「──はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
午後の日差しの下、芝を蹴る音がリズムを刻んでいた。
パーマーの走りは、以前よりも格段に整っている。
肩の動きも、腕の振りも、もうぎこちなさはない。
風を切るたび、尻尾がしなやかに揺れ、脚の運びも滑らかだった。
陽光を反射する汗の粒が、弧を描いて散っていく。
トレーナーは、その様子をじっと見守りながら、小さく息をついた。
視線は、走る彼女の姿を追いながらも空いた手でバインダーに素早くペンを走らせる。
走りながらの体の傾き、呼吸のリズム、踏み込みの強さ……一つひとつを確認するように記しつける指先が、途中で止まった。
確かに、走りは良くなっている。
それも“教科書どおり”の良さではなく、少しずつパーマー自身の動きに馴染んできている。
呼吸と脚のリズムが噛み合い始め、腕の振りにも余計な力がなくなってきた。
だが、まだどこかに硬さが残っていた。
長年の癖のように、身体の奥底にこびりついた型が抜けきっていない。
無理もない。幼い頃から染みついたものほど、そう簡単にはほどけないものだ。
しかし、見違えるほど良くなっている。
タイムも安定しているし、動きの精度も格段に上がっている。この走りなら、選抜レースに出ても十分通用するだろう。
けれど、どこか違う。
ペンを持つ手が、紙の上を意味もなく滑り、眉間にわずかな皺が寄る。
──何かが、足りない。
形は整っているのに、呼吸がその形の中に収まりきっていない。
音で言えば、微妙にピッチが合っていないような、そんなズレ。
だが、そこに“彼女らしさ”の欠片が眠っている気もしていた。
どうしたものか、と考えを巡らせていると、パーマーがゴールを抜け、ゆっくりと速度を落としていくのが見えた。
陽の光を受けて、汗の粒が光る。
肩で息をしながら、彼女はまっすぐこちらへ歩いてきた。
「はぁ……はぁ……どう、だった?」
息を整えながら、期待半分、不安半分の声。
トレーナーは少しだけ間を置いて答える。
「……悪くない。いや、むしろ、かなりいいと思う」
「けど?」
すぐに察したように、パーマーが目を細める。
トレーナーは苦笑しながら、視線を手元にバインダーに戻した。
「まだ、少し堅苦しい感じはあるかな……もっと自由に、思うように走っていいんだけど」
「うーん……私としては、けっこう自由に走ってるつもりなんだけどなぁ。……でも、言わんとすることはわかるかも」
パーマーは小さく息を吐いた。
自分でも、何かが引っかかっているのは分かっている。
走りは確かに軽くなったし、動きも良くなっている。
それでも胸の奥に、薄いもやが残っていた。
「悪くないんだけどさ、ちょっと違うっていうか。自分の走り、って感じがしなくて」
苦笑まじりの声に合わせて、尻尾がゆっくり左右に揺れる。
その動きは、風に任せるでもなく、どこか迷いを映していた。
トレーナーはパーマーの言葉を聞きながら、手元を見ながら顎に手を添える。
対して、パーマーは小さく唸ってから、空を仰いだ。
今、この場で答えを出すのは難しいのかも知れない。
恐らく、これは感覚の領域に近いものなのだろう。
走る本人にも、見ている側にも、言葉で表すのは容易ではない。
互いに視線を交わし、ほぼ同時に息をついた。
それから、同じように首を傾げる。
芝の上に、二つの影がゆるやかに揺れた。
その後──もやもやを残したまま、練習を終えたパーマーは学園を歩いていた。
言いようのない不安が、胸の奥に沈んでいる。
ここ最近、走りが変わってきているのは自分でも分かっている。
それでも、何かが違うと思い悩んでいた。
ただ、その“何か”を言葉にしようとすると、指の隙間から零れていくように掴めない。
「はぁ……こんなんじゃ、せっかく見てくれてるトレーナーに迷惑かけちゃうよ。けど、どーしたもんか……」
ため息まじりの独白に、耳がしゅんと伏せた。
折角、あんなに熱心に見てくれているのに。そう思うたび、申し訳なさが胸の底からじわじわと浮かび上がる。
結果だけを見れば、確かに良くなっている。
身体の動きも、呼吸のリズムも、走るたびに新しい感覚を掴んでいく。
けれど、それでも、自分はまだトレーナーの期待に応えきれていない気がしてならない。
そして、もうひとつ。
トレーナーへの後ろめたさもあった。
自分は、悪いことをしている。
きっと、悪いことだし、ずるいことでもある。
でも、それでも、止められない。
自分のわがままで、甘えているような……そんな後ろめたさ。
「……分かってはいる、んだけどなぁ」
今のままでも、たぶん選抜レースで勝てる。
少なくとも、上位には食い込めるだけの自信はある。
タイムも安定してきて、きっと誰かの目には留まるはずだ。
それこそ、スカウトだって、夢じゃない。
事実、それはトレーナーが言ってくれたことだ。
今の走りなら十分通用する、と。
──でも、じゃあその時、
私をスカウトしてくれるだろうか。
それとも、また別の子に声をかけるのだろうか。
そんなことを考えたくなくて、出ない理由を作ってしまった。
まだ自分の走りを見つけていないから──なんて、ずるい言い訳をして。
彼は、それを疑いもせず受け取ってくれて、前よりずっと熱心に見てくれるようになった。
だからこそ、余計に、胸の奥がちくりと痛む。
本当は違う。ただ、怖いだけ。
この曖昧な時間が終わってしまうのが。
それはきっと、走り方だけの話じゃない。
あの人に見てもらえる時間が、少しでも長く続けばいい。
そんな気持ちが、いつの間にか足を引っ張っている。
でも、それは駄目だ。
このままじゃ、きっとどこかで後悔する。
だから、ちゃんと自分の走りを見つけて、結果を出す。
そして、スカウトされるなら──あの人がいい。
それに、ここまで成長させてくれたのは、あの人だ。
だったら、最後まで面倒を見てくれたって……いいじゃないか。
「……いやいや、何考えてんの、私」
はぁ、と息を吐く。
堂々巡りの思考が空回りして、どうにもまとまらない。
そんなとき──ふと、どこかから声が聞こえた気がした。
……泣き声?
気のせいかと思ったが、もう一度、はっきりと耳に届く。
涙混じりの、けれどどこか元気のある叫び声。
パーマーは小首を傾げながら、その声の方へ足を向けた。
そして──
「──うあぁぁぁんっ!! マジぴえんぴえんまる~~っ!! お嬢が塩い~っ! きゃぱい~! ガチつらみざわぁぁ~っ!!」
聞いたこともない言葉が立て続けに飛び出し、パーマーは固まった。
芝の上で、派手な身振りを交えて泣き叫ぶウマ娘がひとり。
「え、ええっと……だ、大丈夫?」
恐る恐る声をかけると、その子はゆっくりとこちらを向いた。
大きな瞳に涙が溜まり、きらきらと光っている。
「よくわかんないけど、悩みあるなら聞こうか?」
「……っ!」
瞬間、彼女は勢いよく顔を上げて叫んだ。
「それな!!」
「──うっはあぁぁ~~~っ! 鬼歌ったぁ! 喉ヤバ! ほら次パマちんもいったれいったれ~!!」
「いや、悩みどこいった!?」
パーマー、そして声をかけたウマ娘──ダイタクヘリオスの二人はカラオケに居た。
最初はただ話を聞いていただけのはずが、気づけばヘリオスに引っ張られ、マイクを握らされている。
「だってもー、ほぼほぼ聞いてもらったし! 次はテン上げしか勝たんくね? うぇ~~い☆」
「て、ん……? ま、まぁ、元気になったんならいいんだけど……?」
「そそ! いいじゃん、よきじゃん♪ 上げてけ上げてけー!!」
その勢いのまま、ヘリオスはパーマーを連れて次々と遊び歩いた。
ふらりと立ち寄ったアクセサリーショップでは──
「──あ、これウマスタで見たわ~! ヤバくね? よくね? ウチこの色らぶだわ! 買お~!!」
「ぷっ……あはははっ、即決じゃん!」
そして、お腹がすいて入ったファストフード店では、心底幸せそうにバーガーを頬張る。
「うんま~~~っ!! マジうまっ! バーガー最高Fu~~~☆」
「あはははっ! 本っ当……ヘリオスって、なんかずーっと楽しそうだよね」
「楽しそってか楽しーよ! ガチのマジ!! ウチはオールウェイズバイブスブチ上げだかんね~!!」
感心したように言うパーマーに、ヘリオスは更にテンションを上げて返す。
その裏表のない明るさに、パーマーの頬も自然と緩んだ。
「でも、それが一番よくね? 楽しいっていいじゃん? イイってアガるじゃん? アガるって、最高じゃ~~~ん!!」
うぇーい! と両手を上げて笑うヘリオス。
その姿を見て、パーマーの胸の奥に、じんわりと熱が広がっていく。
「そっかそっか。……うん、そうだね。……いーね、シンプルでさ!」
「シンプル! わかりみ! それisフゥ~~~~!!」
満面の笑みでバーガーを頬張るヘリオスを見つめながら、パーマーは思う。
──楽しい。アガる。最高。それが一番。
ただの言葉の羅列なのに、なぜかそれがまっすぐ胸に沁みた。
格言なんて呼べるものじゃないのに、不思議と心に残る。
「どしたん、パマちん?」
「……ん、いや、何でもないよっ。てか、口元にソース付いてる──」
パーマーにとって、生涯の友ともいえる出会いを果たした、その後日。
いつも通り、トレーナーとトレーニングを重ねていた。
相変わらず、自分の走りというのを掴めてはないが、能力や技術は確かに成長している。
いい加減、どうにかしなければと思っていると、ふと遠くから歓声のようなものが聞こえた。
視線を向けると、コースの方で何人かが模擬レースをしている。
「パーマー?」
「あ、いや……っと?」
何でもない、と言おうとしたとき、パーマーは見覚えのある顔を見つけた。
「あっ、ヘリオス!」
自然と名前がこぼれる。
コースを走るその姿。見間違えるはずもない。
「友達?」
「うん。ダイタクヘリオスって言ってね、メチャクチャ明るい子なんだ。見てるだけで元気になるっていうかさ」
見ているだけで、こっちまで笑顔になるような存在。
そのヘリオスが走っている。ただそれだけで、パーマーはもう目を離せなかった。
風を裂く音。芝を蹴る音。
そして、響いてくる笑い声。
「はっ、はっ……あっはははははは!」
「──っ!?」
走りながら、彼女は笑っていた。
それも、全身で楽しむように。
「うぇいうぇいうぇいうぇい~~いっ!! 逃~~げ~~ろ~~っ!!!!」
叫び、笑い、まるで風と競い合うように。
その姿は、ただ速いという以上に──自由だった。
「凄いな、あの子。笑って走るだなんて」
「うん……レース中に、笑ってる」
目を離せなかった。
あの明るさが眩しくて、羨ましくて、胸の奥がじわりと熱くなる。
「あっははははははは!! うりゃうりゃうりゃぁ~~~!!」
ああ、すごいな。すごい子だ。
走ってないのに、鼓動がうるさい。
見ているだけなのに、自分まで風を受けているような気がした。
気づけば、レースを終えたヘリオスへ向かって走っていた。
「ヘリオスっ!!」
「うわパマちん! え、見ててくれたん!? マ~ジかヤバたん~!! らびゅ~~~!!」
結果なんて気にしていない様子で、ヘリオスは笑っている。
その笑顔が、あまりにも真っ直ぐで。
パーマーは、胸の奥にあふれるものを抑えきれずに言葉をこぼす。
「うん……うん、見てた! すごいレースだった!! それでさっ……あのさ!!」
胸の奥が熱くて、言葉が少しつっかえた。
でも、それだけ高揚している。興奮している。
きっと、それは、今の自分がいちばん知りたかったことだから。
「いっこ教えて。……ヘリオスってさ、レースの時、どんなこと考えてる?」
「ん、レースの時? どんなことって、そりゃ──テンアゲ! 爆アゲ!! ウチが一番、楽しんだらぁ~!!」
「……っ!!」
至極当然のように言うヘリオス。
それが、まっすぐで、迷いがなくて。
「コレっきゃないっしょ、ガチのマジ!! ん、ケドなんで?」
「……ううん、なんでもない。なんでもない、んだけどさ──」
そう。これだ。
悩むことなんてなかった。
頭で考えるより、もっと単純で、もっと熱いもの。
「──いいね、シンプルで!! 最っ高!!」
「出たシンプル~!! ガチわかりみ! それisそれisフゥ~~~~!!」
「フゥ~~~!! ……っ、く……あっははははは!!」
二人して大声で笑う。
笑い声が風に溶けて、空へと抜けていった。
「はぁ、はぁ……パーマー」
「あっ! ご、ごめん、トレーナー!」
息を切らしながら駆けてきたトレーナーの姿に、パーマーは慌てて背筋を伸ばした。
すっかり存在を忘れていた自分が恥ずかしくて、頬を掻く。
目が合うと、罰が悪くなって、つい視線を逸らした。
そんな二人を見て、ヘリオスが首を傾げた。
「ん、だれ?」
「私のトレーナー──っていうか、今ちょっと見てもらってる人、かな?」
言葉にして、胸の奥がざらりとした。
自分で招いた曖昧な関係。その現実を口にするだけで、どこか苦くなる。
トレーナーは、一瞬きょとんとしたように目を瞬かせる。
何か小さく声を漏らしかけるが、すぐにヘリオスの声がそれをかき消した。
「どゆこと? それ、もうトレーナーってことじゃん? なんか曖昧すぎてバグるって! え、ウケるんだけど!」
あっけらかんと笑うヘリオス。
その勢いに、パーマーは思わず目を瞬かせ、曖昧な笑みを浮かべるしかない。
笑っているのか困っているのか、自分でも分からないような、そんな笑顔だった。
一方でトレーナーは、言いかけた言葉を喉の奥で止め、代わりに小さく首を傾げる。
口元に浮かんだ苦笑が、少しだけ戸惑いを帯びていた。
「いや、ちょっとワケありでさ……あははっ」
パーマーはそう言って、頬を掻きながら笑った。
自分でも上手く誤魔化せていないのが分かって、余計にぎこちない。
「なにそれ? ちょいサゲ展開じゃん! テンアゲ足りてる? ウチが盛ってくからさ~! うぇ~~い☆」
明るく弾けるような声が響く。
その勢いに、トレーナーは完全に置いていかれたような顔をする。
対して、パーマーは苦笑いのまま反応に迷い、少しだけ視線を泳がせる。
どう説明するべきか、と悩んでいればトレーナーの手が軽く肩に触れた。
返事をする前に、トレーナーの戸惑いを含んだ声が落ちる。
「……ごめん、彼女の言ってることが全然分からない」
パーマーは一瞬ぽかんとして、次の瞬間、吹き出した。
「あははっ! うん、まぁそうなるよねっ!」
「それなーっ!! なんで笑ってるか分からんけど! とりま今ウケるから笑っとけ~!!」
あははっと声を上げると、ヘリオスもすぐに釣られて笑い出す。
笑いながら肩がぶつかり、息が弾む。
何が可笑しいのか分からないけれど、もう止まらない。
トレーナーはそんな二人を見て、苦笑を浮かべたまま立ち尽くすしていた。
──そして。
ひとしきり笑いが落ち着いたあと、ヘリオスと別れてパーマーはトレーナーと二人きりになる。
途端に、さっきまで胸を満たしていた熱が、静かな余韻に変わった。
パーマーは一歩遅れて歩きながら、少し迷うように息を吸う。
そして、思い切って言葉を紡ぐ。
「トレーナー。私、自分の走りっていうのが、分かったかも」
その声に、振り返ったトレーナーがわずかに目を細める。
だが、それとは裏腹に返ってきた言葉は穏やかだった。
「それは……さっきの子みたいな?」
違う、と小さく首を振る。
ヘリオスのように、笑いながら、全力で楽しむように走る。
確かに、それはきっと楽しい。レースに対して、いちばん自由な姿だ。
でも、それは──ヘリオスの走り方だ。自分のものじゃない。
「えっと、その……何もかも考えず、全力でブッ飛ばす、みたいな?」
言葉にしながら、自分でも少し照れくさい。変なことを言っていることは自覚している。
けれど、胸の奥がわずかに高鳴っていた。
ヘリオスを見て、ようやく“何か”が分かった気がしたのだ。
「えーっと、でさ! トレーナーは、どう思うっ? ……やっぱり、ダメかな?」
口にしてみて初めて、自分がどれだけ彼の反応を気にしているかを知る。
けれど、それだけではない。
これまで積み上げてきたトレーニングの一部を、無駄にしてしまうかもしれない。
正式に担当契約をしているわけでもないのに、ここまで時間を割いてもらっている。
それなのに、今さら別の走り方を試したいだなんて。
考えれば考えるほど、胸の奥が重くなっていく。
息を詰め、言葉の続きを探しているうちに、沈黙が落ちた。
けれど、トレーナーはその不安を見透かしたように、わずかに口角を上げた。
春風のような柔らかさを帯びた笑みだった。
「いいよ。やってみよう」
あまりにもあっさりと肯定されたので、パーマーは目を瞬かせた。
確かに、短い付き合いながらも、この人ならそう言うかもしれない──そんな予感はあった。
けれど、実際に口にされると、胸の奥がざわついた。
嬉しい。けど、怖い。
そのどちらともつかない感情が入り混じって、言葉が少し上ずる。
「ほ、ほんとに? だって、場合によっては、もーヘロヘロで、見てらんないってぐらいズタボロに負けるかもしれないんだよ?」
「なに、大丈夫だよ」
「……真面目に聞いてる?」
あまりに軽い返答に、思わず眉をひそめる。
だが、トレーナーは気にした様子もなく、いつもの穏やかな口調で言葉を返した。
「君が走りたいように走ればいい。──元々、そのためだったしね」
その声は不思議と落ち着いていて、迷いがなかった。
続けて、わずかに目を細めながら言う。
「ウマ娘を走りたいように走らせて、それでいて負けないようにするのが、トレーナーの仕事だから」
静かな言葉だった。
けれど、その奥にある確かな信頼が、まっすぐ胸に届いた。
「──だから、君は自由に走っていい」
選抜レース当日。
「うぇいうぇいうぇいうぇぇ~~い☆ パマちん今日はキメちゃってーーーーっ!?」
「えーっと……あっ、おけまる水産っ! ガチのマジで、ブチ抜いてやっから! よろ~っ!! ……こんな感じ?」
「あー、うん……多分、いいんじゃないかな?」
「あはははは!! ウケる!」
メジロパーマー、ダイタクヘリオス、そして話題沸騰中のシリウスのトレーナー。
顔ぶれだけでも目を引く三人が、選抜レースを前にして、まるで放課後の雑談のような軽口を交わして笑っていた。
その場の空気からすれば、あまりにも場違いな明るさ。
張りつめた空気の中、ひときわその笑い声だけが浮いていた。
だが、勿論それだけじゃない。
「やっぱり注目されてるよね~? 前の時とは大違いだもん」
「まあ、あれだけ見られ続ければね」
今日も、最初から最後まで視線が絶えない。
もちろん、最初の時に比べたら極端に視線の数は減ったものの、それでも見られ続けていた。
最初のうちは、興味半分といったところだったが、最近は少し違う。
走るたびに増えていく視線の温度が、肌で分かる。
ウマ娘たちからは、警戒と少し混じる嫉妬の視線。
一方で、トレーナーたちの間では、その走りが静かに話題になっていたらしい。
故に、トレーナーたちからは、明確な“評価”の眼差しが向けられていた。
「いつも通り胸を張って、君の走りをすればいい」
「うん、分かってる……ありがと、トレーナー」
一歩離れ、スタート位置へ向かおうとしたパーマーがふと足を止め、振り返る。
「そうだ……ちゃんと、約束、忘れてないよね?」
「忘れてないよ。1着取ったらお願いを聞く、だったよね?」
その答えに、パーマーは満足そうに笑った。
「行ってくるね! ちゃんと待っててよ!」
軽く手を振ってゲートへ向かっていく背中を見送りながら、トレーナーは人知れず息を吐いた。
何だかんだで、こういう瞬間はやはり緊張する。
まして、自分の見てきた子が走るとなればなおさらだ。
そんなトレーナーの背中を、軽く叩く手があった。
既視感のある感触に振り返ると、案の定そこにいたのは──ラモーヌのトレーナーだった。
「相変わらず、注目されてるわね、君」
「もう慣れたよ」
少しだけ肩をすくめて笑う。
そのタイミングで、背後から二つの声が重なった。
「お初にお目にかかりますわ、トレーナーさん。メジロマックイーンと申します」
「初めまして! メジロライアンです!」
マックイーンは裾をつまみ、上品なカーテンシーを添えて頭を下げる。
ライアンは真っすぐに背筋を伸ばし、礼儀正しい声で挨拶した。
その様子を見て、トレーナーは軽く頷く。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「それは、勿論」
特に抵抗もなく答えると、二人は並んで観戦席に立った。
マックイーンもライアンも、やはり気にしているのだろう。
ほぼ同時期のデビューを控え、今後ライバルとしてぶつかるであろうパーマーの存在を。
「パーマー……なにやら、纏う空気が変わりましたわ。流石、と言うべきでしょうか?」
「もともと彼女が持っていたものだよ。それを引き出す手伝いをしただけさ」
淡々とした返答に、マックイーンがわずかに目を細める。
その横でライアンが肩をすくめ、苦笑を漏らした。
「いや、それが出来るのが、普通はすごいんじゃないかな……?」
その会話を聞きながら、ラモーヌのトレーナーが軽く手をひらひらと振った。
「聞くだけ無駄よ、無駄。どうせ、どうやったか教えてくれないでしょうし」
「ははっ、それはそうだ。自分というトレーナーの武器でもあるしね」
気だるげに言うラモーヌのトレーナーに対して、笑ってそう返すと、フンと不機嫌そうな返事が返ってくる。
「それと、頼んだのは私だけどさ……あそこまでしろ、とは言ってないけど?」
「あそこまで成長したのはパーマー自身だよ。実際、手助けしたのもほんのちょっとだけだ」
「随分と献身的に見ていた癖に? ……まあ、君からすればちょっとの範疇になるか」
勝手に納得したように言うラモーヌのトレーナー。
そのやり取りを聞いていたマックイーンとライアンは、思わず顔を見合わせて首を傾げた。
「担当のために2年間も海外で過ごさないでしょ、普通。入れ込み過ぎよ」
「そんなことはないだろう」
少しムッとした声で返すトレーナー。
だが、マックイーンとライアンはどこか複雑な表情を浮かべる。
貴女も似たようなものでは? と。
実際、彼女以外にラモーヌのトレーナーが務まるとは到底思えないし、ラモーヌ本人だってきっと彼女以外を自身のトレーナーとは認めないだろう。
だが、今の話の流れで、それ以上に気になることがあった。
「あの、確かにパーマーは変わった気がしますが……その、なんというか規格外、と言っているように聞こえるのですが……?」
マックイーンの問いに、場の空気がわずかに動く。
やり取りの端々に漂う、“常識では測れない何か”に気づいたのだ。
そして、その答えはすぐに分かることになる。
──ガコンッ!!
乾いた音が響き、ゲートが一斉に開く。
芝を蹴る音が重なり合い、その中で、最初に飛び出したのはパーマーだった。
「──って、ええ!? ちょ、何、速っ……!?」
「まだスタート直後なのにっ……!!」
一緒に走るウマ娘たちの驚きを後方に置き去りにして、パーマーは加速していく。
まるで、最初からスパートをかけるかのようにスピードを上げ、後続との距離を広げていった。
「はっ、はっ、はっ──っ、はははははっ!!」
そして、心の底から楽しそうに笑った。
逃げて、逃げて、逃げて、自分からも逃げて。
──でも今は違う。
追われる風が心地よくて、ただ無心に走るのが楽しくてたまらなかった。
逃げて──思いっきり、楽しんで!
その先で、私は、私に
差が、どんどん開いていく。
誰もが思った。きっと落ちる、と。
けれど、トレーナーたちの中でただ二人だけは、その未来を否定していた。
「──はっ?」
誰かの声が、かすれた驚きとともに漏れる。
いや、きっと一人や二人ではなかった。
ラスト直線──メジロパーマーは落ちなかった。
「はぁあああああああーーーーっ!!」
後続が慌ててスパートをかける。
だが、もう遅い。
差は広がる一方で、最後の一歩まで勢いは落ちなかった。
歓声は、疎らにしか起きなかった。
それよりも、静かな動揺だけがコース全体を包んでいる。
「ウッ……ソだろ。まさか、あのまま勝つ、だなんて……っ!?」
「あんな、無茶苦茶な逃げ……普通やらないでしょ!?」
多くのトレーナーが唖然とした。
あんな型破りな逃げ、常識では考えられない。
それこそ、狂気のハイペースだった。
「はぁ、はぁ……っ! っ、はは! マジ、ちょ、ヤバ! 吐きそう……っ!?」
──とはいえ、まだ完全に自分のものにしたわけではない。
息は荒く、顔色も青い。けれど、その表情には確かな充実の色があった。
勝ちは勝ち。
苦しくても、足が重くても、それでも“自分の走り”で掴んだ勝利だった。
「すごい……すごいや! パーマーの走り……!」
「あれが、メジロパーマーの走り……ですのね」
マックイーンとライアンは並んで立ち、感嘆の息を漏らした。
けれど次の瞬間、表情を引き締め、静かに拳を握る。
「どうやら私たちも、うかうかしてられないみたいですわ」
「だね……頑張らないと」
二人の視線を背に受けながら、パーマーは駆け寄ってきたヘリオスと笑い合う。
「パない! ヤバイ!! ガチの、マジの、マジの、マジで! 爆逃げってたよ~~ッ!」
「あははは! ありがとねヘリオス、君も最っっっ高だよ! 私の太陽!!」
「~~~~っ! パマちん、サイッコー!!」
感極まって抱きついてきたヘリオスをどうにか宥めながら、パーマーは周囲に集まってくるトレーナーたちを見て、ふっと苦笑した。
何とも不思議な気持ちだ。嬉しいという気持ちはあるし、誇らしい気持ちもある。
けれど──心の奥では、もう決まっていた。
スカウトの声を避けるように、パーマーは別方向へ歩いていく。
視線の先には、見慣れたトレーナーの姿。
隣にはラモーヌのトレーナーがいて、何やら言葉を交わしている。
その横でマックイーンとライアンがこちらに、手を振っていた。
パーマーも頬を緩めて手を振り返し、トレーナーのもとへと歩み寄る。
彼も気づいて、柔らかく笑った。
「おめでとう、どうだった?」
「最高だったよ! トレーナーのおかげでね!」
「それは良かった」
「で、さ。約束通り──お願い、聞いてくれるよね?」
「もちろん」
言葉を受け取った瞬間、胸の奥が強く跳ねた。
深く息を吸う。吐く。けれど、呼吸が追いつかない。
逸る気持ちを押さえようとすればするほど、鼓動がうるさくなっていく。
視線を落とし、服の裾をぎゅっと握りしめた。
声にしようと口を開くたび、喉がきゅっと詰まる。
それでも、どうにか言葉を口にした。
「私の、担当になってください……っ!」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
けれど、その一言に、今までの全部を込めた。
沈黙が落ちる。
ほんの一瞬の間なのに、時間が止まったように感じる。
胸の奥がきつく締めつけられて、息が詰まる。
まだか、まだか、と限界に達しそうになった瞬間。
「──こちらこそ。もともと、スカウトするつもりだったんだ」
「っ! ホントに!?」
それは、お願いに対する正面からの答えではない。
けれど、パーマーにとっては、それ以上の言葉だった。
「良かったですわね、パーマー」
「パーマー! これからはライバルだからね!」
「マックイーン、ライアン! ……っ! 負けないからね!」
「ちょ、どしたん? テンアゲ? 爆上げ? ハッピー的な!? なんかそーゆノリっしょ!!」
「ば、く? 失礼、どういう意味なのでしょうか?」
「っ、あははははっ!!」
笑い声が重なり、空気が一気に弾けた。
ヘリオスが混ぜっ返すたびに、輪の中は一層にぎやかになり、その中心で、パーマーはまぶしいほどの笑顔を見せている。
そんな彼女たちの姿を見つめながら、トレーナーは小さく息を吐く。
胸の内に滲んだ安堵をそっと押し隠すようにして、口元に穏やかな笑みを浮かべた。
隣で同じ光景を見ていたラモーヌのトレーナーが、わずかに肩をすくめる。
「君が決めたことだし、口を挟むつもりはないけど……シリウスシンボリは大丈夫なの?」
今はここにいない、唯一無二の担当の名が出た瞬間、トレーナーの表情がほんの少しだけ揺れた。
それでも、すぐに静かな笑みで整えて言葉を返す。
「まあ、相性が良いかは実際会ってみないと分からないだろうけど、シリウスは面倒見はいい方だから」
何だかんだ、後輩の面倒はしっかりと見ていたシリウスのことだ。パーマーともうまくやれるだろう。
それに、パーマー自身、朗らかに振る舞っているが、本質的にはとてもまじめで責任感が強い子でもある。
シリウス次第ではあると思うが、相性で言えば決して悪くないだろう。
「……そういうことじゃなくて」
「え? いや、まあ、定期的に連絡も取り合ってるし、その時にでも──あっ」
『──それともう一つ。勝手に契約とかするんじゃねぇぞ』
「……大丈夫、じゃないかもしれない」
「でしょうね」
幸いというべきか、そのやり取りはパーマーたちの耳には届いていなかった。
感想及び評価、ありがとうございます。また、誤字脱字報告、大変助かっております。
今回、少し長くなってしまいました。