想いを音色に乗せて   作:猫柳/nekoyanagi

20 / 21



 お待たせいたしました。今回のお話ですが冒頭に暗い展開が入っています。苦手な方はごめんなさい。ただ、ちゃんと既定路線です。

 お気に入り、感想、評価ありがとうございます。これからもお待ちしております。誤字修正報告もありがとうございます。非常に助かっております。
 
 
 


第019曲  合宿一日目

 

 

 

「……うわ」

 

 朝、目が覚めて顔を洗うために洗面所に来た悠月は、鏡に映る自分の顔にそんな声を上げた。隈が一目見て分かるくらいに目立っていたからだ。しかも、注視すれば目も少し充血している。誰が見てもやつれていることが分かる顔がそこにはあった。

 

 昨日あまり眠れなかった上に睡眠の質もあまり良くなかったしななんて思いつつ、とりあえず顔を洗うためヘアバンドで髪を留める。そして、流水で顔を濡らしながら考えるのは、お盆休みの帰省でのことだった。

 

 

 

 

 

(……挨拶も終わったし、帰るか)

 

 思ったよりもすんなりと、挨拶は終わった。というよりかは、早く挨拶を終わらせたかった悠月と、この場から早く去れと思っていた親族たちの考えが合致した結果、形式的な挨拶のみとなったの方が正しいのだろう。

 

 それにしても、どっと疲れたように感じる。勿論、体力的な疲労ではなく、精神的な疲労だ。

 

(帰ってから一眠りしようかな……)

 

 今日はもう何もする気が起きそうにない、そう思って帰り支度を済ませ玄関に向かった悠月は広間での親戚の会話を拾ってしまった。この時ばかりは無駄に優れたと言わざるを得ない聴覚を恨みたくなった。

 

 そして、それが、恐らくはこれまで能面のような笑みを顔に貼り付け耐え忍んできた悠月の琴線に触れてしまったのだろう。心の何処かにある大事なものが、汚れた気がした。

 

 

 

───明瀬家の恥晒しの息子がよく顔を見せれたものね。

 

 

───人殺しの倅め……初めからさっさと降りていれば良かったのだ。

 

 

───まあいいではないか。これで邪魔なものは全ていなくなったのだから。

 

 

 

 ぷつん、と幻聴するくらい、悠月は何かが切れてしまった。最初は挨拶だけして速やかに退散するつもりだったのだが、帰り際に遺産目当てで悠月の存在が疎ましく感じているのだろう親戚が放った言葉の数々。

 

 自分のことを悪く言われたからではない。仮にも血縁である両親に対して向けられた悪意の数々。そして、両親は家族としてすら見られていなかったのだと気づいてしまったから。それがただただ耐え難かった。

 

 何を言い返したのか。激怒したような、悲嘆したような、怒鳴り散らしたような、泣いたような。とにかく、そのあと、帰宅し、目の前に叔父がいることに気づくまでの記憶は酷く曖昧なものだった。

 

 最後に見たのは確か、迎えに来た叔父の車窓から見えた空だったような気がする。この日は、心象が具現化したように、酷く暗い曇天模様だった。

 

 

 

 

 

 こんなことがあり、結論はと言えば事実上の絶縁だ。悠月としては、手は出していなかったということが分かり、それだけは偉かったと自分を褒めたいくらいである。

 

 ただ、親族と縁を切ると言っても、今の自分はその親族に面倒を見てもらっている身だ。叔父との縁は繋がっていたいけれどそのほかの親族とは縁を切りたいというのは自分に都合が良すぎる。そう考えてまずは迎えに来てくれたらしい叔父へ感謝と謝罪、そして自身の考えを口にすれば、話を切り出した悠月が拍子抜けしてしまうほどあっさりと納得してくれた。

 

 曰く、俺から見てもあいつらは少しでも縁が繋がっていれば遺産に限らず金の無心をしてくるだろう、と。

 曰く、俺だけでなく娘たちも今の悠月と同じような状況に過去なりかけたから気持ちは理解できる、と。

 曰く、むしろよくここまで我慢してくれていた、と。

 

 悠月がこういった話を切り出すのは想定内というような反応だったことに疑問を呈すれば、叔父からはそんな答えが返ってきた。どうやら、経験則に基づく結論、だそうだ。むしろ、悠月が精神的に病んでしまう前に解決して良かった、だそうだ。

 

 その後のことは、あまり把握していない。というのも、叔父が諸々の面倒事を引き受けてくれたからだ。最初こそ、自分のことなのだから最後まで始末はつけると言ったのだが、これ以上関わらせたくないという叔父の強い意志に最終的には悠月が折れて叔父に任せる形となった。

 

 この出来事が無意識のうちに思っていたよりも精神的に負担になっていた。それが結果としてこの寝不足に現れているのだと顔にタオルを当てながら体の不調として現れたのだろう。

 

(リフレッシュとは程遠い休暇だったな…………)

 

 やれやれ、と悠月はタオルの下で自嘲の笑みを浮かべてから、ぱん、とスイッチを切り替えるようにタオル越しに両頬を叩く。そして、顔を上げタオルを顔から離しながら瞼をあげると、二重の帳がなくなったことで顕になった素顔が鏡に映されていた。

 

 そこには、いつも通りの明瀬悠月らしい笑みがあった。

 

 

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 

 

「はーい。じゃあ皆バスに乗り込んでくださーい!」

 

 早朝、学校に集合した北宇治高校吹奏楽部は楽器運搬を済ませると、休憩を挟む間もなく、部長の指示に従って各々バスへと乗り込んでいく。頬を伝う汗を拭いながら悠月も乗り込んで空いている席へ腰を下ろす。

 

「よ、悠月」

「おはよ、秀一。今日は滝川のほうじゃないんだね」

「そうなんだよ。先約がいたみたいで……ほら」

 

 挨拶と共に隣に腰をかける秀一に悠月も挨拶を返して問いかけると、秀一は含みを持たせながらそんなことを言い目をバス後方へと送った。それを追うように悠月も少しだけ腰を浮かしてちらりと後ろを見ると、確かに滝川の隣には先約が既に座っている状態だった。

 

「なるほどね」

 

 全員が乗り込んだのを小笠原と顧問の滝が確認を終えると、バスは発進した。おそらく合宿自体初めての者が多いのか僅かに浮つき話し声が絶えぬ中、悠月は隣にいる秀一の腕を肘で小突いた。

 

「秀一。黄前さんと関係進んだ?」

「な、なんで俺の話になるんだよ」

「進展なしか」

「うっせー。このお盆は会ってもねぇよ……」

 

 心做しか落ち込んでいそうな秀一に悠月は内心でエールを送る。頑張りたまえ恋する少年よ。

 

「……つか悠月その手の話するのな」

「たまにはね」

「ほぉん。で、悠月こそどうなんだよ」

 

 周りの喧騒に溶け消えるような声量で話を続けていると、秀一がカウンターのつもりか悠月がしたのと同じ質問を返してきた。それに対して、悠月は肩を竦める。

 

「そっちも同じかよ」

「あはは」

 

 答えをに濁しつつ、都合よく秀一が勘違いしてくれたのを良い事に悠月は違うことに思考を割いた。

 

(恋愛、恋愛ねぇ……)

 

 恋愛願望がない、というわけではない。ただ、縁がないだろうなとは思う。女性との縁、ではなく、恋愛自体することがあるのかという点でそもそもする時間がなさそうだ、と考えている。バイト、勉強、吹奏楽と優先事項が決まっていて、仮に彼女ができたとして時間を割ける気がしない。

 

 悠月は自分を過信していない。フィクションなのかそうでないのかは定かではないが、「私と仕事、どっちが大事なの!?」と聞かれれば即答で仕事と答える人間であると悠月は自らのことをそう評価している。

 

 そう考えると、言うまでもなく。

 

「……しないだろうな」

 

 その声は隣にいる秀一に届くことすらなく空気に溶けて消え、同時に浮ついた思考も捨て去る。そして、車窓を眺めながら、今日から二泊三日の合宿でどれだけ課題を発見、改善し成長できるかのその一点に思考を集中するのだった。

 

 

 

 

 

 今回利用する合宿所は、北宇治から高速道路を使って凡そ三十分の場所にあり、その周りを自然に囲まれている。この場所を、悠月は昨年初めて吹奏楽部で利用した。

 

 合宿はいいものだ。娯楽を断つことで音楽だけに没頭することができ、貸切であれば施設のルールの範囲内で何も気にする必要がない。そして、これまで学校、部活という枠組みでしか関わりのなかった相手の表面上の為人だけでなくより深く知ることのできる。

 

 協調性、社交性、他者理解、エトセトラエトセトラ。濃密な時間の中でこれほどの学びを得られる機会というのはそうそうないだろう。

 

 そういった考えを脳内で巡らせているうちに合奏の準備は全て整い、練習ができるところまで完了したのは九時が過ぎた頃だった。今回の合宿で、皆が全体練習を行う場所である研修室に集まっているのを確認して滝は口を開いた。

 

「この三日間、こちらの合宿所はうちが貸し切っています。お金のことをあまり細かくは言いたくありませんが、皆さんのお父様お母様方からいただいた活動費で今回の合宿は行えることになりました。今この場にいることが当たり前のものではなく支え合ってのものなのだということを理解してください。決して安くはない金額を支払っている以上、それに見合うだけの成長を今回の合宿でしてほしいと思っています」

 

 滝の言葉のあと、練習は基礎練習から始まった。二日も楽器から離れていれば、本来の調子をすぐに取り戻すのは難しい。そう滝も考えたのか基礎練習は入念に時間をかけ一音一音細部まで丁寧に吹いていく。「一日休めば、休む前の腕を取り戻すのに三日はかかる」という言葉もあるくらいだ。無駄にはならないだろうし、基礎練習はいくら積んだとして、プラスにはなってもマイナスにはならない。

 

 本来の調子を取り戻していくのを感じながら、普段よりも時間をかけて入念に基礎練習を行った後は、いよいよ合奏練習へと移った。

 

「それでは、休み前の練習で告知していた通り、まずは十回通しから始めましょう」

 

 滝の指示に、いつもより広いスペースでの練習のために普段よりもよく見える部員たちの強ばる表情が悠月には良く見えた。

 

 十回通しとは、その名の通りの練習メニューである。課題曲と自由曲をワンセットとして、十セット休むことなく行う練習法のことだ。コンクール本番では十二分の演奏を行うため、課題曲と自由曲の間に二分の休憩を挟んでも合計で百六十分はこの練習に費やされる。しかし、この理屈が机上でしか通用しない論理であることはこの練習をしたことがあるなら身に染みていることだろう。

 

 というのも、実際にこの練習をしてみれば分かるが後半になると、二分のインターバルでは体力は万端にまで回復することはないので当然休憩時間は延びる。そのため、結局は三時間は軽く超えるのがこの練習メニューの恒例だ。

 

 そして、十回目の演奏を迎えた頃には部員は勿論、各パート、いや、一人一人の音を聞き逃さんと気を張り続けている顧問も体力が消耗してくる。他のことで例えるならシャトルランをしているとリズム自体は一定なのに後半になるにつれて体力の消費が積み重なているために一回が重たくなってくるのに近いかもしれない。

 

 この練習の良いところは、余計なことに思考を割く余裕がないからか集中はより研ぎ澄まされていくうえ、不思議と一体感が強まってくることと、指揮のタイミングや音の出だし、合わせにくい音の細部までも肌で感じ取れるようになるため、効果自体は絶大なものがあることだろう。

 

 如何せんキツイという点も含めて、悠月はこの練習が好きな練習メニューの中でも上位に入るくらいには好きだった。自分の音が洗練されていくのを実感できるという理由だけでなく、曲自体の完成度も上がっていく気持ちよさのようなものがあるからだ。

 

 そんなことを考えながらお手洗いを済ませた悠月は、他の部員と同じように合奏練習を行っていたホールへと戻る。そして、それから間もなくして通し練習が再開された。目を閉じ、深く一息吐いて気を引き締めた。

 

 滝の持つ指揮棒がゆっくりと振り上げられたのを見て、息を吸い込む。そして、一瞬の間のあと、滝が指揮棒を振り下ろした瞬間、トランペットの華やかな音色が弾けた。

 

 

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 

 

「な、なんか、滝先生の彼女さんっぽい人が来てるんだけど!」

 

 そんな言葉が悠月たちの耳に飛び込んできたのは、十四時過ぎに通し練習を終えて疲労困憊のまま食堂で昼食にありついている時だった。

 

(ん〜……?ないかなぁ)

 

 普段滅多にお目に架かれない大人の色恋に色めき立つ彼女らを眺めながら悠月は瞬時にそれを何かの勘違いであると切り捨てた。何を見たのかは直接視認していない悠月には分からないが、可能性としてあるのは橋本と同じように指導で来てくださった外部指導者くらいだろう。

 

 というか、ロマンのロの字もないが、十中八九外部指導者だろうと悠月は推察を立てた。別にあてずっぽうでこの可能性を残したというわけでなく、根拠自体はしっかりある。というのも、今月頭に徴収された部費が八月以前よりも上がっていたこと。そして、徴収前に配られた封筒に入れられた部費関係の手紙には、費用項目の部分にレッスン費という項目が二つ追加されていたことから外部指導者が二人いることは明らかだ。となれば、もう一人の指導予定日が今日からだったと考えられる。

 

 というのが悠月の理屈建てた推察であり、そして、理屈ではない部分で語るとするならば、教え子の目があるような場所で逢引をするような非常識な大人であってほしくない、とそこまで思考した時だった。ガシャン、と隣で響いた衝撃音に、悠月は音の発生源側の肩をびくつかせて咄嗟にそちらを見ると、死んだ魚の目のまま呆然とした高坂の姿があった。同じテーブルを囲んでいるトランペットパートの皆は滝の恋愛事情を知れるかもしれないということで皆揃って食堂の入り口付近に意識を向けている。

 

 一瞬高坂の反応に疑問符を浮かべたが、それはすぐにあ、という納得へと変化した。

 

(そういや高坂さん、滝先生のこと好きなんだった……フォロー入れといたほうが、いいか?)

 

 普段ここまで動揺する姿を見たことがないから放置して大丈夫なのか判断しかねる部分ではある。ただ、半ば追っかけのように滝の下に来るという尋常でない行動力を発揮した高坂からすれば、失恋したかもしれないという情報を叩きつけられるのは計り知れないショックがあるはずだ。

 

「高坂さん」

「……なに」

 

 おお、と悠月は僅かに慄いた。ここまで絶望の表情に乗った表情を間近で見るのは久しぶりだ。というか、これはフォロー必須だが、これは言葉を間違えたら火傷しそうだ。真偽がどうであれ、この様子だと合奏にも集中しきれないだろう。

 

 ただ、掛ける言葉は慎重に選ばねばなるまい。何故なら、安直な言葉は焼け石に水だろうし、さっきの推論には欠陥があるからだ。だから、不安を解消するではなく、目を逸らす、誤魔化す言い方をしよう。そう方針を固めて口を開いた。

 

「色恋の可能性はない思う」

「……なんで?」

「というよりも、単に外部指導者の可能性の方が高いってのが僕の見解ね」

 

 根拠は、とその目は雄弁に問い掛けている。

 

「今月の部費が増えてるんだけど、費用項目の欄に二つレッスン費っていう勘定で追加されてたんだよ。だから外部指導者の線が濃いと思ってる。あとは、滝先生が公私混同してるところ見たことないから、早とちりだろうなって。教え子がいる場所、しかも目の届く場所にそういう関係の相手にわざわざ来てもらったりするほど滝先生も非常識じゃないでしょ」

「……なる、ほど。それはそう」

 

 外部指導者として頼んだ人がそういう相手である可能性はあるけど、と悠月は心の内で呟く。普段の冷静な状態の高坂ならこんなこと気づいただろうが、それほどまでに動揺しているらしい。というか、そこまで頭がまわってないか。滝に彼女がいるかもしれない、その思考が大半を占めてしまっているのだろう。

 

 いくら考えても真実を知るには本人に聞かない以上は闇に覆われたままなんだよな、とそんなことを考えて悠月はそのまま口にした。

 

「ま、どうしても気になるなら聞いてみたら?滝先生に」

 

 無粋かもしれないが、これが一番手っ取り早いだろうと悠月は考えている。あとは、これをあまり引きずられて本来の音が出せなくなったら困るなとも思う。しかし、そこに関しては信用するしかないので高坂を信じることとしてこれ以上はいわないこととしよう。

 

「…………」

 

 そんな悠月の思考を他所に、悠月が最後に言った半分本気半分冗談のそれに、それもありかもしれない、と高坂が考えていることを悠月はついぞ知ることはなかった。

 

 

 

 

 

「今日と明日、木管楽器の指導をしてくださる新山聡美先生です。ちなみに、合宿後も何度か指導に来ていただくことになっています」

 

 午後の練習は滝のそんな第一声とともに始まった。

 

 先ほどの休憩で発生した噂がくすぐらせた皆の好奇心は無駄話が厳禁なこの場では宙ぶらりんのままとなっていて、その手の話が好物な女子がいたら生殺し状態だろう。それにしても、推察はどんぴしゃだったようだ。

 

 しかし、昼食の時のことを思い出し不意に心配に駆られて隣を見ると、そこには真相が気になるのか明らかに冷静ではなくそわそわしている様子の高坂がいた。どうやら、悠月の言葉はあまり効果がなかったらしい。

 

「明日にはパーカッション指導の橋本先生も来てくださいます」

 

 次いで滝が放った言葉に、パーカッションパートからは控えめながら確かな喜びを感じられる歓声が上がった。よほど橋本は好かれているのだろう。なにせあの人柄だしな、と悠月は思う。他パートでも橋本のことを嫌っているという声は全く聞かないくらいだ。

 

「新山先生は若いですが非常に優秀な方です。きちんと指示に従うように」

 

 おおかた社交辞令としての台詞だろうが、こうして指導に来るほどなのだから滝の言葉に嘘はないだろう。それに、木管への指導は滝の専門ではないからか薄くなっているためにここで木管専門の指導者に指導を貰えるというのは非常に心強い。

 

 そんなことを考えていると、新山がはにかむ様な笑みを滝へと向けた。

 

「優秀だなんて、褒めても何も出ませんよ」

「いえいえ。私はただ本当の事を言っているだけですよ」

「まあ。滝先生にそう言ってもらえると嬉しいです」

 

 読み違えたかもしれない。悠月はそう目の前で少なからずただの知り合い以上の関係であることを理解せずにいられない軽口を叩き合う二人を見てそんなことを思った。

 

(…………あ)

 

 ふと、先程フォローになったか分からないフォローを入れた相手を横目で盗み見る。

 

(……あちゃあ)

 

 予想通りの光景がそこにあり、悠月は内心で頭を抱えた。悠月が見た先には、麗奈が死んだ魚のような目と虚無感の漂う表情で滝と新山に視線を送っていた。

 

 

 

 

 

 午後からの練習でも、合宿だからと何か特別な指導が行われたなんてことはなく、課題曲と自由曲の完成度をより高めていくため、全国でも通用するレベルへと引き上げるため、ただ地道に不十分かつ改善の余地がある部分を徹底的に修正していく。

 

 僅かな音程のズレ、不揃いなリズム、楽器同士の音量バランスなどなど、挙げていけばキリがないほどの修正点を最善へと持っていくため何回、何十回と繰り返し演奏していく。基礎練習同様、地味で退屈。だが、通して演奏する度に良くなっていくのを感じるのはこうした練習の積み重ねが何より重要であることを証明していた。

 

(…………やっぱり、調子が良い)

 

 そんな中、悠月はいつもよりも格段に感覚が冴えているのを感じていた。調子がいいと言い換えてもいいだろう。普段とは違う環境ではあるが、音のことだけを考えて集中的に練習できているのが聞いているのかもしれない。

 

 ただ、悠月としては不可解だった。何せお盆の最後があんな感じであったため、この合宿は多少調子が落ちていても課題が見つかってラッキーだ、まだまだ上手くなれる、そんなふうに割り切っていこうという面持ちだったのだ。だから、今の練習が始まる前の予想と反対が現実に起こっていることに疑問を抱いていた。

 

「……明瀬君」

「はい」

「いい音です。その音をキープできるよう心がけてください」

「……はい!」

 

 何か劇的に向上するような何かがあった訳でもない。にも拘らず、頭の中で思い描く理想的な音をそのまま完璧に出せているという原因の分からぬ万能感に、悠月は何処か不安を感じずにはいられない。ただ、切り替えるように、悠月はこれは絶好の機会だという思考に転換する。そして、この感覚を身体に、耳に刻むように集中を深くしていくのだった。

 

 

 

 

 

 いつにも増してスパルタな練習を終えた後、夕食と入浴を他の部員を待たずしていち早く済ました悠月は人一人いない研修室へ戻ってきていた。入浴後ということもあり、火照った体に届く空調の涼風が心地よさを感じていた。合宿一日目最後の合奏までの時間を個人練習に充て、今日の感覚を忘れないようにするためだ。

 

 夕食前までは金管楽器の音が止むことがなかったこの部屋も、今はファイルを捲る音、服が肌と擦れる音、空調の音、窓の外から聞こえてくる音、それらがはっきりと聞こえるほどに静まり返っていた。悠月は、こういった限りなく静かな環境が好きだ。おそらく高校生活全体で見ても少ないであろうこの静寂を数秒間だけ堪能してから、悠月は楽器を構えた。

 

 そして、次の瞬間、この空間を支配していた静寂を切り裂き、この部屋全体に響かせるように悠月は愛器に息を吹き込んだ。

 

 

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 

 

 夜の練習を終えて、悠月が宿泊室へと戻ったのは日付が変わる一時間ほど前だった。去年、この合宿所を利用したことのある悠月は、記憶の中にあるこの施設の地図を思い浮かべながら水分を買うために財布片手に自動販売機のある場所へと向かっていた。

 

「……あ」

 

 その声は、悠月かあるいは目の前にいる彼女のものか。どっちもか、と悠月は考えながら声をかけた。

 

「吉川先輩も飲み物を買いに来たんですか?」

「そうだけど。なにか悪い?」

「いえ、全く。ただ自分も買いに来たので奇遇だな、と思いまして」

「そ。嫌な偶然ね」

 

 相変わらず当たりが強い、と悠月は吉川の問いに答えながら内心で苦笑する。

 

「…………」

「…………」

 

 二人の間にあった会話がぱたりと途絶える。どうも、悠月はこの人とだけは会話が続いたためしがなかった。そも、挨拶や事務的な連絡を除いて会話らしい会話をした覚えがない。悠月自身、諦めていたというかまあいっかと思っていた節があったので仕方がないと言えば仕方がないのだが。

 

 とはいえ、この関係が続いてしまうのも望んでいることではない。何かきっかけを、と悠月が口を開くよりも早く、吉川が話しかけてきた。

 

「今日の音。いつもより良かったんじゃないの」

「ありがとうございます」

「……それ、続けなさいよ」

「!──はい。勿論です」

 

 ほんの少し、こちらに向けられた顔。ばちりと合った目。そして、投げかけられた言葉。

 

 断じて、吉川は悠月がソロを吹くことを認めたわけではないだろう。彼女の本心を見ることは叶わないだろうが、今でもソロは中世古が相応しいと確信しているはずだ。そんな彼女からの言葉。これは、決して激励なんて生温いものではない。決して認められることはなく、それでいて自分の音はちゃんと聞かれている。それは、満足なんてできるはずがなく、歩き続けることだけが悠月に許された道だということに他ならない。

 

 身震いした。奮い立たないわけがなかった。

 

「じゃ、さっさと寝なさいよ。明日も練習なんだから」

「了解です」

 

 あと、これは絶対に表には出せないが、身が奮い立つと同時に、喜びが胸中にあった。自分の音は、彼女もちゃんと聞いてもらっていたのだということが分かったから。

 

「あ。それと」

「はい?」

「今日は気を遣って話しかけないであげたけど。明日からは他の子の面倒も見てあげなさいよ」

「え」

 

 あ、と悠月は思い出した。悠月は今日、自分と向き合い研鑽するのに夢中で他のことには一切目を向けていなかった。

 

「秋子ちゃん。あんたに聞きたそうにしてたわよ」

「あ~……すみません。自分のことに一杯一杯でした」

「謝るのは私じゃないでしょ」

「そうですね。明日話してみます」

 

 じゃあ、ちゃんと伝えたから。そう言い残して女子部屋のある方へ歩いていく優子を見送って、悠月も本来の目的である飲み物を買って自室へと引き返すのだった。

 

 

 

 

 

 北宇治高校吹奏楽部は総勢六十五名。三年生が三十六名、二年生が十七名、一年生が二十九名という内訳になるのだが、このうち男子は七名。これを男女比率で分けるとまさかの九対一。部外からは「ハーレムやん」なんて声も聞こえてくるが、そんなものは吹奏楽部には存在しない。

 

 話が逸れたが、何が言いたいかというと、今回の合宿の部屋割りは男女ともに学年別となっている。だから、男子に関しては部屋を広々と使うことができるのだ。とはいえ、ちゃんと整理整頓しているため、空いた空間を特段何かに使うということもないのだが。ちなみに、同室のメンバーは同じ一年の秀一と滝川だ。

 

 そんなことを考えながら部屋へ戻れば、既に滝野は夢の世界へ旅立っていた。電気消せばいいのに、と思いながら自身が敷いた布団に向かうと秀一が起きていることに気が付いた。少し様子を伺ってみると、何やらスマートフォンで何かのサイトを見て唸っていた。入ってきた悠月に気が付かないなんて相当熱心に見てるんだなと悠月は秀一の肩を二度叩く。

 

「うおっ!……ってなんだ悠月かよ。びっくりした。どこ行ってたんだよ」

「飲み物買いに行ってた。で、何見てたの」

「あ~。ん~~……」

 

 悠月がそう問えば、秀一は何やら煮え切らない様子で視線を彷徨わせている。少し、ほんの少しだけ、からかってみたいという思いに駆られたが、本気ですねられそうだとそれを沈めて秀一の返答を待つ。

 

「……まあ悠月だし、いいか」

「え、僕じゃないと駄目なん?」

「駄目って言うか、悠月には気づかれてることだし、滝野はいじってきそうだし」

「ふむ……」

 

 秀一の言い方に少しの間思案して、これかなと思うものを口に出した。

 

「黄前さん関係?」

「……そうだよ。あいつの誕生日が近いんだけど、まだ悩んでて」

「いつなの?」

「八月二十一日」

「もうすぐそこじゃん。ああ、だからスマホ睨んで何か悩んでたのか」

 

 合点がいった、と悠月は納得すると秀一も頷いた。

 

「そうなんだよ……なあ」

「自分で考えた方がいいと思うよ。それに、秀一と黄前さんの関係って幼馴染だってことくらいしか知らないし」

「ちょっとでいいから、頼む!」

 

 そう言って秀一は眼前で手を合わせながら頭を下げてくる。それに対して、悠月は困ったなと思いながらも、親友からの頼みだからということで相談に乗ることにした。

 

「そも、秀一って黄前さんとどんな関係?幼馴染って中学で疎遠になるイメージってか偏見なんだけど」

「あ~。それで言うなら中三までは普通にご飯一緒に食べてたな」

「ん?」

 

 悠月は首を傾げた。そして、思った。つまりは同じ食卓で食事をしていたということだよな、と。それを踏まえて、思う。何故。と。

 

「つい最近まで一緒にいたなら趣味趣向くらい分かるんじゃないの?幼馴染いないから知らないけど」

「う……」

 

 自覚はあったらしい。それも踏まえて悩んでるということなのだろう。二人の関係に自分は関係ないしなあ、と悠月も頭を悩ませつつとりあえず無難な回答を秀一に述べた。

 

「黄前さんの趣味趣向を踏まえて考えてみればいいんじゃないかな。あとは、ありきたりだけど化粧品は肌に合う合わないあるし、ネックレスとかのアクセ類は本人の趣味じゃなければ贈っても使わないだろうから避けた方がいいと思う」

「なるほど…………じゃあさ、悠月」

「なんでしょう」

「悠月が俺の立場なら何を選ぶ?」

「…………」

 

 経験したことがないことにこう、ということなんて不可能なんだが、ここまで真剣に相談されるとそう言う答えは真摯に向き合っていないように思える。悩みに悩んで、悠月はいくつか質問をすることにした。

 

「まず前提なんだけど、黄前さんの誕生日に贈るプレゼントで何を選ぶか、だよね」

「そうだ」

「じゃあ次。秀一は黄前さんのことが好きなんだよね?」

「答えさせんなよ」

「好意がある。恋愛感情あり、と」

「おい。言語化すな」

 

 なるほど。あとは黄前が秀一をどう思ってるかだけど、少なからず秀一に対して全く好意がない訳ではない、はずだ。何回か二人が並んで校門を出るのを見たのを覚えている。

 

 そも嫌いならば、他に好意を向けている人がいるなら一緒に帰ることはないだろうし。好きの反対は無関心。だから久美子は秀一とも帰れる。そんな解釈はなしだ。秀一のメンタルがお亡くなりになってしまうので。

 

 と、ここで悠月はそういえば、と気になったことを聞いてみた。

 

「そういえば、秀一。縣祭りと花火大会は……ああ」

「まだ何も言ってねぇよ」

「顔に出てるよ。めっちゃ渋い顔してる。それ黄前さん誰と行ったの?」

「高坂だよ。どっちも高坂」

「全敗かよ。つか恋愛定番のイベント全スルーか」

「ま!負けてねぇし!仕方ねぇだろ先約がいたんだから」

「え、誰?」

 

 まあ、既に不戦敗のようなものだが、それが女子ならまだチャンスは残されてる。黄前が性別にこだわりがなかったら詰みに近い。吹奏楽部で同性恋愛というのはそれなりにありうる話だからだ。

 

「……誘ったよ。そしたら高坂が先に…………」

 

 ちゃんと負けてんじゃん、と悠月は突っ込むと同時に、なんだか秀一が可哀想に思えてきた。黄前のガードが固い、と言うよりは秀一が遠回しのアピールをしてるのと黄前の鈍さが悪い方で作用し合ってしまっているように見えるのは気のせいだろうか。

 

(高坂さんと黄前さんか)

 

 この二人仲良いな。悠月は他人事のようにそんなことを思考の海に浮かばせた。一緒にいるのを結構頻繁に目にしている気がする。

 

 それにしても、と秀一を見て思う。もしかして秀一ってヘタレか、と。そう思うと、少しだけ背中を押してみてあげてもいいような気がしてきた。もとい、悠月の中の悪魔がちょっとくらい魔が差してもいいだろという囁きも聞こえるような気がしなくもない。

 

「マグカップとかどうだろう。実用的で使い所も多いし」

「確かに、それはありかもな……よし、それ参考に自分なりに選んだやつにしてみるよ」

「……頑張って」

 

 多分、分かってないんだろうなぁ。そんな思考を最後に悠月は一つ進んだとばかりに息巻く秀一を微笑まし気に眺める。なんだか、悠月がほんの少しだけ企みも込みで選んだものが秀一の中ですんなりと選択肢の一つになったような気もするが、気のせいだろうとその懸念を捨てた。

 

 二人の関係が、良き縁に結ばれるよう祈り応援しておこう。

 

「よし。じゃあ寝るか」

「そうしようか。電気消すよ」

 

 悠月はその言葉のあと、電気を消灯した。こうして、非常に長いような短いような一日は終え、北宇治高校吹奏楽部の合宿一日目は幕を下ろした。

 

 

 

 

 




 
 
 
 皆さん最終楽章後編はご覧になりましたか?まだという方は見ましょう。是非劇場に、行きましょう!!(迫真)

 私は心中穏やかではありませんでしたよ。なんてったって狂喜乱舞だったので。制作陣には感謝感激雨あられ、拍手喝采です。一生止むことはないでしょうこの喝采の雨は。あと入場特典で奏ゲットしました。やったぜ。


 映画見たあと、改めて原作を読み返してるんですけどもね、秀久美好きな方は原作読みましょう。是非読んでみてください。とても、てえてえです。
 
 
 
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。