凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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1話 凱旋門賞

 

『──偽りの直線を抜けた! ここからが本当の戦いだ! ロンシャンの、いや世界の頂点を決める最後の攻防に入る!』

 

 観客席が揺れるほどの轟音。叫び、どよめき、歓喜と悲鳴が入り混じり、レース場全体を震わせる。

 

 その日、秋空の下、世界の強者が肩を並べた。

 歓声が地鳴りのように揺れるロンシャンレース場。そこで行われるのは世界最高峰レース。

 【凱旋門賞】。それは欧州のウマ娘たちにとって、ただのG1レースではない。

 

 血統と歴史、誇りと矜持、そのすべてを背負い駆ける欧州のウマ娘たちが挑む舞台。

 勝者は一国の英雄として讃えられ、その名は永遠に刻まれる。誰もが夢見、焦がれる“世界最強”の称号を懸けて。

 

 だが今、その先頭を駆けているのは、欧州のウマ娘ではない。

 

『先頭は──シリウスシンボリ(・・・・・・・・)! 日本からやってきた挑戦者が、堂々と世界の強豪を抑え込んでいる!』

 

 遥か極東から来た、日本のウマ娘シリウスシンボリだった。

 

『残り500! 最後の直線! シリウスシンボリ先頭! このまま逃げ切れるのか! 足は残っているのかッ!?』

 

 場内は最高潮の熱気に包まれる。

 歓声は波のように押し寄せ、芝を踏みしめる音も、荒い呼吸すらもかき消していく。

 誰もが目を見開き、歴史の証人になろうと叫び、吠え、手を伸ばす。

 

 その熱狂と視線のすべてが、世界の重圧となってシリウスの背にのしかかるようだった。

 

「ッ! クソッ!」

 

 思わず悪態が漏れた。背筋に冷たいものが走り、足が竦みそうになる。

 背後から押し寄せる気配と、覆いかぶさるような重圧が迫ってきているのを感じたからだ。

 

『ッ! 来たっ、来たっ!? 外からベーリング、差を詰める! さらに大外を回ってきたのは──ダンシングブレーヴ!』

 

 観衆がどよめく。

 シリウスが感じた気配は気のせいではない。

 間違いなくその気配は、重圧は、シリウスを今にも押し潰さんとしていた。

 

 後方から一気に弾け飛んできたダンシングブレーヴ。全てを置き去りにしていく鋭い速さは風すら切り裂いていく。

 その鋭さがシリウスを襲い──そして、他の者たちも枷を切る。

 

『大外一気! 凄まじい末脚だ! ダンシングブレーヴが一陣の風となって先頭へ迫る!』

 

「ハァァァァァァッ!!」

 

 大外から一気に捲り上げていく様は全ての観客を魅了した。

 だが、同じターフを走る者たちにとって、それは悪夢に違いなく……何より、余力を決壊させるには十分だった。

 

「クソがっ! なめるなよッ!」

「まだ……!」

「ここからっ!」

 

 欧州の名だたる強者が、意地と誇りを燃やす。

 芝を抉り上げる蹄鉄の轟音、荒い息遣い、咆哮のような叫び。

 勝利を掴むのは自分だと、誰一人として退かない。

 

「「「勝つのは私だッ!!」」」

 

『おぉっと! 各ウマ娘全力のスパート! 順位がめまぐるしく入れ替わる!』

 

 抜かれる。さらに抜かれる。肩を並べた強豪たちに、次々と置き去りにされる。

 

『シリウスシンボリ、必死に食い下がるが……外から一人、また一人! ついに、脚が止まったか!?』

 

 シリウスは牙を食いしばり、心の底から溢れ出す小さな声を抑えきれなかった。

 

 ──クソ……クソッ! ここまで来て……ッ!?

 

 体は限界に近い。呼吸は燃えるように荒く、視界は揺れ、霞んでいく。

 前を行く影は遠のくばかり。あと一歩……その一歩が届かない。

 

 ダメなのか。やっぱりダメなのか。

 

 私ではなく、ルドルフじゃないと──

 

 

 ──シリウスッ!! 勝てぇぇぇぇぇぇぇっ!! 

 

 

 本来、届くはずのない声が聞こえた。

 ありえない。聞こえるはずがない。

 こんな大観衆の中で、人一人の叫びなどかき消されて当然。ましてやレースの轟音と歓声の渦の中で聞こえるなど。

 

 だが、その声は確かに、心臓を震わせるように届いた。

 そんなものがここで聞こえるはずがないと頭では否定しても、心臓が脈打った。

 

 その声は、シリウスに届いたのだ。

 

 だからこそ、体は反応した。

 心臓が脈打てば、呼応するように筋肉が動き出す。

 

 アイツの声だ。トレーナーの声だ。信じてくれているあの声。

 

「────っ!」

 

 歯を食いしばる。喉の奥で何かが切れそうになるのを必死に押し殺し、無理やり顔を上げた。視界はまだ波打っている。足も肺も悲鳴を上げている。だが、目の前の景色が変わる。

 抑え込まれていた力が、歯車を噛み直したかのように再び動き始める。

 

 肺も足も、千切れても構わない。

 ここで全てを出しきれ。

 まだ、レースは続いてる。

 

 なら、やることは一つだろう。

 

「──ァアアアアアアアアアアッ!!」

 

 喉から出たのは、叫びにも悲鳴にも似た一声だった。

 

『おおっ!? 信じられない!? シリウスシンボリ、再び伸びてきたぞ!』

 

 会場全体がどよめきと悲鳴の入り混じった轟音に包まれた。

 

『なんという根性だ! なんという末脚だ!? 一気に先頭へ迫る! ──並んだ! 先頭に並んだぁッ!!』

 

 先頭を走っていたダンシングブレーヴと肩がぶつかりそうな距離で、互いの息遣いをぶつけ合いながら走る。

 蹄鉄が芝を叩く音が混じり合い、砂と草の飛沫が舞い上がった。

 

「っ! ──負けるかぁぁぁぁっ!!」

 

 ダンシングブレーヴも吼える。魂を削るような声が、残された力を無理やり掻き集めたかのようにその身体を加速させる。

 

『ダンシングブレーヴ、さらに伸びる! まだ脚が残っている! 欧州最強の意地を見せつけるか!?』

 

「……ッ、ハッ! ──だよ、なァッ!!」

 

 ここで伸びなくて何が、欧州最強か。

 文字通り、命を燃やして走るその姿に思わず笑ってしまう。

 無論、その笑みは、決して侮辱してるものではない。

 

 同じ奮起に闘争心が、本能が、激しく燃え上がるのだ。 

 

『しかし、シリウスシンボリも譲らない! 抜かせない! 押し返した! 並んでいる、互いに並んでいる!』

 

 視界の端に見える影が、必死に食らいついてくる。僅かに抜ければ抜き返され、また並ばれる。

 どちらも引かない。まさに意地と誇りの削り合い。

 全身が燃えるように熱い。胸を裂くような呼吸、痙攣する脚、それでも止まらない。止まるわけにはいかない

 ただ前へ。目の前の一線を、先に越えるためだけに。

 

『シリウスシンボリ、先頭! いや、ダンシングブレーヴだ! 抜けない、抜かせない! 欧州最強と日本の星との真っ向勝負!』

『っ、これは、凄い! 互いに譲りません!』

 

 観衆の歓声は、もはや悲鳴にも似た熱狂に変わっていた。

 わずかな差、ほんの数センチを奪い合い、互いの全力が火花を散らす。

 

『どっちだ!? どっちが前か!? もつれ合うように今──ゴールイン!!』

 

 観衆が一斉に息を呑んだ。まるで時が止まったかのように静まり返る。

 

 そして、次の瞬間、電光掲示板に数字が映し出された。

 

『──勝ったのは……シリウスシンボリだぁぁぁぁ!!』

『日本のウマ娘が、世界の頂点を掴みました! はるばる海を越え、欧州の強豪を打ち破りました!』

『今年の凱旋門賞、一等星の輝きを放ったのは──日本のシリウスシンボリです!!』

 

 会場が揺れるほどの大歓声に包まれる。

 信じられないように掲示板を仰ぎ見て、シリウスは小さく息を吐いた。

 

「……ハハッ」

 

 笑いとも涙ともつかぬ声が漏れる。喉は焼けつくように熱く、胸は裂けそうに痛むのに、不思議とその瞬間だけは軽かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あるホテルの一室で、テーブルの上には飾り気のない軽い食事が並べられていた。

 窓の外に広がるのはパリの夜景。セーヌ川を渡る光の帯が冷えたガラス越しに揺れ、遠くからは鐘の音が響いている。

 

「──納得いかない」

 

 そう口に零したのは、今や欧州でその名を知らぬ者はいないシリウスシンボリのトレーナーだった。

 手元のタブレットに映るニュースを食い入るように見つめ、眉間に皺を寄せている。

 

 そこに並ぶ見出しは、日本から届いた記事の一覧。

 

『皇帝、ついに前人未到の七冠達成! 国内最強の象徴に揺るぎなし』

『年末の大一番、有馬記念──注目は三冠世代の激突』

『名門の次代エース、デビュー戦で圧勝──来季クラシック候補か』

 

 その他にも国内の話題が次々と並ぶが、彼は詳しい記事に目を通すことなく、ただ指先で無造作に画面をスライドしていく。

 しかし、スライドすればするほど眉間の皴が深くなっていった。

 

 とうとう、先月の記事になりそうになったとき不意にタブレットが手元から消える。

 顔を上げれば不機嫌な表情を浮かべたシリウスがタブレットを掲げて、こちらを睨みつけていた。

 

「こんなことに現を抜かすとは……いい度胸だな?」

 

 トレーナーは思わず気まずそうに視線を逸らし、肩を縮こませる。

 シリウスはその様子に溜飲を下げるように鼻を鳴らすと、手元のタブレットへと視線を落とした。

 同じように無造作にスライドして──十秒と経たぬうちに電源を切り、そのままソファへ放り投げた。

 

「ハッ、くだらねぇ。どうせこんなことだろうと思ったよ」

 

 ぶっきらぼうに言い放ち、椅子を引いて対面に腰を下ろす。

 そして、不満げな表情を浮かべたシリウスの双眸が、まっすぐトレーナーを射抜いた。

 

 その視線に、思わず零れかけた言い訳をどうにか呑み込む。

 こういう場合、言い訳をしたって火に油注ぐだけだ。

 故に、トレーナーは冷静になって言葉を紡いだ。

 

「シリウスは……いや、分かってる。君が気にしないだろうことぐらい」

「へぇ? 随分と知ったような口をきくようになったな?」

「……まあ、もう長い付き合いだからね。少なくともルドルフより知ってると自負してるよ」

「アイツは論外だ」

 

 少し得意げに口にしたトレーナーの言葉を、シリウスは即座に切って捨てた。

 躊躇いも容赦もないその言葉に思わず苦笑いを浮かべてしまう。例として挙げたのを申し訳なく思った。

 

「なら、私が今思ってることぐらい分かるよな?」

 

 ぶっきらぼうに放たれた問い。視線は鋭く、間違ったことを言えば機嫌をさらに損ねかねない。

 だが、トレーナーとて冗談で言ったわけではなかった。シリウスの言わんとすることなど、とっくに理解している。正確に求められてることを答えられる自信もあった。

 

 だが、それでも口から出たのは、抑えきれぬ本音だった。

 

「……どうしても納得がいかない。シリウス、君は勝ったんだ。あの凱旋門に勝って、世界の頂点に立った! それなのに──っ」

 

 言葉の続きを飲み込む。

 シリウスは椅子の背にもたれ、窓の外に視線を逸らしていた。心底どうでもいいとでも言いたげに、口を尖らせて。

 

 あのシリウスが、だ。

 いつもなら有無を言わせずねじ伏せてくるはずの彼女が、今回はただ拗ねたように黙り込んでいる。

 

 思いもしなかった反応に、トレーナーは面食らった。

 気まずい沈黙が数拍流れたのち、シリウスがふいに口を開く。

 

「……お前、今日が何の日か分かってるよな?」

 

 唐突な問いに、トレーナーは一瞬言葉を詰まらせる。

 シリウスの視線は窓の外に逸れたまま。何時もの違う雰囲気に戸惑いながらも答えた。

 

「え、えっと……イブ、だろ?」

 

 困惑しながらもしっかりと答えると、シリウスはふん、と鼻を鳴らした。

 

「わざわざイブにする話かよ。もう十分だろ、あれで」

 

 彼女の言う「あれ」とは、凱旋門賞の後に行われた盛大な祝勝会のことだ。

 シンボリ家やメジロ家、URAの関係者などを集めた祝いの席で、シリウスの偉業は大々的に讃えられた。

 そして、その後のURAの正式な発表で世間的にも彼女はすでに栄光の象徴として扱われている。

 

 それでも、トレーナーは納得できなかった。

 日本国内での扱いは、思ったほど大きくはなかったのだ。熱狂は国内の英雄や新世代に比べ、どうしても色あせて見える。

 理解はしている。事情も分かっている。それでも──悔しかった。

 

 未だ欧州では、シリウスの名は凱旋門の勝者として轟いている。

 彼女が町を歩けば誰もが足を止め、惜しみない称賛を送ってくれる。

 その反響を目の当たりにしてしまえば、なおさら日本との温度差が耐え難く思えた。

 

 気にしすぎなのは分かっている。

 だが、あのレースを至近で見届けた者としては、どうしても割り切ることができなかったのだ。

 

 ──けれど。

 目の前のシリウスを見たとき、胸のつかえが何てことないように思えて来る。

 いつもなら有無を言わせぬ気迫で相手をねじ伏せる彼女が、今は椅子にもたれて窓の外に視線を逸らし、唇を尖らせている。

 拗ねているのか、怒っているのか。そんな子供っぽい仕草は、これまで一度も見たことがなかった。

 

 だからこそ、ようやく理解した。

 彼女は本当に気にしていないのだ、と。

 自分ひとりが空回りしていただけなのだ、と。

 

「……悪い。確かにわざわざ祝いの日に話すようなことでもなかった」

 

 観念して頭を下げると、シリウスは言いたげな表情を崩して、不敵な笑みを浮かべる。

 

「まったく、子犬(パピー)は考えすぎなんだよ。お前は私だけを見てりゃいい」

 

 その言葉にトレーナーは思わず口元を緩めた。

 二人は互いのグラスに飲み物を注ぎ、静かに掲げ合う。小さく響いたグラスの音が、夜景のきらめきに溶けて消えていった。

 

 世界を制した者にしては、あまりに質素なイブの宴。

 けれど、それはシリウス自身が望んだ“二人だけの時間”だった。

 

「そういえば、シリウス。足は今のところ痛みも無いんだよね?」

 

 凱旋門で見せたラストスパート。

 限界を超えて振り絞った走りは、確かに勝利をもぎ取った。だがその代償として、踏み込んだ利き足にはヒビが入っていた。

 この程度で済んだことが不幸中の幸いと言えるだろう。実際、それほど深刻なものではない。

 言い方はあれだが、あの日の激戦を戦い抜いた勲章のようなものだった。

 

「痛みはねぇし、ほぼくっつき始めてる。年明けには負荷をかけない程度にトレーニングも再開する予定だ」

 

 シリウスはそう言って、さらりと笑った。まるであの死闘の代償など、大したことではないと言わんばかりに。

 

「それなら良かった。でも、治りかけが一番怖いから気を付けてくれ」

「フン、誰にものを言ってやがる」

 

 愉快そうに口元を緩ませ、シリウスは肩をすくめた。

 二人はそのまま他愛もない話を交わしながら、質素ではあるが温かな食事を終える。

 柔らかな空気に包まれた静かな夜が、ゆっくりと流れていった。

 

 

 ──食後。

 ソファに腰掛けたシリウスの前にしゃがみ込み、トレーナーは慎重な手つきで脚へ触れていた。

 

「んっ……特に痛みはねぇ」

「ここは? ……大丈夫そうだね」

 

 指先は壊れ物を扱うように繊細で、かつ正確。

 骨の状態、腱の張り、筋肉の硬さつ一つを確かめるその動きは、余計な迷いはなく、ただ真摯に状態を見極めようとしていた。

 

「春にはまたヨーロッパの大舞台がいくつもある。経過を見ても調整に間に合うと思ってるが……アンタはどう思う?」

「あまり無理しないでほしいかな。正直に言うと怖い」

「ハッ、相変わらず臆病だな……子犬らしい」

 

 触診を続けながら答えるトレーナーに、シリウスは鼻を鳴らした。

 だが、その瞬間、ふっと指先が敏感な部分をなぞって、思わず喉の奥で小さな声が漏れる。

 

「っ……ぁ……!」

「ごめん、痛かった?」

 

 わずかな吐息。

 どこか官能的とも取れる甘い声だったが、トレーナーは気づく様子もなく、変わらぬ真剣な眼差しで脚の状態を確認していた。

 

「……なんでもねぇよ」

 

 低く答えながらも、視線は逸らされ、頬にはわずかに赤みが差す。

 本人は必死に取り繕っているつもりだが、耳の先がわずかに震えているのを見れば、隠しきれてはいないだろう。

 けれど、トレーナーの意識は、ただ淡々と脚に向かっていた。

 

 それが、ほんの少し、もどかしい。

 

「うん……年明けてから検査次第だけど、大丈夫そうだね」

「そうか」

「その後は、先生と相談かな」

 

 その言葉に、シリウスはふと視線を上げる。

 祝勝会の折に聞いた話を思い出す。幼い頃から走りを叩き込んでくれた恩師が来年にはこちらへ来てサポートに入る、と。

 

 もともと、シンボリ家の支援はあった。

 だが、トレーナーの存在と自分の意地もあって、最低限の支援のみで留める選択をしている。

 しかし、結果を出した以上、もう拒む理由はない。これからも世界と戦っていくのなら、本格的な支援を受けるのは当然だ。 

 トレーナーを軽んじているわけではない。だが、彼ひとりでは届かない領域もある。

 

 だからこそ、断る理由もなく頷いた。

 

 そのやりとりを思い出しながら、シリウスは愉快げにニヤリと笑った。

 

「先生が来るんなら、お前は御役御免になるかもな?」

 

 ちょっとした悪戯心。本気でそう思っているわけではない。ただ、どんな顔をするのか見てみたかった。

 

「ははっ、まいったね。でも、君の先生に頭が上がらないのは確かだ」

 

 しかし、トレーナーは、あっけらかんとした笑みで素直に認める。

 

「……ハッ、当然だろ」

 

 シリウスはそっけなく言い切る。

 つまらない反応だったが、尊敬する恩師を褒められて悪い気はしない。

 表情こそ変わらないが、耳がぴくりと動いた。

 

 だが、こっちが望んでいた反応じゃないのは、やはり気にくわない。

 

「まあ、素直に認めるのは悪くないが……向上心がないのはいただけねぇな?」

 

 言葉の直後、シリウスはすっと足を伸ばし、爪先でトレーナーの胸をそっと突いた。

 つん、と軽く押し、わざと間を空けてもう一度。

 それが、遊ぶような仕草のはずなのに、距離の近さからか妙に意識させる。

 

 相手を茶化すようにしながらも、シリウスの口元はどこか蠱惑めいた笑みを浮べていた。

 

「っ! け、怪我してるのに変なことしないっ!」

 

 慌てた声色で抗議するトレーナー。だが、その頬がわずかに赤く染まっているのを隠しきれない。

 その反応を見た瞬間、シリウスは目を細め、喉の奥で小さく笑った。愉快そうに、照れ隠しの仕草を楽しむように。

 

 シリウスは、トレーナーが照れている……つまり、意識していることを認識すると、瞳の奥に満足げな光が宿る。

 そして、相手の戸惑いをじっくり楽しむように視線を流し、わざとゆっくりと足を引いて脚を組み直した。

 心身ともに満足したシリウスは、いつも通り勝気な微笑みを浮かべて言う。

 

「来年もしっかりついて来いよ、子犬(パピー)?」

「……ん? いや、俺は帰国するけど?」

 

「──はぁ?」

 

 短く漏れた声。

 シリウスの耳がピクリと跳ね、尻尾が大きく揺れる。

 いつもは制御している尻尾が、感情のままに表へ溢れ出ていた。

 

 

 

 

 

 

 パリは夜の帳に包まれている。だが、日本はすでに朝を迎えていた。

 時差八時間。その隔たりを越えて、シリウスはスマホに向かって低い声を吐き出した。

 

「……どういうことだ、親父。トレーナーが日本に帰るって、知ってたのか?」

『朝早くからどうしたかと思えば……祝勝会の時に伝えたはずだろう?』

「あの時は……いや、聞きそびれてた」

 

 声がわずかに硬くなる。

 気にしていないつもりでも、苛立ちと焦りが言葉の節々に滲み出ていた。

 

『お前が、か? 珍しいな……まあ、あの状況なら仕方ないか。で、何か問題か?』

「何でコイツが帰国するんだよ。私はまだこっちで走るんだぞ」

 

 シリウスの声は低く震えていた。

 無意識に耳が後ろへ倒れ、尻尾が強く揺れている。

 理屈ではなく感情が先に立っているのを、彼女自身もわかっていた。

 

 そして、突然怒りだし、父へ電話を始めたことにトレーナーは困惑する。

 何か、おかしなことを言ったのだろうか。だが、このことはシリウスも知っていたはず。

 

 おろおろし始めたトレーナーに、シリウスは鋭く睨みつける。その視線に大人しくなるトレーナー。

 まさに躾けられた犬のようだった。

 

『だから、家の者を行かせる予定だ。何も支障はない』

「……別に、コイツが帰る必要はねぇだろ」

 

 シリウスの爪先が床を強く踏み鳴らす。

 耳は伏せたまま、苛立ちを隠せない。

 

『──彼はURA(日本ウマ娘協会)所属だろ? 海外遠征はあくまで一時的なものにすぎん』

「………………そう、だったな」

 

 すっかり忘れていた事実に、呆然としてしまう。

 余りにも、隣にいることが当たり前すぎて認識がズレていた。

 

 現実として、彼はトレセン学園のトレーナーである。

 今回の遠征は、もとより二年間と区切られて認められた特例にすぎない。

 

 その期間を全うした以上、帰国して国内の育成に戻るのはあらかじめ決められていた道筋だった。

 シリウスを世界の頂点へ導いたその手腕を、今度は学園全体のために還元することこそ、URAが本来求めている役割である。ならば、彼をパリに置き続ける理由は、もはやない。

 

 一方でシリウスは学園の生徒でありながら、現地の提携校との協力という形で欧州に残ることが可能だった。

 加えて、シンボリ家という強固な後ろ盾に凱旋門賞制覇という大きな勲章がある。

 それらを駆使すれば、今後も世界の舞台に挑み続けることなど簡単だ。

 

 実際、トレーナー側も同じような条件で残ることはできる。手続きが複雑になるが、やろうと思えばできる。

 シンボリ家と凱旋門賞制覇の功績があれば、そのぐらいの融通を利かすことなどなんてことはない。

 

 しかし、そうはいかないのが現実である。

 

 確かに、凱旋門賞の勝利は、シンボリ家にとって長年の悲願だ。

 スピードシンボリより始まった海外挑戦の系譜に、ようやく一つの成果を刻むことができたことは、最上の喜びである。

 しかしそれは、あくまで一門にとっての夢であり、国内競技の中心であるURAや観客にとっては「遠い異国の物語」にすぎない。

 

 URAとしても海外での栄冠は欲しい。だが、それ以上に重んじられるのは国内での実利である。

 グッズの売り上げ、観客動員、各種イベントによる収益……そうしたものは海外レースではURAにほとんど還元されない。

 

 そのうえ、国内での知名度や熱狂もどうしても限定的だ。例えダービーウマ娘であっても、現地まで応援に赴くファンはごくわずかであり、熱狂は実際にその場にいなければ共有されにくい。

 

 結局のところ、これは“決められた二年”だ。

 大きな成果を残して終えた今こそ、線を引くには最も理に適った時期だろう。

 

『最初から決まっていたことだろう? それに、シンボリ家(こっち)が全面的にバックアップする以上、何も心配はいらん』

 

 父の声が遠ざかっていく。

 耳には届いているのに、思考の渦に呑まれてまともに聞けなくなっていた。

 

 トレーナーが学園に戻る。自分を置いて。

 まだ……まだ、それは我慢できる。

 

 離れたところで、自身のトレーナーであることは変わりないし、連絡も気軽にできるだろう。

 いつだって、声は聴けるし、なんならビデオ通話で顔を合わせていい。

 

 だが、そうじゃない。そういうことじゃない。

 

 間違いなく、トレーナーは多くのウマ娘たちに狙われ……担当することになるだろう。

 なにせ、自分のトレーナーだったんだから。優秀なのは疑いようがない。

 

 仮に、本人が拒否したところで学園がそれを許すはずがないし、拒否するメリットがない。

 寧ろ、トレーナーは存分にその知識と経験を使って育てるに違いない。

 

 そもそも、自分のトレーナーである。

 凱旋門賞制覇(・・・・・・)という功績を持った唯一無二のトレーナーなのだ。

 いろんなウマ娘が、我先にと手を伸ばすに決まっている。

 

 安易に想像できた。

 トレーナーが新しい担当の走りを横で見守り、細かくアドバイスをしている姿。

 時に励まし、時に叱り、あの落ち着いた声で導いていく。

 その顔は真剣で、けれどどこか楽しそうで。

 

 そして、レース本番で応援をするのだ。

 観客席から必死に声を張り上げて──。

 

 ……ふざけるな。

 それは、ダメだ。あれは、私だけのものだ。

 そんな未来、あるはずがない。あるわけがない。

 

 胸の奥がじりじりと焼け付くように熱を帯び、吐き出した息が苦い。

 認めたくもない感情が膨れ上がっていく。

 耳は完全に伏せられ、尻尾は苛立ちを隠せずに床を叩いていた。

 机に置いた手が、無意識に握りしめられる。

 

「──帰る」

『……なに?』

「シ、シリウス?」

「──私も日本に帰るっつってんだ!」

 

 シリウスはキレた。

 

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