霧の裂け目を追い求めるもの   作:川に揺蕩う論理の箱

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第1章

1.黒羊となった日。黒羊が恋をした日。

 

   玲瓏にして、楚々なる君よ、

   わたしは、行こう、

   あなたのもとへ。

   わたしが死ぬとき、魂の行く先は、

   黄金樹ではない。あなたの心臓だ。

 

   恋を知らぬ、恥ずかしがり屋の少女よ、

   どこにいる。

   あなたは、

   この世界を

   窓のように見ているだけか。

   世界は冷たく、

   すべてはうつろっていく。

   それでも、あなたは、

   いない。

   なぜ、その姿を見せぬか。

 

 そのように馬に乗っている彼の父は低い声で呟きながら、落葉が敷き詰められた森を突き進んでいく。少年である彼は同じ馬に乗り、その大きな背中を抱きしめていた。穏やかな秋の日だった。

 

 彼は黄金樹とは何か知らなかったので、父に「ねえ、黄金樹ってなに」と、聞くと、それは、霧深い海の先にある、狭間の地と呼ばれる大地に生えている巨大樹であるという。

 

「俺の故郷さ」

「父さんの?」

「ああ」

 

 薄暗い森を抜けると、岬につき、その真下には果てしなく広がる海が広がっていた。潮風が吹き、木々の葉と彼らの髪を揺らした。肌寒かった。夏の暑さは、もう感じない。

 

 潮騒に耳を傾け、彼らはそこで立ち止まった。父は、霧に包まれた海に指差した。

 

「あの先だ。あの先に俺の故郷がある、いつか行ってみるといい、もしかしたら気にいるかもしれない。まあ、行けるかわからないが」

「嫌だ、僕はここがいいんだ」

 父は彼を見て、微笑んだ。「……そうだな、ここがいい」

 

 そうして彼らは長いこと黙った。父は、波が崖にぶつかり、砕け散るさまを見てから、顔をあげ、「さあ、帰ろう」と、いうと、馬を走らせた。その途中、父はまたあの詩を呟いていた。

 

「ねえ、それ誰のことを言っているの?」

「………もちろん、母さんのことさ」

 

 父は、背中を見せたまま、そういった。少年は、ふうん、というとその背中に額を押し付け、目を閉じた。会話はなかったが、彼らは、それがいい、と思っていた。すべてが完璧で平穏な日々が、まだそのときまでは続いていた。

 

 

 

 彼は、この詩を彼が生まれてすぐに殺された母親への追憶だと思っていた。が、ある日、父の寝言に、カリゴ、という言葉を聞いたとき、この詩は別の女への恋の唄だとわかった。彼は、食事をしているときに問い詰めたが、父は何も言わず曖昧に笑うばかりだった。

 

 その日から彼は父に嫌悪感を覚え、この詩を嫌った。亡き母が居ながら愛人をはべらせていると彼は思っていたのだ。

 

 いつしか彼は父と一緒に狩りに行くことはなくなり、ひとりで狩猟をするようになった。雪山をひとりで歩くのは危険だ、と彼の父はいったが、彼は聞かなかった。というのも、彼は褪せた瞳をした父のことを憎んでいたからだった。彼は、その瞳の奥に、なおも燻るいやらしき残火を嫌った。

 

 そしてついに父と話すことはなくなった。

 

 だが、その1年後、彼は知ることになる。父が讃えているものの姿を。

 

 

 ────冬のある夜だった。雪と森に覆われた平原から狼の鳴く声が聞こえ、彼は目覚め、狼たちが羚羊(れいよう)を狩りに雪原を走っているのだと知った。起き上がった。毛裏つきのダッキング・コートを身につけた。自室を音もなく出る。ブーツを暖炉の光にかざして左右を確認してから履き、弓と片手剣を装備すると、外へ出た。そして罠を仕掛けた平原の森へ彼は歩き出す。

 

 外は暗く、寒かった。月光に照らされた雪道を進んで森へ入り、罠が仕掛けたところまで歩いた。それからナイフで傷をつけた木が目に入ると同時に森に仕掛けた罠に一匹のメス狼がかかっていることがわかった。彼は立ち止まる。そして弓を構えながら、あたりに狼がいないか確認した。メス狼以外いなかった。そのメス狼は月光に照らされていて、雪をかぶった灰色の毛の先が光っていた。乳房が、雪に擦れていて、腹が大きく膨らんでいた。

 

「おまえ、ひとりなのか」

 

 メス狼はうなるだけだ。

 

 彼は一歩踏みだす。メス狼は一歩後ろへ下がる。彼は代わりに円をかくように歩いた。メス狼は視線で彼を追った。彼は足を止めた。そして涎を口の端から垂らすメス狼をじっと見つめ、踵を返した。

 

「待ってろ、助けてやる」

 

 家についた。外に置いておいた肉が入ったバケツを手に取り、いくつかの内蔵と肉を手にとった。それからそれらを麻の袋に突っ込んで、ロープを手に取った。

 

 彼は元の道を辿っていく。なだらかな丘を超える。下り、もはやどの獣が歩いたのかわからないほど足跡があちらこちらにある平原を、ぎしぎしとブーツの下で雪が軋みながら、歩を振り出す。十分後、森がみえて、その中へ入った。

 

 ここからメス狼がいるところまで五十歩だった。十歩。何かの咀嚼音が聞こえる。二十歩。あまりにも森が静かすぎることに彼は気づく。彼は弓を構えた。三十歩。やっと、メス狼がいる場所がはっきりとみえた。そこには大きな影があった。四十歩。そこで、彼はその大きな影の正体を知る。彼は足を止めた。

 

 その視線の先には、人よりもはるかに大きく、飢えた大熊がいた。その熊は罠にひっかかったあのメス狼を食べていた。抵抗した跡を示すかのように雪がかき出され、黒い土が露出していた。

 

 熊は腹へ鼻を突っ込んで何かを噛んだ、そのとき、ぴくりと丸い耳が動いた。一歩下がった彼に大熊は気づいたのだ。ゆっくりと顔を上げた。血で赤黒く変色した口には本来は産まれるはずだった子狼だったものを咥えていた。

 

 彼は熊をみつめた。熊も彼を見ていた。

 

 静寂が包んでいる。血の匂いが充満している。熊は半分飲み干すようにその子狼の死体を噛み砕くと、彼へ歩を進めた。その血に濡れそぼった胸部には紋章のような白い毛並みが揺れている。ルーンベア、と彼は呟いた。

 

 彼は弓に矢をつがえ、弦を引いた。限界まで引き絞られた弦は、いまにも敵を射抜かんと、きりきりと音を奏でた。ぴくりとまたルーンベアの耳が動く。

 

 逃げるのは愚の策。ここで生きるか死ぬか、それ以外はなかった。

 

 狙いは目。心臓が早く脈打つのを感じる。

 

 そして10メートル。ルーンベアが、動き出した。

 

 人間の腕よりも太く鋭い前爪の振り下ろし。迫っていくその爪を横にローリングし、回避した。彼は起き上がりざま、弦を放った。矢は鋭い音を立ててルーンベアの瞳に刺さった。

 

 しかし、ルーンベアは苦渋の声をあげることはなかった。鬱陶しそうに左右に顔を横に振っただけだ。

 

 一方、彼は前腕に鋭い痛みがし、その部位を触ると、ぬらりと赤黒い血が指に付着していた。おそらく、その爪がわずかに触れたのだろう。

 

「くそったれ」

 

 彼は片手剣を抜いた。弓は通じない。と、なると悪臭が漂う口内から刃を突き刺し、脳天を貫くしか手はなかった。そのことを考えると、手がぶるぶると震えた。恐怖が体を支配しはじめていた。そして思考は体に反して、奇妙に冷静になっていた。体と脳が隔離したあの奇妙な感覚。

 

 彼は及び腰で構え、「こいよ!」と、叫ぶ。来る死に向かって。

 

 しかしルーンベアは動かなかった。いきなり歩みを止め、恐れるように唸っていた。そして何を思ったのか、じりじりと後ろへ下がっていくと、くるりと尻を彼にむけて森の奥へ走り出したのだった。ルーンベアの後ろ姿は、森の闇に呑まれて、見えなくなった。

 

 静寂。

 

 彼はその出来事をぼうと眺めていた。ふと緊張感から解放されて、体が脱力した。片手剣を放し、地面へ膝と手をついた。じわりと噴き出た冷や汗を拭った。はあぁ、と深呼吸し、煙のような白い息が空中を漂う。

 

 助かった、と彼は思った。運がついている、こんな日はきっと二度とないだろう、と彼は戒めた。

 

 そして彼は顔をあげたとき、彼は、なぜルーンベアが唐突に逃げ出したのかの理由を知り、父が讃えているものが誰なのかを知った。

 

 一匹の美しき竜が、雪に覆われた平原に立っていた。その竜は、白無垢のように純白な2対の翼を広げ、長い首を月へ伸ばして、どこか遠くところを見つめていた。それは、あたかも、もう二度と取り戻せないふるさとを偲ぶさまのようで、見入った彼は立ち上がると、思わず、手を伸ばした。ここに竜が現れた理由など彼は考えていなかった。己よりも上位なる者に、そこにいる理由を問うほど愚かなものはないのだから。

 

 竜はたまたまそこにいて、彼もそこにたまたまいた。それだけのことだった。

 

 手をできる限り伸ばした。むろん、その竜まで届かず、空を切った。血が雪に滴り落ちた。雪はその温かみでわずかに溶けた。

 

 長いこと、その竜はどこかをみつめていた。その瞳に映るのは、この沈黙を貫く世界なのか、あるいはもっと前の時代の彼女たちが支配していた世界なのか、それはわからない。それでも彼女が何を見ているのか知りたい、と彼は強く思った。竜は前足を地面に下ろすと、首をゆっくりと横にむけて、彼をみた。

 

 砂つぶを撒き散らしたかのように星々が夥しく発光する夜空。白く染まった地に佇む美しき竜。その竜を照らす月光。

 

 小鳥が木から飛んだとき、竜は首を前へむけ、翼を広げ、空へ錐揉みしながら飛んでいった。その瞬間、あたりは霞に覆われ、その竜の姿は見えなくなった。

 

 彼は慌てて立ち上がって、その竜のもとへ走った。しかし、その竜はもういなかった。そして霞が晴れると、澄んだ夜空から月の光を反射した氷の結晶が大量に降り注いできた。

 

 彼は風に揺れながら落ちてきた氷の結晶を手に受け止めた。不思議なことに体温でも溶けなかった。彼はその氷の結晶を慎重にポケットに入れて、森の中へ入った。そこで、彼は雪に刺さった片手剣を拾った。そしてメス狼のために剣で土を掘って墓をつくって、遺骸を横たえさせた。土を被せた。そのメス狼のために祈った。それから彼は立ち上がって、空を見やった。

 

 家に帰ると、父が起きていてどこへ行っていたのかと訊いた。彼は嘘でごまかし、ベッドに身を沈めた。目を閉じ、浮かぶのはあの竜だった。玲瓏にして、楚々なる竜。どくどくと胸苦しく脈打つ心臓に、彼は幸福感を覚え、そのまま眠った。このことは誰にも言わなかった。

 

 少年だった彼は、この日、竜に恋をした。そして10年後、もう少年じゃなくなった男は、いまだにその竜に恋をしている。

 

 その竜の名は、カリゴ。この世界を静観するもの。

 

 黒羊は、まだ『彼女』を探している。

 

 

 

2.名を捨てた男の現状

 

 

 英雄は大抵、予言というものが与えられ、運命というものに踊らせる。

 

「葦の地からの剣客、闘牛の戦い、対峙する偉大なる英雄、………ついに夢は達成させる、………長い、長い旅のおわり、決着はつき、おまえは世界の黄昏を知る。訪れる夜………」

 

 そしてそれはこの男も例外ではない。

 

 焚き火の前で微動だもしなかった預言者の老婆は、シャーマンが描く洞窟壁画のように、突然、石に三つの線を描いた。ひとつめは、男の人生。ふたつめは、とある女性の人生。みっつめは、彼の父の人生。その三つの線はうねるように進み、男と女性はあるとき限りなく近づき平行線となり、やがて三つの線はひとつの出来事に集約する。そして点となったそこで一度終わる。それから老婆はすこし間を開けて一本の線だけをかいた。それは、男の人生だった。それ以外の線は、その出来事で、途切れていた。

 

 それは彼がまだ旅へ出かけるときではない。父と別れ、家を出ていって、この世界を彷徨っていたときだった。男は訊く。この間に何が起きるのか、と。

 

 老婆は首を横に振り、あたしにもわからん、といった。「運命さえ変える大きな力が介入するのだろうさ」そう、老婆はいった。

 

 

 

 

 

 夜明け前の闇が包む山の麓で、その男は、休んでいた。彼が座っているのは死んだ飛竜の頭であった。大地にその血が滲み込んでいた。彼はボロボロの外套を着ていて、血をかぶった傷だらけの鎧を身につけていた。兜は外し、剣の傍に置いていた。白濁した目玉の中央にその大剣が刺さっていた。その傷口から泥のような赤黒い血が滲み出ている。

 

 暗い周囲を照らすのは、飛竜の息吹(ブレス)によって炎がついた枯れ枝だ。風が吹くと、蝋燭にも似た枯れ枝の炎は揺らぎ、またすぐに元に戻る。

 

 男は、眼下の森が覆う景色をじっと見つめた。遠景に目をやると、松明をかかげた、まるでどこかで重罪を犯しその刑罰から逃げてきたかのように、急いで道を駆ける一団がいた。男は視線を落とし、手元のさざれ石の混じった竜の心臓をみつめた。それはまだ、生々しく脈打っている。やがて男は兜を掴み、大剣を抜いた。蓋の役割をした大剣が抜けたことで、目玉からおびただしい量の血がさらに溢れてきた。

 

 兜を被り、飛竜を飛び降り、血溜まりが広がる地面へ着地した。血飛沫が彼のズボンにかかる。大剣を鞘に収める。そして立ち去ろうとすると、背後から冷たい風が吹いた。男はぴたりと体を止め、見返った。男がついさっきまで『彼女』を見つけるために登った雪山が屹立していた。空は白みはじめ、動脈から吹き出した血のように赫い太陽が雪山の背後から登ってきた。それからその雪山の峰を、彼がその山で、あるいは旅の中で殺した敵の数々を示すかのように赤銅いろに照らした。

 

 その雪山には『彼女』はいなかった。そのことについて、男はなんとも思ってなかった。彼女にそんな早く会えると思ってなかった。男は、太陽が赤色から黄金色に変わるまで、夜明けをみつめ、ワシが鋭い声を上げながら空を飛んでいく姿を認めると、視線を元に戻し、足を振り出した。

 

 近くに川が流れている平原で壺人が焚き火の傍に座っていた。名をヴォルテールという。腰ほどの高さの壺に枝のように細い手足をしているヴェルテールは熱した石の上に麦粉を練った餅(パンケーキ)を焼いていた。男の足音に気付き、ヴェルテールは顔をあげた。

 

「よお、戻ってきたか」

 

 男は何も言わないで焚き火に座った。

 

 川のささらぎが聞こえる。

 

「待ってろ、とびっきりうまいものを作ってやるから」

「わかった」

 

 ヴェルテールはナイフでその餅を突き、焼けているか確かめていた。そして、火が静かに燃えているさまを眺めながら、男が手元に収めているものに気づく。

 

「な、それ竜の心臓だろ」

「ああ」

「見せてくれ」

 

 男はその心臓をヴェルテールを放り投げて渡した。ヴェルテールはその心臓を月にかざして、あちこち向きをかえて眺めた。それから竜の心臓を返した。

 

「珍しいのか」男がいった。

「う〜ん、まあ、珍しいな。あそこでも竜を殺すやつなんてそうそういない」

 

 ヴェルテールは餅をひっくり返した。綺麗な狐いろだった。ジュウと焼ける音が響く。そして焼けたと判断すると、「よし」と、餅を三分の一に切り分ける。そしてそれに瓶に保存しておいた蜂蜜をたっぷりとかけて、ナイフを突き刺し男に渡した。垂れた蜂蜜は熱された石の上に落ち、ぶくぶくと沸騰した。

 

「ほら、食えよ」

「ありがとう」

 

 男は食べた。たしかにとびっきりうまいものだった。暴力的な甘みが口内に広がるのを感じながら飲み込んだ。

 

「おまえはいいのか」男が二口目を食べて、訊く。

「いや、俺は腹が減らないからいいんだ」

「…………なあ、あんた、いたか?」

「いない」

「そうかあ、なら、まだ旅は続くな。あ、村人に挨拶しないとな」

「………そうだな」

「あんた、また、何も言わないで去るつもりだっただろう」

「まさか」

「どうだか、とにかくこれを食い終わったら行こうぜ」

「ああ」

「あと、その鎧、綺麗にしておけよ」

 

 ヴェルテールは川を指さしながらそういった。男は自身の血まみれの鎧を見て、頷いた。

 

 

 

 村の入り口には、ふたりの男が忙しなく手を動かしながら待っていた。その村人たちは、彼らの存在に気づくとぎょっと驚くように目を見開いた。彼らは槍を構えた。

 

「誰だ! 名を名乗れ!」

 男は答える代わりに、心臓を投げた。

 村人たちはべちゃりと血が飛び散ったそれを仔細にみつめた。

「これは、───なんだ?」ひょろい村人がいった。

「バカ、竜の心臓だよ、竜の心臓」筋肉質の村人がいった。

「殺した」

「あんたが? ………まって、その鎧と剣、もしかして一週間前にここを出た(あん)ちゃんとヴェルテールさんか?」

 男は頷いた。ヴェルテールは親指を立てた。

 村人たちの顔に笑みが花開いた。

「まさか、あんたたちとは! 生きていたんか! 飛竜を殺しにいくっていってここを出て以来、帰ってこなくなったから、もう死んでいると思ったよ」

 感極まった筋肉質の村人は男に抱きつき、その背中を数回強く叩いた。

 ひょろい村人が声を震わせて、「お、俺、村長に報告していくよ、こいつは偉いこっちゃ、偉いこっちゃ」

 

 そう言うとひょろい村人は槍を放り投げて、村の奥のもっとも広い建造物へ走り出した。筋肉質の村人はその背後をしばらく見つめると、男に視線を戻し、今度は優しく肩を叩き、手を差しだした。

 

「ほんとうに、よく帰ってきてくれた」

 

 男はその手を見、村人をみた。涙が目の端に浮かんでいたが、笑顔だった。

 

 男は籠手を外して、握手を交わした。ただいま、という言葉は口にせず。握手を交わした手は硬く、長いこと農作業を勤しんでことできたマメだらけだった。血で穢れ切った自身の手とは大違いだった。

 

 その日の夜、宴が開催されることになった。村の広場で焚き火を起こし、村長が、開会宣言をいった。村長は、長年悩ませてきた飛竜を討伐した英雄を讃え、その英雄の感謝を込めた言葉、そして亡くなったものたちの追憶の言葉で締めくくり、かくて宴は始まった。そのとき、村長は苦しそうに咳をしたが、それを気にするものはいなかった。

 

「英雄どのに祝福あれ! 英雄どのに祝福あれ! 英雄どのに祝福あれ!」

 

 村人たちは貯蔵していた麦酒(ビール)を取り出し、浴びるように飲んでいた。酔った群衆は、踊り、猥談が飛び交い、笑っていた。ヴェルテールは、その宴に参加し、楽しそうに踊りに参加していた。

 

 男は焚き火のそばに座って、どんちゃん騒ぎの宴を傍観していた。力こぶを自慢したふたりの村人は、木の箱で腕相撲を取ることになり、いま、彼らは汗を流しながら闘っていた。外野がやいやいと口を挟んでいた。時折、彼らに酒や水を飲ませたり、流れてきた汗を拭ったりするなど手助けするものがいた。拮抗していた。どちらも一切押さえれていなかった。

 

 いよいよこの勝負はどっちが勝つのかで賭け事が始まった。賭けるのは、酒だの宝石だのさまざまだった。

 

 男はその行先を眺めていると、横から、

 

「英雄どの、隣、いいかい」

 

 という声が聞こえた。男は横へ首をむける。先ほどの門番を務めていた村人だった。彼はにっこりを笑みを浮かべ、両手に麦酒が満たされた木のジョッキを両手にひとつずつ持っていた。

 

 男は断る理由もないので、頷いた。

 

 村人は、「ありがとう」と、いい、隣に座った。そして無言で片方のジョッキを男に差し出した。

 

「飲みなよ、あんたが主役なんだ、そんなかしこまるな」

 

 男はジョッキを受け取った。ジョッキを軽く揺らすと、濁った泡が縁に付着した。兜を外し、口に運ぶと、苦味と強い酸味がした。

 

 それから彼らは黙って麦酒を飲んだ。混沌とした喧騒のなか、焚き火に焚べた薪が赫い亀裂が走るとともにひび割れ、パキという音が響き、火の粉が舞う。男は風に乗せられていく火の粉を何気なく追った。そしてそれが視界から外れたとき、村人は口を開いた。

 

「………ありがとうな」

 

 男はちらりと横をみた。彼は焚き火を凝視していた。何に対して、感謝を述べているのか、それははっきりとわかっていた。男は視線を元に戻した。

 

「たまたま寄っただけだ」

「それでもだ。あんたがあのクソトカゲを殺したおかげで、いま俺たちはこうして笑えている」

「……そうか」

「ああ、………それにしても、覚えているか? あんたと俺たちが出会ったころの話を」

「覚えているさ、……村が山賊に襲われた話だろう」

「そうだ。あんたがいなかったら、ここにいる多くの人は殺されていただろうし、俺ももちろん殺されただろう。それに妹と他の女は………」

 

 彼は首を横に振った。

 

「とにかく、妹も感謝しているさ、どうやらあんたのことをずいぶん、気に入っているようだぜ。───おーい、ソフィア、ソフィアー」

 

 片方の手で振りながら、彼は呼んだ。ソフィアと呼ばれた少女は、その声に振り返った。長い金髪が遅れて動く。彼は隣を叩き、「ここに来いよ」と、いった。

 

 ソフィアはぱちりと瞬きをして、彼を見、そして男をみる。と、顔がみるみるうちに赤くなって、両手で顔を覆って、背けると、麦酒が入った陶器のポットを手に、酒がなくなった村人たちへ注ぎにいった。

 

 彼は目を細めて、駆けるソフィアを慈愛を込めた眼差しで見つめ、「───な、言ったとおりだろ」と、いった。

「嫌われているようにしか見えないが」

 その言葉を聞いて彼は笑った。「はははは、あんた、マジでそんなことを思っているのか、はははは、ああ、おもしろい。……それで、突然話は変わるんだが、あんた、これからどうするつもりだ」

「また旅をするつもりだ」

「………旅ね、なあ、あんた。こいつはわがままなんだが、きいてくれるか」

「……………」

「しばらくここにいてくれないか?」

「なぜだ」

「そりゃ、妹があんたのことを気に入っているからだよ、あんたがすぐに出たら、落ち着こんでしまうだろうからな、どうだい? あんた一週間でもいいんだ、ここにいてくれ」

 

 男はしばらく考えた。男は三年間、旅を続けてきたが、振り返ってみたら、三日以上同じ場所を止まっていたことはなかった。一回ぐらい、しばらく同じ場所に止まっても問題はないだろう。

 

 男は頷いた。

 

「────おーい! 英雄どの、あなたも賭けませんかー。ジョン、お前もだ」

 

 声がかかった。目をやると、ヴェルテールが腕相撲に参加していた。その細い腕からは想像ができないほど、勝負は拮抗していた。相手は先ほどの勝負に勝った村人だった。

 

 彼は「いまいく」と、いうと、ポケットから麻の袋を取り出し、男に渡した。

 

「これ、あんたのだろう」

 

 そして立ち上がって、

 

「さあ、行こうぜ、あんたもこの宴を楽しもうじゃないか」

 

 と、いった。

 

 男は頷き、立ち上がった。そして賭けに行く前に、袋の中身を確認した。そこには、黒ずんだ小さな竜の心臓があった。男は、彼にこれを渡したわけを聞こうとしたが、彼はというと、すでに外野に参加していていたのであった。

 

 

3.予言が動き出すとき

 

 

 それから男はここに滞在した。村長の家の一室を借りることになった。彼はそこで、太陽の光を受けて輝く麦畑をみた。山から流れる川の底を泳ぐ小魚の群れの姿をみた。教会でひどく抽象化された像に祈りを捧げる村人たちをみた。村人と一緒に薪割りを行なった。馬たちが柵の中で歩き回る姿をみた。ソフィアとジョンが案内してくれたそんな日々に、男は、1日がこんなにもゆるやかに過ぎていくことのだと驚いた。このような穏やかな時間は、長らく男は過ごしていなかった。

 

 そしてそのような穏やかな日々が終わったのは、彼が滞在をして5日目のことだった。予言が動き出すときであった。

 

 その日は雨だった。男とヴェルテールはチェスをしていた。村長とその妻は、その対戦を観戦していた。男のクイーンが取られた。残るコマはポーンが三個、キング、それだけだった。男は敗北を認めた。

 

「これで俺が3戦中、2勝か」ヴェルテールがいった。

「そうなるな」

「あんたはいつも同じ手で攻めるから守りやすいんだよ」

「もう一局するか?」

「いいぜ。だけど、ソフィアがそろそろ来る時間じゃないか」

「いや、雨だ、外で遊ぶことはできない」

 

 男は今度は別の戦略で攻めることにした。仕掛けた罠にヴェルテールは引っかかり、クイーンを失った。ビショップを使ってヴェルテールは攻めようとしたが、攻め切るにはあまりにも駒がなかった。ヴェルテールは頭の蓋を掻いて、チェス盤を眺めたが、ため息を吐き、負けを認めた。

 

「これで、2勝2敗だな」

「くそ、俺がバカだった」

 

 村長の妻が紅茶を淹れてくれた。彼らは感謝の言葉を述べる。ヴェルテールは飲むことはできないので、断った。代わりに村長が飲んだ。

 

 雨足が激しかった。窓を目をやると、道にはあちこちに濁った水たまりができていた。

 

「そろそろ、お昼刻ですな」村長が言った。

「あなた、そろそろですか?」彼の妻が聞いた。

「ああ、そうしよう」

 

 昼はミルク煮だった。ごろごろとした野菜と兎の肉が入ったスープを彼らは食べた。ヴェルテールがいつものように、旅の話をしようと口を開くと、ノック音が聞こえた。三度は優しく、それ以降は狂気に呑まれたかのように叩いた。

 

「村長、村長! いや英雄どの! 開けてくれ」

 

 ジョンの声だった。男は椅子を押しのけて立ち上がった。ドアを開けた。ジョンはずぶ濡れで、膝に手をつけて荒く息をしていた。そしてなんとか顔をあげると、その目は小刻み揺れていた。その瞳孔は完全に開きっている。その黒いくろい瞳は、彼が送っていたひとときの平穏の別れを告げているかのようだった。

 

「どうした」男がいった。「何かあ──」

 

 肩を掴まれた。掴まれた手は、震えていた。そしてジョンは怯えたように口を開いた。

 

「ソ、ソフィアが、ソフィアが!」

 

 

 

 ────男はハンターの先導に従って、森を走っていた。雨は視界が悪くなるほど降っていて、雷鳴が轟いていた。

 

「ソフィアが帰ってこなくなった」

 

 ジョンがいうには、昨日の夜、ソフィアは家の外を出たらしい。その理由はいってくれなかった、とジョンはいった。心配だったが、その日は気にしなかった。翌日になって、さすがに帰っているだろう、と思い部屋を開けたが、そこには誰もいない。隣人に聞いてみた。彼らは知らないと首を横に振った。きっと、俺が寝ている間にまた外を出たのだろう、と考えた。しかし、雨が降っても彼女は帰ってこなかった。

 

 村の人々に聞きまわった。やがてこの村のハンターが、彼女のことを見た、といった。ジョンは、どこにいったのか訊いた。すると、ハンターは、何気なく指を差した。

 

 その先には、行方不明があとを絶えない森が沈黙していた。

 

 男は彼の背を見ながら、村長が話してくれた話を思い出す。森には、邪悪なるものが潜んでいるのだという。その邪悪なるものは、この森を入り込んだものを誘うのだ。その柔らかい肉を食らうために。この村にまつわるひとつの怪談。

 

 彼女はおそらくもう生きていないだろう。村長の話が本当なのか知らないが、森には怪物だけが潜むわけではない。殺人鬼。盗賊。気狂い。道徳法則の道を外れたものがそこにはいる。彼女はこんなに長い間、帰ってこないならば、それは────

 

 そこまで考えて、男は自身に舌打ちをした。最悪の可能性ばかり考えてしまう自身の悪い癖が出た。いまはそんなことを考えるときではない。自身によくしてくれたソフィアを見つけることが最優先だった。たとえ、それが見るのも目を背けたくなるほど惨憺たる死体でもあっても。

 

「待て」

 

 と、ハンターがいい、男は立ち止まる。ハンターはしゃがむと、腐敗した葉っぱに付着している赤黒い液体を手につけ、匂いを一度を嗅いだ。そして舐めた。

 

「血だ」ハンターは血が溶けた唾を吐き出しながらいった。

「血?」

「ああ、それに生暖かい」

 

 ハンターは立ちあがって、項垂れる。血の痕跡がどこへ行くのかをたしかめ、耳を傾ける。草や木の葉が擦れる音。動物たちの鳴き声。雨の音。雷鳴。………それと剣戟。彼らは顔を見合わせ、「こっちだ」と、いい彼らは再び走り出す。

 

 彼らは鬱蒼とした森を駆け抜けると、紫の花畑が目の前に広がり、ソフィアが倒れているのを目にする。そしてその花畑をステージに舞うように戦っているふたりがいた。稲光が走り、世界は紫に満たされる。ひとりは女で、短剣を使っている。もうひとりは男で、甲冑を身にまとい、打ち刀を使っている。

 

 戦闘は激しかった。侍は刀を恐るべき速さで振り、その刃に合わせて女は弾いている(パリィしている)。刃がぶつかり合うたびに、剣撃が響き、火花が散っていた。

 

 ふたたび、稲光が走る。紫に満たされた世界で彼女と男は目があった。限りなく透明な青白い瞳。そして馬の尻尾のように結ばれた真っ白な長髪が、右へ、左へ揺れていた。

 

 女はフェイトをかける。侍は引っかからない。女の突きを最小限の動きで横に避け、その手首を切らんと刀を突き出す。女は後ろに退く。そして彼女たちは回り出す。

 

 彼女たちは何も口をしない。男とハンターはここでやるべきことを思い出し、彼らは倒れているソフィアを抱き上げ、すぐさま離れた。彼女たちは追いかけなかった。が、男は途中で止まって、彼女たちが戦っている処へ振り返った。

 

「おい! 逃げるぞ」

「さっきにいっててくれ」

「は?」

「あれを止める」

「そんなことをしても、無駄だ。あれはどっちが死ぬかまで戦う。止まることはないんだ」

「………さっきにいってくれ」

「……ああ、くそくそ、くそったれ! おまえが竜を殺したか知らんが、おめぇみてぇなバカ初めて見た!」

「頼む」

 ハンターは唸った。「……ああ、くそ、わかった、わかったよ」

 

 ハンターはソフィアを抱えて、逃げた。すれ違う際に「死ぬなよ」と、いった。男の返答はなかったが、村へ走った。雷鳴は轟く。

 

 男はハンターが見えなくなるまで眺めると、歩を進めた。いまようやく男の予言が動き出した。とある女性との出会い、そして葦の地からの剣客。舞台の歯車はついに動き出した。雷は、男の破滅の物語を、祝うように光った。

 

 

 

 男たちがさったあとでも彼女たちはまだ戦っていた。花びらが散り、火花が舞う。侍の体中に切り口ができていて、女の太ももに鋭い太刀傷ができている。互いの息はまだ荒れていない。回りながら女は、急に接近していると気付かせない足運びで、侍の前へ近づき、首へ短剣を振る。侍は受け流そうと刀を上に掲げようとする。

 

 が、間に合わない。

 

 刃は皮膚を食い破った。侍は刀を振りながら後ろへ退き、自身の首を押さえた。血はその隙間から噴き出していく。花びらに血が落ち、侍は膝をついた。血がついた自身の手を眺め、女をみた。女は冷ややかな瞳で侍を見下ろしている。

 

「驚いた」侍がいった。「まさか、これほどの腕が立つものに出会うとは、人の生というものはなぜかように悦に満ちているのか、これまた珍妙なことよ………」

 

 そして侍は、ゆらりと立ち上がった。首から吹き出した血が、止まっていた。

 

「だが、わしとて葦の地で育った侍の端くれじゃ、このまま終わるわけにいかぬ」

 

 血の朱に染まっていた刀を侍は納める。

 

「さあ、見せてしんぜよう───」

 

 稲光が、走った。紫に満たされた世界で、侍の瞳は妖しく光る。

 

「葦の戦い方を」

 

 

 動き出したのは、ほぼ同時だった。女は、左へいくのに見せかけ、ナイフを振り牽制した。その手首を侍が掴んだ。すぐに女は引き剥がし、蹴りをする。脇で足を掴まれ、一気に引き寄せれる。侍の掌底が顎に迫る。

 

 女は横に避け、短剣を振った。刃は胸の皮膚を滑り、血が飛び散る。また後ろへ飛び下がる。侍は居合いの構えに移行していた。その距離はあまりにも遠い。が、それを嘲笑うかのように振った。そして女の肩が切り裂けた。

 

 女はそのときはじめて目を見開いた。驚愕が水に溶かした絵の具のように顔に広がった。何が起きたか把握をする前に、悪寒が走る。女は横に飛ぶ。すると、さきほどまでいた背後の木が、切られた。そして切り口周辺に真っ赤な火がボッとついた。

 

 女はまた回り出す。侍も合わせて回る。侍の刀に纏わりついている血は波立っている。ただの血ではない。

 

「貴様」

「なんだ」

「その血、呪われているぞ」

「左様、どうやら斬りすぎたようじゃ。わしの体には呪詛に満ちておる」

「もう人ではないぞ、貴様」

「それでも、構わぬ。のお、お主、聴いたことないのか? 剣客とは死狂いである、と」

「知らないな」

「ふむ、それはまことか」

「ああ」

「口惜しいことよ」

 

 侍は口を閉じ、足をとめた。これで会話が終わりだと言わんばかりに。実際そうだった。そして決着はすぐについた。

 

 瞬間、侍が消えた。女はすぐに背後へいったのか振り返る。が、いない。真上もみる。いない。ならば────女は舌打ちをし、目を戻す前に短剣を振る。しかし、速すぎた。その刃は、弾かれた。女は、隙を晒した。どういうわけか目の前にいる侍は笑うことなく、刀を振った。

 

 呪血がまとわりついた刃は首へ迫った。

 

 甲高い音が、響いた。刃同士がぶつかり合う音。

 

 今度は侍が表情をみせた。

 

 侍は笑っていた。

 

 目の前にひとりの男が、立っていた。その男はボロボロの外套を着ていて、傷だらけの鎧を身につけていた。兜をかぶっているので、表情は見えない。彼の得物は、大剣。よく手入れされた刃には、わずかばかり血錆がついている。男の視線の先は、笑顔を浮かべている侍だ。

 

 女は、その背を髣髴とみていると、

 

「合わせろ」

 

 と、その男がいった。女は、返事はせず、短剣を逆手に構える。そして彼女たちは、侍を囲うように左右に歩き出す。

 

 侍は、笑顔をおさめ、男と女の動向を追う。

 

 稲光。男と女は動き出した。男は正面へ突っ込み、女は侍の横を取りに走り出す。男は、よく手入れをされた大剣を振り上げる。切り裂くというより、叩き潰すに近い斬撃。

 

 侍はその斬撃を逸らし、後ろへ下がる。その横を取った女は、首へ短剣を突く。侍は、片方の手を離し、肘打ちでその突きを上へ押し上げようとする。が、その腕を女は押さえた。それと同時に男は再び斬撃を放つ。横と正面からの攻撃。

 

 侍はすぐさま刀を逆手で持ち、地面に突き刺す。すると、地面から血の刃が突き破ってきた。女は、横へ体を倒すことで避ける。男は、斬撃を血の刃にぶつけることで防いだ。

 

 次の攻撃にうつる。侍は、逆手から順手に変え、横にローリングした女に刀を振る。そして、すばやく二撃目の斬撃を血を纏わせて、正面にいる男へ。女は最小限の動きで、避ける。男は、またもや大剣で弾き、カウンターをする。

 

 むろん、これもまた弾かれる。そして斬り合いが始まる。それは、舞のようにまわりながら起き、火花が雨に覆われた世界に咲く。男の技量は、見事なものだった。重い大剣をナイフのように軽く振り回し、攻防一体となった技が繰り出してくる。男の鎧の隙間が斬られていたが、男は、ぐっと体をかがめると、すぐに侍の目の前に移動した。侍は、横に払われた大剣を回避し、居合を構える。そして女に振る。が、弾かれる(パリィ)。侍の体が大きくのけぞる。すぐさま、女は短剣を腹に突き刺さした。突き刺した刃を横にねじり、切り裂く。血が噴き出る。

 

 侍のまなこには、恐怖がない。まるで、死とはどういうものなのか知っており、死がどんな兆候をもって現れてくるのか知っているかようであった。侍は、ひるむこともなくすぐに刀を振った。その刃は、後ろへ飛ぶ彼女の肩を撫でて、外套を切り裂き、血が滲み出す。

 

 雷が花畑のすぐ横に落ち、青白い燐光と炎が迸った。だが、それでも彼らは戦闘をやめない。侍は、女に仕留めにかかろうと刀を振り上げると、

 

「おい、おまえ、俺のことを忘れるな」

 

 と、いう声が後ろから聞こえた。後ろから迫る大剣。そして女が地を踏むと、霜が地走りした。防ぎ切ることができない。侍は、最も致命傷になり得る大剣の斬撃を防ぎ、霜の柱に足が刺さたが、それは彼が想定通りだった。

 

 しかし、予想外だったのが、その霜が彼の体を這うことだった。冷気が体を駆け巡り、凍らせていく。侍はいますぐにこの場を離れないといけなかったが、それは叶わない。体が、動かないのだ。

 

 あまりにも血を失っていた侍は、目の前が真っ黒となった。目を閉じ、その瞼の裏に死の兆候が現れたのかを確認した。死が、瞼の裏にいた。それから彼は目を開け、なにも見えない視界の中、気配がする男に目をやって、刀を再び握り直した。

 

 そのとき女は、トドメを刺しにさらに踏み込もうとしたが、血と水でぬかるんだ地面に滑った。転んだ。起きあがろうとしたが、膝が笑っていた。血を流しすぎたのだ。女は、すぐさま倒れたまま短剣を投げた。

 

 体を無理やり動かし侍は、流れ出た血を纏った刀を肩に担ぐように構え、一気に踏み出し、男へ振った。大剣は、侍の頭を。刀は、男の腹を。短剣は、侍の首を。

 

「あああああ!」と、叫び声が聞こえたが、それは誰かわからない。

 

 いずれにしてもそれぞれの刃は、柔らかな肉を食い破らんと音をあげ、───そして雷雨の中、血と内臓が飛び散ったのだ。

 

 

 

 いつの間にか雷は止んでいた。あれほど見事な咲き誇った花畑は踏み荒らされ、雷の炎に焼かれている。雨はその炎の波を消すには弱すぎた。炎の波は徐々に侍の死体へむかっていた。

 

 男と女は白い息を吐きながら、その死体を見つめていた。動かないと、彼らは倒れそうだったので、死体から視線を外し、得物を収めて歩き出した。お互い話すことなく。

 

 まもなくしてハンターと腕っぷしに自信がある村人たちが彼らと出会った。ハンターは安堵の息を吐き、

 

「おい、あんたたち、無───て、傷だらけじゃないか! 大丈夫か、おい! おまえ、そうお前だ! エイユウどのに肩を貸してやれ! いいか、だからといって、そこの女にやましいことひとつでも考えてみろ、俺が殺してやる」

「でも、この女ってさきほど戦っていたやつですよね?」

「バカが、隣にこいついるだけでわからないのか」

 ハンターは質問をした村人に拳骨をくらわせ、「さあ、はやく、はやく、はやく行動しろ! エイユウ殿を助けたいのだろ? おまえは、いますぐにあの火が燃えているところへいけ」と、指示を出した。

 

 そしてハンターは男に肩を貸した。雫がついた豊かな顎ひげが男の顔を歩くたびに撫でて、ちくちくとした感触がした。村につくには、まだ遠い。

 

「おい、あんた」

「………なんだ」

「よく死なないでくれた」

「運が良かっただけだ」

「なら、なおさらいい。迫り来る死から逃れることができる運があるやつはなかなかいない」

「……………」

「ソフィアが喜ぶだろう。なあ、彼女があそこにいた理由わかるか」

「知らん」

「まあ、すこし考えてみろ」

「…………薬草取り?」

「悪くない答えだが、間違いないだ」

「果物をとりに来たのか?」

「方向性が違うな、もっとロマンチックな理由だ」

「わからん、俺はそういうやつはもっぱら知らん」

「本当か?」

「ああ」

「ふむ、ならいいだろう。いいか、彼女は花の冠を作っていたのさ」

「………そうか、それは微笑ましいことだ」

「ああ、そうだろう」

「彼女は無事なのか」

「ああ、無事だ」

「そうか」

 

 村に帰り、男と女は治療を受けた。包帯で止血し、ベッドに寝かした。それから祈祷師を隣の村から連れていくために、ひとりの男が、馬を走らせた。一時間が経つと祈祷師がきた。祈祷師は、男で、白の服を身に纏っていた。祈祷師は、安心させるように笑い、祈祷でその傷を癒した。

 

「さあ、これで大丈夫です」

「司祭どの、これで大丈夫なのでしょうか」ハンターが聞いた。

「ええ、大丈夫ですとも、あとはよく寝て、よく食べたら、治ります」

 

 それでは、といい祈祷師は去ろうとしたが、それを引き止めたのは、もう戻るには遅すぎたからだった。太陽は地平線にしずみはじめていた。祈祷師は、それならば仕方ないと、家族ができている村人の家に泊まることになった。

 

 村長が様子をみたのは、祈祷師が家を去ったしばらくあとだった。村長は、妻の助けをもって男たちに会いにきた。村長は苦しそうに咳をし、

 

「英雄どの、無事ですかね?」と、いった。

「ああ。すぐに治るらしい」

「よかったです。それで、その隣にいる方は誰なのでしょうか?」

「知らない。助けただけだ」

 

 村長は彼女へ視線をやる。彼女は目を合わせたが、何も言わなかった。視線を元に戻し、

 

「ふむ、なぜ彼女を助けたのですか?」と、訊いた。咳をしながら。

「………ソフィアを守るように見えたからだ」

「なるほど、あなた、それは本当ですか」

「失礼を承知して言いますが、ソフィアとはどんなお方ですか」彼女ははじめて答えた。

「花畑に倒れていた少女ですな」

「ああ………あのかわいらしいお方」

「それで、どうなんですかね」

「たしかに助けました」

「なるほど、ありがとうございます。命の恩人ですな、よろしければ、名前を教えてください」

「名前、ですか」

「ええ、名前です」

「名前ですね、ええ、わかりました。それなら、わたくしのことをカリーナとお呼びになさってくれませんか」

「わかりました。カリーナさま、どうかこの村でゆっくりとお過ごしください。あなたが去りたいときまでいてください。わしたちはあなたを歓迎します、それにあなたほどの美人さんがいたら、村の男どもも喜ぶことでしょうな」

「あなた方のご好意に感謝します」

「ええ」

 

 村長は椅子に座った。そしてまた苦しそうに咳をした。

 

 男が訊いた。「風邪か?」

「ええ、まあ、どうでしょうか。どうも最近、体力がないのです。わしもずいぶん長く生きてきました。そろそろなのかもしれません」

「そんな」と、思わず村長の妻が口にした。「あなたはまだ生きてください」

「ありがとうな、ミレナ。おまえには感謝をする」

「そんな最後の言葉みたいなことを言わないでください」

 

 実際、そうだった。村長はもう自身の命は残り少ないと悟っていた。だが、それでも聞きたいことがあった。この英雄に。村長は、ミレナを宥めると、男へ視線をやった。

 

「ああ、英雄どの、わしはあなたに聞きたいことがあるのです、どうか、聞いてくださいますか?」

 

 男は頷いた。

 

「まず、ひとつめに聞きた、ごほぉ、ごほぉ、ああ、すみません、聞きたいのは、あなたが旅をする目的を知りたいのです」

「目的か」

「そうです、目的のない旅などありませんでしょう」

「俺は………」

「ゆっくりでいいです」

「俺が旅をするのは、ある竜を探すためだ」

「ある竜ですか」

「ああ、俺が追い求めてるものだ」

「なるほど、素敵な目的です。いつか、見つかるといいですね」

「ああ」

 

 村長は次の言葉を言おうとした。だが、その言葉は言えなかった。というのも、胸に鋭い痛みが走ったからだった。村長は苦しそうにうめき、胸をかきむしった。そして地面に倒れた。ミレナは、すぐさま起こし、目が定まっていないさまをみて、「英雄さま! どうか、司祭どのを呼んでください!」と、叫んだ。男は頷き、痛む体を無視して走り出した。村長は天井を通して何かを見ていた。

 

「………英、雄どの、ど、どうして、あ……あ、なたは」

 

 そして喀血をした。夥しい量の血が口から溢れ出し、痙攣をはじめた。

 

「あなた、あなた! お願い、生きて! ああ、神さま、どうかどうか」

 

 と、ミレナは抱きしめた。と、突然、体の痙攣が止まり、目も定まった。それから村長は「ああ、そうか」と、何かを思いついたかのようにカリーナに目を合わせた。そしてなにかを戦慄く。唇が震える。老人は、お願いします英雄どのの旅を共にしてください、といったのだ。

 

 男が祈祷師とヴェルテールを連れて、扉を開けたときには村長が目を閉じていた。隣にミレナが静かに泣き、カリーナはその老人の手を握っていた。男は体をゆすった。反応はない。村長が危篤と聞いてついてきたヴェルテールは声をかけた。

 

「おい、村長、聞こえないのかい、俺だぞ、来たぞ」

 

 ヴェルテールは村長の腕をさわった。抵抗はなく、その腕にあるはずのぬくもりが失い始めていた。もう、村長は死んでいたのだった。

 

 

 

4.旅立ち

 

 

 

 男は、父を夢にみた。

 

 少年である彼と父は、川に浮かぶ船に乗っていた。彼らは釣りをしていた。

 

 その夢は男がまだ人を恨むことなど知らないときのことだった。

 

 やがてその釣り竿に引っかかり、彼らは引き上げると、鮎が太陽が浮かぶ空を泳いだ。そうして今の彼が二度と手元に取り戻せないものが、当時の彼らの船底へ落下し、ぴちぴち、と跳ねた。少年の彼は満面の笑みを浮かべて父をみる。

 

 父は、笑ったのだろう。しかし、いまの彼には、父の顔はおぼろげで見えなくて、優しく頭の手を撫でて少年の彼を褒めているその声も、もういまの彼には聞こえなかった。

 

 男は、胸にぶら下げた氷の結晶をじっと見ていた。決して溶けることがない氷の結晶。はみ出し者が、唯一手放さなかった少年のころの思い出。男は、この村で生えている大木の影の中に横たわっていた。ヴェルテールが隣に座っていた。ここは丘であった。ここから村がみえる。寝静まったような沈黙がこの村を包んでいた。何かが壊れたあとのように風が吹いていた。村長が死んで、三日が経った。家出した村長の息子に手紙を出したが、すぐに帰ってこないので、息子を待たずに埋葬をした。静かな葬式だった。祈祷師、あるいは別の名を司祭が、黄金樹に魂が運ばれることを祈ってくれた。そうして別れの儀式は終わった。ミレナだけが墓の前で夜が世界を包むまで低徊していた。

 

 男は片方の足を伸ばし、もう片方をたたんで、氷の結晶をしまった。それから村の風景を眺めた。隣のヴェルテールは、同じ光景をキャンバスに写していると、ひとりの男が丘にのぼってきた。ジョンだった。ジョンはリンゴを食べながらゆっくりと男へと向かっていた。ほどなくして、ジョンは辿り着く。ジョンは男を見下ろし、

 

「もういくのか?」と、聞いた。

「ああ」

「いついくんだ」

「今日中にはいくつもりだな」

「そうか」

「ずいぶん世話になった」

「なに、当たり前のことよ。それにあんただって助けてくれたじゃないか」

「村の状況はどうなんだ」

「まあ、ぼちぼちだな」

「ぼちぼちか」

「ああ、ぼちぼちだ。1ヶ月以内に村長の息子が来ないなら、副村長がそのままくりあがるだろうよ、それにヴェルテール。あんたにもずいぶん世話になったよ」

「おれは別にそこまで………」

「いんや、あんたは壊れた柵とかドアの修理をしてくれたじゃないか、助かったよ」

「そうかい?」

 

 ジョンは頷いた。それから、ヴェルテールと男の間に座ると「そいつは絵かい?」と、きいた。

 

「おうよ、この村の風景画さ」

「へぇ、上手だな」

「ジョンは絵が好きなのか?」

「う〜ん。俺はそういうのはわからねぇや、でもあんたの絵はきれいだなって思うよ」

「ありがとうな」

「でもなんで、急にここを描こうとしたんだ」

「そりゃ、忘れないためさ」

「忘れないため?」

「ああ、記憶はいつか風化するだろう。こんなにすばらしい村なんだ。忘れたくないさ。絵に残したらいつでも思い出すことができる」

「ああ、そうか、たしかにそうだ」

 

 彼らは長い間黙った。そしてジョンがはたと気づいたように口を開いた。

 

「そういえば」

「なんだ」

「カリーナ? だっけ。彼女がおまえのことを呼んでいたぞ」

「カリーナ?」

「ああ」

「どこだ」

「さっきは村長の墓の前だった」

「わかった」

 

 

 彼らは黙って、ジョンは残りのリンゴをかじった。絵はもうすぐに完成しそうだった。

 

 

 聞いたとおり、村長の墓の前にカリーナがいた。男はカリーナの隣に立ち、数秒だけ村長の墓を眺め、「それで、なんのようだ」と、訊いた。それに対し、カリーナは、あなたの旅の目的はある竜を探すと言いましたが、その竜について教えてほしいのです、と男の横顔を眺めながら、いった。男は、竜の特徴、そして名前をいった。カリーナは興味深そうに目を細め、

 

「なるほど、大変興味深い話をうかがえました」と、いった。

「それだけか?」

「いえ」

「なら」

「よろしければ、あなたの旅をご同行を許してくださいますか」

 

 男はカリーナの顔を覗き込んだ。その真理を確かめるように。視線を元に戻し、

 

「………ああ」

 

 と、いった。

 

 カリーナは軽く微笑し、男に簡単に認める理由を訊いた。男は、べつにこの旅をひとりでしたいと思ってるわけではないといった。カリーナは納得がいかなかった。が、とくにそれ以上追求しなかった。村長がこの男の旅についていってほしいと二度言ったわけを知れるばいい、とカリーナは思っていた。一度目は、カリーナの怪我が治ったとき、二度目は、あのとき。それにこの男に個人的に興味が惹かれていた。カリーナは「それではまたお会いしましょう」と、いい墓から立ち去り、男はその墓を眺めた。ヴェルテールが来るまで。

 

 1日が経ち、彼らは旅を出る。

 

 

「おまえたちは、もう遠くへいってしまうのだな」と、ハンターがいった。

「世話になった」男がいった。

「寂しくなるな。また会おうぜ」と、ヴェルテールがいった。

 

 男はハンターと握手を交わし、荷物を背負わせた馬に近づく。栗色の雄の馬の頭を撫でて、自身の額をその頭に押し付け、「頼むぞ」と、やさしくいった。それからヴェルテールを乗せて、自身も乗った。眼下には子供を連れた村人たちやジョンや村長の妻などが、彼らを見送っていた。「またな!」「英雄どの、また剣を教えてくださいね!」「っけ、出ていてしまえ」「ばいばい」と、言っていた。

 

 横に視線をむける。カリーナが馬に乗っていた。その馬は漆黒の毛をしたたくましい雄の馬だった。この村の自慢の馬だという。同時に誰も乗りこなすことができない暴れ馬だったが、彼女をみると、従ったらしく、譲渡することになった。「まったく。面食いな雄だぜ」と、譲渡としてくれた村人はそういったのだという。

 

 その青毛の馬は気が狂ったように泡唾を吹き出しながら、白い息吹を噴き出している。それに共鳴するように男が乗る馬は左右に顔を振った。男はなだめて、カリーナに「行こう」と、いった。そして彼らは馬を小走りさせようとしたとき、ソフィアが男の元へ走ってきた。

 

「ちょ、ちょっと待ってください、騎士さま、待ってください」と、息を荒く吐きながらいった。

 

 騎士さま、とはこの村でのもうひとつの愛称だった。理由は単純だ。鎧と外套を見に纏っているからだった。

 

 もっともこの男は、高貴なる騎士では決してないのだが。

 

 男は馬を止めて、ソフィアを待った。ヴェルテールは口笛をし、(唇が見当たらない壺人がどのように口笛をしているのかはいささか謎だが)彼を小突いた。男はそれを無視した。

 

「あの、こ、これを」と、震えながら男に手紙を渡した。

「これは?」

「えっと、手紙です。その中に、硬貨とか入っているので、商人と買い物をしたいときにください」

「硬貨はいらない」

「受け取ってください」

「おまえたちにも必要だろう」

「お願いです、受け取ってください」

 

 存外に強い口調に驚いた男は、その手紙をしばらく眺めた。そして馬に括り付けた荷物に手紙を入れた。

 

「わかった、受け取ろう」

「ええ、そうしてください。ありがとうございます。あ、そうだ、その手紙ですが、まだ読まないでください、いつか、いつかでいいんです。たとえば、またこの村に会いたくなったときにこの手紙を読んでほしいんです」

 

 男は頷いた。そして彼らは今度こそ馬を走らせた。

 

 丘陵地帯をかけていく彼らが点となるまで村人たちは眺めた。そしてもはやその姿が見えなくなってもまだ立っていた。村人のひとりが、祈祷師がやったように、狭間の地にいるのだという神々と黄金樹へ祈った。姿も何を司っているかも知らない。それでもその村人は祈った。ソフィアは、祈らずひたすら地平線の先をみつめていた。いつかくる再会を確信して。

 

 

 

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