0.神話はこうして語り継がれる
────空が、氷に包まれていた。
あらゆる色彩すべてが抜け落ちたような灰色の砂漠を覆った霞が晴れると、それは現れた。死の恐怖が、まとわりついてくる。バイザーの隙間から洩れる吐く息は、白く、酷使された肺は、竜が発する冷気で痛む。
「おいおい、聴いてないぜ、こんなの………」
そのように呟いたのは、横にいた無頼漢だった。大槌を二対、両手に構えた手を下ろし、空を見つめていた。空は、鳴いていた。パキパキと。覆われた氷に亀裂が入る。
「逃げて!」
後ろから声がかかる。追跡者は振り返ると、レディが遠くへ、とにかく遠くへ行こうと疾走していた。数々の戦いにて学んだことのひとつ。命の危機を感じたとき、全力でその場を離れること。
「くそっ! 亀首漬けを買ってくればよかったぜ!」
無頼漢も走り出した。氷は砕ける音がした。空に、天を支える
空が、もうすぐ落ちてくる。
「おい、大剣の兄ちゃん! 早く逃げろ、兄ちゃんの鉤爪なら間に合うはずだ!」
いや、間に合わない、と追跡者は判断した。
逃げるにはあまりにも敵と接近しすぎた。
─────このままだとこの氷に激突し、俺たちは全滅する。
追跡者は視線を元に戻し、中心に立つ夜の霞、カリゴを見据える。その竜は二対の翼を広げ、天へ遠吠えしていた。竜は死に体だ。あとすこしで殺すことができる。追跡者は観察する。渦巻く氷嵐。透明に近い氷柱。空を
そして彼は気づく。その竜の周辺だけ氷が覆われていないことに。
頭の中に一つの考えが浮かび、その命題の真偽を確かめるようにもう一度を振り返った。世界に果てなど存在せず、永遠と続くと言わんばかりに漠々たる砂漠。その砂粒はすべての生命の燃えかす、または夜の雨に侵食された存在そのもののようであった。全力で離れるレディと無頼漢。彼女たちは、彼がついてきてないことに気づていない。項垂れ、足元の薄い氷霧に覆われた名称不明の動物の白骨死体を軽く蹴った。浮かんできた考えに苦笑いが、浮かんだ。
決心は、ついた。
そして追跡者は仲間の真逆の方向へ疾走する。「おい、正気か?!」「ちょっと!」と、叫ぶ声を無視し、鉤爪を投射する。地面へ突き刺さる。砂が、舞った。そして左腕を思い切り、後ろへ引き寄せた瞬間、強大なGが体にかかった。一気に体が引き寄せられる。砂が撒き散り、体が地面に離れる前に、足に力を込め跳躍する。体が、宙を舞った。同時に鉤爪を解除する。手元へ空気を切り裂きながら戻る鉤爪。
カリゴとの距離を目視で確認する。まだ遠い。
空は、すでに落ちはじめている。
だが、追跡者はそんなことを目にもくれず、ただひたすら前へ、彼をみつめるカリゴへ、肉薄していく。もう一度、鉤爪を投射する。ふたたび、体は宙を舞う。
目の前まできた。が、カリゴは何もしなかった。存在そのものが擦り切れるまで戦い続けるこの男を眺めていた。
追跡者は、片刃がぼろぼろになった自身の大剣を背中に納めた。重力に従い、体は落ちていく。そして、羽の装飾が施された左の籠手に仕組まれた機構を発動する。
ガッコン、と鉄のクロスボスが展開される。彼は鉄杭をひきしぼる。
左の籠手に、炎が立ち昇る。ついていた霜が溶け、炎が不安定に揺れ戻る。鉄杭は、唸りをあげる。
カリゴは、叫ぶ。
空はすでに彼のすぐ真上まで。そして、追跡者とカリゴは、もう手を伸ばして触れる距離にいる。すなわち、彼のリーチ内。
追跡者は、燃え盛る左腕に明確な殺意を込め、呟く。その言葉が勝利への呪いの言葉になることを願って。
「死ね」
────襲撃の楔
轟音が夜の玉座に響いた。そしてその戦闘の結末をひとつの巨大な瞳が見つめていた。止めをさした者が誰かを確かめるために。追跡者。目を細め、すぐに元に戻した。それから静観した。この滅んでゆく世界を。太陽が氷に包まれたような竜の瞳はただ誰かを待つ。
戦いが終わったあと、追跡者はレディにひどく怒られた。庭で正座をされて、一時間ほど説教を聞くと、解放された。無頼漢と鉄の目が説教される姿を木で隠れて、興味津々にみていたことを、追跡者は知っていた。が、怒るにしても疲れてきっていたので、彼は壊れかけの壁に寄りかかって、眠りに落ちた。
その日、奇妙な夢をみた。
そこはどこかの宿の一室のふたつのベッドが設置された部屋だった。雨が降っていた。窓に雨粒がぶつかり、雨滴が流れ落ちている。普通の雨。あらゆるものの存在を削り取る夜の雨ではなかった。
突然、ドアが開き、誰かが入ってきたのか、と思ったら、それは彼がよく知る召使人形だった。召使の腕にはぐったりと気絶した血みどろの男を抱えて、急いでベッドに運んだ。そしてそれにつづいて
『……安心してください、いまから祈祷師を呼びますので、彼らならきっとこの方の傷を癒してくれるはずです』
彼女は頷き、召使人形が部屋を出ると、彼の傍に座り、その手をぎゅと強く握った。一度離したら、男の手を二度とつかむことはできないかのように。
場面が変わる。今度は召使人形はいなかった。そこは彼の故郷を思い出すかのような鳴り止まない風になびく青々とした草原の断崖で、あの男女が轡を並べていた。男は栗色の馬。女は青毛の馬。男と女は仲睦ましく会話をしていた。断崖の下では、追跡者のかつて愛した野良馬たちが闘志を燃やして走っていた。男女の話内容は聞こえなかったが、彼らは互いに、微笑みを切らすことはなかった。馬がかける音がした。その音に気づいた彼らは振り返る。そこにいたのは、暮れ残る夕陽に朱鷺いろに照らされたひとりの少年で、それは、まさしく、追跡者の若き頃と瓜二つで────瞬間、すべてが加速する。
男と女の物語がフィルムのように駆け巡っていく。彼らの出会い。旅の風景。襲いかかるさまざまな敵。見つめてくる梟が燃えた空を飛び立つ。絵を渡す壺人。そして悲しげに遠吠えをあげる霧の裂け目、カリゴ。血みだろの地面が広がって、かの男女は───そこで、再び
彼らの物語は
反転して、やが
彼を───→
夜に
飲み込む。
夢から覚めた追跡者は荒い息をしながら、起き上がった。汗は彼の服に張り付き、ひどく気持ち悪い。空を見上げれば、すでに夜で、星々がきらめていた。巨大なワシが悠然とその空を、旋回していた。
そうして呆然としていると、いい匂いが台所から漂ってきた。そろそろ、夕飯の時間だった。彼はさきほどの夢はなんだったのか、と疑問に思いながら、食堂へむかった。
食事中、終始、憂いた雰囲気をしていたらしく、夜渡りに心配された。その元凶が自身の説教だと勘違いしたレディはあわてて謝ってきたが、追跡者は、「あんたのせいではない」と、いい会話を終えた。
食事が終わって、次の戦いまで、めいめいやりたいように休憩している間も、追跡者はさきほどの夢を考えていた。書庫の端から端へ行きつ戻りつ、戸口から差す月光によって浮き出たホコリを眺めていた。そんな様子に痺れを切らしたのか、召使人形が声をかけた。
「英雄サマ、何かお困りごとでもございますか?」
「───あ、ああ、じつは…………いや、やっぱりなんでもない、気にしないでくれ」
気にすることはない。この夢がなんなのかを知ることは目的と一切関係ない。これはわずかばかり奇妙な夢、いわば悪魔を見たに過ぎない、と結論づけ、次の戦いへ切り替えようとした。己の役割は、夜の王を屠る。それだけなのだ。そして彼は召使人形から手を軽く上げて、去ろうとすると、召使は彼の肩をやさしく掴んだ。
「英雄サマ、私の役割、あなたたち夜渡りを全力でサポートすることであります。その中で、夜渡り方々の
「……………」
追跡者は召使を見た。むろん、そこには表情はない。能面のような兜があるだけだ。夢に出てきた召使人形と同じだった。彼は項垂れ、しばらく考え、話すことにした。夢に出てきた男女の物語の断片と、夢に出てきた召使について。
話を聞き終えた召使人形は顔を伏せ、何かを思案していた。
「………なるほど、夢に私が出てきて、そして私は知らない殿方を抱えていた、と。そして隣には麗しきご婦人の方がいた…………なるほど、それは大変奇妙深い話です」
「何か、知っているか?」
「……ええ、知ってますとも、なにせその男女と私に一度ならず何度も交流がありましたので」
召使人形は顎にあていた手を離すと、追跡者に背を向けて円卓へつながる戸口へ向かった。そして数歩歩くと、振り返り、
「ここで話すにはあまりにも長く物語になります、もっと腰を落ち着かせる場所へ移動しましょう」と、いった。
円卓で話すことになった。そのとき、召使は、「夜渡りの方々を呼んでください、全員です」と、追跡者にお願いした。訳を聞くと、召使はどこか嬉しそうに、そして哀れみを込めて、「……もしかしたら、新しく仲間が増えるかもしれません」と、いった。
全員が集まった。彼らは各々の席に座り、召使人形をみつめていた。
「おい、突然、来いと言われたから来たが、なんじゃこれ。作戦会議かい」と、無頼漢がいった。
「いえいえ、そんなことはありません、私はあなたたちをここに呼んだ理由は、ひとえにひとつの物語を聞いてもらうためです」
「ひとつの物語?」レディがいう。
「ええ、物語です。新しく来るかもしれない仲間についての物語です」
「新しいお友達、ふふ、もっと賑やかになりそうだね」と、隠者。
「どうでもいい、私は聞かないぞ」と、復讐者。
「ええ、構わないです。もしかしたら、来ないということもあるのですから。あくまで、これは、そう、日々戦いに明け暮れて、疲弊したあなたたちへのひとつの娯楽話だと聞いてくださるば、いいのです」
夜渡りは黙り込んだ。守護者、鉄の目、執行者、とくに口を挟むことなく、今から語られる話を聞こうとしていた。復讐者は結局、席から離れることはしなかった。
一通り、召使は全員を見通し、
「ありがとうございます、それでは、どうか話を聞いてください、────ああ、どうか楽の姿勢でお聞きください、長い、長い話になるのですから────この話は、まだ破砕戦争が起きる前のはるか昔のことです。とある名無しの男がここではない、狭間の地から遠く離れた場所で生まれました。さて、彼がまだ少年だったとき、よく彼の父はこのような詩をうたっていたらしいようです。
玲瓏にして、楚々なる君よ、
わたしは、行こう、
あなたのもとへ。
わたしが死ぬとき、魂の行く先は、
黄金樹ではない。あなたの心臓だ。
恋を知らぬ、恥ずかしがり屋の少女よ、
どこにいる。
あなたは、
この世界を
窓のように見ているだけか。
世界は冷たく、
すべてはうつろっていく。
それでも、あなたは、
いない。
なぜ、その姿を見せぬか。
と」