演奏を生で聞くことは不可能となっている。CD音源は絶対に確保しようという決意を悠月は胸に秘めていた。
そんな私情はさておき、演奏順は公平を期すためにくじ引きで行われるのだが、この運任せな方法で決められる演奏の順番こそがとてつもなく重要なのはコンクール経験者ならば誰もが知るところだ。早い順番を引いてしまうと時間が早くなる分、練習時間が減ってしまうという若干の不利を背負うことになる。それと、トップバッターや再序盤を引いてしまうと集合が早朝となってしまうため朝が弱い人にとってはつらいものとなる。
とはいえ、不利という不利はその程度のもので結局は自分たちの演奏が結果にものを言うのだから結果に影響するようなものでもない。あ、いや、もう一つある。評価に直結することはないだろうが、審査の目が多少厳しくなる可能性のあるものが。それは。
「北宇治高校は二日目の十一時からで、順番は立華高校の次です」
悠月の思考が結論を話す前に、滝が告げた。その事実に、音楽室からはええっ、という驚きと不満の声が出る。
完成度の高い演奏をする学校のすぐ後ろというのは、いやでも比較されてしまうことからもあまりいい順番ではない。こういう観点から見ると、滝のくじ運が今回は悪かったということになる。
まあ、関西、全国へと進んでいくのならこんなことにいちいち反応している方が無駄なのだが。関西は言わずもがな大阪東照、明静工科、秀大附属の三強に加え他にも名だたる強豪と呼ばれるに相応しい演奏をする学校が揃う。そして、全国だと九州の清良女子に宝名女子、東関東の成合市立成合に海幕、西関東の県立伊奈総合、東海の名工大名機は名門として名高く格が違う。
そんなわけで、むしろ順番が前なら北宇治の演奏を脳に焼き付けさせ、後なら塗り替えるくらいの気概でないと萎縮してしまう。
「大丈夫ですよ」
そんな楽観的な言葉を、滝は皆の身構えて固くなった身体を解すかのように告げた。
「今回、課題曲は三校程としか被っていませんし、自由曲の『三日月の舞』は私たち北宇治だけです。ですから、審査員の方々も新鮮な気持ちで私たちの演奏を聞いてくれるでしょう。それに、私は北宇治の演奏は立華高校にも引けは取っていないと思っていますので」
この先生はどういう訳か生徒の扱いに長けているように見えるときがある。特に部員をその気にさせる時の手腕は見事だ。事実、少し気後れしているように見えた部員の表情は、前向きになったように自身が表れていてその瞳は輝かせている。
それからまもなくして、では、解散してください。という滝の言葉に部員たちはぞろぞろと帰り支度を始める。楽器を既に搬出したために練習のしようがないことと明日は早いためその準備に充てようという考えの部員が多いためだろう。
「明瀬君。ちょっといいかな」
「はい。どうされました?中世古先輩」
「少しだけ時間頂戴?」
「?分かりました」
中世古のその誘いに悠月は小首を傾げながらも頷いて中世古の背を追い、そして、二人が足を止めたのはいつもトランペットパートが練習をしている教室だった。なんでまたここに、と悠月が疑問に思っていると中世古が手のひらをこちらに向けながら口を開いた。
「譜面、あるよね。ちょっと貸してくれないかな?」
「いいですけど、何するんです?」
悠月の問いかけにまあまあ、とあやふやな流し方をする中世古を訝しげに見ながらも悠月は鞄の中から譜面ファイルを取り出して中世古へと渡す。悠月から渡された譜面ファイルを中世古は一ページずつめくっていったかと思えば、あるページでめくる手を止めて悠月を再度見た。
「ね。書き込んでいい?」
「構いませんよ。何書くんです?」
「見るまでのお楽しみってことで。ちょっと待ってて」
人差し指を口元に持っていき片眼を閉じるという仕草をこの人がやると本当に様になるな、などと思いつつこちらからは見えないところで滑らかに動くペンをぼうっと目で追う。
「明瀬君の字、丁寧だね。女の子みたい」
「それ褒めてますか?」
「褒めてる褒めてる」
汚いといわれるよりはましか。と自分で納得しているとペンが止まり譜面ファイルが返される。悠月は会釈をしつつ受け取り、何を書いたのだろうと譜面へと意識を向け悠月とは異なる筆跡のそれを見て思わず固まる。
───『日本一のソロに!』
ソロパートの上に他と変わらない黒で書かれたそれ。だが、悠月にとってその綴られた言葉は、とても色づいて見えた。中々に高いハードルだと思わないでもないが、全国大会出場を目標として掲げている今もうひとつ目標が増えたところでだ。それに、目標は高ければ高いほど、難しいほど燃えるというものだ。
「ありがとうございます。こうなれるよう、精進します」
「全国行く前提で書いちゃったけど、いいよね」
「は───」
「あー!香織先輩もここにいたんですね!……明瀬」
はい。と肯定しようとした言葉が、聞き慣れた中世古限定の高いテンションの声に遮られる。その声の正体である彼女は、中世古へと向けていた目をじろりとこちらに向けてきた。
「どうされたんです?」
「いつの間にか香織先輩が居なくなってたから探しに来ただけよ。何もしてないでしょうね」
「勿論。何もしていませんよ」
なんでここに、とでも言いたげな声を漏らし、露骨に嫌そうな表情を浮かべ顔をしかめる吉川に対し肩を竦める。そして、強引な話の変え方だが、中世古に書いてもらったことを実現する為に達成しなければならないことを悠月は口にした。
「全国、行きましょうね」
「はあ?当たり前でしょ」
「うん。行こう」
何言ってんだこいつという態度の吉川と、静かに微笑みを携えて力強く頷く中世古を見て「ああ、本当に先輩に恵まれたな」と悠月は思った。そして、この人たちと名古屋で吹きたいという願望がより強くもなった。
翌日、北宇治高校吹奏楽部は貸し切ったホールへとやってきていた。
「今日から本番までの数回、体育館を借りて合奏練習をすることがありますが、ホールを借りての演奏は今日と本番前日の二回だけです。実りのある練習をしましょう」
はい!。ともうすっかり体育会系のような返事を皆がした後、即座に練習へと入った。ホールでの練習は、本番を意識すること以外にも、色々意味と価値を持つ。その一つが、普段練習をしている音楽室では見えてこない課題が見えてくることだ。
実際、課題曲と自由曲を通しで一度合奏をしただけでも今までは見えてこなかったものが表面化しているだろう。観客席の最後方からストップウォッチを手に演奏を聞いていた松本から指摘が入った。
「時間は収まってる。だが、音が弱い!ここだともうあんまり聞こえん!」
そこから、楽器ごとの位置の修正を滝が告げ、部員はその言葉通りに移動する。
「皆さんも今の演奏で理解したと思いますが、ホールでの演奏は普段よりも意識的に音を出さなければなりません。意識的に大きな音を出すことは勿論ですが、無闇に大きくするだけではいけませんよ。一音一音を丁寧に、細部までこだわってください」
その後も、合奏、修正、合奏、修正の繰り返しで、あと一回はできる時間あるかと行った頃には皆の顔には疲労の色が現れていた。しかし、それは止める理由にはならない。皆の貪欲な姿に滝は口を開いた。
「次が最後の演奏です。集中し直して、今日一の演奏をして終えましょう」
松本の本番に近いアナウンスが終わる頃には、皆の目が、意識が滝の指揮棒へと集中する。そして、滝は腕を振り下ろした。
息を愛器に吹き込んで、ピストンを忙しなく動かす。皆の音に耳を澄ませ、指揮棒に集中して音を合わせる。過大表現と言われるかもしれないが、生きがいという言葉がこの時ばかりはぴったりだった。
夢中で吹いているうちに、最後の一音を吹き終える。滝が息を乱しているのと同じように、熱気に包まれている部員たちの息も乱れている。
余韻を残したまま、滝は皆に語りかけた。
「……今の演奏を忘れないでください。残りの数日間、今よりさらに昇華させて本番に臨みましょう。そして、全国へ行くのです」
目標を決めた日以降口にすることはなかった『全国』という言葉に、部員たちは少しの間呆気にとられていたがその意味を理解して皆一斉に返事を口にした。
貸し切ったホールで合奏練習の後も休む暇なく練習は続いた。
夏休みに入り、早朝から夕方までと長くなった練習はまるで時間が進むのが早くなっているのではと錯覚するほど一瞬の間に過ぎ去っていき、いよいよ京都府大会がすぐそこまで迫っていた。
ホールでの合奏で発覚した新たな課題、そして、より高いレベルになっていく滝の要求、それらを完璧にするには些か時間が足りないとすら思えた。これは、皆が必ず関西、全国へという強い意志を持っているからこそだろう。
「今のところ、ユーフォも入れますか」
演奏を止めた滝に従って部員が演奏を止めると、滝がそんなことを口にした。
滝の言う今のところというのはトロンボーン、バスクラリネット、ファゴット、バリトンサックス、チューバ、コントラバスのユニゾンにあたるのだが、どうやら滝はここにユーフォの音を加えたいようだ。安直な考えだが、音の厚さと深みを与えたいのだろう。
これも、ホールでの合奏練習で発見したものなのだろうが直前が過ぎるだろうと思わないでもない。副部長は問題なくものにしてみせるだろうが、黄前はどうか。コントラバスを担当する川島から渡された譜面に視線をやり、眉を顰め難しい表情をしている姿を見る限り今すぐにというのは難しそうに見える。
最初は冷めているような雰囲気も感じていたが縣祭りのあと、オーディションのあとと段階的に練習に熱が入るようになり、実力向上という意欲を目に見えて出すようになった。その姿は高坂と似てきているとすら思えた。実際、共にいる姿を結構見るから良い影響を受けているのだろう。
頑張っている人を見たら何か手助けできることがあればしてあげたいと思うのが人の性であると悠月は思っている。余計なお世話かもしれないが、少し様子を見に行こうと思いながら、悠月は自分のことに集中した。
翌日、パート練習を終えて合奏練習へと向かう前に水を補充しようと空いたペットボトルを手に、自動販売機がある場所へ足を運んでいた悠月は、ユーフォニアムの音が聞こえてくることに気付いた。どうやら今日も昨日と同じように個人練習に励んでいるようだ。
そのユーフォニアムが奏でる音は、合奏練習の際に滝から指示が飛んだ箇所だ。繰り返し吹きながら時々曖昧になるところを見るに中々苦労しているようだ。だが、昨日同じように個人練習をしている彼女の音を聞いたときよりはるかに上達している。
「頑張ってますよね。久美子ちゃん」
音に耳を傾けて意識を向けていると、後ろから問い掛けられたその質問に悠月は軽くぎょっとして振り返る。視界の下の方に頭頂部が見えて顔を下げれば、そこには悠月の胸程もない体躯の女子生徒がいた。
「そうだね。昨日より上達してる」
こちらを見上げる姿に小動物をイメージした悠月はその問いかけに頷く。そして、悠月も質問を投げかけた。
「川島さんはどうしてここに?合奏練習もう始まるけど」
「緑は合奏練習のこと伝えるために久美子ちゃんのところに行くところです」
「なるほど」
「明瀬君も一緒に来ませんか?」
川島の返答に悠月は悠月のような理由以外では確かにそれくらいしか今ここにいる理由ないか。と納得すると、川島から思いもよらぬ誘いを持ちかけられた。それに対し悠月は断るほどのことでもないと頷く。
「じゃあ、僕も行くよ」
それから、二人は北側の校舎の裏手まで回っていた。たまに校舎の中から見ることがあるが、黄前の練習している場所は校舎の中でいう階段の裏手であり角になっているため日影ができるところだ。
悠月が川島と共に曲がり角から姿を出すと、後者で形成された影の内側で譜面を食い入るように見ながら夢中になってユーフォニアムに息を吹き込む黄前の姿が視界に映った。そして、その姿を捉えた瞬間、悠月はスラックスのポケットから携帯用のティッシュを取り出して歩み寄り黄前の名を呼んだ。
「黄前さん!」
悠月の大きな声に黄前は驚いたのか変な音を出して体を跳ねさせた。そして、驚いたような表情をこちらに向けて口を開いた。
「あ、明瀬君?どうしたの……?」
「どうしたのじゃなくて、鼻!鼻抑えて!鼻血出てるから!」
「あぁっ!たいっへん!」
「えぇっ!あぁ~~……」
鼻血が出ていることに気が付かないほど集中していたらしい。というか、普通に危ない。身体は資本だ。頑張ってて偉いではない。今の黄前は逆上せている状態に近い。簡単に言えばお風呂に浸かっている時に鼻血が出るような状態だが、この場合分かりやすく熱中症の症状だ。
「鼻抑えて、顔上げないで、前かがみになって。そう、その体勢」
素早い動作で悠月はティッシュを鼻の下に持って行き、それを黄前に持たせて抑えさせる。それから、黄前に軽い処置を言い聞かすように黄前へと伝えていく。
「意識ははっきりしてる?」
「う~ん。ちょっとぼうっとしてるかも……」
「僕が何本指立ててるか分かる?」
「左右で6本」
「眩暈はなさそうかな」
幸い、熱中症の段階で言うとレベル1だ。だが、安静にしておく必要はある。悠月は持ってきたまだ冷えているペットボトルを首の頸動脈のある場所へ当てながら伝える。
「保健室行こうか。熱中症の症状出てるし、着替えた方がいいかも」
「うん。分かった……」
「そうですね」
頷いた黄前を見てから、悠月は川島を見る。
「保健室行ったら保健室の先生に氷嚢貸してもらえるよう伝えてほしい。貸してもらえたら首と両脇に氷嚢当てて体冷やして。で、あったら水だけじゃなくてポカリも飲ませてほしい。一気に飲むんじゃなくて一口ずつね」
「わ、分かりました。明瀬君はどうするんです?」
「滝先生に伝えてくるよ。黄前さん、安静にしておいてね。関西、全国って時間はあるから焦らないで。思った通りの音が出せないもどかしさもあると思うけど、ちゃんとうまくなってるから、一つずつ、着実に。まあ、気楽に行こう」
「は、はいぃ……」
か細い声で返事を口にする黄前を見やって、今度は川島へと視線を送る。
「じゃ、僕は先に保健室の先生と滝先生に伝えてくるから、川島さん、あとよろしく」
「はいっ。お任せください!」
川島の力強い返事に悠月は頷いて、踵を返すのだった。
◇◆◇
「手馴れてましたね。明瀬君」
「そうなの?久美子」
「へ……?」
緑輝の感心したような言葉に、葉月が緑輝から久美子へと顔を向け首を傾げた。それに対し、私は氷嚢の口を首へ当てながらくるくると回しながら天井へと視線を向ける。
「保健室の先生も明瀬君の処置褒めてたしそうなんじゃない……?」
「冷静でしたよね。凄いなって緑は思いましたよ。それに、明瀬君の伝え方がいつにない優しさがありましたね」
「……そうだった、かも……?」
そうだっただろうか。確かに、ぼうっとしていた頭にすんなり入ってきたような気はする。
「それに、明瀬君が戻ってくるんじゃなくて葉月ちゃんに来るように言ったのにも気遣いが見えますよね」
そう緑輝は話して、視線を私の胸元に向けた。確かに、女子だけにしてくれたからあれだけ堂々と制服も干せてるわけだし。男子がいたら少し躊躇していたと思う。
「なんか、モテる理由が分かるね」
「はい……でも、久美子ちゃん良かったですね」
「へ?何が?」
「上手くなってるっていってくれてたじゃないですか」
「あ」
確かに言ってくれていた。だが、その言葉の前後の文脈を考えると純粋な褒め言葉と言えるのだろうか。「関西、全国って時間はあるんだから」というのは今は厳しいかもしれないけどという意味もあるのではと思ってしまう。
とはいえ、彼のことだから上手くなってるというのは本当のことなのだろう。彼がよく低音にも来てその度に初心者の葉月の音を聞いて上手くなっているところを詳細に褒めている姿を見るし、トランペットの一年の子によく手とり足とり教えているのも見る。
だが、褒められたからと言って有頂天になるわけにもいかない。
「でも、もっと上手くならないと。今のままじゃダメ」
「……久美子、最近熱くなったよね。前まではクールっていうか冷めてるところあったのに」
「はい!緑もそう思います。今の久美子ちゃんは全力で月に手を伸ばしてるみたいです」
緑ちゃんの言う月に手を伸ばす、というのは分からないけれど、麗奈みたいになりたいと思うようになったところでは言い得て妙なのかもしれない。
「前よりも上手くなりたいっていう気持ちは強くなった、かな」
そして、多分そう思っているのは私だけではない。ソロに選ばれて以降の何処か覚悟が決まったようにどんどん洗練されていく悠月の音色を聞いた部員も同じだ。
皆一様に、冒されているのだ。上手くなりたいという願望、いや、熱病に。
◇◆◇
より濃密になっていく集中力、本番が迫っているという危機感を誰もが抱く中、悠月が微かに視線を滑らせるとともに、不意に滝が演奏を止めた。滝の耳が瞬間的に各パートの澱みを捉えたためにそれを解消するための指摘を口にするためだ。
「トランペットはきちんと音を区切ってください」
「ホルンは音をもっとください」
そのパートごとに向けられた指摘に息の揃った返事を部員が行った後、滝は視線を悠月から見て左に滑らせる。「それから」と滝は続けた。
「ユーフォ、今のところは田中さん一人でやってください」
その言葉に、低音パートに属する部員が外されたもう一人のユーフォニアム担当である黄前へと心配するように視線が送られる。意外なのは、田中が黄前を見る目にも心配の色が乗っていることだろうか。
あの副部長が他人を心配するとはという事実と、あの副部長が気にかけるほどの関係を築いている黄前への驚きが悠月の中に生まれたが、比率は後者の方が大きい。
そして、悠月自身心配する気持ちがないわけではない。だが、これを戦力外通告と解釈して諦めることはして欲しくはないなと思う。挫折は誰にでもある。そして、そこから立ち直れるかはその後の気の持ちようと行動次第だ。
悠月は今、少しだけ介入するか悩んだが、静観することを選んだ。悔しさだけではないが、そういう感情はその人だけのものだ。それだけではない。人任せだが、悠月が出るまでもなく彼女を支えようとする人は出てくるだろう。
なにより。
あれだけ、ユーフォニアムが好きなのが伝わる音色を出しているのだから、悠月はそれに期待したかった。好きという感情はそれだけで動力源として作用する。彼女なら立ち直るだろう。
そして、ほどなくして本番の日を迎える。
ありがとうございました。
(定期公演の一般販売五分で完売してて泣きました。)