「そんな堅い話じゃないから、楽にしてほしい」
「え、あ、うん。……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて、っと」
促されるまま室内に足を踏み入れる。
初めて入るトレーナー室の空気に、どこか落ち着かない。
思わず、きょろきょろと視線を巡らせた。
壁際の棚、整然と並んだ資料、窓際の観葉植物。
どれも整っていて、けれど温度のある部屋だった。
──まるで借りてきた猫みたいだ、と自分で思いながら、肩をすぼめる。
最下位という結果のまま声をかけられて、救われたような気持ちもあった。
けれど、こうして少し冷静になると、勢いで頷いたことを少しだけ後悔する。
今をときめく話題のトレーナーが、自分に声をかける理由なんて……考えても出てこない。
やっぱり、なにかの間違いなんじゃ──そう思いかけたとき、棚の上のトロフィーと写真が目に入った。
磨かれた金属が、窓からの光をやわらかく返している。
吸い寄せられるように、ふらりと近づく。
壁際に飾られた写真やトロフィーを、息を呑むように見やった。
「……すごい」
自分でも気づかぬまま、言葉が零れる。
視線の先には、一枚の写真。
そこに写る勝者の笑顔と、掲げられた優勝カップが眩しい。
「──【大阪杯】の時に撮った写真だね」
「ひゃっ!? ちょ、びっくりしたぁ~っ!」
不意に背後から声がして、耳がぴんと立つ。
尻尾の毛先までびくりと跳ね、思わず半歩飛び退いた。
振り向いた先で、トレーナーが目を丸くして立っていた。
けれど、すぐに口元を緩め、申し訳なさそうに笑う。
「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」
「も~、脅かさないでよ。マジで心臓止まるかと思ったってば……」
胸に手を当てて大げさに息を吐く。
そんなパーマーを見て、トレーナーは小さく肩をすくめて笑った。
拍子抜けするようなその笑い方に、拍子抜けしたのはむしろパーマーの方だった。
思っていたより、ずっと話しやすい人なのかもしれない。
「これが気になる?」
「え、あ……う、うん。まあ、ちょっとね」
曖昧に笑いながら、視線を棚へ戻す。
並んだトロフィーや写真はどれも丁寧に手入れされ、窓から差し込む光を受けて静かに輝いていた。
「当時、【大阪杯】の結果次第では海外遠征の承認が下りない可能性があってね」
トレーナーは懐かしそうに写真を見ながら、穏やかに言葉を続ける。
「まあ、結果は文句のつけようがなかったから……上の鼻を明かしてやった気分だったよ」
小さく笑う声が、どこか誇らしげに響く。
写真には、勝負服姿のシリウスシンボリが勝気な笑みを浮かべ、トレーナーと肩を組んでいた。
やや強引に引き寄せられて苦笑しているトレーナーも、どこか嬉しそうだ。
「へぇ~……じゃあ、こっちが“凱旋門”のとき?」
写真を指さすと、トレーナーが「ああ」と頷く。
そこに映るのは、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべたトレーナーと、その肩にそっと手を置くシリウスシンボリの姿だった。
けれど、彼女の表情はこれまでの勝気な笑みとは違う。
どこか柔らかく、微笑とも涙ともつかない、不思議な表情をしていた。
「こうして見られると、ちょっと恥ずかしいね。この時、思わず泣いてしまったから」
頬を掻きながら苦笑するトレーナー。
けれど、パーマーの視線はその棚から離れなかった。
そこに飾られたのは、二人で積み重ねてきた時間。
光を受けて輝くトロフィーよりも、その記憶の方がずっとまぶしく見える。
「……えっと、早速、話を聞いてもいいかな?」
「へっ? あっ、あ、うわ、ご、ごめんっ! つい……! あははっ!」
慌てて椅子に腰を下ろす。
向かいの席に座ったトレーナーは、軽く笑いながらカップを二つ置いた。
「どうぞ。少し濃いかもしれないけど」
ふわりと漂う香りに、パーマーは思わず目を瞬かせた。
鼻先をくすぐる苦みのある匂いが、どこか新鮮だった。
普段の自分にはあまり馴染みのない香り。思わずカップの縁を見つめる。
その様子に気づいたトレーナーが、小さく「あ」と声を漏らす。
眉を下げ、困ったように笑って言った。
「いつも珈琲だから、つい癖で淹れてしまったけど紅茶の方が良かった?」
「う、ううん! 全然そんな、気にしないで! むしろ、こっちがお邪魔してるんだしっ」
「そう? まあ、無理に飲まなくてもいいよ」
「そんな失礼なことしないって! せっかく淹れてくれたんだし……ただ、ちょーっと馴染みがないかも?」
カップを手に取り、そっと口をつける。
珈琲独特の苦みが舌に広がり、思わず眉を寄せた。
けれど、鼻から抜ける香りはやわらかく、思っていたよりもずっと飲みやすい。
「……あれ? 意外と飲みやすい」
「それは良かった」
カップの中で、薄い湯気がゆらりと揺れる。
その香りが、少しずつ緊張をほどいていくようだった。
「先に言っておいた方がいいと思うから告げるけど──実は、同期の……ああ、メジロラモーヌのトレーナーに頼まれてね」
その言葉に、パーマーの指がカップの縁で小さく止まった。
胸の奥に、ちいさな落胆が沈む。
──やっぱり、そういうことだよね。
そんな言葉が喉まで上がりかけたが、笑いに紛らせて飲み込んだ。
けれど、トレーナーはそこで言葉を切らず、穏やかに続ける。
「でも、君の走りが気になったのは本当だよ」
「……えっ?」
思わず顔を上げる。
視線が合った瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
穏やかな眼差しが、冗談ではないことを静かに示している。
「君は──自分の走り方を知らないんじゃないかな?」
静かな声だった。
責めるでも、慰めるでもない。
ただ真っすぐに投げかけられた言葉に、パーマーは瞬きをした。
「……自分の、走り方……?」
「そう。本来なら、誰もが自分に合った走り方を持っている」
トレーナーは椅子から立ち上がり、ホワイトボードの前に歩く。
ペンを走らせながら、落ち着いた調子で続けた。
「外から見れば似ているように見えても──呼吸の取り方、脚の出し方、力の抜きどころ。細かい部分はみんな違うんだ」
さらりと描かれていく線が、スタートからゴールまでを繋ぐ。
力強い筆致というよりも、思考をなぞるような静かな動きだ。
「小さい頃に“正しい走り方”を身につけるのは大事だ。変な癖がつかないように、しっかりとした土台を作る意味でもね。君は、その基礎がきっちりできている」
思いがけない言葉に、パーマーの耳がぴくりと動く。
まさか褒められるとは思っていなかった。
胸の奥がふっと熱くなり、自然と背筋が伸びて、尻尾の先が、くすぐったそうに揺れた。
「えっ、あ……あはは。な、なにそれ、急に褒めないでよ~」
口調こそ軽いが、頬がほんのり熱い。
自分でも意識していないうちに、指先が髪を触っていた。
そんな仕草が余計に恥ずかしくて、視線をテーブルに落とす。
対して、トレーナーは少しだけ声の調子を整え、静かに言葉を続けた。
「でも、成長がある。筋肉の付き方も、バランスも、心の持ち方も変わっていく。その変化に合わせて、自分に馴染む走り方を見つけていく必要がある」
ホワイトボードに描かれた線が、途中で枝分かれした。
トレーナーの手が一瞬迷うように止まり、次の瞬間、そこから別の方向へと新しい線を描き足していく。
それはまるで、ひとつの道からいくつもの選択肢が伸びていくように見えた。
パーマーは、いつの間にかその線の行方を目で追っていた。
「……馴染む、走り……」
小さく口の中で繰り返す。
けれど、意味を掴みかけては指の間から零れるように、言葉がしっくり来ない。
「君は、まだその段階にたどり着いていない。言い換えれば──“教わった走り”のまま、ずっと走っている」
パーマーは小さく息を呑み、耳がぴくりと震えた。
頭のどこかで分かっていたのかもしれない。
けれど、真正面から言葉にされると、胸の奥に熱が集まっていく。
思い返せばそうだ。
きちんと、正しく、丁寧に。そう教えられてきた走りをしてきた。
だって、そう教わったんだから。
でも、それが“自分の走り”かと問われれば──胸の奥で言葉が止まった。
「……そっか。私さ、ずっと“正しく”走ってきたつもりだったんだよね」
乾いた笑みを浮かべ、カップを両手で包み込む。
湯気がゆらりと揺れて、視線がその向こうで滲んだ。
「でも、それって結局、誰かに言われた“正しさ”のままだったのかも。……ははっ、なんか、ちょっとショックかもね」
笑いながらも、その声はほんのわずかに掠れていた。
尻尾の先が小さく揺れ、椅子の脚がきゅっと床を鳴らす。
誤魔化すように笑ってみても、胸の奥にざらりとした痛みが残る。
──メジロだから。
ちゃんとしなくちゃ、ってずっと思ってた。
気品とか、姿勢とか、周りの目とか。
そういう“らしさ”を外さないように、間違えないように、ひたすら気を張って。
でも、ふと気づくと、自分がどこに立ってるのか分からなくなる。
マックイーンみたいに気高くなくて、ライアンみたいに強くもない。
周りには、いつも凄い人たちがいて──私はその隙間で、空気を読んで笑ってた。
期待されてないって、分かってる。
でも、だからこそ失望されたくなくて、誰かの顔を見ながら走ってきた。
“ちゃんとしたメジロ”でいるために。
胸の奥に沈んでいた思いが、少しずつ言葉になる。
声には出さなくても、その沈黙の中で確かに揺れていた。
トレーナーはしばし黙り、ゆっくりとペンを置いた。
その静かな仕草だけが、彼女の思考をそっと受け止めるように見えた。
「……シリウスの走りを見たことはある?」
唐突な問いに、パーマーはきょとんと目を瞬かせる。
「う、うん、それはあるよ? ──っていうか、凱旋門賞のときはみんなで一緒に見てたし」
「えっ、そうなの?」
驚きの声がトレーナーから上がった。その反応からして意外だったのだろう。
確かに、あの世代を知らない生徒も中にはいる。
シリウスシンボリに至っては、二年ものあいだ海外にいたのだから、猶更だろう。
知ってはいても、実際に見たことのない子もいる。
けれど、世界最高峰のレースで、同じ学園の先輩が挑んだとあれば、それを見ない理由はない。
「私も直接会ったことはないけど……すっごいなぁ、って思ったよ」
照れたように笑うパーマーの顔に、どこか尊敬と憧れが滲んでいた。
その言葉にトレーナーはわずかに目を細め、納得したように頷く。
「なるほど……まあ、それなら話が早いか」
そう言うと、彼は机の脇に置いてあった端末を取り出す。
数度の操作でホワイトボードの隣のスクリーンに映像が映し出された。
白い光が部屋の壁を照らし、空気が少しだけ張りつめる。
「フォワ賞の時に撮ったレース映像でね。少し見てほしい」
緑の芝を蹴る蹄音が、映像越しにも伝わってくるようだった。
風を裂く音。観客の歓声。
その中に、海外のウマ娘たちに混じって、凱旋門賞で見たことのある影がいた。
スクリーンの中で、シリウスシンボリが風を切る。
身体全体で風を掴むような走り。
脚の一振りごとに力強さと柔らかさが共存していて、見ているだけで息を呑んだ。
トレーナーはリモコンに指を伸ばし、映像を一時停止する。
画面には、疾走の一瞬を切り取ったような姿勢が映っていた。
「一見、荒々しく見えるかもしれない。でも、こうして止めてみると分かる。フォームそのものはほとんどブレてない。基礎の部分は、驚くほど正確なんだ」
指先で画面の一点をなぞりながら、静かに言葉を重ねる。
説明というより、思い出をなぞるような声音だった。
パーマーは、息を詰めて見入っていた。
目の前の光がゆらめくたびに、胸の奥が微かに疼く。
映像の中のシリウスが再び動き出す。
力強く、しなやかで、どこか野生的な動き。
それは、教科書のどこにも載っていない“正しさ”の形だった。
「シリウスだって、最初は家で教えられた通りに走っていた。けど、それじゃ勝てないって気づいたんだ」
声が少し低くなる。
その静けさが、かえって言葉の輪郭をくっきりと浮かび上がらせた。
「だから、まずは見つけよう。君自身の走りを」
トレーナーの声は、淡々としていながらもどこか優しい。
叱るでも、突き放すでもなく、ただ寄り添うような響きだった。
パーマーは小さく息を呑む。返す言葉は見つからない。
けれど、握っていたカップの温もりが、いつの間にか心の奥まで染み込んでいくのを感じていた。
──翌日。
午後のトレセン学園は、いつも以上に賑わっていた。
遠くではトレーナーたちの掛け声が響き、芝を踏み鳴らす音と混じって、空気の底まで熱気が満ちている。
太陽は高く、春とはいえ陽射しは鋭い。立っているだけで、首筋にうっすら汗がにじんだ。
「あはは……まぁ、覚悟はしてたけどさー。やっぱ、メチャクチャ見られるよね」
どこか諦めを含んだ笑いが出る。
軽く言ってみせたつもりが、空気を和らげるには至らない。
ほんの少し顔を上げただけで、あちこちから視線が流れ込んでくるのが分かる。
メジロの名を背負うウマ娘が、あの話題のトレーナーに声をかけられた──そんな噂は、あっという間に学園中に広まっていた。
今や彼女に注がれる眼差しの数は、明らかにいつもより多い。
練習着越しにでも感じ取れるほどの視線が、遠巻きに、しかし確かにそこに集まっている。
その意識の重さが、まるで肌の上に張り付いて離れない。
身じろぎをするたび、細い針でなぞられるような感覚が走る。
ただ見られているだけだというのに、それだけで、どうしようもなく動きが硬くなっていく。
──なんとも、やりづらい。
その感覚は、パーマーだけではなかった。
隣に立つトレーナーも、わずかに眉を寄せて視線を逸らしている。どこか、居心地の悪そうな様子だ。
「まいったね。少し時間が経てば落ち着くと思ったんだけど……」
「いやいや、それはさすがに鈍感すぎるって! トレーナー、自分がどんだけ目立ってるかわかってる!?」
「いやぁ……自分が凄いんじゃなくて、シリウスが凄かっただけなんだけど」
気まずそうに首を掻きながら、トレーナーは苦笑をこぼした。
その姿を見て、パーマーもつられて肩の力が抜けた。
言いたいことは分かる。
実際に走るのはウマ娘であって、トレーナーの凄さは外からは見えにくい。
けれど、ほんの少しでもこの世界を知っていれば、それだけで勝てるほど単純ではないことくらい分かっている。
強くなるために、勝つために、トレーナーという存在は、きっと欠かせない。
それに、中央で活動しているというだけでも十分すごいと聞く。
その上で、海外遠征を成功させているのだから、もはや伝説みたいなものだろう。
なのに、その本人がこんなにも飄々としている。
自分の功績に無頓着なのは謙遜とも言えるけれど、ここまでくると少し心配になる。
凄い人なのだろうが、大丈夫なのだろうか……?
だが、パーマーの心配をよそに、トレーナーは周囲を気にしながらも口を開いた。
「まあ、少しやりづらいかもしれないけど、早速やっていこうか」
「そう、だよね……うん! りょーかいっ! じゃ、まず何からやる?」
軽く拳を握って気合を入れる。
トレーナーは手元のバインダーを眺め、少し考えてから言った。
「改めて、フォームから見てみようか。んー……まずは2,000mで。タイムはそこまで気にしなくていいから」
「全力で行っちゃった方がいい?」
「いや、8割ぐらいでいいかな? スパートの時に出せるなら出すって感じで」
「了解っ! じゃあ──いってくるねっ!」
手を振って軽く笑い、スタート地点に立つ。
踏みしめた芝の感触が、昼下がりの陽射しに少し乾いている。
耳の先が風を探すように揺れ、胸の奥がわずかに高鳴った。
──よし、しっかり見ててもらわなきゃ。
ほんの少し息を吸って、意識を落ち着かせる。
トレーナーのスタートの合図とともに、足元が弾けた。
地面を蹴るたび、空気が切り裂かれ、芝の匂いが強くなる。
風が頬を撫で、髪を後ろへ押し流す。
──悪くない。いつも通り、のはず。
けれど、何かが引っかかる。
足の裏に、微かに噛み合わない感覚。踏み出すごとに、脚の裏が重たくなる。
リズムもわずかにずれて、腕の振りが呼吸より半拍早い。
踏み出すごとに、脚の裏が重たくなる。
息が浅い。胸の奥に引っかかりが残る。
スピードには乗っているのに、どこか空回りしているような感覚だ。
──いや、問題ない。
誤魔化すように、無意識に力が入った。
コーナーを回る。脚に重みが乗り始めた。
それでも、もう少し。もう少しだけ。
スパートに入るタイミングを計りながら、呼吸を整える。
「……っ!」
最後の直線。
全身の力をかき集めて地面を蹴った。
一瞬、視界の奥が白くなる。
鼓動が耳の奥で響き、肺が焼けつくように痛んだ。
腕を振るたび、肩がわずかに軋むが、それも気にならなくなる。
ただ前へ。
風がすべてを後ろに押し流していく。
ただ前だけを見て、身体が勝手に動く。
その瞬間だけは、余計なことを全部置いてこれる気がした。
──行ける。まだ、いける。
ラストの一歩まで走り抜けて、ようやく足を止めた。
身体が熱く、胸の奥が大きく波打って、呼吸が追いつかない。
額を拭って、少しだけ乱れた息を整える。
「はぁ……っ、どう? トレーナー!」
息を弾ませながら振り返る。
頬にかいた汗を袖で拭い、笑みを浮かべてみせた。
胸の鼓動を押さえつつ、期待を込めた視線を送る。
しかし、返ってきたのは、爽やかな笑顔とともに放たれたひと言。
「うん、ダメだね」
「え、えぇぇぇっ!? ウソでしょ!?」
勢いよく声が裏返る。
パーマーは思わず尻尾をばさばさ揺らし、目をぱちぱち瞬かせた。
息を整える間もなく、トレーナーは手元のバインダーに視線を落とし、さらさらと何かを書き込んでいる。
「えっと……もしかして、思ったよりダメだった……?」
恐る恐る尋ねる。
胸の奥がじわりと冷たくなっていく。
怒られたわけでもないのに、妙に申し訳なくなって、視線が自然と足元に落ちた。
「やっぱり、視線が気になる?」
あっけらかんとした口調。
意外すぎる返しに、パーマーは一瞬呆けてしまう。
「えっ……あ、あー、うん。まあ、どうしてもね。私って、ほら──メジロのウマ娘だし」
頬を掻きながら、気まずそうに笑う。
風に揺れる髪を無意識の内に指先で触った。
「それにさ、トレーナーが見てくれてるって思うと……ちょっとでもいいとこ見せたくって。……つい、気負っちゃうっていうか」
声の調子は軽いのに、どこか申し訳なさが滲む。
トレーナーはそれを見て、ふっと笑みを漏らした。
「まあ、仕方ないよ。誰だって見られれば意識する」
穏やかな声音だった。
責めるでも慰めるでもない、不思議な響き。
そのやわらかさに、張りつめていた肩の力が少し抜ける。
けれど、次に続いた言葉が、現実の重さをそっと戻してきた。
「本番になったら、その何倍もの視線に晒されることになるけどね」
「……考えるだけで胃がキュッてなるんだけど」
パーマーが思わず顔をしかめる。
他人事みたいに笑うトレーナーを見ながらも、彼女の頭の中では現実的な想像が浮かんでいた。
もし自分がデビューしたら、観客、メディア、ファン。きっと数え切れない視線が一斉に注がれる。
今ですら“メジロ”という看板だけでも肩が重いのに、その上にファンの期待が乗るとなれば、息が詰まりそうだった。
そんな彼女の考えを見透かしたように、トレーナーは静かに言葉を継ぐ。
「まあ、どうせ周りの視線なんて気にしてられなくなるよ」
「へっ? なにそれ、どういうこと?」
問い返すパーマーに、トレーナーは「まあまあ」と曖昧に笑ってみせた。
その笑みが逆に不安を煽る。
けれど、ここまで来たら信じるしかない。
「じゃあ、もう一度。次も2,000mでいこうか。ただ、これから教えることを意識してほしい」
そう言って、トレーナーは軽く手振りを交えながら説明を始めた。
背筋を伸ばし、肩の角度を直し、腕の振りを軽く修正する。
触れる指先は丁寧で、必要最低限。
ほんのわずかな調整なのに、息の流れが変わるような不思議な感覚があった。
しかし。
「これ……なんか違和感あるなぁ」
慣れない姿勢に、背中のあたりが少し落ち着かない。
けれど、言われた通りにやってみるしかない。
苦笑まじりに息を吐き、再びスタートラインへ。
トレーナーの合図とともに、足元が弾けた。
それから、パーマーはトレーナーの指示に従いながら、何度もコースを駆け抜けた。
「──えっ!? また同じ距離!? マジで!?」
「──ちょ、これホント走りにくいってばぁ!」
「──っ! むっ、無理……まだやるの!?」
「──もう、こうなったらヤケクソだぁぁぁーーーっ!!」
そんな声をあげながらも必死に走った。
何度もフォームを修正され、息の整え方を直され、繰り返し走る。
コースを踏みしめる音だけが、夕暮れの空気に響いていく。
──そして、トレーナーの言ったとおりになった。
「も、もう……無理ぃ……ッ……!」
夕陽が傾き、影が長く伸びる。
ちらほらと練習を終えていく生徒たちがいる中、パーマーはその場に大の字になって倒れ込んだ。
ぜーはーと荒い息を吐きながら、両腕を投げ出す。
頬に当たる芝が、ほんのり冷たくて気持ちいい。
確かに、途中から周りの視線なんて気にしていられなかった。
ただ、それが限界まで追い込む、という方向だとは思ってもみなかった。
走ってはフォームを直され、また走り、呼吸を整えては再び走る。
その繰り返しの中で、少しずつ身体が軽くなる感覚があった。
でも、同時に脚は鉛のように重くなっていく。
ここまで徹底的に走り込んだのはいつぶりだろう。
いや──正確に言うなら、ここまで効率的に“追い込まれた”のは初めてだ。
「お疲れさま」
視界の端で、トレーナーがペットボトルを差し出す。
夕陽の光が差し込み、彼の影が長く伸びていた。
その表情は、どこか満足げに見える。
差し出されたボトルを無言で受け取りながら、何とか呼吸を整える。
喉を潤しながら、少しずつ落ち着いてくる呼吸。
そのタイミングで、トレーナーが隣に腰を下ろした。
なんだろう、と顔を向けると、彼は手にしていたバインダーをこちらへ差し出す。
そこには、今日ずっと書き込んでいた数字が並んでいた。
「これが、最初と最後のタイムね」
「タイム取ってたの!? もう、それ絶対ダメなやつじゃん……え、ちょ、はっ!? なにこれ、本当に!?」
疲労困憊で思うように動けないながらも、パーマーは仰け反るように驚いた。
丸で囲われた二つの数字。
最初の記録と比べて、最後のタイムは明らかに早い。
脚もスタミナも限界で、とても見られたものじゃなかったのに。
「……うっそ、こんなヘロヘロなのに、タイム上がってる……!?」
驚きと、ほんの少しの嬉しさが混じった声。
トレーナーは穏やかに頷き、柔らかく口を開いた。
「最後、がむしゃらに走ってたでしょ? それが、ある意味“自分の走り方”だよ」
流石にそのまま走るのはおすすめしないけどね──と、苦笑を添えて言う。
けれど、その声音はどこか誇らしげでもあった。
「明日は、最初からそれを意識して走ろう。それが出来れば君はもっと速くなる」
「……え? 明日も見てくれるの?」
「うん? それは、もちろん。……あっ、もしかして何か予定があった?」
あまりにも自然に言われて、パーマーは一瞬返事を忘れた。
心底、当たり前のようなその口調に、胸の奥が少し熱くなる。
「──っ、な、ないない! 全然! ……明日も、よろしくね!」
そう言って、視線を逸らすように、空を仰いだ。
夕陽が沈みかけて、空の端が金色に溶けていく。
今まで、ずっと暗い中を走ってきた気がしていた。
けれど今は、少しだけ──その向こうに光が見えた気がした。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。