「──チッ、どうもまだしっくりこねぇ」
シリウスはタブレットに映し出された自身の走りを眺めながら、不満げに舌打ちした。
画面の中では、先ほど撮影したばかりの自分が、芝のコースを勢いよく駆け抜けている。
「ほらよ」
シリウスがタブレットを差し出すと、ベンチに腰掛けていたトレーナーは、それを慣れた手つきで受け取った。
その様子を横目に、シリウスも隣へ腰を下ろす。
首に掛けていたタオルで額の汗を軽く拭うと、テーブルに置かれたスポーツドリンクを手に取り、そのまま喉を潤した。
現在、二人がいるのは、シンボリ家が所有するトレーニング施設。
丁寧に整備された芝のコースに、その脇に設けられた屋根付きの休憩スペースなど、個人所有の施設としては随分と贅沢な造りだった。
ここ数日、シリウスは学園を離れ、この場所で調整を続けている。
きっかけとなったのは、先日の模擬レース。
観戦していた生徒たちが撮影した映像の一部がネット上に投稿され、瞬く間に広まってしまったのだ。
もっとも、学園内の模擬レースの映像がネットに出回ること自体、そう珍しい話ではない。
シリウスの帰国もすでに公になっており、今さら隠し立てするようなことでもなかった。
ただ、凱旋門賞を制したばかりの彼女が、帰国早々、名だたるウマ娘たちと競い合っていたとなれば話は別だ。
映像が広まるにつれ、学園には取材や問い合わせが相次ぎ、対応に追われる職員や生徒会も、少々手を焼いているらしい。
当然、その騒ぎはシリウス自身だけでなく、担当するトレーナーにも及んでいた。
あまりの煩わしさに、シリウスは一度会見でも開いてまとめて片づけようとしたが、トレーナーがそれを制止。
今は調整に専念すべきだと、シンボリ家の施設へ一時的に拠点を移すことを提案した。
シリウスもそれならばと了承し、こうしてしばらくの間、学園を離れた場所で調整を続けることになったのである。
もっとも、トレーナーには学園での仕事にパーマーのこともあるため、こちらに付きっきりというわけにはいかない。
そのため、学園とシンボリ家の施設を行き来しながら、シリウスの調整に付き合っていた。
「……うん、外から見ている分には、特に問題なさそうなんだけど」
受け取ったタブレットの画面には、滑らかなフォームで芝を駆け抜けるシリウスの姿が映し出されていた。
実際、その走りは見事なものだった。
無駄のない身体の運びに、力強く伸びるストライド。
加速も滑らかで、速度に乗ってからのフォームにも目立った乱れはない。
模擬レースで見られたような、不自然な加減速もすっかり影を潜めていた。
計測したタイムも申し分なく、傍から見れば完成された走りと言っても差し支えないだろう。
だが、それでもシリウス自身は納得していなかった。
思い返すのは、先日の模擬レース。
日本の芝がもたらす、想定以上の反発力。
あのとき感じた走りの違和感については、すでにおおよその見当がついていた。
しかし、原因に見当がついたからといって、数年間かけて身体に叩き込んできた走りが、そう簡単に日本の芝と噛み合ってくれるわけではない。
欧州で磨き上げた力強い踏み込みと、日本の硬い芝が生む反発。
その微妙な噛み合わせを調整するため、シリウスは連日、細かな修正を重ねていた。
その甲斐もあって、少なくとも目に見える問題はほとんど解消されている。
それでも、本人が感じるわずかな違和感だけは、どうしても拭いきれずにいた。
「……外から見て問題ねぇってんなら、やっぱり感覚の問題か」
「そうだね。模擬レースの映像も見直したけど、フォーム自体に大きな問題はなかったし」
「ああ。だが、踏み込んだときの感覚が、まだ微妙に噛み合わねぇ」
フォームや加速のタイミング、走りの組み立てにも、これといった問題は見当たらない。
では、シリウスが感じている違和感の正体は何なのか?
単に、長年染みついた感覚が日本の芝に馴染んでいないだけなのか。
それとも、目に見えるフォームの乱れとは別に、何か見落としているものがあるのだろうか。
トレーナーは何度も映像を再生しては止め、巻き戻しては見直す。
踏み込みの瞬間、身体の運び、次の一歩へ移るまでの動き。
一つひとつを確かめるうちに、ふと、ある箇所に目が留まった。
トレーナーは映像を少し巻き戻し、もう一度同じ場面を再生する。
そして、今度は一コマずつ送りながら、先ほど気になった動きを注意深く追っていった。
ほんのわずかな変化。
普通に再生しているだけでは、まず気づかないほどのもの。
だが、何度か見比べるうちに、その変化が決して偶然ではないことに気づく。
「…………そうか」
ふと、トレーナーが口元に手を当てた。
「……シリウス、少し重しをつけて走ってみてくれないか?」
「は? 重しだと?」
唐突な提案に、シリウスは怪訝そうに眉をひそめる。
「まだ、仮説の段階だけど、もしかしたらと思ってさ」
そう言いながら、トレーナーはタブレットを覗き込んだまま、ぐいとシリウスのほうへ身を寄せた。
「っ……おい」
「ん? 見えづらかった?」
不意に振り向いたトレーナーと、至近距離で視線がぶつかる。
だが、当の本人は不思議そうに首を傾げるばかりで、まるで気にした様子もない。
そんな無防備な反応に、シリウスは思わず視線を逸らした。
じわりと頬に熱が集まるのを感じ、咄嗟に片手で口元を覆う。
──ったく、今さらこんなことで……。
何より腹立たしいのは、目の前の子犬がまるで気にも留めていないことだった。
「……チッ、なんでもねぇよ……で、なんだ?」
「あ、ああ、ここの部分だけど……」
トレーナーは、手元のタブレットのシークバーをゆっくりと巻き戻した。
先ほど計測したばかりの、最終コーナーから直線への立ち上がり。
シリウスが一気に加速へ移る、その瞬間で映像を止める。
そこで目に留まるのは、シリウスの重心のわずかな浮き上がりだった。
欧州の重い馬場で磨き上げた、力強い踏み込み。
その強靭な脚力は、日本の硬い芝でも十分な推進力を生み出している。
だが、問題はそこにあった。
日本の芝は、欧州に比べて反発が強い。
そのため、シリウスが力強く踏み込むたびに、想定以上の力が地面から返ってきてしまう。
結果として、身体は前へ進むだけでなく、わずかに上へも押し上げられていた。
「……なるほどな」
シリウスは画面を覗き込みながら、小さく頷く。
しっかりと目で確認した上で、今思えば確かに覚えがある。
踏み込んだ瞬間、思い描いていた軌道よりも身体がわずかに浮く感覚。
そのたびに、次の一歩で無意識に姿勢を修正していたのだろう。
その程度の乱れはシリウスであれば、意識せずとも難なく抑え込めてしまう。
実際、映像の中でも、浮き上がった重心は次の一歩へ移るまでに修正されており、フォームに目立った乱れはなかった。
だが、それは裏を返せば、本来必要のない動作にまで力を使っているということでもある。
踏み込むたびに生じるわずかな浮き上がりと、それを抑え込むための無意識の調整。
その繰り返しが、シリウスの感じていた違和感の一因なのかもしれない。
これまで漠然と感じていた違和感が、ようやく一つの形になった気がした。
「身体にわずかな負荷を加えれば、踏み込んだ際の浮き上がり方も変わるはず」
わずかな重りをつけることで、地面からの反発に対する身体の動きを変える。
その状態で重心の動きを意識しながら走れば、余計な上下動を抑え、地面から返ってくる力をより効率よく前方への推進力へ繋げる感覚を掴める。
「試してみる価値はありそうだな……」
シリウスは顎に手を添え、しばし考え込んだ。
確かに、重りをつければ踏み込んだ際の感覚も変わるだろう。
それが今の違和感を解消する手掛かりになるかどうかは、実際に試してみなければ分からないが、少なくとも理屈は通っている。
「まずは軽い重さから試してみよう。様子を見ながら少しずつ負荷を増やしていくつもりだけど……かなりきつくなると思う。いけるかい?」
「ハッ! 誰に聞いてんだ、
シリウスは鼻で笑うと、軽やかにベンチから立ち上がった。
そのままトレーナーに背を向け、片手をひらひらと振りながら、悠々と歩き出す。
その後ろ姿を、トレーナーはしばし黙って見つめていた。
どこまでも自信に満ちた、堂々たる足取り。
どんな困難を前にしても、決して揺らぐことのないその姿に、トレーナーはどこか眩しそうに目を細めた。
すると、不意にシリウスが足を止め、首だけをこちらへ振り返る。
「おい、何ぼさっとしてんだ。早く来い」
「……ああ、今行く!」
トレーナーは慌ててベンチから立ち上がると、小走りでシリウスのもとへ駆け寄った。
そのまま隣に並び、二人は肩を並べて歩き出す。
「あっ、それはそれと次のレースなんだけど……」
「目星でもついたか?」
「一つ、ちょうどいいと思うレースがあった。それに──」
トレーナーは一度言葉を切ると、隣を歩くシリウスへ視線を向けた。
「──出走する顔ぶれを考えても、申し分ない相手が揃っていると思う」
「……へぇ? お前がそこまで言うなら、期待していいんだろうな?」
──10月、東京レース場。
秋晴れの澄んだ空の下、パドックはGⅡとは思えないほどの異様な熱気と人波で埋め尽くされていた。
柵の向こうでは、ゼッケンを着けたウマ娘たちが、それぞれ身体をほぐしたり、足取りを確かめたりしながら、レースへ向けて最後の準備を整えている。
そんな人波の最前列で、一眼レフカメラを首から提げた一人の男が、人垣の隙間から器用にレンズを覗かせていた。
「中山のマイルで日本レコードを叩き出した、ダイナムヒロイン。ほんで、天皇賞春でタマモクロスに次ぐ2着やったロングリヴフリー。秋こそ一矢報いたろっちゅう気迫がビンビン伝わってくるわ」
男──
「本番でもレース引っ張るやろ逃げのロードロイヤルに、現在7戦5勝のマッシヴバイキング。……ええ面構えしとる。どいつもこいつも、狙うは次の天皇賞秋っちゅうわけやな」
だが、次の瞬間。
地鳴りのような怒号と割れんばかりの大歓声が、パドックの屋根を激しく揺らした。
「うおっ、うるさっ! 耳ちぎれるわ!」
思わずカメラから顔を離し、両耳を塞ぐ藤井。
何事かと周囲を見渡せば、それまで思い思いに声援を送っていた観客たちが、一斉に同じ方向へ視線を向けていた。
その先から、さらに大きな歓声が巻き起こる。
藤井もつられるようにカメラを構え直し、人垣の隙間からレンズを向けた。
そして、ファインダーの向こうに捉えた姿に、思わず苦笑を漏らす。
「……いやいや、そら騒ぐわな」
そこにいたのは、眉間に深い皺を寄せ、いかにも煩わしそうな表情を浮かべた一人のウマ娘だった。
周囲の熱狂など意に介さず、悠然とパドックを歩いている。
その堂々たる佇まいは、他の出走者たちとは明らかに一線を画していた。
「中でも別格なんが……いや、別格すぎるやろ、これ」
藤井は呆れ半分、感嘆半分といった様子で呟いた。
「──『覇者』、シリウスシンボリ」
そう口にすると、藤井はファインダー越しにその姿を捉え、シャッターを切った。
「凱旋門賞にキングジョージ。海の向こうのバケモン共から、世界の頂点をもぎ取ってきた本物の豪傑や。……いくら毎日王冠が“スーパーGⅡ”呼ばれとるとはいえ、これじゃGⅠも顔負けやで」
シリウスが軽く肩を回せばどよめきが起き、ふと顔を上げただけで割れんばかりの歓声が沸き上がる。
当の本人はそんな熱狂など知ったことかとばかりに、鬱陶しそうに鼻を鳴らしていた。
「しっかし、なんでまた、前哨戦の毎日王冠なんかに……」
レンズ越しにその鋭い眼光を捉えながら、藤井の脳裏に二つの相反する思考が浮かぶ。
何故、という疑問が半分。
そして──そらそうやろな、という納得が半分だ。
先日、ネット上で大きな話題となった、シリウスシンボリ帰国後の模擬レース。
その映像を巡っては、今も様々な意見が飛び交っている。
何しろ、あのシリウスシンボリが3着に敗れたのである。
何かしら理由を探したくなるのも無理はない。
中でもよく目にするのが、長らく欧州で走っていたシリウスが、まだ日本の芝に慣れていないのではないか、というものだった。
欧州の重いバ場と、日本の比較的硬い芝。
その違いが走りに影響し、本来の実力を発揮できなかったのではないか、というわけだ。
無論、そんな単純な話で片づけられるものではないだろう。
だが、藤井としても、まったく見当違いの説だとは思っていなかった。
もっとも──。
「……いや、それであの走りっちゅうのも、十分おかしな話やけどな」
藤井は思わず苦笑を漏らした。
何しろ、相手はあのマルゼンスキーにミスターシービー。
更には、カツラギエースやタマモクロスまで名を連ねていたのだ。
そんな錚々たる顔ぶれを相手に、最後まで勝利を争っていたのである。
しかも、最後の伸び脚を見る限り、もう少し距離があれば十分に差し切っていた可能性すらある。
仮に、ネットで囁かれている説が正しいのだとすれば、なおさら恐ろしい話だ。
まだ日本の芝に適応しきれていない状態で、あれだけの走りを見せたことになるのだから。
そして、そう考えれば、今回の毎日王冠への出走にも合点がいく。
毎日王冠は東京の芝1800m。
次に控える天皇賞秋は、同じ東京の芝2000mだ。
もしシリウスシンボリが天皇賞秋を見据えているのなら、実戦の中で日本の芝を走る感覚を確かめるには、これ以上ない舞台だろう。
もっとも、どこまで調整が進んでいるのかは、外からでは知る由もない。
もし仮に、すでに日本の芝に合わせた走りをものにしているのだとしたら──。
「……こら、独壇場になってまうかもしれんな」
そんな未来を思い描きながら、藤井は再びファインダーを覗き込む。
その瞬間だった。
「…………っ!」
レンズの向こうで、シリウスの鋭い眼光がこちらを捉えた。
偶然、視線が重なっただけなのかもしれない。
あるいは、そもそも自分など眼中になく、ただ何気なくこちらへ顔を向けただけなのかもしれない。
だが、まるでこちらの考えを見透かされたような錯覚に陥り、藤井は思わずカメラを下ろした。
そして、改めて肉眼でその姿を見つめる。
周囲の喧騒など意にも介さず、悠然と立つシリウスシンボリ。
ただそこにいるだけだというのに、他を圧倒するほどの存在感がある。
「……っはは」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
背筋をぞくりと何かが駆け抜ける。
恐ろしいとさえ思えるほどの威圧感。それでいて、目を逸らすことができない。
藤井は知らず知らずのうちに強張っていた指を動かし、もう一度カメラを握り直した。
──その頃、パドックでは。
周囲の熱狂など意にも介さず、軽く肩を回して身体をほぐしていたシリウス。
そんな彼女のもとへ、一人のウマ娘がおずおずと近づいてきた。
「あ、あのっ!」
「……なんだ?」
声を掛けられ、シリウスが足を止める。
振り返った先にいたのは、ひどく緊張した様子のウマ娘だった。
両手を胸の前でぎゅっと握り締め、耳は落ち着きなくぴくぴくと動いている。
何かを言おうとしては口を開き、しかし声が出ず、視線ばかりがあちらこちらへ泳いでいた。
「え、えっと、そのっ! ボ、ボク……あ、いや、私……!」
「……あ?」
シリウスが怪訝そうに眉をひそめた、その瞬間。
「き、今日はっ! 一緒に走れて光栄ですっ!!」
ウマ娘は勢いよく腰を折り、深々と頭を下げた。
「ず、ずっと見てました! 凱旋門賞もキングジョージも! あの、ボク、あなたの走りが本当に大好きで! ずっと、ずっと憧れてて……! つまり、そのっ、ファンなんですっ!!」
「…………は?」
あまりに突然の告白に、さしものシリウスも呆気に取られた。
だが、そんな反応などお構いなしに、ウマ娘は興奮した様子でまくし立てる。
「と、特に凱旋門賞の最後の直線がもう本当にすごくてっ! あそこからもう一度加速するなんて思わなくて、ボク何回も何回も映像を見返して、そのたびに鳥肌が立って、それでキングジョージのときもそうだったんですけど、あの最後の伸びがもう本当に、本当に、凄くてっ! それで、今日こうして一緒に走れるなんて夢みたいで、もう朝からずっとドキドキしてて、ああでもボクなんかが話しかけちゃって本当にすみません、でもどうしても一言だけお伝えしたくて、それで、それでぇ……!」
ほとんど息継ぎもせず、顔を真っ赤にして言葉を重ねるウマ娘。
だが、その興奮が頂点に達してしまったのだろう。
不意に鼻先から赤いものがたらりと垂れた。
「……あっ」
ウマ娘は一瞬きょとんとした顔を浮かべ、それから自分の鼻に手を当てる。
「あっ、あっ! ち、違っ、これは、そのっ! あわわわわっ!?」
指先についた赤いものを見て、みるみるうちに狼狽え始める。
「おい、お前──」
シリウスが思わず声を掛けた、そのとき。
「──ちょっと、何やってるの!? あの、シリウスさん! す、すみませんっ!」
横合いから別のウマ娘が勢いよく飛び込んできた。
彼女はシリウスに向かって何度も頭を下げると、鼻血を出したウマ娘の肩を慌てて抱き寄せる。
「ま、まだお話が……っ!」
「それどころじゃないでしょ!?」
そう叫ぶと、今度は周囲へ向かって声を張り上げた。
「救護班! 救護班の方、いませんかーっ!? 鼻血! 鼻血が出ちゃってるんですーっ!!」
「ま、待って! せめてもう一言だけ……!」
「いいから早くっ!」
尚もシリウスの方へ手を伸ばすウマ娘を半ば引きずるようにして、二人は慌ただしくその場を離れていった。
あまりにも目まぐるしい一連の出来事に、さしものシリウスも言葉を失う。
ただ呆然と、遠ざかっていく二人の背中を見送った。
やがて、深々とため息をつくと、呆れたように片手で額を押さえ、やれやれと首を振る。
「……チッ。私がいねぇ間に、こっちのレースは随分と賑やかになったもんだな」
盛大に鼻を鳴らしたシリウスは、騒がしく去っていった二人の背中から視線を切った。
そして、ふとパドックの向こう側へ目を向けた。
そこには、周囲の喧騒から切り離されたように、一人黙々とストレッチを続ける芦毛のウマ娘がいる。
他の出走者たちがこちらへ視線を向ける中、彼女だけはまるで興味を示していない。
その姿に、シリウスは僅かに目を細めた。
『──オグリキャップだ?』
『そう。笠松から中央へ転入してきて以来、重賞を含めて負け知らず。クラシックへの登録がなかったから菊花賞には出られないけど、そんな事情などものともせず重賞戦線へ殴り込んできた、規格外の新星だ。十分、気を付けてほしい』
『へぇ、地方から殴り込み、ねぇ……』
『
『……へぇ。随分と肩を持つじゃねぇか』
『え? いや、別にそういうつもりじゃ……』
そこでトレーナーは一度言葉を切り、少し照れくさそうに笑った。
『いや、ごめん、そうかもしれない。地方から中央へやってきて、誰もが知る強豪たちを相手に勝ち続けている。なんだか、そう──シンデレラストーリーみたいだと思わないか?』
『…………ほぉ?』
無論、今回の出走者については、全員の走りをすでに頭に叩き込んである。
オグリキャップとて例外ではない。
映像を見た時点で、トレーナーがあそこまで高く評価する理由も理解できた。
今回の出走者の中で、最も警戒すべき相手は間違いなく彼女だ。
ただそこにいるだけだというのに、妙に目を引く。
決して、子犬が妙に目を掛けていたからではない。
ましてや、他のウマ娘をあそこまで嬉しそうに褒めていたことが、少しばかり気に食わなかったからでもない。
断じて、そんな理由ではないのだ。
そう胸中で言い切った、その時。
ふと、視線が交わった。
視線の先にあるオグリキャップの瞳は、どこまでも静かだった。
威嚇するでもなく、怯えるでもない。
世界の頂点に立ったシリウスを前にしてなお、その眼差しには畏怖も、憧憬も、ましてや気負いすら感じられなかった。
ただ、見ている。
目の前に立ちはだかる、一人の競争相手として。
その澄み切った瞳の奥には、底知れぬ飢餓感が潜んでいた。
どれほど勝利を重ねようと、決して満たされることのない渇望。
ただひたすらに、誰よりも速く、誰よりも先へと駆け抜けたいという、純粋で、どこか獣じみた本能。
それが、静かな眼差しの奥で確かに燃えている。
「──ハッ」
シリウスの喉の奥から、低く獰猛な笑いが漏れる。
日本へ戻ってきてから胸の奥に燻っていた闘争心が、瞬く間に熱を帯びていくのが分かった。
正直なところ、今回のレースはあくまで調整の一環と割り切っている。
日本の芝に合わせた走りを、実戦の中で確かめる。それが何よりの目的だった。
だが、こうも胸の奥を熱く滾らせる相手を前にして、いつまでもそんな悠長なことを言っていられなくなった。
「いい面構えじゃねぇか、
吹き抜ける秋風が、二人のウマ娘の髪を揺らした。
世界の頂点を極めた覇者と、地方から中央を呑み込みにきた怪物。
どれほど美しく語られる夢物語であろうと、最後に残る現実はただ一つ。
──勝つのは、ただ一人だけだ。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
六平トレーナーを出したら、もうシングレ時空だなと思ったため、オグリ陣営の描写を省きました。もし仮に今後、出すとしても笠松メンバーかベルノぐらいかなぁ、と考えております。出したら出したで、いや、シングレじゃん、と言われてしまいそうですが。
また、ここだけの話、この場面を原作で見て、思いついたのがこの作品でもあります。
色々と矛盾やら甘いところが出て来るかも知れませんが、今後もどうがよろしくお願いします。