夏の暑さがすっかり遠のき、朝夕には秋の気配が感じられるようになった9月上旬。
空港の大きな窓から差し込む陽射しも、どこか柔らかくなっていた。
行き交う人々の足音やアナウンスが響く到着ロビー。
しかし、ある一角だけが、普段とは少し違った空気に包まれている。
行き交う人々の声に混じって、時折響くカメラのシャッター音。
壁際には数人の記者が立ち、到着ゲートへ視線を向けている。その周囲には、カメラやスマートフォンを手にした一般客の姿もあった。
誰もが、何かを待っている。
けれど、その場にいる誰もが確信しているわけではない。
今日、この空港に──あるウマ娘が帰ってくる。
そんな噂が、いつの間にか広がっていた。
その名は、シリウスシンボリ。
凱旋門賞を制し、さらにキングジョージまでも勝ち取った、日本の誇るトップウマ娘。
正式な帰国発表があったわけではない。
空港関係者から漏れたのか。
海外遠征の関係者から伝わったのか。
それとも、ただの噂に過ぎないのか。
確かなことは、誰にも分からなかった。
それでも──。
「──本当に今日なんですか?」
「──さぁな。でも、可能性は高いらしい」
「──本当に今日、帰ってくるなら一番にインタビューしないと」
「──どうだか。そもそも日本に帰ってきてどうするんだ?」
そんな会話が、あちらこちらから聞こえてくる。
確証がないからこそ、待つ者たちの表情にもどこか半信半疑な色があった。
それでも、もし本当に帰ってくるのなら。
一目だけでも、その姿を見たい。
あわよくば、記事にしたい。
そんな期待と好奇心が、少しずつ人を集めていた。
しかし、その期待をよそに、シリウスシンボリが姿を見せたのは、到着ロビーではなかった。
人目につかない関係者用の通路。
そこを、シリウスは足早に歩いていた。
「……チッ、面倒だな」
苛立ちを隠すことなく、シリウスが吐き捨てるように呟く。
「仕方ないだろう。表に出たら、大変なことになる」
そう答えたのは、スピードシンボリだ。
シリウスの帰国は、もともと大々的に公表されていたわけではない。
それでも、完全に隠し通すことは難しかった。
長く海外に滞在していたシリウスが日本へ戻るとなれば、空港や学園、シンボリ家など、帰国に伴って動く関係者は少なくない。限られた人間だけが知っていたとしても、それぞれが普段とは違う動きをすれば、外から見ても何かを察する者はいる。
そうして、いつしか「今日、シリウスシンボリが日本へ帰国するらしい」という話が、関係者の間から外へと漏れ始める。
そのため、正式に発表されたわけでもないにも関わらず、噂を聞きつけた報道陣やファンが空港へ集まる事態へと発展してしまった。
このままシリウスが到着ロビーへ姿を見せれば、さらに人が集まり、空港を利用する一般客にも影響が出かねない。
そこで今回は、空港側とも事前に調整を行い、特例として関係者用の通路を使って人目を避けることになった。
「はぁ……そもそも、どこから漏れたんだか……いや、今さら言っても仕方ないか」
どうせ、いつまでも隠し通せることではない。
今さら、首謀者を探して責め立てたところで意味はないだろう。
そんなことをしている時間があるなら、騒ぎを収めるほうが、まだやりやすい。
そうこうしているうちに、ようやく通路の先に出口が見えてきた。
スピードシンボリが先に扉へ手を掛け、ガチャリ、と扉を開く。
その先には、一台の車が停まっていた。
どうやら、あらかじめ用意されていたものらしい。
「さあ、帰ろうか」
スピードシンボリはそう言うと、後部座席のドアを開け、シリウスを促した。
「ハッ、光栄だな」
皮肉めいた笑みを浮かべながら、シリウスが乗り込む。
続いてスピードシンボリも車へ乗り込むと、静かにドアが閉じられた。
ほどなくして、車がゆっくりと走り出す。
空港の建物を出た先では、何人もの記者やテレビ局のスタッフが待機していた。
玄関脇では、機材を片付けながら休憩する者や、次の中継について打ち合わせをする者の姿もある。
そのすぐ脇を、一台の車が通り過ぎていく。
何人かが一瞬だけ視線を向けた。
だが、それだけだった。
特に気に留める様子もなく、すぐに視線は別の場所へと戻っていく。
車はそのまま空港を離れ、街中へと入っていった。
「……やれやれ」
車内で、スピードシンボリが小さく息を吐く。
「これでひとまず、騒ぎにはならずに済んだ」
「……チッ、コソコソするのは性に合わねぇな」
「フフッ、有名人になった気分はどうかな?」
「なったつもりはねぇよ」
シリウスは、どこか他人事のように返した。
スピードシンボリはそんなシリウスをちらりと見やる。
呆れたように目を細めながらも、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「そうだ。現地の先生から聞いたが、あれから、いくつか検査も受けたんだろう?」
「ああ、まあな」
スピードシンボリは一度頷く。
「いや、特に問題が無いのであれば、いいんだ。ただ……」
キングジョージを終えてから、シリウスはレース後の身体の状態を確認するため、いくつかの検査を受けていた。
凱旋門賞の直後に見つかった、脚の罅。
あの一件があったこともあり、今回は陣営も慎重になっていた。
本人がいくら平気だと言ったところで、あれだけのレースを走った直後だ。
念のため、身体に問題がないかを一つずつ確認していく。
検査の結果、幸いにも大きな問題は見つからなかった。
身体的には、特に心配するような異常はない。
それが分かったことで、ようやく周囲も一息つくことができた。
そして、その頃から少しずつ具体的になっていったのが、シリウスの帰国についてだった。
シリウスが日本へ帰国する。
それは、以前から本人が口にしていたことだった。
そして、キングジョージを終えた今。
海外での大きな挑戦に一区切りをつけたこのタイミングは、帰国を決めるにはちょうどいい時期ともいえた。
もちろん、凱旋門賞の連覇を考えれば、話はそう単純でもない。
一度頂点に立った者ならば、もう一度その舞台へ挑む。
そうした期待が寄せられるのも、何も不思議なことではない。
ましてや、凱旋門賞という大舞台を制したシリウスなら、なおさらだ。
それでも、シリウスの視線はすでに別の場所へ向いていた。
海外で成し遂げたものとは別に、まだ日本で果たしていないものがある。
だからこそ、少なくとも帰国を望む意思だけは揺らがなかった。
もちろん、それだけで決まる話でもない。
シリウス本人の意思。
シンボリ家の考え。
そして、トレーナーの意向。
三者でこれからについて話し合い、それぞれの考えを確かめた。
その結果、帰国という方針に大きな異論は出なかった。
シリウスが望み、トレーナーもそれを受け入れる。
シンボリ家も以前からその意思を汲んでおり、日本で迎えるための準備も進められていた。
だからこそ、最後に必要だったのは、決まったことを実際に動かすための細かな調整だった。
現地との連絡。
帰国の日程。
国内での受け入れ。
いくつもの話を繋ぎ合わせながら、帰国の日は少しずつ近づいていった。
そして今日。
シリウスは、ようやく日本へ戻ってきた。
「……まあ、色々あったが、こうして無事に帰ってこられたんだ。ひとまずはよしとしよう」
スピードシンボリはそう言って、小さく息を吐いた。
「……珍しいな。アンタがそんな顔をするとは」
「そうか? ……いや、嬉しい悲鳴というヤツさ。だが、まあ……流石に疲労が、ね」
「ハッ、相変わらずジジイくせぇこと言いやがる」
おや、とスピードシンボリは思った。
いつものような憎まれ口。
けれど、その言葉の端には、ほんの少しだけ別のものが滲んでいるように感じた。
こちらのことを、気にしているのだろうか。
今回の帰国にあたって、シリウス本人が負担したこと以上に、あちこちへ話を通し、細かな調整に追われたのはスピードシンボリのほうだった。
もちろん、それをシリウスが気にする必要などない。
自分が引き受けたことなのだから。
それでも、こうして帰国して早々に疲れを見抜かれれば、少しくらいは「迷惑を掛けた」と思ってくれているのかもしれない。
そう考えると、なんとも不器用なものだ。
スピードシンボリの口元が、自然と緩む。
「フフッ……なに、気にすることはないさ」
疲れているのは事実だが、それも含めて今回の仕事だ。
むしろ、これほど忙しく動き回れたことを嬉しく思っている。
世界へ送り出した者を、今度は日本へ迎える。
そのために自分の仕事が役に立ったのなら、それこそ望むところだった。
「言っただろう? 嬉しい悲鳴さ」
そう言って、スピードシンボリは今度こそ、隠すことなく嬉しそうに笑った。
「アンタにそんな崇高な趣味があったなんて、知らなかったぜ」
嫌そうに顔をしかめるシリウスだったが、スピードシンボリはそれを軽く受け流す。
「それで?
「……細かいところは
それ以上は答えるつもりがないのか。
あるいは、スピードシンボリの茶化しから逃げるように、シリウスは窓の外へ顔を向けた。
流れていく街並み。
見慣れた景色。
けれど、長く離れていた間に、街は少しずつ姿を変えている。
新しくなった建物もあれば、以前とは違う景色になっている場所もある。
それらを、シリウスは黙って眺めていた。
懐かしい。
そんな感覚が、じわりと胸に広がっていく。
それにシリウスの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……フッ」
小さく息を漏らす。
その顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
久しぶりに見る日本の景色。
そして──これからここで待っているもの。
考えるだけで、少しばかり心が躍る。
シリウスは窓の外を眺めたまま、もう一度だけ口元を吊り上げた。
一方、トレセン学園のトレーナー室では。
いつもなら落ち着いた空気に包まれているはずの部屋だったが、今日はどこか様子が違っていた。
その一つとして、部屋の隅に、新しく設けられた棚がある。
まだ何も置かれていない、真新しい棚。
その中に並んでいるものはほとんどなく、少しばかり寂しいくらいにスカスカだった。
そんな棚を、パーマーはソファから眺めていた。
一角に、ぽつんと飾られた一枚の写真。
満面の笑みを浮かべる自分と、その隣で嬉しそうに微笑むトレーナーの姿が写っている。
メイクデビューで勝利を掴んだ、その直後に撮った一枚。
レースを走り終えたばかりのため、服には土がつき、髪もあちこち乱れている。
今になって見返してみれば、もう少し何とかならなかったのかな、と思わなくもない。
せめて髪くらい、もうちょっと整えてから撮るべきだった。
あのときは勝てたことが嬉しくて、それどころじゃなかったのだけれど。
「…………」
パーマーは、しばらくその写真を眺めていた。
そして、ふっと頬が緩む。
「……ふふっ」
思わず漏れた笑いを、慌てて手で押さえた。
けれど、一度緩んだ口元はなかなか元には戻らない。
写真の中の自分と、隣で笑っているトレーナー。
あの日のことを思い出すだけで、胸の奥までぽかぽかしてくるようだった。
「……やっぱり、いいなぁ」
小さく呟いて、もう一度だけ写真を見る。
その表情は、どうしようもなく嬉しそうだった。
──なのだが。
「…………はぁ」
少し離れた所では、トレーナーが難しい顔をしながら資料をまとめていた。
紙を一枚、確認しては揃える。
次の資料へ目を通し、何かを書き込む。
傍目には、いつも通り仕事をしているように見える。
ただ、頻繁に腕時計へ目を向ける。
そして、また資料へ視線を戻す。
しばらくして。
今度は机の上に置かれたスマートフォンへ目を向ける。
手を伸ばすことはない。
けれど、気になって仕方がないらしい。
また資料をまとめる。
少しして、時計を見る。
その繰り返し。
「……むぅ」
パーマーの頬が、わずかに膨らんだ。
……いや、分かってる。
こっちが勝手に盛り上がっているだけだ。
写真を見て、あの日のことを思い出して、勝手にニヤけて、勝手にテンションが上がっている。
メイクデビューでの勝利なんて、トレーナーからすれば、もう過ぎたことなのかもしれない。
そりゃあ、そうだ。
凱旋門賞とか、キングジョージとか。
そんな大きなレースと比べられたら、メイクデビューなんてまだまだ小さな一歩だ。
……いや、そもそも比べることすら烏滸がましい。
それくらいのことは、自分だって分かっている。
勝ったあとには、ちゃんとたくさん褒めてくれた。
欲しかった言葉だって、ちゃんと言ってくれた。
その後のお祝いだって、かけがえのない思い出だ。
ヘリオスに、マックイーンに、ライアン。
それだけじゃない。
メジロのみんなや、仲のいい同級生たちと一緒に、あの日は本当に楽しかった。
だから。
もう、十分なのだ。
メイクデビューは終わった。
勝った以上、次のレースに向けて準備するのは当たり前。
いつまでも浮かれていられないことくらい、分かっている。
……分かっているけれど。
もうちょっとくらい、余韻に浸らせてくれてもいいんじゃないだろうか。
もうちょっとだけ、あの日のことを一緒に思い出してくれてもいいんじゃないだろうか。
だって、それを担当と共有するのだって、トレーナーの仕事じゃないの?
……なんて。
そこまで言うのは、さすがにわがままだ。
トレーナーは、次のレースで私を勝たせるために、こうして準備してくれている。
パーマーは、ちらりとトレーナーへ視線を向けた。
「……ん?」
そこで、ようやく気づく。
今日のトレーナー。
なんだか、やけにそわそわしていないだろうか?
資料をまとめているようで、どこか上の空。
時計を気にしたかと思えば、今度はスマートフォンへ目を向ける。
それを、さっきから何度も同じことを繰り返している。
「トレーナー?」
思わず声を掛けてみる。
「…………」
返事がない。
「……?」
パーマーは首を傾げた。
聞こえていない?
それとも、本当に何かに気を取られているのだろうか。
そう思いながらソファを立ち、トレーナーのそばまで歩いていく。
「おーい、トレーナー?」
もう一度。
今度はすぐそばから声を掛けながら、その肩をちょん、と指先でつついた。
「っ!? おっと……ごめん、どうかした?」
トレーナーの肩がびくりと跳ねる。
振り向いたその顔には、驚きと同時に、どこかほっとしたような色が浮かんでいた。
「どうしたの?」
パーマーが何気なく尋ねる。
「ああ、いや……えっと……どうしようか」
トレーナーはそこで言葉を濁した。
しどろもどろになりながら、視線まで微妙に泳いでいる。
パーマーは、そんなトレーナーの顔をじっと見つめた。
「……ふーん?」
首を傾げながら、思う。
さっきから落ち着かないと思っていたけれど、こうして近くで見ると、やっぱり何か隠しているようにも見える。
そう思った途端。
パーマーの中で、小さな悪戯っ子が顔を出した。
「もしかしてさぁ」
口元が、少しずつ緩んでいく。
「何か隠してたりする?」
ほんの少しだけ身を乗り出して、にやり。
問い詰めるというより、ちょっとだけ揶揄ってみよう。
そんな楽しげな表情だった。
「……なーんて。違ったらごめんだけどさ」
言ってから、パーマー自身も少し照れくさくなったのか、誤魔化すように笑う。
「ああ、いや……ごめん、わかりやすかった?」
「いや、なんとなくそう見えただけだから。あはは……」
頬を掻きながら、少しだけ視線を逸らす。
そんなパーマーを見て、トレーナーは困ったように笑った。
「まあ、パーマーには言ってもいいかな──今日、シリウスが帰って来るんだ」
「あっ、そうなんだ! へぇ、あのシリウスさんが…………ん?」
今、なんといったのだろうか。
「シリウスって、あのシリウスシンボリ?」
「? そう、だけど?」
「それが、今日?」
「今日」
「……マジ?」
「マジだね」
数秒の沈黙。
パーマーの首が、ぎぎ……と音でもしそうなくらい、ゆっくりと動いた。
まずは、部屋の中を見渡す。
机の上には、いくつかの資料。
棚の近くには、読みかけの雑誌やら小物やらが置かれている。
ソファの脇にも、いつの間にか増えてしまった私物がちらほら。
普段使っているポーチやヘアゴム。
その隣には、飲みかけのペットボトルと、いつの間にか買っていた小さなお菓子の袋まで置かれている。
壁際には、何となく置いた私物のバッグ。
その横には、制服の上から羽織っていたカーディガンが無造作に掛けられていた。
どう見ても、自分の私物で溢れている。
「…………」
改めて見て、見直して、また見た。
うん。
思っていたより、ちょっと……いや、結構、片付いてない。
さて。
パーマー自身、シリウスのことをよく知っているかと言われれば、はっきり否定できるだろう。
実際に会ったことはあるし、会話……らしい会話もしたが、それで良く知っているとは言い難い。
だが、トレーナーからシリウスについて話を聞く機会は多かった。
だから、まったく知らない相手というわけではない。
むしろ、普通の人よりは知っていると言ってもいいくらいだ。
その上で、パーマーなりにではあるが、シリウスの人となりもある程度は分かっているつもりだ。
つまり、何が言いたいかというと。
この部屋が、トレーナーと担当ウマ娘にとって特別な場所なのは、言うまでもない。
シリウスがこれまでトレーナーと一緒に駆け抜けてきた時間。
その中で積み重ねてきた思い出や、残してきた記録。
そういったものが、この部屋のあちこちに染みついている。
言ってしまえば、二人の時間そのものが詰まった、唯一無二の場所。
そんなところに。
自分のような、まったく知らないわけではないけれど、親しいとも言い切れないウマ娘がいて。
しかも、その私物まであちこちに置かれていたら。
どう思うだろうか。
少なくとも、自分だったら。
あまり、いい気はしない。
場合によっては、普通にキレるかもしれない。
いや、そこまでいかなくても、嫌悪するだろうし、気分だって沈む。
それを当たり前のように許しているトレーナーに、文句の一つくらいは言いたくなる。
だからこそ、自分の顔が、じわじわと引きつっていくのが分かった。
「パーマー? ……ああ、大丈夫大丈夫! シリウスなら気にしないよ。何なら、前に比べたら綺麗なものだよ」
ははっ、と笑うトレーナー。
パーマーの肩が、がくっと落ちた。
その察しが良いのか、悪いのか。
というか、そういう問題じゃない、この朴念仁め。
──と、内心でそんなことまで言えるようになった自分に、ちょっと驚いたパーマーだったが。
ぴくっ、と耳が揺れる。
廊下の向こうから、足音がする。
ひとつ。
またひとつ。
一定のリズムを刻みながら、こちらへ近づいてくる。
その瞬間、パーマーの背筋をぞわりと冷たいものが走った。
足音が、どんどん近づいてくる。
しかも、間違いなくこの部屋へ向かっている。
「あ、あわわわっ……!」
パーマーの顔が、一気に青ざめる。
「ど、どうしよ……!」
慌ててソファの周りを見回す。
ポーチ。
ヘアゴム。
お菓子。
飲みかけのペットボトル。
カーディガン。
どれもこれも、自分のもの。
「パーマー? どうした?」
突然わたわたし始めたパーマーに、トレーナーが目を丸くする。
「だって、ほら! 来てる! 来てるって!」
「来てる?」
「ああ、もうっ……!」
言いかけたところで。
足音が、扉のすぐ前で止まった。
「…………!」
パーマーが息を呑む。
そして。
ガチャリと、ゆっくりと扉の隙間から顔を覗かせたのは──
「──ちょっと、いいかな?」
シリウスではなく、全然違うウマ娘だった。
そのウマ娘はひょこっと顔を覗かせたかと思えば、勝手知ったる面持ちで、そのまま室内へ入ってくる。
「シービー?」
トレーナーが目を丸くする。
気まぐれな風のような彼女、ミスターシービーがそこに居た。
「久しぶりだね。……と、言っても、お互い遠目には見えていたけど」
そう言って、シービーは軽く笑う。
「──おいおい、ノックぐらいしろっての」
その背後から、呆れたような声が飛んでくる。
「エースさん?」
「よっ。邪魔するぜ、パーマー」
予想外の人物に目を丸くするパーマー。
まさか、尊敬する先輩であり、同室でもあるカツラギエースがここに訪れるとは思いもしなかった。
だが、その二人だけでは終わらない。
彼女に続くように、さらに別のウマ娘が姿を見せる。
「ハァイ、失礼するわね」
「えっ、マルゼンスキーさん!?」
後に続いて顔を見せたのは、マルゼンスキーだった。
ミスターシービー、カツラギエース、マルゼンスキー。
かつて一世を風靡した者たちであり、今なお多くのウマ娘やファンたちから名を知られる者。
そして、それぞれの時代を代表するような実力者たち。
そんな、世代すら飛び越えた顔ぶれが、まるで示し合わせたかのように、このトレーナー室へ集まっている。
パーマーは、その光景にただただ目を白黒させていた。
そして──
「──失礼するよ」
最後に姿を現したのは、シンボリルドルフだった。
室内を見渡したルドルフは、そこでわずかに眉を下げる。
「すまない。急な訪問になってしまって……」
申し訳なさそうに笑うルドルフ。
「ルドルフ、これは一体……」
トレーナーが困惑した声を上げる。
無論、ここにいる全員が初対面というわけではない。
それぞれ顔見知りであり、特にシリウスが国内で走っていた頃には、何かと接点も多かった者たちだ。
とはいえ、これだけの顔ぶれが突然トレーナー室に揃えば、戸惑うのも無理はない。
そんなトレーナーの疑問に答えたのは、シービーだった。
「いやぁ、ルドルフが普段とちょっと様子が違ったからさ。少し探ってみたんだ」
「ハハっ、いや、全く……表に出したつもりはなかったのだが」
いたずらが成功した子供のように、シービーがウィンクする。
対するルドルフは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「私からすれば随分と分かりやすかったわよ?」
「……もしかして、朝から気が付いていたのかい、マルゼンスキー?」
「さあ、どうかしらね?」
マルゼンスキーもまた、楽しそうにウィンクを返す。
「……はぁ、本当にすまない」
ルドルフは、今度こそ疲れ切ったように小さく息を吐いた。
そこまで聞いて、トレーナーもようやく「ああ」と納得する。
なるほど。
どうして、この四人がここにいるのか。
「帰国早々、迷惑だろうと伝えたのだが……まあ、こうして押し切られてしまったよ」
「こういうのは初日が肝心なんだよ?」
シービーが、どこか楽しそうに口を挟む。
「なんでだよ? あっ、あたしは普通に止めたからな?」
エースが慌てて弁明する。
どうやら、少なくとも彼女だけは最初からこの騒ぎに乗り気だったわけではないらしい。
「ああ、いや……別に学園内なら問題ないよ。それに、自分たちだけだと、味気ないかな、と思っていたから」
「ほら、彼もそう言ってるし?」
シービーが、にやりと笑う。
「……君がそう言うのなら良いんだが」
そう答えながらも、ルドルフの表情にはどこか引っかかるものがあった。
ほんのわずかに眉を寄せ、ちらりと室内を見渡す。
何かを心配しているようにも見える。
あるいは、この先に待っているであろう何かを、すでに予想しているような。
「まあ、せっかくだし珈琲でも淹れようか?」
「むっ、それは願ってもいない提案だ。あれから、色々と試してはいるんだが──」
その言葉をきっかけに、二人の話題は自然と珈琲へ移っていく。
以前にも話したことがあるのだろう。
豆の種類や淹れ方、湯の温度まで、互いに試したことや気になったことを口にしている。
いつの間にか、二人だけの共通の話題で盛り上がり始めていた。
その一方で。
「ふぁ〜……」
シービーは、すっかりくつろいでいた。
ソファに腰を下ろし、背もたれへ身体を預けている。
「うん、いい感じだね、ここも。落ち着くよ」
「いや、なんでそんな勝手知ったる感じなんだよ……」
エースが呆れたように呟く。
「エースは気にしすぎだよ。細かいことは気にしない、気にしない」
「気にしろっての」
そんな二人のやり取りを横目に、マルゼンスキーがパーマーへと視線を向けた。
「そういえば、パーマーちゃん」
「は、はい?」
「メイクデビュー、改めておめでとう。ちゃんと見てたわよ」
「えっ」
思わぬ言葉に、パーマーの耳がぴくっと揺れる。
「中々、派手にやったよな! カッコよかったぜ!」
エースも笑いながら続ける。
「勝ったんだから、もっと胸張っていいのよ?」
「えっと、はい、ありがとうございます……あはは」
褒められるのは嬉しい。嬉しいのだけれど。
ついさっきまで、自分が一人で眺めていた写真のことまで思い出してしまう。
パーマーは何とも言えない気持ちになって、誤魔化すように笑いながら頬を掻いた。
その間にも、シービーはソファでのんびりとくつろぎ、エースとマルゼンスキーはパーマーを囲んで楽しそうに話している。
ルドルフとトレーナーは少し離れたところで、珈琲を話題に会話を続けていた。
誰もが好き勝手に喋り、笑い、思い思いに時間を過ごしている。
いつの間にか、トレーナー室はすっかり賑やかな空気に包まれていた。
──そんな中。
誰にも気づかれることなく、机の上のスマートフォンが小さく震えていた。
そして、廊下の向こうから、トレーナー室へ近づいてくる足音。
一歩。
また一歩。
その足音が扉の前で止まった。
そして、何の前触れもなく扉が開かれる。
「──おっ、主役の登場だな」
「やっほー、シリウス。お邪魔してるよ」
「ハァーイ、久しぶりね!」
「やあ、シリウス。長旅だったろう」
「ひぇ、あ、ああ、えっと……お久しぶりですっ!」
扉を開けたシリウスは、そこで足を止めた。
帰国前に予想していた光景とは、あまりにもかけ離れていたからだ。
声が聞こえていたから、まさかと思っていたが、トレーナー室に並ぶ、見慣れた顔ぶれ。
さすがのシリウスも、僅かに面食らったように目を見開いた。
だが、その視線が、室内の奥へと向けられる。
そして、すぐに見つけた。
自分の帰りを待っていたであろう、人物を。
「──おかえり、シリウス」
その言葉とともに、トレーナーの表情がふっと綻び、笑みが浮かんだ。
「────……」
シリウスの表情が、ほんの一瞬だけ固まる。
「……ハァ」
そして、大きく息を吐いて、片手で顔を覆った。
「何でお前らが此処にいるかは、この際聞かねェ」
心底呆れたような、疲れ切ったような声。
「とりあえず──」
シリウスは顔を上げる。
そして、室内にいる全員をぐるりと見渡して言った。
「全員、出ていけ」
感想及び評価、ありがとうございます。出来る限り感想は返していきたいとは思っています。また、誤字脱字報告、大変助かっております。