『これはいったいどういうことでしょうか!? 誰がこんな展開を予想したでしょうか!! スタート直後から凄まじい飛び出しを見せたのは、シリウスシンボリです!』
その実況をきっかけに、東京レース場のスタンドが一気に沸き立った。
あちこちから驚きの声が上がり、それが瞬く間に大きな歓声へと変わっていく。
予想だにしなかった展開に、観客たちは興奮を隠せない様子だ。
だが、そんな観客たちの盛り上がりとは対照的に、パーマーたちはただ呆然とコースを見つめていた。
パーマーは目を丸くしたまま固まり、隣のヤエノムテキもぽかんと口を開けている。
誰もが揃って呆気に取られ、しばらくは言葉すら出てこない。
だが、やがて目の前で起きていることを理解し始めたのか、その表情がじわじわと引き攣っていく。
驚きから困惑へ。そして、困惑から何とも言えない苦笑いへ。
「……容赦の欠片もありゃしねぇ」
ディクタストライカは背もたれに寄りかかりながら、口元を歪めて鼻を鳴らした。
その声には、呆れとともに、どこか戦慄に似た色が混ざっている。
「集団に閉じ込めて蓋をするどころか、手を伸ばす間すら与えねぇで丸ごと置き去りかよ。策を弄するヒマすらやらねぇってか」
おそらく、他のウマ娘たちはシリウスシンボリを集団の中に閉じ込め、自由に走らせないつもりだったのだろう。
まともに勝負を挑んだところで、勝ち目が薄いことは分かりきっている。
ならば、少しでも相手の動きを制限し、勝負どころで不利な位置に追い込む。
自分が同じ立場でも、きっと似たようなことを考えたはずだ。
だが、そんな思惑を、シリウスシンボリはスタート直後に叩き潰してしまった。
誰よりも早く飛び出し、誰にも邪魔されない先頭を確保する。
それだけで、他のウマ娘たちが考えていた作戦は、すべて水の泡となったのである。
しかも、ただ作戦を潰しただけではない。
あの走りを見せつけられてしまえば、ただでさえ乏しかった勝機が、いよいよ絶望的なものに思えてくるだろう。
万が一にも勝てるかもしれない。
そんな僅かな希望すら、レースが始まって早々に打ち砕かれたのだ。
あれでは、勝つ気力を失ってしまうのも無理はない。
ディクタストライカは、ちらりと背後にいるシリウスシンボリのトレーナーを盗み見た。
普段は穏やかそうな顔をしているくせに、やることにはまるで容赦がない。
ただでさえ勝つのが難しい相手だというのに、その僅かな勝機すら、最初から徹底して潰しにかかっている。
勝てる勝負だからといって、決して手を抜かない。
むしろ、勝てる勝負だからこそ、万が一の可能性まで残さず摘み取ってしまう。
その徹底ぶりには、もはや恐ろしさすら覚えるほどだ。
だが、ふと違和感を覚える。
背後にいるトレーナーは、相変わらず真剣な表情でコースを見つめている。
その眼差しには、勝利を確信したような余裕など微塵もなく、むしろ何かを警戒しているかのよう。
「(……いや、待てよ)」
ディクタストライカは、思わず眉をひそめた。
勝てる勝負だからこそ、万が一の可能性まで潰しておく。
先ほどまでは、そう考えていた。
だが、本当にそうなのか。
先ほどトレーナーが口にした言葉が脳裏をよぎった。
──調整が間に合わなかった。
もし、あの言葉が文字通りの意味だったとしたら。
シリウスシンボリは、まだ日本の芝の感覚を完全には取り戻せていない。
そして、それを承知の上で、今回のレースに臨んでいるのだとしたら。
「(──逆か?)」
その瞬間、ディクタストライカはハッと目を見開き、コースへと視線を戻した。
そうだ。そもそも、シリウス陣営がここまで徹底した策を講じたのは、決して勝利を確信していたからではない。
むしろ、その逆。
万全とは言い切れない状態で、どうしても勝たなければならない相手がいる。
それも、ほんの僅かな隙さえ見逃してはくれないような相手が。
──オグリキャップ。
ディクタストライカの視線の先には、先頭を走るシリウスシンボリを追いかける、芦毛のウマ娘の姿があった。
周囲のウマ娘たちが圧倒的な実力差を前に動揺し、次第に闘志を失いつつある中、彼女だけは違う。
焦る様子もなければ、怯んだ様子もない。
ただ真っ直ぐに前を見据え、力強い足取りで走り続けている。
その瞳にあるのは、ただ一つ。
前を行くシリウスシンボリを追い抜き、勝利を掴み取ろうとする、揺るぎない闘志だった。
──一方、そのシリウスシンボリは。
先頭を駆けながら、足元から伝わってくる芝の感触を確かめていた。
「(……チッ。やっぱり、まだか)」
踏み込んだ瞬間の柔らかさ。
地面を蹴り出す際の反発。
その一つひとつが、かつて何度となく経験してきた、日本の芝特有の感覚。
だが、そこには未だ、ほんの僅かな違和感が残っている。
まるで、昔からよく知る道を、久しぶりに歩いているような感覚だ。
曲がり角も、道の先に何があるのかも覚えている。なのに、実際に足を踏み出してみると、記憶にある歩幅と、ほんの少しだけ噛み合わない。
頭では分かっている。
身体だって、かつての感覚を忘れたわけではない。
それでも、いざ走ってみると、ほんの僅かなずれが生じてしまう。
やはり、完全に取り戻すには、もう少し時間が必要らしい。
だが、だからといって、その脚が鈍ることはなかった。
むしろ、走れば走るほど、身体が軽くなっていくような感覚すらある。
足元に残る違和感も、決して無視できるものではない。
それでも、久しぶりに日本の芝を駆ける感触は、思いのほか心地よかった。
踏み込むたびに伝わってくる確かな反発。
それに合わせて身体が前へと押し出され、自然と次の一歩が繰り出されていく。
思わず、口元に笑みが浮かんだ。
まだ完璧ではない。
それでも、どこか懐かしいこの感覚が、シリウスシンボリの気分を少しばかり高揚させていた。
久しく忘れていた、慣れ親しんだ、レース場での日本の芝。
その感触を確かめるように一歩、また一歩と踏み込んでいるうちに、自然と脚の回転が速くなっていく。
別に、速度を上げようと意識したわけではない。
ただ、久しぶりの感覚が妙に心地よくて、気づけば少しばかり足取りが弾んでいた。
そして、それに応えるように、先頭を駆けるシリウスシンボリの速度がじわりと上がっていく。
『ここでシリウスシンボリ、さらにペースを上げていく! 後続との差は開いて、現在およそ4バ身! これは速い! 速いぞシリウスシンボリ!』
レースはすでに序盤を過ぎ、各ウマ娘たちは向こう正面を駆け抜けていた。
間もなく、最初の大きなコーナーへと差しかかる。
だが、先頭を行くシリウスシンボリの勢いは、少しも衰える気配がない。
むしろ、ここにきてさらに速度を上げ、後続との差を広げつつあった。
「(どうしろっていうのよ……っ!)」
二番手を走るダイナムヒロインは、前を睨みつけながらギリッと奥歯を噛み締めた。
ただでさえ、追いつける気がしないというのに。
ここにきて、さらに差を広げられるなど、たまったものではない。
だが、悔しさとは裏腹に、その脚は一向に前へ出ようとしなかった。
追いかけなければならない。
これ以上、離されるわけにはいかない。
悔しげに顔を歪める。
頭では分かっているのに、どうしても踏み切れない。
そのすぐ近くを走るロングリヴフリーも、同じような思いを抱えていた。
前を行くシリウスシンボリの背中は、まだはっきりと見えている。
決して、手の届かないほど遠くへ行ってしまったわけではない。
それなのに、どうしても追いつける気がしなかった。
今のペースですら、決して楽ではない。
ここからさらに速度を上げて、あの背中を追いかける。
その先に待っているのが何なのか、考えるまでもなかった。
シリウスシンボリとの差は、およそ4バ身。
数字だけを見れば、まだ十分に逆転できる距離のはず。
だが、今の彼女たちにとって、その4バ身はあまりにも遠い。
ここで無理に追いかければ、最後の直線まで脚が持たないかもしれない。
かといって、このままでは差が開く一方だ。
そんなことは、とっくに分かっている。
それでも、どうしても決断できなかった。
「(もう少し、ペースが落ちてくれば……)」
ふと、そんな考えが浮かんだ。
そして、それが自分から勝負を仕掛けることを諦め、相手の失速を期待するものだと気づいた途端、ロングリヴフリーは悔しげに唇を噛む。
だが、だからといって、すぐに前へ出られるわけではなかった。
あのシリウスシンボリを追いかける、その決断が、どうしてもできない。
勝ちたいという気持ちは、まだある。
けれど、それ以上に、勝負を仕掛けることへの恐れが足を鈍らせていた。
せめて、誰かが動いてくれれば。
誰かが先頭を追いかけ、あのシリウスシンボリに少しでも負担をかけてくれれば。
そんな思いから、ちらりと周囲へ視線を向ける。
だが、誰も動こうとはしない。
誰もが、誰かが仕掛けるのを待っている。
誰かがあの覇者を追いかけ、少しでもペースを乱してくれることを期待している。
そのくせ、自分から動こうとする者はほとんどいない。
無理に追いかければ、最後まで脚が持たない。
今はまだ、脚を溜めておくべきだ。
そうした判断は、決して間違っているわけではない。
だが、そこには別の思惑も混じり始めていた。
──シリウスシンボリは、もう止められない。
ならば、せめて2着だけでも。
無理に先頭を追いかけて共倒れになるくらいなら、ここで脚を温存し、最後の直線で他のウマ娘たちを出し抜いた方がいい。
そんな考えが、後続を走るウマ娘たちの間に、少しずつ広がり始めていた。
誰もが勝利を目指して、このレースに臨んだはずだった。
それなのに、いつの間にか、シリウスシンボリを追いかけることよりも、互いの出方を窺うことに意識が向いている。
そして、そんな後続の思惑をよそに、先頭を行くシリウスシンボリとの差は、少しずつ広がり続けていた。
──だが、その中で。
一人、静かに動き始めたウマ娘がいた。
オグリキャップである。
周囲のウマ娘たちが互いの出方を窺う中、彼女はただ真っ直ぐに前を見据え、少しずつ脚の回転を速めていた。
急激に加速したわけではない。
無理に前へ飛び出そうとするでもなく、これまでの走りから、ほんの少しずつ速度を上げていく。
だが、その僅かな変化は、確実に周囲との差となって表れ始めていた。
一人、また一人と、前を走るウマ娘との距離が縮まっていく。
『おおっと、ここでオグリキャップが動き始めた! じわじわとペースを上げて、前との差を詰めていきます! 先頭のシリウスシンボリを追いかけるのは、やはりこのウマ娘か!』
実況の声が、東京レース場に響き渡る。
だが、オグリキャップの表情に変化はない。
焦りもなければ、気負いもない。
ただ、前を行くシリウスシンボリの背中を見据えながら、着実に距離を詰めていく。
その走りには、周囲のウマ娘たちが抱いていたような迷いなど、微塵も感じられなかった。
ただ、少しずつ速度を上げながら、当たり前のように前へと進んでいく。
「(何、やってるのよ……)」
思わず、そんな疑問が浮かんだ。
今から追いかけたところで、あのシリウスシンボリに追いつける保証などない。
むしろ、無理に脚を使えば、最後の直線で失速する可能性の方が高いはずだ。
そんなこと、オグリキャップにだって分かっているだろうに。
それでも、彼女は速度を緩めなかった。
むしろ、苦しげに息を吐きながら前へと踏み出していく。
その姿を、ロングリヴフリーも、マッシヴバイキングも、ただ呆然と見つめていた。
どうして、そこまでするのか。
どうして、あのシリウスシンボリを相手に、まだ勝とうと思えるのか。
そんな疑問が、次々と胸に浮かんでくる。
けれど、オグリキャップは何も答えない。
ただ真っ直ぐに前を見据え、先頭を行くシリウスシンボリを追いかけている。
まるで、そこに何の疑問も抱いていないかのように。
──やめておけばいいのに。
無理をする必要なんてない。
あんな相手を追いかけたところで、最後まで持つはずがない。
今なら、まだ間に合う。
ここで脚を温存すれば、十分に上位を狙えるはずなのだ。
それなのに。
オグリキャップは、ただ前だけを見ていた。
額に汗を滲ませ、苦しげに顔を歪めながらも、その視線だけは決して揺らがない。
前を行くシリウスシンボリとの距離を、少しでも縮めようと脚を動かし続けている。
そして、ふと気づく。
自分たちは、何を願っているのだろうか。
オグリキャップが無理をしないように?
それとも、彼女が追いかけるのをやめてくれれば、自分も諦めたままでいられるから?
「(……っ)」
ダイナムヒロインは、思わず奥歯を噛み締めた。
その背中を見ているうちに、胸の奥から、何とも言えない悔しさが込み上げて来る。
自分は、一体何をしているのだろう。
あのシリウスシンボリに勝ちたい。
そんな思いで、このレースに臨んだはずだった。
それなのに、いつの間にか勝つことを諦め、どうすれば2着に入れるかなどと考えていた。
だが、目の前のオグリキャップは違う。
苦しそうに走っている。
決して余裕があるわけでもない。
それでも、あの背中を追いかけることだけは、少しも諦めていない。
「(……冗談じゃないわよ)」
ぎゅっと拳を握り締める。
「(あんた一人に、いい格好させてたまるもんですか……!)」
次の瞬間、ダイナムヒロインの脚に力がこもった。
それまで躊躇っていたのが嘘のように、ぐっと地面を蹴り出す。
その動きに、後続ウマ娘たちがハッと顔を上げた。
「(……っ、そうだ。何を弱気に……!)」
勝てるかどうかなど、やってみなければ分からない。
それなのに、勝負を挑む前から諦めてどうする。
「(ちくしょう! どいつもこいつも……!)」
悔しげに歯を食いしばった。
先ほどまで、誰かが動いてくれることばかり期待していた。
だが、いざ誰かが動き始めれば、今度は置いていかれるのが我慢ならない。
「(このままじゃあ、終われないっ……!)」
そうして、前へと踏み出した。
それは、ほんの小さな変化だ。
だが、オグリキャップを追いかけるように、一人、また一人と速度を上げ始める。
先ほどまで後続を覆っていた諦めにも似た空気が、少しずつ変わり始めていた。
誰もが、改めて前を見据える。
その先にいるのは、世界の頂点に立ったウマ娘。
シリウスシンボリ。
勝てる保証など、どこにもない。
それでも、まだ勝負は終わっていないのだ。
そして今、オグリキャップに引っ張られるようにして、後続が再び動き始めた。
『おおっと! 後続集団もここで動き始めた! オグリキャップの追い上げに呼応するように、各ウマ娘が次々とペースを上げていきます! 先頭シリウスシンボリとの差も、じわじわと縮まってきた! さあ、ここから追いつけるか!』
実況の声が響く中、レースはいよいよ第3コーナーへと差しかかろうとしていた。
長い向こう正面を駆け抜け、緩やかな左カーブへと入っていく。
先頭を走るシリウスシンボリは、依然としてその速度を緩める気配を見せない。
「(……チッ)」
だが、カーブへ踏み込んだ瞬間、シリウスは小さく舌打ちする。
直線では、さほど気にならなかった違和感。
それが、身体を左へ傾けた途端、はっきりとした感触になって返ってきたのだ。
地面を蹴るたびに、脚が僅かに外へ流れようとする。
無論、曲がれないわけではない。
これまで幾度となく経験してきた、ごく当たり前のコーナリングだ。
だが、思い描いた軌道と、実際に身体が進もうとする方向が、ほんの僅かに噛み合わない。
シリウスは眉をひそめ、踏み込みの角度を微かに修正した。
速度を落とすつもりなど、毛頭ない。
だが、その僅かな調整が、これまで淀みなく続いていた走りのリズムに、小さな乱れを生んでいた。
そして、その変化を見逃さなかったウマ娘がいた。
「ハァ……ハァ……っ!」
前を行くシリウスシンボリの背中を見据えながら、オグリキャップは僅かに目を細める。
速度が大きく落ちたわけではない。
フォームが目に見えて崩れたわけでもない。
それでも、何かが違う。
先ほどまでとは、ほんの僅かに走りのリズムが変わっている。
地面を蹴る足運び。
カーブへ身体を預ける、その僅かな間。
ずっと追いかけてきたからこそ分かる、小さな変化だった。
「……っ、はぁ……!」
オグリキャップは荒く息を吐く。
脚が重い。
ここまで少しずつペースを上げてきた負担は、確実に身体へと積み重なっていた。
それでも、前を行くシリウスシンボリは速い。
必死に追いかけているというのに、あの背中はまだ遠い。
「(……強いな)」
胸の内に浮かんだのは、そんな素直な感想だった。
速い。
強い。
これまで幾人ものウマ娘と競い合ってきたが、これほどまでに強い相手は、そうはいなかった。
世界の頂点に立ったウマ娘。
その肩書きが、決して飾りではないことを、オグリキャップは今、身をもって思い知らされていた。
けれど。
それでも。
──日本一のウマ娘になれ。
オグリキャップは、ぐっと奥歯を噛み締めた。
忘れたことなど、一度もない。
あの日から、ずっと。
走るたびに。
勝つたびに。
そして、どれほど強い相手を前にしても。
その言葉だけは、いつだって胸の中にあった。
「(……私は)」
もう一度、大きく息を吸い込む。
苦しい。
脚だって、決して軽くはない。
それでも、まだ走れる。
まだ、追いかけられる。
「(……勝ちたい!)」
ただ、それだけだった。
目の前にいる、あのウマ娘に勝ちたい。
日本一になるために。
いや、それだけではない。
あれほど強い相手が、すぐ目の前を走っているのだ。
ならば、追いかけない理由など、どこにもなかった。
オグリキャップは、さらに一歩、力強く地面を蹴った。
緩やかな左カーブを、無駄のない足運びで駆け抜けていく。
その視線は、ただ一点。
先頭を行く、シリウスシンボリの背中だけを捉えていた。
そして、レースはいよいよ第4コーナーへと差しかかる。
『さあ、各ウマ娘が第4コーナーへ入っていく! 先頭は依然としてシリウスシンボリ! しかし、その後ろからオグリキャップが迫ってきた! 後続も続々と追い上げている!』
実況の声が、一段と大きくなる。
先頭を行くシリウスシンボリ。
その背後には、オグリキャップを先頭とした後続集団が迫っている。
先ほどまで開いていた差は、もはや2バ身にも満たない。
「ハァッ……ハァッ……!」
荒い息を吐きながら、オグリは前を見据えていた。
近い。
あれほど遠くに見えていたシリウスシンボリの背中が、今はすぐ目の前にある。
だが、その背中を追いかけるうちに、オグリキャップはあることに気づいていた。
カーブへ差しかかってから、シリウスの走りが僅かに変わっている。
踏み込むたびに、身体がほんの少し外側へ流れる。
そのたびに、足運びを細かく調整しているように見えた。
それでも、速度はほとんど落ちていない。
むしろ、強引にその速さを維持しようとしている。
オグリキャップは目を細めた。
シリウスシンボリが、さらに深くカーブへと踏み込んでいく。
その瞬間。
──ぐらり、と。
彼女の身体が、外側へ流れた。
ほんの僅かな乱れ。
だが、次の一歩でシリウスは内側へ戻ることなく、そのまま外へと進路を取った。
内ラチとの間に、空間が生まれる。
そして、その一瞬を。
オグリキャップは、見逃さなかった。
「……っ!」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
オグリキャップはぐっと重心を内側へ預け、空いた進路へと飛び込んでいく。
何度も駆け抜けてきた、笠松のコーナー。
狭いコースで、幾度となく競り合ってきた経験。
そのすべてが、今、この一瞬の判断を支えていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
息は苦しい。
脚も、とうに軽さを失っている。
それでも。
──行けるッ!
オグリキャップは、力いっぱい地面を蹴った。
シリウスシンボリの内側を、灰色の影が駆け抜ける。
『オグリキャップだ! オグリキャップが内を突いた! シリウスシンボリの内側から、一気に並びかける!』
その声に、スタンドが沸き立つ。
並んだ。
いや。
僅かに、前へ出た。
『──抜いたぁぁぁっ!! オグリキャップ、ついに先頭! 世界のシリウスシンボリを捉えて! オグリキャップが先頭に立ったぁぁぁっ!!』
大歓声が、東京レース場を揺るがした。
最終コーナーを抜け、二人が最後の直線へと飛び込んでいく。
「マジかよ……!」
ディクタストライカは思わず立ち上がりかけ、身を乗り出した。
その目は、最後の直線へと飛び込んでいく二人の姿に釘付けになっている。
先頭を走る、オグリキャップ。
そのすぐ外側を、シリウスシンボリが追いかけている。
つい先ほどまで、誰もが逆の光景を思い描いていたはずだった。
だが、今は違う。
あのシリウスシンボリが、抜かれた。
世界の頂点に立ち、今日も圧倒的な走りを見せつけていたウマ娘が、ついに先頭を譲ったのだ。
そして、その相手は。
オグリキャップ。
地方から中央へとやってきて、勝利を重ね続けてきた灰色のウマ娘。
その彼女が今、世界王者を相手に、堂々と先頭を走っている。
「……いけるんじゃないか?」
ぽつりと、そんな声が上がった。
「オグリキャップなら……もしかしたら……!」
それをきっかけに、周囲からも次々と声が上がり始める。
最初は、誰もが半信半疑だった。
だが、目の前の光景が、その疑いを少しずつ期待へと変えていく。
──もしかしたら。
──いや、あのオグリキャップなら。
──あのシリウスシンボリに、勝てるかもしれない。
「オグリィィィッ!!」
「そのまま行けぇぇぇっ!!」
誰かが叫んだ。
すると、それに応えるように、別の場所からも声が上がる。
オグリキャップの名を呼ぶ声が、次々と重なっていく。
それはやがて、スタンド全体を巻き込む大歓声へと変わっていった。
『お聞きください、この大歓声を! 東京レース場が揺れています! オグリキャップ! オグリキャップです! 世界王者シリウスシンボリを抜き去り、今、堂々の先頭! このまま歴史を塗り替えるのかっ!!』
誰もが、最後の直線を見つめている。
世界王者を相手に、必死に走り続ける灰色のウマ娘。
その背中に、今、数え切れないほどの期待が注がれていた。
「……っ、トレーナー!」
思わず、パーマーは隣を振り返った。
あのシリウスシンボリが、抜かれた。
しかも、相手はオグリキャップ。
このままでは、本当に負けてしまうかもしれない。
そんな焦りから、パーマーはトレーナーの顔を見つめた。
だが、彼は少しも取り乱していない。
ただ、最後の直線を見据えたまま、静かに息を吐く。
「……願わくば、まだ走りたいと思い続けてくれるといいんだけど」
「え?」
パーマーは思わず目を瞬かせた。
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
けれど、トレーナーはそれ以上何も言わない。
ただ、真っ直ぐに前を見つめていた。
「──悪くねぇ。やるじゃねぇか」
「……はっ?」
オグリキャップは、思わず目を見開いた。
視線の先。
そこには、シリウスシンボリの背中があった。
つい先ほどまで、自分の外側を走っていたはずのウマ娘。
それが今、目の前にいる。
何が起きたのか、分からなかった。
ただ、呆然と見つめることしかできない。
まるで時間が止まってしまったかのように、周囲の景色がゆっくりと流れていく。
その中で、シリウスシンボリの背中だけが、少しずつ遠ざかろうとしていた。
──ゾクリッ!!
背筋を、凄まじい悪寒が駆け抜ける。
「……ッ!!」
息が詰まる。
まるで、全身を押さえつけられたかのような重圧。
それは、オグリキャップだけではない。
後方から追いかけていたウマ娘たちもまた、突然襲いかかってきたその気配に、思わず顔を強張らせていた。
そして、その瞬間。
オグリキャップは、見た。
いや、見たような気がした。
眩い光が、視界いっぱいに広がっていく。
その中心を、一筋の輝きが駆け抜けた。
まるで、夜空を切り裂く流星のように。
だが、それは決して、瞬いて消えるだけの光ではない。
幾千、幾万もの星々を従え、ひときわ強く輝く一等星。
その眩い光を纏いながら、一人のウマ娘が、遥か彼方へと駆け抜けていく。
誰よりも速く。
誰よりも高く。
まるで、この空さえも自分のものだと言わんばかりに。
『…………え?』
不意に、そんな声が響いた。
実況席からだった。
『あ……えっと……』
何かを言いかけて、言葉が途切れる。
それから、ほんの僅かな沈黙を挟んで。
『……1着は、シリウスシンボリ……です』
その声は、ひどく静かだった。
つい先ほどまで、声を張り上げていた実況とは思えないほどに。
そして、東京レース場を埋め尽くしていた観客たちもまた、呆然としていた。
誰もが、ただ目の前の光景を見つめている。
つい先ほどまで、オグリキャップが先頭を走っていたはずだった。
あのシリウスシンボリを抜き去り、誰もがその勝利を期待していた。
それなのに。
気づけば、レースは終わっていた。
そして、勝者の名は──シリウスシンボリ。
ゴールを駆け抜けたウマ娘たちは、誰もがその場に立ち尽くす。
膝に両手をつき、肩を大きく上下させる者。
力尽きたように地面へ崩れ落ち、四つん這いになったまま荒い呼吸を繰り返す者。
そんな彼女たちの中で、ただ一人。
シリウスシンボリだけが、悠然と立っていた。
額には僅かに汗が滲んでいるものの、その呼吸はほとんど乱れていない。
彼女は何事もなかったかのように背筋を伸ばし、ゆっくりと掲示板を見上げる。
そこに表示されているのは、自らの勝利を告げる結果。
それを一瞥すると、今度は観客席へと視線を向けた。
つい先ほどまで、あれほどの大歓声に包まれていたスタンドが静寂に包まれている。
誰もが呆然としたまま、声を失っている。
「……ハッ。随分と静かになったもんだ」
シリウスは小さく鼻を鳴らすと、口元を歪め、くくっ、と喉の奥で笑いを噛み殺した。
だが、静まり返ったレース場では、その小さな笑い声さえも妙にはっきりと響く。
背後で肩を落とすウマ娘たちにも、呆然と立ち尽くす観客たちにも。
「……レベルが違いすぎるやろ、こんなん……っ」
不意に、誰かがぽつりと呟いた。
その声には、悔しさも、怒りもない。
ただ、目の前の現実を受け止めきれないような、呆然とした響きだけがある。
誰も、すぐには歓声を上げられなかった。
ただ、信じられないものを見たかのように。
その日、東京レース場は、異様な静寂に包まれた。
東京レース場、芝1800メートル。GⅡ毎日王冠。
1着、シリウスシンボリ。
勝ちタイム、1分46秒2。コースレコード。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。