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何とか日が跨ぐ前に投稿できました。
「予想通りというか、なんというか。静かですね」
楽譜を配られて一週間が経とうかというある日の放課後。悠月はトランペットを唇から離し口を水で潤してから、緩慢な動作で窓の外を眺めて呆れ交じりにそう口にした。
全国大会出場を掲げ、いざそのための活動が始まるのかと思いきやそんなことはなく、物理的にも部の雰囲気的にも静けさが訪れていた。
当然だが、良くない。特に物理的に静かなのが。静けさ、と表現したが、これは所謂嵐の前の静けさと言うやつだろう。問題が目に見えて迫ってきている。というか既に台風の目の中だろう。
トランペット、ユーフォニアム、チューバ、コントラバス、オーボエは聞こえない時の方が少ない。しかし、それ以外のパートは部活動としての意義はないも等しいものだった。
全国大会出場を目標に据えたあの日。最後に滝はこう言った。
『今決めた目標は、皆さん自身が決めたことです。反対の方もいましたし、内心では反対という方もいたかもしれません。ですが、これは皆さんが決めたことです。私は皆さんの目標が達成できるよう尽力しますが、私にできることはたった一つ。皆さんに指示を出すことだけです。それを心に留めておいてください。皆さんが自分で努力しなくては、決して夢は、この目標は叶わないのです』
私は皆さんが決めた目標が達成できるよう尽力する。こう言ったのだ。そして、こうも言った。
皆さんが自分で努力しなくては、決して夢は叶わない。と。悠月としても共感できるところだった。
しかし、だ。
自主練習の場所を探すという体で他のパートを偵察したが、それはもう形容しがたいほどに酷いものだった。三年はサボって好き勝手しているし、二年と一年は上級生の様子を伺って実のある練習をさせて貰えてないか、一緒になって遊んでいるか特に初心者なんかはどうしていいのかも分からないだろう。
勿論楽器を吹いている者もいたが、それが練習かと言われれば悠月はそうは思わない。惰性でしてる練習なんて練習にならないし、努力とは呼ばないだろう。
滝がこれをどうこうする気配がないのは、自主性を重んじるというモットー故なのだろうが、肝心の部員がこれではそのモットーは効果を示さない。
嘆息を漏らした悠月に言葉を返したのは、休息を取るために水筒を手に取った中世古だった。
「ごめんね。練習しようって呼びかけてはいるんだけど。明日には初めての合奏があるからって」
「いえ。誰のせいともいえないでしょう。責任の所在が何処にもないんですし」
あえて責任を向けるなら、今はもういない卒業していった先輩たちだろう。負の遺産を残し、それが今いる者を縛る呪いとなっている。とはいえ、悠月としてはこの卒業生にも責任を向ける必要はないと思っている。当時部員だった彼ら彼女らにも色々感じるものはあっただろうし、特に斜陽の最中にありそれを直で経験した人たちが抱えていたであろう苦悩や挫折などは推し量ることもできない。
「じゃあ、僕も個人練行ってきますね」
「うん。余裕があったら高坂さんの様子も見てきて欲しいんだけど、いいかな?」
「分かりました」
香織の提案に、孤立気味の高坂に気を使ってのことだろうと判断し、悠月はすかさず頷く。こういう所があるからこの先輩は慕われるのだろうな、と悠月は思った。
「あ、明瀬くん。ちょっと待って」
トランペットと譜面台、楽譜ホルダーを抱え教室を出ようとした悠月の耳に下からそんな声がかかった。声の主を見るるために視点を下げると、吉沢があるノートを片手にこちらを見ていた。
悠月はその馴染みのあるノートを横目で捉えた。
「どこ聞きたい?」
「えっとね〜。ここなんだけど、理解はできるんだけど吹く方に落とし込むことができなくて」
「あ〜。僕もそこ最初詰まったな。着実に成長しているようで安心安心」
吉沢の指し示したページに書いてあるのは、悠月も最初はできなくて詰まったところだ。
一度トランペット以外を置いて実演して見せながら教えていると、いつの間にか近くに来ていたでかいリボンに気がついた。
「ねぇ。これって明瀬が作ったの?」
「そうですよ」
「売れるんじゃない?これ。初心者が詰まるところ全部網羅してるしその上分かりやすい。こんなに初心者に寄り添った教本初めて見たわ」
吉沢に一つ断りを入れて吉川と向き合う。
「そりゃあそうですよ。だってそれ。僕が初心者の時にできなかった所がどうやってできるようになったかをそれに纏めて人に教える用にブラッシュアップして作ったものですから寄り添えてないと困ります」
悠月がさらりと告げた言葉に吉川が驚いた表情を浮かべながら再度質問を投げてきた。
「よく覚えてるわね。初心者の頃のことなんて」
「『初心忘るべからず』。父に口酸っぱく言われた言葉です。どうしたら忘れないか、思い出せるかって考えた結果ノートに取ることにしたんです。音楽ノートってやつですね。日々の練習記録を事細かに記してたんです」
「あ〜。私も中学の時してたなぁ、音楽ノート。またやろっかな」
というのはいつの間にか吉川の隣から覗き込んでいた中世古の言葉。
「いいですよ。あれは。感覚的にできてたものを言語化しようとするから技術や表現一つとっても理解度が段違いに上がるので」
今、悠月が言ったことは勉強やスポーツを深く熱中している者は聞いたことがある者がほとんどなのではないだろうか。
前者は学んだこと、言い換えればインプットしたものを人に教えるというアウトプットを以て、記憶に定着しやすく、説明力や読解力の向上、など理解度の向上を図るというもの。
後者は感覚的に行っていたプレーを言語化し、戦術理解度を高めるというもの。特にサッカーではこの戦術理解度、つまりはプレーIQの高い者がゲームにおいての心臓に据えられることが多い。ただ、FWの嗅覚と呼ばれるものは言語化という不純を入れればその選手のアイデンティティを奪いかねないという善し悪しもあると聞いた。
今、サッカーとFWの嗅覚を交えたのは似ている、と思ったからだ。特にFWの嗅覚と呼ばれるものと、音楽においての感受性、感性と呼ばれるものが。
サッカーでは過去、天性の嗅覚、感性を持ってして大成したイタリアのインザーギなんかがそうだろう。
そして、音楽、と言うよりは芸術においては、独特な感性や、どこか普通の人とは一線を画した感性を持った者が大成している。
これは共通項なのでは、と悠月は思うわけだ。戦術という譜面を以て、監督という指揮者が、選手という奏者を率いる。そして、率いられる者達は全力で指導者の想いを汲み、理論───戦術という譜面───を理解しようと尽力する。実に似ている。常に日進月歩し続ける両者はともに芸術のようだと悠月は考える。まあ、音楽は芸術なのだが。
話が逸れに逸れまくっている間に、吉川はまたも質問を悠月へとぶつけた。質問攻めである。
「てゆうか貴方まだ高校生でしょうが。こういうのって顧問の仕事じゃないの?」
「中学の時の顧問。尊敬しているのは前提として、典型的な上からの指示で充てられただけの教師だったのでその辺期待薄だったんです。ただ、大人にしかできないところはしてくださいましたけどね。合宿所の手配とか、遠征のための諸々とか」
だから、自分でできるところは自分でやろうと思ったんです。となんとも簡単そうに言う悠月に吉川は今度こそ顎が外れそうな思いだった。
悠月は淑女らしからぬ顔をする吉川に苦笑しつつ、続けた。
「相当自由にさせていただいてたので、感謝はしてます」
「……これって初心者の分だけ?」
「いえ。始めた頃から今に至るまで一応全部作ってますよ。初心者抜けたなってレベルからは技術一つ、ワンポイントに絞って作りましたが」
「すっごいね」
「多少添削し直して印刷するだけなので労力はほぼなかったです。中学のとき流石に全部に目を届かせるほど時間を作れなかったのでポイント事に作って渡してたんです。できたらパーリーが見るって形で」
ただ、これにも明確な欠点はあった。表現の部分に関しては個人の感性の問題もあるから書かず教本に含めたのは技術的部分のみだったし、個人によって簡単なものと難しいものも違う。だから上手い下手のカテゴリで分けるのではなく一つのポイントで分けるようにしたのだが、これが上手くいった。
本人が何ができていないのかが分かればそのポイントのヒントを渡すだけだったから。それでも分からなかったら質問に来るといった形でパートリーダーの負担も減らせた。
「ふぅん。そんなやり方よく思いついたわね」
「父が段階踏ませるやり方だったので、それを踏襲したんですよ。それに一気に詰め込んだってパンクしますし」
そんな会話を話していると、先程までぎこちなく拙かった音色に改善の兆しが混じるのを耳が聞き取った。
「……お、いい調子いい調子。吉沢さん筋がいいよ。ポテンシャルばっちりだね」
「まだまだ基礎だけど、楽しいね。トランペットって」
「そうなんだよ」
はにかみながら告げる吉沢に頷いて、細かい改善点を伝えながら、内心でよし!と拳を握った。成功だ。取り敢えず、第一段階は。そして、これだよこれ、と思う。この部においてでなくとも、悠月がトランペット以外で楽しみにしているのがこれだ。初心者を教えること。そして、その初心者が『楽しさ』に芽生える瞬間を見ること。
悠月の教える時のモットーだ。『楽しい』を仕込む。その上で一番手っ取り早いのが『できた』を体感してもらうことで、これは何にも代えがたい。そして、『できた』という体感は欲を生む。
「これができるようになった。次はあれをできるようになりたい」といった風に。
あとは、単純だが『褒めること』。どれだけ小さなことでも褒める。それだけでも褒められた側は『成長できてる』と実感できるものだ。そして、これはモチベーションの維持にも繋がる。
このループを重ねていけば段々分かってくる。『楽しい』だけではない奥深さに、魅力に。そこから魅了されてしまった人はどんどんハマっていく。
しかし、いい土壌がなければ種は萌芽してもすぐに枯れてしまう。この北宇治で吹奏楽に本気で取り組みたかった者達のように。だから、悠月が、導き手が方針を示し、支え木として真っ直ぐ育つよう補助の役割を担うのだ。
ただ、勿論人によって感じ方や熱中の度合いは異なってくるからその時は調整が必要だが。
だから、スタートラインに立った彼女、吉沢秋子にはこう声をかける。
「これからもっと楽しくなるよ」
トランペットに関しては。という枕詞は言わないでおく。折角楽しさに目覚めたのに明日には一時的にかもしれないがつまんなさを味わうことになるであろう吉沢に悠月は心の中で手を合わせるのだった。
「明瀬くんのあんな年相応な笑顔初めて見ました」
「よっぽどトランペットのこと大好きなのね。あいつ」
そう二人が口にするのは、最後の悠月の表情だった。
その表情はまるで玩具をプレゼントされた子どものようで、普段大人びている姿からは想像もできないほどに無邪気な笑みだった。
「相変わらず一人なのな。高坂さん」
「何?冷やかし?」
相変わらず氷のように冷たい高坂に苦笑を漏らして、高坂のいるここ、北館と南館を繋ぐ連絡橋からの景色を横目見る。
「いや。元気そうなら良かった」
「なんの用?」
「高坂さんの様子を見ること。中世古先輩が心配してたよ。高坂さん孤立気味だから」
「ならもう用事は済んだでしょ。それに、群れる方が嫌」
でしょうね。でなければ、好き好んでぼっち生活は送らないだろう。さっさと去れ、という雰囲気を露骨に出しながら練習へと戻ろうとする麗奈に待ったを掛けた。
「待った待った。まだ用事あるんだよ。個人的な」
「……用事?」
「ああ。この間はごめん。高坂さんが全国大会出場に本気だったのにそれに水差すようなことした。反省してる」
あの時は悠月が思っていた以上に頭に血が上っていたようで、今の今まで会話を交わすことができなかったのだ。
「ちょっと。頭下げられても困る……もう気にしてないから頭上げて」
「ありがとう」
その言葉に悠月は頭を上げると、高坂の大きな瞳とばっちり目が合った。すると、高坂は唐突に質問を投げかけてきた。
「……貴方は滝先生のこと。どう思う?」
その質問に怪訝な色を表情に混じらせる悠月だったが、パッと思いついたことを口に出した。
「滝先生?まだいまいち掴みきれてないから分からん。いかにも女子に好かれそうな優男だなって感じだけど、どうして?」
「……じゃあ、顧問としての滝先生もまだ分からないってわけ?」
なんだそっちか。であれば一定の評価は下せると思う。それが、高坂の期待に沿うものかは判断しかねるが。
「一貫性がある。自主性を重んじると言って今のところ生徒のやり方に口出ししてないのがその証左なんじゃない?それが今時点でいい方向に行ってるかはさておき」
「悪影響ってこと?」
露骨に顔を歪めて不機嫌そうなのを隠そうとしない高坂に悠月はある推測を立てた。それは。
(そういえば、風の噂で高坂さん推薦全部蹴ったって言ってたな。もしかして高坂さん、滝先生の追っかけか?)
というもの。どこから漏れたのかという情報源は知らないが、どこからともなくそんな彼女のトランペットの実力を考えれば推薦が来ていたというのはあながち間違いでもないだろう。となればこの噂の信憑性も少しは上がるというもの。妄想に近い憶測なことには間違いないが。
となると、もしかして高坂は滝と知り合いなのだろうか。という疑問は一旦置いておいて、高坂の質問に答えた。
「言ったろ。今時点ではって。それに滝先生の方針も一つのやり方なのは理解してる。ただ、この部の現状とは致命的にマッチしてないってだけ。滝先生のやり方は部の根底に『とりあえずやってみる』だとか『頑張る』っていうのが定着してる部とは相性いいよ」
元がゼロのものにいくらかけたところでゼロなのだ。滝がいくら優秀でも部員にやる気がないと意味がない。とはいえ、火をつけれるかどうかは滝の腕にかかっていると悠月は見ているが。
「明日からの部員次第でこの部がどうなるか決まるんじゃないかな。滝先生が指導者として、教育者として優秀なのかどうか」
そこまで言って、悠月は魔が差した。
「……高坂さんは滝先生のこと。」
「……っ」
分かりやすくて面白い。別に誰に愛を向けようがその人の自由だが、ここまで来ると健気だな、と悠月は思う。
「優秀だと思ってるんでしょ?」
「……当たり前でしょ」
「なら、それを信じとけばいいんじゃない。わざわざ他の人の評価を気にする必要ないでしょ。極論、他人なんだし気楽にいきなよ」
「他人じゃないし」
「あー。はいはい。練習の邪魔して悪かった。僕も個人練戻るよ」
さて、用事も済んだことだし、と悠月は高坂に背を向ける。その背に、高坂は告げた。
「サボんないでよ」
「サボんないよ」
◇◆◇
そして、迎えた最初の合奏。
普段は音楽室として授業で使う教室を合奏練習で使うため、配置されている机や椅子を廊下へと運び出すところから始まる。
大抵の高校はそうなのではないだろうか。私立で吹奏楽部に力を入れているともなれば異なるのかもしれないが、中高と公立だった悠月には知りようのないことだ。
そして、それぞれの楽器パートが指揮者が見える場所へと並ぶ。指揮者から見て左最前列にクラリネット、真ん中最前列にフルート、右最前列にはオーボエが並ぶ。そして、その後ろにはトランペット含めた金管、パーカッションなどが並ぶ。
部員全員が一堂に会すためやや手狭だ。中には最初の合奏練習ということもあり初心者もいるが、今回は雰囲気を知ってもらう目的で見学での参加だ。
どこか気の抜けた雰囲気の音楽室には当然悠月もいた。中世古と麗奈に挟まれる形で位置についているわけだが、悠月は視線だけで周囲を見渡して小さく嘆息した。
そういえば、今日が最初の合奏となったのはどうやら早くサンフェス───サンライズフェスティバルで、毎年北宇治が参加している行事だ。悠月も他校の演奏が聞ける機会なので見に行っていた───の準備に入りたいだとかで今日が初の合奏となったらしい。悠月は直接は聞いていなかったが。
急に合奏が決まったことと中世古が小笠原に言いに行ったのを見るに、トランペットパートからの意見なのだろうか。そう思い隣をちらりと見ると、不満げに口を尖らした吉川がいた。予想は当たっていそうだった。
ついぞ、悠月の耳にまともに楽器の音が届くことはなく、ここまで来ると不安すらないんだなという思いが悠月の中にはあったから。どちらかというと、もはや諦念だ。ここまで酷かったのか、という。同じパートの先輩はまだマシとか思っていたのが阿呆らしい。
それもそうだろう。当たらないと分かっているくじを引くようなものなのだ。というか、練習を碌にしていないのに本番が上手くいくわけがないのに。
指揮者台に立った滝は木製の譜面台に両手を添えて、いつも通りの爽やかさのある笑みを携えて告げた。
「さて、今日は初めての合奏ですね」
合奏になるだろうか、と悠月は思う。
「皆さん。私の指示を聞いてくれたかと思います。合奏できるレベルにまでキチンと練習してきましたか?」
まばらな返事が悠月の耳に届く。悠月も中学で染み付いた習慣となった返事を返す。幾つか視線を感じるが、そんなことは気にも留めず思考に耽った。
(滝センセ思ったより性格悪いな?腹黒だわ)
滝が分かっていないはずがない。各々が自主的にしっかり練習しているのなら、聞こえるはずなのだ。楽器の音が。それが聞こえていないとなれば、言わなくとも分かることだ。
「とりあえず、まずはチューニングをしましょうか」
滝の合図に合わせてチューニングを行ったあと、しばらく基礎練習を行い、ついに合奏へと入る。楽譜の上部に印刷された曲の名は、『海兵隊』。行進曲の原点として広く知られ、初心者がまず最初に演奏する曲だ。そして、簡単な曲であるからこそ、些細なミスでさえ目立って見える。
これもまた、滝がこの部に対しどういう評価を下しているのかが伺える。ようは、こう言っているのだ。「君たちはまだそのレベルなのだから、まずは初歩を完璧になさい」と。穿った見方かもしれないが、滝が選曲に『海兵隊』を選んだ理由はそれが一番しっくりくる。
滝が手を振りあげ下ろした瞬間、合奏が始まった。
悠月は、音の出だしの瞬間から吹くのを止めたくなった。こんなのに合わせてやらなければならない事実が既に苦痛だった。揃わないリズム、メロディと呼ぶこともおこがましい歪な音、エトセトラエトセトラ。というか、何よりもまず音が出てない。この状況で悠月が合わせるのを止めると演奏が止まる。
だが、悠月の懸念は杞憂に終わる。とうとう収拾がつかなくなった演奏を滝が演奏を止めたからだ。
「はい。そこまで」
この空間を渦巻くものは様々だった。反省の色すら見せないクラリネットの三年、駄目とも思っていなさそうなホルン担当、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる真面目な者たち。なぜ止められたか分かっていなさそうなのは初心者だろう。経験者がそんな顔してたら愕然としてしまう。
「なんですか。これ」
浮かべただけの笑顔で、心の底から冷やすような酷く冷たい声色で放たれた質問。演奏と応えられる者はいないだろう。できていない自覚があるから。呆れと失望を感じさせるそれは、この教室の温度を絶対零度と言えるくらいにまで叩き落とした。
滝の笑っている表情に反して一切の色を写していない目は部のまとめ役に向けられた。
「部長。私、指示を出したはずですが。合奏できるクオリティになったら呼んでくださいと」
「は、はい……言いました」
「それがこの有様ですか?」
滝は小笠原から視線を外し、皆に向けて質問を投げた。
「皆さん、合奏って何のためにあると思いますか?」
誰も答えなかった。答えられなかった。悠月も静観を決め込む。嫌な沈黙がただでさえ重苦しい空気をさらに重くする。誰も答えないことに滝は呆れたように息を吐き、ぐるりと見渡して一人の男子を指名した。
「では、塚本君」
「お、俺ですか?」
哀れ。秀一。この吹奏楽部で初めての男子の知り合いに黙祷をする。秀一は動揺したように声を漏らしたあと、自信なさげに答えた。
「みんなで音を合わせて演奏するため、ですか……?」
模範解答だ。悠月でもそう答えるし、それ以外答えようがない。
「そうですね。私もそう思います。ですが、あまりに欠陥が多くて、これでは演奏が破綻してしまう。本当にあなたたちは今の今まで何をしていたんですか?」
「ちゃんと練習してました!毎日、みんなで音合わせて」
食い気味に応えた人の方を見れば、楽器紹介の時にトロンボーンの紹介をしていた先輩が滝と見合っていた。
嘘つけ、と悠月は口だけを動かした。そんな見え見えの嘘を言ってどうなるのだと思いはしたが、先輩も反射的に出てしまった反論なのだろう。
無理がある、というのは先輩も分かっていたのだろう。どこか怯んでいるような様子だった。だが、ここで引くことはできないだろう。それはつまり、練習をまともにしていなかったことを意味するから。
そうですか、と滝は言ってメトロノームに手を添えた。悠月にはそれが何故か、死刑執行人がボタンに手を添えているように見えた。
「そうですか。では、トロンボーンの皆さんはこのメトロノームに合わせて頭から吹いてください」
それはまるで、死刑宣告。処刑台に上がるは、自ら間抜けをさらしてしまったトロンボーンパートリーダーと同じくトロンボーン担当の部員たち。連帯責任というやつだ。彼らが犯したのは罪ではなく怠慢だが。
処刑を知らせる鐘が如くメトロノームは鳴り始める。規則正しく機械的な音が静寂のなかで無慈悲にも鳴り続ける。そして、吊るされた刃は落とされた。
それからは悲惨だった。メトロノームに意識が割かれて肝心の音は小さく、印があってもなくても不揃いなリズム、それ以外にも個々のミスが目立つ。これでは、合奏以前の問題だ。まずは基礎、そこからだ。
「はい。そこまで」
公開処刑は、滝の一言によって止められた。辱めだと思ったのではないだろうか。トロンボーンパートの皆は。
「皆さん。この演奏を聞いてどう思いました?」
それにも、誰も答えない。滝はふっ、と困ったように笑みを浮かべた。それは呆れからか、諦めからか。
「私はトロンボーンだけでなく、他のパートも他人事ではないと思いましたよ。他のパートも今のように聞くに堪えないものでした。どうしてでしょう。野口君の言う通りなら、練習、していたのでしょう?でしたら最低限の演奏はできておいてもらわないと。今のあなたたちは最低限の基準すら満たせていません。これでは指導以前の問題です。私の貴重な時間を無駄にしないでいただきたい」
正論だ。昨今、学校での教員の部活動の残業を問題視する声も出てきている。しかも、その残業は残業代のでない所謂サビ残だ。となれば、顧問を任されている教師からしたら真面目に練習すらしない部員の為に貴重な時間を割いてやる意味がない。
そして、わざわざ貴重な時間を割いて見てくれている顧問がいるのなら礼儀は払って然るべきだし、不満げな態度を見せるのは無礼だろう。
ちらりと視線をやれば、顔を俯かせて肩を震わせる者、苛立ちを隠そうともしない者、不満げに眉を顰める者、表情を変えない者など様々だ。
滝は一瞬腕時計に視線をやり、告げた。
「今日の練習はここまで。この後はパート練にして、各々課題を洗い出して改善しておいて下さい。次回の演奏は来週の水曜日の二時からとします。来週は三者面談もありますからね」
分かりましたか、そういう滝に返事はない。二度目、滝が聞き返して、まばらに返事が漏れた。
譜面台に置いた楽譜を脇に颯爽と教室を後にしようとした滝に、立ち上がった中世古が引き留める。
「あ、あの!滝先生。サンフェスの曲は……?」
「あなたたちはそのようなものを気にするレベルにありません。来週、まともなレベルになってなければ参加しなくていいとも私は考えています」
でしょうね、と悠月も思う。もし仮に今のような完成度でサンフェスに出るような異常事態になれば悪いが仮病を使う。人として終わってはいるが、辱めを受けるつもりはない。悠月にも最低限プライドはある。
ああ、それと。と中世古へは顔だけ向けていたのに対し、半身振り返った滝と悠月は目が合った。
「明瀬君。この後職員室に来ていただけますか」
「わ、分かりました」
急に名指しされるものだから咄嗟に承諾してしまった。というか、こんな雰囲気の時に名を呼ぶのはやめていただきたい。
そんな悠月の心情は知ったことかと滝は扉の先へと消えていった。
「なんなの!?あいつっ!!」
「サンフェスでなくていいとか意味分かんない!」
「てか感じ悪くない?」
「部長。ちゃんと言った方がいいよ」
そして、バケツから溢れ出した水のように、あちこちから不平不満が湧き出る。そして、そのどれもが自分に責任を負いたくないという自分勝手な思惑の透けているものだった。
感じ悪いのはどっちだよ、と思いながら悠月は荷物を纏めて教室を出ようとした。
「はいはいはーい!愚痴はいいから、とりあえずパート練の部屋戻ろう。それで意見纏めて、パートリーダー会議で話そう」
皆の意識はあすかのもとにあった。その隙に、悠月は問題の渦中から逃れるように音楽室から去るのだった。
不協和音は、まだ止まない。
ありがとうございます。