錦木千束の朝は早い。……これを言うのは二回目かもしれないが、そこは聞き流してほしい。だが、今回は早すぎた。まだ外は真っ暗。鳥も寝ている時間に、千束だけが目を覚ましていた。
「うーん、寝れない……ま、いっか。映画でも観よ〜っと」
そう言って、寝癖のままリモコンをぽちり。テレビが光り、画面には爆発シーンと筋肉が映る。もちろん、朝っぱらから観る映画としてはだいぶ濃い。
「コーヒー、コーヒーっと」
手際よくカップに注ぎ、一口。苦味が身体に染みる。目が覚める……はずだった。
しかし、人間というものは恐ろしい生き物だ。カフェイン?そんなもの、睡魔の前ではただの飾りである。
10分後。
「……Zzz……むにゃ……スネーク……そのタキシード....」
千束はしっかり寝ていた。テレビでは主人公が敵基地を潜入しているというのに、ソファの上では英雄(仮)が堂々と夢の中でステルス中。
コーヒーはすっかり冷め、マグカップの表面にはミルクの輪っか。
千束は夢を見ていた。これが初めてではない。いつものように、夢の中でひとりの少女を見つめていた。自分よりもずっと幼いその少女は、小さな手で似つかわしく無い銃を構え、ためらいもなく引き金を引く。
乾いた銃声。
そして、立ち尽くす千束。
彼女に話しかけようと一歩を踏み出すたびに、少女の姿は霞のように遠ざかる。まるで、何かがそれを拒んでいるかのように。ようやく視界の端にその背を捉え、声を出そうとした瞬間——
「あ……」
——夢が終わった。
千束は目を覚ました。いつもの天井といつものソファ。いつもの寝癖。
「……また、この夢見ちゃったな……」
そう呟いたその直後、彼女の目が見開かれる。
「はっ!映画は!?」
慌ててテレビに目を向けると、画面の中ではすでにエンドロールが流れていた。かすかに響くテーマソングが、妙に虚しく感じられる。だが、悲劇は終わらない。
「今、何時……?」
壁の時計に目をやった瞬間、千束の脳がフリーズする。時刻、7時25分。
「……って、やばっ!? 遅刻するー!!!」
コーヒーを片手に寝落ちしたツケが、今まさに彼女を襲う。歯磨きしながら片足で靴下を探し、もう片方の足でドアを開けようとする姿は、もはや人間技ではない。
「うわぁぁ、髪が爆発してるし!寝癖直らんし!時間ないしー!!!」
リビングをドタバタと駆け回る千束。テーブルの上では冷めきったコーヒーが、まるで「知ってた」と言いたげに沈黙していた。今日もリコリスの朝は平和である。……少なくとも、千束以外にとっては。
千束はリコリコの扉を勢いよく開け放った。
「お待たせー! 千束が来ましたー!!」
カランカランとベルの音が鳴り響く中、息を切らして立つ彼女の姿は、まるで戦場帰りの兵士のようだった——いや、寝坊しただけなのだが。
カウンターでは、ちょうど吉松がコーヒーを受け取るところだった。
「あー!ヨシさんいらっしゃーい!一か月ぶりじゃないですかー?」
「覚えていてくれたんだね」
「まぁ、お客さん少ないお店だから……なーんて嘘嘘!たきなの最初のお客さんだもん。忘れませんよー!」
にこにこと言い放つ千束。だがその裏では、寝坊の罪悪感をコーヒーの香りで誤魔化していた。
「今度はどの国に行ってたの? アメリカ? ヨーロッパ?あ! 中国でしょ!」
「残念、ロシアだよ」
「ロシア! いいねぇ〜! ボルシチ食べた? ウォッカ飲んだ?」
「……千束、朝からテンションが高いな」
ミカが奥から呆れたように声をかけるが、千束は聞こえないふりをしていた。
そう、彼女は「知らぬ・存ぜぬ・我関せず」の三段構えである。その後、吉松が店を出て行くと、ようやくたきなが姿を現した。
「すみません、遅くなりました」
「大丈夫だ。千束も今準備してるところだ」
今回の任務は護衛。対象は“ウォールナット”というハッカーで、ネット黎明期から暗躍している凄腕らしい。
「で? どのくらい急ぎ?」
「現在、武装集団に追われている」
「それは大変。たきなー、仕事の話もう聞いてる?」
「はい、一通り....そういえばミズキさんは?」
「確かに、私も気になるー」
千束が頷くと、ミカが淡々と答える。
「すでに逃走ルートの確保に動いている」
「珍しく張り切ってるじゃん」
「報酬は相場の三倍で一括払いだ」
「……納得」
千束の表情が一瞬で引き締まる。まるでプロフェッショナルの顔だ。だが次の瞬間には、ポケットからお菓子を取り出してもぐもぐしながら、
「いやぁ、人生金だねぇ〜」
と呟いていた。この調子で大丈夫なのだろうか。たきなは無言で深呼吸した。
千束はミカから受け取った黒いガンケースを開けた。中には、彼女のデトニクス・コンバットマスターのカスタムモデルが静かに収まっている。コンペンセイター兼ストライクフェイスを装着したそれは、まるで「近距離戦こそ至高」と言わんばかりの武骨な姿だった。
「さてと〜、今日も頑張ってもらうよ」
千束は軽やかに言いながら、マガジンに.45口径の非殺傷弾をカチカチと込めていく。見た目は完全に“熟練のガンスミス”……だが、その実態は“雰囲気で整備する系女子”である。
彼女にとってこの銃は特別な一本。ある人からもらった、大切な宝物……なのだが、以前DAのメンテナンス部門に点検を依頼したときには、「扱いが雑」と診断されたことがある。
千束はその結果を一切認めていない。
『いや、ちゃんと愛情持って扱ってるし?』とは本人の談
そんな強い信念のもと、今日も彼女は“愛情メンテナンス”を開始した。マガジンを装填し、スライドを引く。
「ん?」
千束が眉をひそめた。何やら動きが渋い。マガジンを外して何度かスライドを引くが、やはり引っかかりがある。
「たきな、そこのガンオイル取ってくれる?」
「はい」
「ありがと」
短く礼を言い、千束はスライドを外しレール部分にオイルを数滴垂らす。その仕草は珍しく真面目で、たきなが思わず息を呑むほど丁寧だった。オイルを馴染ませ、カチャカチャと手際よく組み立て直す。
「うん、まぁ今日はこれぐらいでいいか」
そう言って銃を軽く構え、スライドを引くと、今度はスムーズに動いた。満足そうに笑う千束。その様子を見ていたたきなが、目を少し見開いていた。
「意外ですね」
「何がだ?」
とミカが尋ねる。
「千束さん、あんな丁寧に銃のメンテナンスをするなんて……ちょっと意外でした」
「まぁ、普段はお菓子の袋のほうが丁寧に開けるからな」
ミカのぼそりとしたツッコミが入る。
「なにそれ〜! ちゃんとやってるもん!」
頬を膨らませて抗議する千束の後ろで、たきなが無言で納得していた。確かに、彼女の整備よりもポテチの封の開け方のほうが慎重だった気がする。
「敵は五人から十人程度、プロよりのアマだ。ライフルも確認した。気を付けろ」
ミカの低い声が作戦会議室に響く。千束は椅子の背もたれに軽くもたれながら、元気よく頷いた。
「りょーかいっ!ね、たきな、行こっ!」
「はい。それでは」
二人の息はぴったり――のように見えるが、実際には温度差が激しい。任務の緊張感などどこ吹く風、千束のテンションは完全に“旅行モード”だった。最初の目的地までは電車、そのあと新幹線に乗り換える。しかし、新幹線が動き出してわずか数分――。
「ん〜〜駅弁うまっ!」
千束はすでに駅弁のフタを開け、幸せそうな顔でご飯を頬張っていた。
一方その向かいでは、たきなが真面目に任務の確認をしている。
「逃走手順は以上です。羽田でゲートをくぐってからミズキさんに交代.....って、聞いてますか?」
「きふてる、きふてる〜」
口いっぱいにご飯を詰め込みながら答える千束。たきなはため息をつき、リュックの中から掌サイズのパウチを取り出した。それを見た千束が、目を丸くした。
「たきな、それ何?」
「ゼリー飲料です」
「いやいやいや、たきなさん……今の状況、分かってるのかな?」
「依頼人に会うために特急に乗ってます」
「そうそう、その前に、お昼食べとかないと!」
「今、食べてます」
「え〜?それが?それ“飲み物”じゃん! 特急だよ? 駅弁食べようよ!」
「結構です」
「そんなこと言わずにさ、煮卵、美味しいよ〜!」
千束が箸で煮卵をつまみ、にこにことたきなの口の前に差し出す。その距離、至近距離。完全に“あーん”の体勢である。
「……いや、あの、私は――」
「はい、あ〜ん♪」
押し切られた。新幹線の車内で抵抗したら余計に目立つ。仕方なく、たきなは煮卵を口に入れた。
「美味しい?」
「……美味しいです」
それを聞いた瞬間、千束の顔がパッと明るくなる。
「でしょ〜? ほら〜、こういうのはね、心も満たされるの!」
完全にお母さんのテンションである。
だがその数分後――。
「降りますよ」
「えぇ〜!?まだ食べ終わってない〜!」
千束は口いっぱいにご飯を詰め込みながら叫ぶ。駅弁のフタはまだ半分以上開いたまま。
「10分足らずで乗り換えなので、私は軽食を選んだんです」
「たきなは冷静だなぁ〜!駅弁はね、戦場なんだよ! 味と時間の戦いなんだよ!」
「早くしてください」
数分後、駅のホームを、駅弁を片手に持った女子高生が全力疾走していく姿が目撃された。後日SNSで《駅弁を持ったJK、改札突破》としてトレンド入りするのだが、それは別の話である。
無事に乗り換えを終えた千束とたきなは合流地点へ向かう。
「店長が駐車場に車を用意してくれてるようです」
「えっマジ!?はいはいは〜い!千束が運転しま〜す!」
「私がします」
「えぇ〜なんで〜!?たきな運転できんのかよ〜」
「出来なきゃリコリスになれないでしょう。それに……」
たきなは横目で千束を見た。
「千束さんが運転したら、嫌な予感しかしないので」
「ひどい〜!」
「運転技術を信用してないんです」
「ぐっ……」
撃沈する千束。さらに、
「……どうせドリフトとか、法定速度無視して、爆走するつもりでしょう」
「うっ、先読みされた!?」
早くも千束の行動パターンを完全に把握しているたきな。この成長を喜ぶべきか、悲しむべきか――ミカならきっと頭を抱えるだろう。
先を行っていた、たきながふいに足を止めた。
「あの駐車場ですね」
指差す先には、都内にしては珍しく余裕のある広さを持った駐車場が広がっている――その中で、明らかに“浮いている”一台があった。
「あれって……」
千束が言葉を継ぐ前に、結論は出ていた。
「スーパーカーじゃ~ん! すっげー!!」
気づけば千束は、目を輝かせ、フェンスに両手をかけて身を乗り出していた。警戒も任務も一瞬でどこかへ消え去っている。
「……目立ちますね」
たきなの淡々とした感想は、あまりにも正論だった。
「あれ、でもさ。スーパーカーで逃走って、めちゃくちゃ目立たない?」
「……やっぱり、説明を聞いてませんでしたね……」
「……てへっ」
何度目か分からない軽い舌出しに、たきなは深く、深くため息をついた。もはや数える気力すらない。
その直後だった。唐突に、道路を“横断”してきた白い自動車が、勢い任せにこちらへ突っ込んできた。スーパーカーとは対極にある、生活感あふれる一台である。
「え、そっち!?」
千束が目を丸くした瞬間、軽自動車の助手席側の窓がガラリと下がった。
「ウォール!」
運転席から投げかけられた声は、変声機を通したような機械混じりの音声だった。加えて、運転手はどういうわけか動物の着ぐるみを着込んでいる。状況が情報過多である。
「ナット」
たきなは即座に応じた。
「早く乗れ! 追手が来るぞ!!」
「え、今の合言葉?」
緊迫した台詞と、見た目のゆるさがまったく噛み合っていない。
「スーパーカーじゃないんだ……」
「今はそれを気にする場面じゃありません!」
「あっ、ちょ痛い!」
半ば引きずるようにして、たきなは千束を軽自動車へ押し込んだ。ドアが閉まる。エンジンが唸る。そして、生活感あふれる自動車は、場違いなほど全力で走り出したのだった。