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「もっと待ってから、風呂入りに行かねえとな」
と、沢村。御幸は常に、風呂に人気(ひとけ)がなくなった遅い時間帯に入るようにしているのを、沢村は知っている。
「何となく、裸を人目にさらすのが気になるんだよな。男風呂に入れないほどじゃないし、人の多い風呂でも、絶対に入れないってほどじゃないが」
トイレも男子トイレに入るが、必ず個室を使うのも、沢村は知っていた。
「御幸は強い男だけど、女の子みたいな心も持っている。俺は、御幸のそんなところも大好きだ。心から大事にしたい」
沢村は、そっと御幸の手を握った。
「俺にとって御幸は、世界で一番かわいい女の子だよ。同時に、俺の最も信頼する、強くて頼りがいのある男でもある」
肉体的な性別も、それはそれで大切なことだ。しかし、男とは女とは、それだけのものなのだろうか。沢村は思う。
「なあ沢村、俺は、男の中に混じって青道野球部でキャッチャーをやってきた。それは全く気にならなかった。むしろ、これぞ天職ってくらい、野球を、キャッチャーをやるのは大好きだ。リトルやシニアの頃から、そう思ってきたよ。女の子に混じってスポーツをやりたいとは微塵(みじん)も思わない。だけど、風呂とトイレだけはな、ちょっとな」
「御幸が安心して風呂に入れるようにしてやりてえな」
沢村の声は小さくなった。いつも大きな声の沢村なのに、だ。心配そうにして、目を伏せている。
「はは、そんな心配すんな。俺はそこまでヤワじゃねえよ。人の多い風呂は苦手なだけだ。お前が気にすることはねぇぜ」
「うん…でもさ。あのさ、プロになって、お金と時間ができたら、温泉旅館行ってさ、各部屋にある個室風呂に二人で入ろうぜ。でなきゃ、どっかの大浴場を貸し切りにしてもらうんだ」
沢村は、御幸をいたわるように言った。そのまなざしには、心からの思いやりが現れていた。御幸は、そのまなざしを受けとめる。そっと微笑んでみせた。
「貸し切りはいらねえな。個室風呂でいい。お前と二人で、ゆったり過ごしたい。まあ、それはまだまだ先の話だけどな。プロになったら、二人とも球団の寮に入れられる。特に高卒の新人は、どこもそんな扱いを受ける。成績次第では早めに寮から出られるって言うが…正直、新人のうちにプロで実力を発揮できるかは今の段階で確実なことは言えねえからな」
「そりゃ勝負には運もあるけどさ。でも、そんな弱気じゃ駄目だ。俺たちは別々のチームになっても、ちゃんと活躍して認めてもらわなきゃならない。そして御幸と一緒になる! 御幸と結婚式を挙げるんだよ」
御幸は笑った。
「そうだな、お互いやるしかねえ。青道で学んだことも、きっとプロに行っても糧になる。結果に執着はせず、しかし目標を目指して努力し、試合になれば全力を尽くしつつ野球を楽しみ尽くす。執着と熱心にやるのは違うぜ。ま、そのあたりで努力が苦にならねえよう、精神的にダメージを受けることのないよう、青道は俺たちに、大切なことを教えてくれたよな」
「そうだ。俺は御幸を愛してるけど、執着はしていない。俺の様々な欲望より、御幸自身を愛してる。欲望って性欲だけじゃなくてさ、なんかこう、相手がどう思うかより、自分の思うとおりに反応して欲しいとか。もちろん、俺だってそう思うことはあるさ。だけど、そこに執着するとさ、俺たちの関係は、きっと上手くいかなくなる!」
「はは。だけど、ホタルはきれいだし豆電球じゃない。お前が小学生の頃から持っていたヘビの抜け殻は、とても興味深いものだ」
御幸は、少しいたずらっぽく笑った。沢村はそれを聞いて、やはり少しだけ口を尖(とが)らせた。
「うん、そうだけどさ、それは押し付けるもんじゃないだろ。お互いに理解しようと歩み寄るんだよ。でも、押し付けるのは駄目だ」
「そうだな。押し付けたり執着したりする奴は、心に満たされないものを持っている…。だけどそれは、結局は本人以外にはどうしようもない。話を聞いてやって共感してやっても、満たされない心の穴は、最終的には本人が自分自身で埋めるしかない」
御幸は、遠くを見るような表情になった。ここにはいない誰かを思っているようだった。青道野球部の正捕手を引退した若者は、さらに続けて言った。
「だけどさ、誰かにしてもらうだけじゃなく、自分自身でどうにかしようとする意志があるなら、きっと道は開けるぜ。降谷もそうだった」
「うん…。あいつも一年生の頃から変わったよな」
「ああ、良い方に変わった。お前も、だけどな」
「俺は最初から、御幸に真実の愛を捧げてたんだよ!」
「ああ、分かってるよ」
と、二人で話していると。
「御幸先輩、栄純」
その降谷だった。
「うわっ! お前、いきなり現れんな!」
「ゆっくり歩いてきたよ。二人とも話に夢中で気がつかなかったでしょ」
「どうした、降谷。元気か? 何か用があるのか」
「ありがとうございます、御幸先輩。僕はちゃんと元気にやれていますよ。栄純にノートとコピー、渡そうと思うんです。御幸先輩にもらったノート、三冊は栄純に渡して、僕がコピーを持つ。残りは栄純にコピーを渡そうと思って」
「ああ、いいな。二人とも、チームの二本柱なんだから、赤点は回避しないとな!」
「はい。御幸先輩のノートのおかげで、勉強が楽になりました」
「ありがとう、降谷! それに御幸…先輩!」
「一年の授業のノートのコピーも持ってきたよ。年に一回の実力テストもあるし、基礎が分かってないと数学と英語は困るからさ」
「ああ、ありがとう! なあ、それだけコピー取るの、カネも掛かるし大変だったろ」
「大丈夫、金丸キャプテンや春市にも協力してもらったから。由井や浅田にも手伝わせたし。エースが赤点取らないためだから、それくらいは協力してくれたよ。お金は僕が持つって言ったけど、みんな数百円くらい別にいいってさ。後でこの四人にもお礼言っておいてね」
由井は小柄だが、シニアの頃から優秀なキャッチャーで、体に似合わず長打力もある一年生だ。
浅田は、沢村と同室の一年生ピッチャーで、ベンチ入りはしていなかった。正直、今のところは戦力として期待されてはいないが、このような選手もいてこその、大所帯の青道野球部である。
「由井…浅田…。情けない先輩ピッチャー二人で済まない…」
そこで御幸が、
「由井も浅田も、真面目そうだからな。授業で寝たりはしないだろうな」
と、からかうようにニヤニヤ笑って言った。
「うわぁ、もうそれは言わないでくれえ」
「今は寝てませんよ。御幸先輩のノート見ながら授業受けてます。格段に、頭に入ってくるようになりました」
と、頭を抱える沢村を尻目に、降谷は冷静に答えた。
「そうか、それはよかったよ」
御幸は、降谷に向かって微笑んだ。温かい、心からの笑みだった。
続く
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