御幸引退後の沢村とのあれこれストーリー   作:片桐秋

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お待たせいたしました。どうぞご覧くださいませ。





第16話 そして、これからも

 しばらくは黙っていた。心地よい沈黙だった。手はつないだままだ。沢村の右手と御幸の左手を、目立たないようにそっとつないでいた。

 

「良い風、吹いてきたなあ」

 

 不意に沢村が口にした。

 

「そうだな、涼しくて快適な秋の夜だ」

 

「もう夜なんだよな。そろそろメシの時間か」

 

 沢村は、名残惜しそうにしている。野球部を引退した御幸と一緒の食堂で食事ができないのを残念がっているのだ。

 

「ま、それは仕方ねえよ。また食ってからこっち来るから」

 

「俺が御幸の寮のほうに行くよ!」

 

「いいって。なじんだ野球部の寮の近くに、俺もいたいからな」

 

「そっか。じゃあ、ここで待ってるよ!」

 

「ああ」

 

 御幸は、おもむろに立ち上がった。静かな秋の宵にふさわしい、静かな動作だった。

 

「じゃあな、飯食ってくるぜ」

 

「うん、俺は先に来て、ここで待ってるよ」

 

「急がなくていいぜ。ゆっくり食え」

 

「うん。御幸もな」

 

「ああ、大丈夫だ」

 

 沢村も、同じようにそっと立ち上がる。一般生徒用の寮の食堂に向かう御幸の背中を見送る。

 

「いい風だなあ」

 

 沢村は心の中でつぶやく。そばにいた御幸からは、使っているボディソープのほのかな香りがした。今はその香りも、風に流されて消えてしまった。

 

「今日は御幸も、あんまり練習しなかったんだな」

 

 汗をふき取るために、爽やかな香りのローションをたらした濡れタオルを御幸は常に携帯していたが、今日はその香りではなかった。もっとやわらかな、花のような香りだ。

 

「俺も食堂に行かなきゃな」

 

 寮で休んでいた野球部員、グラウンドで練習していた部員が、おのおの食堂へと向かっている。

 

 沢村も、ベンチから離れた。

 

 

 食堂に入ると、もうすでに人がいっぱいだった。遅れてきたわけではない。まだ、食事を乗せるためのトレイを持って列に並んでいる選手たちがいる。

 

「三年生の先輩たちがいなくなって、俺たち一、二年だけだと寂しくなったな。まだ、新一年生が入ってくるまでには間がある」

 

 沢村の内心の思いである。練習のある日には、そんなことはあまり考えない。今日は、なぜだか考えてしまった。

 

「御幸が、いなくなって寂しいよ」

 

 寂しがっている様子を、あまり見せたら駄目だ。御幸に心配を掛けてしまう。御幸には、心置きなくプロの道へと旅立って欲しい。だが。

 

「栄純くん、食事終わったら少し練習する? それとも、今日はやめておく?」

 

 食事を受け取って、トレイの上に乗せた春市が話しかけてきた。

 

「ああ、悪いな、今日は御幸先輩と話したいことがあってさ」

 

「そっか。なら、いいよ。ゆっくり話してくるといいよ」

 

「ああ、ありがと。春っち」

 

 沢村も食事を受け取り、いつもの席に向かう。春市と降谷が、先に座っていた。

 

「御幸先輩、元気だった?」

 

 降谷が聞いてきた。

 

「ああ、大丈夫だよ。お前らを信じてる。そんな感じだった」

 

「そうか。なら、その信頼に応えなきゃいけない」

 

 神妙そうにしている。降谷にとって、御幸は恩人だった。誰も受け止めてくれなかった自分の豪速球を、受け止めてくれたキャッチャー。

 

 そして、誰も受け止めてくれなかった、降谷の気持ちを受け止めてくれた恩人だ。

 

 一つしか歳は違わないけれど、そして身体は男でも、まるで母親のように、愛情をもって受け止めてくれた先輩。

 

 降谷にとって、御幸はその全てだった。

 

「だけど、僕はもう御幸先輩の手を離れた。御幸先輩は安心して、僕を手放すことができた。僕も、御幸先輩に執着しないで、あの人を新しい世界に行かせてあげられる」

 

「…ああ」

 

 沢村は、短く答える。

 

 時々、思ったことがある。降谷のほうが、御幸にふさわしいのではないか、と。エースになったのも、降谷が先だった。一年生の頃から、『怪物』と呼ばれ、話題になっていたのも降谷の方だった。

 

──だけど、最後には俺がエースになった。御幸の最後の夏には、俺がエースになっていた。

 

 沢村は、今持っているプラスチック製の箸(はし)を、ぎゅっと握りしめた。

 

──俺は、あきらめなかった。

 

「今日は回鍋肉(ホイコーロー)だね。僕はこれが好きなんだ。休みの日だから、量は控えめだけど」

 

と、春市。御幸先輩たちは、何を食べているのかな、と付け加える。寮が別だと、食事の内容が違うことがあるのだ。

 

「ああ、中華も美味いよな」

 

と、沢村は答えた。

 

 食堂の開け放たれた窓から、涼しい秋の夜風が入ってくる。

 

──だけど、俺はもしも御幸が、俺以外の他の誰かを選んでも、降谷の方を選んでいたとしても、御幸がそう選ぶなら、俺は御幸をあきらめるつもりだった。

 

 沢村は、豚肉とキャベツとピーマンの、中華味付けの味噌炒めを口にしながら、御幸が正捕手としてチームにいた頃を思い出していた。

 

──俺は、御幸を自由にしてやるつもりだった。たとえ、どんなに辛(つら)くても。

 

「だけど、そうはならなかった。きっと、これからも──」

 

 そっと、つぶやく。誰にも聞こえないように。

 

「栄純くん、何をニヤけてるの」

 

「あ…あ? に、にやけてなんか、いえねよ!」

 

「いいや、栄純、ニヤけてる」

 

「うっせ」

 

 沢村は表情を引き締めた。それからは、黙って食事を続けた。

 

続く






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