東京レース場のスタンドは、異様なほどの熱気に包まれていた。
観客席は隅々まで埋め尽くされ、通路にまで人が溢れかえっている。
レースの発走が近づくにつれ、あちこちから上がる歓声や話し声が重なり、その喧騒はますます大きくなっていた。
「うっわぁ……! なにこれ、すっごい人じゃん……!」
観客席から周囲を見渡し、パーマーは思わず目を丸くする。
GⅡのレースとは思えないほどの盛況ぶり。
もっとも、今日の出走者を考えれば、これだけの観客が詰めかけるのも無理はない。
「ま、そりゃそうだよねー。なんたって、あのシリウスさんが走るワケだし!」
そう言って笑いながら、パーマーは隣に立つトレーナーへ振り返った。
「ね、トレーナーも──って、うわっ!? なにその渋い顔!?」
思わず、ぎょっとして声を上げる。
トレーナーの眉間には、うっすらと皺が寄り、口元もどこか苦々しげに歪んでいる。
何やら難しいことでも考えているのか、パーマーに声をかけられても、反応がない。
「トレーナー?」
「おっと、ごめん。ちょっとね……」
もう一度呼びかけられ、トレーナーはようやく我に返る。
どこか疲れの滲む、困ったような苦笑を浮かべると、親指と人差し指で目頭を挟み、軽く揉みほぐした。
「あはは……なんか、お疲れみたいだねぇ」
「どっちかと言うと、不安というか何というか……まあ、問題はないよ」
そう言って苦笑するトレーナー。
確かに疲れているというよりは、何かを気にかけているような様子だった。
とはいえ、本人がそう言う以上、あまり深く追及するのも気が引ける。
ひとまず、二人は席へ向かうことにした。
すると、その途中でパーマーがふと足を止める。
少し離れた観客席に、見覚えのある顔ぶれが並んでいたからだ。
ヤエノムテキ、スーパークリーク、メジロアルダン、サクラチヨノオー。そして、その一つ前の列にはディクタストライカの姿もあった。
中でも、同じメジロ家のアルダンを見つけたパーマーは、ぱっと表情を明るくすると、小さく手を振った。
「アルダンさん!」
こちらに気づいたアルダンが、穏やかな笑みを浮かべて手を振り返す。
他の面々も次々と顔を上げ、ヤエノムテキは軽く会釈し、スーパークリークとサクラチヨノオーも嬉しそうに微笑んだ。
前列のディクタストライカも、振り返りざまに片手をひょいと上げてみせる。
思いがけない顔合わせに、パーマーとトレーナーは二人でそちらへ歩み寄る。
幸い、ヤエノムテキの隣には二席分の空きがあった。
二人は軽く挨拶を交わすと、それぞれ腰を下ろす。
「先日の模擬レースでは、大変お世話になりました!」
席に着くなり、ヤエノムテキが丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ。急な誘いだったのに、参加してくれてありがとう。おかげでいい調整になったよ」
「いえ! あれほどの強者の方々と競い合える機会など、滅多にありません。私にとっても、己の未熟さを知る良い修行となりました!」
そう言って、ヤエノムテキはぐっと拳を握り締める。
「次にご一緒する際には、必ずや今以上の走りをお見せしたいと思います!」
「それなら良かった。期待しているよ」
トレーナーはその真っ直ぐな言葉に笑みを返した。
「そういえば、みんな今日は誰かの応援に?」
「はいっ! 今日はオグリさんの応援に来たんです!」
真っ先に答えたのはサクラチヨノオーだった。
しかし、そこで何かに気づいたように、はっと目を見開く。
「あっ……!」
慌てて口元を押さえ、ちらりとトレーナーの顔を窺った。
何しろ、目の前にいるのは今日のオグリキャップの対戦相手、シリウスシンボリのトレーナーなのだ。
「あ、あのっ! もちろん、シリウスさんも応援してますよっ!? ただ、オグリさんは同期ですし、その……!」
しどろもどろになりながら弁解するチヨノオー。
そんな彼女の様子に、トレーナーは思わず小さく笑った。
「ははっ、大丈夫。気にしなくていいよ」
そう言って、安心させるように軽く手を振る。
「うぅ、ごめんなさいっ……!」
チヨノオーは小さく頭を下げて、少し気まずそうに眉を下げた。
そんな彼女を見て、アルダンがふっと微笑む。
「そういえば、トレーナーさん。私からも、一つお礼を申し上げたいことがありまして」
「お礼?」
「はい。パーマーのことです。いつもお世話になっているようで、本当にありがとうございます」
そう言って、アルダンは丁寧に頭を下げた。
「お礼を言われるようなことじゃないよ。それに、パーマーにはいつも頑張ってもらってるから」
「ふふっ。それは何よりです。パーマーも、トレーナーさんのお話をよくしてくださるんですよ」
「ちょ、ちょっとアルダンさん!? そんなこと言わなくてもいいですって!?」
パーマーが慌てて割って入ると、アルダンは何食わぬ顔で小首を傾げた。
「あら、何かおかしなことを申し上げましたか?」
「いや、そうじゃなくて! もう、絶対わかってて言ってますよね!?」
「ふふっ。さて、どうでしょう?」
アルダンは楽しそうに微笑むばかりで、それ以上は何も言おうとしない。
そんな二人のやり取りに、チヨノオーは思わずくすりと笑い、クリークも口元に手を添えて微笑んでいた。
普段は生真面目なヤエノムテキまで、どこか微笑ましそうに目を細めている。
「も、もうっ! みんなまで笑わないでくださいよぉ……!」
すっかり恥ずかしくなったパーマーは、頬を赤らめながら抗議する。
しかし、アルダンは相変わらず涼しい顔をしているし、他の面々も笑みを浮かべたままだ。
このままでは、ますます揶揄われる。
そう悟ったパーマーは、慌てて話題を変えることにした。
「あっ! そ、そういえばトレーナー!」
唐突に声を上げると、隣に座るトレーナーへ勢いよく振り返る。
「さっき、すっごく難しい顔してたよね!? あれ、何かあったの!?」
「ああ……」
突然話を振られたトレーナーは、少し面食らったように目を瞬かせながらも、少し唸った。
再び眉間に薄く皺を寄せ、困ったような表情を浮かべる。
「いや、うん……まあ、ちょっと……」
トレーナーは言いづらそうに言葉を濁すと、ふっと視線を逸らした。
「──結局、調整が間に合わなくてね」
「……えっ」
思いがけない言葉に、パーマーは驚いたように目を丸くする。
他の面々も一様に驚きの表情を浮かべ、思わずトレーナーの顔を見つめた。
前の席で聞き耳を立てていたディクタストライカまで、こちらに振り返る。
そんな中、スタンドに実況のアナウンスが響き渡った。
『──各ウマ娘ゲートへ入ります! 1枠1番、ロードロイヤルは発走除外となり、11人での出走となります』
いよいよ発走が迫る中、パーマーは我に返ったようにトレーナーへ向き直る。
「えっ、だ、大丈夫なの、それ!?」
思わず声を上げるパーマーに、トレーナーは困ったように苦笑した。
「いや……できることは、一通りやったつもりなんだけど」
実際、フォームの見直しから細かな動作の修正まで、外側から手を加えられる部分については、すでに十分な調整を重ねていた。
ただ、走り方というのは、単に身体の動きを整えれば済むものではない。
足を踏み込む際の力加減や、地面から返ってくる反発の受け止め方。それをどう次の一歩へと繋げるか。
そうした細かな感覚は、結局のところ、本人が走りながら掴んでいくしかないものだった。
ましてや、長い時間をかけて磨き上げ、世界の頂点にまで辿り着いた走りである。
その身体に染みついた感覚を修正するのは容易ではなく、下手に手を加えれば、かえって本来の強みを損なってしまう恐れすらあった。
だからこそ、慎重に調整を重ねてきた。
その甲斐あって、欧州の芝に慣れきっていた走りも、少しずつ日本の芝に合ったものへと戻りつつある。
あとは、シリウス自身がかつての感覚を完全に取り戻すだけ。
だが、そこまで仕上げるには、どうしても時間が足りなかったのである。
『──全ウマ娘、ゲートに収まりました! さあ、いよいよ始まります! GⅡ毎日王冠!』
実況の声に、トレーナーは一度言葉を切った。
コースへと目を向ければ、すでに全員がゲートに収まり、発走の瞬間を待っている。
「……まあ、今さらあれこれ言っても仕方ないか」
トレーナーは少しばかり悔しそうに苦笑した。
もし、あと数週間あれば。
あるいは、もう少し実戦に近い環境で走り込むことができていれば。
そんな考えが頭をよぎらなかったわけではない。
だが、時間が足りないのも、思うように調整が進まないのも、何も自分たちに限った話ではない。
どのウマ娘も、どのトレーナーも、それぞれに事情や課題を抱えながら、限られた時間の中でレースに臨んでいる。
もっと時間があれば。
もっと練習ができていれば。
そんなことを言い始めれば、きっと誰にだって言い分はあるだろう。
結局のところ、それはただの言い訳に過ぎない。
大切なのは、今ある条件の中で最善を尽くすこと。
そして、今のシリウスが持つ力を最大限に引き出すことこそ、トレーナーである自分の役目なのだから。
トレーナーは気持ちを切り替えるように、静かに息を吐いた。
「──だから今回、思い切って方針を変えることにしたんだ」
トレーナーはそう言って、改めてコースへと視線を向けた。
「少し不安な部分もあるけど、シリウスのことだから、きっと上手くやってくれると思う」
「えっと……それって、どういう──」
パーマーは戸惑いながら問い返そうとしたが、その言葉は途中で途切れた。
──シン、と。
それまでスタンドを満たしていた喧騒が、ふっと遠のいた。
観客たちの視線が、一斉にゲートへと注がれる。
張り詰めた空気の中、ほんの一瞬の静寂が訪れた。
そして──。
『スタートしました! さあ、注目の先頭争い! まず飛び出したのは──えっ!?』
実況の声が、驚愕とともに途切れた。
それとほぼ同時に、スタンドのあちこちからどよめきが巻き起こる。
何が起きたのかわからない。
そんな戸惑いにも似たざわめきが、次第に大きな歓声と入り混じり、観客席を包み込んでいく。
『なっ、なんと! 先頭は
我に返った実況が、弾かれたように声を張り上げた。
『これはいったいどういうことでしょうか!? 誰がこんな展開を予想したでしょうか!! スタート直後から凄まじい飛び出しを見せたのは、シリウスシンボリです!』
──そもそも。
今回の毎日王冠に出走するウマ娘たちは、誰もが少なからず複雑な思いを抱えていた。
何しろ、相手はあのシリウスシンボリである。
キングジョージ、そして凱旋門賞。
世界最高峰の舞台で立て続けに勝利を収め、今や世界最強の一角に数えられるほどのウマ娘。
そんな相手が、よりにもよってGⅡの毎日王冠に出走してきたのだ。
言ってしまえば、クラシック戦線の真っ只中に、三冠ウマ娘が混ざってきたようなものだ
もちろん、彼女たちとて決して弱いわけではない。
それぞれが厳しい競争を勝ち抜き、この舞台に立つだけの実力を備えている。
それでも、相手が悪すぎた。
各陣営のトレーナーたちですら、まともに勝負して勝てるとは考えられなかったのである。
無論、最初から勝負を投げ出すつもりなどない。
ましてや、教え子に勝利を諦めろなどと、どのトレーナーが言えるだろうか。
そして、それはレースに臨むウマ娘たちも同じだった。
誰だって勝ちたい。誰だって1着でゴールを駆け抜けたい。
たとえ相手が世界の頂点に立ったウマ娘であろうと、最初から負けるつもりで走る者などいない。
しかし、勝利を信じたいという思いとは裏腹に、現実的な目標を考えれば、どうしても1着以外の着順が頭をよぎってしまう。
少しでも勝利の可能性を信じたい。
だが、冷静に実力差を見極めれば見極めるほど、その可能性がいかに低いかを思い知らされる。
教え子の可能性を信じたいトレーナーたち。
そして、自分の力を信じて走りたいウマ娘たち。
それでも、勝利への希望を抱く一方で、どこかでは敗北を覚悟せざるを得ない。
そんな希望と現実の板挟みの中で、彼女たちは誰もが苦しい葛藤を抱えていた。
ただ、そんな彼女たちにも、一つだけ希望があった。
先日、トレセン学園で行われた模擬レース。
そこでシリウスシンボリは、ミスターシービーやマルゼンスキーといった強豪たちを相手に、3着という結果に終わっていた。
もちろん、それだけで彼女の実力を疑う者などいない。
相手が相手だけに、決して不思議な結果ではなかったからだ。
だが、同時に一つの事実も浮き彫りになっている。
──シリウスシンボリは、まだ日本の芝に適応しきれていない。
欧州の芝と日本の芝では、求められる走り方が大きく異なる。
いかに世界の頂点に立ったシリウスシンボリといえど、その違いを埋めるには相応の時間が必要なのだ。
そして、あの模擬レースから今日まで、そう長い時間が経っているわけではない。
ならば、付け入る隙はあるのではないか。
たとえば、シリウスシンボリを集団の内側に留め、前方に進路を作らせない。
そうなれば、彼女とて大外へ持ち出して追い上げるしかなくなる。
ただでさえ不慣れな日本の芝。
そこに余計な距離を走らされる不利まで重なれば、いかにシリウスシンボリといえど、万全の走りを見せるのは難しいはずだ。
もし、まだ日本の芝への調整が終わっていないのなら。
あの模擬レースで見せた走りから、さほど変わっていないのなら。
少しでも余計に脚を使わせ、最後の直線まで食らいつくことさえできれば。
もしかしたら、自分たちにも勝機があるのではないか。
そんな淡い期待が、彼女たちの胸に芽生えていたのである。
決して容易なことではないのは、誰もが理解していた。
それでも、今のシリウスシンボリが相手なら、勝負に持ち込める可能性はある。
──少なくとも、レースが始まるまでは、そう信じていた。
『スタート直後から凄まじい飛び出しを見せたのは、シリウスシンボリです!』
「(……え?)」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ゲートが開いた瞬間、すぐ隣にいたシリウスシンボリが凄まじい勢いで飛び出していったのだ。
それも、ほんのわずかな差ではない。
他のウマ娘たちが加速し始めた頃には、すでに彼女は先を行き、そのまま先頭へと躍り出ていた。
「(そんな、いきなり……っ!)」
慌てて前を追いかける。
こんな展開は想定していなかった。
何しろ、先日の模擬レースでは、シリウスシンボリも集団の中でレースを進めている。
それに、今回は日本に戻ってきてから初めての公式戦だ。
まだ日本の芝に適応しきれていないのなら、なおさら序盤は無理をせず、周囲の出方を窺いながら慎重にレースを進めるはず。
誰もが、そう考えていた。
だからこそ、シリウスシンボリを集団の中に留め、少しでも自由に走らせないようにする。それが、彼女たちの考えていた作戦だった。
だが、その肝心の相手が、最初から集団の外にいる。
これでは、作戦も何もあったものではない。
『さあ、先頭はシリウスシンボリ! 後続との差はおよそ2バ身! 各ウマ娘も慌てて追いかけますが、シリウスシンボリ、先頭を譲りません!』
「(まずい……! このままじゃ……!)」
必死に脚を動かす。
ここで離されるわけにはいかない。
せめて、これ以上の差を広げられる前に追いつかなければ。
そう思って、さらに速度を上げる。
「(……っ!?)」
だが、縮まらない。
それどころか、前を行くシリウスシンボリの背中は、少しずつ遠ざかっているようにさえ見えた。
彼女たちとて、決して手を抜いているわけではない。
むしろ、普段よりも速いペースで脚を動かしている。
それなのに、追いつけない。
『シリウスシンボリ、依然として先頭! 後続も懸命に追走していますが、その差はなかなか縮まりません!』
「(なんで……!? どうして追いつけない……っ!)」
焦りばかりが募っていく。
そして、ふと気づいてしまった。
前を行くシリウスシンボリの走りには、まるで無理がない。
必死に速度を上げている自分たちとは違い、彼女はただ、当たり前のように走っている。
肩に余計な力が入っている様子もなければ、焦って脚を動かしている様子もない。
まるで、これが彼女にとっての普段どおりの走りなのだとでもいうように。
その瞬間、背筋がぞくりと震えた。
自分たちは、必死に追いかけている。
なのに、あちらはまだ何もしていない。
ただ、普段のペースで走っているだけなのだ。
「(嘘……でしょ……?)」
前を行くシリウスシンボリ。
その背中が、まるで時間の流れが遅くなったかのように、ゆっくりと遠ざかっていく。
ほんの数秒前まで、すぐ隣にいたはずなのに。
手を伸ばせば届きそうだったその背中が、今はどうしようもなく遠く感じられた。
必死に考えた作戦も、何度も繰り返した模擬レースの分析も。
すべては、シリウスシンボリと同じ土俵で勝負できることを前提としたものだった。
その前提が、今まさに崩れ去ろうとしている。
前を塞ぐ?
内側に閉じ込める?
大外を回らせて、少しでも脚を使わせる?
──どうやって?
そもそも、追いつくことすらできないというのに。
最初から、何もかもが間違っていたのだ。
同じレースに出走するからといって、同じ土俵に立てていると思うこと自体が。
世界の頂点に立ったウマ娘。
その意味を、自分たちはあまりにも甘く考えていたのではないか。
「(無理……こんなの、どうしろっていうのよ……ッ!)」
誰が、あの背中を止められるというのだろう。
誰が、あの圧倒的な存在に立ち向かえるというのだろう。
勝機があるかもしれない。
ほんのわずかでも、付け入る隙があるかもしれない。
そんなものは、最初からなかったのではないか。
自分たちが必死に探し求めていた希望など、ただの願望に過ぎなかったのではないか。
──ああ、そうか。
ようやく、分かった。
世界の頂点に立つというのは、こういうことなのだ。
ほんの少し調子が悪いからといって、どうにかなるような相手ではない。
最初から、自分たちとは立っている場所が違うのだ。
「(……勝てる、わけがない……ッ!)」
そんな考えが頭をよぎった瞬間、彼女は思わず唇を噛み締めた。
まだ、勝負は終わっていない。
それどころか、レースは始まったばかりなのだ。
なのに、どうしてこんなことを考えてしまうのか。
必死に自分を奮い立たせようとする。
まだ追いつける。まだ勝負はできる。そう言い聞かせ、前を走るシリウスシンボリの背中を見据えようとした。
だが、どうしても目を向けることができなかった。
気づけば、視線が落ちている。
あれほど追いかけようとしていた背中から目を逸らし、ただ足元を流れていく芝を見つめている。
脚は、まだ動いているし、呼吸も乱れていない。身体だって十分に余力を残している。
決して、走れなくなったわけでもない。
ましてや、レースを投げ出したつもりなど少しもなかった。
それなのに、前へ出ようという気持ちだけが、どうしても湧いてこない。
今、自分たちが必死に追いかけようとしている速度を、彼女はさも当然のように維持しているのだ。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
勝ちたいと思っていた。
あのシリウスシンボリを相手に、自分の力がどこまで通用するのか、試してみたいとも思っていた。
その気持ちは、決して嘘ではなかったはずなのに。
先ほどまで胸の奥に燃えていた闘志は、いつの間にか今にも消えてしまいそうなほど弱々しくなっていた。
勝負を決めるには、あまりにも早すぎるというのに。
彼女たちの心は、すでに敗北を受け入れようとしている。
──ただ一人を除いて。
誰もが前を向くことさえできなくなっていた、その中で。
ただ一人、迷うことなく前を見据え、力強く地面を蹴り続けるウマ娘がいた。
その瞳に、絶望の色は微塵もない。
周囲のウマ娘たちが越えられない壁を前に立ち尽くす中、彼女だけは、その先を見つめていた。
遠ざかっていくシリウスシンボリの背中。
それを見つめる──オグリキャップの瞳には、ただ純粋な闘志だけが宿っていた。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。