凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

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4話 メジロパーマー

 

「そんな堅い話じゃないから、楽にしてほしい」

「え、あ、うん。……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて、っと」

 

 促されるまま室内に足を踏み入れる。

 初めて入るトレーナー室の空気に、どこか落ち着かない。

 思わず、きょろきょろと視線を巡らせた。

 

 壁際の棚、整然と並んだ資料、窓際の観葉植物。

 どれも整っていて、けれど温度のある部屋だった。

 

 ──まるで借りてきた猫みたいだ、と自分で思いながら、肩をすぼめる。

 

 最下位という結果のまま声をかけられて、救われたような気持ちもあった。

 けれど、こうして少し冷静になると、勢いで頷いたことを少しだけ後悔する。

 今をときめく話題のトレーナーが、自分に声をかける理由なんて……考えても出てこない。

 

 やっぱり、なにかの間違いなんじゃ──そう思いかけたとき、棚の上のトロフィーと写真が目に入った。

 磨かれた金属が、窓からの光をやわらかく返している。

 

 吸い寄せられるように、ふらりと近づく。

 壁際に飾られた写真やトロフィーを、息を呑むように見やった。

 

「……すごい」

 

 自分でも気づかぬまま、言葉が零れる。

 視線の先には、一枚の写真。

 そこに写る勝者の笑顔と、掲げられた優勝カップが眩しい。

 

「──【大阪杯】の時に撮った写真だね」

「ひゃっ!? ちょ、びっくりしたぁ~っ!」

 

 不意に背後から声がして、耳がぴんと立つ。

 尻尾の毛先までびくりと跳ね、思わず半歩飛び退いた。

 

 振り向いた先で、トレーナーが目を丸くして立っていた。

 けれど、すぐに口元を緩め、申し訳なさそうに笑う。

 

「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」

「も~、脅かさないでよ。マジで心臓止まるかと思ったってば……」

 

 胸に手を当てて大げさに息を吐く。

 そんなパーマーを見て、トレーナーは小さく肩をすくめて笑った。

 拍子抜けするようなその笑い方に、拍子抜けしたのはむしろパーマーの方だった。

 

 思っていたより、ずっと話しやすい人なのかもしれない。

 

「これが気になる?」

「え、あ……う、うん。まあ、ちょっとね」

 

 曖昧に笑いながら、視線を棚へ戻す。

 並んだトロフィーや写真はどれも丁寧に手入れされ、窓から差し込む光を受けて静かに輝いていた。

 

「当時、【大阪杯】の結果次第では海外遠征の承認が下りない可能性があってね」

 

 トレーナーは懐かしそうに写真を見ながら、穏やかに言葉を続ける。

 

「まあ、結果は文句のつけようがなかったから……上の鼻を明かしてやった気分だったよ」

 

 小さく笑う声が、どこか誇らしげに響く。

 写真には、勝負服姿のシリウスシンボリが勝気な笑みを浮かべ、トレーナーと肩を組んでいた。

 やや強引に引き寄せられて苦笑しているトレーナーも、どこか嬉しそうだ。

 

「へぇ~……じゃあ、こっちが“凱旋門”のとき?」

 

 写真を指さすと、トレーナーが「ああ」と頷く。

 そこに映るのは、今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべたトレーナーと、その肩にそっと手を置くシリウスシンボリの姿だった。

 

 けれど、彼女の表情はこれまでの勝気な笑みとは違う。

 どこか柔らかく、微笑とも涙ともつかない、不思議な表情をしていた。

 

「こうして見られると、ちょっと恥ずかしいね。この時、思わず泣いてしまったから」

 

 頬を掻きながら苦笑するトレーナー。

 けれど、パーマーの視線はその棚から離れなかった。

 

 そこに飾られたのは、二人で積み重ねてきた時間。

 光を受けて輝くトロフィーよりも、その記憶の方がずっとまぶしく見える。

 

「……えっと、早速、話を聞いてもいいかな?」

「へっ? あっ、あ、うわ、ご、ごめんっ! つい……! あははっ!」

 

 慌てて椅子に腰を下ろす。

 向かいの席に座ったトレーナーは、軽く笑いながらカップを二つ置いた。

 

「どうぞ。少し濃いかもしれないけど」

 

 ふわりと漂う香りに、パーマーは思わず目を瞬かせた。

 鼻先をくすぐる苦みのある匂いが、どこか新鮮だった。

 普段の自分にはあまり馴染みのない香り。思わずカップの縁を見つめる。

 

 その様子に気づいたトレーナーが、小さく「あ」と声を漏らす。

 眉を下げ、困ったように笑って言った。

 

「いつも珈琲だから、つい癖で淹れてしまったけど紅茶の方が良かった?」

「う、ううん! 全然そんな、気にしないで! むしろ、こっちがお邪魔してるんだしっ」

「そう? まあ、無理に飲まなくてもいいよ」

「そんな失礼なことしないって! せっかく淹れてくれたんだし……ただ、ちょーっと馴染みがないかも?」

 

 カップを手に取り、そっと口をつける。

 珈琲独特の苦みが舌に広がり、思わず眉を寄せた。

 けれど、鼻から抜ける香りはやわらかく、思っていたよりもずっと飲みやすい。

 

「……あれ? 意外と飲みやすい」

「それは良かった」

 

 カップの中で、薄い湯気がゆらりと揺れる。

 その香りが、少しずつ緊張をほどいていくようだった。

 

「先に言っておいた方がいいと思うから告げるけど──実は、同期の……ああ、メジロラモーヌのトレーナーに頼まれてね」

 

 その言葉に、パーマーの指がカップの縁で小さく止まった。

 胸の奥に、ちいさな落胆が沈む。

 

 ──やっぱり、そういうことだよね。

 

 そんな言葉が喉まで上がりかけたが、笑いに紛らせて飲み込んだ。

 けれど、トレーナーはそこで言葉を切らず、穏やかに続ける。

 

「でも、君の走りが気になったのは本当だよ」

「……えっ?」

 

 思わず顔を上げる。

 視線が合った瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。

 穏やかな眼差しが、冗談ではないことを静かに示している。

 

「君は──自分の走り方を知らないんじゃないかな?」

 

 静かな声だった。

 責めるでも、慰めるでもない。

 ただ真っすぐに投げかけられた言葉に、パーマーは瞬きをした。

 

「……自分の、走り方……?」

「そう。本来なら、誰もが自分に合った走り方を持っている」

 

 トレーナーは椅子から立ち上がり、ホワイトボードの前に歩く。

 ペンを走らせながら、落ち着いた調子で続けた。

 

「外から見れば似ているように見えても──呼吸の取り方、脚の出し方、力の抜きどころ。細かい部分はみんな違うんだ」

 

 さらりと描かれていく線が、スタートからゴールまでを繋ぐ。

 力強い筆致というよりも、思考をなぞるような静かな動きだ。

 

「小さい頃に“正しい走り方”を身につけるのは大事だ。変な癖がつかないように、しっかりとした土台を作る意味でもね。君は、その基礎がきっちりできている」

 

 思いがけない言葉に、パーマーの耳がぴくりと動く。

 まさか褒められるとは思っていなかった。

 胸の奥がふっと熱くなり、自然と背筋が伸びて、尻尾の先が、くすぐったそうに揺れた。

 

「えっ、あ……あはは。な、なにそれ、急に褒めないでよ~」

 

 口調こそ軽いが、頬がほんのり熱い。

 自分でも意識していないうちに、指先が髪を触っていた。

 そんな仕草が余計に恥ずかしくて、視線をテーブルに落とす。

 

 対して、トレーナーは少しだけ声の調子を整え、静かに言葉を続けた。

 

「でも、成長がある。筋肉の付き方も、バランスも、心の持ち方も変わっていく。その変化に合わせて、自分に馴染む走り方を見つけていく必要がある」

 

 ホワイトボードに描かれた線が、途中で枝分かれした。

 トレーナーの手が一瞬迷うように止まり、次の瞬間、そこから別の方向へと新しい線を描き足していく。

 それはまるで、ひとつの道からいくつもの選択肢が伸びていくように見えた。

 

 パーマーは、いつの間にかその線の行方を目で追っていた。

 

「……馴染む、走り……」

 

 小さく口の中で繰り返す。

 けれど、意味を掴みかけては指の間から零れるように、言葉がしっくり来ない。

 

「君は、まだその段階にたどり着いていない。言い換えれば──“教わった走り”のまま、ずっと走っている」

 

 パーマーは小さく息を呑み、耳がぴくりと震えた。

 頭のどこかで分かっていたのかもしれない。

 けれど、真正面から言葉にされると、胸の奥に熱が集まっていく。

 

 思い返せばそうだ。

 きちんと、正しく、丁寧に。そう教えられてきた走りをしてきた。

 だって、そう教わったんだから。

 

 でも、それが“自分の走り”かと問われれば──胸の奥で言葉が止まった。

 

「……そっか。私さ、ずっと“正しく”走ってきたつもりだったんだよね」

 

 乾いた笑みを浮かべ、カップを両手で包み込む。

 湯気がゆらりと揺れて、視線がその向こうで滲んだ。

 

「でも、それって結局、誰かに言われた“正しさ”のままだったのかも。……ははっ、なんか、ちょっとショックかもね」

 

 笑いながらも、その声はほんのわずかに掠れていた。

 尻尾の先が小さく揺れ、椅子の脚がきゅっと床を鳴らす。

 誤魔化すように笑ってみても、胸の奥にざらりとした痛みが残る。

 

 ──メジロだから。

 ちゃんとしなくちゃ、ってずっと思ってた。

 気品とか、姿勢とか、周りの目とか。

 

 そういう“らしさ”を外さないように、間違えないように、ひたすら気を張って。

 

 でも、ふと気づくと、自分がどこに立ってるのか分からなくなる。

 マックイーンみたいに気高くなくて、ライアンみたいに強くもない。

 

 周りには、いつも凄い人たちがいて──私はその隙間で、空気を読んで笑ってた。

 

 期待されてないって、分かってる。

 でも、だからこそ失望されたくなくて、誰かの顔を見ながら走ってきた。

 

 “ちゃんとしたメジロ”でいるために。

 

 胸の奥に沈んでいた思いが、少しずつ言葉になる。

 声には出さなくても、その沈黙の中で確かに揺れていた。

 

 トレーナーはしばし黙り、ゆっくりとペンを置いた。

 その静かな仕草だけが、彼女の思考をそっと受け止めるように見えた。

 

「……シリウスの走りを見たことはある?」

 

 唐突な問いに、パーマーはきょとんと目を瞬かせる。

 

「う、うん、それはあるよ? ──っていうか、凱旋門賞のときはみんなで一緒に見てたし」

「えっ、そうなの?」

 

 驚きの声がトレーナーから上がった。その反応からして意外だったのだろう。

 確かに、あの世代を知らない生徒も中にはいる。

 シリウスシンボリに至っては、二年ものあいだ海外にいたのだから、猶更だろう。

 

 知ってはいても、実際に見たことのない子もいる。

 けれど、世界最高峰のレースで、同じ学園の先輩が挑んだとあれば、それを見ない理由はない。

 

「私も直接会ったことはないけど……すっごいなぁ、って思ったよ」

 

 照れたように笑うパーマーの顔に、どこか尊敬と憧れが滲んでいた。

 その言葉にトレーナーはわずかに目を細め、納得したように頷く。

 

「なるほど……まあ、それなら話が早いか」

 

 そう言うと、彼は机の脇に置いてあった端末を取り出す。

 数度の操作でホワイトボードの隣のスクリーンに映像が映し出された。

 白い光が部屋の壁を照らし、空気が少しだけ張りつめる。

 

「フォワ賞の時に撮ったレース映像でね。少し見てほしい」

 

 緑の芝を蹴る蹄音が、映像越しにも伝わってくるようだった。

 風を裂く音。観客の歓声。

 その中に、海外のウマ娘たちに混じって、凱旋門賞で見たことのある影がいた。

 

 スクリーンの中で、シリウスシンボリが風を切る。

 身体全体で風を掴むような走り。

 脚の一振りごとに力強さと柔らかさが共存していて、見ているだけで息を呑んだ。

 

 トレーナーはリモコンに指を伸ばし、映像を一時停止する。

 画面には、疾走の一瞬を切り取ったような姿勢が映っていた。

 

「一見、荒々しく見えるかもしれない。でも、こうして止めてみると分かる。フォームそのものはほとんどブレてない。基礎の部分は、驚くほど正確なんだ」

 

 指先で画面の一点をなぞりながら、静かに言葉を重ねる。

 説明というより、思い出をなぞるような声音だった。

 

 パーマーは、息を詰めて見入っていた。

 目の前の光がゆらめくたびに、胸の奥が微かに疼く。

 

 映像の中のシリウスが再び動き出す。

 力強く、しなやかで、どこか野生的な動き。

 それは、教科書のどこにも載っていない“正しさ”の形だった。

 

「シリウスだって、最初は家で教えられた通りに走っていた。けど、それじゃ勝てないって気づいたんだ」

 

 声が少し低くなる。

 その静けさが、かえって言葉の輪郭をくっきりと浮かび上がらせた。

 

「だから、まずは見つけよう。君自身の走りを」

 

 トレーナーの声は、淡々としていながらもどこか優しい。

 叱るでも、突き放すでもなく、ただ寄り添うような響きだった。

 

 パーマーは小さく息を呑む。返す言葉は見つからない。

 けれど、握っていたカップの温もりが、いつの間にか心の奥まで染み込んでいくのを感じていた。

 

 

 

 

 ──翌日。

 午後のトレセン学園は、いつも以上に賑わっていた。

 遠くではトレーナーたちの掛け声が響き、芝を踏み鳴らす音と混じって、空気の底まで熱気が満ちている。

 太陽は高く、春とはいえ陽射しは鋭い。立っているだけで、首筋にうっすら汗がにじんだ。

 

「あはは……まぁ、覚悟はしてたけどさー。やっぱ、メチャクチャ見られるよね」

 

 どこか諦めを含んだ笑いが出る。

 軽く言ってみせたつもりが、空気を和らげるには至らない。

 ほんの少し顔を上げただけで、あちこちから視線が流れ込んでくるのが分かる。

 

 メジロの名を背負うウマ娘が、あの話題のトレーナーに声をかけられた──そんな噂は、あっという間に学園中に広まっていた。

 今や彼女に注がれる眼差しの数は、明らかにいつもより多い。

 練習着越しにでも感じ取れるほどの視線が、遠巻きに、しかし確かにそこに集まっている。

 

 その意識の重さが、まるで肌の上に張り付いて離れない。

 身じろぎをするたび、細い針でなぞられるような感覚が走る。

 ただ見られているだけだというのに、それだけで、どうしようもなく動きが硬くなっていく。

 

 ──なんとも、やりづらい。

 

 その感覚は、パーマーだけではなかった。

 隣に立つトレーナーも、わずかに眉を寄せて視線を逸らしている。どこか、居心地の悪そうな様子だ。

 

「まいったね。少し時間が経てば落ち着くと思ったんだけど……」

「いやいや、それはさすがに鈍感すぎるって! トレーナー、自分がどんだけ目立ってるかわかってる!?」

「いやぁ……自分が凄いんじゃなくて、シリウスが凄かっただけなんだけど」

 

 気まずそうに首を掻きながら、トレーナーは苦笑をこぼした。

 その姿を見て、パーマーもつられて肩の力が抜けた。

 

 言いたいことは分かる。

 実際に走るのはウマ娘であって、トレーナーの凄さは外からは見えにくい。

 けれど、ほんの少しでもこの世界を知っていれば、それだけで勝てるほど単純ではないことくらい分かっている。

 強くなるために、勝つために、トレーナーという存在は、きっと欠かせない。

 

 それに、中央で活動しているというだけでも十分すごいと聞く。

 その上で、海外遠征を成功させているのだから、もはや伝説みたいなものだろう。

 

 なのに、その本人がこんなにも飄々としている。

 自分の功績に無頓着なのは謙遜とも言えるけれど、ここまでくると少し心配になる。

 

 凄い人なのだろうが、大丈夫なのだろうか……?

 

 だが、パーマーの心配をよそに、トレーナーは周囲を気にしながらも口を開いた。

 

「まあ、少しやりづらいかもしれないけど、早速やっていこうか」

「そう、だよね……うん! りょーかいっ! じゃ、まず何からやる?」

 

 軽く拳を握って気合を入れる。

 トレーナーは手元のバインダーを眺め、少し考えてから言った。

 

「改めて、フォームから見てみようか。んー……まずは2,000mで。タイムはそこまで気にしなくていいから」

「全力で行っちゃった方がいい?」

「いや、8割ぐらいでいいかな? スパートの時に出せるなら出すって感じで」

「了解っ! じゃあ──いってくるねっ!」

 

 手を振って軽く笑い、スタート地点に立つ。

 踏みしめた芝の感触が、昼下がりの陽射しに少し乾いている。

 耳の先が風を探すように揺れ、胸の奥がわずかに高鳴った。

 

 ──よし、しっかり見ててもらわなきゃ。

 

 ほんの少し息を吸って、意識を落ち着かせる。

 トレーナーのスタートの合図とともに、足元が弾けた。

 

 地面を蹴るたび、空気が切り裂かれ、芝の匂いが強くなる。

 風が頬を撫で、髪を後ろへ押し流す。

 

 ──悪くない。いつも通り、のはず。

 けれど、何かが引っかかる。

 

 足の裏に、微かに噛み合わない感覚。踏み出すごとに、脚の裏が重たくなる。

 リズムもわずかにずれて、腕の振りが呼吸より半拍早い。

 

 踏み出すごとに、脚の裏が重たくなる。

 息が浅い。胸の奥に引っかかりが残る。

 スピードには乗っているのに、どこか空回りしているような感覚だ。

 

 ──いや、問題ない。

 

 誤魔化すように、無意識に力が入った。

 

 コーナーを回る。脚に重みが乗り始めた。

 それでも、もう少し。もう少しだけ。

 スパートに入るタイミングを計りながら、呼吸を整える。

 

「……っ!」

 

 最後の直線。

 全身の力をかき集めて地面を蹴った。

 一瞬、視界の奥が白くなる。

 鼓動が耳の奥で響き、肺が焼けつくように痛んだ。

 

 腕を振るたび、肩がわずかに軋むが、それも気にならなくなる。

 ただ前へ。

 

 風がすべてを後ろに押し流していく。

 ただ前だけを見て、身体が勝手に動く。

 その瞬間だけは、余計なことを全部置いてこれる気がした。

 

 ──行ける。まだ、いける。

 

 ラストの一歩まで走り抜けて、ようやく足を止めた。

 身体が熱く、胸の奥が大きく波打って、呼吸が追いつかない。

 額を拭って、少しだけ乱れた息を整える。

 

「はぁ……っ、どう? トレーナー!」

 

 息を弾ませながら振り返る。

 頬にかいた汗を袖で拭い、笑みを浮かべてみせた。

 胸の鼓動を押さえつつ、期待を込めた視線を送る。

 

 しかし、返ってきたのは、爽やかな笑顔とともに放たれたひと言。

 

「うん、ダメだね」

「え、えぇぇぇっ!? ウソでしょ!?」

 

 勢いよく声が裏返る。

 パーマーは思わず尻尾をばさばさ揺らし、目をぱちぱち瞬かせた。

 息を整える間もなく、トレーナーは手元のバインダーに視線を落とし、さらさらと何かを書き込んでいる。

 

「えっと……もしかして、思ったよりダメだった……?」

 

 恐る恐る尋ねる。

 胸の奥がじわりと冷たくなっていく。

 怒られたわけでもないのに、妙に申し訳なくなって、視線が自然と足元に落ちた。

 

「やっぱり、視線が気になる?」

 

 あっけらかんとした口調。

 意外すぎる返しに、パーマーは一瞬呆けてしまう。

 

「えっ……あ、あー、うん。まあ、どうしてもね。私って、ほら──メジロのウマ娘だし」

 

 頬を掻きながら、気まずそうに笑う。

 風に揺れる髪を無意識の内に指先で触った。

 

「それにさ、トレーナーが見てくれてるって思うと……ちょっとでもいいとこ見せたくって。……つい、気負っちゃうっていうか」

 

 声の調子は軽いのに、どこか申し訳なさが滲む。

 トレーナーはそれを見て、ふっと笑みを漏らした。

 

「まあ、仕方ないよ。誰だって見られれば意識する」

 

 穏やかな声音だった。

 責めるでも慰めるでもない、不思議な響き。

 そのやわらかさに、張りつめていた肩の力が少し抜ける。

 

 けれど、次に続いた言葉が、現実の重さをそっと戻してきた。

 

「本番になったら、その何倍もの視線に晒されることになるけどね」

「……考えるだけで胃がキュッてなるんだけど」

 

 パーマーが思わず顔をしかめる。

 他人事みたいに笑うトレーナーを見ながらも、彼女の頭の中では現実的な想像が浮かんでいた。

 

 もし自分がデビューしたら、観客、メディア、ファン。きっと数え切れない視線が一斉に注がれる。

 今ですら“メジロ”という看板だけでも肩が重いのに、その上にファンの期待が乗るとなれば、息が詰まりそうだった。

 

 そんな彼女の考えを見透かしたように、トレーナーは静かに言葉を継ぐ。

 

「まあ、どうせ周りの視線なんて気にしてられなくなるよ」

「へっ? なにそれ、どういうこと?」

 

 問い返すパーマーに、トレーナーは「まあまあ」と曖昧に笑ってみせた。

 その笑みが逆に不安を煽る。

 けれど、ここまで来たら信じるしかない。

 

「じゃあ、もう一度。次も2,000mでいこうか。ただ、これから教えることを意識してほしい」

 

 そう言って、トレーナーは軽く手振りを交えながら説明を始めた。

 背筋を伸ばし、肩の角度を直し、腕の振りを軽く修正する。

 触れる指先は丁寧で、必要最低限。

 ほんのわずかな調整なのに、息の流れが変わるような不思議な感覚があった。

 

 しかし。

 

「これ……なんか違和感あるなぁ」

 

 慣れない姿勢に、背中のあたりが少し落ち着かない。

 けれど、言われた通りにやってみるしかない。

 苦笑まじりに息を吐き、再びスタートラインへ。

 

 トレーナーの合図とともに、足元が弾けた。

 

 それから、パーマーはトレーナーの指示に従いながら、何度もコースを駆け抜けた。

 

「──えっ!? また同じ距離!? マジで!?」

「──ちょ、これホント走りにくいってばぁ!」

「──っ! むっ、無理……まだやるの!?」

「──もう、こうなったらヤケクソだぁぁぁーーーっ!!」

 

 そんな声をあげながらも必死に走った。

 何度もフォームを修正され、息の整え方を直され、繰り返し走る。

 コースを踏みしめる音だけが、夕暮れの空気に響いていく。

 

 ──そして、トレーナーの言ったとおりになった。

 

「も、もう……無理ぃ……ッ……!」

 

 夕陽が傾き、影が長く伸びる。

 ちらほらと練習を終えていく生徒たちがいる中、パーマーはその場に大の字になって倒れ込んだ。

 

 ぜーはーと荒い息を吐きながら、両腕を投げ出す。

 頬に当たる芝が、ほんのり冷たくて気持ちいい。

 

 確かに、途中から周りの視線なんて気にしていられなかった。

 ただ、それが限界まで追い込む、という方向だとは思ってもみなかった。

 

 走ってはフォームを直され、また走り、呼吸を整えては再び走る。

 その繰り返しの中で、少しずつ身体が軽くなる感覚があった。

 でも、同時に脚は鉛のように重くなっていく。

 

 ここまで徹底的に走り込んだのはいつぶりだろう。

 いや──正確に言うなら、ここまで効率的に“追い込まれた”のは初めてだ。

 

「お疲れさま」

 

 視界の端で、トレーナーがペットボトルを差し出す。

 夕陽の光が差し込み、彼の影が長く伸びていた。

 その表情は、どこか満足げに見える。

 

 差し出されたボトルを無言で受け取りながら、何とか呼吸を整える。

 喉を潤しながら、少しずつ落ち着いてくる呼吸。

 そのタイミングで、トレーナーが隣に腰を下ろした。

 

 なんだろう、と顔を向けると、彼は手にしていたバインダーをこちらへ差し出す。

 そこには、今日ずっと書き込んでいた数字が並んでいた。

 

「これが、最初と最後のタイムね」

「タイム取ってたの!? もう、それ絶対ダメなやつじゃん……え、ちょ、はっ!? なにこれ、本当に!?」

 

 疲労困憊で思うように動けないながらも、パーマーは仰け反るように驚いた。

 

 丸で囲われた二つの数字。

 最初の記録と比べて、最後のタイムは明らかに早い。

 脚もスタミナも限界で、とても見られたものじゃなかったのに。

 

「……うっそ、こんなヘロヘロなのに、タイム上がってる……!?」

 

 驚きと、ほんの少しの嬉しさが混じった声。

 トレーナーは穏やかに頷き、柔らかく口を開いた。

 

「最後、がむしゃらに走ってたでしょ? それが、ある意味“自分の走り方”だよ」

 

 流石にそのまま走るのはおすすめしないけどね──と、苦笑を添えて言う。

 けれど、その声音はどこか誇らしげでもあった。

 

「明日は、最初からそれを意識して走ろう。それが出来れば君はもっと速くなる」

「……え? 明日も見てくれるの?」

「うん? それは、もちろん。……あっ、もしかして何か予定があった?」

 

 あまりにも自然に言われて、パーマーは一瞬返事を忘れた。

 心底、当たり前のようなその口調に、胸の奥が少し熱くなる。

 

「──っ、な、ないない! 全然! ……明日も、よろしくね!」

 

 そう言って、視線を逸らすように、空を仰いだ。

 夕陽が沈みかけて、空の端が金色に溶けていく。

 

 今まで、ずっと暗い中を走ってきた気がしていた。

 けれど今は、少しだけ──その向こうに光が見えた気がした。

 

 




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