隻眼の木遁使い   作:EKAWARI

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ばんははろEKAWARIです。
前回の話で「神社なら本堂では無く本殿でしょう」という指摘がありましたが、南賀ノ神社については、本堂の右奥7番目の畳の下に秘密の集会所と石碑があるという設定がありますので、この世界では本殿では無く、本堂表記のが正しいと思われるので悪しからず。


67.赤髪の眠り姫は目覚めた

 

 

 

 ―――……陰陽論というものがある。

 

 陰陽論とは、宇宙をはじめとする全ての物事を「陰」と「陽」という二つの概念として捉えて、その関係性や変化を問う哲学で有り、その二つの調和(バランス)を重視する思想である。

 さて、ではまず、陰と陽とは一体何のことであろうか?

 その答えは、太陽に近いほうが「陽」で、太陽から遠い方が「陰」である。

 例えば、上半身と下半身であれば、上半身のほうが太陽に近いから「陽」となり、下半身のほうが太陽から遠いから「陰」となる。

 お腹と背中であれば、四つ足の動物を見ればわかりやすいが、背中のほうが多く日光に当たるが故に背中が「陽」となり、屈んだとき日影になるからお腹が「陰」となる。

 男と女であれば、男性器は外側についており、その分太陽に近いが故に男が「陽」であり、女性器は内側……陰側についている故に女が「陰」である。

 では、何故左右にも陰と陽という概念があるのか?

 どちらも同じくらい太陽にあたるではないかと思われるかもしれない。

 これは、昔々……人の死体が珍しくなかった時代のことだ。

 川に浮かぶ死体が横向きで流れる時、右半身の方が決まって水底に沈み、左半身の方が上をむいていたのだそうだ。

 だからこそ、底に近い……その分太陽より遠い右が「陰」となり、上に浮かびその分太陽に近い左が「陽」と為った。

 陰陽というのはそういうものだ。

 二つの対象を比べた時、どちらのほうが太陽に近いのか遠いのか、それを持ってして陰陽は決まる。

 故に、陰陽という概念は変動的なものであり、比べる相手によっては同じものでも陰になったり陽になったりする。

 これが陰の中の陰、陰の中の陽、陽の中の陰、陽の中の陽があるという考えであり……正式名称を老陽・少陰・少陽・老陰という概念である。

 例えば、月と太陽。

 月と太陽の二つを比べたとき、どちらが陰でどちらが陽かといわれたら、それは当然月が「陰」で太陽が「陽」となる。

 夜空と昼空ならば、真っ暗な夜空が「陰」で、青々と眩しい昼空が「陽」だ。

 しかし、昼の天空という条件で、青空と太陽という存在を比べた時、どちらが陰でどちらが陽となるかと言われたら、それは青空のほうが「陰」で太陽が「陽」だ。

 同じく、夜の天空という条件で、夜空と月を比べた時、真っ暗な夜空こそが「陰」となり、太陽の光を反射させて輝く月のほうが、夜空よりも太陽に近しい存在として、月は「陽」となる。

 青空、太陽、夜空、月。

 この四つに陰陽という概念に当てはめたとき、青空は「陽の中の陰」に、太陽が「陽の中の陽」に、夜空が「陰の中の陰」に、月が「陰の中の陽」となる。

 他にも、夜明け、昼、夕暮れ、夜の四つの関係性を並べるならば、これから日が昇り太陽に近づいていく夜明けは、闇の中から光に向かう時間であるが故に、「陰の中の陽」となり、太陽が真上に昇る昼が「陽の中の陽」になる。

 夕暮れは、光の中から段々と暗闇に向かっていくが故に、「陽の中の陰」となり、尤も太陽からほど遠い夜の時間帯が「陰の中の陰」となる。

 これらの概念を「四象」と呼ぶ。

 そして四象からは八卦が生じ、それらが示すは宇宙であるのだが……ようはこの世界というのは、小さな陰と陽の組み合わせが無限にあり、それらが組み合わさり集まって世界を創っていると、そういう思想であると理解するが早い。

 ところで、陰と陽というと、闇と光のように解釈されがちであるし、その側面もあるが、基本陰陽には善悪というものはない。

 陰と陽というのは只の性質の問題である。

 基本、「陰」は収束、停滞、貯蔵、静けさ、内側、冷たさ、暗さ、死などを司り、「陽」は拡散、進展、放出、騒がしさ、外側、暖かさ、明るさ、生などを司っている。

 たとえば、樹。

 樹という対象を陰陽でわけると、よく太陽に当たる葉っぱの部分が「陽」で、地面に埋もれ太陽と接する事の無い根っこの部分が「陰」となるわけだが、その働きとして、根っこが養分を蓄え貯蔵し、葉っぱの部分が光合成によって栄養と酸素を作りだし、拡散している。

 そしてこの二つは切り離せないものであり、どちらも大事で、どちらが欠けても、その樹がやがて待つ運命は死であろう。

 それは生物の体内にも言える話だ。

 例えば、腸。

 腸が「陽」に偏れば下痢になるし、「陰」に偏れば便秘になる。

 陰陽どちらに偏っても、体にとって害という意味で大差はない。

 だからこそ、陰陽論で重視されているのは、陰陽の調和(バランス)を保つこと。

 健康的に生活するためにも、陰陽どちらかに偏らないようにすることが肝で有り、決して陽が善いもの、陰が悪いものとかではないのだ。

 エネルギー過多でもエネルギー不足でも疲れるという意味では同じだし、人は太陽がないと生きていけないけど、同時に暗闇による安息の庇護も、身心を休め、回復させる為には大切な事なのだから。

 

 だからこそ、陰陽論の観点で見ると、それ(・・)を捉えた時、それは酷く歪で不完全な術式であった。

 ただの芸術として、文化を保存していくだけならば、今のままで何も問題はない。

 だが、それの原型になったのは、千手一族に伝わる神楽を元に、うちはと合わせる為に再編されて生まれたものだ。

 だからこそ、そこには力が宿った。

 呪術……と呼ぶには神聖なものであるが、戦神に捧げる為に生まれたというその神楽は、儀式呪術の体を為していた。

 舞手の動きも、男女一対の舞いとして完成されたそれに込められた比喩も……意味するところとしては、忍術を使うときに使用する印と同じである。

 世界に改変を促し、現象を起こすための手法だ。

 それを忍術がそうであるように、内に語りかけて己の身に宿ったチャクラを使い叶えるのでは無く、神への奉納という形で、舞いを通して世界に懇願し、叶えて貰う……あれはそういう代物だ。

 昔から守られ、伝わってきたものには意味がある。

 千手から伝わったその神楽の術式の基板にあったもの……その底に込められた構造と願いは、うずまきに伝わる封印術……四象封印の術式に込められた譜に酷似していた。

 だからこそ、四象封印といううずまきの封印術を、実際に使ったことがある身としてオビトは理解をし、違和感に気付いたのだ。

 陰陽論というのはバランス学である。

 あの武練祭の剣舞神楽はその陰陽論を下敷きにし、構成されている。

 だからこそ、その術式に込められた陰陽のバランスが崩れた時、それは不完全なものとなる。

 構造を思えば、はじめから術式としては破綻していた。

 武練祭の剣舞神楽は、夏至の日に、尤も太陽が近づく日、近づく時間に始まり、終わる。

 だが、それでは方手落ちなのだ。

 神楽は神に捧げられるものだ。

 尤も陽の気の強い時期、強い時間帯に捧げられたのであれば、成程「陽」の加護は十分に得ていよう。

 だが、「陰」の加護は?

 陰陽はどちらかが特出すれば良いものではない。 

 それでは、いつまで経っても完成はしない。

 

 だからこそ、今宵……儀式呪術として、この神楽は完成する。

 季節は冬。尤も陰の気が高まる季節。

 時間は夜。尤も陰の気が高まる時刻。

 空には満天の星々と望月。

 そして神への奉納の、見届け人となる人々。 

 条件は揃っている。「陰」の加護を得るには、今のところこれ以上にない好条件だ。

 自宅からここまで黙行を貫いたのも、陰の気を高め、万全を期した上で神楽に臨まんが為、だ。

 まあ、更に条件を整えるのであれば、月が中天にさしかかる頃、冬至の時期に行った方が良いのであろうが……神様もそこまでは文句を言うまい。

 何よりうちは一族は、隠遁との相性が良い。

 ならば、一族が集うこの場そのものが触媒となる。

 

 ―――彼らを通し、夜を統べる月神に乞い、願う。

 ……これまでの不義理への詫びと、この地への安息の加護を。

 

 シャン、と鈴が鳴る。

 古来より鈴には邪気を払い、場を清める力があると言う。

 飾り布につけた銀の装飾もそうだ。

 銀もまた魔除けの力を持つと、そう伝わっている。

 全てが禍津祓いの為の祭具で、簡易の結界術のようなものだ。

 陰の気が強い夜という時間帯は、この世ならざる者が権勢を強める時間でもある。

 それらを飾り紐につけた、鈴の音が祓う。

 シャン、シャン。

 シャン、シャンと、清らかな音を立てて、一種の結界、異界を構築する。

 対象は南賀ノ神社の境内。

 月明りが照らす中、神に希い、この身を依り代とする。

 

 ゆるり、ゆるりと。

 目の前で、厳かに、静かに始まったそれを、人々は息をするのも忘れたように魅入った。

 オビトの長い手足がしなやかに伸び、その手に握りしめた陰陽の杖を、魔を払うように振り払い、鮮やかな足捌きで円を描くようにステップを踏む。

 タンタン、タタンタン、ダン、ダダダダン。

 最初は小刻みに。

 やがては大胆に力強く。

 太鼓も無く、笛もなく、代わりのように石畳を踏みならし、音頭を取る。

 シャラリシャラリと銀の飾りと鈴の音が、場を清めるように音を鳴らす。

 それに合わせ、クルリクルリ。

 太陽と月を模した錫杖を、剣を操るかのように構え、巴を描くように振う。

 ダン。

 力強く荒々しささえ感じる動きで四股を踏む下半身の動きに対し、杖を構えた上半身の動きはどことなく女性的で優美だ。

 指先まで繊細に魂を込めて、しなやかに嫋やかに手首を翻し、清らかな乙女を幻視するほどに、真摯な祈りを表現する。

 本来、武練祭で披露される剣舞神楽は、男女一対の舞いが基本となっている。

 三代目の時代から、男神楽と女神楽、子供神楽という三つの構成になってはいるけれど、そこの根底に根付くものまで変わったわけではない。

 力強く迫力のある男神楽と、繊細で嫋やかな女神楽の演目の内容自体は対になるものだ。

 印象が違いすぎて一見違う演目に見えるし、左回りか右回りかという違いもあるが、よくよく見れば内容自体は同じなのだ。

 陰陽の調和を体現する、男女一対の舞い。

 本来は男女二人で表現するそれを、オビトはたった一人で体現していた。

 力強く荒々しい下半身の動きで男性性を、しなやかで嫋やかな指使いや、手首の振い方で女性性を表現する。

 真逆の表現とも言えるそれが、不思議と一人の人間の中でなんの違和感もなく溶け込み、調和し、そういうものとして昇華されている。

 それはオビト自身が陰陽どちらとも親和性の高い人間だからこそ、出来た事だったのかもしれない。

 彼の右半身の大半は生来のものでは無く、陽遁に優れる千手一族……千手柱間の細胞を元に作られた作り物だ。

 オビトの左半身を支えるうちはマダラ(インドラ)の血筋と、右半身を形成する千手柱間(アシュラ)の細胞。陰(うちは)と陽(千手)どちらもオビトの体を形成している己の一部なのだから。

 だから何も難しい事は無い。

 ただ、身体の底から湧上がってくる声に従い、この身を委ねれば良い。

 

 クルリ、クルリと長い袖と裾を翻し、鈴の音をシャンシャンと響かせながら、うちはオビトは月光に導かれるように、陰陽の調和を掲げた神楽を舞う。

 時には激しく荒々しく、時には優雅に柔らかに。

 タンタン、タンタタタンタン。

 ダン。

 月明りに照らされながら、その目に写輪眼の赤を宿し舞うオビトの姿は、まるでこの世のものではないかのように幻想的だ。

 神威(しんい)に満ち満ちたそれは、この眼で見ておきながらに信じがたい程に、浮世離れした光景であった。

 誰もあの神楽を邪魔してはいけないと、これは神聖な儀式であると、小さな子供でさえ……誰もが理解するほどに。

 その姿を見て、長老衆に属する還暦を迎えた老爺が、信じがたいように呆然と呟いた。

「姫巫女……様?」

 性別も違うし姿形が似ていたわけではない。

 似ていたのは、その舞う姿に一本筋のように宿った神威。

 その神の威光を思わせる輝きに、思い起したのは、今は遠い若かりし頃のあの方の姿。

 うちはの長であったマダラ様の娘でありながら忍びの道に進まず、年若くして武練祭の舞姫となったその方を、うちはの若い男達は憧れと敬意を込めて、姫巫女様と、そう呼んでいた。

 あの方の舞いも思えばそうであった。

 あの方は何か、常人には視えぬものを常に見ていたように老爺は思う。

 それは只人である己には決して測れぬものであったけれど、しかし我らは皆、あの方の神楽を通して、そこに神を見ていたのだ。

 そしてオビトは、彼女の孫……直径だ。

 であるならば、これはその血が成させたものであるのか。

 だから同じ神威を背負っているのだろうか。

 

 否。

 元々、姫巫女と呼ばれし彼女の舞いは、うちはイズナから教わったものである。

 イズナから姪である姫巫女と呼ばれた彼女に、彼女から五大国一と謳われた舞姫に伝えられ、そして舞姫と呼ばれた老女の舞いを見たオビトは、その神楽に込められた願いごと写輪眼で読み取り、複写した。

 そういう意味でいえば、イズナと同じ性を持つオビトがこれを舞う事は、原点回帰とも言える。

 それを見て、世のことなどわからぬアカデミー生の子供がポツリと呟く。

「……カミサマみたいだ」

 人は七つまでは神の子のうちだと言われている。

 それは小さな子供は大人より死に近いからというのもあるが、幼子の無垢な魂は、その純粋さが故に、大人より時にものの本質に迫るという。

 オビトは舞う。

 太陽と月の錫杖を携えて、月光の元青白く照らされながら、その神事を進める。

 神よ、おいでませと。

 我らが願いをどうか聞き届け給うようにと、祈りを込めて一心に舞う。

 シャンシャン。

 シャンシャンと、鈴の音が禍祓いの音を鳴らす。

 

 そうして、どれほどの時が経ったか。

 見ている側としては一瞬にも永遠にも思われたその時間だが、実際は四半時にも満たぬほどだ。

 錫杖を天に掲げ、最後に結びの礼をすることによって……陰陽の調和でもって善神を呼び、邪気を祓う……破魔の神楽は、ここに完成した。

 シャン。

 オビトが顔を上げたその時に、鳴った鈴の音を合図にするかのように、ブワリと、神域となった南賀ノ神社を中心に、只人には見えぬ光が里中に拡散されていく。

 感知タイプの忍びであれば気付いたかもしれないが、それ以外が気付くのは難しい事だったろう。

 目の前で最後まで見届けたうちは一族でさえ、それに気付いたのはその目を写輪眼の赤に変えていたものだけだ。

 けれど、彼らもオビトが……正確にはその祈りが何を為したのかは理解出来てはいなかった。

 いや、もしかすれば、依り代となったオビト自身も、理解して事を為したとは言えないのかも知れなかった。

 月神に捧げられた神楽は、「収束」と「安らぎ」という陰の加護を得て、その性質のままに人々の為に奔る。

 それは一拍遅れて、やがて怪我人や病人を収容している病院にも届き、そして……。

 

「……!!」

 

 ―――赤髪の眠り姫は目覚めた。

 

 続く




神威(しんい):神の威光、犯しがたい絶対的な力。
神威(カムイ):アイヌ文化において、高位の霊的な存在、自然界の神々を示す言葉。原作のうちはオビトに宿った万華鏡写輪眼の能力名でもある。

 因みに今回の話が第三部で一番書きたかった話で、去年プロローグ書いてた時から書きたかった話だったから書けて感無量。
 なんでこの物語の主役をオビトにしたのかと言われたら、なんかこいつ性別以外は一人半陰陽出来るなー……と思ったのも理由の一つだったり。

次回「彼女の見解」
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