凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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2話 帰国

 

 冬の冷たさを残しながらも、どこか春の兆しを帯びた空気が頬を撫でる。

 欧州の乾いた寒さとはまるで違う柔らかさに、ようやく日本へ帰国したことを実感した。

 

 二年ぶりの故郷。懐かしい気配が肌の奥にまで染み渡り、今まで張り詰めていた力が自然と抜けていくのを感じる。

 到着ロビーのざわめきに紛れながら、トレーナーは重い荷物を肩に掛けて歩を進めた。

 

 腕時計の時刻を気にしつつも、人の波を避けて歩きながら周囲に目を走らせる。

 そして、すぐにその姿を見つけた。

 

 背筋をまっすぐ伸ばし、静かな威厳を纏うウマ娘。その佇まいは、ただそれだけで人目を引く。

 ただ、そういった人目には慣れているのか気にした様子もなく、視線を左右に巡らせていた。

 

 その人物へ、トレーナーが急ぎ足で向かえば、視線が交わりお互いに軽く手が上がる。

 

「長旅、ご苦労。パリの祝勝会以来かな。こうして顔を合わせるのは」

 

 低く落ち着いた声。そこには歴戦を越えてきた者の威厳が漂うのに、不思議と圧ではなく安心を抱かせる温もりを感じた。

 

「お久しぶりです。スピードシンボリさん」

 

 自然と背筋が伸び、思わず頭を下げようとしたトレーナー。だが、その仕草はすぐに手で制される。

 

「よしてくれ。私はそこまでの人物ではないよ。それに、前にも言ったが“スーさん”と呼んでくれて構わないさ」

「ははっ……流石に、それは恐れ多いですよ」

「ルドルフの所もそうだが、皆もっと気安く呼んでくれていいんだけどね……ああ、いや、君を困らせたいわけじゃない」

 

 片手を腰に当て、少しだけ困ったように笑うスピードシンボリ。

 トレーナーが苦笑を返すと、彼女はふっと肩の力を抜いた。

 

「ここで話すのも周りに迷惑だろう。続きは行く道でするとしよう」

 

 そう言ってロビーの外へ視線を送ったスピードシンボリに倣い、トレーナーも歩を進めた。

 人の波を抜け、ガラス扉を通り抜けた先には、既に黒塗りのリムジンが待機していた。

 背筋の伸びた初老の執事が一礼し、手際よく荷物を受け取る。

 

 冷たい外気を胸に吸い込み、トレーナーは改めて深呼吸する。

 そして、スピードシンボリと並んでリムジンの後部座席に乗り込むと、静かな駆動音とともに扉が閉ざされた。

 車は滑らかに発進し、都会の風景を背景に空港を離れていく。

 

 こうして、場の空気が少し落ち着いたところで、スピードシンボリが口を開いた。

 

「まずは、二年に及ぶ遠征、本当にご苦労だった。そして──何より無事に帰ってきてくれて良かったよ」

 

 胸の奥にまで沁みるような言葉に、トレーナーは思わず背筋を正した。

 

「ありがとうございます。何から何まで……シンボリ家に助けられてばかりです」

 

 この二年間を戦い抜けたのは、シンボリ家が細やかに気を配ってくれたからこそだ。

 もちろん、学園からの支援もあったが、シンボリ家の後ろ盾がなければ成り立たなかったことも多い。

 

 トレーナーの言葉に、スピードシンボリは一瞬だけ目を細め、そして小さく肩を揺らす。

 

「私自身が何かしたわけではないのだが……礼を言われるのなら、素直に受け取っておくとしよう」

 

 そう言った彼女の横顔は、気負いなく微笑んでいるようにも、どこか誇らしげにも見えた。

 

「なに、結果を見れば当然だよ。トレーナー君が遠慮する必要はない」

「いえ……とんでもありません。すべてはシリウスが努力を続けたからこそです。私はその手助けをしたにすぎません」

「ははっ、君たちは同じことを言うね……それとも、シリウスとルドルフがそうさせるのかな?」

 

 スピードシンボリは、どこか微笑ましそうに目を細める。

 普段の凛とした佇まいからは意外な、静かな優しさを帯びた笑みだった。

 

「だが、君がいなければシリウスはあそこまで走れなかった。データの収集と分析、そして何より精神面の支え……。それは間違いなく君の力だ。胸を張るといい」

「……ありがとうございます」

 

 トレーナーは、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らして頬を掻く。

 その様子に、スピードシンボリは声を立てずに笑みを零し、ふっと窓の外へ視線をやった。

 流れゆく街並みを眺めていると、不思議な感覚と共にかつての記憶が言葉として滲み出てくる。

 

「私も……若き日に欧州へ挑んだ。だが、知識も環境も不足し、体は削れ、心は摩耗した。……勝てるどころか、ただ異国の厳しさに押し潰されて帰るのが精一杯でね」

 

 語る声音は重々しくはなく、むしろ昔話をさらりと口にしたような響きだった。

 スピードシンボリの脳裏をよぎるのは、幻想を打ち砕かれたあの日のこと。

 勝てない──嫌でも突きつけられた現実。膝に手を置き、ただ頭を垂れるしかなかった。

 

 だが、その記憶すら今では色を変えている。

 凱旋門のゴール板をシリウスが駆け抜けた瞬間、胸の奥が震え、呼吸すら忘れた。

 あれほどまでに熱く、強く、心を揺さぶられたことはなかった。

 勝者として掲示板を見上げるシリウスの姿は、今も鮮烈に焼き付いている。

 

 いけないことだとは分かってる。下手をすれば侮辱と受け取られてもおかしくない。

 だが、それでも、気づけばその光景に、若き日の自分を重ねていた。

 あの日、膝を折り、敗北を噛みしめた自分と──堂々と勝者として名を刻んだシリウスを重ねながら。

 

「……シリウスが勝ったとき、心の底から思ってしまったよ。あの時、もっとやりようがあったのではないか、とね」

 

 言葉にしてから、自らの胸の奥に潜んでいた思いが、不意に外へ漏れ出てしまったことに気づく。

 途端に頬の内側が熱を帯び、スピードシンボリは小さく咳払いをした。

 

「んんっ……すまない。どうも歳を取ると口が緩んでいけないな……ああ、そうだ! 伝言を預かっていたのを忘れていたよ」

 

 話題を切り替えるように声の調子を上げる。

 わざとらしいほどの切り替えに、トレーナーは思わず瞬きをした。

 

「『シリウスが迷惑をかけた。申し訳ない』──そう、あの子の父親からだ」

 

「えっ? ……ああ! いえ、こちらこそ……自分も初めて見ましたよ、あんなシリウスは」

 

 思い当たる節があったトレーナーは、苦笑いを浮かべる。

 その様子を眺め、スピードシンボリはくつくつと小さく笑みを零した。

 

「ふふっ……私も聞いたときは耳を疑ったよ。あのシリウスが、そんな我儘をいうなんて」

 

 スピードシンボリの言葉に、トレーナーの脳裏へあの日の光景がよみがえる。

 

 

 

 

 

 二人でささやかな時間を過ごしたあの夜。

 電話越しの件は、一旦その場で落ち着いたものの、不安の影は消えずに残っていた。

 

 新年を迎え少し経った後、ばたばたと慌ただしい空気のなか、シンボリ家の関係者が揃って今後を話し合う場が設けられた。

 そして、あのとき感じていた不安はその場で現実のものとなる。

 

「──考えを改めるつもりはねぇよ。例え先生……アンタでもな」

 

 耳を伏せ、鋭い眼差しで周囲を睨みつけるシリウス。

 普段なら言葉こそ荒くても、理路整然と筋を通す彼女が、このときばかりは頑なに「帰る」の一点張りだった。

 それは駄目だと言えば「ならばトレーナーを残せ」と食い下がり、誰が何を説いても耳を貸そうとしない。

 

 幼いころから彼女を知る者たちは、さらに困惑していた。

 あのシリウスが、理屈も立てずにただ駄々をこねる──誰ひとり想像していなかった姿だったからだ。

 

「シリウス、一体どうしたんだ? 君らしくもない」

 

 場に沈む重苦しい沈黙を破るように、声を発したのはトレーナーだった。

 彼自身もまた戸惑いを隠せてはいない。

 

 不機嫌なシリウスなど、これまで何度も目にしてきた。

 だが、こうして露骨に苛立ちを剥き出しにする姿は、この二年間一度たりともなかった。

 むしろ、今の彼女は初めて見る顔をしている。

 

「らしくない? ハッ! どうもこうもねぇ……アンタは“私のトレーナー”だろ? 与えられた役割を全うしろって言ってんだ」

 

 苛立ちを隠そうともせず、シリウスは声を荒げた。

 説得する立場としては駄目だが、その言葉に思わず胸の奥が熱くなる。

 事実、本音を言えば、彼女の隣で走り続けたい。この先の欧州の舞台を共に見届けたい。

 だが、そうもいってられないのは何度も自身で説明していることだ。

 

「自分だって傍に居たい……けど、シリウス。その一時の感情でこの二年間を無駄にする気かい?」

 

 困ったように眉を下げ、言葉を選ぶトレーナー。

 怪我の影響もあって不確かな部分はあるが、シリウスにはまだ挑むべき大舞台が控えている。

 

 一年目の【フォワ賞】は二着。あの走りで、海外でも十分に通用する実力があると誰もが認めた。

 しかし同時に、スピードシンボリが環境への適応に苦しみ、力を発揮できずに散った過去がある。

 

 だからこそ無理に挑まず、あえて一年を“土台作り”に費やした。

 環境に馴染み、脚を磨き、体を作る──その積み重ねこそが、二年目の【凱旋門賞制覇】へと繋がったのだ。

 

 そして迎える三年目。

 積み重ねた経験と名実ともに“凱旋門ウマ娘”という確かな名誉を背に再び世界へ挑む。

 

【キングジョージ*1】、【バーデン大賞】──そして二度目の【凱旋門賞】。

 

 そのレースで結果を残すことは、シリウス自身の証明であり、これまで積み重ねてきた努力の答えだった。

 その機会を自ら手放すのは、持てる才能を無駄にするに等しい。

 

 このまま帰国するとなれば、欧州で積み上げてきた信頼や矜持、何よりこれまで積み重ねてきたものを裏切ることになりかねない。

 また、シンボリ家の面子もそうだが、後に続く後輩たちへの道を閉ざすことになり、日本のウマ娘全体の評価にまで影響するだろう。

 

 裏を返せば──それほどまでに、ここ欧州で【凱旋門賞】を制したという事実は大きい。 

 

「シリウス、何が不安なんだ? 今、この欧州で一番強いのは君だ。間違いない」

 

 静かに、だが熱をこめてトレーナーは語る。

 

「あの日、凱旋門で見せた走りをすれば君は絶対に負けない」

「それは、アンタがっ! …………チッ、なんでもねぇ」

 

 咄嗟に出かかった言葉を噛み殺すように、シリウスは舌打ちして視線を逸らした。

 耳は不満を隠せず後ろへ倒れ、尻尾は小刻みに揺れ続けている。

 頭では理解しているし、無理なのは分かっている。けれど、それでも言わずにはいられなかった。

 

「……どうにかして、残れないのかよ」

 

 低く絞り出すその声には、苛立ちと焦燥がないまぜになっていた。

 

「無理だ、シリウス」

 

 落ち着いた声で答えたのは、シンボリ家の人だった。

 厳然とした響きには、感情よりも現実の重みが勝っている。

 

「彼は学園──URA所属の人間だ。今回の二年間は、URAとシンボリ家が協議して設けた正式な遠征プログラムにすぎない。その期限を迎えた以上、帰国は決まっていたことだ」

 

 続く沈黙が、何より雄弁だ。

 URAも挑戦そのものは後押しした。だが、その期待はあくまで経験の蓄積や実績作りにとどまり、“勝利”までは誰一人として見込んでいなかった。支援や資金も枠組みとして用意されてはいたが、それはあくまで「試み」を支える程度に過ぎない。

 

 だからこそ、凱旋門賞を制した事実は全てを覆した。まさに歴史を書き換える一勝であり、URAにとっては想定外の成果だっただろう。

 本気で勝てると視野に入れていなかったURAの姿勢に、シンボリ家としては腹立たしいことであったが、同時に理解もしている。

 

 欧州は彼らにとって遠い異国、現地に根ざす仕組みや還元の道筋はまだ十分に整っていない。

 URAが重視するのは国内への波及であり、海外遠征はあくまで期間限定の“試み”にすぎなかった。

 

 だが一方で、この勝利はURAにとっても無視できないものには変わりなく、上層部はこの結果を重く受け止め、国内にとどまらず本格的に海外へ目を向けるべきだと議論を始めている。

 

 それに、海外からの視線も確かに変わった。

 これまで遠い異国からの挑戦者でしかなかった日本の名は、いまや堂々と“勝者”として語られている。シリウスの名と共に届いたその熱は、シンボリ家にとっても誇りだった。

 

 だからこそ、ここから先は筋を通す必要がある。

 

「シンボリ家として彼を私的に縛ることなど出来ない。むしろシリウスをここまで導いてくれた恩があるならば、なおさらだ」

 

 厳しく言い切る声が場に落ちた瞬間、重たい空気が部屋全体を支配する。

 シリウスは奥歯を噛み締め、視線を床に落とした。爪先が小さく床を叩く音だけが、沈黙に響く。

 その沈黙に耐えきれず、トレーナーが口を開いた。

 

「……シリウス。日本にいても君の走りを見ている。全力で駆ける君を、ちゃんと見届ける」

 

 真っ直ぐ向けられたその言葉に、シリウスの肩がわずかに揺れる。

 耳はまだ伏せられたままだが、尻尾の動きが一瞬止まった。

 

「……見逃すんじゃねぇぞ」

「まさか、見逃すはずがない」

「ハッ、言ったな? ……レースの分析結果を送れ。アンタの主観も聞かせろ」

「分かった、いつも通りやっておくよ」

 

 そのやり取りに、どうにか落としどころが見えたようだ。

 そのことに、シンボリ家の面々は表には出さずとも内心で大きく胸を撫で下ろす。

 張り詰めていた空気が、ふっと霧が晴れるように和らいでいき、静かに全員が息を吐いた

 

 そんな場が落ち着いた隙をつくように、シリウスがさらっと言い放つ。

 

「それともう一つ。勝手に契約とかするんじゃねぇぞ」

 

 そう言われて、トレーナーはふと気が付ついた。

 

 シリウスが欧州に残る以上、自分が帰国してから明確に担う仕事は減るだろう。もし彼女も一緒に帰国して国内のレースに挑むのなら話は別だが、そうでない以上は手持ち無沙汰になるのは目に見えていた。

 

 もとより、シリウスは自分で調整できるぐらいの知識も技術も持っている。それに、これからはシンボリ家の支援も本格的に整うため、こちらが付きっ切りでなくても十分にやっていけるはずだ。

 

 そうなれば、必然的に誰かしら新しく担当を受け持つか、チームを組んで動き出すか……学園としても、トレーナーを余らせておく余裕はない。

 結果を出した今こそ、今回得た経験や知識を学園全体に還元するよう求められるのは当然だろう。

 

「……オイ、返事はどうした?」

 

 低く投げかけられた声に顔を上げると、シリウスの眉がわずかに寄っていた。

 冷静に据わっているはずの瞳が、いまはじれったそうに細められている。

 

「ああ、いや、ごめん……そういえば、帰国後のことを深く考えたことはなかった」

「返事を……チッ、まあいい。とにかく、私が戻るまでお利巧にしとけよ?」

 

 口元にはわずかな笑みを浮かべ、いつもの調子でからかうように言うシリウス。

 それに、トレーナーは苦笑を浮かべながら、困ったように肩をすくめて頷くしかなかった。

 

 だが、いつもと通り勝気な笑みと裏腹に、シリウスの瞳は軽口に似合わず鋭くトレーナーを捉えていた。

 

 

 

 

 

「──へぇ……なるほどね」

 

 トレーナーの話を聞いて、スピードシンボリはどこか納得したような表情を浮かべてそう言った。

 

「いや、なに、大したことじゃない。実際に当事者の話を聞いて腑に落ちただけだよ」

 

 その言葉にトレーナーは首を傾げるが、気にしなくていい、と手を軽く振って制される。

 

「あくまでも私の憶測にすぎないからね。それに、下手に突けばシリウスから反感を買ってしまうそうだ」

 

 スピードシンボリはわずかに苦笑を浮かべながらも、その表情は何処か嬉しそうにしていた。

 対してトレーナーは首を傾げるばかり。追及されても困ると思ったスピードシンボリはすぐに真剣な色を帯びて姿勢を正した。足を組み直し、今度はしっかりとトレーナーを見据える。

 

「トレーナー君、学園に着く前に少し話しておきたいことがある」

 

 少し間を置き、落ち着いた口調で続ける。

 

「近いうち、とあるプロジェクトの草案が上層部に提出されることになっている。とはいえ、実際に動き出すのはまだ先のことだが」

「……それは、自分にも関係がある、と?」

 

 問い返したトレーナーに、スピードシンボリは小さく頷いた。

 

「話が早くて助かるよ。ただ、これは強制ではない。その時の状況や君自身の立場もあるだろうからね」

 

 言葉を選ぶように静かに告げると、トレーナーは眉をひそめつつも頷いた。

 

「それは構いませんが……具体的には、どういった協力を?」

 

 問いかけにスピードシンボリは目を細め、口元に柔らかな笑みを浮かべる。

 

「ありがとう。詳細だが……いや、それはまた今度にしておこう」

 

 そこでふと、彼女の視線が窓へ向けられた。

 つられてトレーナーも外を見やれば、流れる街並みがいつの間にか馴染み深いものへと変わっていた。

 

 緑に囲まれた坂道、学園寮へと続く並木道、遠くに見えるトレセン学園の校舎。

 その光景を目にした瞬間、自然と胸の奥に懐かしさが込み上げる。

 

「詳しい内容については、いずれ【佐岳メイ】という人が直接持ってくる。その際、日程が合えば私も同席するつもりでいるよ」

 

 窓の外を見つめながらの穏やかな言葉。その声音には、どこか未来に期待するような響きが混じっていた。

 

「……承知しました。そのときに、またお話を伺います」

 

 トレーナーが真剣に応じたところで、車が速度を緩める。

 やがて重厚なブレーキ音とともに停車し、窓の向こうにはトレセン学園の正門が姿を現していた。

 

 すぐさま執事が無駄のない所作で外に出て、後部座席のドアを開け放つ。

 スピードシンボリに続いて外へ出た瞬間、視界に飛び込んできたのは堂々とそびえるトレセン学園の校舎だった。

 

 幾度となく通い抜けた正門と、まっすぐに伸びる並木道。見慣れた光景が広がると同時に、胸の奥に懐かしさがじわりと込み上げてくる。

 じわじわと広がり、腹の底に重く落ちていくのは、自分が本当に帰ってきたのだという揺るぎない実感だった。

 

「──おかえりなさい、トレーナーさん」

 

 思わず耳に届いた声の方向に、勢いよく顔を向ける。

 そこに立っていたのは、多くのトレーナーが世話になった人物──駿川たづなだった。

 最後に顔を合わせたときと変わらぬ柔らかな立ち姿に、自然と笑みがこぼれる。

 

「たづなさん! お久しぶりです!」

 

 懐かしさのあまり少し張り切った声になり、慌てて頭を下げ直す。

 そんな様子を見て、たづなは上品に微笑みながら首を小さく振った。

 

「ふふっ、お元気そうで何よりです」

 

 そう言って、たづなはどこか気遣うように視線を和らげた。

 

「でも、本当に良かったのですか? 一度ゆっくりされてからでも……」

 

 彼女がここにいるのは、理事長のもとへ案内するためだ。

 本来なら帰国の挨拶は落ち着いてからでもよかったし、そのように配慮もされていた。

 だが、早めに環境を整えたいと自ら望んだ結果、こうして到着したその足で学園へ向かうことにした。

 

「いえ、大丈夫です。これぐらいどうってことは」

「……そうですか。けれど無理はなさらないでくださいね?」

 

 たづなの優しい言葉に、礼を込めてうなずくトレーナー。

 その小さなやり取りを合図にするように、スピードシンボリが一歩前へ出て口を開く。

 

「私はルドルフに用があるから、ここでお別れだ。君も時間があったらルドルフに顔を出すといい」

「はい。ここまで、ありがとうございました。また、近いうちに」

「ああ、また会おう」

 

 短く告げ、スピードシンボリは背筋を伸ばしたまま校舎へと歩を進めていく。

 その背中を見送りながら、トレーナーは胸の奥で小さく息を整えた。

 

「理事長がお待ちです。どうぞこちらへ」

 

 たづなの言葉に促され、自然と姿勢を正した。

 そのまま、彼女の後に着いていくように学園を歩き出す。

 

 その道中、トレーナーの視線はあちこちへとさまよった。

 懐かしい壁の色、磨き上げられた窓ガラス、視界の端に見えた校舎の一角。

 ひとつひとつが記憶の底を揺さぶり、ここに来てずっと懐かしさばかり込みあげて来る。

 

 新学期を目前に控えた休日とあって、校内に残っている生徒の姿はまばらだった。

 それでも、すれ違えば軽く会釈を交わし、トレーナーも同じように笑みを返す。

 

 そして、次の瞬間、大半の生徒がはっとしたように振り返った。

 目を見開き、二度見し、信じられないと立ち止まる者。

 息を呑み、声もなく仲間の袖を引く者。驚きと動揺がさざ波のように広がっていく。

 

 世間一般において、トレーナーという存在は表に出にくい。

 脚光を浴びるのはあくまでウマ娘本人であり、担当者の名前や姿までは記憶されづらいのが常だ。

 だが、ここ中央トレセンに籍を置く者たちは違う。

 才能だけで戦うことができる一握りを除けば、誰もが痛感していた。──勝利の裏には必ず支えるトレーナーがいるのだと。

 

 あのシンボリルドルフでさえも「七冠は私だけでは届かなかった」と認めるほどに。

 だからこそ、生徒たちは知っている。

 

 あの凱旋門賞を制したシリウスシンボリを。

 

 それを実現させたトレーナーを。

 

 生徒たちの視線が、いままさにその人物へ注がれている。

 だが、当の本人はそんな熱を一切感じ取ることもなく、ただ懐かしさに浸りながら学園を歩いていた。

 

 はぁ、とたづなは内心で小さく息を吐く。

 ここ最近、オグリキャップをはじめとする新世代の台頭で、トゥインクルシリーズはかつてないほどの盛り上がりを見せている。

 

 “白い稲妻タマモクロス”や“芦毛の怪物オグリキャップ”など、一気に時代の寵児となったその存在は、すでに国民的な熱狂を巻き起こしていた。

 

 世間一般にこそまだ浸透していなくとも、シリウスとそのトレーナーが海の向こうで成し遂げた偉業は、やがて大きな火種となるだろう。

 鋭い記者や関係者たちの目はすでに向けられているに違いない。彼らが成し遂げた勝利がどれほどの意味を持つのか、そして、その背負うものを抱えながら今後どう動くのかを。

 

 理事長を支える自分も、より一層の覚悟を持たなければ。

 たづなは胸の内で、密かに決意を新たにする。

 

 そうこうしているうちに、二人は理事長室の前にたどり着いた。

 たづなが軽くノックをし、扉越しに声をかける。

 

「理事長、トレーナーさんをお連れしました」

*1
キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス




評価、感想、ありがとうございます。大変、励みになります。
一応、史実の流れに沿っていきますが、今後登場する予定のウマ娘や話の都合上、時系列、世代などが入れ替わると思われますので、ご容赦ください。
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