拝啓、皆様いかがお過ごしでしょうか。
秋もすっかり深まり、朝晩は少し肌寒くなってきました。空は澄んでいて、風も気持ちよく、木々の葉っぱも少しずつ色づき始めています。
そんな穏やかな秋の日、私はというと、相変わらずトレーニングに励む毎日を送っています。
おかげさまで、充実した日々を過ごしている……と言いたいところなんだけど。
実は最近、ちょっと……いや、かなり大変なことになってまして。
私は今──。
「おいッ! ボサッとしてんじゃねぇぞ!」
「ひぃぃぃっ!?」
あの覇者、シリウスシンボリさんに追いかけられております。
いや、もちろん、そんなことを考えている場合じゃないのは分かってる。分かってるんだけど。
こうでもしていないと、やってられないというか。
「まだ余裕あんだろ!」
「ないないない! 全然ないですってぇ!?」
背後から迫る気配が、みるみる大きくなっていき、足音が近づくたび、背筋が強張る。
肩に力が入り、呼吸まで浅くなっていく。
まるで、背中に何か重いものを押しつけられているようだった。
「……チッ。ここまでか」
すぐ背後で、シリウスさんが短く息を吐いた。
次の瞬間、背中にのしかかっていた圧がふっと消える。
いや、消えたというよりも。
それまで自分のすぐ後ろにあったはずの気配が、一瞬にして横へと移ったのだ。
視界の端を、黒い影が駆け抜けていく。
地面を蹴るたび、長い髪が風を受けて大きく揺れる。その身体は少しもぶれることなく、滑るように前へと伸びていった。
ただ速いというだけではない。つい先ほどまで背後に迫っていたはずなのに、今ではもう、手を伸ばしても届かないほどの距離が開いている。
シリウスさんはそのまま速度を緩めることなく、前方に定められた目標地点へと向かっていく。
そして──最後の一歩を力強く踏み込み、その地点を鮮やかに通過した。
私はその背中を見送ったまま、しばらく呆然としていた。
……速っ。
いや、ほんと。なんなの、あの人。
もう何度目か分からないけど、改めてそう思う。
その後、私はというと、走っているのかどうかも怪しい状態で、なんとか脚を前に運んでいた。
最後はほとんど這いつくばるような格好で、トレーナーの待つ場所まで戻っていく。
「はぁ……っ、はぁ……っ──もう、無理」
その場で膝に手をついた。
もう無理。
本当に無理。
あと少しでも走ってたら、そのまま地面に倒れ込んでたと思う。いや、むしろ今すぐ倒れたい。
「お疲れさま、パーマー」
トレーナーからのねぎらいの言葉と一緒に差し出された飲料水を、私は無言で受け取った。
キャップを開けるのも面倒なくらい疲れてたけど、なんとか一口だけ水を飲む。それから、ぐでぇっと身体を地面に投げ出した。
「ハッ、これくらいで音を上げてんじゃねぇよ」
すぐそばから、呆れたような声が降ってくる。
……無茶を言わないでほしい。
まだデビューして間もないひよっこが、あのシリウスシンボリに追い立てられながら走って、音を上げるなという方が無理な話だ。
しかも、なにやら先日の毎日王冠から、すこぶる調子がいいようで。
なんでも、レース終盤でようやく日本の芝を走る感覚を取り戻したらしい。これまでわずかに噛み合っていなかった歯車が、あの瞬間、ようやくぴたりと合ったのだとか。
実際、今のシリウスさんを見ていれば、それも納得というか。
踏み込みから加速への移行も、コーナーでの身のこなしも、以前と比べてずっと自然になったように見える。走りに迷いがないというか、身体の動きに一切の無駄がないというか。
私みたいな素人目にも分かるくらいには、調子がいい。
……うん。すっごくいいことだと思う。
思うんだけどさ。
そんな絶好調の相手に追いかけ回されるこっちの身にもなってほしいんだけどなー……。
そんなことを考えながら、パーマーは地面に寝そべったまま、二人へと目を向けた。
シリウスは飲み終えたボトルを片手に、トレーナーと何やら話を続けている。どうやら、先ほどから次の予定について相談しているらしい。
「──で、次はもう決めてんのか?」
「一応、見繕ってはある」
「直近か?」
「そう。だから付き合ってくれてありがとう、シリウス。助かるよ」
「……礼なんざいらねぇよ。私にとっても都合が良かった。それだけだ」
そう言って、シリウスはフンと面倒くさそうに鼻を鳴らした。
相変わらず、素っ気ない態度だ。
けれど、パーマーはその横顔を眺めながら、ふと小さな変化に気づいた。
ぴくり、と耳が動く。
それから、ほんの僅かに尻尾の先が揺れた。
本人はきっと、そんなことなど意識もしていないのだろう。表情や言葉ではあれだけ突き放しているのに、こういう細かなところまでは隠しきれないらしい。
……ふふっ。
パーマーの口元に、自然と小さな笑みが浮かんだ。
最初の頃は、シリウスさんの言動ひとつひとつにびくびくしていた。何を考えているのか分からないし、機嫌を損ねてしまわないかと、いつもどこかで身構えていた気がする。
けれど、こうして一緒に過ごしていると、少しずつ分かってくることもある。
言葉ほど冷たいわけじゃないことを。
そして、本人が思っている以上に、気持ちが耳や尻尾に出てしまうこと。
もちろん、だからといって急に怖くなくなったわけではないけれど。
それでも、以前よりは少しだけシリウスさんのことを、身近に感じられるようになった気がした。
「……あ?」
「何でもないです、ごめんなさい。いや、ほんと笑ったとかじゃなくて、いや笑っちゃったのはそうなんだけど、別に変な意味じゃなくてっ、悪気とか全然ないですし、ほんとですからっ!?」
「はぁ?」
シリウスは眉を寄せる。
視線を感じたから、ただ顔を向けただけだ。別に何か言ったわけでも、睨みつけたわけでもない。
それなのに、目の前のパーマーは地面に顔を伏せたまま、何やら必死に弁解を続けている。
「シリウス、あんまり怖がらせちゃ駄目だよ」
見かねたトレーナーが、苦笑交じりに口を挟んだ。
「おい、勝手にコイツがビビってるだけだろうが」
「それはそうかもしれないけどさ」
「そもそも、私は何もしてねぇぞ」
その視線を受けて、パーマーはようやく身体を起こす。
地面に投げ出していた身体をのそのそと起こし、まだ少し息の荒いまま二人を見比べた。
「……えっと、それで? 次って天皇賞の話?」
「ん? ああ、いや違う違う。パーマーのレースのことだよ」
「へっ? 私の?」
きょとんとして自身を指さすパーマー。
そんな彼女に、トレーナーは手元にあった資料を差し出した。
受け取って目を落とすと、そこには次走の候補となるレース名が記されていた。
「『黄菊賞』。メイクデビューのときと同じ条件だし、今の実力を試すにはちょうどいい」
トレーナーの言葉に、パーマーはもう一度書類へと視線を落とした。
記載されているのは、京都レース場の芝2000m。距離も舞台も、メイクデビューのときとほとんど変わらない。
初めてレースを走ったあの日と同じような条件で、今の自分がどれだけ成長できたのかを確かめる。そういう意味では、確かにちょうどいいレースなのかもしれない。
「それに、今後を見据えるうえでも、出て損はないかな。中山じゃないのが惜しいところだけどね。それで、パーマーは大丈夫そうかい?」
「んー、まあ……トレーナーが選んでくれたレースなら、私としては文句ないけどね」
少しばかり引っかかるところはあったものの、パーマーは素直に頷いた。
レースの選定や今後の方針については、トレーナーに任せている。もちろん、自分の希望を伝えることはあるけれど、こうして提示されたものに不満を覚えることはほとんどなかった。
ひとまず自分の次走については、それでいい。
そう納得したところで、パーマーはふと、もう一人のことが気になった。
「えっと、でもさ。シリウスさんの方はいいの? 次、天皇賞なんでしょ?」
今は自分だけでなく、シリウスさんのこともある。
こうして一緒にトレーニングをすることもあるけれど、そもそも実力も経験も違いすぎるため、普段は別々に練習していることのほうが多い。今回だって、シリウスさんにとっても都合がよかったからこそ、こうして付き合ってもらえているのだ。
もちろん、シリウスさんは自分とは違って経験も豊富だし、自分のことは自分で判断できる人だ。
それでも、トレーナーに相談したり、力を借りたりする場面はあるだろう。
そう何気なく尋ねると、トレーナーは特に気にした様子もなく答えた。
「いや、シリウスは天皇賞には出走しないよ?」
「……へっ、なんで?」
思わず、疑問がそのまま口をついて出た。
「元々は出るつもりだったんだがな」
シリウスはさして気にした様子もなく、手元のボトルを弄びながら答える。
「
「ええっ!? でも、天皇賞ですよ!? せっかく出られるのに……!」
「昔ならいざ知らず、今さら獲ったところでな」
あまりにもあっさりとした言い草だった。
まるで、天皇賞という大舞台さえも、今の彼女にとっては通過点にすらならないとでも言うように。
「国内のタイトルを一つ増やすために走るほど、暇じゃねぇんだよ。それに──」
そこでシリウスは言葉を切る。
目を細め、遠くを見やった。
その視線の先に何があるのか、パーマーには分からない。ただ、先ほどまで目の前の会話に向けられていた意識が、どこか別の場所へと移ってしまったように見えた。
「──……チッ、無駄話が過ぎたな。おい、準備しろ。次行くぞ」
「あ、は、はいっ!」
突然話を切り上げたシリウスに、パーマーは慌てて立ち上がった。
まだ疲れの残る身体をどうにか動かし、先を行く彼女の後を追いかける。
結局、あのときシリウスが何を言いかけたのかは分からないままだった。
──それから、数週間後。
秋も深まった東京レース場。
観客席を埋め尽くす大勢の人々の視線は、これから始まる一つのレースへと注がれていた。
『──東京レース場、本日のメインレースは第10競走、GⅠ天皇賞!』
場内に響き渡る実況の声。
秋の中距離路線を代表する強豪たちが顔を揃え、いよいよ発走の時を迎えようとしていた。
しかし、今年の天皇賞には、例年とは少し違った空気が漂っていた。
「シリウスシンボリは結局出ないんだな」
「毎日王冠のあの走りを見たら、てっきりここにも来ると思ったんだけどな」
「まあ、出てたら他の連中はたまったもんじゃないだろうけど」
「それにしたって、あのシリウスがいない天皇賞か……」
観客席のあちこちから、そんな声が聞こえてくる。
シリウスシンボリの不在。
それは、今年の天皇賞を語るうえで、どうしても避けては通れない話題となっていた。
海外の大舞台を次々と制し、世界の頂点に立ったウマ娘。
帰国後も毎日王冠で圧倒的な力を見せつけ、国内の強豪たちをまとめて退けた、まさしく当代随一の覇者。
そんな彼女が次にどのレースへ向かうのか。
それは、ファンのみならず、多くの報道関係者にとっても最大の関心事だった。
とりわけ、毎日王冠の直後から、その話題は連日のように新聞や雑誌の紙面を賑わせていた。
『世界の覇者、次なる舞台は天皇賞か!?』
『シリウスシンボリ、国内GⅠ制覇へ視界良好!』
『世界を制した実力は本物だった!』
どの紙面も、シリウスが天皇賞へ出走することを半ば当然のように扱っている。
実際、帰国当初には本人も出走に意欲を見せていたのだ。それに、毎日王冠で見せたあの走りを思えば、期待が高まるのも無理はない。
ところが、いざ出走登録の時期を迎えても、彼女の名前が挙がることはなかった。
そして、最終的に出走しないことが明らかになると、今度は一転して、その理由を巡る憶測が飛び交い始める。
『シリウスシンボリ、天皇賞回避! その真意は?』
『国内GⅠに興味なし? 世界の覇者が下した意外な決断』
『実現ならず! シリウス対タマモクロス、夢の頂上決戦』
当然、ファンの反応もさまざまだ。
海外遠征から帰国したばかりなのだから、無理に出走する必要はないという声。
毎日王冠で実力は十分に証明したのだから、今さら国内で走る意味もないだろうという声。
その一方で、批判的な意見も少なくない。
「何だよ、結局出ないのか。あれだけ強いんだから、天皇賞でも走ってほしかったな」
「海外で勝ったからって、日本のGⅠは眼中にないってことか?」
「いや、タマモクロスとの対決を避けたんじゃないのか?」
「それはないだろ。毎日王冠を見てなかったのかよ」
そんな議論が、レース場でも、街中でも、あちこちで交わされていた。
中には、シリウスが国内のレースを軽視しているのではないかと、露骨に不満を示す者もいる。
世界の頂点に立ったからこそ、日本の大舞台でもその強さを見せてほしい。そう願っていたファンにとって、今回の不出走は少なからず肩透かしだったのだろう。
もっとも、当のシリウスがそうした声を気にしている様子は、少なくとも表向きには見られなかった。
いずれにせよ、彼女の不在は、今回の天皇賞の勢力図にも、ファンの期待にも大きな影響を与えていた。
では、主役を欠いた今年の天皇賞は、盛り上がりに欠けるものとなったのか?
──無論、そんなことはない。
むしろ、発走の時が近づくにつれ、場内の熱気はますます高まっていた。
なぜなら、あのシリウスシンボリを相手に、一時は先頭を奪い、観客たちに勝利を予感させたウマ娘がいるからだ。
毎日王冠での敗北は、彼女の評価を下げるどころか、かえってその名を全国に知らしめることとなった。
地方から中央へ。
破竹の勢いで勝ち星を重ね、ついには世界の覇者にまで迫った、一人のウマ娘。
その走りを目の当たりにした人々は、今度こそ彼女が頂点に立つ瞬間を見たいと願っていた。
世界の覇者がいないからこそ、今度は誰が国内の頂点に立つのか。
その答えを見届けようと、数え切れないほどの観客が、この東京レース場へと詰めかけていた。
『──まずは、このウマ娘! 中央に現れた芦毛の怪物! 1枠1番オグリキャップ!!』
実況の声と同時に、ひときわ大きな歓声が沸き上がる。
『先日の毎日王冠では惜しくも敗れましたが、あの覇者シリウスシンボリを相手に、一歩も引かぬ走りを見せつけたオグリキャップ! その実力はもはや疑いようがありません! 今度こそ、中央の大舞台で頂点を掴み取ることができるのか!』
「──ハァ~~? 負けてねぇし!? 今も連勝中だろうがッ!?」
「現実を直視できてない古参がいる……」
「シリウスシンボリなんか、知ったこっちゃねぇ! 負けてねぇんだよ、ウチらのオグリはッ!!?」
『続いて登場! ターフに轟く最強の白い稲妻! 6枠9番タマモクロス!! GⅠ2連勝! 7連勝中のタマモクロスは昨年の10月から一度も負けておりません!』
再び、場内を揺るがすような歓声が沸き起こる。
勝気な笑みを浮かべ、堂々と立つタマモクロス。
周囲から浴びせられる歓声に応えるように軽く片手を上げると、その声に応じるように、さらに大きな歓声が返ってきた。
そんな熱気の中、タマモクロスはふと、今回の出走者たちの顔ぶれを思い浮かべる。
「(シリウスシンボリが出てこなかったんは、ちと不満やけどな──)」
脳裏をよぎったのは、先日の模擬レースでの一幕。
あのときは、互いに全力を出し切ったわけではない。
それでも、どれほどの実力を持っているのか、その片鱗くらいは感じ取れたつもりだ。
だからこそ、今度は本番の舞台でぶつかり合ってみたかった。
「(……ま、出てこんもんはしゃあないか)」
残念ではあるが、だからといって今日の勝負に不満があるわけではない。
目の前にはオグリキャップをはじめ、腕の鳴るような強敵たちが揃っている。これだけの顔ぶれを相手に、退屈する暇などあるはずもない。
そう割り切って、タマモクロスは何気なく観客席へと目を向けた。
すると、ある一角で視線が止まる。
見間違えるはずもない。
そこには、先ほどまで考えていた当の本人がいた。
シンボリルドルフに、マルゼンスキー。
そして、その二人と並んでいるのは、他でもないシリウスシンボリだった。
レースに出るつもりはなくとも、観戦には来ていたらしい。
こちらの大歓声などどこ吹く風といった様子で、悠然とターフを見下ろしている。
その姿を認めた瞬間、タマモクロスの口元がにやりと吊り上がった。
「(──なんや、来とるやないか)」
だったら、ちょうどいい。
「(そこで見とれ。高みの見物でも何でも、好きにしとったらええ)」
今日ここで、オグリキャップをはじめとする強豪たちをまとめて蹴散らしてやる。
そして、誰が一番強いのか、嫌でも思い知らせてやる。
──いつまでも、上から見下ろしとれると思うなよ。
胸の奥から、ふつふつと闘志が湧き上がってくる。
タマモクロスはシリウスから視線を外さぬまま、獲物を前にした猛獣のように、獰猛な笑みを浮かべた。
「──あら、随分と熱い視線ね」
「ご指名のようだが……どうするんだい、シリウス?」
隣に立つマルゼンスキーとシンボリルドルフが、面白がるように声をかける。
しかし、当のシリウスは特に反応を示さない。
口元に浮かべていた薄い笑みもそのままに、ただ静かに、ターフに立つタマモクロスを見下ろしている。
「……どうもこうもねぇよ」
そう短く答えると、シリウスはゆっくりと視線を動かした。
わずかに目を細め、視線の先にいる者を注視する。
先ほどから大歓声を浴びているというのに、当の本人は驚くほど静かだった。
周囲の熱気に浮かされることもなく、ただ真っ直ぐに前を見据え、発走の時を待っている。
毎日王冠で相対したときにも、あの芦毛には底知れないものを感じていた。どれだけ突き放されようと食らいつき、最後まで勝負を諦めなかった、あの執念深さ。
しかし、今はそれだけではない。
静かに立っているだけだというのに、全身から滲み出るような、異様な気迫がある。
「ハッ。上ばっか見てると、足元をすくわれるぜ? タマモクロス」
その声が届こうと届くまいと、関係ない。
きっと、すぐに気づくことになるだろう。
自分が本当に警戒すべき相手が、誰なのかを。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
出走しないからといって秋天は飛ばせない部分でした。ただ、どうしてもオグリキャップが主人公になってしまうというか……いや、間違ってはないと思うのですが。