『──本日のメイクデビュー。若きウマ娘たちが、ここからそれぞれの第一歩を踏み出します!』
場内に実況の声が響いた。
ゲートへ向かうウマ娘たちの姿が、次々と映し出される。
『注目はなんといっても1番人気、メジロパーマー!』
その名前が告げられると、スタンドからひときわ大きな歓声が上がった。
『メジロ家期待の新星! 選抜レースでもその才能を見せたメジロの子が、いよいよ今日、メイクデビューを迎えます!』
その声を聞きながら、パーマーは小さく息を吐く。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
これまで何度もレースを見てきたし、選抜レースだって走った。
それでも、やっぱり緊張している。
けれど、身体が強張るほどじゃない。
むしろ、その胸の奥には楽しみの方が大きくあった。
『続いて2番人気、リボンマーチ!』
『その豪快な末脚には要注目です! 道中はじっくりと脚を溜めて、最後の直線で一気に抜け出せるか!』
『3番人気はバードアンドクリフ!』
『こちらも自慢は鋭い差し脚! 展開ひとつで一気に上位へ食い込んでくる可能性も十分です!』
『そして4番人気、コサックステップ!』
『同じく、逃げを得意とする1番人気メジロパーマーとの位置取りにも注目が集まります!』
『5番人気は、この子! オボロイブニング! 堅実な──』
その後も、ウマ娘たちが次々と紹介され、それぞれの得意な走りや注目点が実況によって告げられていく。
そして、全員がゲート前へと集まった。
『──さあ、各ウマ娘がゲートへ入っていきます!』
一人、また一人。
ゲートの中へ収まっていく。
『全員、ゲートイン完了!』
一瞬。
場内が静まり返る。
『京都芝2000m、メイクデビュー──』
そして。
『──スタートしましたッ!』
ゲートが一斉に開いた。
次の瞬間、待ち構えていた歓声が一気に弾ける。
誰一人、出遅れることなく揃ったスタート。
各ウマ娘がそれぞれの位置を求めて、勢いよく前へと駆け出していく。
先頭をうかがう者。
好位につけようとする者。
後方でじっくり構える者。
その中で──。
『おっと!』
実況の声が、一段高くなる。
『メジロパーマーが行った!』
他のウマ娘たちが隊列を整えようとする、その一瞬。
パーマーだけが、さらに前へ飛び出していた。
選抜レースで見せた大逃げ。
その走りは、今日の出走者たちにも当然知られている。
各陣営のトレーナーからも、口を酸っぱくして言われていたはずだ。
逃げることは、分かっていた。
だからこそ、同じ逃げを得意とするコサックステップもスタートから前へ出ていた。
「(……っ、速い!)」
だが。
パーマーは、コサックステップが前へ出ようとした、その一瞬よりも早く踏み込んでいた。
一歩。
二歩。
ほんのわずかな差だったはずが、瞬く間に広がっていく。
コサックステップが前へ出ようとした、その瞬間にはもう、パーマーの身体は一歩先にあった。
「(なんで……っ!?)」
コサックステップは懸命に脚を回す。
それでもパーマーの背中は、もう手の届かないところへ進んでいた。
さらにもう一度、パーマーが身体を前へ投げ出す。
脚が芝を捉えるたび、身体がぐん、と前へ運ばれていった。
『速い! メジロパーマー、あっという間に先頭に立った!』
そこから、もう一度、パーマーが踏み込む。
『っ!? まだ上がる、メジロパーマー! 後続を引き離す! メジロパーマー、早くも単独先頭です!』
コサックステップは、思わず引っ張られるように後を追うが、引き離されるばかりだ。
パーマーの背中だけが、どんどん遠くなっていく。
『さあ、これはどうだ! メジロパーマー、序盤から飛ばしています!』
100m。
200m。
その間にも、差は広がっていった。
まだレースは始まったばかりだというのに。
それなのに、すでに隊列は大きく縦へ伸び始めている。
『後続との差、見る見るうちに広がっていきます!』
パーマーは振り返らない。
教えられた通りに、ただ自分のリズムで脚を動かしていく。
そして──さらに前へ。
『メジロパーマー、快調に飛ばしている! 後続は懸命に追いますが、差が縮まらない!』
300mを過ぎても。
400mを過ぎても。
パーマーの背中は、まだ遠ざかっていた。
コサックステップは、歯を食いしばる。
「(……くっ、速すぎる……!)」
無理に追えば、自分の脚が持たない。
だからこそ、後ろのウマ娘たちも次第に追うことを諦め、自分たちのペースへと戻っていく。
それは、まるでパーマーだけが、別のレースを走っているようだった。
『メジロパーマー、先頭を快走!』
実況の声が、さらに熱を帯びる。
『なんと後続との差、すでに5バ身ほど!』
場内から、どよめきが起こった。
まだ序盤。
それなのに、これだけの差がついている。
パーマーは、そのまま走る。
脚を止めない。
速度を落とさない。
『メジロパーマー、まだ止まりません!』
6バ身。
7バ身。
後続との差が、さらに広がる。
『これは大逃げだ! メジロパーマー、完全に後続を置き去りにしています!』
パーマーの身体が、先頭を駆けていく。
その背後には、大きく引き離されたウマ娘たち。
そして。
『後続との差は──およそ9バ身!』
大きな歓声が、京都のスタンドを揺らす。
まだ、序盤にもかかわらず、メジロパーマーは、すでに独走態勢に入っていた。
「はっ、はっ、はっ……っ!!」
荒くなる呼吸の合間に、パーマーの口元が思わず緩んだ。
「────大逃げで行こう」
「まあ……その方が私としては嬉しいし、やりやすいけど……大丈夫? ヤバくない?」
思い出すのは、デビュー戦に向けてトレーナーと話し合っていたときのこと。
そう聞き返したパーマーに、トレーナーは少し考えるように間を置いてから、
「そうだね。ヤバい、と思うよ」
「えぇ……」
あまりにもあっさりと言い切られて、パーマーは思わず声を漏らした。
「十中八九、みんな警戒してくる。選抜レースであれだけの大逃げをして、1着まで取ったんだ。パーマーがどういう走りをするのかは、もう知られていると思っていい」
それだけではない。
選抜レースでの結果に加えて、パーマーはメジロ家のウマ娘でもある。
デビュー戦を迎える前から、その名前に注目する者は少なくない。
選抜レースで見せた大逃げも、当然その中で話題になっている。
つまり。
「みんな、パーマーが逃げるつもりで来る」
トレーナーの言葉に、パーマーは黙って耳を傾ける。
「スタートから前を取りに来るのも、たぶん分かってる。だったら、パーマーが大逃げの形に持ち込む前に、少しでも前を塞ごうとしてくるはずだ」
「うん……そうだよね」
「だから、普通にスタートしても、そこから前を取りに行くんじゃ遅いかもしれない」
パーマーは、少しだけ考える。
逃げることは知られている。
前へ出ることも、当然警戒される。
ならば、今までと同じように走ったら、その時点で相手の思う壺ということだ。
「でも、その強みを捨てるのは違う。大逃げをしないで別の走り方をするっていうのも、もちろん選択肢としてはあるけど……今のパーマーには、まだそこまで必要ないと思う」
「必要ない?」
「うん」
トレーナーは、パーマーを見る。
「これがシリウスなら、自分の強みを一番活かせる形を考えて、そのためにレースを組み立てられる。逃げることもできるし、前で運ぶこともできる。差して勝つことだってできる」
けれど。
「パーマーが今、そこを目指す必要はない」
その言葉に、パーマーは黙って聞き入った。
「今のパーマーには、もうちゃんと武器がある。それを無理に別の形に変える必要なんてないよ」
大逃げ。
前へ出て、自分のペースを作る。
後ろとの差を広げ、そのまま最後まで粘り切る。
選抜レースで、自分が初めて見つけた走り方だった。
まだ完成しているわけじゃない。
けれど、少なくともパーマー自身が、一番力を出せるのはこの走り方だった。
「だったら」
トレーナーが、言葉を続ける。
「その強みを、最大限に押し付けられる状況をこっちから作る」
「状況を、作る?」
「そう。だから、それを分かった上でも前に出られるようにしよう」
つまり。
大逃げを知られているなら、知られていることを前提に動く。
相手が警戒している。
前を取ろうとしてくる。
それなら、それより更に
「そのために、まずはスタートだね」
『──メジロパーマー、先頭を快走! なんと後続との差はおよそ9バ身!』
実況の声が、再び場内へ響き渡った。
スタートから、まだそれほど時間は経っていない。
だというのに、パーマーはすでに先頭に立ち、後続を9バ身ほど引き離していた。
ただ速く飛び出したわけではない。
ゲートが開いた瞬間、身体を沈めるように前へ重心を移し、最初の一歩から強く踏み込む。
そこから脚を緩めることなく、二歩、三歩と素早く繋いでいく。
相手が走り出すより早く。
そして、わずかな差も、一気に広げる。
逃げるための速度を、最初から全開にするのではなく、自分が先頭を奪うために必要な加速だけを、最初の数歩に集中させる。
それが、今回トレーナーから叩き込まれた走りだった。
警戒されているなら、誰よりも早く前へ出てしまえばいい。
『2番手にはコサックステップ! さらにルーラールレンジャー、サルサステップと続いています!』
パーマーを先頭に、少しずつ隊列が形を整えていく。
だが、場内のどよめきに反して後続に焦った様子はなかった。
コサックステップはパーマーを追いかけようとはせず、二番手の位置をしっかりと確保する。
その後ろでも、各ウマ娘がそれぞれの得意とする位置へ収まっている。
パーマーに先を取られた場合、どうするか。
それは、レース前から各陣営が決めていたことだった。
自身の思い描いた通りに展開が進むレースなど、滅多にあるものではない。
トレーナーも、実際に走るウマ娘たちも、それをよく理解している。
だからこそ、無理に競りかける必要はない。
逃げる者は自分のリズムを守る。
前を追う者は、余計な脚を使わない。
後ろに控える者は、最後まで自分の末脚を温存する。
それぞれのトレーナーから受けていた指示通りに、冷静に自分の走りへと切り替えていた。
あれだけの大逃げだ。
このまま最後まで同じ勢いで走り続ければ、いずれパーマーの脚は苦しくなる。
選抜レースでもそうだった。
序盤から大きく後続を引き離し、最後まで逃げ切った。
だが、ゴールが近づくにつれて、その走りに余裕がなくなっていたことを、見ていた者は知っている。
ならば、焦る必要はない。
このまま自分たちのペースを守っていればいい。
パーマーが自分から苦しくなる、その瞬間を待てばいい。
各陣営が、それぞれの位置で静かに機会を窺っていた。
『さあ、メジロパーマーが先頭を行きますが、後続も落ち着いています! ここからどんな展開になるのでしょうか!』
パーマーの背中を追うウマ娘たち。
その誰もが、まだ慌ててはいなかった。
──少なくとも、この時までは。
『1000mを通過! メジロパーマー! ここまで快調に飛ばしています!』
「はっ、はっ……」
走りながら、パーマーは一定の呼吸を刻む。
まだ、苦しくはない。
むしろ、思っていたよりも身体は軽かった。
ちらりと、後ろへ意識を向ける。
誰も、無理に追ってきてはいない。
後ろのウマ娘たちは、今の距離を保ったままついてきている。
──ここなら。
ふぅ、と小さく息を吐く。
パーマーは呼吸を整えながら、ほんの少しだけ脚の回転を緩めた。
ほんのわずか、速度を落とす。
自分の中で感じ取れる程度のごく小さな変化。
それでいて、走りのリズムは崩さない。上体も、腕の振りも変えない。
後ろから見れば、相変わらず先頭を気持ちよく飛ばしているようにしか見えないだろう。
──少しだけペースを落としてほしい。
この状況を作れたなら、次は脚を残す。
そうトレーナーに言われたことを実践する。
もちろん、露骨に減速するわけじゃない。
そもそも逃げは、ただ最初から最後まで全力で飛ばせばいいわけじゃない。
どこで踏んで、どこで抑えるのか。
どこまでなら相手に追わせず、自分だけが余力を残せるのか。
それを考えて走る。
「はっ……はぁ……」
パーマーは深く息を吸い込む。
肺いっぱいに空気を取り込み、ゆっくりと吐き出した。
「はぁ……っ」
呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
張り詰めていた身体から、ほんの少しだけ力が抜ける。
それだけで、さっきまでよりも脚が軽くなったように感じた。
パーマーは前を見据えたまま、自分の呼吸と脚の感覚を確かめる。
9バ身。
その大きなリードが、パーマーを安心させる。
「あら……?」
スタンドからレースを見つめていたマックイーンが、わずかに眉を動かす。
「どうしたの?」
隣にいたライアンが尋ねる。
「今、パーマー……少しだけ速度を落としましたわよね?」
言われて、ライアンも目を凝らす。
先頭を走るパーマー。
その姿だけを見れば、先ほどまでと何も変わっていない。
それでも。
「……あっ、本当だ」
ほんのわずかに、脚の運びが違う。
そして、呼吸も先ほどより落ち着いているように見えた。
遠くからレースを見ているからこそ分かる、微かな変化。
何より、二人はパーマーの走りをよく知っている。
だからこそ、その小さな違いを見逃さなかった。
「やはり、そうですわよね」
マックイーンは小さく頷いた。
「さすがに、ここまで飛ばしてきましたもの。少し疲れが出たのかもしれませんわね」
「そうだね。最初からあれだけ飛ばしてたし……」
二人とも、最初はそう考えた。
スタート直後から一気に先頭を奪い、そのまま後続を大きく引き離したのだ。
ここで少し速度を落とすくらい、不思議ではない。
「なんだろ。なんか……違う気がする」
「……私も、そう思いますわ」
二人は黙ってパーマーの走りを追う。
確かに、速度はほんのわずかに落ちている。
けれど、苦しそうには見えない。
呼吸は乱れていない。
上体も崩れていない。
脚の運びにも、力が抜けたようなところはない。
むしろ。
「息を整えてる?」
ライアンが呟いた。
マックイーンも、もう一度パーマーを見る。
「……そうですわね」
速度を落としたというより、呼吸を整えながら走っている。
最初にあれだけ飛ばした。
後続との差も、十分すぎるほどにつけている。
ならば、ここで一度息を入れること自体は、何もおかしなことではない。
むしろ、長い距離を逃げるなら当然の判断だ。
そう考えれば、今のパーマーの走りにも納得がいく。
そう。
何ら可笑しいことはない。
至って普通のことだ。
「……なんだろう」
ライアンが、もう一度呟いた。
「何か……引っかかるんだよね」
マックイーンも答えない。
ただ、パーマーから目を離さなかった。
速度を落とした。
息を整えている。
それだけなら、何も不自然ではない。
なのに、二人の中にある違和感は消えなかった。
疲れているから緩めた走りと、意図して緩めている走り。
その違いを、二人は感覚で知っている。
そして今、目の前を走るパーマーから感じるのは──後者だ。
「……まさか」
「……これって」
マックイーンの目が、わずかに見開かれる。
隣のライアンも、同じことを考えたようだった。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
そして、ほとんど同時に顔を見合わせた。
もし、自分たちが想像している通りなら──。
マックイーンとライアンは、揃ってトレーナーへと視線を向ける。
そんな二人からの視線を向けられた本人は、ほんの少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「一体、パーマーに何を教えたのですか……?」
「いや、まあ……上手くいくかは分からないけどね?」
そう言って、トレーナーは再びターフへ目を向ける。
「パーマーに、もともと苦しくなってからも踏ん張れる強さがあるのは知ってた?」
それは、逃げという脚質にとって、これ以上ないほど相性のいい武器だった。
先頭を走る以上、最後には必ず苦しい瞬間がやってくる。
そこでどれだけ粘れるか。
あと一歩、あと一歩と脚を動かし続けられるか。
パーマーには、それができる強さがある。
限界が近づいてから、もうひとつだけ脚を動かせる。
そんな、驚異的なスタミナと根性の片鱗。
だからこそ、選抜レースのような大逃げも、決して間違った走りではない。
そもそも、これまでにも後続を大きく引き離し、観客を驚かせながらそのまま逃げ切ったウマ娘はいた。
時には、あまりの大差に「どうせ最後には捕まる」と思われながら、それでも最後まで先頭を譲らず、番狂わせを起こした者さえいる。
だからこそ、パーマーの大逃げも、ひとつの武器として成立していた。
大きく逃げる。
たったそれだけで勝負が決める。
最初からなりふり構わず飛ばして、後続にも追うための脚を使わせる。
そして、自分自身も最後にはフラフラになりながら、それでも残る。
パーマーの強みを考えれば、それでも勝負には成り得る。
けれど──それは、あまりにも博打だ。
一歩間違えれば、最後まで脚が持たない。
それどころか、無理を重ねれば身体への負担も大きくなる。
そして今、後続はその可能性を見ていた。
無理に追う必要はない。
序盤で大きく離されたとしても、冷静に自分たちのペースを守っていればいい。
パーマーがどこかで苦しくなる。
その瞬間、勝手に差が詰っていくからだ。
だからこそ、後続は焦っていなかった。
じりじりと差を縮めながら、パーマーの脚が鈍る瞬間を待っている。
ならば。
「同じ大逃げでも」
トレーナーが、ターフの先を見つめながら言った。
「ただ全力で飛ばし続けるんじゃなくて、最後まで自分の脚を残せる形にできないか。そう考えた」
そこで参考にしたのが、トレーナーが海外で得た知見の数々だった。
その一例が、キングジョージでムーンマッドネスが見せたレース運び。
ただし、その走りをそのまま真似したわけではない。
先頭にいるからこそ、できることがある。
ただ速く走るのではない。
自分からレースの流れを作る。
後ろの相手に合わせるのではなく、自分にとって走りやすいペースへ持っていく。
必要なところでは踏む。
逆に、無理をする必要がないところでは、ほんの少しだけ力を抜く。
それでも、先頭は譲らない。
そうやって自分のリズムを守りながら、最後まで脚を残しておく。
無論、その考え方を、そのまま持ち込んだわけではない。
ムーンマッドネスとは、走る距離も、能力も、身体の使い方も違う。
だからこそ、パーマーの今の実力でできる範囲まで噛み砕き、今まで身につけてきた走りへと落とし込んだ。
先頭を取る。
主導権を握る。
そして、ただ逃げるのではなく、自分で自分のペースを作る。
それが、今のパーマーに教えた新しい大逃げだった。
「……なるほど」
ライアンが、ターフを見つめたまま呟く。
マックイーンも同じように、じっとパーマーを見つめた。
そして、ふと何かに気づいたように、トレーナーへと視線を戻す。
「でしたら、私たちに教えてしまってよろしいんですの?」
「ん?」
「いくら同じメジロ家……家族ではありますが、私たち、今はレースの上ではライバルですのよ?」
「ああ、それは……」
トレーナーは、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「まあ……そうなんだけどね」
「そうなんだけどね、ではありませんわ」
マックイーンが呆れたように言う。
「今のお話を聞けば、今後のレースでパーマーが何をしようとしているのか分かってしまうではありませんか」
「確かに、そうだ。でも──」
トレーナーは走るパーマーを見ながら言った。
「どうやって、あのスタートを止める?」
「…………」
「…………」
二人が黙る。
スタート直後。
誰よりも早く前へ出て、そのまま一気に先頭を奪ったパーマー。
あれを、どうやって止めるのか。
「……それは、難しいなぁ」
ライアンが、静かに言葉を零した。
「でしょ?」
トレーナーは、あっけらかんと笑った。
「だったら、教えたところでそんなに変わらないかなって」
「……複雑ですわ」
マックイーンは呆れたように息を吐く。
けれど、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「確かに……今のパーマーのスタートを見てしまえば、そう言いたくなる気持ちも分かります」
「君たちにそう言わせたのなら、問題はなさそうだね」
トレーナーは頷く。
「ただ──」
その声が、ほんの少しだけ真剣になる。
「ここから先は、本当にパーマー次第だよ」
練習ではできた。
何度も繰り返して、身体に覚え込ませてきた。
けれど、本番は練習とは違う。
相手がいる。
展開がある。
そして何より、その時のパーマー自身の身体と感覚がある。
「レースに絶対はない。だから、上手くいくかどうかは……」
トレーナーはそう言って、先頭を走るパーマーを見つめる。
だが、言葉とは裏腹に、その表情は不安よりも楽しそうな色があった。
『──さあ、残り1000m! 先頭は依然としてメジロパーマー!』
残り1000メートル。
先頭を走るパーマーと、後続との距離は、確実に縮まっていた。
序盤、一気に広がったその差は、少しずつ、少しずつ削られている。
『後続が迫ってきています! メジロパーマー、まだ先頭! しかし、その差は徐々に縮まっているぞ!』
2番手を走るコサックステップが、前を見据える。
呼吸は荒い。
脚にも、すでに疲労が溜まっている。
それでも、前だけを見ていた。
まだだ。
ここまで来れば、焦る必要はない。
パーマーが大逃げをすることは、最初から分かっていた。
あれだけ飛ばせば、終盤には必ず苦しくなる。
だから、待つ。
無理に追いつこうとする必要はない。
自分の脚を残したまま、少しずつ差を詰めればいい。
そう思っていた。
実際、差は縮まっている。
パーマーの脚も、序盤ほどの勢いはない。
──なのに。
「(……まだ、落ちない……!?)」
その前を走るパーマーも、序盤ほどの勢いではない。
それでも、先頭を走り続けている。
もう少し。
もう少し待てば、必ず落ちてくる。
そう思いながら、コサックステップは脚を動かす。
その後ろでも、同じような思いを抱えている者がいた。
──垂れろ。
──そろそろ、垂れてくれ。
誰もがそう願いながら、それでも追う。
パーマーが本当に苦しくなっているのか。
それとも、このまま最後まで走り切ってしまうのか。
分からない。
だからこそ、少しずつ焦りが生まれていく。
まだ仕掛けるには早い。
そう分かっていても、仕掛けたくなる。
それほど、前との差が思ったほど縮まらない。
ほんの少しだけ、脚を速める。
それに合わせるように、後ろのウマ娘たちもペースを上げていく。
誰かが仕掛けたわけではない。
ただ、無意識に。
パーマーが落ちてくる瞬間を逃したくない。
その焦りが、少しずつ全員の脚を前へ前へと急がせていた。
『さあ、先頭メジロパーマー! 後続との差がさらに縮まってきた! そして──ここから京都名物、淀の坂へ入ります!』
パーマーの前方に、緩やかにせり上がる坂が見えていた。
ここまで走ってきた脚にとっては、決して短くない上り坂。
パーマーは、そのまま坂へと踏み込んでいく。
「っ……!」
最初の一歩で、脚にかかる重さが変わった。
地面に縛り付けられるかのような感覚。
いつもなら自然に前へ出ていく脚が重い。
それでも、腕を振る。
身体を前へ運ぶ。
──まだ。
ここでペースを落としたら、後ろに追いつかれる。
だから、踏み込んで行くしかない。
「はっ……! はぁっ……!」
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
肺が焼けるように熱い。
脚も、もう軽くない。
それでもパーマーは、前だけを見て走り続けた。
登る。走って登る。
ただ、それだけのことが苦しい。
いつもの坂道なら、こんなものではない。
練習なら、もっと余裕を持って駆け上がれた。
でも、これはレースだ。
すでに何百メートルも全力で走っている。
身体には、予想以上に疲労が溜まっていた。
トレーナーの言う通り、あの時にペースを落として息を入れてなければ、きっとここで潰れていたに違いない。
「くっ……!」
脚を止めるわけにはいかない。
少しでも気を抜けば、後ろから追い抜かれるだろう。
振り返らなくても分かる。
さっきまで遠くにいた気配が、少しずつ近づいているのを感じるからだ。
パーマーは、もう一度強く地面を蹴った。
苦しい。
キツい。
正直、今すぐにでも休みたい。
けれど、ここで逃げるのをやめたら、今まで積み重ねてきたものが全部なくなる。
だから走る。
脚が重くても。
呼吸が苦しくても。
一歩ずつ。
前へ。
『メジロパーマー、淀の坂を駆け上がる! 京都の難所、ここをどう乗り切るか!』
後ろから見ていた後ろのウマ娘も、坂へ入ったパーマーを見つめていた。
ここで、落ちる。
あれだけ逃げたのだ。
ここまで来て、さらにこの坂。
さすがに、ここでは脚が止まる。
だからこそ、追う。
少しずつ。
無理に一気に詰めるのではなく、確実に。
垂れる。
もう、限界のはずだ。
──垂れろ。
──垂れてしまえ。
──いい加減に、沈めっ!
もういい加減に──
『──おおっと、凄いスピードだ!?』
「はっ……はぁっ?」
コサックステップの表情が変わった。その後方にいるウマ娘たちも目を見開いた。
前を走るパーマーが、苦しそうに身体を揺らしている。
呼吸も明らかに荒い。
それでも。
──落ちない。
坂を登っている。
速度を大きく落とすことなく。
苦しそうに息を吐きながら、それでも脚を前へ運び続けている。
『止まらない! メジロパーマー、止まりません! なんて驚異的なスタミナなのでしょうか!?』
──なんで?
さっきより確実に近づいている。
差は縮まっている。
なのに、なんでッ!?
「はぁっ……! はっ……!」
苦しい。
脚が、重い。
身体が、前へ行きたがらない。
それでも。
坂の先に、頂上が見えている。
そこまで行けば、下りになる。
「うぅっ……! まだぁっ……!」
声を絞り出す。
脚を踏み込む。
重い。
苦しい。
だからこそ!
「はぁぁっ……!」
パーマーは、苦しさを振り切るように、もう一度だけ地面を蹴った。
『メジロパーマー、まだ行く! まだ行くぞ!』
『坂を駆け上がる! 後続も迫っている! しかし──メジロパーマー、落ちない!』
『この大逃げ、ここまで来ても止まりません!』
その瞬間だった。
後続のウマ娘たちの表情が変わる。
このままでは、本当に逃げ切られる。
誰もが、そう感じた。
ここまで待った。
パーマーが苦しくなる瞬間を。
脚が鈍る瞬間を。
けれど、パーマーは鈍らなかった。
「……っ!」
コサックステップが、強く地面を蹴る。
それに呼応するように、後続のウマ娘たちも一斉に加速した。
もう、余裕はない。
残していた脚を、一気に使う。
仕掛けるタイミングとしては、まだ少し早い。
それでも──今、行かなければ間に合わない!
『後続も仕掛けた! ここで一気に差を詰めにかかります!』
坂の頂上を越える。
そこから先は、下り。
パーマーの身体が、斜面に沿って前へと運ばれていく。
「はぁっ……! はっ……!」
苦しい。
さっきよりも、ずっと苦しい。
けれど、ここで無理に脚を使ってはいけない。
下りの勢いに任せてしまえば、脚を余計に使う。
上体を崩さない。
リズムを守る。
ただ、前へ。
パーマーは歯を食いしばりながら、下り坂を駆けていく。
その背後から、足音が迫る。
ひとつ。
またひとつ。
確実に近づいてくる。
『さあ、パーマーが下りへ! そして後続との差が、さらに縮まっている!』
残り500メートル。
まだパーマーが先頭。
だが、その差は縮まり始めた。
『後続が迫る! 迫る! メジロパーマー、ここで逃げ切れるか!?』
そして、最後のカーブを抜けると、視界が一気に開けた。
その先にあるのは、最後の直線。
『さあ、最後の直線に入った!』
残り、約300メートル。
ここからは、完全な平坦な直線。
パーマーと後続との差は、約3バ身。
「……っ、はぁ……!」
パーマーは前を見る。
ゴールは、まだ遠い。
脚は、もう限界に近い。
身体中が重い。
肺が痛い。
でも、ここまで来たんだ!
「まだ……!」
パーマーが、腕を振る。
残していた脚を、最後に使う。
「いっ……けぇぇぇぇぇっ!!」
踏み込む。
一歩。
もう一歩。
身体が悲鳴を上げる。
それでも、止まらない。
『メジロパーマー、ここで最後のスパート!? 信じられません!?』
3バ身。
2バ身半。
2バ身。
後ろが迫る。
それでもパーマーは、必死に前へ出る。
もう、綺麗な走りなんてできない。
腕を振る。
脚を動かす。
息を吐く。
ただ、それだけのことがとてつもなくキツイ。
「はぁっ……! ぐっ……!」
苦しい!
ツラい!
キツイ!
それでも、あと少し……!
ゴールまで、あと少し!
『後続との差、さらに縮まっている! メジロパーマー、逃げ切れるか!』
「──負けるかぁぁぁぁぁっ!!」
パーマーが、最後の一歩を踏み込んだ。
『メジロパーマー、先頭! だが、後続も迫る!!』
ゴールが近づく。
そして──。
『ゴールイン!! メジロパーマー、逃げ切りましたッ!!』
その瞬間、スタンドから、割れんばかりの歓声が上がった。
「うおおおおおおおおっ!!」
「逃げ切ったぁぁぁっ!!」
「メジロパーマー!!」
驚きと興奮の入り混じった声が、場内を埋め尽くしていく。
序盤から大きく後続を引き離した大逃げ。
最終的には1バ身差まで詰め寄られたが、それでも、最後まで先頭を譲らなかった。
その走りに、誰もが声を上げていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
パーマーは、ゴールを駆け抜けたところで力が抜ける。
「いや……キッッッツ……」
そのまま、倒れ込むようにターフへ仰向けになった。
胸が大きく上下する。
肺が痛い。
脚も、身体も、もう動かしたくない。
でも、しばらくして、パーマーはゆっくりと片腕を持ち上げた。
重たい腕を、空へ向かって伸ばす。
そして、ぎゅっ、と小さく拳を握った。
「はぁ……はぁ……へ、へへっ……」
空へ真っ直ぐに突き上げられたその腕は。
まるで、あの日見たものをなぞるように力強いものだった。
京都芝2000m、メイクデビュー。
1着、メジロパーマー。
更新を待ってくれていた方々がいるようで、大変うれしく思います。それと同時にありがとうございます。今後も遅くなってしまうかもしれませんが、どうにか頑張りますので宜しくお願い致します。