お待たせいたしました。どうぞご覧ください。
二十分ほどして、鍋が煮えた。台所にあるキッチンタイマーの音が鳴る。沸騰した湯に具材を入れてから、その後は弱火でじっくり煮込んだのだ。
「良い感じに、味がしみてるはずだぜ」
御幸は椅子から立ち上がって火を止めた。
「すごく美味そうな匂いだ」
「美味いぜ、きっとな」
「御幸の愛情の匂いがする。御幸の愛情、いい匂いだ…」
沢村は、鼻をヒクヒクさせた。その様子を見て御幸は、声を立てずに笑う。
「はは。親父に飯作るのも久しぶりだからな。去年の年末と今年の正月以来だぜ。お前に飯作るのは、もっと先になると思ってたけどな」
沢村は、少しだけうつむいて、遠慮深そうな、同時に深く感じ入っているような、微妙な表情をした。
「うん…御幸の親父さんにも、まるで家族みたいに迎え入れてもらってさ。御幸の実家で御幸の飯も食わせてもらえる。本当にありがたいよなって、そう思うんだ」
「はは。親父の作戦にハマったな」
御幸は笑ってみせた。沢村の気持ちを和らげようとする思いで、いつものクセのからかうようなニヤニヤ笑いではない。
「作戦って?」
「親父はお前を俺の人生のパートナーにするのは承知している。あとは…俺とお前には、ここで暮らして欲しいんだ。食器買って揃(そろ)えてさ、いつでもここに帰ってこれるようにってな」
「帰って…?」
「ああ。ここをお前の家だと思っていいってことさ」
「うはぁ! 親父さん、そこまで俺のことを!」
沢村は、この際、プロ野球引退後の故郷での農業法人の事は言わずにおいた。どの道、今の沢村にとっても、まだまだ先の事過ぎて、そこまで実感は無いというのが正直なところである。
「うん。親父はこの地域のミニコミ誌と地元のケーブルテレビでお前のことも知ってたしな。ベンチに下げられても、奥に引っ込んでじっとしてしまうんじゃなくて、表に出て精一杯応援する。チームメイトを元気づけるのをいつだって忘れない」
「うん、でもそれはさ、俺がそうしたかったからだからな」
御幸は、うなずいた。その顔には、しみじみとした思いが浮かんでいた。彼は今、中くらいの大きさの丼鉢に、作った豚肉の味噌鍋を盛り付けていた。
「そうだ。けど、言ったろ? 俺の親父が見ているのは成功した時よりも、失敗した時にどうするかだって。俺もちゃんとお前のこと伝えたぜ。くじけなかったお前のこと。いつも熱心に練習してたお前のこと。親父は俺の言うことを信じてくれた。俺の目で見たお前を信じてくれた。だからだよ、沢村」
「う、うん…。ありがとう! 御幸、そして親父さん!」
その『親父さん』は、今は台所のとなりのリビングルームにいなかった。自室にいるから呼んでくるよと、御幸は行って、台所を出て行った。
食卓には、ホカホカの麦ごはんと、豚肉と野菜の味噌鍋、それに浅漬けもある。
余ったキャベツを、親父さんが買っておいた塩昆布で塩もみして、しんなりさせた浅漬けだ。麦ごはんは、早起きした親父さんが今朝炊いたのを、レンジで温め直したものだ。
鍋が煮える間に、御幸はこれだけのことをやってのけた。鍋が煮える二十分の、最初の五分は座って休憩し、その後浅漬けに十分、レンジでご飯を温めるのに五分ほど使った。
「御幸、要領いいな」
親父さんは、すぐにやってきた。
「おお、美味しそうじゃないか!」
「へへ。まあ簡単な飯(メシ)だけどさ。親父と沢村のために作ったぜ」
親父さんは椅子に座る
「うん、息子が丹精込めて作ってくれた飯を食べられるのは幸せだな」
「へへ」
御幸は照れ笑いをする。
──御幸のこんな表情(かお)、初めて見た…。
沢村は、じっと人生のパートナーの顔を見つめる。
「どうした? 早く食えよ。冷めちまうぞ」
「う、うん! いただきます!」
沢村は、味噌鍋の具を一口、箸(はし)でつまんで食べた。
「美味い! うはぁ、ほっぺた落ちそうだ!」
心底から感心した様子で、沢村は大きな声を上げた。声量は、それでもセーブしてある。
「へへ、そう言ってもらえて嬉しいぜ」
御幸は嬉しそうだった。
「御幸、いや一也先輩、料理上手だあ!」
「はは、おかわりあるから食えよ」
「ありがとう、ありがとう!」
沢村は、丼鉢を手に持ち、箸でかき込み始めた。
「美味い! 美味いよ、みゆ…一也先輩!」
夢中になって食べる沢村を見て、親父も一言、
「ああ、美味いなあ。一也が作ってくれた飯は」
と、息子をねぎらう。
「へへ。ま、久しぶりだからな。親父には面倒掛けたしな」
「なあに、お前も青道の寮で成長したじゃないか。稲実だったら、こうはいかなかったかも知れん」
「うん…、俺は青道に行かせてもらえて本当によかったよ」
御幸はそう言って、沢村を見つめた。
「お父様、いや親父さん、俺はあなたのおかげで一也先輩と出会えました。ありがとうございます」
沢村は頭を下げる。
「ああ、一也を青道に行かせてよかったよ」
親父さんは、そう言ってくれた。そこには様々な含みがある。
沢村は、へへ、と笑った。半ばは照れ隠しでもある。
「あ、この麦ごはんも美味しい! 親父さんが土鍋で炊いたご飯、美味しいですよ」
「ああ、それくらいしか自分で作らないんだがね。米くらいは自分で炊こうと思ってね。レンジで温めるご飯パックは割高過ぎてね。米を炊くだけでも、食費は減るものだよ」
と、親父さんは沢村の言葉に微笑んでいる。
「土鍋で炊くの、面倒じゃないですか?」
「炊飯機より作りが単純だから、私には手入れしやすくてね。火を見張っているだけだから、ラジオを聴きながらね。炊飯機もあるし、たまには使うけどね。まあ無洗米に押し麦入れるだけだから、そんなに面倒じゃないよ」
「そうですか。土鍋で炊いたご飯、とても美味しいです!」
茶碗に山盛りの麦ごはんを箸でかき込む。御幸が作ってくれた浅漬けにも箸を伸ばした。
「この浅漬けも、美味え!」
「はは、まあ簡単なものばかりだよ」
御幸は、やや控えめな口ぶりで。
「いや、美味いよ、御幸! いや一也先輩!」
「ははは」
こうして、御幸親子と沢村の昼ごはんの時間は、平和にゆったりと過ぎていった。
続く
お読みくださって、ありがとうございました。何かミスなどありましたら、コメント欄にてどうぞ。