凱旋門賞の栄光を引っ提げた子犬   作:haku sen

5 / 8
5話 選抜レース 

 

「──はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 午後の日差しの下、芝を蹴る音がリズムを刻んでいた。

 パーマーの走りは、以前よりも格段に整っている。

 肩の動きも、腕の振りも、もうぎこちなさはない。

 

 風を切るたび、尻尾がしなやかに揺れ、脚の運びも滑らかだった。

 陽光を反射する汗の粒が、弧を描いて散っていく。

 

 トレーナーは、その様子をじっと見守りながら、小さく息をついた。

 視線は、走る彼女の姿を追いながらも空いた手でバインダーに素早くペンを走らせる。

 

 走りながらの体の傾き、呼吸のリズム、踏み込みの強さ……一つひとつを確認するように記しつける指先が、途中で止まった。

 

 確かに、走りは良くなっている。

 それも“教科書どおり”の良さではなく、少しずつパーマー自身の動きに馴染んできている。

 呼吸と脚のリズムが噛み合い始め、腕の振りにも余計な力がなくなってきた。

 

 だが、まだどこかに硬さが残っていた。

 長年の癖のように、身体の奥底にこびりついた型が抜けきっていない。

 無理もない。幼い頃から染みついたものほど、そう簡単にはほどけないものだ。

 

 しかし、見違えるほど良くなっている。

 タイムも安定しているし、動きの精度も格段に上がっている。この走りなら、選抜レースに出ても十分通用するだろう。

 

 けれど、どこか違う。

 

 ペンを持つ手が、紙の上を意味もなく滑り、眉間にわずかな皺が寄る。

 

 ──何かが、足りない。

 形は整っているのに、呼吸がその形の中に収まりきっていない。

 音で言えば、微妙にピッチが合っていないような、そんなズレ。

 だが、そこに“彼女らしさ”の欠片が眠っている気もしていた。

 

 どうしたものか、と考えを巡らせていると、パーマーがゴールを抜け、ゆっくりと速度を落としていくのが見えた。

 

 陽の光を受けて、汗の粒が光る。

 肩で息をしながら、彼女はまっすぐこちらへ歩いてきた。

 

「はぁ……はぁ……どう、だった?」

 

 息を整えながら、期待半分、不安半分の声。

 トレーナーは少しだけ間を置いて答える。

 

「……悪くない。いや、むしろ、かなりいいと思う」

「けど?」

 

 すぐに察したように、パーマーが目を細める。

 トレーナーは苦笑しながら、視線を手元にバインダーに戻した。

 

「まだ、少し堅苦しい感じはあるかな……もっと自由に、思うように走っていいんだけど」

「うーん……私としては、けっこう自由に走ってるつもりなんだけどなぁ。……でも、言わんとすることはわかるかも」

 

 パーマーは小さく息を吐いた。

 自分でも、何かが引っかかっているのは分かっている。

 走りは確かに軽くなったし、動きも良くなっている。

 それでも胸の奥に、薄いもやが残っていた。

 

「悪くないんだけどさ、ちょっと違うっていうか。自分の走り、って感じがしなくて」

 

 苦笑まじりの声に合わせて、尻尾がゆっくり左右に揺れる。

 その動きは、風に任せるでもなく、どこか迷いを映していた。

 

 トレーナーはパーマーの言葉を聞きながら、手元を見ながら顎に手を添える。

 対して、パーマーは小さく唸ってから、空を仰いだ。

 

 今、この場で答えを出すのは難しいのかも知れない。

 恐らく、これは感覚の領域に近いものなのだろう。

 走る本人にも、見ている側にも、言葉で表すのは容易ではない。

 

 互いに視線を交わし、ほぼ同時に息をついた。

 それから、同じように首を傾げる。

 

 芝の上に、二つの影がゆるやかに揺れた。

 

 

 

 その後──もやもやを残したまま、練習を終えたパーマーは学園を歩いていた。

 

 言いようのない不安が、胸の奥に沈んでいる。

 ここ最近、走りが変わってきているのは自分でも分かっている。

 それでも、何かが違うと思い悩んでいた。

 

 ただ、その“何か”を言葉にしようとすると、指の隙間から零れていくように掴めない。

 

「はぁ……こんなんじゃ、せっかく見てくれてるトレーナーに迷惑かけちゃうよ。けど、どーしたもんか……」

 

 ため息まじりの独白に、耳がしゅんと伏せた。 

 折角、あんなに熱心に見てくれているのに。そう思うたび、申し訳なさが胸の底からじわじわと浮かび上がる。

 

 結果だけを見れば、確かに良くなっている。

 身体の動きも、呼吸のリズムも、走るたびに新しい感覚を掴んでいく。

 けれど、それでも、自分はまだトレーナーの期待に応えきれていない気がしてならない。

 

 そして、もうひとつ。

 トレーナーへの後ろめたさもあった。

 

 自分は、悪いことをしている。

 きっと、悪いことだし、ずるいことでもある。

 でも、それでも、止められない。

 

 自分のわがままで、甘えているような……そんな後ろめたさ。

 

「……分かってはいる、んだけどなぁ」

 

 今のままでも、たぶん選抜レースで勝てる。

 少なくとも、上位には食い込めるだけの自信はある。

 タイムも安定してきて、きっと誰かの目には留まるはずだ。

 それこそ、スカウトだって、夢じゃない。

 

 事実、それはトレーナーが言ってくれたことだ。

 今の走りなら十分通用する、と。

 

 ──でも、じゃあその時、あの人(・・・)はどうするだろう。

 

 私をスカウトしてくれるだろうか。

 それとも、また別の子に声をかけるのだろうか。

 

 そんなことを考えたくなくて、出ない理由を作ってしまった。

 まだ自分の走りを見つけていないから──なんて、ずるい言い訳をして。

 

 彼は、それを疑いもせず受け取ってくれて、前よりずっと熱心に見てくれるようになった。

 だからこそ、余計に、胸の奥がちくりと痛む。

 

 本当は違う。ただ、怖いだけ。

 この曖昧な時間が終わってしまうのが。

 

 それはきっと、走り方だけの話じゃない。

 あの人に見てもらえる時間が、少しでも長く続けばいい。

 そんな気持ちが、いつの間にか足を引っ張っている。

 

 でも、それは駄目だ。

 このままじゃ、きっとどこかで後悔する。

 

 だから、ちゃんと自分の走りを見つけて、結果を出す。

 そして、スカウトされるなら──あの人がいい。

 

 それに、ここまで成長させてくれたのは、あの人だ。

 だったら、最後まで面倒を見てくれたって……いいじゃないか。

 

「……いやいや、何考えてんの、私」

 

 はぁ、と息を吐く。

 堂々巡りの思考が空回りして、どうにもまとまらない。

 そんなとき──ふと、どこかから声が聞こえた気がした。

 

 ……泣き声?

 

 気のせいかと思ったが、もう一度、はっきりと耳に届く。

 涙混じりの、けれどどこか元気のある叫び声。

 パーマーは小首を傾げながら、その声の方へ足を向けた。

 

 そして──

 

「──うあぁぁぁんっ!! マジぴえんぴえんまる~~っ!! お嬢が塩い~っ! きゃぱい~! ガチつらみざわぁぁ~っ!!」

 

 聞いたこともない言葉が立て続けに飛び出し、パーマーは固まった。

 芝の上で、派手な身振りを交えて泣き叫ぶウマ娘がひとり。

 

「え、ええっと……だ、大丈夫?」

 

 恐る恐る声をかけると、その子はゆっくりとこちらを向いた。

 大きな瞳に涙が溜まり、きらきらと光っている。

 

「よくわかんないけど、悩みあるなら聞こうか?」

「……っ!」

 

 瞬間、彼女は勢いよく顔を上げて叫んだ。

 

「それな!!」

 

 

 

「──うっはあぁぁ~~~っ! 鬼歌ったぁ! 喉ヤバ! ほら次パマちんもいったれいったれ~!!」

「いや、悩みどこいった!?」

 

 パーマー、そして声をかけたウマ娘──ダイタクヘリオスの二人はカラオケに居た。

 最初はただ話を聞いていただけのはずが、気づけばヘリオスに引っ張られ、マイクを握らされている。

 

「だってもー、ほぼほぼ聞いてもらったし! 次はテン上げしか勝たんくね? うぇ~~い☆」

「て、ん……? ま、まぁ、元気になったんならいいんだけど……?」

「そそ! いいじゃん、よきじゃん♪ 上げてけ上げてけー!!」

 

 その勢いのまま、ヘリオスはパーマーを連れて次々と遊び歩いた。

 ふらりと立ち寄ったアクセサリーショップでは──

 

「──あ、これウマスタで見たわ~! ヤバくね? よくね? ウチこの色らぶだわ! 買お~!!」

「ぷっ……あはははっ、即決じゃん!」

 

 そして、お腹がすいて入ったファストフード店では、心底幸せそうにバーガーを頬張る。

 

「うんま~~~っ!! マジうまっ! バーガー最高Fu~~~☆」

「あはははっ! 本っ当……ヘリオスって、なんかずーっと楽しそうだよね」

「楽しそってか楽しーよ! ガチのマジ!! ウチはオールウェイズバイブスブチ上げだかんね~!!」

 

 感心したように言うパーマーに、ヘリオスは更にテンションを上げて返す。

 その裏表のない明るさに、パーマーの頬も自然と緩んだ。

 

「でも、それが一番よくね? 楽しいっていいじゃん? イイってアガるじゃん? アガるって、最高じゃ~~~ん!!」

 

 うぇーい! と両手を上げて笑うヘリオス。

 その姿を見て、パーマーの胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。

 

「そっかそっか。……うん、そうだね。……いーね、シンプルでさ!」

「シンプル! わかりみ! それisフゥ~~~~!!」

 

 満面の笑みでバーガーを頬張るヘリオスを見つめながら、パーマーは思う。

 

 ──楽しい。アガる。最高。それが一番。

 

 ただの言葉の羅列なのに、なぜかそれがまっすぐ胸に沁みた。

 格言なんて呼べるものじゃないのに、不思議と心に残る。

 

「どしたん、パマちん?」

「……ん、いや、何でもないよっ。てか、口元にソース付いてる──」

 

 

 

 パーマーにとって、生涯の友ともいえる出会いを果たした、その後日。

 いつも通り、トレーナーとトレーニングを重ねていた。

 相変わらず、自分の走りというのを掴めてはないが、能力や技術は確かに成長している。

 

 いい加減、どうにかしなければと思っていると、ふと遠くから歓声のようなものが聞こえた。

 視線を向けると、コースの方で何人かが模擬レースをしている。

 

「パーマー?」

「あ、いや……っと?」

 

 何でもない、と言おうとしたとき、パーマーは見覚えのある顔を見つけた。

 

「あっ、ヘリオス!」

 

 自然と名前がこぼれる。

 コースを走るその姿。見間違えるはずもない。

 

「友達?」

「うん。ダイタクヘリオスって言ってね、メチャクチャ明るい子なんだ。見てるだけで元気になるっていうかさ」

 

 見ているだけで、こっちまで笑顔になるような存在。

 そのヘリオスが走っている。ただそれだけで、パーマーはもう目を離せなかった。

 

 風を裂く音。芝を蹴る音。

 そして、響いてくる笑い声。

 

「はっ、はっ……あっはははははは!」

「──っ!?」

 

 走りながら、彼女は笑っていた。

 それも、全身で楽しむように。

 

「うぇいうぇいうぇいうぇい~~いっ!! 逃~~げ~~ろ~~っ!!!!」

 

 叫び、笑い、まるで風と競い合うように。

 その姿は、ただ速いという以上に──自由だった。

 

「凄いな、あの子。笑って走るだなんて」

「うん……レース中に、笑ってる」

 

 目を離せなかった。

 あの明るさが眩しくて、羨ましくて、胸の奥がじわりと熱くなる。

 

「あっははははははは!! うりゃうりゃうりゃぁ~~~!!」

 

 ああ、すごいな。すごい子だ。

 走ってないのに、鼓動がうるさい。

 見ているだけなのに、自分まで風を受けているような気がした。

 

 気づけば、レースを終えたヘリオスへ向かって走っていた。

 

「ヘリオスっ!!」

「うわパマちん! え、見ててくれたん!? マ~ジかヤバたん~!! らびゅ~~~!!」

 

 結果なんて気にしていない様子で、ヘリオスは笑っている。

 その笑顔が、あまりにも真っ直ぐで。

 パーマーは、胸の奥にあふれるものを抑えきれずに言葉をこぼす。

 

「うん……うん、見てた! すごいレースだった!! それでさっ……あのさ!!」

 

 胸の奥が熱くて、言葉が少しつっかえた。

 でも、それだけ高揚している。興奮している。

 

 きっと、それは、今の自分がいちばん知りたかったことだから。

 

「いっこ教えて。……ヘリオスってさ、レースの時、どんなこと考えてる?」

「ん、レースの時? どんなことって、そりゃ──テンアゲ! 爆アゲ!! ウチが一番、楽しんだらぁ~!!」

「……っ!!」

 

 至極当然のように言うヘリオス。

 それが、まっすぐで、迷いがなくて。

 

「コレっきゃないっしょ、ガチのマジ!! ん、ケドなんで?」

「……ううん、なんでもない。なんでもない、んだけどさ──」

 

 そう。これだ。

 悩むことなんてなかった。

 頭で考えるより、もっと単純で、もっと熱いもの。

 

「──いいね、シンプルで!! 最っ高!!」

「出たシンプル~!! ガチわかりみ! それisそれisフゥ~~~~!!」

「フゥ~~~!! ……っ、く……あっははははは!!」

 

 二人して大声で笑う。

 笑い声が風に溶けて、空へと抜けていった。

 

「はぁ、はぁ……パーマー」

「あっ! ご、ごめん、トレーナー!」

 

 息を切らしながら駆けてきたトレーナーの姿に、パーマーは慌てて背筋を伸ばした。

 すっかり存在を忘れていた自分が恥ずかしくて、頬を掻く。

 目が合うと、罰が悪くなって、つい視線を逸らした。

 

 そんな二人を見て、ヘリオスが首を傾げた。

 

「ん、だれ?」

「私のトレーナー──っていうか、今ちょっと見てもらってる人、かな?」

 

 言葉にして、胸の奥がざらりとした。

 自分で招いた曖昧な関係。その現実を口にするだけで、どこか苦くなる。

 

 トレーナーは、一瞬きょとんとしたように目を瞬かせる。

 何か小さく声を漏らしかけるが、すぐにヘリオスの声がそれをかき消した。

 

「どゆこと? それ、もうトレーナーってことじゃん? なんか曖昧すぎてバグるって! え、ウケるんだけど!」

 

 あっけらかんと笑うヘリオス。

 その勢いに、パーマーは思わず目を瞬かせ、曖昧な笑みを浮かべるしかない。

 笑っているのか困っているのか、自分でも分からないような、そんな笑顔だった。

 

 一方でトレーナーは、言いかけた言葉を喉の奥で止め、代わりに小さく首を傾げる。

 口元に浮かんだ苦笑が、少しだけ戸惑いを帯びていた。

 

「いや、ちょっとワケありでさ……あははっ」

 

 パーマーはそう言って、頬を掻きながら笑った。

 自分でも上手く誤魔化せていないのが分かって、余計にぎこちない。

 

「なにそれ? ちょいサゲ展開じゃん! テンアゲ足りてる? ウチが盛ってくからさ~! うぇ~~い☆」

 

 明るく弾けるような声が響く。

 その勢いに、トレーナーは完全に置いていかれたような顔をする。

 

 対して、パーマーは苦笑いのまま反応に迷い、少しだけ視線を泳がせる。

 

 どう説明するべきか、と悩んでいればトレーナーの手が軽く肩に触れた。

 返事をする前に、トレーナーの戸惑いを含んだ声が落ちる。

 

「……ごめん、彼女の言ってることが全然分からない」

 

 パーマーは一瞬ぽかんとして、次の瞬間、吹き出した。

 

「あははっ! うん、まぁそうなるよねっ!」

「それなーっ!! なんで笑ってるか分からんけど! とりま今ウケるから笑っとけ~!!」

 

 あははっと声を上げると、ヘリオスもすぐに釣られて笑い出す。

 笑いながら肩がぶつかり、息が弾む。

 何が可笑しいのか分からないけれど、もう止まらない。

 

 トレーナーはそんな二人を見て、苦笑を浮かべたまま立ち尽くすしていた。

 

 ──そして。

 ひとしきり笑いが落ち着いたあと、ヘリオスと別れてパーマーはトレーナーと二人きりになる。

 途端に、さっきまで胸を満たしていた熱が、静かな余韻に変わった。

 

 パーマーは一歩遅れて歩きながら、少し迷うように息を吸う。

 そして、思い切って言葉を紡ぐ。

 

「トレーナー。私、自分の走りっていうのが、分かったかも」

 

 その声に、振り返ったトレーナーがわずかに目を細める。

 だが、それとは裏腹に返ってきた言葉は穏やかだった。

 

「それは……さっきの子みたいな?」

 

 違う、と小さく首を振る。

 

 ヘリオスのように、笑いながら、全力で楽しむように走る。

 確かに、それはきっと楽しい。レースに対して、いちばん自由な姿だ。

 でも、それは──ヘリオスの走り方だ。自分のものじゃない。

 

「えっと、その……何もかも考えず、全力でブッ飛ばす、みたいな?」

 

 言葉にしながら、自分でも少し照れくさい。変なことを言っていることは自覚している。

 けれど、胸の奥がわずかに高鳴っていた。

 ヘリオスを見て、ようやく“何か”が分かった気がしたのだ。

 

「えーっと、でさ! トレーナーは、どう思うっ? ……やっぱり、ダメかな?」

 

 口にしてみて初めて、自分がどれだけ彼の反応を気にしているかを知る。

 けれど、それだけではない。

 

 これまで積み上げてきたトレーニングの一部を、無駄にしてしまうかもしれない。

 正式に担当契約をしているわけでもないのに、ここまで時間を割いてもらっている。

 それなのに、今さら別の走り方を試したいだなんて。

 

 考えれば考えるほど、胸の奥が重くなっていく。

 息を詰め、言葉の続きを探しているうちに、沈黙が落ちた。

 

 けれど、トレーナーはその不安を見透かしたように、わずかに口角を上げた。

 春風のような柔らかさを帯びた笑みだった。

 

「いいよ。やってみよう」

 

 あまりにもあっさりと肯定されたので、パーマーは目を瞬かせた。

 確かに、短い付き合いながらも、この人ならそう言うかもしれない──そんな予感はあった。

 けれど、実際に口にされると、胸の奥がざわついた。

 

 嬉しい。けど、怖い。

 そのどちらともつかない感情が入り混じって、言葉が少し上ずる。

 

「ほ、ほんとに? だって、場合によっては、もーヘロヘロで、見てらんないってぐらいズタボロに負けるかもしれないんだよ?」

「なに、大丈夫だよ」

「……真面目に聞いてる?」

 

 あまりに軽い返答に、思わず眉をひそめる。

 だが、トレーナーは気にした様子もなく、いつもの穏やかな口調で言葉を返した。

 

「君が走りたいように走ればいい。──元々、そのためだったしね」

 

 その声は不思議と落ち着いていて、迷いがなかった。

 続けて、わずかに目を細めながら言う。

 

「ウマ娘を走りたいように走らせて、それでいて負けないようにするのが、トレーナーの仕事だから」

 

 静かな言葉だった。

 けれど、その奥にある確かな信頼が、まっすぐ胸に届いた。

 

「──だから、君は自由に走っていい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 選抜レース当日。

 

「うぇいうぇいうぇいうぇぇ~~い☆ パマちん今日はキメちゃってーーーーっ!?」

「えーっと……あっ、おけまる水産っ! ガチのマジで、ブチ抜いてやっから! よろ~っ!! ……こんな感じ?」

「あー、うん……多分、いいんじゃないかな?」

「あはははは!! ウケる!」

 

 メジロパーマー、ダイタクヘリオス、そして話題沸騰中のシリウスのトレーナー。

 顔ぶれだけでも目を引く三人が、選抜レースを前にして、まるで放課後の雑談のような軽口を交わして笑っていた。

 

 その場の空気からすれば、あまりにも場違いな明るさ。

 張りつめた空気の中、ひときわその笑い声だけが浮いていた。

 

 だが、勿論それだけじゃない。

 

「やっぱり注目されてるよね~? 前の時とは大違いだもん」

「まあ、あれだけ見られ続ければね」

 

 今日も、最初から最後まで視線が絶えない。

 もちろん、最初の時に比べたら極端に視線の数は減ったものの、それでも見られ続けていた。

 

 最初のうちは、興味半分といったところだったが、最近は少し違う。

 走るたびに増えていく視線の温度が、肌で分かる。

 

 ウマ娘たちからは、警戒と少し混じる嫉妬の視線。

 一方で、トレーナーたちの間では、その走りが静かに話題になっていたらしい。

 故に、トレーナーたちからは、明確な“評価”の眼差しが向けられていた。

 

「いつも通り胸を張って、君の走りをすればいい」

「うん、分かってる……ありがと、トレーナー」

 

 一歩離れ、スタート位置へ向かおうとしたパーマーがふと足を止め、振り返る。

 

「そうだ……ちゃんと、約束、忘れてないよね?」

「忘れてないよ。1着取ったらお願いを聞く、だったよね?」

 

 その答えに、パーマーは満足そうに笑った。

 

「行ってくるね! ちゃんと待っててよ!」

 

 軽く手を振ってゲートへ向かっていく背中を見送りながら、トレーナーは人知れず息を吐いた。

 何だかんだで、こういう瞬間はやはり緊張する。

 まして、自分の見てきた子が走るとなればなおさらだ。

 

 そんなトレーナーの背中を、軽く叩く手があった。

 既視感のある感触に振り返ると、案の定そこにいたのは──ラモーヌのトレーナーだった。

 

「相変わらず、注目されてるわね、君」

「もう慣れたよ」

 

 少しだけ肩をすくめて笑う。

 そのタイミングで、背後から二つの声が重なった。

 

「お初にお目にかかりますわ、トレーナーさん。メジロマックイーンと申します」

「初めまして! メジロライアンです!」

 

 マックイーンは裾をつまみ、上品なカーテンシーを添えて頭を下げる。

 ライアンは真っすぐに背筋を伸ばし、礼儀正しい声で挨拶した。

 その様子を見て、トレーナーは軽く頷く。

 

「ご一緒してもよろしいでしょうか?」

「それは、勿論」

 

 特に抵抗もなく答えると、二人は並んで観戦席に立った。

 マックイーンもライアンも、やはり気にしているのだろう。

 ほぼ同時期のデビューを控え、今後ライバルとしてぶつかるであろうパーマーの存在を。

 

「パーマー……なにやら、纏う空気が変わりましたわ。流石、と言うべきでしょうか?」

「もともと彼女が持っていたものだよ。それを引き出す手伝いをしただけさ」

 

 淡々とした返答に、マックイーンがわずかに目を細める。

 その横でライアンが肩をすくめ、苦笑を漏らした。

 

「いや、それが出来るのが、普通はすごいんじゃないかな……?」

 

 その会話を聞きながら、ラモーヌのトレーナーが軽く手をひらひらと振った。

 

「聞くだけ無駄よ、無駄。どうせ、どうやったか教えてくれないでしょうし」

「ははっ、それはそうだ。自分というトレーナーの武器でもあるしね」

 

 気だるげに言うラモーヌのトレーナーに対して、笑ってそう返すと、フンと不機嫌そうな返事が返ってくる。

 

「それと、頼んだのは私だけどさ……あそこまでしろ、とは言ってないけど?」

「あそこまで成長したのはパーマー自身だよ。実際、手助けしたのもほんのちょっとだけだ」

「随分と献身的に見ていた癖に? ……まあ、君からすればちょっとの範疇になるか」

 

 勝手に納得したように言うラモーヌのトレーナー。

 そのやり取りを聞いていたマックイーンとライアンは、思わず顔を見合わせて首を傾げた。

 

「担当のために2年間も海外で過ごさないでしょ、普通。入れ込み過ぎよ」

「そんなことはないだろう」

 

 少しムッとした声で返すトレーナー。

 だが、マックイーンとライアンはどこか複雑な表情を浮かべる。

 

 貴女も似たようなものでは? と。

 

 実際、彼女以外にラモーヌのトレーナーが務まるとは到底思えないし、ラモーヌ本人だってきっと彼女以外を自身のトレーナーとは認めないだろう。

 

 だが、今の話の流れで、それ以上に気になることがあった。

 

「あの、確かにパーマーは変わった気がしますが……その、なんというか規格外、と言っているように聞こえるのですが……?」

 

 マックイーンの問いに、場の空気がわずかに動く。

 やり取りの端々に漂う、“常識では測れない何か”に気づいたのだ。

 

 そして、その答えはすぐに分かることになる。

 

 ──ガコンッ!!

 

 乾いた音が響き、ゲートが一斉に開く。

 芝を蹴る音が重なり合い、その中で、最初に飛び出したのはパーマーだった。

 

「──って、ええ!? ちょ、何、速っ……!?」

「まだスタート直後なのにっ……!!」

 

 一緒に走るウマ娘たちの驚きを後方に置き去りにして、パーマーは加速していく。

 まるで、最初からスパートをかけるかのようにスピードを上げ、後続との距離を広げていった。

 

「はっ、はっ、はっ──っ、はははははっ!!」

 

 そして、心の底から楽しそうに笑った。

 

 逃げて、逃げて、逃げて、自分からも逃げて。

 ──でも今は違う。

 追われる風が心地よくて、ただ無心に走るのが楽しくてたまらなかった。

 

 逃げて──思いっきり、楽しんで!

 その先で、私は、私になった(・・・)

 

 差が、どんどん開いていく。

 誰もが思った。きっと落ちる、と。

 けれど、トレーナーたちの中でただ二人だけは、その未来を否定していた。

 

「──はっ?」

 

 誰かの声が、かすれた驚きとともに漏れる。

 いや、きっと一人や二人ではなかった。

 

 ラスト直線──メジロパーマーは落ちなかった。

 

「はぁあああああああーーーーっ!!」

 

 後続が慌ててスパートをかける。

 だが、もう遅い。

 差は広がる一方で、最後の一歩まで勢いは落ちなかった。

 

 歓声は、疎らにしか起きなかった。

 それよりも、静かな動揺だけがコース全体を包んでいる。

 

「ウッ……ソだろ。まさか、あのまま勝つ、だなんて……っ!?」

「あんな、無茶苦茶な逃げ……普通やらないでしょ!?」

 

 多くのトレーナーが唖然とした。

 あんな型破りな逃げ、常識では考えられない。

 それこそ、狂気のハイペースだった。

 

「はぁ、はぁ……っ! っ、はは! マジ、ちょ、ヤバ! 吐きそう……っ!?」

 

 ──とはいえ、まだ完全に自分のものにしたわけではない。

 息は荒く、顔色も青い。けれど、その表情には確かな充実の色があった。

 

 勝ちは勝ち。

 苦しくても、足が重くても、それでも“自分の走り”で掴んだ勝利だった。

 

「すごい……すごいや! パーマーの走り……!」

「あれが、メジロパーマーの走り……ですのね」

 

 マックイーンとライアンは並んで立ち、感嘆の息を漏らした。

 けれど次の瞬間、表情を引き締め、静かに拳を握る。

 

「どうやら私たちも、うかうかしてられないみたいですわ」

「だね……頑張らないと」

 

 二人の視線を背に受けながら、パーマーは駆け寄ってきたヘリオスと笑い合う。

 

「パない! ヤバイ!! ガチの、マジの、マジの、マジで! 爆逃げってたよ~~ッ!」

「あははは! ありがとねヘリオス、君も最っっっ高だよ! 私の太陽!!」

「~~~~っ! パマちん、サイッコー!!」

 

 感極まって抱きついてきたヘリオスをどうにか宥めながら、パーマーは周囲に集まってくるトレーナーたちを見て、ふっと苦笑した。

 

 何とも不思議な気持ちだ。嬉しいという気持ちはあるし、誇らしい気持ちもある。

 

 けれど──心の奥では、もう決まっていた。

 

 スカウトの声を避けるように、パーマーは別方向へ歩いていく。

 視線の先には、見慣れたトレーナーの姿。

 隣にはラモーヌのトレーナーがいて、何やら言葉を交わしている。

 

 その横でマックイーンとライアンがこちらに、手を振っていた。

 パーマーも頬を緩めて手を振り返し、トレーナーのもとへと歩み寄る。

 

 彼も気づいて、柔らかく笑った。

 

「おめでとう、どうだった?」

「最高だったよ! トレーナーのおかげでね!」

「それは良かった」

「で、さ。約束通り──お願い、聞いてくれるよね?」

「もちろん」

 

 言葉を受け取った瞬間、胸の奥が強く跳ねた。

 深く息を吸う。吐く。けれど、呼吸が追いつかない。

 逸る気持ちを押さえようとすればするほど、鼓動がうるさくなっていく。

 

 視線を落とし、服の裾をぎゅっと握りしめた。

 声にしようと口を開くたび、喉がきゅっと詰まる。

 それでも、どうにか言葉を口にした。

 

「私の、担当になってください……っ!」

 

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

 けれど、その一言に、今までの全部を込めた。

 

 沈黙が落ちる。

 ほんの一瞬の間なのに、時間が止まったように感じる。

 胸の奥がきつく締めつけられて、息が詰まる。

 

 まだか、まだか、と限界に達しそうになった瞬間。

 

「──こちらこそ。もともと、スカウトするつもりだったんだ」

「っ! ホントに!?」

 

 それは、お願いに対する正面からの答えではない。

 けれど、パーマーにとっては、それ以上の言葉だった。

 

「良かったですわね、パーマー」

「パーマー! これからはライバルだからね!」

「マックイーン、ライアン! ……っ! 負けないからね!」

「ちょ、どしたん? テンアゲ? 爆上げ? ハッピー的な!? なんかそーゆノリっしょ!!」

「ば、く? 失礼、どういう意味なのでしょうか?」

「っ、あははははっ!!」

 

 笑い声が重なり、空気が一気に弾けた。

 ヘリオスが混ぜっ返すたびに、輪の中は一層にぎやかになり、その中心で、パーマーはまぶしいほどの笑顔を見せている。

 

 そんな彼女たちの姿を見つめながら、トレーナーは小さく息を吐く。

 胸の内に滲んだ安堵をそっと押し隠すようにして、口元に穏やかな笑みを浮かべた。

 隣で同じ光景を見ていたラモーヌのトレーナーが、わずかに肩をすくめる。

 

「君が決めたことだし、口を挟むつもりはないけど……シリウスシンボリは大丈夫なの?」

 

 今はここにいない、唯一無二の担当の名が出た瞬間、トレーナーの表情がほんの少しだけ揺れた。

 それでも、すぐに静かな笑みで整えて言葉を返す。

 

「まあ、相性が良いかは実際会ってみないと分からないだろうけど、シリウスは面倒見はいい方だから」

 

 何だかんだ、後輩の面倒はしっかりと見ていたシリウスのことだ。パーマーともうまくやれるだろう。

 それに、パーマー自身、朗らかに振る舞っているが、本質的にはとてもまじめで責任感が強い子でもある。

 シリウス次第ではあると思うが、相性で言えば決して悪くないだろう。

 

「……そういうことじゃなくて」

「え? いや、まあ、定期的に連絡も取り合ってるし、その時にでも──あっ」

 

 

『──それともう一つ。勝手に契約とかするんじゃねぇぞ』

 

 

「……大丈夫、じゃないかもしれない」

「でしょうね」

 

 幸いというべきか、そのやり取りはパーマーたちの耳には届いていなかった。

 

 




感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
今回、少し長くなってしまいました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。