『ゲートにおさまります……芝2000mGⅠ天皇賞秋──スタートしました!!』
ゲートが一斉に開く。
勢いよく飛び出したウマ娘たちに、スタンドから割れんばかりの歓声が降り注ぐ。
秋の大一番。その幕開けを待ちわびていた観客たちの熱気が、一気に爆発した。
『おっと!? トップシュンベツ出遅れた!!』
実況が鋭く声を上げる。
一人、スタートで後手を踏んだウマ娘がいた。
しかし、それを除けば大きな混乱もなく、各ウマ娘はそれぞれの位置を取りながら最初の直線へと進んでいく。
そんな中、他の誰よりも早く飛び出したウマ娘がいた。
「(毎日王冠に出走できなかったし、シリウスさんも
スタート直後から迷うことなく先頭へと躍り出た彼女は、そのまま後続を引き離しにかかった。
『ロードロイヤル一気に先頭へ! 猛烈な逃げです! 3バ身4バ身──逃げていきます!』
その勢いに、観客席から驚きの声が上がった。
まだ序盤も序盤。ここからまだ距離を走らなければならないというのに、ロードロイヤルは一向に速度を緩めようとしない。
むしろ、その勢いは増すばかりだった。
「(それならそれで──好都合ッ!)」
誰にも邪魔されない。
誰にも進路を塞がれない。
今、この瞬間だけは、自分の思うままに走ることができる。
『5バ身、6バ身……いや、まだ逃げるぞ、ロードロイヤル!! 猛烈な逃げだ!』
実況の声が、さらに一段と高くなる。
後続との差は、ついに7バ身近くにまで広がっていた。
彼女が見据えているのは、目の前に広がる先頭の景色ではない。
何度も、何度も見返した映像。
画面の向こうで、誰よりも速く、誰よりも強く、先頭を走り続けていた一人のウマ娘。
その背中を、ロードロイヤルはずっと追いかけてきた。
どれだけ走っても、決して届くことのなかった背中。
今、このターフにその姿はない。
それでも──。
「(──ボクの前にいるのは、いつだって
ロードロイヤルはさらに地面を蹴った。
追いかける相手がここにいないのなら、せめて、その背中に少しでも近づいてみせる。
そんな一途な憧れを胸に、彼女は先頭を走り続けていた。
『逃げのロードは健在! 後方は──えっ!?』
そこで、不意に実況の声が裏返る。
『──タマモクロス!? なんとタマモクロス2番手!! これは一体どうしたことだぁー!?』
その名が告げられた瞬間、観客席がざわついた。
普段であれば、後方に構え、最後の直線で凄まじい末脚を繰り出すタマモクロス。
その彼女が、今は2番手という、普段とはまるで違う位置につけている。
この異例の展開に、スタンドの観客たちは騒然となる。
「……あら?」
観客席の一角で、マルゼンスキーが小さく首を傾げた。
隣には、シンボリルドルフとシリウスシンボリ。
三人とも、眼下で繰り広げられるレースをじっと見つめていた。
「パニックになっている? ……というワケではなさそうね」
「ふむ……ここ一番の大舞台での焦り、という可能性は捨てきれないが」
マルゼンスキーの言葉に、ルドルフはそう応じた。
しかし、その口調にはどこか確信が欠けている。
視線の先にいるタマモクロス。
その走りには、少なくとも焦りや迷いといったものは感じられない。
むしろ、驚くほど落ち着いていた。
「シリウス、どう思う?」
「……さぁな」
気だるげな返事だった。
ルドルフの問いかけが面倒だったのか、シリウスはそれ以上何も言おうとしない。
ただ、その視線だけは、先ほどからずっとタマモクロスに向けられている。
「あら、いじわるね。何か気づいているんでしょう?」
そんな彼女の様子を見て、マルゼンスキーが楽しそうに微笑んだ。
「そんなんじゃねぇよ。ただ……そうだな」
シリウスは面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「私が同じ立場だったら
「……なるほど、そういうことか」
その一言に、ルドルフは何かを察したように目を細めた。
タマモクロスには、かつて集団の中で走ることを苦手としていた時期がある。
過去に経験した事故が原因で、他のウマ娘たちに囲まれることを避けていたのだ。
もっとも、その苦手意識は、宝塚記念での走りを経てすでに克服している。
だからといって、それまで培ってきた走り方を変える必要があるわけではない。
後方で脚を溜め、最後の直線で一気に勝負を決める。それはタマモクロスにとって、最も堅実で、何より自身の強みを最大限に活かせる戦法だった。
しかし、苦手意識を克服した今ならば、話は別だ。
後方に控える必要がなくなったということは、それ以外の位置取りも選べるということ。
相手や展開に応じて、これまでとは違う戦い方を取ることもできる。
そして、タマモクロスほどの実力者が、何の考えもなしにその選択肢を取るとは思えない。
あえて慣れ親しんだ戦法を変えたのだとすれば、そこには相応の理由があるはずだった。
では、その理由とは一体、何なのだろうか。
その答えは、つい先ほどまで彼女が向けていた視線を思い返せば、容易に想像がつくだろう。
「……どうやら、タマモクロスは本気で君に勝つつもりだったようだね」
「あぁ?」
ルドルフの言葉に、シリウスは露骨に顔をしかめた。
「皇帝様ほど自意識過剰になったつもりはねぇよ」
心底うんざりしたような顔で言い放つ。
その反応がおかしかったのか、マルゼンスキーがくすくすと笑い出した。
ルドルフもまた、困ったように苦笑する。
「私もそこまで自惚れているわけではない……はずだ」
「ふふっ、大丈夫よ、ルドルフ。ちゃんと分かっているわ♪」
「ケッ。自覚なしかよ」
シリウスは呆れたように吐き捨てると、再びターフへと視線を戻した。
その先では、ロードロイヤルが依然として先頭を走り続けている。
そして、その後方につけるタマモクロスもまた、位置を変えることなくレースを進めていた。
『各ウマ娘、大欅の向こう! 第3コーナーから第4コーナーの中間地点! 中団に位置するオグリキャップは、まだ動きません!』
タマモクロスの表情が、わずかに歪んだ。
慣れない先行策。
普段とは異なるペース配分に、思っていた以上の体力を奪われている。脚にはまだ余裕があるものの、じわじわと蓄積していく疲労は無視できるものではなかった。
だが、それ以上に厄介なのは、背後から感じる強烈なプレッシャーだ。
姿は見えない。
それなのに、分かる。
後ろに、
「(アカン……プレッシャー半端ない……!)」
いつだ。
いつ仕掛けてくる。
もう動き始めているのか。それとも、まだ脚を溜めているのか。
背後の様子が分からないことが、これほどまでに神経をすり減らすものだとは思わなかった。
一度、振り返って確認しておくべきか。
せめて、今どのあたりにいるのかだけでも──。
──いや、違う。
タマモクロスは奥歯を噛み締めた。
そんなことをしている場合ではない。
相手がいつ動くかなど、考えたところで分かるはずもないのだ。
ならば。
「(ウチのやることは一つや……! 前へ……ッ!!)」
視線を前方へと据え、さらに強く地面を蹴る。
先頭を行くロードロイヤルの背中は、まだ遠い。
だが、その距離も少しずつ縮まり始めていた。
『第4コーナーを曲がった! 依然、先頭はロードロイヤル! タマモクロスが2番手から追いかけます!』
最終コーナーを抜け、各ウマ娘が次々と動き始めた。
それまで一定の間隔を保っていた隊列が、少しずつ形を変えていく。
前を行くウマ娘たちが速度を上げ、それを追うように後続も一斉に加速する。広がっていた間隔はみるみる縮まり、互いの進路を窺いながら、直線に向けて激しい位置取り争いが始まっていた。
そんな中、いち早く動いたのはダイナムヒロインだった。
前を行くウマ娘の外へ持ち出し、残された距離を見据えて一気に加速する。その動きに合わせるように周囲のウマ娘たちも進路を変え、後続の隊列が大きく乱れた。
そして、そのすぐ後ろにいたオグリキャップは、思わず眉をひそめた。
前が塞がれた。
ダイナムヒロインが動いたことで、周囲のウマ娘たちとの間隔が詰まり、進もうとしていた先に壁ができてしまったのだ。
左右を見ても、すぐに抜け出せそうな隙間はない。
無理に割って入れば、接触する危険もある。
「(なら……前と同じように大外から……っ!)」
そのときだった。
『おおっとトップシュンベツ、ここに来てペースダウン! やはりスタートミスが響いたか!?』
実況の声が響く。
集団の一角を占めていたトップシュンベツが、ここに来て勢いを失い始めた。
周囲のウマ娘たちについていけず、じわじわと後方へ下がっていく。
それに伴い、密集していた隊列の一角に、わずかな隙間が生まれた。
「(──開いた!!)」
オグリキャップは、その一瞬を見逃さなかった。
ほとんど反射的に身体を傾け、空いた隙間へと素早く滑り込む。
わずかに進路を変えただけで、視界を塞いでいたウマ娘たちの背中が左右へと流れていった。
そして、次の瞬間。
目の前が、一気に開けた。
もう、行く手を遮るものは何もない。
オグリキャップは前方へと視線を据え、力強く地面を蹴った。
『直線に入った! 逃げ続けるロードロイヤル! このまま逃げ切れるか!?』
「ハァッ……ハァッ……」
残り400メートル。
ここまでは、順調だ。
スタート直後から一気に飛び出し、後続に大きな差をつけた。そして、レース中盤に入ってからは徐々に速度を落とし、後続との差を保ちながらここまで先頭を守り続けてきた。
おそらく、多くの者はこう考えているだろう。
序盤に飛ばしすぎたせいで、途中から失速したのだと。
大逃げを打ったものの、最後まで体力が持たず、スローペースに落ち着いたのだと。
だが、違う。
速度を落としたのは、最初からそのつもりだったからだ。
しかも、スローペースなどではない。意図的にミドルペースまで落とし、必要なだけの余力を残していた。
「(ボクにとっては温存、他にとっては消耗!)」
先頭に立ち、後続を引き離し、途中でペースを落として最後に備える。
言葉にしてしまえば、ありきたりな逃げの戦法だろう。
実際、似たようなことを考えるウマ娘など、いくらでもいるはずだ。
だが、それだけでは足りない。
ただ先頭を走り続けるだけでは、意味がない。
後続を引き離すことも、ペースを落とすことも、すべては自分が勝つための手段にすぎないのだ。
レースの流れを読み、相手の動きを見極め、そのすべてを自分の思い描いた展開へと引きずり込む。
それこそが、レースを支配する王の走り。
そして、ロードロイヤルが目指すものだった。
「ハァッ……ハァッ……!」
荒い息を繰り返しながら、ロードロイヤルは前を見据えた。
そこには、誰もいない。
当然だ。
今、このレースの先頭を走っているのは自分なのだから。
けれど、彼女の目には、確かに一つの背中が映っていた。
何度も、何度も見返した映像の中で、いつだって先頭を走っていた。
どれほど追いかけても届かない。
必死に脚を動かしているはずなのに、その背中は少しずつ遠ざかっていく。
シリウスシンボリ。
ロードロイヤルが憧れ、追い続けてきた、絶対的な存在。
だが、その幻影が、不意に揺ぐ。
視界の先で、背中が二つに分かれる。
一つは、変わらず憧れ続けてきた、あの人の背中。
そして、もう一つ。
見慣れないウマ娘の背中が、いつの間にかそこにあった。
いや、見慣れないわけではない。
その走りは、何度も見た。
何度も、何度も。映像が擦り切れるほどに。
直接顔を合わせたことはない。
言葉を交わしたことだって、一度もない。
それなのに、いつからだろう。
あの人の走りを思い浮かべるたび、どうしても、その姿がちらつくようになったのは。
「(……ああ)」
何と、羨ましいことか。
そして、何と憎らしいことか。
自分がずっと追いかけてきた背中。
その背中を追うことを、誰よりも望んできたはずなのに。
どうして、あの場所にいるのが自分ではないのだろう。
どうして、あの人の隣で走っているのが、自分ではないのだろう。
そんな感情が、胸の奥で渦を巻く。
けれど、それと同じくらい。
ロードロイヤルは、あのウマ娘の走りに目を奪われていた。
美しい、と。
そう思ってしまったのだ。
自分と同じ、逃げという戦法。
けれど、その走り方も、考え方も、まるで違う。
きっと、今の自分が勝負を挑めば、勝つのは自分だろう。
一度や二度ではない。何度走ったところで、自分が勝つと断言できる。
それほどまでに、今はまだ実力に差がある。
だが、その確信が、いつまでも続くとは思えなかった。
いずれ、覆される。
そう思わせるだけの何かが、あの走りにはある。
「(……そうだ)」
それでいい。
いや、そうでなければ困る。
だって、あの走りを教えたのは──。
世界の頂点に立つ
その人が教えた走りが、間違っているはずがない。
あのウマ娘が、これからもっと強くならないはずがない。
だからこそ、模倣した。
あのウマ娘が見せた走りを何度も見返し、その考え方を、自分なりに取り入れてみた。
序盤に大きく引き離し、中盤でペースを調整する。ただ闇雲に逃げるのではなく、後続の動きまで計算に入れ、自分に有利な展開を作り出す。
もちろん、まったく同じ走りができるわけではない。
そもそも、素養も実力も違うのだから、何もかもをそのまま真似たところで意味はない。
けれど、その根底にある考え方は、自分にも活かせるはずだ。
そして今、ロードロイヤルはそれを、この大舞台で試している。
「ハァッ……フゥ―……!」
乱れかけていた呼吸を整え、残された力を脚へと集中させていく。
来い。
来い……!
誰が相手だろうと構わない。
タマモクロスも、オグリキャップも、まとめて倒してみせる。
このレースを支配するのは、他の誰でもない。
ボクだ。
「(ボクが……証明してみせるッ!!)」
その決意に応えるかのように、不意に背後から凄まじい圧が迫ってきた。
「……っ!」
ぞくりと、背筋が震える。
振り返るまでもない。
誰かが来る。
それも、ただの相手ではない。
「──おつかれさん」
視界の端に、白い影が飛び込んできた。
タマモクロス。
いつの間にか背後との差を詰め、今まさに、タマモクロスがロードロイヤルを捉えた。
大きく開いていた差を詰め、二人が肩を並べる。
先頭を譲るまいとするロードロイヤルと、その横へと進み出たタマモクロス。互いの足音が重なり、二人はほとんど同じ速度で直線を進んでいく。
だが、タマモクロスに焦りはない。
ここまでは、ほぼ想定どおり。
ロードロイヤルが中盤にペースを落としたことも、その後の動きも、ある程度は見当がついていた。
問題は、ここからだ。
このまま一気に突き放すか。
それとも、もう少し引きつけてから仕掛けるか。
タマモクロスは呼吸を整えながら、残された距離を見据えた。
何より警戒すべきは、後ろにいるオグリキャップ。
あの芦毛がいつ仕掛けてくるか。それを見極めるまでは、迂闊に手の内を晒すわけにはいかなかった。
しかし──。
「ハァッ……ハァッ……! ハハッ!!」
「……ッ!?」
隣から聞こえてきた声に、タマモクロスは思わず目を向けた。
「(なんや、コイツ……っ!?)」
ロードロイヤルは、こちらを見ていなかった。
並ばれたことに気づいていないのか。
いや、そんなはずはない。すぐ隣にいるのだから、気づかないわけがないのだ。
それなのに、まるでタマモクロスの存在など眼中にないかのように、ただ真っ直ぐ前を見据えている。
しかも、その速度は少しずつ上がり始めていた。
ロードロイヤルが序盤に大きく引き離し、中盤で速度を落とした理由。
それが単なる失速ではなく、意図的なペース配分だったことには、気づいていた。
だが、ここにきて、まだ余力を残していたとは思わなかった。
そして、それはタマモクロスにとって、決して小さくない誤算。
そもそも、今回の先行策は、彼女なりに考え抜いた末の選択だ。
オグリキャップを警戒し、そして、シリウスシンボリと正面からぶつかり合うために。
自身とオグリキャップの末脚は、ほぼ互角。
後方からの追い比べになれば、どちらが勝ってもおかしくない。だからこそ、先に前を取り、相手の仕掛けにも即座に反応できる位置につける。
そして、この考え方は、シリウスシンボリを相手にする場合にも通じるもの。
シリウスシンボリの最後のスパートは、もはや異次元だ。
毎日王冠で見せた、あの凄まじい加速。
ひとたび先に抜け出されてしまえば、後方から追いつくことなど到底できないだろう。
それこそ、ミスターシービーのような、常識外れの末脚でもなければ。
認めたくはない。
だが、認めなければ勝てない。
だからこその先行策。
自分の得意な走り方に固執するのではなく、勝つために必要な位置を取る。
たとえ慣れ親しんだ戦法を変えてでも、真っ向から勝負するために。
そして、実際に走ってみて、その判断が間違っていなかったことも確信していた。
普段とは違うペース配分に苦しめられはしたものの、ここまで先頭に近い位置を保ち、勝負どころでも十分に対応できている。
少なくとも、後方から追いかけるよりは、はるかに勝機がある。
だが、そんなタマモクロスにも、二つの誤算があった。
一つは、ロードロイヤルの実力を見誤っていたこと。
そして、もう一つは──。
「──来おったな……っ!!」
背後から、凄まじい勢いで迫ってくる足音。
振り返るまでもない。
その気配を、タマモクロスが間違えるはずもなかった。
『オグリキャップだ! オグリキャップが来たぁーっ!! 中団から一気に進出! 凄まじい勢いで先頭の二人に迫ってくる!!』
その名が響いた瞬間、スタンドの熱気が一段と高まった。
先頭を行くロードロイヤル。
その横に並んだタマモクロス。
そして、二人の背後から猛烈な勢いで追い上げてくるオグリキャップ。
残された距離は、もうわずか。
『ロードロイヤル、まだ粘る! タマモクロスも譲らない! そしてオグリキャップが──並んだぁぁぁっ!!』
三人の身体が、ほとんど横一線に並ぶ。
誰一人として退かない。
誰一人として、ここで勝負を諦めるつもりなどなかった。
『三者並んだ! 三つ巴の大激戦!! さあ、ここから最後の勝負だ! 東京レース場、残り400m!』
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
ちょっと長くなりそうなので、前半後半にわけました。
また、そのまま描写してもシングレの焼き直しになるで、勝手ながらロードロイヤルを少しキャラ変してます。
好きな方、大変申し訳ございません。