「──凱旋ッ!! よくぞ帰ってきてくれた、トレーナー!」
その声と同時に、バサンッと威勢のいい音を立てて扇子が開かれた。
白地に大書きされた“帰還ッ!”の文字が、勢いよく前へ突き出される。
懐かしい光景だと感じながらトレーナーは頭を下げた。
「お久しぶりです、秋川理事長」
「うむッ! 海外での活躍、ちゃんと届いていたぞッ!!」
理事長は扇子を軽やかに掲げ、満面の笑みを浮かべた。
小柄な身体からは想像もつかないほど朗々とした声が響き渡り、書類の束まで震えるような勢いで部屋の隅々に届く。
その変わらない迫力に、トレーナーは思わず苦笑した。
「殊勲ッ!! あの凱旋門賞を制したときの走り! まさに歴史に刻まれる偉業であったッ!!」
再び、バサンッと扇子が勢いよく開かれる。
そこに大書されていたのは、“偉業ッ!”の二文字。
まるで、文字そのものが声を持つかのように、空気を震わせた。
──前々から思っていたが、一体どうやって書き換えているのだろうか。
ほんの一瞬、そんな疑問が脳裏をかすめる。
だがそれも、理事長の朗々たる声にすぐかき消された。
その言葉の端々から、心の底から誇らしく思っているのが伝わってくる。
「トレーナーッ! その手腕を、今一度ッ! この学園のウマ娘たちを導くために振るってほしいッ!!」
理事長の真っ直ぐな眼差しを受け、トレーナーは静かに頷いた。
「はい、全力を尽くします」
「感謝ッ!! ……とはいえ、本当に休まなくてよかったのか?」
扇子をぱたりと畳み、理事長の声色が少しだけ和らぐ。
形ばかりの問いかけではあったが、その響きには労りがにじんでいた。
「心配には及びません。じっとしている方が落ち着かないくらいですから」
この二年間は、間違いなく充実していた。
異国の地でも、変わらずお互いに選択肢をぶつけ合い、納得のいく最善の一手を選び続けた。
慣れない環境に苦労も多かったが、シリウスに負けまいと寝る間を惜しみ、自分を磨き上げた日々。
だからこそ、いま生まれたこの“空白”が、妙に落ち着かない。
それは彼にとって、誇りの証でもあり、次の一歩への焦燥でもあった。
何より、年数と実績を積んだとはいえ、担当したのはシリウス一人だけだ。
知識も経験も備わった今だからこそ、眠っている原石を見出し、磨き上げたい──そんな想いが胸に満ちていた。
「うむッ! そこまで言うなら異存はないッ!! 本来は休養を勧めるが……君が望む以上、口出しはすまい!」
理事長は満足げに頷き、再び声に力をこめた。
その笑みには、期待と信頼の両方が滲んでいる。
「たづなッ! 例のものを!!」
呼ばれたたづなが一歩前に進み、手のひらに載せて差し出したのは、小さな鍵。
窓から差し込む陽光を受けて、表面がちらりと光を返した。
「これは……?」
トレーナーが問いかけると、たづながいつもの柔らかな微笑みを浮かべる。
「トレーナー室の鍵です。以前ご利用になっていた部屋を、そのままお使いいただけるよう手配しました」
たづなの声はいつも通り穏やかで、どこか気遣いを含んでいる。
理事長は扇子を軽く打ち鳴らし、満足げに笑った。
「君の帰還に合わせて整えておいたッ! 荷物も必要な備品も、すべて元通りにしてある! すぐにでも再始動できるぞッ!!」
その張りのある声に、室内の空気がひときわ明るくなる。
どこまでも準備万端という理事長の調子に、トレーナーは小さく息を漏らし、苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます。すぐに環境を整えられるのは助かります」
「うむッ! 学園に新たな風を吹かせてくれたまえッ!!」
“激励ッ!”と記された扇子が、勢いよく開かれる。
その言葉が、まるで祝福のようにまっすぐ送られてきたのを感じた。
トレーナーは深く頭を下げ、静かにその場を後にする。
扉を閉めた瞬間、先ほどまでの賑やかな声が遠のき、廊下の静けさが戻ってきた。
理事長室の熱気が嘘のように消え、冷えた空気が肌を撫でる。
トレーナーは、ひとつ息を吐き、足を生徒会室へと向けた。
長い廊下を歩きながら、彼はふと窓の外に目をやる。
春の光を受けた青空の向こうに、あの異国の景色がぼんやりと浮かんだ。
今頃、シリウスはどうしているだろうか。
そんな思いが一瞬、胸をよぎる。
──と、物思いに沈んでいるうちに、気づけば目的の扉を通り過ぎかけていた。
小さく息をついて足を止める。
姿勢を正し、落ち着いた様子でノックをすると、内側から穏やかな声が返ってきた。
その合図に従い扉を開けると、執務机に向かって書類へ目を落としていたルドルフが顔を上げる。
端然とした表情だったが、来訪者の姿を認めた瞬間、その厳しさがふっと緩んだ。
「……わざわざ、すまないね。帰国そうそう足を運んで貰って」
「気にしないでいいよ。惜しむ手間じゃない」
ルドルフは短く息を吐き、手元の書類を整えると椅子から立ち上がる。
それから一歩進み、ソファを示すように片手を差し向けた。
「時間はあるかな? 君とは一度、ゆっくりと話したいと思っていたんだ」
トレーナーは頷き、促されるままソファに腰を下ろす。
ルドルフは慣れた手つきで戸棚からティーセットを取り出し、湯を注ぎ始めた。
静かに立ちのぼる湯気の音が、しばしの間ふたりのあいだを満たす。
「スーさんから聞いたよ。帰国前に少々、骨の折れる出来事があったそうじゃないか」
「ははっ、まいったね……君に知られたとなると、シリウスが怒りそうだ」
軽口を交わす二人の間に、わずかに懐かしさが滲む。
「スピードシンボリさんは、もう帰った?」
「ああ。スーさんも忙しい身だ。今は特に慌ただしいみたいでね」
その言葉に、わざわざ空港まで迎えに来てくれたことが申し訳なく思えた。
プロジェクトの件があったにせよ、URAの海外事業部を管轄する立場からすれば、凱旋門賞の余波は相当なものだろう。
そんな中、わざわざ時間を割いてくれたことに、胸の内で頭が下がる思いだった。
その様子に気づいたのか、ルドルフはふっと柔らかく笑った。
「気にすることはない。忙しいと口にしながらも、妙に生き生きしてたよ。まあ、嬉しい悲鳴というやつさ。──どうぞ」
ルドルフが差し出したカップを受け取り、トレーナーは礼を言って口をつける。
柔らかな香りが鼻を抜けた瞬間、馴染み深い感覚が胸を満たした。
あちらで、シリウスとよく飲んでいた珈琲の香りだ。
「ふふっ、気づいたかな? 君たちが好んでいると聞いてね。前の祝勝会のときに試しに買ってみたんだ」
ルドルフはカップを軽く持ち上げ、穏やかに微笑む。
「今じゃあ、私もすっかり虜でね。わざわざ取り寄せているんだ」
その言葉に、トレーナーの口元にも自然と笑みが浮かぶ。
シリウスにこのことを話したら、不機嫌になりそうだが、案外、二人の好みは似ているのかもしれない。
「さて……改めて言わせて欲しい。──おめでとう。凱旋門賞制覇、まさにとてつもない偉業だ」
「ありがとう。でも、それはシリウスに……言いはしたか」
「言ったとも。本心から伝えたつもりだったんだけどね……見事に門前払いされたよ」
「そうだったね」
ルドルフは苦笑しながら、少しだけ肩を落とす。
あの祝勝会の席で、彼女はきちんと正面から言葉を贈った。
だがシリウスはいつも通り、そっけなく返しただけだった。
長くシリウスを見てきたからこそ分かる。
あの時、彼女が欲していたのは称賛ではなく、もっと別の言葉だったはずだ。
「ルドルフ……君にとって、シリウスはまだ導くウマ娘の一人かい?」
唐突に投げかけられた問いに、ルドルフはわずかにまばたきをする。
そして、ほんのわずかに目じりを下げ、小さく苦笑いを浮かべた。
図星を刺されたような、その微かな表情に、静かな痛みが滲んでいた。
「……相変わらず手厳しい」
そう言って、彼女は息を整えるようにゆっくりとティーカップを受け皿へ戻した。
小さな陶器の音が響き、それが合図のように室内の空気が静かに緩む。
「あれほどの走りを見て、胸が熱くならないわけがない。それがウマ娘なら、なおさらだ」
その声音は、どこか噛みしめるようだった。
言葉の端々から、彼女が何を想い、どんな景色を胸に抱いているのかが伝わってくる。
凱旋門の光景を、彼女はいまも鮮明に思い浮かべているのだろう。
「正直に言えば、裏方へ回ると言ったことをひどく後悔したほどだ。だが、その選択を私は間違いだったとは思わない」
もし、あの時に戻れたとしても、きっと同じ決断をしていただろう。
──全てのウマ娘に幸福を。
その理念を違えることは、彼女にとってありえない。
己の信念に曇りはなく、これからも揺らぐことはないだろう。
それでも、胸の奥のどこかで、あの日の光景が疼く。
「思ってしまうんだ……あのターフを走るのが、なぜ自分ではないのか、と」
あの一戦は、まさに命を削るような走りだった。
息を詰め、一秒ごとに心が焼けるような熱を帯びながら、ただ勝利だけを見据えて走る姿に、胸を揺さぶられた。
そして、誰よりも早くゴール板を駆け抜けたシリウスを見た瞬間──どうしようもなく思ってしまったのだ。
──何故、自分はあの中にいないのか。
観客席でそれを見ている自分を、もう一人の自分が俯瞰する。
胸の奥から込み上げてくるのは、言いようのない落胆と自己嫌悪。
なぜだ。なぜお前は、あのターフを走っていないのか、と。
心の中で、何度も何度もそう罵倒したくなった。
「……ルドルフ、君は──」
「──先ほどの問いに答えよう」
トレーナーの言葉を遮るように、ルドルフは顔を上げた。
その表情はどこか晴れやかで、口元にはわずかに挑むような笑みが浮かんでいる。
「私にとってシリウスも導くウマ娘の一人であることは変わりない。だが、一つだけ変わったことがある」
その言葉を放つ声音には、確かな熱があった。
長く胸の奥に押し込めていた想いが、言葉に変わり、少しずつ滲み出していく。
ルドルフは静かに、けれど止まることなく語り続けた。
それを聞くうちに、トレーナーは思わず息を呑み、大げさなくらい目を見開いた。
そして次の瞬間、力が抜けたように深く溜息をつく。
「はぁ……それをシリウスに言えばいいのに」
「いや、その……なかなか会う機会が限られているとね」
「ああ、恥ずかしいんだ?」
「……やはり、君は手厳しいよ。トレーナー君よりも、ずっとね」
互いに小さく笑い合い、どちらからともなくカップを口に運ぶ。
馴染んだ味と香りに、ほんのひととき心を委ねながら、穏やかな時間が流れていった。
そして季節は巡り──新学期が始まった。
柔らかな陽光とともに、新しい空気が学園を包む。
新入生の噂や、デビュー前のウマ娘たちの話題が飛び交い、トレーナーたちのスカウト活動も日に日に熱を帯びていく。
そんな賑やかな中で、ひときわ視線を集める存在があった。
といっても、特別な騒ぎを起こしているわけでも、奇抜な行動をしているわけでもない。
ただ、彼がそこに立っているだけで、周囲の空気がどこか張りつめるのだ。
「……気まずい」
ぽつりとこぼれた独り言が、春の青空に吸い込まれていく。
彼──シリウスのトレーナーは、居心地の悪そうな面持ちで走るウマ娘たちの姿を静かに目で追っていた。
だが、その視線に応えるように、いくつもの視線が返ってくる。
どこか探るような、あるいは距離を測るような眼差し。
ウマ娘たちも、トレーナーたちも、皆が彼の存在を意識していた。
まるで、ざわめく輪の外にひとりだけ取り残されたような感覚だ。
それでいて、四方八方から注がれる気配に、思わず小さく息を吐く。
だが、そんな背中を軽く叩く存在がいた。
「随分と注目されてるね、君。ここまで来ると羨ましくは思えないけど」
「それは、まぁ……でも、自分が凄いわけじゃないからなぁ」
「なにそれ、嫌味? 二年近く海外行っててよく言うわよ」
軽く肩をすくめながら、隣に並んだのは同期のトレーナーだった。
口では悪態をつきながらも、その声音の奥には、懐かしさと親しみが滲んでいる。
「そっちだって似たようなものでは?」
実際、彼女とは似た者同士と言えるだろう。
彼女が担当するのは、史上初のトリプルティアラを成し遂げたメジロラモーヌ。
ティアラ路線を志すウマ娘たちにとって、その名は憧れそのものであり、当然そのトレーナーも同じように映る。
故に、この一帯には人と視線が集まった。
しかし、当の本人はそんな周囲の目など気にも留めず、いつも通り、あっけらかんとした口調で言った。
「別に? 私はもう決まっているようなものだしね」
何を言っているのかと、訝しげに思いながら彼女の視線を追う。
その先、フェンス際には数人のトレーナーが集まり、出走メンバーを真剣な表情で見つめていた。
どうやら、これから始まる選抜レースを見守っているらしい。
「メジロライアンよね、やっぱり。今日の選抜レースじゃあ、一番の注目株だし」
「メジロ……って、あのメジロ家の?」
メジロ家と言えば、優秀なウマ娘も数多く輩出している名門だ。
それこそ、彼女が担当するメジロラモーヌを筆頭に多くの功績を残している。
シンボリ家と並び、ウマ娘界でその名を知らぬ者はいないだろう。
そして、ここまで聞けば察しがつく。
彼女がメジロラモーヌを担当している以上、メジロ家の次代の子を見ていくのは自然な流れだ。
事実、自分のもとにもシンボリ家から「いつか見てやってほしい」と名前を挙げられた子がいる。
「じゃあ、その子の担当になるのか」
「えっ? 違うけど?」
「……違うのか」
予想外の返答に、思わず肩の力が抜けた。
「別に、ティアラ専門ってわけじゃないんだけど……ラモーヌと同じ場所を目指す子がいるなら、支えてあげたくなるでしょ?」
「へぇ……なら、どうしてここに? ライアンは担当しないんだろう?」
それなら、どうして彼女がこのレースを見ているのだろうか。
単に、メジロ家の子が出走しているから、というだけではなさそうだ
「そうね。ライアンはしっかりしてるし、人を見る目も確か。自分の立ち位置をよく分かってる」
そこで一度、彼女は小さく息を吐き、視線をレース場の奥へ向ける。
「だから、私が心配してるのは──もう一人の方」
「もう一人?」
その言葉を合図にしたかのように、レースが始まった。
ゲートが一斉に開き、ウマ娘たちは出遅れもなく飛び出していく。
序盤は、それぞれが自分の脚質を守り、無理なく位置を取っており、全体の流れは堅実そのもの。
──模範的、と言っていい走りだ。
もちろん、それは悪いことではない。
選抜レースである以上、余計な波風を立てないのは賢明だ。
ただ、その中で先頭を走る子のフォームが、妙に気になった。
形としては整っていて、美しいとさえ言える。まさに教本通りの走りだが……どこか、ぎこちなさを感じる。
あまりに整いすぎていて、かえって少し浮いて見えた。
レースはそのまま大きな乱れもなく進み、やがて終盤。
スパートの合図が聞こえたかのように、各々が一斉に仕掛ける。
その中でも、メジロライアンの末脚は際立っていた。
地を裂くような加速。観客席がどよめくのも分かる。
「……凄いな、あの子」
「まっ、そうでしょうね」
ぐんぐんと加速して、そのまま一着でゴールした。
対して、スパート直前まで先頭を走っていた子は、みるみるうちに順位を落としていく。
気づけば最後尾──悔しさを噛みしめるように肩で息をしていた。
勿体ないな、とトレーナーは思う。
どこか噛み合っていない。実力が足りないのではなく、力を出し切れていないような……そんな印象だった。
「はぁ……まあ、アドバイスしたぐらいで良くなれば苦労しないか」
隣で、ラモーヌのトレーナーが小さくため息をつく。
その声音は、諦めや落胆ではなく、ただ心配するような柔らかさを帯びていた。
「君、あの子──メジロパーマーを見てあげてくれない?」
「……さっき言ってた“もう一人”って、あの子のことか」
“メジロ”の冠が付いている時点で、間違いないだろう。
模範的で、整いすぎているほどのフォーム。
幼い頃からきちんとした環境でトレーニングを積んできた──そんな背景が、走りの一挙手一投足に滲んでいる。
名家の出だろうとは思っていた。
けれど、まさかもう一人のメジロだったとは。
歓声の中心にいるメジロライアンと、少し離れた場所でひとり佇むメジロパーマー。
まるで光と影。そう形容したくなるほどの対照だった。
誰もが、ライアンのもとに集まる中、パーマーの周囲だけぽっかりと空白ができている。
同じ名家の血を引く者として、その差はきっと痛いほど感じているだろう。
「最終的に決めるのは、彼女次第だと思うけど……一応、理由を聞いても?」
まだ話していない以上、これはただの予想にすぎない。
けれど、トレーナーは余り相性が合わないように感じていた。
確かに、シリウスはシンボリ家という名家の出身だ。
そして、それと双璧を成すメジロ家ともなれば、扱いにも通じていると言っていい。
だが、シリウスは少し違っていた。
良家の令嬢らしい気品を備えながらも、どこか自由で、型にはまることを嫌う。
淑女らしく振る舞うこともできるが、自らそうしようとはしなかった。
とはいえ、同じ“シンボリ”の冠を持つルドルフもまた、いわゆる“お嬢様”という印象ではない。
むしろ、シンボリ家のウマ娘たちには共通して、どこか貴族然とした気高さがあると言える。
品はあるが、過剰な飾り気はない。そんな風に見える。
だからこそ、こちらも“お嬢様”として扱ったことは一度もなかった。
──要するに、良家の娘への接し方なんて分からない。
そう言いかけたところで、ラモーヌのトレーナーはあきれたように肩をすくめた。
「ともかく、話してみれば分かるから。はいはい、行った行った!」
シッ、シッと手を振られ、まるで子どもを追い立てるように急かされる。
渋々ながらも、トレーナーは重い腰を上げ、多くのトレーナーが集まる方へと歩き出した。
その動きに気づいたのか、周囲のウマ娘たちが一斉にぴんと背筋を伸ばす。
まるで、見られていることを意識したように、耳がわずかに揺れた。
選抜レースを終えたばかりの子たちの空気も、ぴんと張り詰める。
──いたたまれない。
トレーナーは思わず目を逸らした。
自分が歩くたびに、周囲の視線がざわめきのように揺れる状況から。
そして、全員が当然、メジロライアンの方へ向かうと思われた。
だが、彼はそのまま素通りしていく。
え? という小さなどよめきが起こった。
そのまま、まだ地面に視線を落としたまま呼吸を整えている彼女のもとへと歩み寄る。
彼女──メジロパーマーは近づいてくる気配に気づいていなかった。
「──はぁっ、はぁっ……ははっ、なに、勘違いしてたんだろう。注目されなきゃ……失望もされないのに」
ぽつりとこぼれた言葉が、風に溶けていった。
尻尾の先が小さく揺れ、どこか寂しげに垂れる。
その震える声を聞いた瞬間、思わず二の足を踏む。
踏み出すべきか、一瞬だけ迷う。
けれど、ここまで来て声を掛けないのは、かえって不自然だ。
「えっと……君、大丈夫かい?」
「えっ? ああ、いや、大丈夫大丈夫! 私は──って、えぇぇ!!?」
顔を上げた瞬間、ぱっと目を見開く。
耳がぴんと立ち、尻尾の毛先がばさりと跳ねた。
その反応に、周囲の視線が一気に集まる。
ざわり、と空気が動き、トレーナーは困ったように笑うしかなかった。
「っ、おっ、と……あー、もしかして間違えてない? ライアンならあっちだよ?」
「えっ、あ、うん。知ってるけど……?」
メジロパーマーを目的に話しかけたはずなのに、いきなりメジロライアンの名前を出され、トレーナーは思わず瞬きをした。
一方の彼女も、まさか自分に声が掛かるとは思っていなかったらしく、耳をぴくりと動かして固まる。
「……うん? あれ、もしかして私に用があったり、する? な、なんて! そんなわけないよね! ははっ!」
誤魔化すように笑いながらも、尻尾の先は落ち着かず、左右に小刻みに揺れていた。
「いや、そうだけど……メジロパーマーで合ってるよね?」
念のために名前を呼ぶと、パーマーは目を大きく見開き、息を飲んだ。
驚きがそのまま顔に出て、しばしの間、言葉を失っている。
「……あっ、うん、合ってるけど……へ? 本当に、私に? でも、私、最下位だったんだけど……?」
「あー、なるほど。確かに」
選抜レースでは、基本的に一位や二位といった上位の子がスカウトの対象になる。
もちろん、前もって顔見知りだったり、光るものを感じていれば順位に関係なく声をかけることもある。
だが、大抵は上位から順に声がかかり、下位の子にまで手が回ることは滅多にない。
中には、上位を逃して
けれど、その中から重賞ウマ娘が生まれることだってあるのだから、レースの結果だけで判断できるものでもない。
とはいえ、最下位の子に声をかけるのは、さすがに異例だ。
だからこそ、メジロパーマーが目を丸くするのも、周囲がざわめくのも当然だった。
「ごめん、正式にスカウトするってわけじゃなくて……少し気になってね」
そう言いながら、トレーナーは自分でも腑に落ちないまま、言葉を探していた。
ほんの少し話しただけだが、何となくラモーヌのトレーナーが自身に任せた理由が分かった気がする。
とはいえ、いきなり専門的な話をしても伝わらないだろう。
んー、と少し考えてから、なるべく柔らかく言葉を選ぶ。
「なんというか……ずいぶん走りにくそうに走るなと思って」
「え……?」
顔を上げたパーマーの目が揺れる。
自分でも気づいていなかったらしく、耳がわずかに後ろへ倒れた。
「もし、時間があればこの後、少し話せるかな? ……ここだと、ちょっと話しづらい」
「っ! いい! 全然いいよ! 今のままじゃあダメだと思ってたし!」
尻尾が微かに揺れる。
その明るさの裏に、明らかに空元気が混ざっているのを感じながら、トレーナーは小さく息を吐いた。
とりあえず、了承を得られたことに対して胸の奥でほっとする。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。今後は、無くなるように気を付けていきます。
また、テンポよく進めていく所存ですが、読み難さなどがあれば改善していきますので、よろしくお願いいたします。