凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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17話 毎日王冠 後半

『これはいったいどういうことでしょうか!? 誰がこんな展開を予想したでしょうか!! スタート直後から凄まじい飛び出しを見せたのは、シリウスシンボリです!』

 

 その実況をきっかけに、東京レース場のスタンドが一気に沸き立った。

 

 あちこちから驚きの声が上がり、それが瞬く間に大きな歓声へと変わっていく。

 予想だにしなかった展開に、観客たちは興奮を隠せない様子だ。

 

 だが、そんな観客たちの盛り上がりとは対照的に、パーマーたちはただ呆然とコースを見つめていた。

 

 パーマーは目を丸くしたまま固まり、隣のヤエノムテキもぽかんと口を開けている。

 誰もが揃って呆気に取られ、しばらくは言葉すら出てこない。

 

 だが、やがて目の前で起きていることを理解し始めたのか、その表情がじわじわと引き攣っていく。

 驚きから困惑へ。そして、困惑から何とも言えない苦笑いへ。

 

「……容赦の欠片もありゃしねぇ」

 

 ディクタストライカは背もたれに寄りかかりながら、口元を歪めて鼻を鳴らした。

 その声には、呆れとともに、どこか戦慄に似た色が混ざっている。

 

「集団に閉じ込めて蓋をするどころか、手を伸ばす間すら与えねぇで丸ごと置き去りかよ。策を弄するヒマすらやらねぇってか」

 

 おそらく、他のウマ娘たちはシリウスシンボリを集団の中に閉じ込め、自由に走らせないつもりだったのだろう。

 

 まともに勝負を挑んだところで、勝ち目が薄いことは分かりきっている。

 ならば、少しでも相手の動きを制限し、勝負どころで不利な位置に追い込む。

 

 自分が同じ立場でも、きっと似たようなことを考えたはずだ。

 

 だが、そんな思惑を、シリウスシンボリはスタート直後に叩き潰してしまった。

 

 誰よりも早く飛び出し、誰にも邪魔されない先頭を確保する。

 それだけで、他のウマ娘たちが考えていた作戦は、すべて水の泡となったのである。

 

 しかも、ただ作戦を潰しただけではない。

 

 あの走りを見せつけられてしまえば、ただでさえ乏しかった勝機が、いよいよ絶望的なものに思えてくるだろう。

 

 万が一にも勝てるかもしれない。

 そんな僅かな希望すら、レースが始まって早々に打ち砕かれたのだ。

 

 あれでは、勝つ気力を失ってしまうのも無理はない。

 

 ディクタストライカは、ちらりと背後にいるシリウスシンボリのトレーナーを盗み見た。

 

 普段は穏やかそうな顔をしているくせに、やることにはまるで容赦がない。

 ただでさえ勝つのが難しい相手だというのに、その僅かな勝機すら、最初から徹底して潰しにかかっている。

 

 勝てる勝負だからといって、決して手を抜かない。

 むしろ、勝てる勝負だからこそ、万が一の可能性まで残さず摘み取ってしまう。

 

 その徹底ぶりには、もはや恐ろしさすら覚えるほどだ。

 

 だが、ふと違和感を覚える。

 

 背後にいるトレーナーは、相変わらず真剣な表情でコースを見つめている。

 その眼差しには、勝利を確信したような余裕など微塵もなく、むしろ何かを警戒しているかのよう。

 

「(……いや、待てよ)」

 

 ディクタストライカは、思わず眉をひそめた。

 勝てる勝負だからこそ、万が一の可能性まで潰しておく。

 先ほどまでは、そう考えていた。

 

 だが、本当にそうなのか。

 

 先ほどトレーナーが口にした言葉が脳裏をよぎった。

 

 ──調整が間に合わなかった。

 

 もし、あの言葉が文字通りの意味だったとしたら。

 シリウスシンボリは、まだ日本の芝の感覚を完全には取り戻せていない。

 

 そして、それを承知の上で、今回のレースに臨んでいるのだとしたら。

 

「(──逆か?)」

 

 その瞬間、ディクタストライカはハッと目を見開き、コースへと視線を戻した。

 

 そうだ。そもそも、シリウス陣営がここまで徹底した策を講じたのは、決して勝利を確信していたからではない。

 

 むしろ、その逆。

 

 万全とは言い切れない状態で、どうしても勝たなければならない相手がいる。

 それも、ほんの僅かな隙さえ見逃してはくれないような相手が。

 

 ──オグリキャップ。

 

 ディクタストライカの視線の先には、先頭を走るシリウスシンボリを追いかける、芦毛のウマ娘の姿があった。

 

 周囲のウマ娘たちが圧倒的な実力差を前に動揺し、次第に闘志を失いつつある中、彼女だけは違う。

 

 焦る様子もなければ、怯んだ様子もない。

 ただ真っ直ぐに前を見据え、力強い足取りで走り続けている。

 

 その瞳にあるのは、ただ一つ。

 

 前を行くシリウスシンボリを追い抜き、勝利を掴み取ろうとする、揺るぎない闘志だった。

 

 

 

 ──一方、そのシリウスシンボリは。

 

 先頭を駆けながら、足元から伝わってくる芝の感触を確かめていた。

 

「(……チッ。やっぱり、まだか)」

 

 踏み込んだ瞬間の柔らかさ。

 地面を蹴り出す際の反発。

 その一つひとつが、かつて何度となく経験してきた、日本の芝特有の感覚。

 

 だが、そこには未だ、ほんの僅かな違和感が残っている。

 

 まるで、昔からよく知る道を、久しぶりに歩いているような感覚だ。

 曲がり角も、道の先に何があるのかも覚えている。なのに、実際に足を踏み出してみると、記憶にある歩幅と、ほんの少しだけ噛み合わない。

 

 頭では分かっている。

 身体だって、かつての感覚を忘れたわけではない。

 

 それでも、いざ走ってみると、ほんの僅かなずれが生じてしまう。

 やはり、完全に取り戻すには、もう少し時間が必要らしい。

 

 だが、だからといって、その脚が鈍ることはなかった。

 

 むしろ、走れば走るほど、身体が軽くなっていくような感覚すらある。

 

 足元に残る違和感も、決して無視できるものではない。

 それでも、久しぶりに日本の芝を駆ける感触は、思いのほか心地よかった。

 

 踏み込むたびに伝わってくる確かな反発。

 それに合わせて身体が前へと押し出され、自然と次の一歩が繰り出されていく。

 

 思わず、口元に笑みが浮かんだ。

 

 まだ完璧ではない。

 それでも、どこか懐かしいこの感覚が、シリウスシンボリの気分を少しばかり高揚させていた。

 

 久しく忘れていた、慣れ親しんだ、レース場での日本の芝。

 その感触を確かめるように一歩、また一歩と踏み込んでいるうちに、自然と脚の回転が速くなっていく。

 

 別に、速度を上げようと意識したわけではない。

 ただ、久しぶりの感覚が妙に心地よくて、気づけば少しばかり足取りが弾んでいた。

 

 そして、それに応えるように、先頭を駆けるシリウスシンボリの速度がじわりと上がっていく。

 

『ここでシリウスシンボリ、さらにペースを上げていく! 後続との差は開いて、現在およそ4バ身! これは速い! 速いぞシリウスシンボリ!』

 

 レースはすでに序盤を過ぎ、各ウマ娘たちは向こう正面を駆け抜けていた。

 間もなく、最初の大きなコーナーへと差しかかる。

 だが、先頭を行くシリウスシンボリの勢いは、少しも衰える気配がない。

 むしろ、ここにきてさらに速度を上げ、後続との差を広げつつあった。

 

「(どうしろっていうのよ……っ!)」

 

 二番手を走るダイナムヒロインは、前を睨みつけながらギリッと奥歯を噛み締めた。

 

 ただでさえ、追いつける気がしないというのに。

 ここにきて、さらに差を広げられるなど、たまったものではない。

 

 だが、悔しさとは裏腹に、その脚は一向に前へ出ようとしなかった。

 

 追いかけなければならない。

 これ以上、離されるわけにはいかない。

 

 悔しげに顔を歪める。

 頭では分かっているのに、どうしても踏み切れない。

 

 そのすぐ近くを走るロングリヴフリーも、同じような思いを抱えていた。

 

 前を行くシリウスシンボリの背中は、まだはっきりと見えている。

 決して、手の届かないほど遠くへ行ってしまったわけではない。

 

 それなのに、どうしても追いつける気がしなかった。

 

 今のペースですら、決して楽ではない。

 ここからさらに速度を上げて、あの背中を追いかける。

 

 その先に待っているのが何なのか、考えるまでもなかった。

 

 シリウスシンボリとの差は、およそ4バ身。

 数字だけを見れば、まだ十分に逆転できる距離のはず。

 

 だが、今の彼女たちにとって、その4バ身はあまりにも遠い。

 

 ここで無理に追いかければ、最後の直線まで脚が持たないかもしれない。

 かといって、このままでは差が開く一方だ。

 

 そんなことは、とっくに分かっている。

 それでも、どうしても決断できなかった。

 

「(もう少し、ペースが落ちてくれば……)」

 

 ふと、そんな考えが浮かんだ。

 そして、それが自分から勝負を仕掛けることを諦め、相手の失速を期待するものだと気づいた途端、ロングリヴフリーは悔しげに唇を噛む。

 

 だが、だからといって、すぐに前へ出られるわけではなかった。

 

 あのシリウスシンボリを追いかける、その決断が、どうしてもできない。

 勝ちたいという気持ちは、まだある。

 けれど、それ以上に、勝負を仕掛けることへの恐れが足を鈍らせていた。

 

 せめて、誰かが動いてくれれば。

 誰かが先頭を追いかけ、あのシリウスシンボリに少しでも負担をかけてくれれば。

 

 そんな思いから、ちらりと周囲へ視線を向ける。

 

 だが、誰も動こうとはしない。

 

 誰もが、誰かが仕掛けるのを待っている。

 誰かがあの覇者を追いかけ、少しでもペースを乱してくれることを期待している。

 

 そのくせ、自分から動こうとする者はほとんどいない。

 

 無理に追いかければ、最後まで脚が持たない。

 今はまだ、脚を溜めておくべきだ。

 

 そうした判断は、決して間違っているわけではない。

 だが、そこには別の思惑も混じり始めていた。

 

 ──シリウスシンボリは、もう止められない。

 

 ならば、せめて2着だけでも。

 無理に先頭を追いかけて共倒れになるくらいなら、ここで脚を温存し、最後の直線で他のウマ娘たちを出し抜いた方がいい。

 

 そんな考えが、後続を走るウマ娘たちの間に、少しずつ広がり始めていた。

 

 誰もが勝利を目指して、このレースに臨んだはずだった。

 それなのに、いつの間にか、シリウスシンボリを追いかけることよりも、互いの出方を窺うことに意識が向いている。

 

 そして、そんな後続の思惑をよそに、先頭を行くシリウスシンボリとの差は、少しずつ広がり続けていた。

 

 ──だが、その中で。

 

 一人、静かに動き始めたウマ娘がいた。

 

 オグリキャップである。

 

 周囲のウマ娘たちが互いの出方を窺う中、彼女はただ真っ直ぐに前を見据え、少しずつ脚の回転を速めていた。

 

 急激に加速したわけではない。

 無理に前へ飛び出そうとするでもなく、これまでの走りから、ほんの少しずつ速度を上げていく。

 

 だが、その僅かな変化は、確実に周囲との差となって表れ始めていた。

 一人、また一人と、前を走るウマ娘との距離が縮まっていく。

 

『おおっと、ここでオグリキャップが動き始めた! じわじわとペースを上げて、前との差を詰めていきます! 先頭のシリウスシンボリを追いかけるのは、やはりこのウマ娘か!』

 

 実況の声が、東京レース場に響き渡る。

 

 だが、オグリキャップの表情に変化はない。

 

 焦りもなければ、気負いもない。

 ただ、前を行くシリウスシンボリの背中を見据えながら、着実に距離を詰めていく。

 

 その走りには、周囲のウマ娘たちが抱いていたような迷いなど、微塵も感じられなかった。

 ただ、少しずつ速度を上げながら、当たり前のように前へと進んでいく。

 

「(何、やってるのよ……)」

 

 思わず、そんな疑問が浮かんだ。

 

 今から追いかけたところで、あのシリウスシンボリに追いつける保証などない。

 むしろ、無理に脚を使えば、最後の直線で失速する可能性の方が高いはずだ。

 

 そんなこと、オグリキャップにだって分かっているだろうに。

 

 それでも、彼女は速度を緩めなかった。

 むしろ、苦しげに息を吐きながら前へと踏み出していく。

 

 その姿を、ロングリヴフリーも、マッシヴバイキングも、ただ呆然と見つめていた。

 

 どうして、そこまでするのか。

 どうして、あのシリウスシンボリを相手に、まだ勝とうと思えるのか。

 

 そんな疑問が、次々と胸に浮かんでくる。

 けれど、オグリキャップは何も答えない。

 

 ただ真っ直ぐに前を見据え、先頭を行くシリウスシンボリを追いかけている。

 まるで、そこに何の疑問も抱いていないかのように。

 

 ──やめておけばいいのに。

 

 無理をする必要なんてない。

 あんな相手を追いかけたところで、最後まで持つはずがない。

 

 今なら、まだ間に合う。

 ここで脚を温存すれば、十分に上位を狙えるはずなのだ。

 

 それなのに。

 オグリキャップは、ただ前だけを見ていた。

 

 額に汗を滲ませ、苦しげに顔を歪めながらも、その視線だけは決して揺らがない。

 前を行くシリウスシンボリとの距離を、少しでも縮めようと脚を動かし続けている。

 

 そして、ふと気づく。

 

 自分たちは、何を願っているのだろうか。

 

 オグリキャップが無理をしないように?

 それとも、彼女が追いかけるのをやめてくれれば、自分も諦めたままでいられるから?

 

「(……っ)」

 

 ダイナムヒロインは、思わず奥歯を噛み締めた。

 その背中を見ているうちに、胸の奥から、何とも言えない悔しさが込み上げて来る。

 

 自分は、一体何をしているのだろう。

 

 あのシリウスシンボリに勝ちたい。

 

 そんな思いで、このレースに臨んだはずだった。

 それなのに、いつの間にか勝つことを諦め、どうすれば2着に入れるかなどと考えていた。

 

 だが、目の前のオグリキャップは違う。

 

 苦しそうに走っている。

 決して余裕があるわけでもない。

 

 それでも、あの背中を追いかけることだけは、少しも諦めていない。

 

「(……冗談じゃないわよ)」

 

 ぎゅっと拳を握り締める。

 

「(あんた一人に、いい格好させてたまるもんですか……!)」

 

 次の瞬間、ダイナムヒロインの脚に力がこもった。

 それまで躊躇っていたのが嘘のように、ぐっと地面を蹴り出す。

 

 その動きに、後続ウマ娘たちがハッと顔を上げた。

 

「(……っ、そうだ。何を弱気に……!)」

 

 勝てるかどうかなど、やってみなければ分からない。

 それなのに、勝負を挑む前から諦めてどうする。

 

「(ちくしょう! どいつもこいつも……!)」

 

 悔しげに歯を食いしばった。

 先ほどまで、誰かが動いてくれることばかり期待していた。

 だが、いざ誰かが動き始めれば、今度は置いていかれるのが我慢ならない。

 

「(このままじゃあ、終われないっ……!)」

 

 そうして、前へと踏み出した。

 

 それは、ほんの小さな変化だ。

 

 だが、オグリキャップを追いかけるように、一人、また一人と速度を上げ始める。

 先ほどまで後続を覆っていた諦めにも似た空気が、少しずつ変わり始めていた。

 

 誰もが、改めて前を見据える。

 その先にいるのは、世界の頂点に立ったウマ娘。

 

 シリウスシンボリ。

 

 勝てる保証など、どこにもない。

 それでも、まだ勝負は終わっていないのだ。

 

 そして今、オグリキャップに引っ張られるようにして、後続が再び動き始めた。

 

『おおっと! 後続集団もここで動き始めた! オグリキャップの追い上げに呼応するように、各ウマ娘が次々とペースを上げていきます! 先頭シリウスシンボリとの差も、じわじわと縮まってきた! さあ、ここから追いつけるか!』

 

 実況の声が響く中、レースはいよいよ第3コーナーへと差しかかろうとしていた。

 

 長い向こう正面を駆け抜け、緩やかな左カーブへと入っていく。

 

 先頭を走るシリウスシンボリは、依然としてその速度を緩める気配を見せない。

 

「(……チッ)」

 

 だが、カーブへ踏み込んだ瞬間、シリウスは小さく舌打ちする。

 

 直線では、さほど気にならなかった違和感。

 それが、身体を左へ傾けた途端、はっきりとした感触になって返ってきたのだ。

 

 地面を蹴るたびに、脚が僅かに外へ流れようとする。

 

 無論、曲がれないわけではない。

 これまで幾度となく経験してきた、ごく当たり前のコーナリングだ。

 

 だが、思い描いた軌道と、実際に身体が進もうとする方向が、ほんの僅かに噛み合わない。

 シリウスは眉をひそめ、踏み込みの角度を微かに修正した。

 

 速度を落とすつもりなど、毛頭ない。

 だが、その僅かな調整が、これまで淀みなく続いていた走りのリズムに、小さな乱れを生んでいた。

 

 そして、その変化を見逃さなかったウマ娘がいた。

 

「ハァ……ハァ……っ!」

 

 前を行くシリウスシンボリの背中を見据えながら、オグリキャップは僅かに目を細める。

 

 速度が大きく落ちたわけではない。

 フォームが目に見えて崩れたわけでもない。

 

 それでも、何かが違う。

 先ほどまでとは、ほんの僅かに走りのリズムが変わっている。

 

 地面を蹴る足運び。

 カーブへ身体を預ける、その僅かな間。

 

 ずっと追いかけてきたからこそ分かる、小さな変化だった。

 

「……っ、はぁ……!」

 

 オグリキャップは荒く息を吐く。

 

 脚が重い。

 ここまで少しずつペースを上げてきた負担は、確実に身体へと積み重なっていた。

 

 それでも、前を行くシリウスシンボリは速い。

 必死に追いかけているというのに、あの背中はまだ遠い。

 

「(……強いな)」

 

 胸の内に浮かんだのは、そんな素直な感想だった。

 

 速い。

 強い。

 

 これまで幾人ものウマ娘と競い合ってきたが、これほどまでに強い相手は、そうはいなかった。

 

 世界の頂点に立ったウマ娘。

 

 その肩書きが、決して飾りではないことを、オグリキャップは今、身をもって思い知らされていた。

 

 けれど。

 それでも。

 

 ──日本一のウマ娘になれ。

 

 オグリキャップは、ぐっと奥歯を噛み締めた。

 

 忘れたことなど、一度もない。

 

 あの日から、ずっと。

 

 走るたびに。

 勝つたびに。

 そして、どれほど強い相手を前にしても。

 

 その言葉だけは、いつだって胸の中にあった。

 

「(……私は)」

 

 もう一度、大きく息を吸い込む。

 

 苦しい。

 脚だって、決して軽くはない。

 

 それでも、まだ走れる。

 まだ、追いかけられる。

 

「(……勝ちたい!)」

 

 ただ、それだけだった。

 目の前にいる、あのウマ娘に勝ちたい。

 

 日本一になるために。

 

 いや、それだけではない。

 あれほど強い相手が、すぐ目の前を走っているのだ。

 

 ならば、追いかけない理由など、どこにもなかった。

 

 オグリキャップは、さらに一歩、力強く地面を蹴った。

 緩やかな左カーブを、無駄のない足運びで駆け抜けていく。

 

 その視線は、ただ一点。

 先頭を行く、シリウスシンボリの背中だけを捉えていた。

 

 そして、レースはいよいよ第4コーナーへと差しかかる。

 

『さあ、各ウマ娘が第4コーナーへ入っていく! 先頭は依然としてシリウスシンボリ! しかし、その後ろからオグリキャップが迫ってきた! 後続も続々と追い上げている!』

 

 実況の声が、一段と大きくなる。

 

 先頭を行くシリウスシンボリ。

 その背後には、オグリキャップを先頭とした後続集団が迫っている。

 

 先ほどまで開いていた差は、もはや2バ身にも満たない。

 

「ハァッ……ハァッ……!」

 

 荒い息を吐きながら、オグリは前を見据えていた。

 

 近い。

 あれほど遠くに見えていたシリウスシンボリの背中が、今はすぐ目の前にある。

 

 だが、その背中を追いかけるうちに、オグリキャップはあることに気づいていた。

 

 カーブへ差しかかってから、シリウスの走りが僅かに変わっている。

 

 踏み込むたびに、身体がほんの少し外側へ流れる。

 そのたびに、足運びを細かく調整しているように見えた。

 

 それでも、速度はほとんど落ちていない。

 むしろ、強引にその速さを維持しようとしている。

 

 オグリキャップは目を細めた。

 シリウスシンボリが、さらに深くカーブへと踏み込んでいく。

 

 その瞬間。

 ──ぐらり、と。

 

 彼女の身体が、外側へ流れた。

 ほんの僅かな乱れ。

 

 だが、次の一歩でシリウスは内側へ戻ることなく、そのまま外へと進路を取った。

 内ラチとの間に、空間が生まれる。

 

 そして、その一瞬を。

 オグリキャップは、見逃さなかった。

 

「……っ!」

 

 考えるよりも先に、身体が動いていた。

 オグリキャップはぐっと重心を内側へ預け、空いた進路へと飛び込んでいく。

 

 何度も駆け抜けてきた、笠松のコーナー。

 狭いコースで、幾度となく競り合ってきた経験。

 

 そのすべてが、今、この一瞬の判断を支えていた。

 

「ハァッ……ハァッ……!」

 

 息は苦しい。

 脚も、とうに軽さを失っている。

 

 それでも。

 

 ──行けるッ!

 

 オグリキャップは、力いっぱい地面を蹴った。

 シリウスシンボリの内側を、灰色の影が駆け抜ける。

 

『オグリキャップだ! オグリキャップが内を突いた! シリウスシンボリの内側から、一気に並びかける!』

 

 その声に、スタンドが沸き立つ。

 

 並んだ。

 

 いや。

 

 僅かに、前へ出た。

 

『──抜いたぁぁぁっ!! オグリキャップ、ついに先頭! 世界のシリウスシンボリを捉えて! オグリキャップが先頭に立ったぁぁぁっ!!』

 

 大歓声が、東京レース場を揺るがした。

 最終コーナーを抜け、二人が最後の直線へと飛び込んでいく。

 

「マジかよ……!」

 

 ディクタストライカは思わず立ち上がりかけ、身を乗り出した。

 その目は、最後の直線へと飛び込んでいく二人の姿に釘付けになっている。

 

 先頭を走る、オグリキャップ。

 そのすぐ外側を、シリウスシンボリが追いかけている。

 

 つい先ほどまで、誰もが逆の光景を思い描いていたはずだった。

 

 だが、今は違う。

 あのシリウスシンボリが、抜かれた。

 

 世界の頂点に立ち、今日も圧倒的な走りを見せつけていたウマ娘が、ついに先頭を譲ったのだ。

 

 そして、その相手は。

 

 オグリキャップ。

 

 地方から中央へとやってきて、勝利を重ね続けてきた灰色のウマ娘。

 その彼女が今、世界王者を相手に、堂々と先頭を走っている。

 

「……いけるんじゃないか?」

 

 ぽつりと、そんな声が上がった。

 

「オグリキャップなら……もしかしたら……!」

 

 それをきっかけに、周囲からも次々と声が上がり始める。

 

 最初は、誰もが半信半疑だった。

 だが、目の前の光景が、その疑いを少しずつ期待へと変えていく。

 

 ──もしかしたら。

 

 ──いや、あのオグリキャップなら。

 

 ──あのシリウスシンボリに、勝てるかもしれない。

 

「オグリィィィッ!!」

「そのまま行けぇぇぇっ!!」

 

 誰かが叫んだ。

 すると、それに応えるように、別の場所からも声が上がる。

 

 オグリキャップの名を呼ぶ声が、次々と重なっていく。

 それはやがて、スタンド全体を巻き込む大歓声へと変わっていった。

 

『お聞きください、この大歓声を! 東京レース場が揺れています! オグリキャップ! オグリキャップです! 世界王者シリウスシンボリを抜き去り、今、堂々の先頭! このまま歴史を塗り替えるのかっ!!』

 

 誰もが、最後の直線を見つめている。

 

 世界王者を相手に、必死に走り続ける灰色のウマ娘。

 その背中に、今、数え切れないほどの期待が注がれていた。

 

「……っ、トレーナー!」

 

 思わず、パーマーは隣を振り返った。

 

 あのシリウスシンボリが、抜かれた。

 

 しかも、相手はオグリキャップ。

 このままでは、本当に負けてしまうかもしれない。

 

 そんな焦りから、パーマーはトレーナーの顔を見つめた。

 

 だが、彼は少しも取り乱していない。

 ただ、最後の直線を見据えたまま、静かに息を吐く。

 

「……願わくば、まだ走りたいと思い続けてくれるといいんだけど」

「え?」

 

 パーマーは思わず目を瞬かせた。

 何を言っているのか、すぐには理解できなかった。

 

 けれど、トレーナーはそれ以上何も言わない。

 ただ、真っ直ぐに前を見つめていた。

 

 

「──悪くねぇ。やるじゃねぇか」

 

 

「……はっ?」

 

 オグリキャップは、思わず目を見開いた。

 

 視線の先。

 そこには、シリウスシンボリの背中があった。

 

 つい先ほどまで、自分の外側を走っていたはずのウマ娘。

 

 それが今、目の前にいる。

 

 何が起きたのか、分からなかった。

 ただ、呆然と見つめることしかできない。

 

 まるで時間が止まってしまったかのように、周囲の景色がゆっくりと流れていく。

 その中で、シリウスシンボリの背中だけが、少しずつ遠ざかろうとしていた。

 

 ──ゾクリッ!!

 

 背筋を、凄まじい悪寒が駆け抜ける。

 

「……ッ!!」

 

 息が詰まる。

 まるで、全身を押さえつけられたかのような重圧。

 

 それは、オグリキャップだけではない。

 

 後方から追いかけていたウマ娘たちもまた、突然襲いかかってきたその気配に、思わず顔を強張らせていた。

 

 そして、その瞬間。

 

 オグリキャップは、見た。

 いや、見たような気がした。

 

 眩い光が、視界いっぱいに広がっていく。

 その中心を、一筋の輝きが駆け抜けた。

 

 まるで、夜空を切り裂く流星のように。

 だが、それは決して、瞬いて消えるだけの光ではない。

 

 幾千、幾万もの星々を従え、ひときわ強く輝く一等星。

 

 その眩い光を纏いながら、一人のウマ娘が、遥か彼方へと駆け抜けていく。

 

 誰よりも速く。

 誰よりも高く。

 

 まるで、この空さえも自分のものだと言わんばかりに。

 

『…………え?』

 

 不意に、そんな声が響いた。

 実況席からだった。

 

『あ……えっと……』

 

 何かを言いかけて、言葉が途切れる。

 それから、ほんの僅かな沈黙を挟んで。

 

『……1着は、シリウスシンボリ……です』

 

 その声は、ひどく静かだった。

 つい先ほどまで、声を張り上げていた実況とは思えないほどに。

 

 そして、東京レース場を埋め尽くしていた観客たちもまた、呆然としていた。

 

 誰もが、ただ目の前の光景を見つめている。

 

 つい先ほどまで、オグリキャップが先頭を走っていたはずだった。

 あのシリウスシンボリを抜き去り、誰もがその勝利を期待していた。

 

 それなのに。

 気づけば、レースは終わっていた。

 

 そして、勝者の名は──シリウスシンボリ。

 

 ゴールを駆け抜けたウマ娘たちは、誰もがその場に立ち尽くす。

 

 膝に両手をつき、肩を大きく上下させる者。

 力尽きたように地面へ崩れ落ち、四つん這いになったまま荒い呼吸を繰り返す者。

 

 そんな彼女たちの中で、ただ一人。

 シリウスシンボリだけが、悠然と立っていた。

 

 額には僅かに汗が滲んでいるものの、その呼吸はほとんど乱れていない。

 彼女は何事もなかったかのように背筋を伸ばし、ゆっくりと掲示板を見上げる。

 

 そこに表示されているのは、自らの勝利を告げる結果。

 それを一瞥すると、今度は観客席へと視線を向けた。

 

 つい先ほどまで、あれほどの大歓声に包まれていたスタンドが静寂に包まれている。

 誰もが呆然としたまま、声を失っている。

 

「……ハッ。随分と静かになったもんだ」

 

 シリウスは小さく鼻を鳴らすと、口元を歪め、くくっ、と喉の奥で笑いを噛み殺した。

 

 だが、静まり返ったレース場では、その小さな笑い声さえも妙にはっきりと響く。

 背後で肩を落とすウマ娘たちにも、呆然と立ち尽くす観客たちにも。

 

「……レベルが違いすぎるやろ、こんなん……っ」

 

 不意に、誰かがぽつりと呟いた。

 

 その声には、悔しさも、怒りもない。

 ただ、目の前の現実を受け止めきれないような、呆然とした響きだけがある。

 

 誰も、すぐには歓声を上げられなかった。

 ただ、信じられないものを見たかのように。

 

 その日、東京レース場は、異様な静寂に包まれた。

 

 

 東京レース場、芝1800メートル。GⅡ毎日王冠。

 1着、シリウスシンボリ。

 勝ちタイム、1分46秒2。コースレコード。

 




感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
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