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翌朝。まだ同室の二人は寝息を立てている頃に、悠月は目を覚ました。後頭部に普段とは異なる枕の感触を感じながら、もぞりと頭だけを壁に掛けられているアナログの時計に視線をやる。秒針は忙しなく一秒間隔で時の経過を示しているのに対し、長身短針は四時丁度を伝えてくれていた。どうやら、念のために五時丁度にセットした目覚ましは役目を果たさずに済んだらしい。
顔洗って、歯磨いて、着替えて、そのあとは音を出さないで済む自主練をして、とこの後のタスクを整理しながら悠月は布団に包まれていた身体を動かそうとしたとき、寝る時にはなかったはずのお腹付近への重みに気が付いた。眉を寄せつつそこを見ると滝川が悠月の布団に侵入してきており、彼の足が悠月の身体に乗り上げていた。余程楽しい夢でも見ていたのだろう。
ちらりと視界の端に映った滝川の体を覆っていた掛布団が大きく捲れ上がっている様に目をやってから、悠月は二人を夢から現に来ないようそっと音を立てずに布団から抜け出す。それから、洗顔料などを入れたポーチ、昨晩買った飲み物、練習ノート、楽譜ファイルをナップサックに入れ、あとでこの部屋に戻らなくもいいよう準備してから物音を最小限に廊下に出る。
出たところで両手を組んで天に掲げ、ぐっと凝り固まった身体を伸ばす。悠月は静かな空間の中でも早朝の、まだ皆が寝静まっているこの時間が特別に好きだったりする。人の気配がしないこの瞬間に限って、本当に世界に自分しかいないように感じられるからだ。
掲げた手をゆっくり下ろしつつ、目を閉じながら、長く深く肺にある空気をすべて体外に出すように息を吐きだす。そして、目を空けて窓の外を少しの間眺めてから視線を切ろうとしたとき、ふと窓にうっすらと映っている自身の姿に気が付いた。
そこには、一切の感情を浮かべていない無機質な悠月自身の顔。悠月にはそれが自分の内面すらも映し出していて、空虚で空っぽであると突き付けられているような錯覚を覚えた。ただ、その姿はどこか幼い頃の自分に似ているような気がした。
(……昨日の疲れかな)
悠月は今感じたものを疲労によるものという結論で片付けると、自嘲の笑みを微かに浮かべてまだ少し薄暗い廊下を歩きだした。
◇◆◇
ヘッドホンから流れるのは昨日の北宇治の練習の音源。十回通しを撮影してくれていたもなかの中川と加藤には頭が上がらない思いだ。そんな思いを胸に抱きながら、悠月はその音源の中で気づいたことについて止まることなくノートへと記していく。
こうして俯瞰して聴いてみると、昨日は気づかなかった改善点が浮かび上がる。自分たちの演奏を振り返るというのは、自分たちのまだまだ足らないところを突きつけられているように感じてあまり気乗りしない人も多いことだろう。
だが、振り返りからしか得られない改善点もあると思えば、自分は更に成長できる余地があるのだとやる気も出るというものだ。あまり賛同を得られたことはないが。
十回通しは最後に行けば行くほどクオリティは落ちていく。身体的な疲労や、集中力が落ちるといった精神的な疲労が蓄積されていくからだ。そして、初めはできていたことが後半になるにつれてできなくなっていく。ボロが出る、と表現した方がいいだろう。そして、そのボロの部分こそ、まだまだ未熟な部分であり改善しなければならない場所なのだ、そう悠月は解釈している。
反対に、後半になってもできている部分というのはまだまだ成長はしていけるが今時点で既に完成度が高いことの証明であるのだと思う。こうした部分が己の自信に繋がり、こういった完成度の高い所を増やしていく。これもまた努力のひとつの形なのだと、悠月は信じていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。朝食の時間はまだ来てないといいけど。そう思いながら、悠月はペンを走らせていたノートから音源を再生していたスマートフォンを指先で触れる。ぱ、と画面が明るくなると画面上部には『05:27』という文字列が並んでいた。
集中していると時間の進みが早く流れていくように感じるのはなんでなのだろう。体感ではそこまで時間は経っていないように感じるのに。疑問に回答が出ることはなく、一度立ち上がって肩甲骨同士をくっつけるように動かすと身体から音が鳴る。
ヘッドホンを外してケースに仕舞っていると、階段を上ってくる足音に気がついた。誰だろうと思いそちらに振り向きながら意識を向けると、学校のものではない銀メッキで仕上げられたユーフォニアムを抱いた田中が徐々に姿を見せ始めていた。
「おはようございます」
悠月はもはやしない方がおかしいとされる挨拶を立ち上がってから口にした。田中は伏せがちだった瞼を上げてこちらを見ると同じように挨拶を返してくれた。
「おはよう」
「朝練ですか?」
「そうだけど、やっぱり気づいてなかったんだ。研修室から外に出るとき君の隣通ったんだけど」
「え」
確かに、悠月が使っていたテーブルと机のある場所は、研修室から一階吹き抜けの自動扉までの道筋の二つあるうちの一つを使えば確実に通る通路だった。集中していて全く気付かなかったな、と頭を下げようとしたときあすかが制止した。
「私もわざと声かけなかったから謝ることじゃないよ。集中してるとこ声かけるのが憚られただけだから」
「そうだったんですか。気を遣ってもらってありがとうございます」
「感謝されることでもないんだけど、まいいや」
謝罪の代わりに感謝を口にすれば、あすかは独り言のようにそう口にして「で、」と話題を変えた。
「聞いてたの北宇治の昨日の演奏でしょ?」
「そうですけど、なんで分かったんですか?」
「昨日君がデータ貰いに行くとこを見てたからね」
「なるほど。そういうことですか」
昨日、夜の練習のあと録音データを貰いに滝のところへ行ったのだが、それを見られていたようだ。あすかは悠月が座っていた椅子の対角の位置にある椅子へと腰を下ろした。それを見て、悠月も元居た席に再び座り込む。
「何か発見はあった?」
「ありましたけど、僕の意見聞いてどうするんです?」
「うちじゃ技術知識含め君より優れた奏者はいないでしょ。だから、参考にだよ。もしかしたら共有するかもね」
悠月は少し意外に思った。なんというか、田中はもっと物事に関心のない───ユーフォニアムを除いて───人だと思っていた。というか、悠月の勘違いでなければ田中との間に見えない壁が立っていたような気がしていたため、こうして面と向かって話すことはないだろうと思っていた。相変わらず、この人のことはよく分からない。そんなことを頭の片隅でおもいながら、悠月は田中の質問に答えた。
「反省点改善点の類ならいくらでも見つかりました。同時にうちの、北宇治の強みだなって部分も再確認できました」
「ふぅん。その強みって、なに?」
「まず、トランペットと低音は総合力が高い。高坂さんは言わずもがなですが、先輩方もずっと頑張ってきたのがここに来て形になってきてます。他の金管も関西大会で見劣りしないレベルにはこの合宿を通して到達すると思います」
金管セクションに関しては、滝が金管畑出身なのが大きい。その道の専門に四月からずっと基礎から仕込まれてきたのはそれだけ影響が大きかった。やはり、滝は指揮者としては格段に優秀な人物なのだろうことはこの数か月を通して実感したし、悠月もその恩恵は受けたと感じている。それと同様にパーカッションも橋本が外部指導者として来てから見違えるように上達しているのだから、木管も新山という外部指導者の下ですぐに成長していくことは必至だ。
「低音は全楽器パートの完成度が高いです。チューバは後藤先輩と永瀬先輩の二人だけなのに音の大きさと質を高い水準を維持しているのが本当にすごい、関西でも上澄みだと思います。コンバスの川島さんは流石聖女出身の実力者ですね。最後にユーフォですが、田中先輩は……」
そこまで口にして、ふと書き込んだ田中先輩の音についてノートに記した一文を思い出した。そして、悠月はその文をそのまま田中へ告げた。
「『お手本そのもの。本当にユーフォが大好きなんだろう。どこかユーフォ奏者の進藤正和氏を彷彿とさせる音色』。そう感じました」
反省点や改善点だけに目を向けていると気が滅入ってしまうと、逆に北宇治の良いところに耳を傾けた時、最初に気付いたのが田中のユーフォニアムの音色だった。もしかすると、田中は進藤正和著書の教本やCDを参考にしているのかもしれない。そう思いながら話を続けようとしたとき、どこか心ここにあらずといった様子の田中に気が付いた。
「田中先輩?聞いてます?」
「……え?聞いてる聞いてる。続けて?」
悠月には、先程見えたあすかが、幾重の感情が混ざりあっているようなそんな複雑な表情を浮かべているように見えた。しかし、それは瞬きの間に消えていて、錯覚だったろうかと悠月は微かな疑問を宙ぶらりんのまま残すことになった。
「……?はい。あとは黄前さんですが、隣にいるのが田中先輩なのでそれと比較してしまうと見劣りはしますが、着実に成長してます。関西大会で通用するレベルには十分間に合うと思います。普段の努力が現れてきてるなと」
「」
満足そうに田中は頷くと、今度はこちらを見透かすような瞳をこちらに向けた。
「君、現実的なラインはどこにあると考えてる?」
「……そうですね」
おそらく、世辞はすぐに悟られるだろう。この人はそんな甘い相手じゃない。苦手意識程ではないにしても今でも関わっていてやりずらいなと感じる相手だ。ここは素直に答えよう、そう考えて答えた。
「残りの期間で伸びるだろう部分も含めて、北宇治の出せる全力を尽くしたベストの演奏をしても一歩及ばない。そういう立ち位置だと考えてます。これは北宇治を過小評価しているわけではなく、それだけ関西三強の壁は高いと受け取っていただければと」
大阪東照、秀塔大学付属、明浄工科。この三校はそれだけ格が違うのだ。それは各校の音を聞けば否応なしに突き付けられる事実だった。だから。
「もし、北宇治が全国に行けるとするならば、北宇治が最善最良の演奏をしたうえで、関西三強の何処かが致命的な場面でミスをするしか道は開かれないと思ってます。ただ、これはあくまで僕の所感なので、残りの期間でまた変わってくると思います……これ、共有しないでくださいよ。確実に水を差すようなことになるので」
「意味の無いことはしないよ」
そこまで言って、一つ、ここが変わればと思っていることがあった。悠月は、これを口にしてもいいものか少し逡巡してから、田中ほどの実力を持つ人ならば気づいているかもしれないという考えのもと告げた。
「一つ、確実にここが変われば北宇治は一歩階段を上がれる部分があって、それが鎧塚先輩のオーボエなんですよね。あのオーボエに表現がついてきたら、と思っています」
「なるほどね~……ま、みぞれちゃんは新山先生に任せてノータッチでいいでしょ」
「そうですね。表現に関しては鎧塚先輩に限らず僕含め皆もっと解像度を上げて意識共有をしていく必要がありますね」
コンクールにおいて、楽器一つの音色で金銀銅という評価が変わることはないが、聴く人が感じる印象はいくらでも変わってくる。そして、北宇治の今の演奏の中でオーボエの音色が変われば、印象はよりいい方に変化するだろう。
あすかの最後の言葉の前に間があったのが気にかかったが、あすかにも何か考えがあるのだろうと悠月は深く考えなかった。そして、悠月はまとめにかかる。
「というのが僕の考えなんですが、田中先輩のご期待に沿える回答ができましたかね」
「十分十分。昨日のパーリー会議じゃ出なかった意見も聞けたし」
「なら良かったです」
どうやら昨日の練習後、パートリーダーたちで反省会をしていたようだ。そんな姿を垣間見ると、もっと頑張らねばと思う。
「じゃ、私一回宿泊部屋戻るから」
「了解です」
膝に置いていたユーフォニアムを抱き直して立ち上がり、去っていく田中を見送って悠月は再びヘッドホンを装着した。そして、スマートフォンを操作して今度は先ほど挙げた関西三強の中の一つ、秀塔大学附属の演奏を再生するのだった。
◇◆◇
「昨日は他の学校の指導に行ってたせいで来れなくてごめんね〜。今日はビシバシ見ていくから任せといて」
そう溌剌と告げるのは、昨日は都合が合わず合宿に来れなかった橋本だった。彼の力強い言葉と裏の無さそうな笑みに、部員たちも何処か嬉しそうにしていた。勿論悠月も。そして、彼の人柄と指導に一番触れているだろうパーカッションパートの面々はこちらもつられそうになるくらい喜色に溢れている。
しかし、と悠月は彼の着ている派手な色味のポロシャツは彼の美的センスからすると素晴らしいデザインなのだろうか。悠月にはさっぱり分からない。理解できたとしてもそこ止まりで共感はできないとは思うのだが。
「相変わらず、橋本先生は元気ですね」
「まあ、そこが彼の唯一の取り柄ですから」
散々な言われようだ、と橋本を見守っている滝と新山の会話を聞いて思う。どういう繋がりなのかは詮索しないが、二人の会話を聞いていると仲が良いことは明らかだ。
その後、滝の指示のもと、金管、木管、パーカッションにそれぞれ分かれて練習が始められ、次にこの場所に全員が再び集まった───チームもなかのメンバーは松本のもとで文化祭で演奏する曲の練習を行っている───のは、昼ご飯を食べたあと、三時を回った頃だった。
「今の感じでよいですが、この曲は単純なB♭メジャーが随所にあります。そのポイントを綺麗に合わせるよう意識しましょう」
滝の指導に、皆が威勢よく返事をする。直後、タイミングを見計らうように橋本が立ち上がった。
「あと、スネアがちょっと後ろに感じるよ。もっと前に」
「はい!」
「それと、ティンパニ!」
「はい!」
「今のところ、ワンテンポ早かったろ?今そんなことしててどうすんの。罰金ものだよ」
「……はい!」
橋本のその指摘に、二年生の大野美千代は自覚があったのか、顔を曇らせるが即座に切り替えるように大きく返事をした。その後も、指導陣による苛烈な指摘は続いていく。
「クラとフルート。指は間に合っていますが、口が間に合ってません。テンポを早めたらこの有様ですか」
「トロンボーンは音が汚い。綺麗なまま大きな音を出してください」
「チューバ。素晴らしいですがもう少し音量をください。二人で四人分出す意気で」
指摘、修正、指摘、修正。エンドレスで行われていく練習に部員たちは懸命についていく。そうしていくうちにも指摘された部分の演奏は必ず改善される。このことが分かっているからこそ、皆は滝を信じてついていけた。できなければエンドレスで練習させられるという事実も要因の一つかもしれないが。
「ユーフォ。関西大会では今のところを二人で吹いてください」
「はい」
繰り出される指摘の中で不意に告げられた滝からの指示。田中からのレスポンスは即座になされた。悠月は微かに顔を正面から左に向けて、視線をユーフォ二アムの二人がいる場所に置く。
「黄前さん」
「あ、は、はい」
「返事は」
「……はい!」
すぐさま返事を返せなかった黄前の、力強い返事が室内に響く。握りこぶしを胸元に持っていく黄前に悠月はタオルの上から揉み解していた口に小さく弧を描く。今の箇所は、黄前が苦戦していた部分であり府大会では吹くことが叶わなかった。そこの完成度を滝に認められ、二人で吹くよう指示された黄前の心境は想像に難くない。
「なあ、滝クン」
「何でしょうか」
「オーボエのソロ、あれでいいの?」
橋本から放たれたその質問は、奇しく今朝飛鳥と話した際に北宇治の明確な伸びしろだと言ったところだった。やはり、プロの目線から見ても気になる部分のようだ。表現というのは個人差があると悠月は考えている。感性、想像力、共感性、作曲者の意図の読み取り、価値観などなど。知識と感性の融合が表現である以上、そこに付随する解釈は千差万別だ。
部員の数だけ解釈が異なる以上すり合わせと意思統一は可能であっても、それ以前の話を教えるとなっては効果には個人差があるのでその難易度はかなり高い。それが頭にあるからか、滝と新山も苦笑を交えて顔を合わせていた。それを知ってか知らずか、橋本もどうしたもんかとうなじを掌で覆いながら言葉を紡いだ。
「いやあ、音も綺麗だしピッチも安定してる。技術的なところは申し分ないんだよ。ただねぇ、一言で言うと……ぶっちゃけつまらん!ロボットが吹いてるみたいなんだよ」
「ロボット……?」
橋本からの指摘に鎧塚は要領を得ていないのか首を傾げる。そんな彼女を見ながら、悠月は思考を深める。曲への解釈がいまいちピンと来ないだとか、作曲者はどうしてこういう譜面にしたんだろうみたいなそんな疑問が解消されないとパフォーマンスが最高に到達しないタイプの奏者もいる。妄想でしかないが、もしかしたら彼女もそういうタイプの奏者なのかもしれない。
「楽譜通りに吹くだけだったら人間じゃなく機械でいいんだ。鎧塚さん、君はこのソロをどう吹きたいと思ってる?何を感じながら演奏している?」
「……三日月?」
「じゃあもっと三日月感出さないと~」
「善処します」
「善処って言い方してる時点でダメなんじゃない? もっと感情出そうよ~」
そういえば、鎧塚が表情に何か感情を乗せているところを見た覚えがないな、と悠月は数少ない記憶サンプルからそんなことを思う。そもそも片手で収まる程度しかかかわっていないのだから見ていなくても当然のことではある。
「……すみません」
「謝る必要はないよ。クールな女の子って魅力的だと思うし。でも、このソロはクールでは困る!」
そうだな~、と橋本は腕を組んで何やら思案した後彼はこちらに顔を向けた。悠月と橋本の目がばちりと合う。何を言うつもりだろうかと、悠月は疑問符を浮かべた。そして、橋本は組んでいた腕を解き左手をこちらに指した。
「明瀬君、トランペットのソロを参考にしてみるといいかもね。鎧塚さん、あまり自我を出しすぎるの得意じゃなさそうだし」
「彼……?」
「うん。時間があるときに彼に聞いてみるといい。彼の表現技法は君向きだと思うんだよね。僕個人の理想を言えば彼ももっと自我を主張してもいいと思うんだけど、彼の場合はそれを表現として成立させてるんだからあのバランス感覚は天性のものを感じる」
鎧塚に向けられたその助言とついでに加えられた賛辞に鎧塚含め他の部員たちの視線もこちらへ集まる。少しだけ居心地の悪さを悠月が感じているとも知らず、橋本は話を続けた。それに伴い、一時的に集まった注目は再び橋本へと戻っていく。それを悟ったのか、今度はぐるりと皆を見渡した。
「これは皆にも言えることなんだよ。北宇治の演奏はすごく上達したと思う。技術的に言えば他の強豪校にも比肩するくらいにまでなってる思う」
ただ、と橋本は一度区切ってから続けた。
「君たちには表現力が足りない。明工や、秀大附属、大阪東照とはそこに目に見える差がある。高校生に求めるものではないのかもしれないけど、やっぱり音楽をやる以上はそこは絶対拘ってほしいと思って指導してる。どんな音楽を創りたいのか、二つの曲を皆は解像度高く解釈できているのか、練習中の滝先生の言葉の意味を本当の意味で理解できているのか、滝先生の作ろうとする音楽を支持の中から汲み取れているのか、とかね。そう言ったところを皆で追究し協力して作り上げようとしなきゃいけない。これからは楽譜通りに忠実に、完璧になることと並行して皆でどう表現していくのかも考えてほしい」
普段笑顔の絶えない橋本が真剣な面持ちで紡いだ言葉に、部員たちは「はい!」と返事をした。その返事に橋本は皆に響いたと判断したのか満足そうににっと口角を上げた。そして、静かに見守っていた滝が口を開いた。
「橋本先生、ありがとうございます。たまにはいいこと言いますね」
「『たまには』、は余計でしょ。僕は歩く名言集だよ」
二人の軽口に部員たちからは笑い声が研修室に満たされる。こうやって場の空気を緩みすぎない程度に和らげるのが橋本はうまい。彼自身の人柄もあるのだろうが、経験からどうすればリラックスさせられるかを知っているのだろう。滝一人ではできないことだ。
滝は壁の時計にちらりと視線をやると、そのまま指揮棒を手に部員たちと向かい合う。その動きに、部員たちも意識を切り替える。直後、数秒前まで和やかだった空気が一気にピンを糸が張るように締まるのを肌に感じた。
「では、課題曲から合わせてみましょう」
その言葉に、悠月は白銀を纏う愛器を構える。
合宿二日目も、折り返しを迎えていた。
◇◆◇
大気を漂う火薬の臭いがツンと鼻に届いた。広場の周りには木々が囲み、闇夜に包まれたこの空間でこの場で唯一の光源である徒花があちらこちらで弾けている。そんな中、悠月の手には線香花火が握られていた。
「先に消えた方がジュース一本奢りな」
「いいよ。やろうか」
秀一とそんな口約束をして、二人が持つ線香花火の先端に、同時に火が触れた。その後、火に触れた部分は橙色に光っている。始まりは静かで、数秒程経ってから徐々にその激しさが増していき、終盤に入ると激しさは失われていき、最後には地に落ち花火としての役割を終える。
ほかの花火よりも勢いはなく地味で、少しでも強い風が吹けばその寿命はさらに縮まる、そんな儚さを持つ線香花火が悠月は好きだった。
「……」
「……」
本来の線香花火はその特性からくる趣を楽しむものだと思っていたのだが、「先に火が消えた方がジュース一本奢り」という賭けのせいで妙な緊張感がある。それが妙に可笑しくて目元を緩めた。こういういうのも一つの楽しみ方なのだろう。
二人揃って小さいながらも確かな輝きを放つ火花が落ちないように静止して一切話すことすらなく静まっていたところに、一つの声が落とされた。
「ねえ。明瀬君、今時間いい……?」
周囲の部員たちの喧騒に混ざって消えてしまいそうな声量の呼びかけが悠月の耳に届いた。悠月は手元を狂わせないように顔を上げれば、そこには鎧塚みぞれがいた。よく見れば、その後方には吉川がこちらをじっと見ていた。いや、「なにかやらかしたら許さない」と言わんばかりの眼光でこちらを睨んでいた。
ああ、そういえば吉川と鎧塚は同郷でこの吹奏楽部でも仲がいいんだったな、と吉川の様子に納得する。
「いいですけど、少しだけ待ってもらってもいいですか。今動けなくて」
「いい。大丈夫……あっ」
「え?……あ」
頷いた鎧塚が、不意に微かに目を普段よりも開いてそんな音を漏らした。しかも、鎧塚の目線が悠月の顔から下にずれた。嫌な予感がして手元に目線を戻せば、悠月の手元の線香花火からは光が消えてきた。そして、反対に秀一の手元では勢いこそ弱まってはいるが光は残っていた。
「よっし。俺の勝ちな。ジュース一本忘れんなよ」
「分かったよ。秀一、一旦離れていいかな」
「おー、行ってこい。俺もこれ消えたらトロンボーンの皆のとこ戻るから」
「ありがとう。じゃ、またあとで」
「ああ。またあとで」
喧騒から少し離れた場所、光と闇が混ざる薄暗闇で悠月は鎧塚と並んで立っていた。そして、二メートルほど離れた場所で吉川がこちらを監視している。
(どうしようかな……)
あまりこちらから積極的に関わりに行くとせっかく距離が縮められそうなのに逆効果になるかもしれないと思い、鎧塚からのアクションを待っていたのが裏目に出てしまっていた。それに、悠月が鎧塚に呼ばれることに関して、何も覚えがなかった。多分、事務連絡を除けば北宇治の吹奏楽部の中でも屈指でまともに関わったことがないからだ。
もうかれこれ約一分間、二人の間には沈黙が流れている。吉川からの視線も監視の意味合いが強かった初めから、「あんた何してんの?人見知りなの?」とでも言いたげな呆れが含まれているように感じた。
流石にこのままの状態はまずい。そう思って悠月から話しかけようとしたとき、鎧塚が先に声を発した。
「……表現のこと、聞きたくて」
彼女の言葉に、悠月は鎧塚に呼ばれた理由にようやっとあたりを付けることができた。そういえば、橋本に「明瀬君を参考にするといい」という言葉を与えられていた。それを真剣に受け取って当人である悠月に聞きに来てくれたのだろう。
悠月はなるべく自然体のまま、首肯した。
「構いませんよ。僕でよければぜひ」
「……!ほんと?」
「はい。どんな質問でも聞いてください。可能な範囲でお答えします」
悠月のオープンな姿勢が伝わったのだろう。鎧塚は安堵するようにほっと息をつくのと同時に肩の力を抜いていった。そして、勘違いでなければ、微かに笑んだように見えた彼女の口が開かれた。
「ありがとう」
彼女にそういう感性があるのかは分からないが、先輩がわざわざ別パートの後輩を頼ってくれているのだ。求められているものにそうかは分からないが、最大限誠実に答えよう。そう悠月は胸に誓うのだった。
「と、こんな感じでどうでしょうか。鎧塚先輩が欲しい答えが出せていればいいですが」
「ありがとう。役に立った」
鎧塚から投げかけられた質問に、悠月はなるべく言葉選びに気を付けながら一つ一つ丁寧な対応を心掛けながら返していった。そして、最後の質問に答えたところで、悠月は鎧塚に確認を取った。
先ほどまでメモ帳とペンを持ち、悠月の言葉をメモとして残していた小さくほっそりとした色白の手が下ろされる。そして、浅くお辞儀をして感謝を口にする鎧塚に悠月も胸をなでおろした。
「そうですか。こちらこそありがとうございました」
「……?どうして?聞いたのは私なのに」
「僕も自分の中にある表現というものについて言語化したうえで再認識できました。これができたのは、鎧塚先輩がこの機会を作ってくれたからです。だから、ありがとうございました」
「どういたしまして……?」
これはあまりピンと来ていないな、と悠月は苦笑を浮かべる。ひとまず鎧塚と円滑にコミュニケーションを取れたのではないだろうかと吉川を見ると、悠月の視線に気づいたのかふんと顔を背けた。ここ最近で気づいたが、吉川は悠月のことを嫌悪しているわけではないらしい。
さて、そろそろ花火大会の方も終盤に差し掛かっている。合宿の中での数少ないリフレッシュできる時間なのだから最後くらい参加した方がいいだろうと悠月は考えて切り上げるために鎧塚へと話しかけようとすると、不意に鎧塚の口から悠月の名が告げられた。
「明瀬君、」
「!。はい?」
初めて、彼女の口から自身の名が呼ばれたことに悠月はつい眉を上げる。悠月自身は期待薄だと思っていたが、どうやら多少は彼女との間にある窓が開いたらしい。
「優子と、仲悪い……?」
悠月は、無垢な表情で即答しづらい質問を火の玉ストレートで投げてきた鎧塚にどう答えたものかと一瞬悩んでから答えた。
「悪く、はないと思います。いい先輩をしてくださってると思ってますよ」
「そう」
そちらからしつもんしたのではなかったかと思いたくなるほど興味がなさそうな返答に悠月は内心でずっこける。少し間をおいてから「……ねえ」とまたも鎧塚の方から問いかけがあった。
「あなたは、どうしてコンクールにそんなに必死に頑張れるの?無駄になるかもしれないのに」
ああ。多分この質問は彼女の大切な何かにかかわる質問なのだろう。なぜだが、悠月はそう直感した。
ありがとうございました。