5.低地の町々
太陽が西に沈み出し、深い夕闇と青が世界に満ち始めたので、彼らは馬を止めた。戦争に使われていたのだという道で。その道から外れ、雑草が生え散らかした地面に座った。それから彼らはここで野宿することにした。
焚き火を焚いた。薪は柵の中で虫に食われボロボロとなっているものを選んだ。火は夜の寒さを引かせるには十分ほど燃え盛った。村人が作ってくれた薄焼きパンに冷たい鶏の肉と内蔵、それに緑野菜を挟んで食べた。星空を眺めながら耳をすませると、そばに流れている小川のささらぎが聞こえる。栗色の馬は、その小川の水を飲んでいた。三口で満足したのか一度顔を小川から離すと、そこをゆらりゆらりと泳ぐ小魚に気になっているのかしばらくその魚をみていた。彼らは馬が逃げないように生えた木にロープをくくりつけた。
「なあ、今度はどこにいくんだ」と、ヴェルテール。
彼は自身が描いたあの村の絵を眺めていた。
「ここからずっと真っ直ぐ歩く先にひとつの都市がある。そこにいる男と話す」
「またそりゃなんでだ」
「俺が求めている竜を知っているらしい」
「へえ、本当かい」
「さあ、だが、探すしかないだろう」
「また、女に自慢したいがための自慢話だったら、俺は呆れるよ」
「もともと、そんな馬鹿げた話を元に旅をしてきたんだ。慣れている」
「ふうん、で、それどこの情報なんだ」
「その村で、だ」男は、絵を指差していった。
「なるほどねぇ、まあいいよ。───そうだ。カリーナさん、本当にいいのかい、ついてきて」
ヴェルテールがこれを言ったのはすでに4回目だった。
カリーナは頷いた。
「かまわないです」
「終わりが見えない旅なのに?」
「私はもともと目的などなく歩き回っていました。今さら終わりが見えない旅など苦にもないですもの」
「へぇ、漂流者って感じかい」
「そう言うことになりますね」
「聞かせてくれよ、あんたがどこを歩きまわったか。まだ眠くないんだ」
「………そうですね。ならひとつだけ話しましょうか」
彼女が話したのは、野良犬狩りをしていた村についてだった。リーダーが大変頭がよく、仕掛けた罠すべてに気付き、回避し続けたのだという。それでも殲滅することができたのは、一匹の飼っていた犬のおかげだった。野良犬の住処を発見し、村人たちはすべてを殺した。子犬さえ、と彼女は冷然と話していた。
そして彼らは鞍を枕として寝た。
朝日が昇りはじめるときに目覚めた。朝ごはんに残りの薄焼きパンを食べると、彼らは起き上がって、目的の都市へと馬を走らせた。
夕方まで走らせると、誰もいない村の荒らされた家の一室で眠り、また走り出した。目的の都市までつくまで彼らはたくさんのことを話した。ヴェルテールの語る旅に出て戦士ではなく画家となった理由。カリーナの語る放浪の途中であった牢獄から脱出した男の話。男の語る彼の村での美しき風景と動物について。物語りながら彼らは走り続けた。古代の頃に建てられた宇宙の彼方からきた神とそれを奉る人々を彫った遺跡。遠くからみえる兵士の列。形骸化した砦。そして目的の都市につく。
城塞都市の壁はひどく不揃いだった。それは、この壁の建築の途上で犠牲となった奴隷や幾度の戦争によって延期され、何世代も受け継がれていったからであった。検問の男は、順番が来た彼らをじっと見つめ、
「どこからきた」と、いった。
「ベル村」
「なんの目的で、だ」
「会いたい人がいる」
「家族か」
「いや、用事がある」
「その会いたい人は誰だ」
「あんたが名前も知らないようなやつさ」
「…………いいだろう」
検問を終え、開け放たれた荘厳たる門を抜ける。彼らは、蝿がたかった鹿肉、猪の肉、豚肉、などが売られている肉屋を過ぎ、老人が運営する薬屋を無視し通り過ぎる。老人は、「おい、あんた! あんたたちだよ! こいつはいらないのか、星の娘の臍の緒だよ!」と、言って、ガラスの瓶に満たされた半透明な青白い酒に浮かぶ臍の緒を掲げた。その臍の緒は干からびていて、灰色だった。
男は立ち止まった。そして引き返しこの老人に、聞くことにした。老人は、デカい鼻を忙しくなく触り、しつこく、「こいつ、こいつはどうだい」と、効き目があるか怪しい薬を売ろうとしてきた。男はいらない、というと、ならその質問に答えれないと老人は黙り込んだ。男は、自身の財布からいくつかの硬貨を取り出して、それを渡した。老人はその硬貨を慎重に数えると、ニヤリと笑って、言った。
「あそこだ、あそこを真っ直ぐにいけ」
商店通りを過ぎると、広場には処刑台が置かれていて、その周辺を民衆が囲っていた。民衆は死刑囚に怒号を浴びさせていた。死刑囚は、黒い祭服をきていた。頭は禿げていて、目は青かった。彼はじっと民衆を見下ろし、叫んだ。「野蛮人どもめ! きさまらは地獄の底の底まで落ちるだろう、いや、死という甘美な終わりも与えてくれない! きさまらのこの堕落した街はやがて神の懲罰が降るだろう!」
しかし、誰もそんな言葉に耳を傾けなかった。
死刑が執行され、民衆は興味が失ったように散った。風が吹いて、
彼らはその広場を去り、道中目的の男の居場所を再び聞きながら、馬を連れて歩いた。この欲にまみれた街で馬を預けるわけにはいかなったのだ。ひとりの男がこう言った。「あいつか? あいつならやめた方がいい。あいつは城主さまを殺そうとしているらしいからな。まったく、なんであんなふうになったんだろう。昔は、あんなに………」
煉瓦作りの家の屋上が目的の男がいるところだった。男は階段を登り、歪んだ木製のドアを叩いた。他の二人は馬の見守りをすることにした。
三度ほど叩くと、ドアが開き、小汚い男が顔を出した。名をスパーロという。互いに無言でみつめあい、
「なんのようだ」と、スパーロがいった。
「聞きたいことがある」
「なんだ」
「カリゴ、という名を竜を知っているか」
「…………」スパーロはわずかに項垂れ顔をあげると、扉を開いた。「入りな」
部屋は薄暗く、埃臭かった。部屋にはミルクを飲んでいる猫がいた。猫は顔をあげ、スパーロに甘えるように鳴き、足に頭を擦りつけた。スパーロは猫の頭を手の甲で撫でてあげた。猫は突然の来客に驚くことはないようだ。まるで来客が来ることに慣れているかのようであった。
それからスパーロは椅子に足を広げ、座った。男も座った。向かい合わせになり、スパーロは、股の間に手を置いた。
「で、長々しい世話話はやめようぜ。カリゴについて知りたいのか」
「ああ」
「そうだな。知りたいのは出会い、ではないだろうな。おそらくどこにいるのかを知りたい、そうだろう?」
「そうだ」
「ふむ、彼女はたしかにいる。細々と彼女の話について受け継がれている。だが、そこは誰もわからない」
「ああ、だから手がかりを知りたい」
「……いいか、幻をいくら探し求めても見つかりっこない。わかるだろう、なぜなら存在しないからだ」
「ああ、わかっている」
「なら、幻の元になったものを探すばいい、その近くにあるはずだ」
「………どういうことだ」
「そのままだ。幻はたしかにこの世にないもだが、同時にその幻というのはこの世にあるものが元になっているんだ、わかるか」
「わからないな」
「……わかった、簡単にしよう。彼女の痕を辿れ、それだけだ」
「その痕が見つからないんだ」
「………ああ、そう、なら教えてやろう。東だ、東に決して溶けることない氷の柱がある。そこから辿れ」
「それだけか」
「ああ、それだけだ」
男は立ち上がった。これ以上用はないからだ。だが、スパーロは止めた。
「まあ、すこし話をしよう」
「待たせているやつがいる」
「わかっている、ただ、ひとつだけ伝えたいことがあるんだ」
「……なんだ」
スパーロは席から離れて、曇った窓をみつめた。猫は、男の元にいき、太ももに飛んだ。そしてそこで眠った。スパーロは苦笑いをし、「ずいぶん気に入られたようだな」と、いい、
「見ただろう、この街の腐れ具合を」と、続けた。
「………」
「路地裏には親に見捨てられた子供やキチガイに溢れてやがる。街は日々、誰かが罪人として奉られることを願っている。隣人に愛を与えることなく、ただひたすらに金を求める。なあ、この街は腐れ切っているんだよ、わかるだろう」
「そうかもな」
「俺はたびたび思う。なぜ異国からきたものでも言葉が通じるんだってな。
俺はこの答えはこうだ。それは今まで人類というのが、超えないべき一線というのを弁えていたからだ。だが、どうだ、いまは。人類は、悪魔の取り引きに応じたかのように、さまざまなものを、邪悪なものを作り上げ、自身こそ頂点だと思っている。
ばかだろう? 人間こそ矮小の存在だ。おまえもあの竜をみたのなら、そう思うだろう。俺たちは所詮、神が作り上げた世界のなかで必死に生きるしかないんだ。しかし、今はどうだろう? いつこの街に、戦争を絶えず望むこの街を、神は許してくれるのだろうか? いや、違うかもしれない。戦争はいつだってこの地上にあった。ただ、待っていたんだ。神さまが俺たちを作る前のはるか前に。戦争は、神が生まれる以前よりも存在した最高の遊戯のひとつで、その最高の駒としてのやり手としての人が来ることに待っていることに過ぎないかもしれない。………たしかこんなことを言った人がいたんだが、それは誰だっけ? あるいは綺麗は穢い、穢いは綺麗、そういうことなのか? まあ、いい。な、狭間の地に神がいるんだよな? なら、いつか聞いてくれよ、なぜ俺たちを裁かない。なぜ俺たちを救わないってな」
そのときだった。突然、玄関がすさまじい音を立てて、蹴破られた。振り返ると、そこには三人の衛兵が立っていた。ぐるりと部屋を見渡し、スパーロを捉える。猫が威嚇したが、衛兵は気にしなかった。
「スパーロだな」
スパーロは無表情なまま頷いた。
「謀反の疑いでお前を捕まえる。抵抗はするな、すでにお前がリーダーだとバレている」
スパーロはため息をつき、天井を見上げた。多少ジャンプしたらぶつかりそうなほど低い天井。そして「へいへい」と、いって、衛兵たちに近づいた。衛兵はスパーロの両脇を押さえた。そして男を見、スパーロにこいつは誰かと訊いた。
スパーロは、唾を地面にはいた。
「しらねぇよ、知るはずがない。勝手に俺に聞きたいことがあるって来たんだ」
主人がいなくなった部屋で男はしばらく席に座っていた。やがて立ち上がった。そして猫を撫でた。猫は寂しそうに鳴いた。
夕方、街を出る際、また老人が経営している薬屋を通った。そこにはひとりの旅人が、熱心に勧められた星の娘の臍の緒を買おうとしていた。彼らは何もいわなかった。老人も、彼らが通ったことに気づかなかった。旅人は、臍の緒を買って、夕焼けにかざす。
「星が降るぞ! 星が! 今日は当たり日だ!」
と、嬉しそうに老人は叫んでいた。
「ああ、星の娘を求めに来るだろう!」
夜が、この背徳の町を、その冒涜を歓迎するかのように、支配した。希望を失った子供たちは、もはや動く気力さえなく、ただ冷たい石の床を眺めている。狂気に飲まれた老人老婆男女は、唾を地面に垂らしながら暗闇の先に神の啓示があると信じているかのように奥の道を見つめ、ぶつぶつと何かを呟いていた。そして酒に酔った男どもが、女を、少年を買うために、うろうろと歩き出し始めているが、それは、日に日に感じる戦争の気配に恐怖し、またそれにひどく興奮し、腰に燻る炎が体を支配し眠れなかったからだった。
彼らは、門を通り過ぎる。そこで、もし、男たちが、あとほんのすこしばかり佇んでいたなら、男は父と会っていたはずだった。が、カリーナとヴェルテールはもちろん、父の顔を覚えていない男は知る由もなかった。男の父も気づいていなかった。ゆえに検問を待つフードを被った父に気づかず、彼らはすれ違う。まだ、違う。まだ、彼と父が出会うときではないのだ。
男たちは街から離れた涸れた川床で焚き火をたいた。それから彼らは街で買ったスープとライ麦のパンを食べた。スープは酸っぱく、苦味がした。水を飲み、落ち着くと、わずかに焚き火が弱くなっていたので、薪を足した。彼らは黙って街をみた。
「なあ、あの人さ………」
熾となった焚き火を見ながらヴェルテールは言い淀んだ。ヴェルテールは、支持体、テンペラ、油壺、油絵具、筆、パレットナイフといった絵描きの道具を茶色の布の上に置いて、それらを意味もなくひとつひとつ手に取っていた。
「さあな」と、男がいった。「俺たちには関係ないことだ」
「わかってるよ、そりゃ、でもよ………」
「何もできない。したところで、何になる? 俺たちは今から革命家になるのか?」
ヴェルテールはため息をつき、焚き火をつついた。それから「くそ!」と、叫び、荷物をまとめ、
「俺はもう寝るよ、悪りぃな」と、いった。
「ああ、おやすみ」と、男。
「おやすみなさい、いい夢を、ヴェルテールさん」と、カリーナ。
「ああ、おやすみ」
川に侵食された赤土の壁に寄りかかって、ヴェルテールは眠った。静かな寝息が聞こえる。男は大の字となって寝そべり、北極点を中心に廻り続ける星々を眺める。それから広げた腕を頭の後ろに運び、手で頭を支えた。カリーナはその隣にいて、同じく星々をみていた。
「にゃあ」
と、いう鳴き声がした。男は片方の腕が起き上がり、声の方角へむけると、スパーロの猫がいた。茶色の猫。猫はカリーナと男にできた隙間にねじ込むように入り、腹をみせて、再び鳴いた。カリーナは微笑み、その猫の腹を撫でると、ごろごろと喉を鳴らした。
「どこの子なんですか?」
「あいつのだ」
カリーナは一度撫でる手をやめた。それから、
「あのお方ですか」と、いった。
「ああ」
「………そうですか、ではこの子を養ってくれる方はいないのですね」
「そうだな」
カリーナは猫を撫でた。猫は気持ちがいいのかうとうと、眠くなりはじめていた。また微笑むと、カリーナは男をみて、
「それにしても、あなたはよく動物に好かれますね」と、いった。
「そうか?」
「ええ、いまのところ出会った動物全員になつかれてますよ」
「昔から動物と触れ合うことが多かったんだ」
「あなたの父さまは狩人でいらしたのですよね?」
「……まあな」
「きっと素敵な方だったのでしょう? あなたみたいな優しい方を育てるなんて」
「俺は、そんないいやつじゃない」
「そうですかね? わたくしはいい方だと思いますよ」
「それに」
「はい」
「父とは喧嘩別れしたんだ。もう何年も会ってない」
「しかし、それはあなたの父さまがいい方ではない、と言えないのでは?」
「そうかもしれない。だが、俺は父とは会わないようにしている」
「なぜですか?」
男は曲げた膝に腕を乗せ、星空で青白く光る昴を見やった。猫を手の甲で撫でる。そして目を数秒閉じ、開き、答えた。
「次に会えば、きっと殺し合うことになるだろうから」
男は、火が止んだことによる寒さで一度目が覚めた。カリーナがまだ起きていて、猫とぼそぼそ話していた。男は顔を横に倒し、彼女を見ていた。何を話しているのか分からなかった。火種がまだ宿る灰がつもった焚き火痕。その奥の空を見上げて話す彼女たち。つられるように上をみあげると、月が青白く光っていて、雲ひとつなかった。星の群れは、亡くなったものを追憶する際の焚くあの蝋燭のようであった。
朝の冷気で再び彼が起き上がったときには、あの猫はもういなかった。猫がどこへいったのか探したが、足跡は一切なかった。
「誰を探しているんだ」と、ヴェルテール。「カリーナさんは水を浴びにいったぞ。覗くんじゃねえぞ」
男はヴェルテールへ視線をむけ、地平線へとむけた。頭を掻いて、もう一度ヴェルーテールをみた。
「なに一匹の猫だよ」
「猫?」
「ああ、消えてしまった主人を探しにな」
「猫が主人を探すのか?」
「まあ、ありえるだろ?」
「そうかもしれねぇ」
「そうだよ」
朝ごはんを済ませ、彼らは、馬に乗った。最後にもう一度街を眺めた。検問を持つ人々。不揃いの壁。そして生命の根源である坩堝の諸相が宿っているのは、星でも黄金樹でも巨人でもなく、じつは太陽ではあると見せつけるかのように赫然たる曙光に照らされる世界。それから走り出す。東へ。
6.ひとときの休息
東へとすすみつづける毎日。街で買った食料はとうにつき、貯えていた分を細々と食べながら、狩りをした。そのとき狩ったのは、一匹の子鹿。食料を分けてもらうために家を訪ねたこともあったが、顔を見るなり扉を閉める者もいた。誰かの家に泊まることはなく、野宿が多かった。三度ほど泊めてもらった。一度目、二度目は優しい方だった。そして三度目の泊めてもらった家族は、盗人だった。その家族は、食事をする際に、眠り毒を混ぜ、眠っている間に盗もうとした。だが、カリーナはその眠りに落ちなかった。家族は、山刀を構え応戦しようとしたが、カリーナの前では無意味だった。そしてその日は、その誰もいなくなった家で夜明けを待たずに出発した。
遺灰にも似た砂漠につく。はるか昔に誰かがこの土地で死に、白骨死体があり、その死体は獣が運んだのか、ところどころの部位が見当たらなかった。男たちは、その白骨死体を眺めていると、陽炎が立つ先にこの砂漠を旅する同業者がいることに気づいた。その同業者はボロを纏っているかのようで、服は、狩った動物の毛皮を縫い合わせていたのでつぎはぎになっていた。同業者は、酒を飲みながら欠けた前歯をみせて笑みを浮かべ、彼らと話をし、互いが必要なものを交換した。
「世界は腐り切っていないぞ!」
と、彼は、うはははは笑い花に水をやるように酒を撒き散らした。それは砂漠に吸い込まれる。が、黒い斑ら模様のそれはすぐに乾き、進み続ける同業者の姿は丘に隠れて見えなくなり、姿を現していた白骨死体もやがて風に運ばれた砂に埋もれ、また見えなくなった。それから砂漠を抜け、三週間後、糸杉が点在する小山を何度も上がり降り、昼頃に雪が積もった青白い山脈を背にした牧場につく。太陽に照らされて金色に輝く牧草地が広がる土地で、羊たちが鳴いていて、隆起した小さな丘にひとりの男が馬に乗っていた。この牧場の管理人だった。管理人は、犬が羊を追い立てるさまから目を離し、近づいてくる旅人をみた。
管理人はかぶっていた帽子をあげ、彼らを歓迎した。
「こんにちは」
「こんにちは」と、優しく笑ってカリーナがいった。
管理人も笑った。そしていやらしさを感じさない眼差しで頭から足の先、そして馬をさっと検分し、
「泊まっていかないかね」と、いった。
「えっと、ありがたいですが───」
「本当か?!」と、ヴェルテールは口挟んだ。
仕方がないことだった。彼らは疲れきっていた。
管理人は大きく頷いた。そして帽子のつばを一度触った。
「君たちの馬もだいぶ疲弊しているようだ。それに君たちも疲れているだろう。世話をしよう。あと近くに泉がある。そこで洗うといい」
「すいません、冗談なんです。このままわたくしたちはいくつもりです」と、カリーナ。
「いやいや全然大丈夫だ。是非とも泊まってくれ。それよりあなたたちはどこへ旅をしに行っているんだ」
「東だ」と、男。
「東?」
「東にある決して溶けることない氷柱を探している、知らないか」
「ふーむ、溶けることない氷柱………なるほど、私はそのことを知っている。確かにこの土地で伝承として伝わっている」
「本当か」
「うむ、だが、ここで話すのもなんだ。家でどうだ。なにしろ──」
管理人はつばをすうと撫でて、彼らの背後の上に聳え立つ積乱雲をみた。
「雨が降りそうだ」
その日は冬だった。積乱雲は雷雨を降らせたが、やがて雹が落ちてきた。
馬は預け、使用人がその世話をしてくれた。伸びた蹄と毛を切ってもらい、あらためて蹄鉄をつけてもらった。怪我はなかった。使用人は嬉しそうに「この馬たちは丈夫だしお利口さんだ」と、いった。まあ、その後、漆黒の馬に手を噛まれたのだが。
「昔の時代、死んだものは霊炎に焼かれていたそうだ」
暖炉の火が燃え盛っていた。管理人が葡萄酒を注ぎながらそう言った。「信じるか?」と、綺麗になった男に訊き、金属のカップを渡した。葡萄畑は牧場の裏に広がっていた。彼らは、泉の水を温めて身を洗った。管理人の使用人が手伝ってくれた。色めき立つことは起きなかった。
「いや」と、男がいった。
「信じなさい、死というものを直視しないことは危険だ」
「なるほど、あんたはずいぶん死というものにご聡明であるようだ」と、男は唇を歪めせていった。
「ちょっと、泊めてもらっているのですよ」と、カリーナ。
「俺はその話聞いてたことあるから、信じるぜ」と、ヴェルーテル。
「ほう、知っているのかね?」
「おうよ、俺の父ちゃんがよく語ってくれたのさ、寝ない子に死の鳥がくるってな。そんなあんたこそどうやってその話を聞いたんだ」
「ここに住んでた部族からだ。彼らは面白い話をいろいろしてくれる」
「へぇ、そいつはいいことだ」
ドアが開き、そこから瞼をこする眠そうに子供が、「父さん、この人たち誰?」と、いい入ってきた。それを慌てて管理人の妻が「ダメよ」と、止めようとした。カリーナはその妻に「こんにちは、奥さま。可愛いお子さまですね」と、いった。
「お姉さん、誰?」と、子供がいった。
「その人は、私の客だ。隣にいる方々もそうだ。失礼がないように」と、管理人がいた。
「カリーナと呼んでくださいね」と、カリーナ。
「カリーナお姉さん?」
「そうですよ、お姉さんですよ」
それぞれ自己紹介した。男だけ、名前などない、好きに呼んでくれ、といった。子供は、無邪気に「じゃあ騎士さま」と、いった。奇しくもソフィアと同じ呼び名だった。
「さて、話を戻そうか」
と、管理人はいった。彼は駆け寄った子供を持ち上げて、股の間にそっと置いた。そして子供の頬にキスをし、左手で撫でた。親指、人差し指、中指が欠如した手で。
「君たちが知りたいのは、溶けることない氷柱の場所だね?」
「ああ」
「ふむ。なら────」
彼は手元に置いてあった紙を渡した。牛の皮の紙に刻み込まれた地図。男はそれを受け取り、眺めた。
「星のマークをつけた場所があるだろう。宝地図みたいに」
「ああ、あるな」
「そこだ、そこにある」
「本当か」
「ああ、本当さ、嘘じゃない」
男は俯いて地図を撫でた。葡萄酒を飲んだ。渋みがあるが、それでもうまかった。そして背もたれに体重を預けた。
「あんたのその手、どうしたんだ」
「この手かい? 戦いで斬られた。剣の斬り合いでは、指の怪我が一番多いのは知っているだろう」
「あんたは剣士だったんだな」
「ああ、剣士だった」
「そしてあんたはいまこの牧場を経営している」
「その通りだ」
「わからないな」
「何がわからないんだ」
「ここで、腐っていることだよ。あんたは、見たらわかる。昔、あんたは、いい剣士だっただろう。見たらわかる。あんたは、旅がどんなに苦しいことも知っているし、どんなふうに終わるのかも知っている、そうだろう?」
「いや、それは違う。いつ旅が終わるのかなんてわからないさ」
「なら、それは誰が決める」
「誰も」
子供は飽きたのか椅子に飛び降り、カリーナのもとにいった。そしてカリーナと話をした。
男は横目でカリーナと子供を一瞥し、管理人に視線を戻した。
「あんたはどうしてここの地に根を下ろした」
「………きみは勘違いしているようだ」
「何を」
「誰だって、彷徨い続けることを望んでいるということさ」
「思ってないさ」
「いや、思っているだろう。君は、おそらく黒羊だ、はぐれものだ。君は旅を出た理由はそうじゃないか? 君の故郷は、君にとって安然の場所じゃなかった。だから旅を出たんだろう」
「そいつは」
「ああ」
「見たらわかる、という話なのか」
「ああ、というか大体なものは見たらわかるんじゃないかな」
「そいつは違う。見るだけではわからないものだってある」
「ほう、そのときはどうするんだい」
「考える。それしかないだろう」
「信仰するのではなくて?」
「いや、考える。それが俺たちに与えられた力のひとつだろう?」
管理人は微笑んだ。そして頭をひと撫でした。
「そろそろ、ご飯にしよう。遅い時間だ」
夜になると、雹は止んだ。男はヴェルテールが家にいないことに気づき、探しに外を出た。ヴェルテールは家のすぐ近くにいて、星空を写していた。そしてヴェルテールは、神がつくった本物の太陽が浮かび上がり、明日という世界がくるのを待ち望んでいるかのように、筆を止める。
星々と月が光を発しても、なお宇宙という暗黒を照らし切るには足りず、夜の暗さが支配していた。その空には幾度にも重なった雲塊がある。そこへ暗黒物質に満ちた宇宙を漂流する一本のほうき星が、緑の尾を引き連れて流れていた。それは神々がこのように星となって訪れたことの証のよう。それにしても、太陽がいつも世界の縁から顔を出してくることを保証はできるのだろうか? いつの日か、太陽が気まぐれに世界から現れなくなるという可能性を否定できるのだろうか? 実際、のちにその日がきた。
ヴェルテールはこの目の前に屹立している超自然的な光景をじっと観察していた。男は、その隣に座った。馬たちの鳴き声がし、それに呼応するかのように狼たちの鳴き声がした。
「ここにいたのか」
「綺麗だと思わないか」
「そうだな、綺麗だ」
「俺はこんな光景を見るために、狭間の地を出たんだ」
「知っている」
「あそこは神さまがいるのにクソみたいな世界だ。みんな戦士になりたいって言ったけどさ。俺は戦士なんてなりたくねぇよ。死にたくねぇんだよ。だから、俺は外へ出たんだ。きっと外に楽園があるはずだと思って」
「それも知っている」
「だが、どうだろう。あんたと一緒に旅をしてみたけど、とても楽園と思えないよ」
「そうだな、楽園とは言えないだろうな」
「楽園はどこにあると思う?」
「頭の中だろうな。頭の中で作り上げるしかない」
「それさえ作り上げることができないのに?」
「…………」
「なあ、あんた。だったら、だったらさ。俺は、俺が望む楽園を手に入れることはできないのかな?」
男はヴェルテールをみた。ヴェルテールの枯れ枝みたいな長い腕は震えていた。表情は見えないが、その壺に刻み込まれた模様は何かを語っているように思われた。ヴェルテールは油絵の具を筆につけ、支持体に重ねて塗った。
「………すまねぇ、こんなことを言うつもりはなかったんだ。あの人が言ったさ、黒羊がやけに頭の中に残っているんだ。やっぱり、俺はあの村の黒羊なのかな………いや、すまねぇ、またこんなことを言っちまった。ひとりに、ひとりにしてくれないか。いまは誰かと話す気分じゃないんだ」
男は見上げ、空をみた。ほうき星を眺め、「そうか」と、いった。
当てがわられた部屋に戻った男は木製の椅子に座り、両足を交差してテーブルの上に乗せていた。眠る気にはならなかった。鎧は外し、ベッドの傍らに置いていた。男は窓の先の星空を見ていた。部屋を暗くして。ノック音。「開いている」と、男はいった。
カリーナが中に入ってきた。男は目を細めて、戸口の端に寄りかかる彼女を見つめた。カリーナは暗くなった部屋に慣れるためにしばらくそこで立っていた。ぱちぱちと瞬きをする。それから手元に持っている蝋燭を神と人が触れる瞬間のように掲げて、進んだ。
「感傷的気分に浸りたい気分なんですか?」
「ひどいこと言うな」
「そうですかね。誰だって浸ってないとやっていけないときがありますよ」
「そうか?」
カリーナは、「そうですよ」と、いってベッドに座った。蝋燭を棚の上に置いた。
「なんのようだ」
「ありませんよ、何も。むしろ必要ですか。誰かと会うために用なんて」
「少なくとも俺は必要だな」
「なるほど。では、こういうことはどうですか? 愚痴を聞くためにきた、と。理由としてこと足りると思います」
男は組んでいた両足を下ろした。そして黙った。
「………本当に面倒な方ですね」
「面倒で結構だ」
「では、聞きたいことがあります。答えてくれますか」
「わかった」
「あなたの旅の目的ですよ」
「言ったはずだが」
「でも、それは副次的にできた目的、そうでしょう?」
「………どうだが」
「言ってください、あなたがどうして父と再会したら、殺しあうと確信しているのか、あなたがなぜ竜を求めているのか」
「………そうだな、簡単な話だ。あの人が言った通りだ。俺は俺の故郷がいやだった。黒羊なのさ俺は。あるいは
「では、あなたは故郷を懐かしそうに話していたのはなんなんですか?」
「美しいと思ったから」
「それでも合っていないと」
「ああ、そうだ、残念なことだが。まあ、自覚するにはすこしばかり遅かったが。いや、自覚しないほうが良かったかもしれない」
「なら、あなたの旅の終わりは、いつなんですか?」
「それが、カリゴとあったときだ。俺が幼い頃に抱いた夢さ」
「その竜と会うことが?」
「ああ、バカみたいだが、その竜に恋をしているのさ俺は」
「それは…………」
「おかしいと思うか?」
「いえ、ただ、それは………」
「わかっている。わかっているからそれ以上言わないでくれ、これでいいんだ。これで」
男は立ち上がって、テーブルの木目をなぞった。それから男は鎧を手に取り、身につけはじめた。どこへいくのですか、とカリーナは訊いた。男は、眠れないから体を疲れさせていくよ、といい、戸口へ歩き出した。
「最後まで一緒にいますよ」
カリーナがそういった。男は立ち止まった。
「最後まで」
男は見返る。限りなく透明に近い青白い
カリーナは遠ざかる足音が聞こえなくまで耳を傾け、溶けていく蝋燭の火にふっと息を吹きかけ、消した。そして闇が、男がいた部屋を満たした。
────隕石が、降ってきた。
7.宇宙は空にある
その飛来物は、宇宙の彼方の暗黒から何かいわば大いなる意志に導かれるようにして、この地へひたすら向かっていたのであった。その飛来物は、ひとつの生命体で、黒いもやというべき正体不明の物質に覆われていた。
そして炎を身にまとい、その飛来物は、脱獄した羊がめえめえと鳴く草原に落下した。
男が外を出ると、管理人が呆然と隕石が落ちてきたところから上がっていく黒煙を眺めていた。管理人は振りむいて、鎧を身にまとった男をみた。犬の鳴き声が忙しなく聞こえる。つづいて外を出てきたカリーナに視線を移してから、
「いくのかい」と、いった。
「ああ」
「私は長年と生きていたが、こんな出来事ははじめてだよ」
「俺もだ」
「幸運を祈る。どうか何もないように、とね」
だが、そうはならなかった。男とカリーナがその場所へ着くと、羊の遺骸はなく、スコップで抉り取ったかのように大きなクレータができ、火がついていた。周囲には、火の粉が蛍のように漂っていた。そしてその中央に紫の稲光が走る黒いもやに覆われた何かがあった。
ヴェルテールは、のちほど合流すると言っていた。戦闘する才はないというのに。
男とカリーナは見合わせ、足を進めた。
黒いもやが、晴れる。そこから現れたのは、怪物だった。それは、全身を岩石で覆われた牛のようだが、尻尾は非常に長く、頭部にはクワガタムシに似た大顎が生えていた。そして頭の中央には紫の瞳が宝石のように埋まっていて、尻尾の先はメイスの形状をした鋭いトゲが生えていた。
男はその姿に驚き、カリーナは驚くことはなかった。そしてその反応を確かめることもなく、その怪物が、───名前をつけるならば、降る星の獣───突進してきた。アギトを大きく開き、突っ込んでいく。男とカリーナは横にステップし、それと同時にくるっと体をむき、降る星の獣の突進を回避する。と、すぐさまその獣は、翻し、再び突進をし、カリーナへ迫る。ケイシャが多く含められた地は、ガラス化していたが、その獣が走るたびに、その地面にヒビが入った。
カリーナは、上へ飛び上がり、短剣を突き立てるように獣に振った。だが、傷は入らず、金切り音とともに火花が散った。獣とカリーナはすれ違う。獣は止まり、一度蹄をどんどんと打ち鳴らし、ゆっくりと方向転換をした。そしてアギトを、地面に突っ込み、埋めた。
カリーナは後ろへ走り出し、その隙を狙うように男は背後の足を狙う。そして振り上げた。土埃と石がカリーナへと投げ出され、男の大剣の刃が石に覆われた足に切り裂く。が、浅い。
「チッ」
と、舌打ちをすると、獣の目玉がギョロリと男へむく。そしてメイスの尻尾が鞭のように振るわれる。空気を切る音。男はスウェーでよけ、後ろへ飛び下がる。
男はクレーターの縁まで下がり、草を踏み締める。クレータ内で戦うことは不利だと考えたのだ。カリーナも同じことを考えいたのかクレータ外へ出ていた。
「硬いな」
「ええ、本当に」
「相性最悪といったところか?」
火の粉が散るクレータから獣が顔を出した。そのアギトは、はやく目の前にいる獲物を食い破らんとカチカチと噛み合わるたび、青い燐光が迸っていた。男とカリーナの足元に静電気が発生した。男とカリーナは横にステップする。
岩の結晶が男とカリーナがいた処を裂き、噴き出す。そして連続して、獣はその不可思議な技を三度行った。最後の岩盤隆起は巨大だったが、いずれも男とカリーナは避けた。
彼らは闘牛士のように、獣の突進や石礫を避けていた。この戦いを見る観客がいたならば、男が、カリーナが、華麗に避けるたびに熱狂の声が沸いていただろう。だが、そんなものはいなかった。世界が彼らを包み、無関心にみているだけだ。
すれ違うたびに、その獣に氷の魔術や刃によって傷をつく。そして猫のように丸まってローリングの突進でやっと獣は立ち止まり、男とカリーナをみつめた。白の羽毛に包まれた頭は血で真っ赤に染まっていた。彼らは待つ。が、来ない。あくまでこちら側から仕掛けるのを待っているようだ。
獣は牛のような見た目をしているというのに、その歩きは、まるで王族を連れる馬のようにゆったりと回っている。
「おまえはそんな高貴な動物じゃない。ただの怪物だ」
と、男は、口を歪めせて吐き捨てた。
「どうします」
「どうするって何がだ」
「仕掛けるという意味です」
「それしかないだろう。相手は、意地でも動くつもりはないようだ」
「ではどちらが」
「俺がいく。あんたはその氷の魔術で助けてくれ」
男は外套を*1ムレータで誘うように振った。が、来ない。男は一歩ずつその獣に近づいていく。男の動向を窺うように紫の目玉が男を捉えていたが、その考えは間違いでこの怪物は、目の前にいる男を殺す距離をくるまで待っていたのに過ぎなかった。
男は、走り出す。と、同時にそれを待っていたかのようにまた大顎に雷光が迸り、咆哮を上げながら上体を持ち上げた。すると、怪物の周辺の岩盤が隆起し、棘となって男へ襲いかかった。その棘は男の体を迫っていくが、男は高く跳躍し、身をひねって棘をかわす。それから棘の側面に着地し、反発を利用してさらに跳び、上体を持ち上げたままの獣の目玉めがけ刃を突き刺そうとする。そして男は、
「くそったれ!」
と、目玉のすぐ横に刃の全長すベてが埋まり、思わずそう叫んだ。直前に顔が動いたのだ。獣は悲鳴をあげた。左右にぶんっと振り、男を吹っ飛ばした。男は、一度地面を打つと、草が彼の体に纏って、もう一度跳ねたときに体勢を直して、たたらを踏むことで勢いを消した。すぐに追撃の突進。
横に避けた男は、獣に視線を捉える。そして、恐怖が体に走った。大岩ほどの大きさの球状の雷の玉。それが降る星の獣のあのクワガタムシのような顎に、形成されていた。
男は悪態をつく暇もないので、全力で横に走り出す。そして獣が放出する。その玉は光の線となって、男へ襲い掛かる。光の線は通ると、その草原のところは焼き尽くされ、刹那にして燃えかすとなっていた。その線は、段々と男に迫っていて、やがてその男の足を捉える、その前にカリーナの魔術が打ち出された。
氷のつぶてが、獣にぶつかる。岩に、張り付くように霜が走り、急激な温度変化によって亀裂が入る。獣はのけぞる。誰かに首を下げされているかのように。
「助かった」
「それより、武器はどうしますか」
「あれ以外ないな」
「仮に取れたとしても柄が溶けていますしね。どうします」
「どうすることもないな」
「ですね」
「逃げるか?」
「逃げられると思いで?」
「それもそうか」
その言葉を言い切ると、周囲に土が、浮いた。重力がなくなったかのように。そして獣へ目を向けると、獣は、天を泳ぐ星々に潜む超越的存在を信じ、それに祈りを捧げるかのように、空へ見上げていた。それから、地面に雷が走る。そして重力が、反転する。
はじめは、小さなものが浮くぐらいだったが、徐々に大きなものまでも浮かび上がっていく。男たちは、危機を感じ取り、その場を離れようとするが、あと一歩のところで反重力に駆られた。天に召されるのように体は浮遊する。男は、地面をみた。草が抉れ、黒い土が露出した地面。岩といった鋭く硬いものはない。だが、それでもこの高さだった。冷や汗が、たらりと流れてきた。
「ちくしょう」
と、言った。そして重力へと切り替わり、地面へ叩き落とされた。衝撃が走り、視界が真っ白に染まり、同時に世界が揺れた。男は、血とともに吐瀉物を吐き、顔にバイザーにかかった。ひどい匂いが、兜に充満したが、それを知覚するに数秒ほど時間がかかった。気づいた男は、震える体でなんとか起き上がった。顔をあげる。震える世界。その世界に佇む異質の獣。獣は、蹄を何度も踏み締め、抑えきれないと突進しようとしている。突進した。だが、それは男にではなく、他の獲物に。
「内臓がいくつか破裂したか?」
と、誰かの声が聞こえた。
「いや、破裂はしてないだろう。だが、血は中で爆ぜただろう。動けないほどの傷か? いや、そうでもない。まだ動ける。ではカリーナは? 彼女は無事か。わからない。ああ、それにしても死ぬほど痛い。いや、死にかけなんだから、当たり前か? ええ、どうだい、なかなかいいジョークだと思わないか。いやいや、そもそもこんなことをなんでことをしているんだ。もっと平穏な生き方を、幸せな生き方があったんじゃないか。若さの無謀さに燃えたおまえは、どうだ。いまはこんなにも苦しんでいる。もっと普通に生きたんじゃないか? 無理だ、できるはずがない」
絶えず自問自答を繰り返している声に、男は苛立ち、「黙れ!」と、叫ぶと、その声は、この自問自答を繰り返す声と一致していることを知った。自分の声だった。男は、悪臭が漂う兜を脱ぎ捨てた。身代わりとなった兜は大きく凹んでいた。そして口のどこを噛んだのか溜まった血を吐き出した。
男は先ほど提示した疑問の答えを探すために、見回す。揺らぐ視界の中で彼女は、右の平原に一本の枯れ木が生えているところにいることを発見する。どんな技を利用したのかわからないが、彼女は、傷付いた様子はなく、突進を繰り返す獣を避けていた。そして避けるたびに、氷の魔術を繰り出し、相手に傷を与えている。
男は、一歩踏み出した。だが、それが限界だった。崩れ落ちた。また吐いた。なにもなく、胃液と涎が垂れるぐらいだった。
叫び声がした。悲鳴というより、警告に近い声。
男は、顔を上げる。そしてそこにあったのは、巨大な岩の礫。それは考える暇もなく男の顔に迫り、────衝突音。
「痛え」
と、いう声がした。今度は自身の声ではない。
「くそ、みんなこんな痛いことを我慢して、戦っているのか。くそだ、やっぱり戦士なんてくそだ」
と、その声はヴェルテールだった。ヴェルテールは、大きな盾を構えていた。そして背には、彼には合わぬほど大きな大剣をくくりつけてあった。男は、何かを言おうとしたが、喉の痛みでろくに喋ることはできなかった。
獣は、氷の魔術で気を引かれ、またカリーナへ攻撃を繰り返した。
ヴェルテールは、震える両手で縦を下ろすと、くくりつけた大剣を外し、床に落とした。男は、その大剣を見、ヴェルテールをみた。
「俺が、時間を稼ぐぜ。あんたが回復するまで時間がかかるだろう。大丈夫、そう大丈夫なんだ。俺は偉大な戦士が生まれた村の出身なんだ。いける。そうさ、あんたは、指を咥えて、見ておきな」
そしてヴェルテールは、「うおおおおおおおお!」と、叫び、獣のもとへ走り出した。
ヴェルテールは、背を向けている獣に腕を大きく振りかぶって、殴った。痛みで拳に走ったが、それを気にする暇はない。獣は、すぐさま尻尾で、邪魔者を排除しようとする。振りかざされる尻尾を盾で防ぐ。衝撃が走る。腕にヒビが入った。うめき声。
カリーナが氷の魔術を打ち、獣の気をヴェルテールが気を引く。防ぐたびに、体の腕に、壺にヒビが入り、中の死肉の体液が垂れていた。壊れるんじゃないか、という恐怖はあった。それをのみこみ、震える体で獣と戦った。
突撃を防ごうとして、吹き飛ばされた。そのときにからだのヒビが入った。
大顎の振り回しを避けたと思ったが、飛ばされる石のつぶてに当たる。
何度も失敗を繰り返していた。男のように、うまくはいかない。なるほど英雄の資格には己にはないのだとわかった。だが、辞める理由にはならなかった。
「さあ! 来いよ!」
と、煽る。獣は、もはやカリーナのことを気にしてなかった。獣は、目の前にいる小さき邪魔者の始末をすることに決めた。突撃に決めた。この邪魔者は、この攻撃を避けようとしているが、いつも失敗している。これで殺すことができる。
ヴェルテールに突っ込む。ヴェルテールは避けない。盾で迎えうつ。ぶつかる直前に、前を一歩踏み出した。そして受け止めた。
一度目は失敗した。二度目、今度はアギトを開き、ヴェルテールを捉えようとしている。
二度目の突撃。止めた。獣は倒れる。ヴェルテールは拳を振り上げ、固まって歪の形の楔となった刃へ叩き落とした。悲鳴を上げた。そしてもう一度、今度は目玉を攻撃しようとする。だが、その前にアギトがヴェルテールを捉えた。
「くそおおお」
と、いい目玉を叩いたが、獣は怯まない。ここで、この壺人を殺すという硬い意志。
そして地面を叩き落とそうとし、空を飛ぶひとつの影が見えた。────それが降る星の獣の最後の光景だった。
回復した男が、ヴェルテールから譲り受けた大剣でその獣の目玉を突き刺し、カリーナが下から氷の柱で突き刺した。獣の目玉の光はなくなり、ばたりと仆れ伏せた。フクロウの鳴く音が聞こえた。男は大剣を構えたまま、獣が動き出すことがないことを確認して、膝をついた。カリーナはじっとその獣の死体を眺めていた。カリーナは、しゃがみ、体表に張り付くひび割れた岩を触り、力を込めてそれを剥がした。そしてそれをポケットにしまった。
「売るつもりなのか」と、ヴェルテールはいった。
「いえ、あとで記録していこうと思いまして」と、カリーナ。
「記録?」
「ええ、記録するんですよ、紙に」
「……なるほど、俺が絵が描いている理由に似ているな」
「そうですね、それもひとつの記録といえるかもしれません」
「助かったよ」
「それはこっちの言葉です。あなたがいなかったら、ジリ貧でした」
「でも、最後の魔術を使ったら」
「あれは時間がかかります。そんな隙はありません」
「ふうん」
「帰りましょう」
「ああ」
「あなたも」
「わかっている」と、男がいった。
黄昏の深い闇につつまれた道を歩き、誰にも会うことなく牧場についた。牧場の柵の中に羊が戯れされていて、その柵に寄りかかる獰猛さを体にひそめたひとりの男がいた。彼は、噛みタバコを嗜んでいた。時たまニコチンがたまった唾を吐き出していた。その男は、上半身裸で、ズボンは狼の獣を毛布と皮を加工したものだった。蛮族のような彼は、ぼうと同伴と思われる女と牧場長と話しているのを眺めていた。
そして一行が牧場につくと、彼らに目をむけてきた。数秒間見つめると、目を離した。口笛を吹いた。女がぱっと同伴の男をみて、人差し指で指した方角へ視線をやった。そして一行を認めた。それから男、肩を貸しているカリーナ、ヴェルテールを順番に見つめると、牧場長に短く「あの蓮長を……」と、いうと、牧場長は頭をかいてから頷いた。女は、一行に近づいた。
女は、どこからきたのか、と訊いた。カリーナがそれに応えた。女は、その答えに頷くと、今度はこの周辺に降った隕石について知らないか、と訊いた。これには嘘を混ぜて、応えた。女はじっとカリーナをみつめ、頷いた。そして振り返り、牧場長のもとに戻り、同伴の男に一言を口にすると、彼は獰猛さを抑えきれないように口を歪めた。
「なんなんだ一体」と、ヴェルテール。
「さあ、見た感じこの国の使者っぽいが」
「そうかな、にしても、荒々しい気がするな」
「知るか、とにかく、休もう」
「……うん、そうだな、疲れた。寝よう」
そして一行は連行されることになった。一週間後のことだった。
「貴様たちを、連行する」と、目覚めると、あの女が毅然とそういった。