想いを音色に乗せて   作:猫柳/nekoyanagi

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第001曲  清明

 

 

 

 誰しもこう思ったことはないだろうか。高校生って大人っぽいなぁと。特に小学生の頃なんかはそう思った人も多いのではないだろうか。しかしながら、いざ自分がその立場になったらその頃に感じた高校生像になれている気が全くしない。

 

 そして、高校の入学式という節目であり一大行事なのにも関わらず、やはり入学式の序盤は退屈さが拭えない。お偉い様方の話が長いのは全国共通なのだろうか。前日の遅くまで起きていたこともあり、眠気から来る欠伸を噛み殺す。両隣に大人が座っているのに大欠伸をかまそうものなら心象最悪だ。しかも、そんなことを仮にも新入生代表を任されているのなら尚更だ。それが学校の評価にも影響するのだから。

 

 校長や新一年生の担任になるのであろう教師たちと同じ場所に座る悠月の場所からは、新入生の顔が良く見える。緊張で顔を固くする者、不安で顔を曇らせる者、期待で顔を輝かせる者、退屈そうにぼうっとしている者、眠気から舟を漕いでいる者などなど。色々な新入生の横顔が良く見える。

 

(…………ん?)

 

 視線だけを右へやったり左へやったりしていると、不意にこちらに向けられる視線に気がついた。見られていると言うよりは、睨まれていると言った方が正しい。はて、睨まれるようなことをしたかな、と思いながら、何かしらがあったからあんな風に見られているのだろう。

 

 黒のロングの美人なんて一度見たら忘れないだろうしな、と思いつつ少しの気まずさを覚えて視界から外す。

 

(どっかで見たような気もするけど、どこだっけ……まいっか)

 

 何処かですれ違ったから他人の空似だろう。そう結論付けて思考を放棄するのだった。

 

 今更だが、入学した高校について簡単に説明しておこう。

 

 京都府立北宇治高等学校。偏差値は中の上。進学実績は───関関同立は行けたら凄い、産近甲龍がボリュームゾーン、そんな話を中学の頃の進路指導がしていたような気がする。悠月は北宇治以外選択肢がないも同然だったから聞き流していたが───そこそこ。立地は悪くもなく良くもない。部活動は十年くらい前までは吹奏楽コンクールが強かったらしいが今は見る影もない。制服は、女子のセーラー服のデザインが可愛いということで進学を決めた女子が何人かいた。唯一の特徴が女子のセーラー服くらいという、本当に普通という言葉がぴったりな高校だ。

 

「続きまして、新入生の挨拶です。新入生代表、明瀬悠月(あかせゆづき)

 

 入学式は進行していく。立ち上がり、何席か間に挟んだところにいる校長に一礼、新入生達を挟んで向かいに着席されている来賓の方々に一礼、壇上に上がって一礼、演台の前に立つ前に一礼をして演台の前に立つ。そして、静かに、それでいて大きく息を吸った。

 

「暖かい日差しに包まれ、春の美しい桜が満開になり始めた今日この頃、───」

 

 そういえば、新入生代表挨拶の前に校歌斉唱があったが、初めて演奏の質に対して怒りのような不愉快さを覚えたかもしれない。

 

 入学式という荘厳な場で、新入生にとっては人生で一度の高校での入学式であり、保護者にとっては我が子の門出を祝う場なのだ。そのような場において学校の誇りとも言える校歌の演奏をするという大役を任されたのにも関わらず、耳に届く音はこの場において相応しいとは到底思えないものだった。

 

 これは多少音楽を齧った者ならば直ぐに頭に浮かぶものなのではないだろうか。有り体にいえば、下手。下手なだけで怒りを覚えたことなどただの一度もなかったし、こんな怒りを抱いたところで無駄なことは分かっていた。どの学校の吹奏楽部も目指す先と熱量に差はあれど部活動なのだ。所詮部活、ただのぶかつ。そんな考えを持つのもそれもまた正解だ。

 

 そして、凋落を歩みここ数年府大会銅賞のこの学校の部活に最低限を求めることすら酷なのだろう。ただ、新入生に対して何も思わないのは個人としては気にしないが、TPOを弁えた振る舞いを心がけるのは大人になっていく上で必須では無いのだろうか。

 

 と、愚痴はこまでにしておく。所属するつもりの部活のことなのだし。それに、もう、挨拶も終わることだし。

 

「───ことを誓い、新入生代表挨拶とさせていただきます。」

 

 多少先行き不安な、高校生活が今この場をもって始まるのだった。

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 彼、ここに進学していたのか。第一印象は、そんな素直な驚きだった。

 

 毛流れセンターパートにした女子の私でも羨ましいと思ってしまうほど艶のある檳榔子黒の髪。そして、日焼けを知らない健康的な白い肌。あのまま髪を伸ばせば美女と見紛うほどの中性的で恐ろしく整った容貌。目測で180は超えているであろう長身で長い手足を持つ体躯。彼の口から奏でられる声は落ち着きも持ちながら軸がしっかりとしており、聞き取りやすく穏やかで聞き心地のいい中性的な声。

 彼を構成する全てが彼を魅力的に引き立たせているのは誰から見ても分かる事だった。だが、だがである。

 

(むっかつく……!あいつっ、私の事ぜったい覚えてなかった!!)

 

 彼への印象は僅か一分と経たずに「ムカつくやつ」へと変化した。しかも、彼はこちらも歯牙にもかけない様子だったことが心に生まれた黒い炎のような感情をより燃え盛らせた。いや、分かっている。直接話したことはなく、こちらが一方的に認知していることくらい。そして、自分の実力が不足していたからこそ彼の関心を引けなかったことも。

 

 彼、明瀬悠月を知ったのは小学三年の時。若い音楽の才能を発掘するという国内でも音楽家の登竜門であり権威あるコンクールでのことだった。私は高坂の娘として既に幾つものコンクールに出て、最低でも入賞を果たしてきた。その時は、その年の最後の集大成となる演奏をできた自信があった。驕り、慢心はなかったはずだ。できることは全てやれたつもりだった。だが、その自信は砂城が崩れる時のように容易く打ち砕かれた。

 

 伸びやかな高音、プロ顔負けの演奏技術、演奏曲目の魅力を最大限音色に乗せた表現技法。同年代にまだここまでの奏者がいたのか、と私も驚いたが、周りにいた大人は思わずざわつくほどの衝撃を受けている様子だった。

 

 初めて「勝てない」という思いが心中を支配した。悔しさを抱けなかった自分に情けなさと悔しさを抱いた。そして、私個人の、高坂の娘としてのプライドが負けたままという事実を許さなかった。

 

 その「勝てない」は「憧れ」へと昇華し、次また競い合う時は私が上になるという負けん気で練習に打ち込むことになった。だが、このたった一度の邂逅以降、再び顔を合わせることはなく次にその顔を見たのは中学生の時、彼の学校の演奏を聞いた時だった。

 

 あれだけの才能がありながら辞めたのかという懸念もあったから続けているのが分かったときは波紋のように嬉しさが広がった。そして、彼は音楽だけではない、人を導く才能を以て、全国金賞へと導く姿を眺めているだけだったことがまた「敵わない」という思いを抱かされたのだった。

 

 というのが、経緯だ。だから、こちらから一方的に知っているだけで、演奏で彼の上を取ることも彼に私を意識させる機会はついぞなかったのだ。

 

 しかし、これは好機だ。この三年間、彼とほとんど毎日顔を合わせるだろう。今度こそ、彼に私『高坂麗奈』という存在を意識させ、音楽で私の方が上と証明してみせる、と決意するのだった。

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 なんでこんなことになったのだろうか。

 

 隣には、入学式でこちらを見ていたというより睨んできていた黒髪ロングの美人───名前は高坂麗奈と言うらしい。やはり何かでその名前を見たような気がする───がいた。悠月達は今、吹奏楽部に入部届けを提出するために音楽室へ続く廊下を歩いていた。

 

 事の発端は、数分前、入学式が終わり、教室にてガイダンスが行われた後のことだった。

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、貴方」

 

 さて、音楽室行くか、と席を立ち上がった時だった。後ろから凛とした声が鼓膜を震わせた。そちらを向くと、記憶に新しい入学式にて悠月を見ていた少女がそこにいた。

 

 艶のある濡れ羽色の長い髪。整った容姿。その姿は正しく美人と形容すべきもので、彼女の瞳と立ち姿からは確かな自信をかんじさせるものだった。

 

「明瀬君よね。西中でトランペットをしてた」

「……そうだけど、えっと、貴女は?」

 

 大人と接していることで身につけた処世術と接客術はこういう時に便利だと思いつつ余所行きの人好きのする笑みを浮かべ、既にこちらの事は知っているようだから頷いてから彼女のことを聞き返す。だが、何かが不満だったのか、微かに眉を顰める彼女に悠月は内心に焦りを浮かべる。

 

(やべ、まずった。やっぱり何処かで会ってんのか?)

 

 悠月が人付き合いをする上で心掛けているのは一度会った人に対し「君誰だっけ」はしないこと。一度話されたことは忘れないこと。大部分はこのふたつだ。細かなものは幾つもあるが、それは今はいい。今悠月は前者をやらかしたんだと思い、謝罪を口にした。

 

「ごめん。何処かで会ったのかな」

「……私が一方的に知ってるだけだし、これが初対面だから」

「そ、そう?ならよかった……」

 

 安堵から心中で胸を撫で下ろす。第一印象が悪くつくとその改善はかなり手間と苦労がかかるからだ。

 

「私は高坂麗奈。中学は北中で貴方と同じくトランペットをしてる」

「北中……?」

「えぇ。知ってるの?」

 

 彼女の出身中学に悠月は片眉を上げて繰り返す。知っているも何も、個人的に注目していた学校だ。府大会の時、自分たちの前の演奏だったから、舞台袖から聞いていた。課題曲は二番、自由曲はJ・オッフェンバックの「地獄のオルフェ」。

 

 悠月自身は自分たちの演奏のこともあったからすべてをしっかり聞いていたわけではないが、ときたま不意に聞こえてくる誰かのトランペットが凡そ中学生のそれとは思えない完成度をしていたからそれだけは印象に残っているのだ。ただ、技術的には申し分なかったものの何処か孤高のような雰囲気を感じさせるというか、周りを顧みない音色に「孤高ってより孤独だなこれは。もったいない」という感想を持ったのを覚えている。

 

「勿論。だって府大会の時ウチの一つ前だったでしょ?演奏、舞台袖から聞いてたよ」

 

 一部しか聞いてないけど、とは言わない。余計な一言は身を亡ぼすのだ。高坂は何やら考えるように視線を彷徨わせてから、まっすぐな目線をこちらに寄越した。

 

「どうだった?私たちの演奏」

 

 評価を寄越せ、とそう言っているらしい。別に渋る理由もないため「そうだなぁ」と漏らしてから学生鞄を肩にかけ、廊下を指で示す。

 

「吹部、練習始めてるだろうし歩きながら話そうか」

 

 悠月の提案に高坂は言葉なく頷いた。

 

 そんな経緯があり、悠月は高坂と共に音楽室へと向かっていた。

 

「全体の完成度こそダメ金っていう評価だったけど、光るものはあったっていうのが僕の評価かな」

「光るものって?」

「トランペットは多分一人だけ学生のレベルを超えてたし、ホルンとトロンボーンにも中学生レベルなら上々な奏者はちらほらいたし、その一部は同じ楽器を使い続けるなら伸び次第で化けそうだなと思った、かな」

「ふぅん」

 

 あれ、と悠月は小首を傾げる。とりあえず良かった点を挙げて言ったのだが、何やら納得いっていない様子の高坂。「なら、」と何に引っ掛かっているのだろうと思っていた悠月にまた問いかけた。

 

「何が足りなかった?取り繕わないで言ってほしいんだけど」

「……へぇ」

「何よ。へぇ、って」

 

 無意識に出た感嘆に悠月は咄嗟に口を閉じるが、時既に遅し。高坂に睨まれていた。今のはこっちの失態だから仕方のない事だが。

 

「いや、素直に感心した」

「なによ感心って」

「言葉の通りだよ。気を害したのならごめん。自分のだったり、あるいは自分たちのであったり。足りないものと向き合うって中々できない人いると思うんだ」

「普通でしょ?」

「普通をできない人もいるんだよね。これはたった十五年生きただけの子どもの経験則。それが環境故そもそも選択肢がないのか、本人の意識が低いのかは言及しないけども。誰しも来るのが分かってる痛みからは目を逸らしたくなるんだよ。自分の欠点なんてその筆頭じゃないかな。あ、あと注射もか」

 

 そう。普通のことではないし、これが当たり前にできるのなら誰しも上達に苦労しない。悠月も最初は言われるまでできていないことに気が付かなかった。高坂は多分身近にそういうことを聞ける相手がいるのだろう。聞くことが普通と考えられるのはそれが特別と思っていないかつ習慣化している者のそれだ。

 

 これは思考の飛躍、妄想じみた邪推だが、上達する上で技術的な成長の停滞の苦労や悩みはあったのだろうが、そもそもそこに至るまでに必要な環境は与えられているのではないだろうか。いわゆる最初から恵まれた環境で始めることができたタイプなのだろう。悪く言えば、下駄を履いているからよーいスタートの時点で皆より先にいる。

 

 人のことばかりで悠月自身はどうなのだと言われれば音楽に関しては高坂側だ。教えを乞う人はいるし、自分から聞きに行く習慣はついていると思う。だが、その環境は始めからではなかったしそんな環境と出会えたのは運が良かったとしか言いようがない。

 

 経緯を考えれば、音楽に没頭するしか選択肢がなかった精神状態に当時はあったから、それが良かったか悪かったかでいえば即答はしづらい。とはいえ、それを得るために払った犠牲ともいうべきものは計り知れなかったし、たったそれだけのために払うような犠牲では絶対なかったと今でも思うが、それもまた運命なのだろう。

 

 ただ、もう一度あの時に戻れるなら悠月は絶対にその犠牲を払わない方を選ぶ。当時はまだ自立もできていない子どもだったから選べるかはまた別問題であり十中八九現実から逃避するために音楽に没頭する道を選んでいたとは思う。

 

 しかし、悠月は、トランペットの、音楽の才能の開花の為に人生を代償にするほど音楽に囚われてはいない。愛してはいるが。

 

「ちょ、ちょっと待って」

「ん?」

「貴方、注射苦手なの?」

「だってあれ避けれんし、絶対痛いの分かってんじゃん」

「……子どもね」

「子どもだよ」

 

 呆れるように言う高坂に堂々と告げ、話を戻す。

 

「ん〜。全体をちゃんと聞いてた訳じゃないから適当なこと言えないなぁ。ノーコメントでもいいかな?それに、今中学の頃の反省しても遅いでしょ。直しようもないし、これからは北宇治なんだし前を見ないと」

「……それも、そうね」

「それに、さっき言ったホルンとトロンボーンはまだしも、ことトランペットの子に関しては技術面は僕何も言えないよ。あれはプロに頼めるならそっちに講評を頼んだ方がいいレベルだ」

 

 ちゃんと聞いていないから具体的なことは言えず、それっぽい理由をつけてコメントしなかったが、渋々と言った様子だが納得してくれたようだ。そして、ことトランペット。これに関しては悠月が言えることは何もない。あれはもうプロに片足突っ込んでるレベルだから一介の高校生ごときが口を挟める問題ではない。

 

 そこまで口にして、そういえば、と悠月は引っかかりを覚えた。高坂、京都府宇治、トランペット、それらの要素を何処かで見たような気がするのだが、どこでだっただろうか。

 

 高坂との間に会話らしい会話が発生しなかったので、その引っかかりをずっと模索していたのだが、とうとう思い出せずに音楽室までついてしまった。どうやら、チューニングをしているようで、中からは楽器の音が聞こえてくる。

 

「着いた」

「先、どうぞ」

「別にいいのに。ありがとう」

 

 レディファーストという言葉があるくらいだ。その言葉に見習い悠月はドアに手をかけて麗奈に先に入るよう促し、高坂が入るのを見計らって自身も中へ入るのだった。

 

 

 

 

 

 

 あの後、入学式当日に入部届けを出す新入生がいるとは思わなかったのか指揮を取っていた部長は驚いていたが、無事、入部届けを提出することができた悠月は帰路についていた。訳ではなく、一度は自宅へと帰ったが、今は仕事先への通勤路を辿っていた。空気を切り裂き全身で風を感じながらバイクを走らせ、周囲を忙しなくフルフェイスヘルメットの中から見渡しながら音楽室でのことを振り返っていた。

 

(レベルが低いのはまあ知ってたとして、思ったより実力のある纏まったパートはあったな)

 

 元々の想定が低かったこともありそれよりは上回っていたが、それでも下手さ粗さが目立つ。そんな中でも耳に残ったのは、ユーフォニアムの「あすか」と呼ばれた三年生。トランペットはあすかなる人物とは別系統の美人の三年生とでかいリボンが特徴的な二年生が纏まった上手さと技術を備えていた。

 

 その他にもちらほら基礎が多少なっている者が個人単位であったが、あれが成長しないのは環境というか部の空気がそうさせているんだろうなと悠月は思った。空気が人を変えるのは実体験として悠月は経験している。だから、きっかけがあれば爆発的に成長可能性のあるが、今の状態ではそれは皆無だろうし腐るのも仕方の無いように思える。それに。

 

(二年生異様に少なかったな。先輩が言ってた集団退部騒動ってあれのことか)

 

 西中から北宇治に進学した先輩に数人、吹奏楽部に入部したはいいがあまりの熱量の違いに集団退部をしたという者がいた。ちょくちょく中学の練習に来る度にその帰りに北宇治の吹部やばいわという愚痴を延々聞かされるものだから「それならうちで練習していいんで後輩に教えてやってくれませんか。顧問には許可取っときますんで」と冗談のつもりで言ったら本気にしたらしく本当に練習に参加するようになったという事態が起きたほどだ。ちなみに今はその先輩方は市の吹奏楽団にも通ってるらしい。

 

(何が困るって来年以降だよなぁ。退部したのは大体経験者って言ってたから今いる二年に質は求めらんないし、それ以前に量がいなければ何も始まらないし)

 

 退部したのは大体やる気のあった経験者、ということは逆説的に部に残った今の二年は今の環境でもいいと思ったから残ったのだろう。これは部活動を最低限ちゃんとやりたいという人にとっては毒だ。空気としてしない・やらない・頑張らないが悪習としてこびりついてしまっているから。今日のチューニングを聞くに基礎をそもそも知らないという先輩もいそうだ。

 

 中学の時はある程度頑張ることが空気としてあったから悠月も苦労はあったがやるところから始めるということにはならなかった。空気というのは簡単に人を変えてしまう。それは、いい意味でも悪い意味でも。頑張る空気の中だと頑張れてもやる気のない堕落した空気だとそれに足を取られるかのように引っ張られてしまうのだから。

 

(……様子見かなぁ。考えれば考えるほどぽっと出の一年の分際でできることねぇわ……っと)

 

「着いた」

 

 ヘルメットを外し、押さえつけられていた髪を振って手櫛である程度整える。所定の場所に黒と白が基調のスポーツタイプのバイクを停めて鍵を掛けていく。免許も含めて初めて大きなお金を使った買い物だ。大事にしなければならない。

 

 『Blue Palette』。市内、今でも洛中と表現されるそこの一等地にいちするジャズバーである。

 

 代議士、府議会議員、弁護士、官僚、医者、企業の社長、芸能人、アーティストからサラリーマン、主婦という幅広い客層が集う格式高くも世俗に触れた落ち着きのある雰囲気が流れるBGMのように漂う場所だ。

 

 そして、ジャズバー、という名の通りこれだけ広い客層の共通点が一つ存在し、それが皆一様に音楽が好きであることだ。そして、ここでは著名な音楽家も公演に来る音楽好きにはたまらない店となっている。

 

 未成年がなんでこんな所でバイトしてんだと思うだろうが、マスターが父の兄であり身元引受人であるため名目上は雇用関係ではなく店の手伝いということになっている。雇用契約はしっかり結んでいるため給料を貰っているが、そこに関しては桁が二つ多くないかと言うくらい貰っているが、夜職は大体そんなものらしい。

 

 小学校低学年から養ってもらい、中学に上がると同時に申し訳なさとある程度自分でできるようになったことから手伝うようになり、今でも続けている。今では常連客には顔も覚えられ、孫か息子のように接してもらえるくらいの関係値を築けている。

 

 ちなみに、悠月のシフトは週5回で土日祝の17時から22時までの実働5時間と平日一日の20時から22時の実働四時間で時給は一万と少し。それにプラス演奏のインセンティブだ。そして、お客からの演奏の要望の際は依頼料と称して諭吉が二枚ほど渡されることがある。

 

 叔父が税務処理でひーこら言っているのをたまに見ては苦笑しているのは恒例と化している。あれもいずれは自分でしないといけない。

 

 完全に夜職じゃないか、睡眠時間どうなってんだと聞かれることもちょくちょくあるが、当然少ない。いわゆるショートスリーパーと言うやつで、そもそも長時間の睡眠時間を必要としない体質なのだ。とはいえ身体には当然負担もかかっているだろうから焼け石に水かもしれないが日中、学校の休み時間は大体睡眠に充てている。命の前借りであるのは百も承知でその上で将来のためにも今、稼ぐ必要があるのだ。これ以上叔父に迷惑をかける訳にもいくまい。叔父にも家族がいる。

 

 彼の妻は今回復傾向にあるとはいえ入院中だし、二人いる姉妹は上が神大の医学部、下は確か慶医だ。ただでさえ負担が大きいのに血縁とはいえ他所の息子がこれ以上の負担をかける訳にはいかない。引き取ってもらった恩もある。恩を返した上で行動を以て感謝をしたいのだ。

 

 扉を開けると、ベルがからんからん、と音を鳴らしながら来客を告げる。ゆったりとしたメロディのジャズBGMがまず最初に耳に届き、その次に暗い色の木材が基調のシックな内容が視界に移る。最奥にはカウンターが並び、その奥には色んな国から取り寄せられた多種多様な酒が立ち並んでいる。

 

「おはようございます。叔父さん」

「おう。おはよう。どうだった。入学式は」

「普通、かな。あ、校歌斉唱は酷かったな。演奏が」

「演奏?悠月のとこ強豪校じゃなかったか?」

「それ十年前とかだよ。今は落ちる所まで落ちてる。府大会もここ数年ずっと銅賞。下限がなかったら僕が審査員なら参加賞すら出さない。ダントツで下手だと思う。何が問題って問題を問題と思ってないところだよ」

「……悠月がそこまで言うってよっぽどだな」

 

 ホントにね、という言葉は出さず、代わりに準備してくる、と残しバックヤードに入る。

 

「あ、おはよう。悠君」

「悠君やめてください……おはようございます。瞳さん」

「高校入学おめでとう」

「ありがとうございます」

 

 バックヤードに入ると、背中まで伸びた髪を緩く巻きこの店の制服に身を包んだ綺麗な女性がいた。瞳さん。本名は秋野瞳。現役の京大生で教育学部に在籍している三年生だ。壁に貼り付けられた用紙と難しい顔をしながら睨みつけていた。悠月はどうしたんだろうと思いながら横からその紙を覗き見る。

 

「……どうしたんです?」

「あのね、今日公演予定だった幾田さんが体調崩しちゃったみたいで、その時間がぽっかり空いちゃってるんだよね」

 

 幾田さん。ここの常連で世界中を飛びまくっているヴァイオリニストだ。纏まった休暇が取れた時は必ずここで公演をしてくれるため悠月とも関わりが深い。そして、この店では基本誰かが演奏をしている時間が続き、演奏を絶やさないのがマスターの信条だ。だから、こういう突発の空きができ埋まらなかった時は店員の自分が埋めるようにしている。

 

「僕入りましょうか?今日フリーで常連の方から演奏頼まれてるので楽器の調子も見ておきたいですし」

「いいの?」

「はい。じゃあご飯食べたら戻りますね」

「ごめんね。ありがとう、忙しいのに」

「いえいえ。その分お酒の提供は任せっきりですので」

「当たり前でしょー?君まだ未成年なんだから」

 

 この店での役割は単純明快で、悠月が料理及び演奏たまに接客、瞳が接客とフロア、マスターである叔父が酒だ。

 

「はは。じゃあ、着替えたら出ます」

「はーい」

 

 軽く笑って制服を持って更衣室のドアに手をかけて言う。瞳はひらひらと手を振って彼女はフロアへと姿を消した。そして、制服に着替え終えた時には、学校の憂いは脱いだ制服と共に頭から綺麗さっぱり消え去っていた。

 

 

 




 
 
 
 ありがとうございました。

 
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