想いを音色に乗せて   作:猫柳/nekoyanagi

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 誤字報告ありがとうございます。本当に助かります。

 評価赤ありがとうございます。





第003曲  目標

 

 

 

 悠月が中世古と話していた同時刻。同じく帰路についていた吹奏楽部新入部員の三人組の間でも悠月についての話題が上がっていた。

 

「まさか明瀬くんが北宇治にいたとは緑、驚きました」

「明瀬君、って誰?」

「うっそ久美子!入学式で新入生代表してた人だよ?もしかして寝てたのー?」

 

 あはは、と濁すように久美子は苦笑を漏らす。そうだったのか、と思った。何せその時の記憶が朧気だ。ぼうっとしていたから当然と言ったら当然なのだが。

 

(ん〜……?)

 

 何処かで聞いたような見たことあるような名前だなぁと頭の中でその名を反芻していると、緑が何かに火がついたように熱く語り出した。

 

「フルネームは明瀬悠月くん。担当楽器はトランペット。楽器決めの時、すっごい綺麗な音を奏でてた男の子です」

 

 それは知っている。というか聞いていた。一瞬、久美子自身最近興味を寄せている少女、高坂麗奈のものかと勘違いしたほど、上手だった。だが、明確にベクトルの違うそれに即座に違う人だと聴覚が、脳が悟った。

 

 ぐるぐると、明瀬悠月という名、そして、あのトランペットの音色が頭の中で回っているうちに一つだけ、思い出した。

 

「……そういえば、中学最後の府大会。私たちの後の演奏であの音聞いたっけ」

「そうです!久美子ちゃん!」

 

 半ば無意識に出たそれに緑がぐいっと顔を近づかせて食いつくものだから思わず半歩後退る。

 

 当然、あの時と比べればまた遥かに実力は向上しているように思ったが、正直、あそこまでのレベルになると何がどうとかはハッキリ言えない。ただ、いるステージ、住む世界、持っている格が違う。そんな事くらいしか思い浮かばなかった。

 

「『小倉西中学校吹奏楽部の奇跡』!!それを実現した立役者が彼なんです!!」

 

 『小倉西中学校吹奏楽部の奇跡』。その言葉でもう一つだけ思い出した。去年、隣の校区の中学校の吹奏楽部が全国金賞を取った。久美子としてはそのこと自体に特段思うことはなかったし、部もそれなりで満足していたからその話題は直ぐに風化していった。

 

「是非久美子ちゃん、は聞いたんですよね。葉月ちゃんも聞いてください!!CDなら私が貸しますから!!」

 

 緑のあまりに高い熱量には、いつも溌剌としているあの葉月も気圧されている。推しのアイドルと会ったファン、という言葉がぴったりなほど今の緑は暴走していた。

 

「本当に凄かったんですよ!!特に全国大会の演奏は歴代でも屈指の演奏でした!あれを生で聞けたのは一生の宝物です!」

 

 にっこにこ、きらきら、そんな擬音が聞こえてきそうなほど目を輝かせ満面の笑みを浮かべてそう言う緑に久美子は自然と目尻が下がった。

 

 信号が赤になり、三人は足を止める。三人が一様に赤色に光る電球に目をやる。そんな中、葉月が疑問を呈した。

 

「凄い人なのは凄い分かったんだけどさ。なんで北宇治に来たんだろうね。だって北宇治って下手なんでしょ?」

 

 オブラートに包むということを知らないのだろうか。心臓が少しきゅっとし、身体が一瞬固まった。当事者がここにいなくて良かった、と安堵の息を漏らした。

 

「それは緑も気になったんですよね。あれだけのトランペットの実力があって、全国金賞を取るという野心があるのなら関西三強で吹きたいと考えそうなものですけど……」

「関西三強、ってなに?」

「ああ、葉月ちゃん。関西三強って言うのはね」

 

 久美子は思考の海に沈んでいってしまった緑に変わって説明を引き受けた。

 

 関西三強。大阪東照高等学校、秀塔大学附属高等学校、明静工科高等学校の三校のことを指す。大阪、京都、兵庫、滋賀、奈良、和歌山から高校だけで計500校ある関西支部において毎年のように関西大会で代表に選ばれる名門だ。

 

 その三校の中でも明静工科高等学校───通称「明静工科」───は毎年当たり前のように全国に出て金を取ってくるちょっと次元の違う学校だ。

 

 大阪東照も強いには強いがこちらは野球のイメージが強い人も多いのではないだろうか。実は吹奏楽部も全国レベルなのだ。

 

「へ〜。吹奏楽部にもそういうのあるんだね」

「そうなの。ただ、今のは吹コンの話でマーチングってなると話は変わってくるんだけどね」

「マーチングコンテスト?」

「吹コンは座ったままの演奏で、マーチングコンテストはざっくり言うと動きながら吹くの」

「ほぇ〜」

 

 とはいえ、明静工科に関してはマーチングも強いのだが、一体どうやって練習してるのだろうか。想像もできない。

 

 マーチングに関しては北宇治の最寄り駅である六地蔵駅の隣駅である桃山南口駅が最寄駅となる私立立華高校が「水色の悪魔」と呼ばれるほど強い。海外での公演も行っていると立華に行った友人から久美子は聞いたことがある。

 

 一気に情報を流しても処理しきれないだろうな、と久美子はそこで説明を終える。すると、ちょうどそのタイミングで緑が思考の海から顔を出した。

 

「はっ!」

「あ、戻ってきた」

「はぅあ、ごめんなさいっ。考え込んじゃってましたぁ」

 

 ぺこぺこ、とただでさえ小動物のようなのに更に小さくなる緑に久美子はあはは、と笑いながら声をかける。

 

「いーよいーよ。何考えてたの?」

「いえ。あの演奏で推薦の話を貰わないことは無さそうなので、全部蹴って北宇治にきた、というのが一番かなぁと。ただ、進路に関しては本人の意思決定ですし、何か理由があって北宇治を選んだのでしょうからわざわざ詮索するものでも無いかなと言う結論になりました。明瀬くんも詮索されるのは気持ちのいいものではないでしょうしね」

 

 さ、三人で楽しめる話をしましょう。そうだね〜。そう言い合う緑と葉月を他所に、久美子は緑の今の発言を今一番気になる少女に重ねていた。

 

(もしかして、高坂さんも北宇治を選んだ理由があるのかな)

 

 そう思った久美子の脳内には、府大会で悔し涙を流しながら「死ぬほど悔しい……!!」と口にする女の子の姿が映っていた。

 

「久美子ー!信号、青だよ!」

「、あ、はーい!」

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 翌日、昼休み。教室にて。

 

 悠月は辟易していた。それはもうげんなりしているのが顔に出るくらいには。勿論、顔に出ているというのは比喩表現だが、実際、かなり面倒くさい状況に巻き込まれていた。

 

 こんな経緯になったのは、至ってシンプル。

 

 

『お前!三年の中世古香織先輩から告られたって本当か?!』

 

 

 これである。一体どこからこんな根も葉もない噂が流れたのだろう。いや、心当たりがないわけではない。十中八九昨日の放課後の帰り道で中世古といたのを見られたのだ。

 

 しかし、それを恋愛に繋げてしまうのは些か頭が色恋に支配されすぎではなかろうか。加えて、どうして他人の恋愛事情がそんなに気になるのだろう。必死に悟られないようにしてるのだろうが、教室の半数がこちらに聞き耳を立てているのがバレバレだ。

 

「事実無根。全く以てデマだよ。部活が同じだからその事で連絡事項を教えてもらっただけ」

「本当か?本当に告られてないんだな?!」

「そう言ってるじゃん」

「……っはあ〜。良かったぁ」

「何お前、狙ってんの?」

 

 露骨に安堵する男友達に反撃開始だ、と悠月は口角を上げて問いかけた。するとそいつは、あからさまに動揺し始めた。にやにや、ふぅん、へぇ?。そんな音がこいつには聞こえたのだろう。うん、言った。心の中で。

 

「ほーん?」

「……なんだよわりぃかよ」

「いや?ま、当たって砕けろ」

「く、砕けてたまるかぁ!」

 

 面白いやつ。はっはっは、と笑っていると、何やら教室がザワついていることに気がついた。どうしたのだろう、と周りの視線が向いている先を目で追うと、教室の外に件の先輩と目が合った。

 

(タイミングわっるいな!折角誤解解いたのに!)

「失礼しまーす。明瀬悠月君っているかな?」

「…………今行きます」

 

 少しの沈黙。そして。怒号と悲鳴が飛び交った。ちなみに、この進学クラスは7:3で男が過多だ。男は色恋に飢えていたようだ。

 

 

 

 

 

 

「ごめんね?なんか噂になっちゃったみたいで」

「別に僕は気にしないですけど、僕の所に来たのはまずかったですね」

「……え?」

 

 当たり前だ。人の噂も七十五日と言うようにどうせしばらくすれば忘れられてしまうのだから無視しておけば良かったのだ。もっと言うなら、男女二人でこんな人気のない校舎裏に来ているのも良くない。

 

(ほれみろ。野次馬が覗いてるし)

 

 校舎の窓から色んな顔が見える。男女男男女男女。多分三年の男子生徒もいる。かなり面倒だ。あれら全て中世古の魅力にやられた類だろう。

 

 悠月の目線を追ったのだろう。香織が眉尻を下げる。

 

「どうしよっか……」

「責任の所在がどこにもないのであまりお気になさらず。僕としてもここまで噂が広まってるのは想像もしてなかったですが」

「……優しいね。あと、なんか慣れてるね?」

「慣れたくないものです」

 

 中世古もかなり困っているように見える。しかも、こちらへの申し訳なさがあるのか表情はかなり沈んでしまっている。今のやり取りで多少は改善されたが、おい狙ってる男子共、あるいは女子かもしれないが、悲しませてどうする。

 

「とりあえず、誤解を解消する方針でいきましょうか。楽観的かもしれませんが、それで噂が風化するのを待ちましょう」

「……そう、だね」

「ほら、言うじゃないですか。『人の噂も365日』」

「それじゃ消えないよ?!」

「おっと、間違えた。『人の噂も七十五日』、ですね。いずれ聞かれなくなりますよ」

「……ふふ。そだね」

 

 悠月は心中で深く、深く息を吐いた。多分、部活でも聞かれる。面倒だ。そして、思った。

 

 なんて、茶番だ。

 

 

 

 

 

 

「うぉーい!?明瀬ぇ!!!」

「……なに?」

「お、おま、やっぱり香織さんと……」

「付き合ってない」

 

 被せるようにして宜もなく切り捨てる。横では他人事のように薄らと笑みを浮かべる高坂の姿があった。その笑みは傍観者のものに感じた。

 

「その笑みやめろ」

「あら。いいじゃない。美人だし、中世古先輩」

「恋愛脳め」

 

 恨み言を言うのをどうか、許して欲しいとこの時ばかりは思うのだった。

 

 

 

 

 

 

「ちょっと香織!あの子誰?!すっごいイケメンじゃん!」

「ホントに付き合ってないの?!勿体ないよ〜!」

「付き合ってないよ。やめてあげて?彼に迷惑かけたくないの」

 

 どうして、という混乱はまだあるが、落ち着くバリトンボイスで冷静に話すことと纏う雰囲気が相俟って年齢よりも大人に見える彼と会話を交わしていくうちにある程度落ち着いた私は、周りに集まる野次馬にそう返していく。

 

「そうなの〜?勿体ないよ。あんな優良物件そうそうないよ?顔よし頭よし人柄よしな男」

 

 確かに、そうなのだろう。客観的に見ても彼の容姿は整っている。実に女の子に受けそうなタイプの男の子だ。そして、この事態にあれだけの落ち着きを持って対処できてしまうのも女子からしたらポイントが高いのだろうと思う。それが今回の事態に拍車をかけたのだろう。

 

 その言葉にどう返そうか悩んでいると、聞き馴染みのある声が耳へと届いた。

 

「ちょっと!どんな恋愛しようと香織の勝手でしょー?ほら散った散った。もう予鈴鳴ってるよ!」

 

 その声に私は安堵したように笑みを浮かべた。そして、感謝を口にする。

 

「ありがと。晴香」

「友達だもん当たり前でしょ?それにしても、五月にもなってないのに凄いね。彼も」

 

 彼、というのは先程まで会っていた明瀬悠月君のことだろう。追及が激しくて逃げるように彼の元へ行ってしまった。嫌な顔をせず「どうしました?」と言ってくれた時はかなり心が助けられた。

 

「こりゃ部活でも大変かなぁ」

「あはは。頑張ってね。部長」

「えー?」

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 放課後、追及から逃れる為にホームルームが終わってすぐ高坂を待つこともなく置いて音楽室につくと、既に過半数の部員が揃っていた。

 

 本当は聞きたいのだろうが聞いてこない様子を見るに部長が取り計らってくれたのだろう。悠月は目が合った小笠原に目礼を交わす。

 

 そして、部員の目線から逃れるように教室後方へと逃げると自分と同じくらいの背丈の茶髪の男子が話しかけてきた。

 

「大変だな」

「……君は?」

 

 自分でも知らず知らずのうちに警戒していたのだろう。少し、刺々しい返しをしてしまった。だが、彼はそれに気分を害した様子もなく爽やかな笑みを浮かべて告げた。

 

「俺は塚本秀一。担当楽器はトロンボーン。よろしくな。秀一って呼んでくれ。同じ男子、仲良くしような」

 

 いい男だなぁ、と素直にそんな感想を抱いた。気遣いよし、器量よし、さぞモテるだろう。素で人柄がいいのが伝わる。

 

「僕は、明瀬悠月。担当楽器はトランペット。よろしく。僕も下の名前で呼んで欲しい」

「おう。よろしくな。悠月」

 

 まるでオウム返しのように塚本の自己紹介を真似て返す。

 

「今流れてる噂。災難だったな」

「なんで皆他人の恋愛事情そんな嬉々として聞きたがるんだろ」

 

 塚本、いや、秀一のオーラが優しいもの過ぎて思わず愚痴っぽくなってしまった。

 

「そりゃあ気になるだろ。すげぇイケメンがいるって噂になってたし。うちのクラスでも女子が度々悠月の名前だしてたし」

「そうなんだ」

「そうなんだっておま。知らなかったのか?」

「うん」

 

 知らなかった。というか興味がなかったから仕方がない。

 

「お。滝先生来たな」

「また、練習後になるかな?」

「そだな。じゃ、また」

 

 

 

 

 

 

 部員が全員揃ったタイミングで、ざわざわとした音楽室内のざわめきはスライド式のドアがガラガラと音を立てて開けられたことで打ち消された。

 

 そこから入ってきたのは、今年からこの部の顧問となった、滝昇その人だった。

 

 簡単なプロフィールは、年齢が34歳、2年5組の担任、担当科目は音楽と聞いている。この情報が悠月の耳に入った時は、流石に学校の人to人の情報ネットワークに恐れ慄いた。まさか、その毒牙が自身に降り掛かるとは思ってもみなかったが。

 

 滝はに、し、ろ、と声を漏らしながら指を宙で彷徨わせてから満足そうに頷いて口を開いた。

 

「新入部員は22名ですか。抜けていた楽器も埋まっているようですし、助かります」

 

 スラリとした体躯に柔らかな印象を与える甘い容貌。彼の爽やかな雰囲気は瞬く間に部員の心を開かせていた。

 

 そういえば、強豪だった時代の顧問の苗字が「滝」だったと記憶している。もしかして親族だったりするのだろうか。親子二世代で同じ学校で吹奏楽部の顧問をするとは、なんて因果だろう。

 

「あ、まずは自己紹介ですね。始業式でも挨拶させていただきましたし、もしかしたら私の受け持ちの生徒もいるかもしれませんが。改めて、私は今年からこの学校に赴任した滝昇と言います。顧問になった経緯ですが、副顧問の進言で私が顧問になりました」

 

 これからよろしくお願いします、と丁寧に頭を下げる滝に、音楽室内に生徒たちの拍手が響く。頭を上げた滝はさて、と一つ間を置いて話を続けた。

 

「毎年この時期に、生徒の皆さんにお願いしている事があります」

 

 部員達へ背を向けてチョーク片手に黒板と向き合った。そして、何やら書き始めた。途中、黒板を引っ掻く音に身体が強ばったが、滝は失礼、と一言呟き再開した。

 

「私は生徒の自主性を重んじるというのをモットーにしています。ですから今年一年指導していくにあたって皆さんに目標を決めていただきたいのです」

 

 なるほど。意図は分かるが、この部活の現状でそのやり方は、どうなのだろう。この吹奏楽部にそれだけの意志があるとは思えないが。

 

 カツ、カツ、と黒板とチョークのぶつかる音がついに止み、悠月はそのパソコンで入力した文字のように整った文字に目をやって、眉をひそめた。

 

 

『全国大会出場』

 

 

 なんのことだろう。先生の目標かな、と思ったのも束の間。滝がその文字列を指し示して告げた。

 

「これが、昨年度の目標でしたよね?」

(…………え?)

 

 困惑、ではない。本当に思考が一度停止した。だが、滝の言葉に対し気まずそうに訂正を口にしている小笠原の姿を見て何故かほっとした。本気で全国を目指してあれなのだったらちょっと目を覆いたくなったが、あの様子を見る限り、本当になんとなく強豪校だった頃の名残で決めてしまったのだろう。目標に何を設定するかは当事者たちの自由だから笑うことはしないけど。

 

 小笠原の弁明に滝はなるほど、と頷いた。そして。

 

「では、これはなかったということで」

 

 滝はそう言って『全国大会出場』という文字の上に大きくバツ印を引く。その瞬間、ズキン、と胸に痛みのような苦しみが襲ってきた。その感覚に悠月は思わず拳を強く握りしめる。そして、この苦しみは自分が抱える矛盾によるものだと理解して思わず自嘲を浮かべた。元々、悠月は吹奏楽で北宇治を選んだわけではない。それは、目標を達成して急速に熱が冷えていくのを感じて満足したのだと思ったから。まあ、それだけではないが。

 

 だが、どうやら自分はたった一度の全国金賞に完全に満足していたわけではなかったようだ。だって、全国を目指すか目指さまいかという二択を与えられただけで鼓動は早まり、あの舞台に行けるかもしれないという興奮にも似た高揚感に支配されてしまったのだから。

 

 そして、今、この瞬間、全国金賞を取ったあとからずっとあった胸の中にぽっかり空いた燃え尽き症候群だと思っていた空虚なものは燃え去って、あの時味わった全身の神経に快感が走るような感覚を再び味わいたいという中毒症状ともいえるものに悠月は囚われてしまった。もうこのままこの熱に浮かされしまってもいいのではないか。そう思った。

 

(……でも)

 

 しかし、それは衝動的な欲であることが分かっていた。そして、それを機敏に悟った悠月の理性は、傾きかけた心を熱された鉄に冷水をぶっかけるかの如く一気に冷やしてしまった。悠月が本能、欲に従うことができなかったのは、この部の方針が全国大会出場になったことで生じるだろう部内環境の変化に思うことがあったからだ。

 

 まず必ず起こるであろう練習時間の増加。それによって拘束時間が増える。これは中学三年で実感した。悠月は志望校が志望校だ。学業が第一なのは大前提として、部活も、アルバイトもとなればかなりハードな生活になる。

 

 次に、これが悠月が一番懸念している部費の増加。部の備品もそうだし、もし関西全国へ行けば遠征も増えてくるだろう。そうなれば諸費用は必ず掛かってくる。現在の高校の学費や生活費に加え、大学の入試費用や合格後の学費はマストとして、生活費も確保しなければならない。これらに加えて部費の確保もとなれば結構切り詰めなければならない。働かせてもらっている、独り立ちするまで面倒を見てもらった叔父への仕送りも継続してしていきたいから。諸々の部費の増加幅が不透明で掴めないのが懸念をより膨らませている。

 

 悠月は叔父一家に大きな負担を掛けたくないという思いの下、こういったことに考えを巡らせて一人暮らし生活をしている。こういった生活を叔父が快く思っておらず、心配してくれていることは重々承知している。だが、与えてもらってばかりは悠月が自分を許せなかったし、悠月が叔父一家に引き取られてから叔父の妻が倒れている。子どもなのだからと叔父は言ってくれるが、これ以上一家に余計な心労と迷惑はかけたくなかった。

 

(我儘、だよなぁ)

 

 そういったことに思考を巡らせながら、悠月は今度は自分に対する嘲りを五割増で自嘲の笑みを内心で浮かべる。

 

 中学最後の年。全国大会の三週間ほど前、実は悠月は一度倒れている。その時は低血圧と診断されたが、原因は過労だろう。あの時は毎日のようにバイトを入れており加減をしてなかったから当然と言っちゃあ当然だが。今の週三日か四日の余裕を持ったシフトなら、大丈夫なのではという楽観視をしていることは否めない。だが、いや、しかし。

 

 ただでさえ叔父の店でアルバイトをさせて貰えているのは悠月の我儘を何とか聞き入れてもらったからだし、高校では無理をしないという条件の元一人暮らしを許してもらったのだ。それでまた倒れでもしたら何もさせて貰えなくなるかもしれない。そんな懸念があった。

 

 これからのことを考えれば、負担が減るのは「全国を目指さない」。負担は増えるが己の中にある矛盾をどちらも掬い上げるのは「全国を目指す」。だが、後者は支えてくれている人にも負担を強いることになる。

 

 どうしようか、と葛藤が悠月を苛んでいると、一つの声が耳に届いた。

 

「それでは、多数決を取りたいと思います」

 

 周りの音が入らないほど考え込んでしまっていたようで、悠月ははっと顔を上げた。

 

 多数決。民主主義の構成原理でもある、組織で物事を選ぶ時の方法のこと。そして、この停滞した状況では実に合理的な手段だと言える。ただ、そこにすべての者の意見が反映されるかと言えば、否だろう。周りに流されてしまう者、同調圧力を感じて意見を多数派に合わせてしまう者、少数派の意見を持つ者。多数決は、マイノリティの意見は無視される。多数派の意見で纏まってしまえば、声の小さい意見は届くことはないのだ。

 

 そして、結論が出ないまま、決が取られるのだった。

 

 

 

 

 

 

 茜色に染まる校舎。その廊下で悠月は今後について考えていた。

 

 結局、悠月はどちらにも手を挙げることはできなかった。あまりの優柔不断さに苦笑を浮かべた。悠月は、どちらとも選ぶことができなかった。

 

 結果は悠月含めた三人を除いて『全国大会出場』に手を挙げた。その中に同調圧力や周りに流されて手を上げてしまった者もいるだろう。そんな中ではっきりと全国まで目指さなくていいという方に手を上げた三年生がいたのは、印象的だった。

 

「ねぇ」

「ん……?高坂さんか」

「なんで、手を上げなかったの」

 

 振り返れば、般若かと突っ込みたくなるほど眉に皺を作り険しい表情を浮かべた高坂がいた。手を上げなかったの、全国大会出場の方にという意味だろう。悠月はあー、とどう応えような逡巡してから無難な答えで誤魔化した。

 

「どっちでもいいから、悩んでた」

「どうして?どっちでもいいって何よ。それだけの実力があるのだったら目指す以外ないでしょ」

 

 ぴくり、と目を細める。胸のうちにかすかに燻るものを感じた。まるで、自分が大事なものを踏み躙られたような感覚だった。分かっている。高坂からしたらこちらの事情なんてものは知らないしどうでもいい事だろう。だが、さもそうするのが当然という言い方でそうずかずか踏み入られては悠月としては気分が悪い。

 

 悠月は、心中にある醜い感情が燻っているのを表に出さないようにしながら、悟らせない仮面を被った。

 

「確かに、そうかもね」

「かもじゃないでしょ。中学の頃、全国金賞達成したんだからノウハウはあるんだし活かさない手はないんじゃない」

 

 何だこいつ、簡単そうに言いやがって、という思いが強かった。高坂が女子でよかった。男子だったら手を出していたかもしれない。ぐーで。絶対に行動には移さないが。

 

 悠月は一度大きく息を吸って視線を上げた。

 

「……あれは色々条件が整ってたからだよ。本当に奇跡だった。環境、立場を変えてもう一回はできない。特に今の北宇治では」

「……そんなことないと思う」

「そんなことあるんだよ」

 

 なんなのだろう。この根本的に相容れない感じは。苦手意識、とでもいうのだろうか。生理的嫌悪感、程ではないだろう。現にこうして話せているわけだし。だが、高坂との距離感が一切縮まらない原因が表面化しているようだった。具体的に言うなら、当たり前と思っているラインが決定的に異なる。価値観の相違ともいえる。はっきり言って、押しつけがましい。

 

 自分は今どんな表情を浮かべているだろうか。いつも通りの表情を浮かべられているだろうか。嫌悪感が表情に出ていなければいいなと思う。

 

「組織の中で生きるのは難しいんだよ。一人でなんでもはできないし、一年じゃ立場が弱すぎる。悪手を打てば全体にまで影響する可能性だってある。そんな中でただでさえ取れる択が少ないのに、変にしゃしゃり出て余計なしがらみを作ればそれが自分の足を引っ張ってくるのは勿論、本当に身動きが取れなくなる。高坂さんが思ってるほど人間関係は軽視できないし、僕は僕自身のことを有能だと思っていない」

 

 そこで一つ。間を置く。そして、何か言いそうだった高坂に被せて封殺する。これ以上高坂と話していると、己の醜い部分が出てくると思ったから。感情の抑制を同世代の誰よりもはるかにできるだろう悠月でも虫の居所が悪い時はある。

 

 それが、今だった。

 

「全国を目指すって決まった以上は手を尽くす。それでいいだろ。それと、悩んでたことに関してだけど、トランペットは好きだけど多数決でどちらかが決まるまでは目指す理由も意義もなかったんだよ。じゃあ、また明日。僕、この後用事だから」

 

 顔を合わせることもせずそう一方的に言って、足早に帰路につくのだった。今の感じが悪かったな、そういう反省をできるほど今の悠月は心に余裕はなかった。

 

 空に目をやる。視界一面に広がる曇り模様。

 

 それは、決意という太陽を覆い隠すように迷いという雲が覆い隠している悠月の今の心模様のようだった。

 

 

 

 

 

 

 そして、一週間後。手を尽くすと麗奈に宣言した悠月の思いとは裏腹に、北宇治高校吹奏楽部の状況は悪化の一途をたどることとなるのだった。

 

 

 




 
 
 
おかしい。当初予定してなかった話が生えてしまった。

筆が乗っちゃったんです。


ありがとうございました。

P.S.お気に入り人数100人超えてました。ありがとうございます。
 
 
 
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