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そうしているうちに、夜も更(ふ)けてゆく。夜の九時半である。十時までには、風呂を上がらなければならない。
「そろそろ風呂入りに行くぜ。名残惜しいけど、さ」
御幸は、そっと優しく笑って沢村に言った。
「うん、御幸、湯冷めしないように布団に入れよ」
それは、もう自分のためにここに戻ってこなくていい、とする意味である。
「ああ、お前もな」
御幸はベンチから立ち上がり、沢村を背を向けて歩き出した。途中、一度振り返り、沢村に軽く手を振る。沢村も振り返した。
大浴場に向かう御幸の背中を見送りながら、沢村も立ち上がった。
「俺も風呂入るか。カラスの行水はやめるぜ。御幸が心配してたよな」
その時には素直になれず、カラスの行水で何が悪いのか、などと反抗してしまったものだ。
──御幸が好きで、でも俺はなかなかエースになれなくて、素直になれなかったんだ…。
とは言え、今から風呂に入ると、御幸も沢村も十分(じゅっぷん)ほどしか湯船に浸かれないだろう、と思われた。
「いいや、十分入っていられれば充分だ」
沢村は大浴場に向かった。寮のすぐ近く、食堂とミーティングルーム、更衣室のある建物の中に、大浴場もある。
「よし、走るぜ」
肩掛けかばんに降谷から渡された大きなビニール袋二つを下げたまま、沢村は走って行った。
いったんは寮の部屋に戻り、荷物を置いて、タオルや石鹸などを取ってこなくてはならない。
沢村は、頭から爪先まで、昭和の時代からある昔ながらの白い石鹸で丸洗いしていた。
寮の部屋に戻ると一年生の浅田がいた。すでに引退した三年生の倉持はここにいない。
──チーターは、一般生徒用の寮で、御幸とゾノ先輩と同室になったって聞いたけど。
「あ、おかえりなさい」
と、浅田が礼儀正しく真面目に、先輩の沢村を迎えた。相変わらず、腰の低さと気弱さが感じられる。
──しかしコイツも、来年の春からは二年生で先輩になるからな。もうちょい、堂々とした態度をだな…。ま、いいか、後輩が入ってきたら何とかなるだろ。
「ああ、まだこれから風呂だけどな。お前は入ったか?」
「はい、今日は九時十五分前ごろに入りました」
九時十五分前は八時四十五分である。八時半が、ちょうど夕食後の寮の大浴場が開く時間であった。
夕飯が七時半、食事に二十分ほど掛かるとして、食後三十分以上は時間を置くようにと、そんな配慮からである。
百人もの大人数を抱える大世帯だ。自宅から通いで来る部員もいるとはいえ、一度にそんなにたくさんの人数は入れない。
そのため、夕食前にも大浴場は開いており、それは四時から七時までである。
ただ、ベンチ入りメンバーになる様な者は遅くまで練習をすることが多く、夕食後の入浴が常(つね)となる。
──浅田も、今日も練習してたのか?
今の一年生が入ってきた時、大量の飯を食うのに苦労していた浅田におせっかいを焼き、やはり新一年生だった奥村に叱られたことを思い出した。
──こいつ、後輩のくせに、生意気だ!
当時はそう思ったものの、今にして思うと浅田なりの頑張りを認めず、先輩づらして上から目線なのも良くなかったのだろうとも思う。
──浅田も頑張ってんだよな、こいつなりに。
「よし、俺も風呂行ってくるぞ」
沢村は、にこやかに元気に声を掛けて、タオルと着替え、石鹸箱の入った洗面器を持った。
「はい、いってらっしゃい」
「あ、そうだ! ノートのコピーありがとうな! 自販機のお茶かジュースでもおごるぜ。好きなもん、言えよ」
「いえ、いいんですよ」
「遠慮すんな。じゃあ、後でな」
沢村はそう言って、さっさと部屋を出ていった。
■
沢村は、風呂を済ませて寮の部屋に戻った。自分に割り当てられた荷物置き場の棚に置いた荷物を、改めて見る。
降谷が渡してくれた白い大きな手提げのビニール袋二つには、御幸のノート三冊と、ノートのコピーの束がいくつもあった。
「こいつは、机の上の棚に置いておこう。明日、購買部でファイル買って、コピーを綴(と)じないとな」
浅田はすでに布団に入っていた。ただ、まだ眠ってはいないようである。部屋の灯(あか)りも点(つ)いたままだ。
消灯は夜の十時半である。あと二十分ほどは余裕があった。
「軽くストレッチしてから寝るぜ。お前もストレッチしたか?」
「はい、少し」
「そうか、寝る前のストレッチはいいぞ」
沢村は十分(じゅっぷん)ほどストレッチして、さっさと着替えた。歯はここに戻る前に、下の洗面所で磨いてきた。
「よし、寝るぞ、おやすみ!」
「はい、おやすみなさい」
沢村は、すぐに眠りに入った。浅田のほうは、なかなかそうはいかなかったが、そのうち寝息を立て始めた。
青心寮の夜は更けていった。
──御幸、御幸、愛してるよ、御幸。今日は、盛大に結婚式だぜ。俺の家族と友人、青道のチームメイトや先輩たち、監督たちも呼んだよ。御幸の親父さんも来てくれた。俺たち二人で、モーニング着て結婚式を挙げるんだよ。御幸、愛してるよ……
沢村は幸せな夢を見ていた。
あくる朝。
「よし! 今朝も良い目覚めだ! 昨晩は幸せな夢を見た。きっと正夢だ!」
と、目覚めるやいなや、沢村は大声を出した。朝の六時。起床の時間の三十分前だ。10月の末頃の朝、すでにカーテンからは、薄明るい朝の光が差し込んできていた。
沢村は、起き上がり、二段ベッドの下に下りていった。そんな時に、寝ぼけて足を踏み外さないよう、気をつけねばならない。
先ほどは良い夢を見過ぎて思わず大声を出してしまったが、浅田は「うーん」と声をあげながら寝返りを打っていた。目覚めてはいないらしい、と沢村は見て取る。
今度は後輩を起こさないように気をつけながら、沢村は服を着替えて出ていった。
「よし、今日も良い朝、良い天気だ」
昨日の土曜日は休みの日だった。自主練習をしている選手は多く、沢村も午前と、昼食一時間をはさんで午後の二時までは練習をした。
今日は日曜日、今日は練習があるが、七時に朝食、八時から昼食一時間をはさんで、午後四時頃で終わりだ。
その午後四時から就寝の十時半まではフリータイムである。門限が、夕飯の始まる七時半までなのは変わらない。
「飯前に、ちょっと練習してえんだよな。これが本物の朝飯前だぜ!」
グラウンドに出た沢村は、ストレッチをしてから走り出した。起床時間の六時半より三十分早く起きたが、それでもきっちり七時間半は寝ている。
沢村は寝付きがよく、朝もすっきり目が覚める体質なのだ。
「へへ、今日も良い天気だぜ。御幸、見てろ。お前がいなくなっても、俺たちはやっていく!」
沢村は、ほんの少しの切なさを抱えながら、グラウンドを走り続けた。
続く
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