早朝、けたたましく鳴り響くアラームを止めるため、布団の魔力に抗ってベットから起き上がり、誰の目もないことを良いことに大きな欠伸をしながらアラームを止める。二度寝を防止するためにアラームを枕元ではなく机の上に置いている人はそこそこいるのではないだろうか。
アラームを止め、ポケットに携帯を突っ込み視線を移動させると、今日の日付が赤丸で囲まれたカレンダーに目が止まった。そこには、『京都府大会』の文字。それが意味することは、今日の結果次第でどのような道を悠月が、北宇治高校吹奏楽部が歩んでいくことになるのか、その岐路に立っていることを示していた。
机の上には、黒、赤で書き込まれた気づきや指示で溢れ最早読み取ることも難しい譜面を入れ込んだファイルが出しっぱなしになっていた。その譜面の一部には、黒なのにも拘わらず彩やかに見える『日本一のソロに!』という文字。その文字を見て、すうっと眠気が覚めていくのを感じた。
顔を洗ったり制服に着替えたりと毎朝のルーティーンを行って身支度を整えてから一階に再度降りてキッチンに立つ。朝食を作るといっても、トーストとヨーグルト、前日の夜に余ったサラダとスープという献立だから作るほどのものでもないのだが。
食パンをオーブントースターに入れて待っている間に、悠月は襖を挟んでリビングの隣にある仏間へと入る。そして、戸棚から線香筒を含めた仏具を持って畳の縁を踏まないようにして外側の黒漆の艶やかさと内側の金箔と装飾の華やかさが相まって荘厳さがを感じさせる仏壇の前に歩み寄って左膝をついて正座をする。
「今日、コンクールなんだ。聞いててほしい」
悠月はそう口にしてから、いつものように黙々と手を動かしていく。そして、すべて終えて、手を合わせた。
線香の香りが漂いおりんの音が空間に鳴り響く中、瞑目し手を合わせ体感で十秒ほどが立っただろうか。悠月は目を開いて言葉を向ける。
「じゃあ、頑張ってくるよ」
それから、テレビを付けて朝のニュース番組を流しながら朝食を取っていると、吹奏楽の特集へとコーナーが切り替わった。地方のテレビ局だからそんなことも取り上げるのだろうと眺めていたが、やはり注目は立華と洛秋のようでここ二つは当確だと考えているのだろう。悠月たち北宇治高校吹奏楽部は、最後の一枠を争う戦いに今日臨むことになる。
最後の一口を取り皿洗いも終えた悠月は、テレビを消して戸締りをしてからトランペットを仕舞ったケースを背負い、学生鞄を肩にかける。
それから玄関に向かい扉を開けると、そこには見慣れた姿があった。その姿に悠月は目を瞬かせていると、音で気がついたのかその人物はこちらに振り返ってぺこりと丁寧なお辞儀をして見せた。
「おはようございます。悠月先輩」
「奏?お、おはよう。どうしたのこんな朝に」
「コンクール、今日ですよね。本当は生演奏を聞きたかったのですが、それが叶わないので応援の言葉を送りに来ました。そんな先輩思いのいい後輩に何かありませんか?」
むん、と胸を張って得意げに言う奏に悠月は頬を緩ませて感謝を口にし、ちらりと玄関に置かれた時計を見て問い返す。
「ありがとう。先輩思いのいい後輩持てて嬉しいよ」
「そうでしょうそうでしょう」
「それにしても朝早いね。朝練前に来てくれたんだ?」
「そうですよ。七時から校門が空くのでその前にどうしても会いたかったんです。迷惑かもしれないと思いましたけど先輩ならこの時間でも許してくれるかなって」
まあ、これが赤の他人なら非常識な時間に来るなよと思うが、可愛い後輩が時間を縫って応援に駆けつけてくれたのだ。迷惑だなんて思うはずがない。インターホンを鳴らさなかったのは、気を使ってくれたのだろうと思う。この辺りで細やかな気遣いができるからこの子は皆から好印象を持たれるのだと実感する。それに、純粋な好意で会いに来てくれたのだから素直に嬉しいだろう。
「わざわざ来てくれたのに迷惑だなんて思わないよ。それはそうと、改めて関西大会出場おめでとう。CD音源だけど聞いたよ。いい演奏だった」
「ありがとうございます。まだまだ反省点は多いですがそう言ってもらえると励みになります」
先日行われた中学Aの部において、悠月の母校であり現在は奏が現部長とともに率いている小倉西中が金賞を受賞し京都府代表に選出されている。その事は当日の夜に部長副部長からメッセージを写真付きで送られたために知っていた。
「応援してます。あと、ソロ楽しみにしてます」
「あれ。ソロ吹くこと言ってたっけ」
「『三日月の舞』にトランペットソロがあるのは知ってますし、悠月先輩の実力を考えたら悠月先輩が吹くと思ったのですが、間違いでしたか?」
随分と信頼されているようだが、悠月がソロになった経緯と競争相手を考えたら素直に頷くこともできない。が、全てを明かす必要もない。特に、オーディション関係でちょっとしたトラウマを持つ奏には言わない方が良いだろう。だから、あえてぼかして首を振った。
「競争相手が手強くてそう単純にはいかなかったけど、吹くよ」
ですよね、と口にする奏を他所に悠月は夏の暑さの中にかすかに感じる涼しさを感じながら思考に耽った。
今年が最後の三年生ではなく、一年生の自分が選ばれた意味。その三年生の先輩から直々に託され任された意味。これらを考えれば生半可な演奏はできない。それこそ高校一年生にしては上手、などという評価で終わってはならない。
夕焼けの校舎に響いた慟哭、頬に伝っていた涙、先輩に吹いて欲しかったという思い。すべてを背負ってソロを吹かなければならないということをオーディション以降ずっと考えている。
「悠月先輩?」
思考に耽ってぼうっとしていたことに気付いたのか、奏が不思議そうな表情を浮かべて名を口にした奏に悠月は何でもないと口にする。
「なんでもないよ。ただ、頑張らないとなって思ってさ。選んでもらったてことはその期待に応えないといけないから」
「先輩ならできるでしょう」
そんなことを話しているうちに、それぞれの通学路が分かれる道へと着いていた。二人は自然と足を止めて向き合う。
「悠月先輩。次は悠月先輩たちの番です。私含め、皆応援していますから」
「ああ。頑張ってくるよ」
「まずは関西、共に行きましょう」
「当然」
奏と別れたあと、集合時間よりも一時間ほど早く登校した悠月は、最後の調整を行うべく、普段トランペットパートの面々が個人練習で利用している連絡橋でベルを上向け、愛器に息を吹き込んでいた。トランペットを吹いていると、こういうところで融通が利く。
丁寧に、正確に、美しく、上品に、忠実に、情緒豊かに。初めは意識すべきことが山ほどあったが、今となってはこれらは意識せずとも身体の一部として馴染み、自分の音として表現できている。一音一音に最善を求め、空に漂う巻積雲を吹き飛ばすかのごとく大きくかつ上品な伸びやかな、それでいて三日月のように甘美で幽艷な音色を届ける。
最後の一音が、空気と溶け込むように霧散する。そして、マウスピースを口から離し誰に聞かせるでもない小さな声量で、呟いた。
「……うん」
間違いなく、ベストコンディションであることを音が雄弁に語っていた。身体の調子は万全。叔父が「前日なんだろ?休め休め」と言ってくれたために睡眠時間は充分に取れている。本当に叔父には常々助けられていると思う。仕事の都合もあり演奏を聞いてもらったことはないが、いつかは聞きに来てほしいと思っている。
それはさておき、あとはこれを本番でするだけ。練習以上のことが本番で出ることなんてのはないに等しい。
「いつも通り、ちゃんとやる」
練習通りのことをすれば問題なく関西大会はいける。そう確信できるだけの練習を悠月だけではなく、部全体でしてきた。あとは、練習でできたことを本番でやるだけ。悠月にとってはここに不安や緊張が介在する余地はない。それに、緊張で一杯一杯になっていては勿体ない。大きなホールで、自分たちの音を多くの観客に聞いてもらうという体験を目一杯楽しむこともコンクールの醍醐味の一つであろう。
考え事もほどほどに、もう一度吹こうとしたときだった。
「おはよう。明瀬君」
「おはよ、明瀬くん」
その二人の声に悠月は譜面から声が聞こえた方へ向くと、そこにはいつも通り柔和な笑みを浮かべた中世古、そして、部長の小笠原がこちらを見ていた。
「おはようございます」
「来るの早いね。寝れなかった?」
「いえ。寝れましたよ。どちらかというと楽しみで待ちきれないです」
この言い方だと遠足前の子どもみたいだなと、自分で口にしたことながら他人事のように思っているとくすりと中世古が微笑んだ。
「楽しみなんだろうなっていうのが音からも伝わったよ。集合までまだ時間あるから、納得いくまでしてていいからね」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」
悠月が感謝を告げると、中世古はじゃ、またあとでねと一言残して音楽室へと足を進めていった。それを見送った悠月は、不思議そうにこの場に留まったもう一人に疑問をぶつけた。中世古と一緒に行くものだと思っていたのだが、何か用だろうか。
「一緒に行かないんですか?」
「行くよ。ただ、そういえば、一年生の指揮取ってくれてるのに事務連絡以外であまり話したこと無かったなと思って……」
確かに、そうだ。事務的な連絡ならそこそこの頻度で取っているが、それ以外で何の用事もなくというのはないことに気づいた。
「本当ですね」
「でしょ?……ありがとね。一年生のこともそうだけど、葵のこともそうだし、香織のことでも悩んでくれてたんでしょ?」
おっと。流石部長と言うところだ。情報はきちんとキャッチしているらしい。悠月は首を振って答える。
「いえ。むしろ先輩の背に教わってばかりですよ。僕は大したことはしてません」
「謙遜しなくてもいいのに。ほんと良い後輩君だなぁ」
謙遜気味に答えた悠月に、小笠原は苦笑混じりにそう言って眉尻を下げる。しかし、直ぐに真剣な表情へと変えた。表情豊かだなと思っている悠月に対して、小笠原が口を開いた。
「じゃあ、私も行くよ。集合時間には集まっといてね」
「はい」
そうして、悠月から背を向け歩を進めた小笠原を見送るように見ていた悠月は、不意に立ち止まった小笠原に首を傾げる。
「ソロ。明瀬君で良かったって、普段の練習を聞いてて多分皆思ってる。見せつけよう」
「……!」
その言葉に、悠月は一瞬言葉に詰まる。その言葉がどういった思いで告げられたのか、推し量るまでもなく察した。悠月は改めて姿勢を正して、誠意が伝わるように声を発した。
「はい」
「はーい皆静かに。聞いてくださーい」
集合時間になると同時に、前に立っていた部長が指示を飛ばした。
「各パートリーダー、自分のパートが全員揃っているか確認してください。まずトランペットから」
「います」
「パーカス問題なーし」
「フルート全員います」
「クラ揃ってます」
「ファゴット、オーボエ大丈夫で〜す」
「トロンボーン揃ってまーす」
「ホルンいます」
「低音オールオッケー」
各パートリーダーの声を他所に、悠月はというと、瞑目して膝の上でピストンを押すように指を動かしていた。万全をキープしておきたいという気持ちからくる行動であることは、悠月自身理解していた。
「えー、と。サックスも大丈夫。はい、分かりました。七時過ぎにトラックが来るので、時間になったら速やかに積み込みを始められるよう準備をしておいてください。楽器運搬係の指示に従って楽器を移動してください。では、譜面係」
「はい。今から譜面隠しを配ります。各パートリーダーは取りに来てください」
小笠原がそこまで言ったのを聞いて、悠月は深く息を吐いて目を開いた。周りを見渡せば、緊張でどこか表情を固くした者、反対に本番が楽しみなのかうっすらと笑みを浮かべた者。各々がこの本番に対する思いが如実に現れている。
ガチガチに固まってしまうほどの過度な緊張はパフォーマンスを悪い方へ行ってしまうが、程々の緊張は自身のパフォーマンスにいい影響を与えてくれる。本番には、皆がこの状態になっていれば最高の演奏をできるだろう。
いつもより、少しだけ鼓動が早まっているのを感じる。理由は分かっている。背負うものがあるからだ。今までも背負うものはあった。だが、今回ばかりはその重さが違う。楽しくやるだけではいけないことを理解しているからこその緊張によるこの鼓動の早まりだ。
瞑目し、深く、深く息を吸って数瞬止まったあと、ゆっくり、ゆっくり、鼓動を静めるように吐き出していく。
この緊張も、背負っているものの重さも、どこか心地良さを感じながら譜面隠しを中世古から受け取った悠月は楽器運搬のために移動を始めるのだった。
それから、トラックが到着してから楽器運搬を終えた今、全員が校門前に集まっていた。そんな今、悠月は少し眉をひそめていた。というのも。
(……あつ)
暑い。暑すぎる。朝だから多少はマシだがそれでも暑い。コンクールで唯一嫌なことがあるとすればこの暑さの中、外で待機しなければならないことだろう。男子はまだ上を脱いで調整できるが、女子なんかはそれもできないから体感温度は男子よりも上だろう。当然、今悠月は上は脱いでシャツ姿だ。
「お前ら気持ちで負けたら承知しないからな!分かったか!」
松本の激励に対し、「はい!」という部員の返事のあと、いつぞやの時のように走ってきたために息を切らした滝が松本の隣に立った。
「はぁ……はぁ……すみません。お待たせしました。全員、揃ってますか」
「ええ」
「そうですか」
相変わらず正反対な二人である。普段から厳しく接する松本と練習以外では緩い滝。案外バランスは取れていた。飴と鞭、とは少し違うが両方普段から厳しいでは息が詰まるだろうからこれでいいのかもしれない。
「先生。ちょっといいですか?」
二人がやり取りを終えたタイミングで、部長が手を挙げる。
「どうぞ」
「森田さん」
「はい!えー、私たちサブメンバーのチームもなかが皆さんへのお守りを作りました。今から配りますので、どうぞ受け取ってください」
「イニシャル入りです」
チームもなかからのサプライズに、感嘆混じりの歓声が上がる。その声と同時に拍手が起こる。かくいう悠月も驚嘆を抱きつつ拍手をしていた。チームもなかもB編成として練習をしていたはずなのにその合間を縫って全員分作ったのだから本当に凄いと悠月は思った。
「皆行き渡りましたか? では、まず毎日遅くまで練習する中、全員分用意するのは本当に大変だったと思います。ありがとう。拍手!」
再び、惜しみない拍手がチームもなかへと贈られる。照れたように笑みを浮かべるチームもなかの面々の中には、受験勉強もある中でチームもなか、そしてサックスパートを見てくれていた斎藤の姿もあった。半ばこちらの我儘に付き合わせる形でお願いしたのにも拘わらず、部に携わってくれたことに本当に感謝と敬意を悠月は抱いた。
「では、そろそろ出発します」
「小笠原さん」
「はい」
小笠原が、滝に呼ばれて返事をする。
「部長から皆さんへ。何か一言」
「えっ!私ですか?!」
「よっ。待ってました、部長様」
滝にそう促されて驚いたように声を上げる小笠原を、ここぞとばかりに田中が茶化す。田中なりの緊張をほぐすための手段だろう。他人の心の機微を察した上でこういったコントロールをするのが田中は上手い。松本と滝のバランスがいいように、この小笠原と田中の部長副部長の関係も、バランスがいいように思えた。
「茶化さないの! 代わりに話させるよー」
「こほん。ではユーフォの歴史について」
「それはいいから」
二人の会話に、笑い声が上がる。
「えっと、今日の本番を迎えるまで色んな事がありました。でも今日は、今日できることは今までの頑張りを、想いを、全て演奏にぶつけることだけです。それでは皆さん、ご唱和下さい」
皆が、小笠原に習って握り拳を作る。
「北宇治ファイト〜」
「おー!!」と、小笠原の掛け声に部員たちの熱気は一気に最高潮へと達し、高らかに天へと手が伸ばされた。
「さぁ、会場に私たちの三日月が舞うよ!」
田中の掛け声にも、同様に声が上がる。
「はしゃぎすぎだ!」
ぴしゃり、と松本が叱って、手は下ろされていき静かになる。ノリ良く生徒と同様に盛り上がっていた滝が、ゆっくりと手を下ろしたあとその手を口元に持っていき「しー」と静かにするよう促した。案外滝はノリがいいようだ。
それから、すっかり神妙な表情になった部員たちがバスへと乗り込んでいく。発進してからは、ちらほらと話し声が聞こえる中、悠月は目を瞑って課題曲と自由曲を聴きながら指を動かしていくのだった。
会場に着いてから、部員たちは速やかに楽器をトラックの荷台から下ろし本番の準備を始めて、そして、今。
北宇治の順番が近づいていたこともあり、悠月たちは音出し用の小ホールへと移動していた。メインホールでは既にコンクールは始まっており、会場も観客で溢れているために当日は音出し用の場所が指定されていた。そして、実質的にここが本番前に音を出すことのできる最後の機会となる。
「では、この扉が閉じたら音出しして構いません」
学生スタッフの言葉に滝が頷いたあと、扉が完全に閉まる。それから、各々楽器のチューニングを始めていく。チューニングを終えると、今度は滝の指示のもとクラリネットのコンサートマスターを任されている鳥塚から段階的に楽器が音を出し始めていく。
目を瞑って楽器の音に耳を傾けていた滝が満足そうに頷いて話し出した。
「えっと……実はここでなにか話そうと思って色々と考えてきたのですが、あまり私から話すことはありません」
その言葉に、部員達の間にはなんとも言えない空気になる。だが、滝はなんでもないように話を続けた。
「春、貴方たちは全国大会を目指すと決めました。向上心を持ち、努力し、音楽を奏でてきたのは全て皆さんです。誇ってください」
そこまで話して、滝は手を打ち鳴らす。そして、続けた。
「私たちは、北宇治高等学校吹奏楽部です」
その言葉に、部員たちから笑みがこぼれる。その笑みは、自信に満ち満ちたそれ。本当に滝は士気を上げたりモチベーションを上げたりするのが上手い。普段あまり褒めたりしない人がこういう時だけ褒めていく。そんなことをされればどうしても気持ちは上がってしまうだろう。
「さて、そろそろ本番です。皆さん。会場をあっと言わせる準備はできましたか?」
返事はない。ないが、その沈黙は始めの頃とは全く違うものではないだろうか。
滝は、再度問いかけた。
「始めに戻ってしまいましたか? 私は聞いているんですよ? 会場をあっと言わせる準備は出来ましたか?」
今度は、皆一斉に威勢よく返事をする。
「では皆さん。行きましょう。全国に」
滝が扉を開け放つ。まるで、導くように。きっとその導きの先には、求めてやまないものがあるはずだ。決してその過程に存在する道は険しいものだろう。幾つもの枝分かれがあるかもしれない。だが、道はあるのだ。であるならば、進むだけだ。懸命に。求めたものを掴むために。最高の結末を掴むために。
舞台袖へと移動した悠月たちは、各々が思い思いにその時を待っていた。
悠月は愛器を胸に目を瞑っていると、背中をぽんと誰かに叩かれ悠月は緩慢な動作でそちらを見ると悠月と同じようにトランペットを胸に抱いた高坂がこちらを見ていた。
「しくじったら許さないから」
中々本番前、緊張しているかもしれない相手にこんな物言いをできる人はいないのではないだろうか。だが、多分これは彼女なりの激励。悠月は面食らったように少し高坂を見つめてから「……はっ!」と鼻で笑い飛ばして告げた。
「誰にもの言ってんの。観客をあっと言わせる演奏してみせるさ」
「ならいい」
悠月がそういうと、高坂は鼻を鳴らして離れていく。ちょうどそのタイミングで拍手が舞台袖にいる悠月の耳に届いた。それに釣られるように、皆が舞台へと身体を向ける。
そして。扉が開かれる。舞台を照らすスポットライトの光が道を指し示すように舞台袖へと伸びる。そして、皆一様に舞台へと歩みを進めた。
『プログラム九番。北宇治高等学校吹奏楽部。課題曲Ⅳ番に続きまして、自由曲は堀川奈美恵作曲『三日月の舞』。指揮は滝昇です』
アナウンスがなされる。悠月はこの感覚に自然と口角が上がるのを感じた。今、悠月が見ているのは指揮者である滝だけだ。だが、その後ろにいる観客全員の意識が自分たちへと向いている。そして、演奏を聞いてもらえるという感覚。
北宇治の演奏でこの場にいる全ての人の心を、耳を、目を釘付けにしてやる。そう意気込んで、悠月は集中を高めていく。そして、滝の振り下ろしたタクトに合わせて音を奏でるのだった。
北宇治高校の夢へと繋がる音楽は、今まさに始まった。
演奏を無事に終えた悠月たち北宇治の生徒たちは、舞台を見下ろせる観客席へと移動していた。周りを見渡せば、指先が黄色くなるほど祈るように両手を握りしめた北宇治の生徒たちがが舞台上を見つめていた。そして、それは北宇治だけに限らなかった。何百もの吹奏楽部員が、祈るようにして舞台上を見ていた。
最終的な判断を下すのは審査員。それは当然分かっている。だが、今できる最高の演奏をした確信が、悠月にはあった。そして、その完成度が関西大会へと進むことのできる三枠に入っているとも思っている。
「来た……!」という誰かの叫びの通り、結果が記された用紙を持った大人が姿を見せた。そして、バサリと広げられた。悠月は忙しなく目線を動かし続け、ある一点で固定されたその瞬間、北宇治の皆から歓喜に湧き上がった。
───北宇治高等学校、ゴールド金賞
まず一つ、資格を得た。関西大会への前提条件だ。本命の発表が間もなく行われる。壇上に司会者が立つ。北宇治の意識は紙から司会者へと移り変った。
『えー、続いて、この中より関西大会へ出場する学校は───』
手を握りしめる。北宇治の演奏は、立華のすぐ後。であるならば、立華が呼ばれれば次に呼ばれなければ北宇治はもう呼ばれない。
立華が呼ばれる。ホールの一部から歓声が聞こえる。次だ。
『───九番、北宇治高等学校』
瞬間、歓喜の声がすぐ周りで沸き起こった。悠月は小さく、手を握りしめた。
歓喜、というよりは、安堵。関西大会へ進むことができるという嬉しさより、関西大会出場という形で部の努力が報われたことへの安堵が大きかった。
次は関西大会だ。だが、今はこの喜びに身を任せようと、悠月は背もたれへと身体をもたれさせた。
場所を移動し、外へ出た北宇治は滝の言葉を待っていた。
「なんだかこれで大団円みたいな空気ですけど、明日から関西大会に向けての練習を始めますからね。私達の目標は全国大会です。次で終わりにならないよう、気を引き締めて練習に励みましょう」
歓喜に包まれた直後だと言うのに次を見据えて現実的な話をする滝の目が少し潤んでいるように見えたが、気のせいだろうか。
皆、関西大会が待っていることは分かっている。だからこそ、早く練習したいという思いが表情に表れているのがありありと伝わった。かくいう悠月もその一人だ。
「では、明日は九時から音楽室です。全国、行きますよ」
夏の青空の下に、部員たちの声が大きく響き渡った。
ありがとうございました。