「はぁ……」
電車の座席で、やけに大きなため息をついたのは――自称・喫茶リコリコ看板娘、錦木千束である。
理由は単純明快だった。リコリス定期健康診断&体力測定。締め切りは本日。本来であれば、今日はリコリコでボードゲーム大会の予定だった。勝者はミズキが奢ってくれる(本人は否定)、敗者には謎の罰ゲーム付きという、非常にどうでもよくて非常に楽しい企画である。それが見事に消し飛んだ。
「人生って理不尽だよねぇ……」
別に、サボろうと思えばサボれなくもない。だが今回はそうもいかない。健康診断やらはライセンス更新に直結している。つまり、これを落とすと――
『……仕事できなくなるぞ』
ミカにそう言われ、秒で論破された結果がこれである。仕方なく、千束は電車に揺られていた。本部のある、山奥も山奥、自然が本気を出してくるエリアに行く。そして、もう一つ。
イレギュラーが向かいの席に、姿勢よく座っている人物がいた。
「楠木さんに、なんて言うの?」
頬杖をつき、窓から広がるのどかな田舎町をぼんやり眺めながら、千束が声をかける。
「今、考えています」
井ノ上たきなである。
千束が本部に行くと聞いた瞬間、ほぼ反射で同行を申し出た張本人だ。リコリコに来てからというもの、彼女は常に「早く本部に戻りたい」という一点に全リソースを注いでいる。今回の出来事は、彼女にとって僥倖以外の何物でもない。
たきなはメモ帳を広げ、ペンを走らせている。
・楠木司令への報告文
・不要な感情表現の排除
……見ているだけで胃が痛くなりそうな内容だ。
「ねぇねぇ、たきな」
千束は思いついたようにポケットから飴玉を取り出す。
「飴いる?」
「結構です」
「えぇ〜……」
仕方なく、自分で舐めようとした、その瞬間。
「健康診断前に糖分を摂取すると、血糖値、中性脂肪、肝機能などの数値に影響が出ます」
淡々と、しかし確実に刺さる指摘が刺さる。
「……はぁい」
しゅん、と飴をしまう千束、完全に監視されている。暇になった千束は、無意識に左腕をさすった。
「……?」
それを見逃さないのが、たきなである。
「どうしました?」
「ううん、なんでもない」
言葉とは裏腹に、どこか歯切れが悪い。やがて電車は、人の気配がほぼ消失した寂れた駅に到着する。改札を抜けると、一台の黒いワゴン車が停まっていた。雨の中、後部ドアの横に立つ一人の女性。
「お待ちしておりました。錦木さま、井ノ上さま」
顔はよく見えなが、一目で分かる。DA職員だ。二人は無言で車内へ。ドアが閉まり、ワゴン車は静かに走り出した。千束は、窓の外を眺めながら小さく呟く。
「……やっぱ逃げればよかったかなぁ」
「聞こえています」
「えっ、心読めるの!?」
「声に出ています....」
そんなやり取りをよそに、車は山道を進んでいく。こうして、健康診断という名の戦場への道行きが、静かに、しかし確実に始まったのだった。
車は、やがて唐突に減速し、そのまま静かに停車した。行く手を遮るように立ちはだかるのは、無機質な金属製フェンス。雨に濡れた鉄柵の脇には、色あせた警告看板が掲げられている。
――『この先 国有地につき 立ち入り禁止』
その文言が、逆説的に示している場所があった。ここから先にあるのは、国家が表に出さない組織――
フェンスが開き、車は幾つものゲートを通過していく。番号、暗証、顔認証。ひとつ通るたびに、外の世界が少しずつ遠ざかっていく感覚があった。
やがて視界に現れたのは、大型の公民館を思わせる建物だった。威圧感はないが、逆にそれが不気味だった。人を拒むためではなく、“当たり前”の顔をして存在している――そんな建物。
自動ドアが開く。
中で待っていたのは、金属探知機と顔認証システムだった。千束とたきなの鞄、そして職員が持ってきたトランクが、無言でコンベアに載せられる。二人は順に認証装置の前に立ち、機械的な電子音とともに通過を許可された。
受付カウンターに向かうと、制服姿の職員が事務的な声で告げる。
「錦木さんは、体力測定と定期メンテナンスがあります。隣の医療棟へ向かってください」
たきなが一歩前に出る。
「楠木司令にお会いしたいのですが」
受付嬢は端末に目を落とし、少し間を置いてから答えた。
「司令は現在、会議中です。お戻りになるのは二時間後ですが……」
そこまで言いかけた、その時だった。
「あれ……ほら、味方殺しの」
「DAから追い出されたんでしょ?」
「組んだ子、みんな病院送りにするんだって。おっそろし」
明らかに“聞かせる”つもりの声だった。受付付近に立つ数人のリコリスが、嘲笑を隠しもしない表情で、視線をこちらに向けている。
「何だ、あいつらぁ……」
千束が低く呟く。
時間と事実の組み合わせは、恐ろしい。時間が経てば、事実は歪み、歪んだまま共有される。そして、人間はいつの時代も、負の噂ほど早く広め、深く記憶する。たきなは、その典型だった。受付嬢が、気まずそうに問いかける。
「……こちらでお待ちになりますか?」
「あ……はい」
返ってきた声は、驚くほど細かった。その直後、たきなは視線を落とし、ぽつりと呟く。
「私……訓練所に行ってますから」
「あ、ちょ、ちょっとたきな!?」
千束の制止は遅かった。
たきなはそれ以上振り返らず、訓練棟へと続く廊下を小走りで進んでいく。残された受付ロビーには、機械音と、居心地の悪い沈黙だけが漂っていた。
「あ、そうだ」
と、千束は本当に“今思い出しました”という顔で立ち止まった。受付カウンターに戻ると、何の躊躇もなく自分の鞄をひょい、と差し出す。
「コレの中身、メンテナンス部にお願い」
「……え?」
一拍遅れて、受付嬢が間の抜けた声を漏らす。
千束が渡したのは、ただの鞄ではない。いくらDAの本部とはいえ、中身を単体で取り出した瞬間、周囲の空気が凍りつくタイプの代物――銃である。だからこそ“鞄ごと”なのだ。出したらマズい。色々と。
「メ、メンテナンス部……ですか……?」
受付嬢の声が微妙に裏返る。
「そうそう。いつものやつ〜。よろしくね〜」
軽い、とにかく軽い。まるでクリーニングに出すシャツでも預けるような口調だった。受付嬢が困惑するのも無理はない。彼女は、メンテナンス部でも“有名人”だった。
理由は単純である。銃の性能、引き金の感触、反動のクセ、バネの戻り、グリップの角度、果ては「今日は湿度高いからさ〜」といった気分論まで持ち出し、細かい要望を延々と語り続ける。結果、作業時間は何時間も延長し担当者の目は死に、時計だけが進む。あの笑顔で。だが当の本人はというと。
「ん?なに?」
とでも言いたげな顔で、受付嬢を見返している。まるで「私、そんなことしましたっけ?」と言わんばかりだ。
(……忘れてる。この人、絶対忘れてる……)
受付嬢は内心で深く頷きながら、ぎこちなく鞄を受け取った。
「か、かしこまりました……メンテナンス部に……その……お伝えします……」
「ありがと〜!」
千束は満面の笑みで手を振る。その背後で、受付嬢は覚悟を決めたように、そっと端末にメモを打ち込んだ。
――《錦木千束・再来》
――《長期戦覚悟》
嵐は、再びやって来た。
健康診断を終えた千束は、廊下の先にある身体計測用の更衣室へと向かった。白い扉を開けた、その瞬間。
「……げ、千束」
露骨に嫌そうな声が飛んでくる。
中にいたのは一人。額を大胆に出した濃い茶髪のショートヘアを、わざと崩したようなアシンメトリーに整えた少女――春川フキだった。
鋭い目つきと隙のない立ち姿。ファーストリコリスの肩書きが、今もそのまま張り付いているような雰囲気だ。
「あー……あ、フキか」
千束は一瞬だけ間を置いて、気の抜けた声を出した。
「おい。今、間があっただろ」
「え〜?そんなことないよ?」
「ある。絶対あった」
フキは睨むが、千束はまったく意に介さない。そのまま何事もなかったかのようにロッカーを開け、着替えを始める。やがて身体計測が始まった。フキの記録は流石と言うべきものだった。筋力、反応速度、持久力。どれも基準値を大きく上回り、ファーストリコリスの名に恥じない。
測定が進むにつれ、記録用端末を見ていたフキの眉が、わずかに上がっていく。
フキの数値を――すべて、上回っていた。
反応速度はも上。瞬発力は明確に上。持久系は、もはや比較対象として扱うのが失礼なレベルだった。
「……相変わらず、化け物だな」
休憩用ベンチに腰を下ろしながら、フキが小さく吐き捨てる。
「そりゃどうも」
千束はスポーツドリンクを一口飲み、けろりとしている。その後、二人は楠木司令と顔を合わせた。話題は自然と、井ノ上たきなの処遇――事実上の左遷について向かう。
「ねぇ楠木さん?」
千束が、いつもの調子で切り出した。
「たきなの件ですけど〜。だいたい、状況判断が出来なかった現場リーダーにも、責任あんじゃないんですかねぇ?」
軽い口調。だが、言葉の刃は鋭かった。その視線は、楠木司令だけでなく、同席していたフキにも向いている。
「……っ」
フキの肩が、わずかに跳ねた。
「……仕方ないだろ!あの時…通信障害が起きて.....」
ぽろりと。フキは口を押さえたが、もう遅かった。その一言で、空気が凍る。通信障害。それはつまり、DAの中枢を担う高性能AI――《ラジアータ》が、正常に機能していなかったということを意味する。
外部からの干渉、ハッキング。あり得ない。あってはならない。DAの根幹を揺るがす事態だった。
―舞台は変わり、DA本部の射撃場。
乾いた銃声が規則正しく響いていた。
人型ターゲットの“顔”。そこに、寸分違わず弾痕が重なっていく。
最後の一発を撃ち終え、スライドが後退して止まる。たきなは静かに呼吸を整え、マガジンを抜き、イヤーマフを外した。
その時だった。
「どうもっす!」
やけに軽い声。
振り向くと、そこには一人のセカンドリコリスが立っていた。茶色のツーブロックヘア。にやけた笑みを浮かべ、やたら距離が近い。
「自分、乙女サクラっす」
そう名乗ると、彼女はずいっと手を差し出してきた。
反射的に、たきなも手を出す。次の瞬間――ぎゅうっ、と必要以上の力で、手を握り潰される。
「……っ」
「命令無視したあげく、仲間にぶっ放したって本当っすか?」
地雷。
遠慮も配慮もなく、完璧に踏み抜かれた。たきなは、力任せに手を振り払う。
「うわっ、マジなんすね?」
「私は……」
「やっぱ敵より味方撃つ方が燃えるぅ〜、みたいな?」
「やめてください」
声は低く、抑えられていた。
「おっと、おっかない。撃たないでくださいよ〜。あ、殺しの時しか笑わないんでしたっけ?」
「誰が、そんな嘘……」
「いやぁ、あぁしは好きっすよ。映画の殺人鬼みたいでカッコよくて! アハハハハ!」
人を苛立たせる才能だけなら、アラン機関も即支援していただろう。
「安心してくださいよ。先輩の抜けた穴は、後任の私がしっかり埋めますから」
さらに追い打ち。
「聞いてなかったんすか? 自分、これからフキさんのパートナー務めるっす。アンタの席、もうないっすよ」
「っ....!」
その瞬間。横から伸びた手が、サクラの首根っこをつかんだ。
「黙れ小僧」
有無を言わせぬ声。
「……アンタ誰っすか?」
「そいつが千束だ」
後ろからはフキの声。
「フキ先輩! おっ、司令まで」
振り向けば、楠木司令と秘書、そしてフキが並んで立っていた。
「おぉ、これが電波塔の英雄……」
「電波塔の英雄って言わないでくれるかね……?好きじゃないから...」
「いや、ただのアホだ」
「んだとぉ!」
フキを睨みつける千束。その隙に、たきなは一歩前に出た。
「司令!」
必死だった。
「私は銃取引の新情報となる写真を獲得し、提出しました! この成果でも、まだDAに復帰できませんか?」
「復帰?」
「成果を上げれば、私はDAに戻れ――」
「そんなことを言った覚えはない」
ばっさりと切り捨てる声。
「……そんな……」
たきなの表情が、目に見えて崩れた。
「諦めろって言われてんの、まだ分かんないんすか?」
「おい!」
「おぉ怖っ!流石、電波塔のヒーロー様。噂通り迫力ありまっ……!」
その言葉が決定打だった。空気が、一瞬だけ凍りつく。
誰も反応できなかった。
サクラの視界が横に流れ、自分が何をされたのか理解するより先に、頬に衝撃が走る。鈍い音とともに、顔が壁へと叩きつけられた。
「かっ……ぁ……!」
息が詰まる。左腕は背中側に捻じ伏せられ、体勢を立て直す余地すら奪われていた。
そして――右肘が、首の付け根、神経と血管が集中する一点を、寸分の狂いもなく圧迫している。力任せではない。逃げようとすればするほど、自分で自分の首を締め上げる配置だ。
完全に詰んでいた。
「....右腕が空いてるからって、下手に動かさない方がいいよ」
千束の声は、ひどく静かだった。怒鳴りもしない。感情をぶつけるでもない。
だからこそ、重い。
かけられている圧は、明確に“本気”だった。動きは速すぎるほどで、体術としてあまりにも洗練され、無駄がない。この場にいる誰一人として、止めるどころか、目で追うことすらできなかった。
「別に電波塔の事を話すのは自由だけどさ」
千束は淡々と言葉を落とす。その間にも、肘の角度がわずかに変わる。
圧が、さらに深くなる。
「次、電波塔の件を茶化したら――」
その先は、言わなかった。言葉にしなくても、十分すぎるほど伝わっていたからだ。それは忠告ではない。冗談でも虚勢でもない。
明確な警告。
あの現場で、生き残ったのは千束だけだった。
残りの3人は、記録からも、リコリス達の記憶からも存在ごと全てを消された。
だからこそ、“英雄”だの、“ヒーロー”だのという言葉は、千束にとって何よりも不快だった。そんな称号を受け取る資格など、自分にはない。それは同時に、あの三人を踏みにじる言葉であり許される事ではない。
「やめろ、千束」
フキの声が、短く割って入る。感情を挟まないしかし、はっきりとした制止だった。一拍の沈黙のあと、千束は素直に力を抜いた。
誰も、すぐには声を出せなかった。千束は何事もなかったかのように、軽く手を払う。
そして――たきなの方を、一度だけ振り返った。そこにあったのは、先ほどまでの迫力でも、いつもの軽い笑顔でもない。
ただ、静かで、揺るぎのない眼差しだった。
サクラは床に片膝をつき咳き込んだ。喉が焼けつくように痛む。空気を吸おうとしても、うまく肺に入ってこない。
ついさっきまで、首を正確に圧迫されていたのだ。それがどれほど致命的な位置だったのか、今になって遅れて理解が追いついてくる。
「サクラ」
低い声が落ちた。
「言ったはずだ。千束の前で、電波塔の話を茶化すなってな」
フキだった。感情を抑えた声だが、明確に怒っている。
「……すいません」
サクラは、ほとんど反射的に頭を下げた。相棒であるフキの前では、さっきまでの軽口も挑発も影を潜めている。
「訓練の時間だ。行くぞ」
「……はい……」
フキは踵を返し、サクラを連れてこの場を離れようとする。そのときだった。
背後から、服を掴む感触。
「――っ、なんだよ!」
フキが振り返ると、そこにいたのはたきなだった。彼女はフキの手首を掴んでいたが、すぐに気づいたように力を緩める。
「……すいません」
素直にそう言って、手を離した。フキは一瞬だけ睨みつけるが、すぐに鼻で笑う。
「あの時、殴られたくらいで理解できなかったのか?」
言葉は、容赦がなかった。
「だったら言葉にしてやる。お前はもう、DAには必要ないんだよ」
「――やめろ、フキ!」
千束の声が鋭く飛ぶ。次の瞬間、彼女はフキの胸ぐらを掴んでいた。
場の空気が、一気に張り詰める。
「まだ理解できないか?」
フキは千束の手を振り払おうともせず、むしろ挑発するように口角を上げた。
「なら今から、模擬戦でぶちのめして、わからせてやるよ」
「おぉおぉ、いいじゃん!」
千束は即座に乗った。
「たきな、やろう!」
「……離せよ」
「あっ、ごめん」
千束はあっさりと手を離す。その切り替えの速さが、逆に不気味だった。
「よし、決まりだな。2対2で勝負だ」
フキが言い、そして思い出したように声を上げる。
「あっ、たきな!」
しかし――
その時にはもう、たきなの姿はなかった。話の途中で、彼女は走り出していた。どこへ向かったのか、誰にも分からない。
残されたのは、張りつめた空気と、これから起こる衝突を予感させる沈黙だけだった。