「──いや、それは駄目だ。シリウス」
「……ほう?」
シリウスの口元が、わずかに歪んだ。
「帰って早々、それか。お前も相変わらずだな」
「君もね」
「ハッ。言ってろ」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、シリウスの口元には薄い笑みが浮かんでいる。
だが、それも束の間。
ふっと口元から笑みが消えると、わずかに細められた瞳が、真っ直ぐトレーナーを捉えた。
「──で? 理由くらいは聞いてやる。何が気に入らねぇ?」
鋭い眼差しが、さらに細められる。
試すような、値踏みするような視線。
トレーナーは、真正面からその視線を受け止めた。
しばし、二人の視線が交錯する。
そんな二人を少し離れたところから眺めながら、パーマーはひっそりと息を呑んだ。
なんで、こんなことになってるんだろう。
心の中でそう呟きながら、ソファの端にちょこんと腰掛ける。
背もたれには寄りかからず、背筋はぴんと伸ばしたまま、膝を揃え、その上で両手をきゅっと握っていた。
片や、悠然と構えるシリウス。
片や、その視線を真っ向から受け止めるトレーナー。
二人の間には、先ほどまでとは明らかに違う緊張感が漂っていた。
別に怒鳴り合っているわけではない。
険悪な雰囲気というわけでもない。
それなのに、やけに息苦しい。
時折、冷や汗が頬を伝う。
口を挟むなんて、とてもじゃないけどできない。
かといって、席を立つタイミングも分からない。
下手に動けば、それだけで二人の視線が自分へ向いてしまいそうな気がして、身じろぎすることさえ躊躇われた。
ただ、二人のやり取りを固唾を呑んで見守るしかない。
私も一緒に出ていけばよかったぁ……っ!
今さらながら、猛烈な後悔が押し寄せる。
つい先ほどまでこの部屋にいた偉大な先輩たちは、もう誰一人として残っていない。
シリウスの一言を前にしても、そんなの関係ないとばかりに居座ろうとしていたシービーだったが、エースとマルゼンスキーに背中を押されるようにして部屋の外へ。
ルドルフもまた、そんな三人に続くようにシリウスへ一言だけ声をかけ、その場を後にしていた。
「こっちの方が手っ取り早い。お前だって分かってるだろ?」
「もちろん。君の言ってることは間違ってないさ。でも、それでもまだ慎重に行くべきだ」
即座に返ってきた言葉に、シリウスの目が僅かに細まった。
トレーナーも引く気はないらしい。
ほんの数秒だが、互いに何も言わない時間が流れる。
先に動いたのは、シリウスだった。
何も言わないまま、僅かに顎を上げる。
その視線だけが、真っ直ぐにトレーナーを射抜いた。
──言ってみろ。
声に出さずとも、そう言っているのがパーマーにも分かった。
「こっちの感覚を取り戻したいのは分かってる。そのために、最初からそれなりの相手と走りたいっていうのもね」
シリウスは口を挟まない。
腕を組んだまま、ただ黙って続きを待っている。
「でも、確かめたいことを一つずつ確かめてからでも遅くない。少なくとも、今すぐ一番大きなところに飛び込む必要はないよ」
静寂が落ちる。
シリウスは答えず、ただ、じっとトレーナーを見据えていた。
しかし、先ほどまでとは違う。
細められた瞳から放たれる圧が、じわじわと増していく。
そんな状況に、パーマーはますます身体を小さくした。
できることなら、このまま壁の染みにでもなってしまいたい。
そんなことを考えながら、ただひたすら気配を消すことに徹する。
「……フン」
シリウスが小さく息を吐く。
それだけで、張り詰めていたものがふっと霧散した。
「まあいい。そこまで言うなら、お前の案を聞かせろ」
その瞬間、パーマーの全身から一気に力が抜けた。
それまでぴんと伸ばしていた背中が、へなへなとソファの背もたれへ沈み込む。
自分が何かを言われていたわけでもないのに、九死に一生を得たような気分だった。
どっと疲れが押し寄せて、密かに胸を撫で下ろす。
それにしても。
ちらりと、トレーナーを見る。
よく、あんなのを真正面から受け止められるなと、素直に感心してしまう。
別に、シリウスが怒っていたわけではないのだろう。
むしろ、あれくらいは彼女にとって普通のことなのかもしれない。
ただ、本人にそのつもりがなくとも、あの鋭い眼差しでじっと見据えられれば、それだけで十分すぎるほどの圧がある。
人となりが分かっていたところで、怖いものは怖い。
自分だったら三秒と持たずに目を逸らしてしまう──いや、下手をすれば泣いてしまうかもしれない。
それに比べて、トレーナーはどうだろう。
いつも以上に真剣な顔こそしていたものの、最後までシリウスから目を逸らすことはなかった。
あのシリウスシンボリとずっと一緒にやってきたのだから、これくらいは慣れっこなのだろうか。
やっぱり、すごいんだなぁ……。
改めて感心しながら、パーマーは一人うんうんと頷く。
そう考えてみれば、今までだってそうだ。
普段は穏やかで、ちょっと抜けているところもあって。
話していても変に気を張る必要がないし、こちらが肩肘を張っていれば、いつの間にかその力を抜かれている。
そんな普段の姿を見ていると、つい忘れてしまいそうになる。
この人は──あのシリウスシンボリとずっと一緒に走ってきた人なのだ。
そして、彼女を世界の頂点まで連れていったトレーナーでもある。
トレーニング中、不意に見せる真剣な表情。
走りを見つめる時の鋭い眼差し。
いつもの穏やかな調子とは少し違う、迷いのない声。
そういう時だけ、普段の柔らかな雰囲気がふっと消える。
自分では気づかなかった癖をあっさりと言い当てられたり。
言われた通りに身体を動かしてみれば、それまでとは走りの感覚がまるで変わってしまったり。
そんなことが、今までにも何度かあった。
その度に思う。
ああ、やっぱりこの人、すごい人なんだなぁ、と。
別に、本人がそれをひけらかすことはない。
むしろ普段だけ見ていれば、そんなことを忘れてしまいそうになるくらいだ。
でも、不意に覗くその横顔は、思わず見入ってしまうくらい格好よく見えることがある。
なんていうか、こう……。
いつもはあんな感じなのに、真剣な時だけ急に雰囲気変わるの、ずるくない?
時々こうやって普段とは全然違う顔を見せてきて、そういうのはちょっと反則というか、ずるいというか、別に変な意味じゃなくて、ただ純粋に格好いいなって思っただけで、そもそもトレーナーなんだから頼りになるのは当たり前だし、私だって今まで何度も助けてもらってるわけだし、だからそう思うのだって別に全然おかしくなくて、むしろ普通で、普通なんだけど──
「──おい」
「ひゃいっ!?」
突然飛び込んできた声に、パーマーの肩がびくんと跳ねた。
弾かれたように顔を上げる。
「えっ!? な、なに!? ごめん、全然聞いてなかったっ!」
慌てて声のした方を見れば、いつの間にかシリウスとトレーナーの二人がこちらを見ていた。
シリウスは呆れたような顔。
トレーナーはどこか苦笑気味。
どうやら、随分と自分の思考に入り込んでしまっていたらしい。
二人分の視線を一身に受けた途端、パーマーの頬にじわりと熱が集まる。
変な顔、してなかったよね?
いや、別に変なこと考えてたわけじゃないけど。
ないんだけど、なんとなく今は顔を見られたくないというか。
考えれば考えるほど、ますます頬が熱くなっていった。
そんなパーマーの様子を不思議に思ったのか、トレーナーが少し心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫っ! なんでもない、なんでもないから!」
そのパーマーの反応にシリウスの片眉が、わずかに持ち上がる。
妙に早口なパーマーの返事に、その目がすっと細められた。
赤らんだ頬から、所在なさげに泳ぐ視線へ。
何かを探るように一度だけ眺めてから、やがてどうでもよさそうに小さく鼻を鳴らした。
一方、トレーナーはというと、まだ少し心配そうにパーマーの顔を覗き込んでいる。
「そうかい? 無理はしないでいいからね」
そう念を押してから、ようやくシリウスへと向き直った。
「それで、パーマーには……」
そこまで口にしたところで、ふと何かを思いついたように言葉が止まった。
シリウスから、再びパーマーへ。
トレーナーの視線が行き来する。
「いや、せっかくだし。パーマーも一緒に走ってみようか」
「……冗談だろ?」
シリウスが眉を顰める。
呆れたような顔でトレーナーを見るが、当の本人は至って平然としていた。
その様子をしばらく眺めていたシリウスの眉間に、さらに深く皺が寄る。
「オイ、本気で言ってんのか?」
「うん」
トレーナーはあっさりと頷く。
「それに、パーマーにとってもいい経験になるだろうし」
「えっと……?」
パーマーは二人を交互に見る。
何が?
何の話?
ていうか、私が何に混ざるの……?
さっぱり分からない。
だが、自分だけが完全に話から取り残されていることだけは分かる。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
待っていれば説明があるかと思ったが、二人は二人で話が通じてしまっているらしい。
「え、待って待って。ごめん、私ぜんっぜん話についてけてないんだけど……?」
堪えきれずに口を挟む。
そんなパーマーの様子に、ようやく気づいたトレーナーは、一瞬だけ目を丸くしたあと、少しだけ笑った。
「ちょっとした模擬レースをしてみようって話だよ」
──それから、数日後。
自分の記憶が正しければ、間違いなくそう言っていたはずだ。
そのはずなのに……。
パーマーは、引き攣った笑みを浮かべたまま周囲を見渡した。
視線の先にあるのは、ずらりと並んだ人、人、人。
コースの外には、いつの間に聞きつけたのか、多くのウマ娘やトレーナーたちが集まっていた。
誰もがこれから始まる模擬レースを一目見ようと、期待に満ちた視線をこちらへ向けている。
どうしてこうなった。
そんな言葉が、真っ先に頭へ浮かぶ。
しかも、驚くべきことにそれだけではない。
何気なく視線を巡らせたパーマーは、コースを見渡せる一角でぴたりと目を止めた。
「…………?」
一度、通り過ぎる。
そして、もう一度戻す。
そこには机が一つと、並べられた二脚の椅子。
机の上にはマイクや資料まで用意されている。
どう見ても──実況席だった。
「なんで?」
思わず首を傾げる。
模擬レースに実況席なんて必要なのだろうか。
いや、そもそも誰がこんなものを用意したのか。
もっとも、その疑問は、そこにいる人物を見た瞬間に半分くらい解決した。
ゴールドシップである。
そして、その隣にはどういう経緯で巻き込まれたのか、メジロマックイーンの姿まであった。
「……どうして私まで、ここにいるのでしょう」
机に置かれた資料の束を前に、マックイーンが深々とため息をつく。
「なんだよマックちゃん、景気の悪ぃツラしてんなぁ。こんな面白そうなモン、特等席で見なきゃ損だろ?」
「それと私がここに座らされていることに、なんの関係がありますの?」
「あるに決まってんだろ。アタシが実況、マックちゃんが解説。んで、いざって時は二人で緊急脱出だ」
「どこへ脱出するおつもりですの!?」
どうやら、マックイーンは自分からここへ来たわけではないらしい。
対するゴールドシップは、そんな抗議などどこ吹く風。
近くにいるウマ娘たちへ、次から次へと指示を飛ばしている。
「ほら、そこのオマエ! 椅子あと半歩右! マイクチェック急げー! おい誰だ、ゴルシちゃん特製くす玉を逆さに吊ったヤツ! 中身の昆布が全部出ちまうだろーが!」
「……なんだか、頭が痛くなってきましたわ」
こめかみに手を添え、マックイーンが重たいため息をつく。
「おっ、そいつぁ大変だ。んじゃ景気づけに派手なの一発いっとくか! おーい、くす玉担当! 前倒しで一発ぶちかませー!」
「悪化させてどうしますの!?」
「細けえこと気にすんなって! せっかくの祭りだぞ? 景気よくドカーンといこうぜ、ドカーンと!」
「これは模擬レースですわ! いつからお祭りになりましたの!?」
マックイーンの声が辺りに響く。
けれど、ゴールドシップはまるで気にした様子もない。
むしろ楽しそうに、にやりと口角を上げた。
「凱旋門帰りのウマ娘が学園でひとっ走りだぜ? こいつぁ見逃したら二代先まで後悔すんぞ」
「二代先まで引きずるようなことではありませんわ……」
うん。なんか、あっちはあっちで大変そうだ。
これ以上見ていると巻き込まれそうな気さえして、パーマーはそっと視線を逸らした。
それにしても。
実況席まで用意されているとなると、もはや自分が聞いていた「ちょっとした模擬レース」とは随分様子が違う。
とはいえ、これだけの騒ぎになった理由が分からないわけでもなかった。
何しろ、今日はシリウスシンボリが走るのだ。
凱旋門賞を制し、キングジョージを走り抜き、欧州から帰国したばかりの彼女が、再び日本のターフを駆ける。
正式なレースではない。
それでも、その走りを一目見られると知れば、多くのウマ娘やトレーナーが集まるのも無理はないのだろう。
そこまでは分かる。
そこまでは。
──問題は、それだけじゃないんだよなぁ……。
パーマーは引き攣った笑みを浮かべたまま、今度はゆっくりと隣へ視線を向けた。
そこには、これから自分と同じコースを走ることになるウマ娘たちがいた。
「ふあぁ……いい天気。走るにはちょうどいいね」
芝生の上で、ミスターシービーが猫のように大きく伸びをする。
空を仰ぎ、両腕をいっぱいに広げる姿は、これからレースを控えているとは思えないほど自然体だった。
「お前なぁ……もうちょい気合い入れろよ。これから走るんだぞ?」
「入ってるよ?」
「どこがだよ」
「ふふっ、いいじゃない。シービーちゃんらしくて♪」
呆れたように声を掛けるカツラギエースの傍らで、マルゼンスキーがくすりと笑う。
シービーとは対照的に、エースは先ほどからじっとしていない。
軽く跳ねてみたり、脚を振ってみたり。身体をほぐしているだけにも見えるが、その表情にはどこか待ちきれない様子が滲んでいた。
一方のマルゼンスキーは、二人のやり取りを楽しそうに眺めながら、ゆっくりとアキレス腱を伸ばしている。
動作こそ穏やかだが、その一つ一つは丁寧で、着々と走るための準備を整えていた。
「エースちゃんこそ、さっきからソワソワしすぎじゃない?」
「し、してねえよ! ちょっと身体動かしてただけだって!」
「へえ。楽しみなんだ?」
「……そりゃ、まあ。久しぶりにこのメンツで走れるんだからな」
「そっか、アタシも楽しみ」
シービーが風に揺れる髪を押さえながら、のんびり笑う。
「今日はどんな感じになるんだろうね」
「それは、走ってからのお楽しみね♪」
「おう! んじゃ、いっちょ派手にいこうぜ!」
三人の間に、張り詰めた様子はない。
久しぶりに顔を合わせた友人同士が、これから一緒に遊びにでも出かけるような気軽さ。
それでも、三者三様に身体はすでに走る準備へと入っていた。
数々の大舞台を沸かせてきた、名だたるウマ娘たち。
そんな三人が今、同じコースへ立とうとしている。
そして、少し離れたところにも別の一団があった。
「ヤエノさん、少し息が上がってませんか? 『走る前こそ、心にブレーキを』ですっ。怪我だけはしないようにしてくださいね!」
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、ご心配なく! これほどの強者と一堂に走れる好機……武者震いを抑えられずにいるだけです!」
サクラチヨノオーの心配そうな声に、ヤエノムテキが力強く応える。
握った拳を胸元へ。
一度、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
昂っていることを隠そうともしていない。
それでいて、その視線は真っ直ぐにこれから走るコースへと向けられていた。
「ふふっ。ヤエノさんらしいですね。でも、チヨノオーさんの言う通りですよ。逸るお気持ちはわかりますが、どうかご無理だけはなさらないでくださいね」
「無論です、アルダンさん! 心は烈火の如くとも、走りは冷静に──この機会、一瞬たりとも無駄にはいたしません!」
メジロアルダンが穏やかに声を掛けると、ヤエノは大きく頷いた。
「えへへ。そうですよ。ヤエノさんばっかり先に燃え尽きちゃったら困りますからね!」
「む……確かに、それは一理あります」
「でしょう?」
チヨノオーが得意げに胸を張る。
その明るさにつられるように、張り詰めていたヤエノの表情もほんの少しだけ和らいだ。
「ですが、チヨノオーさんも随分楽しみにされているように見えますよ?」
「えっ? わ、分かりますか?」
「はい。とても」
「うぅ……。だって、仕方ないですよ。マルゼンさんたちに、シリウスさんまでいるんですよ? こんな機会、滅多にありませんから!」
誤魔化すように笑いながらも、チヨノオーの視線は自然と先ほどの三人へ向かう。
──いや。
正確には、その中の一人へ。
楽しげに笑いながら身体をほぐしている、マルゼンスキーへと。
途端に、その瞳がきらきらと輝いた。
「マルゼンさんの走りを、こんな近くで見られるんだ……」
ぽつりと零れた声は、抑えきれない喜びに弾んでいた。
ずっと憧れ続けてきた背中。
その走りを、今日はすぐ目の前で見ることができる。
それだけでも、胸が高鳴る。
高鳴る、のだけれど。
「……本当は、私も一緒に走りたかったですけどね」
ほんの少しだけ、声の調子が落ちた。
けれど、それも束の間。
チヨノオーはすぐにぱっと顔を上げる。
「でも、今はちゃんと治すのが先ですから! 無理してまた走れなくなっちゃったら、それこそ意味ないですし!」
自分に言い聞かせるように、ぐっと拳を握る。
その横顔を見つめていたアルダンが、静かに目を細めた。
「……そうですね」
短い返事には、どこかチヨノオーと同じ響きがあった。
そしてアルダンもまた、ゆっくりと視線を巡らせる。
これからコースへ向かうウマ娘たち。
その姿を追っていた視線が、やがて少し離れたところで静かに止まった。
その先にいるのは、メジロラモーヌ。
制服姿のまま、騒がしい周囲とはどこか一線を画すように佇み、これから始まるレースを見つめている。
アルダンはしばらくその姿を見つめてから、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「……私も、本当は走りたかったです」
「アルダンさんも?」
「ええ」
小さく頷き、もう一度ラモーヌへ視線を向ける。
「これほど素敵な方々が一堂に会しているのですもの。できることなら、私もその中に立ってみたかったです」
それから、ほんのわずかに微笑んで。
「……姉様にも、見ていていただきたかったですし」
チヨノオーが一度だけ目を瞬かせる。
それから、自分もマルゼンスキーへと目を向けた。
「……えへへ。やっぱり、そうですよね」
「ふふっ。ええ」
二人の間に、小さな笑みが零れる。
走りたい。
けれど、今は走れない。
それを一番よく分かっている二人だからこそ、それ以上の言葉はいらなかった。
「ですから──」
アルダンが改めてヤエノへ向き直る。
「ヤエノさんは、どうか存分に走ってきてください。今日、この瞬間にしかできない走りを」
「はいっ! 私たちの分まで、思いっきりぶつかってきてください!」
「承知しました!」
ヤエノが力強く頷く。
三人のうち、今からコースへ立つのは一人だけ。
それでも、向けられる視線は同じ場所へ。
ヤエノは一度大きく息を吐き、静かに呼吸を整える。
その傍らで、チヨノオーとアルダンもまた、これから始まるレースへと視線を向けていた。
「──タマちゃん、じっとしててくださいね~」
「……なんや?」
「髪が少し跳ねてますよ~。せっかくですから、綺麗にしてから走りましょうね♪」
「ええって! 今から走ったらどうせグチャグチャなるわ!」
「あらあら。でも、みんな見てますよ~?」
「うっ……」
タマモクロスがちらりと周囲を見渡す。
コースの外を埋めるように集まった、多くのウマ娘やトレーナーたち。
その中の少なくない視線がこちらにも向けられていることを改めて意識したのか、ぴょこんと耳が揺れた。
「……ほんならちょっとだけやぞ」
「はい♪ いいこいいこ~」
「頭撫でろとは言うてへんわ!」
すぱん、とクリークの手を払い落とす。
「ったく……油断も隙もあらへんな、アンタは」
「うふふっ。ごめんなさい。つい♪」
「絶対反省してへんやろ……」
ぶつぶつと文句を言いながら、タマモクロスは乱された髪を自分で整える。
そんな彼女を、スーパークリークは楽しそうに見つめていた。
「……それにしても」
ふと、クリークの声色が変わる。
その視線の先にいるのは、今日ここを走るウマ娘たちだった。
「すごい方たちばかりですね~」
「……せやな」
タマモも、その視線を追う。
ミスターシービー。
マルゼンスキー。
カツラギエース。
そして──シリウスシンボリ。
先ほどまでクリークに振り回されていた姿が嘘のように、タマモの表情からふっと笑みが消えた。
「まったく……とんでもないメンツ集めよってからに」
小さく息を吐く。
だが、その口元はすぐに僅かに吊り上がった。
「凱旋門賞ウマ娘まで混ざっとるんや。模擬レースなんてかわいいもんやないで、これ」
「ふふっ。タマちゃん、楽しそうですね~」
「……そらな」
否定するどころか、その瞳に宿る光が一段と鋭くなる。
「世界獲って帰ってきたヤツが、どんな走りするんか──そんなん、気にならんわけないやろ」
ぐっ、と拳を握る。
「それに、走る前から名前にビビっとったら話にならへん」
白い稲妻が、不敵に笑った。
「世界一やろうがなんやろうが、同じコース走る以上は関係あらへん。ウチはウチの走りするだけや」
「はい。タマちゃんなら、きっとそう言うと思ってました」
「……なんやねん、それ」
「だって──」
クリークは柔らかく微笑む。
「今のタマちゃん、とっても楽しそうですから♪」
「……へっ」
一瞬だけ目を丸くして。
タマモは鼻の下を指で擦った。
「まあな」
そして、改めてコースへ向き直る。
「こんだけ強いヤツがおるんや。燃えへん方がおかしいっちゅうねん」
「ふふっ。そうですね~」
クリークもまた、並んだ顔ぶれへと目を向ける。
「私も、今日はしっかり走らせてもらいますね」
「おう。せっかく走るんや、遠慮なんかすんなよ?」
「はい。こんな機会、なかなかありませんもの。いろんなことを勉強できそうで、楽しみです~」
「……アンタ、相変わらずのんびりしとるなぁ」
「あら、そうですか~?」
「そうやっちゅうねん」
呆れたように言いながらも、タマモの口元には笑みが浮かんでいた。
その瞬間。
先ほどまでクリークに髪を直され、子どものように文句を言っていた姿は、もうどこにもなかった。
春の天皇賞、そして宝塚記念。
並み居る強豪を相手に圧倒的な走りを見せ、今なお破竹の勢いで勝ち星を重ね続けるウマ娘──タマモクロス。
小柄な体躯からは想像もつかないほど、その身に纏う空気は鋭い。
研ぎ澄まされた眼差し。
僅かに吊り上がった口元。
白い稲妻。
今まさに日本のターフを席巻するそのウマ娘が、世界を獲って帰ってきたシリウスシンボリを前に、静かに牙を覗かせていた。
「──で、トレーナー連中は何しとんねん」
ふと視線を向ければ、少し離れたところで何やら集まっている。
その中心にいるのは、シリウスのトレーナーだった。
向こうが頭を下げれば、こちらも頭を下げる。
こちらが恐縮すれば、向こうも慌てて恐縮する。
シリウスと走らせてもらえるだけでもありがたい。
いやいや、こちらからお願いしたことなので。
そんなやり取りでもしているのだろう。
さっきから互いにペコペコと頭を下げ合って、一向に話が終わる気配がない。
「……アホかいな」
呆れたように呟くタマモの隣で、クリークは頬に手を添えた。
「あらあら。どちらも譲る気がなさそうですね~」
「ほっとけほっとけ。そのうち終わるやろ」
「それなら、私が行って──」
言うが早いか、クリークが一歩踏み出す。
「待て待て待て!」
タマモは慌ててその腕を掴んだ。
「あら? どうしてですか~?」
きょとんと首を傾げるクリーク。
どうやら本気で分かっていないらしい。
「どうしても何もあるか! アンタが行ったら、話し合いやなくてお世話の時間になるやろ!」
「まあ。皆さんお困りみたいですし、それもいいかもしれませんね~」
ぱっと嬉しそうに微笑むと、クリークはそのまま歩き出そうとする。
「せやから、よくない──って、ちょ、待て!?」
タマモはクリークの腕を両手で掴み、全体重をかけるようにして踏ん張る。……が。
「力つよっ!?」
「あらあら?」
「『あらあら』やない! 誰かーっ! 誰かコイツ止めてくれーっ!!」
タマモクロスの悲鳴じみた声が、辺り一帯に響き渡る。
少し離れたところからその光景を眺めていたパーマーは、なんとも言えない顔のまま、そっと視線を逸らした。
もう、どこから突っ込めばいいのか分からない。
見渡せば、右も左もとんでもない顔ぶればかり。
シービーたちは相変わらず楽しげに言葉を交わし、その少し向こうではチヨノオーとアルダンに見送られながら、ヤエノが着々と準備を進めている。
タマモはクリークを止めるのに必死で、当のクリークはどうして止められているのかも分かっていないような顔をしていた。
さらに離れたところでは、トレーナーたちが未だに何やら話し込んでいる。
そしてコースの外へ目を向ければ、こちらを取り囲む大勢の観客。
実況席ではゴールドシップが忙しなく動き回り、その隣からは時折マックイーンの鋭い声が飛んでくる。
あっちを見ても、こっちを見ても、賑やかなんてものじゃない。
「うへぇ……」
思わず、そんな声が漏れた。
改めて考えてみてもおかしい。
自分が聞いていたのは、あくまで『ちょっとした模擬レース』だったはずだ。
それがどうして数日経っただけで、こんなことになってしまったのか。
何より、そのとんでもない顔ぶれの中に、自分も混ざって走るのである。
考えれば考えるほど、胃の辺りがきゅっと縮こまっていく。
できることなら今からでも、しれっと観客側へ紛れ込んでしまいたい。
あの人混みなら、一人くらい増えてもきっと分からない。
──なんて。
そんなことができるはずもなく、パーマーはがっくりと肩を落とした。
【8話 勝者】についてコースにおける表記及び描写に誤りがあったため、調整致しました。
「第1コーナー」「第3コーナー」といった日本の4コーナー制のような呼称を「最初のカーブ」「最後のカーブ」などへと改めています。
コースの回り方(右回り)に伴う内外の位置関係の修正。
アスコット競馬場は右回りのため、走るウマ娘から見た内ラチ(内柵)と外側の包囲網の左右位置関係、および進路取りの描写を正しい内外の構造に合わせて見直しました。
大きくは変えてませんが、一部表現が変わっています。ご指摘ありがとうございました。
また、シングレを意識してはいますが、大まかな部分に関しては、あくまでもアプリ基準で考えていますので、ご容赦ください。